会沢 正志斎(あいざわ せいしさい、天明2年5月25日(1782年7月5日) - 文久3年7月14日(1863年8月27日))は、日本の武士・江戸末期の水戸藩の儒者。水戸学の代表的思想家。父は会沢恭敬で長男、母は根本重政の娘。名は安(やすし)。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎。
寛政3年(1791年)、藤田幽谷の青藍舎へ入門する。享和元年(1801年)、20歳のときには国防問題に関する『千島異聞』を著す。享和3年(1803年)に藩校の彰考館に入門。文化4年(1807年)には徳川斉昭に近侍する。文政8年(1825年)には遭難したイギリス船員と会見し、海外情報を聞き記した『新論』を表すが、内容が過激であるという理由で発禁処分となる。
文政10年(1827年)には幽谷が死去し、彰考館の総裁となる。文政12年(1829年)、斉昭を水戸藩主に擁立する運動に参加し、斉昭から取り立てられた。藤田東湖や武田耕雲斎らと共に藩政改革を補佐し、郡奉行などを歴任している。天保11年(1840年)には弘道館の初代教授頭取に任じられ水戸学発展に貢献した。
弘化2年(1845年)、仏教界が政治に介入することを苦々しく思って斉昭に仏教徒を弾圧することを進言し、これが原因で斉昭は幕府から隠居を命じられる。このとき、正志斎も蟄居を命じられた。嘉永2年(1849年)に斉昭が復帰すると同時に復帰した。
安政5年(1858年)、幕府の条約締結に関して、朝廷から水戸藩に戊午の密勅が下る。会沢は密勅返納を主張し、藩内の尊皇攘夷派と対立する。斉昭が安政の大獄で永蟄居処分となると藩内は分裂し、正志斎はその両派の収拾に努めた。文久2年(1862年)には一橋慶喜(徳川慶喜)に対して、開国論を説いた『時務策』を提出する。82歳で死去。
正志斎は神道と水戸学を合わせて大義名分論を唱えた人物として有名であるが、彼は著作や尊皇攘夷運動を通じて長州藩の吉田松陰らに影響を与えた精神的指導者でもあった。
|
新論. 巻之上,下 / 会沢安 著 シンロン shinron |
会沢 正志斎, 1782-1863 アイザワ, セイシサイ aizawa, seishisai |
古典籍 花房文庫 統計学 花房直三郎 |
『新論』2 巻会沢正志斎(安)著安政4 年刊
安政5 年正月松平慶永(春嶽)自筆書入本

『新論』という単純明快な題名のこの書物は,江
戸時代後期,水戸藩徳川家に仕えた儒学者会沢安
(1782〜1863)(通称恒蔵・正志斎と号す)が著した書
である。江戸幕府の力が揺らいだ幕末期に,天皇・
朝廷を厚く敬う尊王論と,日本周辺に姿を現すこと
が多くなった西洋諸国の勢力を排除しようとする攘
夷論が結びついた尊王攘夷の思想を体系化した書物
であった。国家の行く末を案じて活動した吉田松陰
などの志士達を中心に広く流布し,水戸に発達した
学風である水戸学の書物としても伝わった。現存の
よしなが版本も多いが,慶應所蔵本の魅力は松平慶永(1828〜
90)の自筆書入れがなされている点である。越前福
井藩主であった松平慶永は,隠居後の「春嶽」の名
で広く知られ,当時の名君の一人として,幕末政治
史を語る上では欠くことができない人物である。
『新論』は,文政8 年(1825),会沢正志斎が主君
徳川斉脩に対して意見を呈上するために執筆したも
のであった。国体(上・中・下)・形勢・虜情・守
禦・長計の7 編からなり,国の内外における政治的
な危機を乗り越え,富国強兵を実現するためには,
人々の心をまとめる方法として尊王と攘夷が必要で
あると強く主張した。だが,その内容により公刊は
許されず,同志の間で筆写されて密かに世間に流布
したのであった。入手が難しいことは却って本の魅
力を高めたようで,公刊前には木活字版も作られた。
成立年代や筆者は隠され,「文化乙酉」のように実際
にはない年号・干支の組み合わせが記載されること
もあった。やがて,安政4 年(1857)にようやく江
戸玉山堂より整版本として公刊となる。慶應所蔵本
もその玉山堂本であるが,「文化乙酉季春」という
誤った年代が記載されており,本書をとりまく状況
を伝えるものとなっている。
書入れに目を移すと,安政5 年(1858)正月の松平
慶永の署名,政務の間に思うままに批評を加えたと
の記述(「政間毎閲覧妄加批評元旦後二日慶永」)
のほか,多数の書入れが見られ,大変興味深い。例
えば,西洋諸国が無理に日本を圧倒しようとしてい
せっしやくわんる現状を述べた部分には,「切歯扼腕の至」(切歯扼腕
は,歯がみをし,自分の腕をにぎりしめて甚だしく
憤り残念がること)と書入れがあるなど,30 歳の壮
年藩主であった慶永の感想が生き生きとした言葉で
表現されている。他にも,実に惜しいことだ,といっ
た感想や,俗論を踏破する愉快な論である,といっ
た率直な気持ちが記入されている。
この書入れがなされた安政5 年正月という時期も
また興味深い。松平慶永は初め攘夷論を主張してい
たが,安政4 年頃には諸外国との外交・通商を目指
す積極的な開国論に転じたと言われている。開国論
に転じた後,尊王攘夷論の代表的著作である『新論』
に書入れられた感想は,松平慶永の思想の形成や主
張の変化を知る上でも貴重な素材といえる。
松平慶永は,同じ安政5 年の7 月,幕府の大老井伊
直弼が朝廷の許しを得ずに日米修好通商条約を結ん
だことに異論を唱えたことにより,隠居・謹慎を命
じられた。一旦政治の表舞台から退くこととなるが,
その後復帰を果たし,江戸幕府や明治政府の重職に
任じられ,明治3 年(1870)に公職を退いた。
本書は,時代が変化する大きなうねりのなかで,
その真只中にあった松平慶永が,自らの進路にも変
化が現れる時期に手に取ったものであった。それゆ
え,書入れの言葉が持つ意味も深くなり,幕末政治
史を考える上でも貴重な資料となっている。
(請求記号)[110X@122@2]
くらもちたかし倉持隆
(三田メディアセンター)
佐藤一斎は水府学と言った。明六社の西村茂樹(592夜)が水戸学と名付けたという説もある。これは深作安文の説だった。天保学ともいわれた。
しかし、水戸学といっても、広くて、長い。決して細くはないし、短くもない。水戸の徳川光圀が『大日本史』編修を発起した明暦3年(1657)から数えても、それが完結したのはやっと明治39年(1906)なのだから、それだけで250年をこえる。これはケルン大寺院の建築期間に匹敵する長大な長さだ。
長いだけでなく、ここには日本の近世史と近代史の最も重大な変革期がすっぽり入ってしまう。そのあいだ、水戸学が日本イデオロギーの中心を動かしていたとは、言いにくい。そんなことはない。その期間のどこかにだけ水戸イデオロギーが関与したと角砂糖を数えるように限定することも、難しい。そんなこともない。角砂糖は溶けた。
水戸イデオロギーを儒学や国学の箱に収めるのも難しい。そういうふうにはパズルは嵌まらない。それらをはみ出ているとも、それらを含んでいるともいえる。しかし、水戸学はまた「一国学」ともいわれていて、どこかに追いやられているようにも見える。どこか「べつ」のところに――。
光圀は18歳のときに『史記』伯夷伝を読んで、その高義を慕って修史の志を立てた。大井松隣による代筆ではあるが、「史筆によらずんば、何をもって後の人をして観感するところあらしめん。ここにおいて慨焉として初めて史を修むるの志あり」という有名な序文がある。実際にもそのくらいの気概をもった青年だったろう。
その志はゆるがず、30歳で史局を江戸神田の別邸に設けて、広く“史人”を集め、以来、「彰考館」を編纂研究所として日本史の解明解読に努めた。こうしてゆっくりと姿をあらわしてきたのが、250年をかけた『大日本史』である。厳密にいうのなら、この修史の開始日が水戸学のおこりにあたる。ある日の編集会議が水戸イデオロギーをつくったのである。
江戸中期、その『大日本史』編纂におよそ半世紀にわたる中断と停滞があった。
そこで水戸学を、この中断を挟んで前期と後期に分けるのが研究者たちの見方になっている。この後期水戸学の集中的勃興が天保だった。だから天保学ともいった。
ところが、この前期水戸学と後期水戸学ではその思想も様相も活動も、馬と牛のごとくに大きく異なっている。前期は日本の歴史を幕府の史書とは別に独自に解明しようという馬だったのだが、後期は尊王攘夷というイデオロギーと密接に結びつく牛になった。そればかりか『大日本史』の編修方針もかなり変化して、たとえば後期においては神代の神話的出来事も史実に記述しようとした。
本書はその後期水戸学に焦点をあてて、シカゴ学派特有の方法論的な分析を加えようとした一冊である。
今夜は、前夜の陽明学につづいて、ぼくとしては長らくほったらかしにしていた水戸学をめぐる。
会沢正志斎といい藤田東湖といい、久々に目を通すものばかりなので、書くのに時間がかかりそうだが、それよりも、こういう主題をなんとか今日のインターネットの画面に走らせて、なお何かの息吹を感じさせようとすることが、そもそも陽明学や水戸学がかつてはあれほど時代のエンジンの役割をもっていたのに、いまは遺棄された戦車のように夏草に覆われているので、まるで大友克洋(800夜)の廃墟と植物を描いた劇画のようで、妙な感じがする。
陽明学が古代中世アジアに根をおろした知と行の思想の柵(しがらみ)だとしたら、水戸学は日本の古代中世に根をおろそうとして「夜明け前」に噴き出てきた知と行の早瀬のようなものかと見えるのだ。
二つとも、世の中からはすっかり忘れ去られて、歴史の一角に埋没したか、埋没させておきたい動向なのだろう。それが宿命だったとも、またその宿命を知る思想だったともいえる。
まあ、それでもいいのだが、最近はひょんなことから研究者がふえている。アメリカの研究者たちが日本儒学や水戸学に関心をもちはじめているのだ。そのこともちょっと書いておきたい。
第327夜にジョン・ダワーの吉田茂論をとりあげた。そのときはまだ出版されていなかったのだが、その直後にダワーは大部の『敗北を抱きしめて』(岩波書店)で戦後の日本と日本人を論じ、ピュリッツァー賞を受けた。おめでとうございます。
そこでダワーが、日本を議論するには“plurals”(複数者)という見方をしたほうがいい、“Japan”ではなくて“Japans”なんだと書いた。これは、ぼくの日本についての見方と一致するものだった。ぼくはそこを「一途で多様なおもかげの国、多様で一途なうつろいの国」というふうに、『日本流』(朝日新聞社)そのほかに書いた。結構なお点前でございました。
そのダワーがかつて、アメリカの対日政策と「近代化・民主化の理論」は共犯関係にあると告発して、アメリカ政府による敗戦後日本に対する政治目標が次の5点にあったという“証拠”をあげたことがある。本書の訳者である早稲田の梅森直之さんが「あとがき」にも書いている。
その5点というのは、なかなかすさまじく、@日本の左翼の信用を失わせること、A平和主義と再軍備の機運を殺ぐこと、Bアジア諸国に日本の社会的優越性を感じさせ、それをもって日本人を資本主義陣営に誘導すること、Cそのため、アメリカのジャパノロジストを徴用して「心理学的なプログラム」を付した教育を浸透させること、D日本を中国のカウンターモデルとして、不安定なアジアの発展途上国に提示すること、というものだ。
この対日政策こそ、アメリカがいまなお各国に押し売りしようとしている「近代化・民主化の理論」の原型だというのである。きっとそうだろう。きっとそうなんでございましょう、という5点だ。
こうしたアメリカ批判の学問成果は、ダワーやブルース・カミングスという研究者によって実証的な実を結んでいった。これは、ジャパノロジストがアメリカの対日政策の分析を通してアメリカを批判するという例なのである。こういう“アメリカ日本論”のたぐいは戦前戦後を通じてゴマンとあって、あまり読みすぎると、毒がまわる。竹中平蔵になる。
しかし、このような“アメリカ肩越し”の見方だけで、現在の日本を歴史的に位置づけるだけでいいのかというアメリカのジャパノロジストの批判もあった。そういう批判をして脚光を浴びてきたのがシカゴ派である。ヘルマン・オームスの『徳川イデオロギー』(ぺりかん社)、テツオ・ナジタの『懐徳堂』(岩波書店)などがその成果で、本書のヴィクター・コシュマンもその線上にいる。
かれらは一気に落下傘部隊のように日本の歴史の一角に入りこんで、そこに最新の学問的方法をぐりぐりさしこみ、それでもその走査に耐える日本社会や日本思想の特質をタフな文体で書きあげる。コシュマンも、本当かどうかは知らないが、ポール・リクールの解釈理論やミシェル・フーコーの言説理論やルイ・アルチュセールのイデオロギー理論を駆使して、水戸学に入ってみたという。
そうすると、「国体」や「名分」といった概念が、歴史のなかで実際に動きまわった航跡のようなものとしてよく見えてくるらしい。これはもはや「柵」や「背戸」としての陽明学や水戸学ではないだろう。
日本の学界における水戸学の研究のほうはどうかというと、歴史学の遠山茂樹や政治学の丸山真男(564夜)らによる尊王攘夷のイデオロギーの社会性や運動性を総合的につきとめる研究から、浮上してきた。
当たり前のことだが、動機はアメリカのジャパノロジストとは、まったく異なる。敗戦前後、いったい日本はなぜあんなような戦争をおこしたのか、なぜ「天皇」や「国体」をあんなにもふりかざしたのか。その反省を歴史学者も政治学者もせざるをえないところへ追いこまれて、その問題を解明しようとしてその奥を覗きこんだ必至の目が、水戸学の特徴を検出する作業にいたったのである。
当時、すでに「国体」という用語が水戸の会沢正志斎の『新論』から出てきたことは知られていた。しかし、その「国体」にどんな危険思想があったのか。それが悪の病原菌なのか。その決着をつけたかった。
いろいろ調べてみると、遠山や丸山は、そういった国体を孕む思想は、必ずしも幕府を転覆させようとして出てきたのではなく、それゆえウルトラ・ナショナリズムでもなくて、朱子学イデオロギーを背景とした幕藩体制立て直しの思想として登場してきたもので、そこにはかえって「名分」を重視した封建的な階統制があって、それが水戸学の特色なのだろうと考えた。
初期の国体イデオロギーそのものにはどうやら危険なものはない。その「国体」が歪んだのだとしたら(歪んだわけだが)、水戸藩の中ではなく、幕末か明治か、昭和史の中だろうという見方である。
この見方には反論が出た。水戸学は必ずしも幕藩体制の護持や立て直しのためのものではなく、もっと「前向き」のもので、だからこそ尊王攘夷のイデオロギーに結びついたのだという、尾藤正英などの見方である。
尾藤は、水戸学は幕末の一時期に影響力を発揮したのではなく、日本の近代国家の形成過程という長い射程で位置づけられるべきだと主張した。そうだとすると、水戸学は昭和史そのものの裏地としてずっと生きていたということになる。
尾藤はまた、朱子学と水戸学はかなり異なっていたこと(水戸学派はほぼ全員が儒者だった)、『大日本史』が寛政期を分岐として、前期の儒教的合理的な歴史観から、後期の神話的な歴史観に転回していることなどをあげて、前期水戸学にはたしかに「理」を重んじた朱子学の合理があったものの、後期水戸学はむしろ徂徠学や国学と接近して、かなり広範な社会思想の根っこをつくっていったのではないかと論じた。
しかし、この見方にも反対意見が出た。それはそうでしょう。
水戸学がそこまで役割をもったとはおもえないという、橋川文三や野口武彦による見解である。これが、ちょうどぼくが水戸学に関心をもったころだった。1970年代半ばくらいだろうか。
橋川は「国体」の用語は水戸から出たが、その言葉がもつ意味やイメージが広まったのは、徳川社会そのものがしだいに国家的自覚を迫られていたからで、その土壌としての要因をはずしては、水戸イデオロギーの傘を想定はできないと見た。野口はさらに広く水戸学以外の江戸の歴史家たちを比較して、水戸学の位置を上空から鳥の目で俯瞰できるようにした。とくに野口の『江戸の歴史家』(現・ちくま学芸文庫)は刺激に満ちた一冊で、『江戸の兵学思想』(ちくま学芸文庫)とともに、ぼくもずいぶん愛読した。
そこへ新たに名乗りをあげたのが、シカゴ学派だったのである。コシュマンの見方は以上のいずれのものとも、またまたちがっていた。
コシュマンは、水戸イデオロギーを名分論的朱子学が封建ナショナリズムに変形していったとも、徂徠学や国学が国家主義に発展していったとも見ずに、むしろ山崎闇斎などの「儒家神道」が水戸藩の特殊な事情のなかで複雑に再生編集されたのではないかと捉えた。
ざっとこういうふうに、水戸学研究といってもさまざまな視点が林立したのである。そこにはさらに、水戸史学会の名越時正や荒川久寿男らの皇国史観を標榜する論客や(こういうものを読むのが一番おもしろい)、また、上山春平(857夜)や山本七平(796夜)やらも加わっている。
こうなってくると、いよいよ水戸イデオロギーの正体がどこにあるのか、にわかに判定がつきにくい。誰だって、そう思うであろう。が、そうではあるのだが、実はそのように研究者たちをいまもなお南にすべく北すべく、あれこれ走らせているのが、水戸イデオロギーだとも言えるのだ。
話を歴史の順番に戻して、進めることにする。
前期水戸学についての特色のほうからのべておくが、水戸徳川二代藩主の光圀が『大日本史』の編纂を発意したのには、もともといくつかの動機があった。
幕府が林羅山・林鷲峰に命じて『本朝通鑑』を書かせていた。これは司馬光の『資治通鑑』を踏襲したもので、儒による日本史だった。中国の皇帝を日本の天皇につなげ、そこから将軍家が位置づけられるようにしたかった。この事態を光圀はほっておけなかった。実際にも、林家史学に対する水戸史学の対立は自分からおこしたようなものなのだ。
また光圀は、第460夜に書いておいたように、明朝からの亡命者の朱舜水を長崎から呼び寄せて、歴史の流れを互いにかわしているうちに、歴史におけるレジティマシー(正統性)の意味を諭された。とくに南北朝の楠木正成の忠臣性を舜水に示唆された。
そもそも日本の正史にとって北朝をとるか南朝をとるかは、日本史叙述の最大の選択だったので、光圀はその決断に挑みたくなったのだ。そしてできれば、そのような歴史記述のなかに「人倫の大義」を埋めこみたかった。その人倫とは、日本人ということである。
こうした動機があるにはあるのだが、では光圀はやがて仕上がるはずの『大日本史』に何を期待したのかというと、やはり皇朝主義を歴史の叙述のなかで浮かび上がらせてほしかったのである。
光圀という人物は、「我が主君は天子なり、今将軍は我が宗室なり」(桃源遺事)とか、「毛呂己志(もろこし=中国)を中華と称するは其国の人の言には相応なり。日本よりは称すべからず。日本の都こそ中華といふべけれ」(西山随筆)とかと書いていたような、好んで歴史的現在に立脚しつづけていたかった藩主なのである。
とうてい葵の御紋をちらつかせて諸国を漫遊する“水戸黄門”などでは、なかった。
光圀は『史記』に影響をうけたのだから、『大日本史』もそれにもとづいて本紀・列伝・志・表の紀伝体を採った。紀・伝は天皇中心の事績と主要な歴史を記し、志・表は諸分野・諸制度を扱う。これに対して『本朝通鑑』は編年体である。
フォーマットとプロトコルのちがいであるが、こと、歴史書をめぐっては、どのようなOSの上に日本の歴史情報ソフトが走るかということは、大きな差異をつくる。すでに『古事記』と『日本書紀』のフォーマットとプロトコルにおいて、この差異は噴出していた。
『大日本史』では、たとえば皇后紀を皇后伝にした。本紀から列伝に格下げした。儒教的な男尊女卑からの判断ではなくて、まさに天皇重視主義のためだった。こういうことは、編年体では描けない。記述の構造に空間的レイヤーがないからだ。
編年体は「常→変→常」あるいは「正→邪→正」というようなサイクルをもって記述する。それなら朱子学の理念にはよく適合した。しかし光圀にはそれでは不満だったのである。歴史の中に皇統の空間が漂っていてほしい。
またたとえば、大友皇子を“大友天皇”というふうに記載した。これは『日本書紀』が「名」と「実」を分断したことへの反論になっている。天皇に天皇としての「名」を与えること、それが臣民の臣民としての「分」を確立することだという思想である。
こうした『大日本史』の歴史思想は、光圀が元禄13年(1700)に死去したのちも、安積澹白(あさかたんぱく)、栗山潜鋒らに継承される。澹白は元禄6年からの『大日本史』編修の総裁、京都の潜鋒はその年に江戸に出て光圀の目にとまり、4年後に総裁になった。
最も重要な継承は、天皇を祭祀王(祭主)とみなすこと、南朝を正統とし北朝を閨統とすることにあった。
古代儒学や近世朱子学では帝王とは政治的君主であり、儒的国家のレジティマシーとはそのことが人倫として保証される血統にいることをいう。そういう儒の王ではない和の王を、歴史的に立証するにはどうするか。それが光圀が編纂者たちに手渡した宿題だった。それを水戸藩あげて組み立てようというのである。
日本の天皇において血統を保証する正統性は、もっぱら三種の神器の授受によって象徴されている。南朝の皇系はその三種の神器をもっていた。それが吉野の朝廷である。
しかし、南北朝争乱のすえ、皇統は後小松天皇のところで北朝に移った。足利尊氏(高氏)がこの移動に関与した。これは史家たるもの、覆すことができない事実である。三種の神器もそこから先は後小松天皇の系統で授受された(それが今日の天皇家に至っている)。しかるに、これでは南朝正統の記述にはならない。どうするか。
そこで、南朝がいったん三種の神器を「天」に返して、それが後小松天皇に亙ったというふうに接続させるところが、最大の眼目となった。綱渡りといえば綱渡りであるが、ともかくもこれで南北朝は帰一して、その後の三種の神器の正統性は保たれた。
実際にも、そのように記述したのだが、このため、『大日本史』は皇統が北朝に帰一した時点で記述を終えるしかなかった。はたして光圀がそれでもいいと思ったかどうかはわからないが、ここに『大日本史』の半世紀にわたる中断もおこった原因があったのである。
立原翠軒によって編纂が再開されるころは、もはや志・表は不要ではないのかというふうにもなっていた。
しかし、ここでちょっと付け加えたいことがある。
これはぜひとも留意しておくべきことであるのだが、光圀は『大日本史』ばかりを編集させていたのではなかったということだ。
かたわら、『神道集成』や『釈万葉集』や『礼儀類典』なども鋭意編集させていて、『大日本史』だけで皇朝主義を標榜しようとしていたのではなかったのだ。『礼儀類典』など、なんとも全514巻に及んでいる。四方拝・朝賀・節会などをすべて網羅したもので、橋川文三は、ここには一歩あやまれば王政復古の準備を感じさせるものがあると書いたほどだった。また、和文の精華も収集編集させていた。光圀ならやりかねない。
そういう意味では、『大日本史』の部門史ともいうべき志・表は、こういうところにすでに用意されていたともいえた。しかし、その光圀が亡くなった。
史誌編纂の中断は、光圀亡きあとの水戸学者のなかで問題になる。とくに藤田幽谷がこの史述中断と志表廃止に反意を示した。幽谷はなんとしてでも続行すべきだと譲らない。
けれども、ここには初期のころとの歴史観の連続と分断があった。もはや光圀のヴィジョンだけでは記述はしにくくなっている。水戸の史家たちは、ここでなんらかの新概念を創出する必要に迫られた。そしてこのあたりから、前期水戸学はしだいに後期水戸学に大きく変位していったのだ。
その境い目のあたりに幽谷の『正名論』があった。
これは幽谷17歳の執筆である。その早熟きわまりない才気には驚かされる。
孔子が説いた「正名」が儒学思想の根幹にあることは、前夜にもふれた。これを破れば「狂言」である。水戸学は、そこは破らない。ところが幽谷は「正名」を論じるといいながら、ここで展開してみせたのは「名分」論なのだ。
名分という言葉は中国の儒学にはない。まして「大義名分」などという言葉は、まるっきり日本製なのである。これは巧妙な「漢概念」から「和概念」への転出であり、しかもそうしなければ成り立ちそうもない、日本歴史の鍵を探るための、鍵穴の提案だった。
すぐあとで説明するが、この「名分」という鍵穴があったので、これに「国体」という鍵が突き刺せた。この鍵と鍵穴づくりには、あのインテレクチャル・ワークに勇猛な水戸藩でさえ、数十年がかかっている。だいたい、本当のコンセプトづくりというのは、鍵と鍵穴の両方を、歴史の検証の中から作りあげるのだから、そのくらいはかかるのである。
藤田幽谷の弟子に会沢正志斎が育ち、幽谷の子に藤田東湖が出た。いよいよ水戸学きっての格別の“血統”の登場である。
幽谷と正志斎の二人は初めのうちは組んで、王陽明や熊沢蕃山や山崎闇斎や荻生徂徠をどの程度に水戸学的な日本思想に“応用”できるかどうかを検討していた。
二人の水戸を代表する儒者が、陽明学、蕃山の水土論、闇斎の神儒思想、徂徠学を研究していたのは、水戸学がまったく新たな後期のステージにさしかかっていたことをあらわしている。時代は19世紀に突入する。
享和元年(1801)、千島を南下するロシアの歴史に関心をもった正志斎は、『千島異聞』を書いた。20歳である。ついで文化5年(1808)、イギリスが長崎でフェートン号事件をおこした。イギリス船がいつ常陸の海岸にあらわれるかは時間の問題だった。かれらはまだ、アメリカ人と同様、捕鯨をしていた。そこに食糧国家の資源と“原油”があったからである。案の定、文政7年(1824)のこと、水戸藩内の大津浜にイギリス人が薪水を求めて上陸した。このときの筆談通訳にあたったのが正志斎だったのである。
こうした“寄り石”のような事件はますます頻発するばかりだった。文政8年、幕府は異国船打払令(無二念打払令)を発布した。正志斎は「無二念」という表現に妙に感動する。暴走族の組の名の勢いに感じたようなものだろう。かくしてこのときとばかりに『新論』を書く。
これが日本史上初の「国体」概念の登場になる。正志斎は鍵穴にぴったりあてはまる鍵に気がついたのだった。
『新論』は序文と5論7篇からなっている。5論は国体・形勢・虜情・守禦・長計で、その国体が国家論・軍制論・経済論に分かれていた。
正志斎は地球が丸いこと、世界の主な帝国は七つあること、アメリカが日本の背後にいる「愚かな国」であることなどを、情勢論で述べる。七つの帝国とは、回教のモゴル(ムガール帝国)、トルコ、ロシア、ゼルマニア(神聖ローマ帝国=ドイツ)、ペルシア、清、日本をさしていて、これらはそのうち世界宗教戦争に突入するだろうと説いた。
まるでサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』めいているが、何がちがっているかというと、日本は天皇を祭主とする皇国だから、永遠であるとしたことだ。
しかし永遠になるには、参勤交代を廃止し、一国一城制を中止し、大艦隊を建造し、キリスト教を警戒する必要があるとした。なんだかバラバラのような施策だが、ようするに正志斎の『新論』は、内憂と外患をともかくも串刺しにして、そこに国体の将来の安定をおこうとしたナショナル・インタレスト論なのである。
ここで国体とは「国のすがた」というほどの意味で、正志斎はそれ以上の厳密な定義はしていない。また、幕藩体制を否定する意図も幕府を転覆する意図も、まったくもってはいない。そういう意味では、ここには危険思想は見られない。鍵はまだ棒のようなもので、そこに、“くりこみ”や“えぐり”はなかったのだ。
ただ、「すがた」(体)はひたすら天皇を中心とする皇国システムによって維持できると、そこばかりを強調した。そのため大嘗祭についてもそれなりの枚数を費やして、その祝祭的正統性を説いた。
ヴィクター・コシュマンは、こうした正志斎の思想には、エリアーデのいう「祖型となる行為を再生産しうる資質」に依拠する傾向があると読みとって、「正志斎のいう国体は、単に日本人の起源や共同体の起源への、儀礼を通じての回帰という次元だけにかかわっているものではなく、〈道〉という次元での抽象化された不変の心理をも包摂しようとしている」と書いている。
コシュマンの目には、国体には、「日本国の起源が万世一系の皇統に具現されて今に続くものであることをあらわすばかりでなく、儀礼の実践を通じて、その起源を集団的に再生することの可能性」があると見えたようなのだ。
これはあまりに甘々に国体論を評価しすぎているように思えるが、いくぶんかは当たっている。というのは、正志斎は武士が在地に帰って土地を守って生きることが、こうした国体のためには最も重要な方策になるとも説いているからである。
つまりは、水戸イデオロギーは皇国思想ではあるが、皇統を入れておく聖なる空間さえちゃんとセキュリティされさえすれば、あとは各地のコミュニティ連合なのだ。
しかし、このような純粋無雑な国体イデオロギーだけで尊王攘夷が起爆するわけではなかった。そこには水戸藩の経済事情と国際情勢がからまっていた。
徳川斉昭が藩主になったのは、文政12年(1829)に兄の斉脩が病没してからである。斉昭はさっそく藤田東湖や正志斎を登用して、さまざまな藩政改革にとりくむ。
藩民の意識の充実もはかりたかった。これが藩校「弘道館」の設立となっていく。ここでは、神儒一致・文武合併のスローガンのもとに徹底教育をした。さらに藩内各地に郷校(ごうこう)も設立されていった。その数と早さは、めざましい。だが、うちつづく飢饉や農政の低迷でなかなか改革が進まない。そこへもってきて、根本的な慢性赤字があった。
定府(じょうふ)とは、江戸の藩邸に藩士の半分が常駐することをいう。水戸藩は江戸定府が許されていて、そのため参勤交代はしないですんだ。
しかしながら、江戸に毎日何百世帯もの家族が住むということは、特定期の出費にくらべて、あまりにも大変な経済負担がかさむ。これが水戸の財政を悪化させていた。
そのうえ、人心が安定しない。東湖は『回天詩史』で、江戸定府が始まってからというもの、「風俗は軽薄化し、江戸と水戸との人々の気風がくいちがって、気持ちが通じあわなくなった。文書をやりとりしても真意を疑うようになった」と書いている。
加えて、6年にわたる天保の大飢饉が重なった。家斉の文化文政期にはインフレ成長をしていた経済社会も、これで一気に冷えこんだ。幕府も12代将軍家重が老中首座に水野忠邦を抜擢して、倹約改革で乗り切ろうとしのだが、焼け石に水。むしろ水戸藩のほうがなんとか持ちこたえている。しかし、次の2発の波濤は、水戸学にとってはあまりに刺激的すぎたのである。
ひとつは天保8年(1887)の大塩平八郎の蜂起のニュース、もうひとつは天保11年(1840)のアヘン戦争のニュース。
前夜にも少しふれたが、大塩平八郎(中斎)は陽明学をもって「知行合一」を決意した革命家であった。大坂天満の与力の子に育ち、私塾「洗心洞」を開いて、つねに社会悪に挑みつづけることをやってのけていた。
いわゆる大塩平八郎の乱は、水戸でニュースを聞くだけでも大胆不敵で、かつ、どこか水戸の魂を揺さぶるものがあったにちがいない。それほどの驚天動地のニュースであった。
大塩はひそかに義挙の日を練ってきた。ところが密告があったらしく、急遽、前日の2月19日の寒い朝、蜂起を決行した。まず自宅に火を放つと、「救民」の大旗を掲げて2隊に分かれて大砲を引き、天満一体を焼き払いながら難波橋を渡って船場に進み、鴻池屋などの豪商を焼き打ちして、金穀を救民に散じた。
勢力はたちまち300人に達したが、その慟哭するような怒涛が大坂中心一帯に広まる寸前に、取り押さえられ、潰えた。「檄文」だけが巷に舞った。大塩はいったんは逃れたが、40日後に隠れ家を発見され、用意の爆薬に火をつけて爆死した。
三島由紀夫がこの大塩の乱の精神をこそ陽明学とよび、『奔馬』の主人公にその精神をなぞらわせていたことも、前夜にのべた。のみならず、三島の自衛隊突入と「檄文」と自決は、どこか大塩平八郎につながっている。
しかし歴史的にみれば、大塩の乱は武士が、そして知識人が、初めて兵乱をおこしたものとして特筆できるのである。祖法とされた鎖国下、白昼にこれほどの義挙がおこったことはなかった。そうか、武士が蜂起するのか。それができるのか。水戸は揺れたのである。
ちなみに、いつだったかのNHKの「歴史誕生」で大塩の密書が発見されたというスクープが提供されていた。いまその話をする余裕はないのだが、どうやら大塩は大坂の構造汚職のような真相を嗅ぎつけていて、その暴露を含めた大きな変革構想をもっていたようなのだ。大塩の陽明学には“情報の爆弾”が秘められていたわけである。三島由紀夫には、そういう計画があったのだろうか。
ところで、余談つづきで書くのだが、去年の秋ごろから、フランス文学者の鹿島茂が『一冊の本』(朝日新聞社の読書誌)の連載で、「ドーダの近代史」という痛快な議論を始めた。
ドーダというのは「どうだ!」と言ってみせる歴史観や文芸観のようなものを鹿島が面白半分に名付けたものだが、そのドーダの最初の例として尊王攘夷をとりあげた。藤田東湖や会沢正志斎の国体論や尊王攘夷論は、学と呼ぶにはまったく体をなさない代物なのに、これをドーダの視点からみると、こんなに面白いものはない。これはいったい何だろうというのだ。
そこで鹿島は山川菊栄の『覚書・幕末の水戸藩』(岩波文庫)を引き合いに出してきて、水戸イデオロギーというのは極貧の藩がそこから脱出するのではなく、その赤貧を自慢するために作り出したようなところがあるのではないか、つまりは見栄っぱりが生んだものではないか、そこに貧乏学者の意地とルサンチマンの意識が相乗効果をおこし、さらに水戸と江戸の対立が重なったのではないかという仮説を紹介する。
わかりやすくいえば、水戸が「ドーダ、こっちのほうが凄いんだ」と言っているうちに水戸イデオロギーが生じてきたというのだ。
ふん、ふん、なるほどそういう見方もあるかと感心したが、たしかに水戸藩の事情と後期水戸学は密接に重なっている。が、やはりのこと、それとともに、世界情勢とも重なっていた。アヘン戦争がおきたのだ。
アヘン戦争のニュースは、そう遠くない日に神国日本に危機が到来する前兆だった。今度は神風も吹きそうもない。実際にもイギリスはこのあと日本を狙っていた。
天保13年(1942)、幕府は薪水給与令を出し、異国船打払令を緩和せざるをえなくなる。
水戸藩のほうでは、斉昭が幕政改革をおりこんだ「戊戌封事」を将軍に上程していたが、その扱いを含めて激怒するようなことが連続し、その力は内部に向かい(外への怒りはたいてい中に向って吹きだまる)、敬神排仏の宗教政策などに転化するにつれ、藩内にもさまざまなきしみが悲鳴をあげはじめていた。そこへ弘化元年(1844)、幕府が斉昭を隠居謹慎に処分する。
ここにおいてついに水戸イデオロギーは、尊王攘夷を広く天下に知らしめる決断をもったのである。そのリーダー格となったのが藤田東湖だった。
東湖もいったん江戸の一室に幽閉されていたのだが、ここにおいて起爆する。弘化元年5月、39歳になっていた東湖は有名な『回天詩』を綴る。
三たび死を決して而も死せず。
二十五回刀水を渡る。
五たび閑地を乞うて閑を得ず。
三十九年、七処に徒(うつ)る。
こう、始まって、「皇道なんぞ興起せざるを患(うれ)えん。斯の心奮発して神明に誓う。古人云う、斃(たお)れてのち、已(や)むと」に終わる。この言いっぷりこそ、その後の明治の軍人と昭和の軍人が手本としたものである。
東湖は翌年には、これまた有名になった『正気(せいき)之歌』を書き、その年の暮からは『弘道館記述義』にとりくんだ。斉昭の『弘道館記』を解説するためだったのが、そこには東湖独自の思想が敷衍されていた。これこそ水戸イデオロギーの真骨頂というべきものである。
しかし、その真骨頂にはかなり意外なものが含まれている。それについては最後にあかしたい。
尊王攘夷という新しい言葉をつくったのはほかならず、徳川斉昭なのである。『弘道館記』に初出する。が、その尊王攘夷をイデオロギーとして動かしたのは、藤田東湖だった。
斉昭はこう書いた、「我が東照宮、揆乱反正、尊王攘夷、まことに武、まことに文、以て太平の基を開きたまふ」。これを東湖は次のようにパラフレーズした。「堂々たる神州は、天の日之嗣、世の神器を奉じ、万方(ばんぽう)に君臨し、上下内外の分は、なほ天地の易(か)ふべからざるがごとし。然らばすなわち尊王攘夷は、実に志士仁人の、尽忠報国の大義なり」。
こうして尊王攘夷の矢は放たれた。時代はいよいよ安政に入っている。その2年後、水戸を大地震が襲った。この地震で東湖が死んだ。
その直前のこと、一人の青年が萩から水戸を訪れた。平戸の端山左内に会沢正志斎の『新論』を教えられ、佐久間象山に入門して水戸の動向を聞き、矢も縦もたまらず水戸まで走ってきた吉田松陰(553夜)である。
山鹿流の兵学者の宮部鼎蔵からも噂を聞いていた。のちに史家となった那珂通高も同行している。松陰は正志斎に会い、そのころ動きはじめていた水戸天狗党のメンバーにも会った。
この松陰の水戸行は、この直後に尊王攘夷が全国に飛び散っていく最初の弾道となった。松陰自身は萩に帰るとすぐさま六国史をとりよせて夢中で読み(まだ『大日本史』は刊行されてはいない)、皇国というものが日本のなかをどのように貫通してきたかを全身に感じている。
松陰は最も遠方の水戸学衆第1期生になったのである。
ここから先の幕末の激変については、とくに付け加えたいことはない。桜田門に井伊直弼を水戸浪士が暗殺してからというもの、もはや水戸イデオロギーは知行合一どころか、水戸激派の行動ばかりになっていく。
水戸藩内も天狗党の跳梁を内部の敵として鎮圧する羽目になり、それまでながらく雌伏していた薩長土肥の口裏あわせた一斉の台頭にはまにあわず、そのエンジンは水戸の中には残らなかった。
かつて藤田幽谷が「帝室を尊び、覇府を賤しむ」と言った哲学も、すっかり外部化してしまい、水戸学こそ残ったろうが、いっさいの水戸エネルギーはほぼ消滅してしまったのである。
しかしぼくが思うには、東湖の四男の藤田小四郎が攘夷の先鋒たらんとして筑波山に挙兵したという、この元治元年3月の一事の意味が解明をするまでは(ぼくはしていないのだが)、やはり水戸イデオロギーの行方はいまなおわからぬままだとも言っておきたい気がするのだ。その気分、わかっていただけるでございましょうか。
やっと最後に、最も意外であろうことを書く。東湖の『弘道館記述義』に驚くべき援用があるということである。
それは東湖の記述のそこかしこに、本居宣長の『古事記伝』からの援用が、そうとうにしてあったということだ。むろん神々の事情からの援用が多いのであるが、なかで「別天神」(ことあまつかみ)を強調していることが、なんとも東湖らしく、また水戸的なのである。その神こそ、宣長が「別」して、創造神として君臨させた神だった。
水戸学とは、やはり「べつ」という天地のためのイデオロギーだったのではないか。それはコシュマンがいうような闇斎流の神儒一致のイデオロギーというよりも、仮に朝方にはそこから出所していたとしても、夕方にはそぞろ、宣長の神と近づいていったものではなかったのか。ま、そんなことも言っておきたかったのでございます。
|
|
水戸第8代藩主徳川斉脩(なりのぶ)(1816〜1829)の時代には国籍不明の異国船が水戸領近海に盛んに出没した。藤田幽谷や青山拙斎など心ある者は日本の重大危機として深くこれを憂慮し、藩主自ら帰国して改革と海防を指揮するよう促したが、斉脩は「漢学者は恐れ過ぎ、武人は侮り過ぎる」と批判した。ところが文政7年(1824)5月に異国船の乗組員が領内の大津浜に上陸するという事態が起こり、藩は出兵するとともに、幽谷の門人、会沢正志斎・飛田逸民を派遣して事情を調べさせた。会沢たちは地図と手まねによって、それらが英国人であることを知り、またその世界征服の野心を察して藩に報告した。これを聞いた幽谷は一人息子の藤田東湖を現地に派遣して英人を切り殺すよう命じたが、幕府の役人が彼らに敵意は無いと見て薪水食料を与えて釈放してしまった。幽谷たちは幕府の事なかれ的軟弱外交を憤り、これからは尊王攘夷の実践によって国を守らなければならないと決意するのであつた。
|
|
|
|
会沢正志斎とは、江戸時代後期の武士であり、後期水戸学を代表する思想家の一人である。
天明2年(1782年)5月25日水戸城下にて生まれる。諱は安(やすし)。正志斎と号す。
寛政3年(1791年)、数え年10歳(満9歳)の頃、同年、尊王論の走りとなる『正命論』を著した藤田幽谷の弟子となる。 俊才の誉れ高く、文化4年(1807年)、後の水戸烈公こと徳川斉昭の撫育役に任命される。
文政7年(1824年)5月、水戸藩大津浜に英国人の捕鯨船員12人が上陸する事件が発生。藩命により尋問に当たる。(大津浜事件)
この尋問の際、英国をはじめとする西洋列強の危険性を感じ取った会沢は翌年『新論』を著す。
謹んで按ずるに、神州は太陽の出づる所、元気の始まる所にして、天日之嗣、世宸極を御し、終古易らず。固より大地の元首にして、万国の綱紀なり。誠によろしく宇大に照臨し、皇化の曁ぶ所、遠邇あることなし。しかるに今、西荒の蛮夷、脛足の賤を以て、四海に奔走し、諸国を蹂躪し、眇視跛履、敢へて上国を凌駕せんと欲す。何ぞそれ驕れるや。
(会沢正志斎『新論』)
この『新論』において、尊王思想と攘夷思想が合一され尊王攘夷思想として、また太平の世で脆弱化した幕政の改革を提示するが、危険思想と見なされたため藩主の意向によって出版することが許されなかった。 しかし、有志によって筆写されて密かに出回り、後の幕末における尊攘志士達の聖典として愛読されていく。
文政9年(1826年)、師の藤田幽谷が死去すると、跡を継ぐ形で『大日本史』編纂機関である彰考館の総裁代役に就任。
文政12年(1829年)、水戸藩8代藩主徳川斉脩が死去すると、後継として11代将軍徳川家斉の21男である徳川斉彊を擁立する動きが保守派から出たが、会沢や藤田東湖、武田耕雲斎・安島帯刀らが徳川斉脩の弟の徳川斉昭を擁立して猛反発。保守派の動きを抑え、徳川斉昭が9代藩主に就任する。
斉昭就任後、全領検地、藩士の土着化、藩校の設立といった藩政改革を補佐し、天保11年(1840年)、改革の一環として設立された藩校弘道館の初代教授頭取となる。
弘化元年(1844年)、斉昭に対し政策に介入してくる仏教勢力に対する弾圧を進言し、容れられるものの僧侶や保守派からの反発を受け、この件で幕府に目を付けられた斉昭は強制的に謹慎、会沢も同様に謹慎処分となる。
5年後の嘉永2年(1849年)、斉昭が藩政に復帰すると同時に会沢も赦免される。
嘉永6年(1853年)、米国艦隊が来航。対応策を斉昭に提出する。安政2年(1855年)、弘道館教授頭取に復職。
安政5年(1858年)通商条約締結に反発する朝廷から水戸藩へ密勅が下され、これを幕府に返納するか否かで水戸藩内の尊王攘夷派が鎮派と激派とに分裂。内部抗争によって亀裂が生じ始める。
『新論』に感化された人々が、自らの意図を超えて反幕的な行動に出ている事を憂慮した会沢は、朝廷から送付された勅状を幕府に返納すべきと主張。鎮派として収拾に努めようとする。安政7年(1860年)3月、水戸脱藩浪士による桜田門外の変が発生。この時も暗殺者達を批判する声明を発表する。
文久2年(1862年)、徳川慶喜に対して開国策を示した『時務策』を提出。攘夷から開国への事実上の転向宣言となる。
血気の小壮は、大敵を引受なば打破て神州の武勇を万国に輝さんなどともいふべけれども、兵法も、彼を知り我を知るに非れば戦勝を制し難し。
外国を一切に拒絶といふこと、寛永の良法といへども、其本は天朝の制にも非ず、又東照宮の法にも非ず、寛永中に時宜を謀て設給ひし法なれば、後世まで動すべからざる大法とはいへども、宇内の大勢一変したる上は、已むことを得ずして時に因て弛張あらんこと、一概に非なりとも云難し。
(会沢正志斎『時務策』)
文久3年(1863年)7月14日に数え年82歳、満81歳で死去。
翌年元治元年(1864年)、水戸藩にて盟友・藤田東湖の子息である藤田小四郎が、尊王攘夷を旗印に水戸天狗党を率いて挙兵するが、幕府によって鎮圧。藤田以下350人以上が斬首される大惨事に至る。これ以降水戸藩は歴史の表舞台から姿を消す事になる。
今回はこの方!この方も水戸学を世に広めた人物であります!会沢正志斎です。
この方に感銘を受けたのは、松下村塾の吉田松陰先生が有名ですね。
主に正志斎が記した「新論」は、当時衝撃的であったとされています。
正志斎の考え方などは、水戸学の全国的発展と共に明治維新を打ち立てる方々へ繋がっていきました。
会沢
正志斎(あいざわ
せいしさい、天明2年5月25日(1782年7月5日)生まれ。日本の武士・江戸末期の水
戸藩の儒者。水戸学の代表的思想家。名は安(やすし)。字は伯民。通称は恒蔵。号は正志斎。
=人生=
・幼い頃より学問の才があり、10歳より藤田幽谷(ふじたゆうこく)に師事、寛政10年元服して恒蔵と称し
た。寛政3年(1791年)、藤田幽谷の青藍舎へ入門する。早く幽谷の思想に感銘し、亨和元年「千島異聞」
を著した。
・享和元年(1801年)、20歳のときには国防問題に関する『千島異聞』を著わす。
・享和3年(1803年)に藩校の彰考館に入門。
・文化4年11月諸公子の侍読を命ぜられた。時に徳川斉昭(とくがわなりあき)は5歳、以来17年間傳
育に当った。文政7年5月、英人が常陸大津浜に上陸して捕らえられ、正志斎は藩命を帯びて、これを訊
問した。翌文政8年(1825年)には遭難したイギリス船員と会見し、海外情報を聞き記した『新論』を表す
が、内容が過激であるという理由で発禁処分となる。
その「新論」で正志斎は「我が国は、神国であるから、我々は、神々の崇敬をあつくし、祭政一致の政治体制を整え、国民思想の統一を図るべきである。国家的な危機に当たっては、時代に沿った政治改革を行いし、諸外国による我が国への侵略行為を絶対に阻止すべし」と述べ、尊皇攘夷の思想を強く打ち出た。この「新論」の内容を読んだ尊皇志士達はかなりの刺激を受けた。吉田松陰もその一人である。
・文政10年(1827年)には幽谷が死去し、彰考館の総裁となる。
・文政12年(1829年)、斉昭を水戸藩主に擁立する運動に参加し、斉昭から取り立てられ、藤田東湖(ふじ
たとうこ)や武田耕雲斎(たけだこううんさい)らと共に藩政改革を補佐し、郡奉行などを歴任している。
・天保1(1830)年郡奉行、翌2(1831)年彰考館総裁に就任。
・天保3年に150石、同11年に役料200石(計350石)を給された。
・天保11年(1840年)には弘道館の初代教授頭取に任じられ水戸学発展に貢献した。同年に役料200石(計
350石)を給された。
・弘化2年(1845年)、仏教界が政治に介入することを苦々しく思って斉昭に仏教徒を弾圧することを進言
し、これが原因で斉昭は幕府から隠居を命じられる。正志斎は雪冤運動に奔走。
さらに斉昭がいないことで佐幕派・保守派が力を増してくる。正志斎これを良しとしない斉昭支持派の過
激派志士達の行動を抑えることに尽力する。だがその後、正志斎も蟄居を命じられた。
・嘉永2年(1849年)に斉昭が復帰。同年11月正志斎赦免、安政2(1855)年に小姓頭で弘道館教授頭取に復職
した。
・嘉永6(1853)年ペリー来航に際して、対応策を斉昭父子に上書して提出した。
・安政2(1855)年8月、将軍徳川家定(とくがわいえさだ)に謁見した。
・安政5年(1858年)、幕府の条約締結に関して、朝廷から水戸藩に攘夷の実行を迫る「戊午の密勅」が下
る。正志斎は密勅返納を主張し、藩内の武田耕雲斎ら尊皇攘夷派と対立する。
しかし藩主・斉昭が「安政の大獄」で永蟄居処分となると、藩内は分裂し、正志斎はその両派の収拾に努
める。
・万延元(1860)年春、水戸藩過激派志士達による井伊大老襲撃事件である桜田門外の変が起こると、「天誅
の事その身の職に非ず」として大老要撃の士を論難した。
・文久2年(1862年)には一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)(徳川慶喜)に対して、開国論を説いた『時務策』
を提出する。世界の流れを明らかにして今後の指針を示した。この年、馬廻頭上座に加えられた。
・翌文久3年、水戸の自邸で死去。82歳であった。
=人物=
・正志斎は神道と水戸学を合わせて大義名分論を唱えた人物としても有名であるが、彼の著作や尊皇攘夷
運動は、長州藩の吉田松陰(よしだしょういん)らに影響を与えた精神的指導者であった。
吉田松陰の「東北遊日記」には、「会沢を訪ねて数回」とありその続きに「談論の聴くべきものあれば、必
ず筆を取りて之を記す。其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記されている。
・当時『新論』は志士達の間で、聖典視されていた。
18世紀後半に幕藩体制は行き詰まりを見せ始めました。19世紀になると矛盾はますます蓄積されていきます。しかし、最も大きなインパクトは西洋近代の脅威でした。
通商を求める西洋の使節が日本近海にやってくるようになります。近海に出没した捕鯨船団はもっと多かったことでしょう。長崎から輸入される文物からも、西洋近代の優位はわかりました。西洋から帰還した漂流民からまたらされる情報もありました。西洋近代の脅威は、やはり国内の矛盾のために増幅されたと思われます。19世紀の日本人はヒステリックなまでに攘夷を叫びましたが、圧倒的な西洋諸国の力もさることながら、国内の不安が増幅され、西洋に投影されて、ヒステリックな攘夷感情となったのでしょう。そして、18世紀後半から、数十隻の船団を組んだ捕鯨船団が、鹿島灘を埋め尽くすのが眺められたといいます。これは大変なプレッシャーであり、近世政治思想の中でも特異な性格を持つ後期水戸学が生まれたこととは無縁ではないでしょう。
●
後期水戸学の危機意識
前期水戸学が、正閏論と大義名分論によって日本史を再編するという、純粋に学術的な面の強い学問であったのに対して、文政・天保年間(1818〜43)に水戸藩の藤田幽谷とその門流によって形成された後期水戸学は、19世紀の社会問題・対外危機に正面から向かい、また志士達を行動に駆り立てたイデオロギッシュな思想でした。
後期水戸学は藤田幽谷(1774〜1826)がその創始者とされ、尊王敬幕論を唱え、経世論と攘夷論を説きました。その高弟の会沢正志斎(1782〜1863)は著書の「新論」によって独自の国体論を構想し、尊王攘夷の理論を確立し、後期水戸学の理論的完成者とされます。幽谷の子藤田東湖(1806〜55)は、藩主徳川斉昭(烈公1800〜60)とともに、こうした水戸学の理念を天保の水戸藩政改革という政治実践の場に生かし、幕政にも働きかけ、さらには国事に目覚めた全国各地の若者達に、藩を越えて尊王攘夷思想を吹き込んでいきました。なお、安政の大地震で藤田東湖が圧死した後、烈公は影が薄くなってしまいますが、これはおそらく東湖が烈公の知恵袋であったことによるでしょう。
「新論」から、西洋近代への危機意識を見てみましょう。会沢正志斎は、西洋諸国の強さの理由は勇気や知恵、政治制度、超自然な力が日本に卓越するからではなく、キリスト教のみであると考えました。キリスト教自体は大した教えではないが、人の心に突け込む力があり、他国への侵略もまずは貿易によって様子を見、隙を見て軍事侵攻する、それがうまく行かなかった場合はキリスト教の布教によって徐々に民心を掌握して、植民地化するとしました。
(どうもこれは通説で豊臣秀吉や徳川幕府がキリスト教を禁止た理由とされているものに似ています。近世を通じてそういった考えがあったのか、あるいはわれわれ近代人が後期水戸学に影響された目で近世初頭を見るからこう考えてしまうのか、どちらでしょうか。)
西洋はキリスト教によって国内を思想的に統一している、だから強いのだとも会沢正志斎はいいます。しかるに日本は諸宗乱立、新興宗教も乱立しています。金光教や天理教は19世紀前期に出来ました、それ以外にもいろいろな宗教がこの頃できます。平田篤胤の神道もその一つでしょう。古代、中世以来の土着の信仰は、神仏分離令、廃仏毀釈、国家神道など、明治政府の宗教政策(これも尊王思想と密接な関係がありますが、話が広がりすぎますので割愛します)によって壊滅的な打撃を受けますが、近世後期からその破壊は始まっていました。このような現状のもとに、西洋諸国の侵略を受ければ日本はひとたまりもないだろう、と会沢正志斎は考えました。
しかし、会沢正志斎はいいます。宗教によって民心を収攬するのは、元々は神武天皇以来わが国古代の祭政一致の方法だったのだ。国内を思想的に統一するための、わが国本来の姿を提示しなければならない、会沢正志斎の国体論はここから始まります。
●国体と現人神の誕生
先に、朱子学においては、天に道徳が備わっていると書きました。会沢正志斎は、この儒教的「天」を、日本の天孫の神「天祖」と同一視しました。日本の神々にはギリシャ神話の神々と同じように、元々道徳的価値観とは無縁です。おそらく自然崇拝、アミニズムが日本の神道の起源だったからでしょう。中国人の「天」は道徳的価値観と一体です。会沢正志斎はここで「儒教的天=天祖」の読み替えを行います。
これは既に本居宣長によって行われています。賀茂真淵と本居宣長の「国学」は近世に圧倒的であった儒学に対するアンチテーゼとして始まりました。本居宣長は、「日本の天祖は、世界中に普遍的な神であり、それを世界中の人間が崇拝するべきだ」としています(私はここに「同化政策」「皇民化教育」のはしりを見ています)。それに対して上田秋成(怪奇物語が有名ですが、国学者でした)は「日本の神は日本人特有のもので、各民族はそれぞれの神を崇拝するべき」と反論しています。ともあれ、本居宣長に既に「儒教的天=天祖」が始まっています。会沢正志斎はおそらく国学の成果を知っていたでしょう。
こうして、日本の天祖に道徳的至高性が付与されました。天祖の尊さは、天祖の子孫である天皇に受け継がれていると正志斎は主張しました。ここに、天皇が道徳と同一視されるのです。現人神誕生の瞬間です。
後期水戸学の説く天皇は、儒教的徳目があるから帝王になったのではなく、綿々と存在しつづけていること自体に価値があることになりました。むしろ天皇個人が意思を持って行動などすると不都合ですらあります。
このため、後期水戸学においては天皇に対する批判的言辞は皆無になりました、天皇の存在自体が規範であったからです。前期水戸学が、自由に天皇も批判していたのとはえらい違いです。易姓革命などもってのほかになりました。皇国史観が始まります。
天皇の正統性は、道徳的天である天祖からの霊力を、三種の神器の継承を通して受け継いでいることに求められました。天祖天照大神が降臨する依り代である神器(とりわけ宝鏡)を、天祖の血がつながる子孫である天皇が擁して祭祀(とくに大嘗祭)することによって、天皇は天祖と一体化できる。それは天皇が天祖の「気」を継承しているからに他ならないとしました。これは全く中国的な生命観です。私の感覚では、日本人にとっての「霊」とは、個人的なもので、例えば後醍醐天皇の霊が誰かに憑依することはあり得ても、天皇一族の霊がなにかに憑依したりするような発想は日本にはなかったはずです。
天皇の役割は、一個の政治主体として政治を行うことではなく、ひたすら天祖を祭ることとされました。それ以外の政治的責任からは超越していました。政治的責任は、臣民が無限責任で負うべきものとなりました。これは大日本帝国憲法第一条の天皇の神聖不可侵の元になりました。
20章において詳しく説明するつもりですが、これは近世的世界観が崩壊して、圧倒的な西洋近代の前で自らが相対化されてしまうことに対する、心理的防御であったと私は考えています。無謬を天皇に転化して、日本人は伝統を捨てて近代に飛びこむのです。これはどこか律令制度が導入されたときに似ていないでしょうか?
●忠孝一致
近世は戦争がなく社会が安定しましたので、武士の君臣関係は先祖代々の宿命的なものとなりました。儒教では親子の関係は宿命的で絶対に従うべきとしていますが、君臣関係は解消可能としています。しかし会沢正志斎は、わが身は父母から頂いたものであるので、わが身が栄達することは、父母への孝である。たとえ、志に殉じて、父母への孝養を欠くこととなっても、そのかわりに父母の志しを達成したのであるからむしろ「大孝」であるといいます。これが「忠孝一致」です。父母の主君に「忠」を尽くすことが、父母に「孝」を尽くすことと同等になったのです。
父母と自己の同一化が起きていますが、これを順繰りに遡っていくとすべての先祖と自己の同一視となります。これと平田篤胤の神道が説く、「日本人は全て天皇の子孫」という考えが合体すると、天皇に対して没入的に忠義を尽くすことが最高の道徳的実践となります。
このように後期水戸学は近世後期から近代にかけて日本人に強い影響を与えています。後先考えずにとにかく行動に駆り立てる力を持っているといえるでしょう。私達が今日言う意味での尊王思想の始まりは、後期水戸学にあるといえましょう。
「日本の近代13―儒学・国学・洋学」9.儒学の幕末―西洋近代への思想的対峙 辻本雅史、を参考にしています。
|
|||
尊王論と攘夷論
| 1796英オランダよりセイロン島を獲得 1799蘭東インド会社解散 02英マカオへ |
1792林子平禁固海国兵談の筆禍 |
| 03英デリー占領 01朝鮮キリスト教弾圧 |
1792ロシア使節ラクスマン、根室に来たり、通商の要求 |
| 08イギリス人マカオ攻撃10フィリピン代表イスパニア議会出席 | 1798近藤重蔵択捉探検 01本居宣長死 |
| 11ヨーロッパ人内地居住と布教を禁ず(中) | 04ロシア使節長崎へ |
| 13済州反乱 | 1806ロシア人樺太千島襲寇 |
| 13アヘンの販売を禁止天理教との反乱(中) | 1808フェートン号事件 間宮林蔵樺太を探検 |
| 14ラッフルズジャワに土地改革行う 15アヘンの輸入禁止(中) |
1810水戸徳川家大日本史献上 |
| 16イギリス使節アマートス来る(中) 16蘭ジャワを回復 |
1812浪人取締令 高田屋嘉兵衛ロシア船に捕らえられる |
| 19英シンガポール領有 | 1815杉田玄白蘭学事始 |
| 1817〜1822イギリス船浦賀に来る | |
| 21〜22疫病大流行(朝) | 1821伊能忠敬大日本沿海與地全図成る |
| 23ケシの栽培とアヘンの販売禁止(中) | 1823シーボルト長崎に来る |
| 24英マラッカ領有 | 1825外国船打ち払い令を出す 1825会沢正志斎『新論』 |
| 26台湾 黄文潤の反乱 | 1827頼山陽 日本外史 1828シーボルト事件 |
| 1829松平定信死 | |
| 31アヘン輸入の禁止 | 1830伊勢お陰参りさかん 1832〜38天保の大飢饉 |
| 34イギリス船のアヘン密売を禁止 | 1833京都えらいこちゃ踊り 1834水野忠邦老中 |
| 39アヘン2万函を没収(中) | 1837大塩平八郎の乱 1839蕃社の獄 |
| 40〜42アヘン戦争 | 1841〜43天保の改革 |
尊王攘夷論 (『19世紀日本の歴史』71ページ
徳川政権は、豊臣の権威はもちろん、禁裏の神話的権威も否定することによって、自己の権威を高めた。(林羅山・新井白石の批判)
それが、対外問題で方向が見定められず、自信がぐらついたとき、諸藩に意見を求めた。これが、雄藩の政治参加意欲を高めることとなった。公議問題はここに芽生える。
そして重要なことは、否定してきた皇室の権威を以って世論を納得させようとさせたことだ。ここに尊王論が政治思想の中心的なものとしてのし上がってくるきっかけがあった。
| (2)「尊王攘夷」思想の原点
−水戸学派の儒学 ●朱子学からきた「尊王攘夷」 幕末、「尊王攘夷」という言葉は、勤皇の志士たちによる倒幕運動の合言葉として使われた。この言葉を最初に使ったのは多分、「水戸学」であると思われる。 しかし一見して国粋主義的なこの言葉は、よく調べてみると朱子学を出典とする外来の言葉なのである。 まずこの「尊王攘夷」という言葉を、日本で何時、誰が最初に使い始めたか?非常に興味があるが、残念ながらそれを克明に調べた論文をまだ見たことがない。 弘道館とは、徳川斉昭により天保12(1841)年に創設された水戸藩の藩校である。そこは文武2館に分けられ、尊王攘夷を鼓吹するとともに、実用主義の立場から洋学の技術も取り入れられた。 朱子の「論語集注」では、論語の憲問篇の「管仲、桓公を相けて、諸侯に覇たらしめ、天下を一匡す。民、今に至るまでその賜を受く」という文章に対して、朱子が「匡は正なり。周室を尊び、夷狄を攘つ。皆、天下を正す所以なり」と注記している。ここに「攘夷」(夷狄を攘つ)という言葉が出てくる。 徳川斉昭の「弘道館記」が書かれた天保9(1838)年は、その前年の6月にアメリカの商船モリソン号が浦賀に入港し、浦賀奉行がこれを砲撃する事件がおきている。しかしそれは、ペリーの黒船が来航する10年以上も前のことである。 ●日本のこみ入った尊王思想 この「尊王」を日本に当てはめてみると、周王に相当するのは「天皇」であり、諸侯に相当するのが幕府と藩主たちであった。 しかし江戸時代の各藩の武士から見ると、その様相はさらに異なる。各藩の武士たちが「二君にまみえず」として仕える「王」=主君とは、天皇でも将軍でもなく「藩主」である。従って彼らが命をかける「王」は、天皇でも将軍でもなく藩主である。 ここで難しい立場は徳川将軍家である。よく考えてみると、形式的には徳川将軍家は諸大名の1人に過ぎず、たまたま天皇から征夷大将軍に任命されているに過ぎない。従って、将軍が天皇に置き換わっても、国家組織としては十分に成立する。 儒学的にいうと、藩主たちが忠誠を誓う「王」は天皇ではなく、徳川将軍なのである。この矛盾が明らかになるのは、幕末の「戊辰戦争」のときであった。 このように「尊王」という言葉は、非常にあいまいで言葉足らずである。そのためいくつかの言葉を補わないと、本当の「尊王」の姿は見えてこない。 この言葉が、明治維新の直前に「尊王−倒幕−忠藩−開国」になり、さらに明治4年以降には藩もなくなって、「忠君愛国」に変わる。 ●尊王攘夷の推移と変貌 しかしその後、尊王攘夷の論点が大きく変わり、運動の性格も変わる中で、水戸学は次第に尊王攘夷運動から浮き上がっていく。 図表-1 尊王攘夷運動の推移
図表-1を見ると、徳川斉昭の「弘道館記」にあげた「尊王攘夷」の概念が、わずか30年の間に目まぐるしく変化したことがわかる。それを幕府と朝廷の立場からまとめてみると、次の図表-2のようになる。 図表-2 尊王攘夷思想の変貌
●水戸学における「尊王攘夷」 ▲藤田幽谷と正名論 幽谷は、孔子の「春秋」を論拠にして天皇を「天を称し、以って無二の尊を示す」存在とし、「天下の共主(天下が共に宗主とする君主)」に位置付けた。 この観点から当時の日本の政治体制を見ると、幕府が天下国家を治めており、上に天子を戴き、下に諸侯を撫するは、覇主の業」というのが幽谷の幕政批判の姿勢であった。それはまさに尊王−敬幕−忠藩−攘夷の社会秩序を、典型的に説明したものといえる。そしてこの幽谷の思想は、門人である会沢正志斎に伝えられた。 ▲会沢正志斎と新論 会沢正志斎の「新論」は、国体、形勢、虜情、守禦、長計の5論7編から構成されている。国体においては、皇祖・天照大神が忠孝の道徳に基づいて建国された、わが国の政治体制の原理を記し、内政面から国力を充実させる方策を述べている。 会沢正志斎の「新論」は、もともと一般世人に示す書ではなく、当時の水戸藩主・徳川斉脩(なりのぶ)に上呈することを目的にしたものであった。 「新論」の論点は、朱子学の立場から藤田幽谷の正名論の趣旨を、さらに詳細に展開したものである。特に天皇の機能は、幽谷が「上天に敬事し、宗廟の礼、以って皇尸(皇祖)に君事する」としたものを、正志斎は「天朝、武をもって国を建て、詰戎方行する(=軍備を充実して四方に武威を振るう)由来は旧(ふる)し」としている。 しかしこの考え方をとると、軍備や政治を幕府にまかせる根拠が失われて、天皇が祭祀のみか武力の頂点に立つことにより、国家権力は1本化されて、一挙に「王政復古」に突き進む危険性を秘めていた。 ▲藤田東湖の弘道館記述義 藤田東湖(1805-1855)は、藤田幽谷の子である。東湖は江戸へ出て亀田鵬斎らに学び、文政10(1827)年に父のあとをついで彰考舘編集となった。天保12(1829)年には総裁代理となり、藩主継嗣問題においては、下士改革派の中心となって活躍して、徳川斉昭の擁立に成功した。以後、斉昭の側にあって藩政の中枢を握り、藩政改革を推進した。 しかし天保15(1844)年、徳川斉昭が幕府から謹慎を命じられると、東湖も蟄居したが、のちに斉昭が幕政に参与するようになると東湖も側用人として活躍し、特に海防策に尽力した。 徳川斉昭の「弘道舘記」は、短い文章の中に、天皇、徳川将軍、水戸藩主の名分を明快にする試みをしていた。東湖は、「弘道舘記述義」において、さらに大日本史の編纂への参加の経験を生かして、「弘道舘記」の内容を歴史的に詳しく展開している。しかも朱子学的名分論の立場から、皇室、将軍、水戸藩の歴史と名分を、詳細に展開している。 そこで注目されるのは、上記の3者をつなぐたて系列を、「忠孝無二」という思想で一元化したことである。たとえば「弘道舘記述義詳解」に次のように書いている。 「忠という事と孝という事とは、日常行為の上において途を異にし行り方が違うのみである。されどその信実真心を尽くす上においてはその帰(おもむき)は同じうしてしているのであって、唯だ父に誠意を尽くすことを孝といい、君上に誠意を尽くすことを孝というので、我が心衷の根底より真心を尽くす所以にいたっては即ち同一である」。つまり東湖によれば、「忠孝二無きや亦明らか」であり、「吾が誠を尽くす所以に至っては即ち一である」といっている。 しかし幕末の段階において、「父」に相当する立場は、天皇、将軍、藩主の3者である。しかもその間における利害は鋭く対立していた。 |
http://onjweb.com/netbakumaz/index.shtml
http://onjweb.com/cgi-bin/bbs1/keijiban.cgi
http://www.lib.kagawa-u.ac.jp/metadb/up/AN00038281/AN00038281_29_1_47.pdf
∵晩年の会沢正志.斎
1幕末政治思想史研究の一節 −山口 宗 之
一般的には、日本神話の、皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、天皇は神によって日本の永遠の統治権が与えられている(天壌無窮の神勅)[1]、という思想を背景として、とりわけ、他国との対比において、王朝交代・易姓革命・近代においては市民革命が起きなかったことを、日本の国体の表れとして重視する立場が伝統的に主流となってきた。また、論者の大部分は天皇による国家統治を国体の不可欠の要素として主張する。
ただし、不変の国体の存在を措定するかぎりにおいて、国体論は概して民族主義的・保守主義的立場といってよいが、その範囲内で、具体的に何を日本の国体の本質とみなすかは、時代や論者によって差異がある。
このほか「国体思想」の要素として、
などが挙げられる。
近代に入ってからは、英米系のコモン・ローの考えを元にした保守主義の法哲学・公法学・憲法論の立場から、以下のような主張もなされている。国体は、建国以来不文憲法の根拠として存在してきた。1889年になって制定された大日本帝国憲法は、この不文憲法の根拠である国体を根底にし、主に伊藤博文が海外視察によって影響を受けたドイツ帝国やベルギー王国の憲法を参照して構成されたものである。「国制」即ち、国を治める形、国家意思決定過程の定めを意味するverfassungの語を、当初「国憲」と訳していたことからも明らかなように、自然国家としての連続性を意味する国体の表出が、不文成文の憲法であるという相関関係にあるともいえる。憲法思想的には、日本のコモン・ローをベースにしており、英国憲法とその法位相を同じくするものである。
「国体」は正字体では「國體」と書き、古くから漢籍に見える。「国体」の文字は『管子』君子篇では「国を組織する骨子」の意味で、『春秋穀梁伝』では「国を支える器」の意味で用いられている。古代日本でも『出雲国造神賀詞』に「国体」と書いて「クニカタ」と読む言葉があり「国の様子」を意味している。
国家観の意味で「国体」の語が用いられるようになったのは江戸後期以降であるが、それ以前にも国体の萌芽となる思想はあらわれていた。そのひとつは、日本を神々の国であるとする神国思想、もうひとつは皇位の血統性を強調する皇国思想である。
『古事記』・『日本書紀』は、日本の国家と皇室の由来を語りおこしており、それ自体が神国思想といえる。一方、皇位の血統的連続性を直接明言する記述は少なく『日本書紀』の一書(別伝)に天壌無窮の神勅がみられる程度である。これは、天皇の先祖が高天原から降下したという天孫降臨において、天降りする孫に天照大神が与えたとされる言葉である。皇位の栄えは天地とともに無限であろう、と言祝(ことほ)ぐ。ファシズム時代に強調された言葉ではあるが、『日本書紀』の本文では採用されておらず、編纂時に強調されていなかったようである。ただし、『古事記』・『日本書紀』はその全体が、皇統の系譜を叙述の規範としており、皇位の血統的連続性いわゆる万世一系を前提とした史書である。
一説には、雄略天皇は、中華皇帝から倭王に封じられた最後の天皇であり、これ以降、歴代天皇は中華皇帝に臣下の礼をとらなくなる。雄略天皇はまた国内では「治天下大王」を名乗り、自己より上位の権威を認めない姿勢を示した。
武烈天皇の死に伴って、大和の有力豪族たちは皇族を遠く北陸からむかえ皇位に推戴した。これが継体天皇である。こうした有力豪族たちの行動は、皇位には何よりも血統性が重要であるという一種の信仰を背景としたものであり、日本独自の国体観の始まりといえる。
中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの権門勢家が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に、元寇など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された。
朱子学が鎌倉後期に日本に伝来すると、その正統主義、尊王斥覇の思想が日本の国体観に加わった。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒し天皇親政を試みた。鎌倉幕府の倒壊から南北朝時代を物語る『太平記』は、楠木正成などの南朝方武将を好意的に描き、後の歴史観に大きな影響を残した。また南朝方の有力公家北畠親房は南朝の正統性を主張するために歴史書『神皇正統記』を著し、皇国史観の元祖となった。又、戦国時代末期には、豊臣秀吉が外国宛書簡で神国思想が表明された。これは、徳川幕府を樹立した徳川家康にも継承された。
徳川時代に入ると学者による論説が登場した。これには儒学者の流れと国学者の流れがある。
儒学者流では、山崎闇斎とその学統が有名である。山崎闇斎は神儒一致(神道と儒教との一体化)の垂加神道を唱え、その弟子浅見絅斎は『靖献遺言』を著し尊皇思想の源流となった。闇斎は、皇統はそれ自体が道の存在を示しており、さらには天皇こそが儒教的な人倫の道の体現者であるとした。一説には、孫弟子の栗山潜峰(1671‐1706)は、国体の語を日本独自の国家観の意味で初めて用いたといわれている。 水戸藩作成の史書『大日本史』には、孫弟子の三宅観瀾や栗山潜峰らが編纂に携わった。『大日本史』は、朱子学の正統主義の立場から、南朝正統論を強調した。水戸学では日本とは一つの道徳的実残の運動体(国体)であると考えられており、山崎闇斎の思想とともに幕末の尊皇攘夷運動の思想的契機の一つとなった。
一方、国学者流では本居宣長の影響も大きい。ほとんど読めなくなっていた『古事記』の解読にほぼ成功して、神国思想を強調した。
「国体」の語を用いた国家論が本格的に始まるのは、水戸学以降である。会沢正志斎は著書『新論』(1825年)の冒頭で国体と題した章を設けて尊皇攘夷を論じた。また、藤田東湖が起草し同藩主徳川斉昭が撰文した『弘道館記』(1837年)は「国体以之尊厳」と刻み、日本の道徳が皇統に由来することを説いた。これら水戸学者の著作は幕末の志士たちの間で広く読まれたことから、「国体」の語が一般に通用するとともに、水戸学流の国体観念が明治維新の原動力となる。
吉田松蔭は『講孟余話』を著して日本固有の国体を強調した。長州藩の老儒山県太崋がこれを批判し、両者の間で論争になった。後、吉田松蔭門下から明治政府の高官となった者が多く、吉田松蔭の国体観が明治国家に与えた影響は大きい。
水戸学の国体論とは別に大きな影響力を持ったものとして頼山陽『日本外史』がある。これは「国体」の語を用いていないが、尊皇思想を背景に南朝方武将の楠木氏や新田氏を忠臣として描写しており、幕末の志士の間で多くの愛読者を獲得した。
国学者平田篤胤は神国思想に基づく国体を論じた。篤胤は禁書であったキリスト教関係の書を参照して、「アメノミナカヌシノカミ」(天御中主神)を創造神に位置づけ、世界を「幽冥界」と「顕明界」とに分け、前者は「オオクニヌシノミコト」(大国主命)が、後者は「天皇」が統治する世界であると考えた。そして天皇を全世界(人類・生物・物質)の統治者として位置づけた(平田篤胤『霊能御柱』)。こうした平田国学は豪商豪農層に広い支持を獲得し、一部の武士階級にも尊皇・攘夷の思想を育んだ。この解釈は1880年に始まる神道事務局祭神論争での出雲派の敗北によって表面上は衰退したが、現在でも神道系の新興宗教の多くはこの解釈を奉じている。
加藤弘之は『国体新論』を著して「人民を以て独り天皇の私有臣僕となすが如き」「従来称する国体」は「野鄙陋劣」であると批判し、「欧州の開明論」による「国家君民の権利義務」の理が「公明正大なる国体」であると主張した。これは明治政府の一部から批判を受けたため、加藤弘之は著書を自ら絶版するとともに、思想を転向し、社会進化論に基づき明治国家を擁護するようになる。
1876年(明治9年)、元老院に憲法起草を命じる勅語は「我が建国の体に基き広く海外各国の成法を斟酌して以て国憲を定めんとす」としており、「建国の体」即ち国体に基づいた憲法が要求された。これを受けて元老院が作成した憲法案は、伊藤博文に「各国の憲法を取り集めて焼き直ししただけであり、我が国体人情等に少しも注意したものとは察せられない」と反対され、廃案になった。
1881年(明治14年)10月12日に、次のような国会開設の勅諭が発された。
「朕、祖宗二千五百有余年の鴻緒を嗣ぎ、中古紐を解くの乾綱を振張し、大政の統一を総覧し、又、つとに立憲の政体を建て、後世子孫継ぐべきの業をなさんこと期す。さきに明治八年に元老院を設け、十一年に府県会を開かしむ。これ皆、漸次、基を創め、序に循て歩を進むるの道によるにあらざるはなし。なんじ有衆また朕が心を諒とせん。顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。今、在廷臣僚に命じ、仮すに時日をもってし、経画の責に当らしむ。その組織権限に至っては、朕、親ら衷を裁し、時に及んで公布する所あらんとす。朕おもうに、人心進むに偏して、時会速なるを競う。浮言相動かし、ついに大計を遺る。これ宜しく今に及んで謨訓を明徴し、もって朝野臣民に公示すべし。もしなお故さらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害する者あらば、所するに国典をもってすべし。特にここに言明し、なんじ有衆に諭す。
奉勅 太政大臣 三条実美」
この勅諭においては「立国の体」即ち国体のそれぞれの国における固有性と、当時の国家一大事業として「立憲の政体を建て」る事の弁別が既に明確となっている。憲法起草を命じられた伊藤博文は欧州で憲法調査を終えて帰国した後、1884年、閣議の席上で「憲法政治を施行すれば、おのずから国体が変換する」と演説した。伊藤の部下であった金子堅太郎は伊藤を批判して「上に万世一系の天子が君臨するというこの国体にはなんらの変換もありませぬ。閣下は国体と政体との意味を取り違えておられる」と主張。伊藤は「国会を開いて政体を変えればこれも国体変換ではないか」と反駁したものの、これ以降国体変換を口にすることはなくなった。大日本帝国憲法制定後、伊藤の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』では「我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なること」を謳った。
上杉慎吉は「天皇ノ主権者タルコトハ我ガ日本ノ国体ニシテ、人民ガ主権タルハアメリカ合衆国ノ国体ナリ」 [2]と述べている。
東京帝国大学で憲法学を教授していた筧克彦法学博士は、貞明皇后に「古神道及び国体学」に関し皇后宮にて進講。御進講録「神ながらの道」は皇后宮職より公刊。また1935年に文部省開催の、憲法講習会の講演録「大日本帝國憲法の根本義」を文部省憲法教育資料中の1冊として上梓。同書には以下のようにある。
天孫降臨より皇国神ながらの御主人様つまり国家主体として、天皇がある事をあきらかにした同講演が文部省主催であったことで、国家公認の国体学の権威としての地位をかため、皇太后宮より著作が公刊されたことにも伴い、帝国政府部内の国体説としては敗戦まで批判を許さなかった。詳細は筧克彦参照。
日清戦争の勝利や治外法権の撤廃などを背景に、欧米の論理に囚われない日本独自の国体論が新たな形で登場する。すなわち、日本の国民を先祖を同じくする一大家族に喩え、皇室を国民の本家に位置付ける家族国家論が流行し始める。憲法学者穂積八束は「我が日本固有の国体と国民道徳との基礎は祖先教に淵源す。祖先教とは先祖崇拝の大義を謂う。」「天祖は国民の始祖にして天皇は国民の宗家たり」(『国民教育 愛国心』1897年)と述べ、また、高山樗牛も「皇室は宗家にして国民は末族なり」(「我国体と新版図」『太陽』1897年)とした。井上哲次郎も「我国は其総合家族制度の究極のものにして、其家長が天皇なり。」(「我国体と家族制度」1911年)としている。
南北朝正閏問題南北朝正閏論参照。
美濃部上杉論争天皇機関説参照。
民本主義の主唱者吉野作造は「君民同治を理想とする所の民本主義の政治は、…寧ろ国体観念を鞏固にするものである。」(「民主主義と国体問題」『大学評論』1917年)と述べ、憲法学者美濃部達吉は「政治上の意義に於ての民主主義は…毫も我が国体に抵触するものではなく、却って益々国体の尊貴を発揮する所以である。」(「近代政治の民主的傾向」『太陽』1918年)と主張した。明治期にはキリスト教を排撃していた井上哲次郎も、「日本の国体は万世一系の皇統を中心として来れるもの、日本は君主国にして民本主義を取れり、君主主義と民主主義との調和を保てるものにして其所に我国体の安全は存す」(『我国体と世界の趨勢』)と、民主主義に寄る姿勢を示した。
1921年(大正10年)、内務省神社局は『国体論史』を出版し、国体論の歴史を概観するとともに、「神話はその国民の理想、精神として最も尊重すべし。それは尊重すべきのみ、これを根拠として我が国体の尊厳を説かんと欲するは危し。先入主として、これらの『国造り説』と相容れざる進化学上の知識を注入せられおる国民はあるいはこれを信ずる事をえざるが故なり」とした。内務省神社局がこのような見解を示していたことは注目される。 内務省神社局局長であった水野錬太郎(内務大臣・文部大臣・神職会会長等も歴任。「天皇の政治利用」だと非難されて文部大臣辞任に追い込まれた。水野文相優諚問題参照。)は「日本の仏教は早くから国体精神と同一化し、儒教も、もとより国体精神と同一化してをり、そのほか外国の新文明新思想も国体精神と一致しつつあるもので、外来の思想を論難したり議論すべきでない」 [3]と述べている。
1922年(大正11年)、共産主義インターナショナルコミンテルンは日本の共和制への移行をテーゼに掲げた(日本共産党においてはこの22テーゼは草案段階に終わるが)。このような国体変革を狙った外国勢力主導の動きに対して、1925年(大正14年)公布の治安維持法は「国体の変革」を目的とした結社を禁止し、更に田中義一が主導した1928年(昭和3年)の法改正で最高刑が死刑に引き上げられた。治安維持法でいうところの「国体」は大審院判決によれば「我帝国は万世一系の天皇君臨し統治権を総覧し給ふことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如くすへきものとす」(大判昭和4年5月31日刑集八巻317頁)とされた。治安維持法により、民主化運動や共和制運動が厳しく弾圧されるとともに、この頃から「国体の変革」が言語的タブーとなる。
1927年、新たに結成された立憲民政党が政綱に「議会中心的主義」と掲げたのに対し、翌年、その対立政党である立憲政友会の鈴木喜三郎(当時内相)は「議会中心主義などという思想は、民主主義の潮流に棹さした英米流のものであって、わが国体とは相容れない」(大阪朝日新聞1928年2月20日)と批判。逆に、政友会内閣が締結したパリ不戦条約に「人民の名において」という文言があったのをとらえて、野党民政党はこれを国体に反するものとして論難した。
共産主義インターナショナルコミンテルン1932年テーゼは、ドイツ語のMonarchieで我が国の政体を規定。君主制の転覆を指令した。日本共産党はこれを「天皇制」と翻訳。天皇制への反対の主張を抱くも、戦前即ち帝国時代には、一般には「天皇制」の語は普及せず、民主主義と共和制を目指す運動は烈しく弾圧された。帝国日本の敗戦により、米軍を主力とする連合国軍による占領が始まると、日本共産党指導部は釈放され、民主化が始まり、国民主権を明記した日本国憲法が施行された。それにともない、共産主義思想・民主主義思想・共和主義思想の影響下に、学術研究、言論、社会運動場裏における「天皇制」の語は一般化した。「天皇を中心とする国家体制」を否定的にとらえる論者の間では広く用いられる。 日本共産党及び同党の周辺知識人の主張によると、国体には「ほとんど同義」 [4]の語に天皇制がある。日本共産党、新日本出版社、参照。
詳細は「神の国発言」を参照