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  蘇州市 (Suzhou)観光

  蘇州市、寒山寺、 楓橋夜泊(吟詠)虎丘塔 、 蘇州観光、(SKETCH スケッチ①、 ②、③、④、
   (【燃える呉越 1-41集(動画)】 【三国志 1-75集(動画)】 【孫子兵法大伝 1-35集(動画)】 【孫子兵法】【論語】【温故知新】

 
蘇州市(そしゅうし)は中華人民共和国江蘇省東南部に位置する地級市。古くから絹織物で発展した国家歴史文化名城であり、上海市に隣接する地の利があり、現在も省の経済的中心である。

蘇州で話されている蘇州語(蘇州方言)は、北部呉語を代表する方言と考えられていたが、現在は上海語にその座を譲っている。蘇州方言と上海方言とでは、異なる語彙や発音があるが、しばらく会話すれば意志の疎通に大きな支障はなくなる。

地理
中華人民共和国 江蘇蘇州 maps.google.co.jp

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長江の南側にあり、長江デルタの中心部、太湖の東岸に位置する。東北側には、上海蟹の産地として名高い陽澄湖がある。

北京から南京を経て、昆山、上海を結ぶ京滬線が通り、蘇州駅には特急が停車する。

上海を起点に蘇州市街を通って西に延びる312国道と、常熟市街を通る204国道が幹線道路としてある。また、上海から南京に向かう滬寧高速道路が通っている。滬寧高速道路は蘇州で常熟嘉興を結ぶ南北の蘇嘉杭高速道路と交差しており、2008年ごろには常熟から長江を渡って南通に通じる橋ができる予定である。滬寧高速道路は交通量の増加によって渋滞が起きやすくなったため拡幅工事を進めているほか、常熟を通る沿江高速道路が常州までのバイパスとして建設された。

古来、北京と杭州を結ぶ京杭大運河が通るなど、水運もよく利用されている。北部の太倉、常熟、張家港の長江沿いの地域には、水運を生かせる大規模工場が作られている。

運河による水運が生活に溶け込んでいることから、旧市街地及び周辺の水郷地帯を含めて、「東洋のヴェニス」と呼ばれるが、ヴェネツィアよりも歴史は古い。

環状の堀で囲まれた旧市街は新しいビルなどは少なく、昔からの住宅が立ち並び、世界遺産の園林などが点在している。これに対し新市街は近代的なビルや高層住宅などが立ち並んでいる。郊外は工場地帯が点在している。

出典: フリー百科事典
中華人民共和国江蘇省蘇州市
上から:拙政園、虎丘の雲岩寺塔、金鶏湖と東方之門ビル、夜の閶門、山塘街の普済橋
上から:拙政園虎丘雲岩寺塔金鶏湖東方之門ビル、夜の閶門山塘街普済橋
蘇州市の市旗
市旗
略称:蘇 / 呉
別称:姑蘇 / 呉都 / 呉門 / 呉中 / 平江


中心座標 北緯31度19分0秒 東経120度36分0秒 / 北緯31.31667度 東経120.60000度 / 31.31667; 120.60000
簡体字 苏州
繁体字 蘇州
拼音 Sūzhōu
カタカナ転写 スーチョウ
滬拼 Sou1 tseu1(蘇州)
Su1 tseu1(上海)
国家 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
江蘇
行政級別 地級市
市委書記 周乃翔
市長 曲福田
面積
総面積 8,488.42 km²
市区 1,649.72 km²
人口
総人口(2011) 1051.87 万人
市区人口(2011) 538.15 万人
経済
GDP(2011) 10,716.99 億元
一人あたりGDP 102,129元
電話番号 512
郵便番号 215000
ナンバープレート 蘇E
行政区画代碼 320500
市樹 クスノキ
市花 モクセイ
公式ウェブサイト




①蘇州旧市街 ②街中を通る運河 ③蘇州旧市街
        (画像クリック)

歴史 [編集]

古くから長江の南に位置する、江南の主要都市として栄えてきた。春秋時代の都が置かれ、呉文化圏の中心であった。伝説によれば、諸樊がこの地を本拠と定め、諸樊の子孫の闔閭が呉の都として整備したと言われている。臥薪嘗胆呉越同舟の舞台である。以後には会稽郡、後には同郡から分離した呉郡の役所が置かれた(同時に呉県の役所も設置された)。代に蘇州の名が始まったが、南朝最後の末の民衆反乱(589年)で町が破壊されて郡の役所なども他の町に移されており、本格的な再建は役所を蘇州に戻した太宗時代以後のことになる。五代時期には呉越国の都となり、北宋神宗時代に(首都に准じる都市)への昇格に伴って平江府、には平江路と呼ばれるようになった。この間、南宋遠征軍が平江府を攻撃して再度町は大規模な打撃を蒙った(1130年)が、南宋政府によって再建されている。元末の張士誠も呉王を称して蘇州に都した。になると、蘇州府が置かれて以後は現在の蘇州という名称が固定化された。

古くから中国の先進的な絹織物産地として経済的富裕な町であったが、南宋時代に付近で木綿栽培が広まると綿織物の分野でも屈指の生産を図るようになる。だが、アヘン戦争後の上海開港にともなってその経済的地位をいくらか低下させた。

江蘇省の省都は現在南京に置かれているが、歴史的に代には江蘇布政使が蘇州に駐在し、太平天国は蘇州を蘇福省の首府とした。南京に都した中国国民党時代には蘇州に江蘇都督行署を置き、日本軍占領期にも江蘇省会であった。

行政区画

経済

上海から高速道路で1時間の距離にあり、上海の国際マーケットと国内マーケットをつなぐ要所である。シンガポールの協力で建設された蘇州工業園区を始め、蘇州高新技術開発区、昆山経済技術開発区、張家港保税区などの投資区域を有する。繊維製品、精密化学工業、製紙工業、電子工業機械工業などの産業があり、2003年の国内生産総額は2,802億人民元、一人当たり国内生産は47,700人民元、輸出総額は326億米ドルに達する。経済規模は江蘇省最大で、省都南京をしのぐ。

蘇州の東北に位置する陽澄湖は、上海蟹の産地・養殖地として著名であり、淡水漁業も盛んである。

特産・名菜

交通 

  • 鉄道 - 蘇州は上海-南京の大動脈上に位置しているため、上海駅 - 蘇州駅間は毎日約60往復の列車がある。そのうち約20往復は中国版新幹線CRHであり、所要31分-45分。それ以外の列車は所要45分-2時間16分。一部の列車は上海南駅発着となる。
  • バス - 上海から約1時間30分。上海浦東国際空港上海虹橋国際空港からの直行バスもある。また、蘇州市内を路線バスがくまなく走っており、ほとんどすべての観光地を訪れることが可能。
  • 航路 - 山口県下関市上海下関フェリーが、下関港国際ターミナル - 江蘇省蘇州太倉港のフェリーを運航している。所要35時間30分 - 40時間。週2往復。

教育

  • 蘇州大学
  • 蘇州科技学院
  • 常熟高等専科学校
  • 沙洲工学院
  • 蘇州教育学院
  • 蘇州市放送テレビ大学
  • 蘇州職業大学
  • 蘇州日本人学校
  • 世界遺産

    • 蘇州古典園林
      • 拙政園-蘇州の数ある庭園の中でも最大で、留園とともに中国四大名園の一つに数えられている。明代の中央の高級官僚だった王献臣が造営したといわれる。40000㎡の広い敷地の半分以上を池や堀が占める。
      • 留園-明代に創園された庭園であるが清代の1875年~1909年に改築されてから留園と呼ばれるようになった。総面積は約20000㎡で東園と中園、西園と北園の4つに主に分けられる。
      • 獅子林-元代末期の庭園様式を伝える、1342年造営の古園。太湖石で埋め尽くされた迷路のように回廊がめぐっている。石が獅子の形に見えるということから、獅子林と呼ばれるようになった。
      • 滄浪亭-蘇州で最も古い庭園で、唐の時代の末期、956年に造営され、11世紀に改築された。
      • 網師園
      • 環秀山荘
      • 芸圃
      • 退思園
      • ?園

    その他の観光地

    • 盤門-蘇州市街の南西部にある外城河に囲まれた蘇州城に唯一残る城門。創建されたのは紀元前514年だが、元代の1351年に改修されたものが現存している。龍脈の影響が弱く商売など適していないと思われていた。従って、周辺は余り発達しておらず、昔の状態がかなり完全に保存されている。
    • 虎丘 - 春秋時代の国王夫差が埋葬されたことに由来。北宋代、961年に建立された八角七層の虎丘塔(雲岩寺塔)は、現在少し傾いているためイタリアピサの斜塔と比されることもある。全国重点文物保護単位となっている。また1940年代まで、風水で龍脈の源と考えられ、城市内に流れ込む運河の市内への門は、ショウ門とよばれ、その近辺から繁栄した(古蘇繁栄図)

    また、1940年まで北寺塔から南下する道は、臥龍街と呼ばれていた。(蘇州古城地図)

    • 寒山寺 - 唐代に建立された名刹。唐代の詩人張継の「月落ち烏鳴いて霜天に満つ」で始まる漢詩「楓橋夜泊」に登場することで有名である。

    友好交流都市

    東京都東村山市石川県金沢市及び福井県永平寺町姉妹都市京都府亀岡市と友好交流都市として提携している。

    蘇州を舞台にした作品

    音楽

    映画

    • 小城之春 (監督:費穆、1948年)
    • 春の惑い (監督:田壮壮、2002年、上記作品のリメイク)
    • 華の愛 遊園驚夢 (監督:楊凡、2000年)

    関連項目

    外部リンク


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    寒山寺

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    寒山寺
    Hanshan Temple.jpg
    寒山寺
    各種表記
    繁体字 寒山寺
    簡体字 寒山寺
    ? Hansh?nsi
    発音: ハンシャンスー
    英文 Hanshan Temple
      
             

    寒山寺(かんざんじ)は中華人民共和国江蘇省蘇州市楓橋鎮に位置する臨済宗仏教寺院。

    蘇州の旧市街から西に約5km、蘇州駅南南西3kmにあり、寒山拾得の故事で名高い。楓橋路に面している。唐代の詩人張継(ちょうけい)が詠んだ漢詩「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」の石碑があることで知られる。

    沿革

    寒山寺は、南北朝時代(南朝)の天監年間(502年 - 519年)、武帝の時代に「妙利普院塔院」として創建されたとされる。寒山寺という現在の寺名は、唐代貞観年間(627年 - 649年)に風狂の人寒山がこの地で草庵を結んだという伝承にちなむ。襄陽出身の張継が、有名な「楓橋夜泊」を詠んだのは8世紀中頃のことである。伽藍の創建は8世紀から9世紀にかけてのことであり、石頭希遷によると伝えられる。全盛期の寒山寺の面積は広大で、巷間で「馬に乗って山門を見る」と言われるほどであった。当時、北方から訪れた旅行者の多くは、まず寒山寺を参詣してから蘇州の市街に入ったという。

    宋代太平興国初年(976年頃)には、節度使孫承祐によって7層の仏塔が建てられた。嘉祐年間(1056年 - 1063年)には「普明禅院」と名を改め、1134年紹興4年)に僧法選によって再建された。

    宋以後は伽藍の盛況をみた寒山寺であったが、末の1366年至正26年)、張士誠朱元璋(のちの太祖洪武帝)の間の戦闘により焼失した。明初1369年洪武2年)に恵貞により再建されたが、そののち火災によって再び焼失。正統年間(1436年 - 1449年)に王況鐘が再建し、嘉靖年間(1522年 - 1566年)に本寂が鐘を鋳造している。しかし、明の1618年万暦46年)に再び火災に遭って堂宇は灰燼に帰した。

    清代にも1711年康煕50年)、1860年咸豊10年)に焼失している。1860年の焼失は、太平天国の乱にともなうもので、1876年明治9年)に寒山寺を訪れた外務卿副島種臣は「楓橋夜泊」をもとに七言絶句パロディ[1]を創り、その巧みさは清の高官を驚かせている。

    標識碑 配置図

    現在の寒山寺は、清末の1906年光緒32年)に程徳全が再建したものであり、それぞれの建物はいずれも比較的新しいものである。

    西の黄色い照壁境内への入口となっており、中央に大雄宝殿、周囲に鐘楼、鐘房、羅漢堂、碑廊を配している。東側に寒拾殿、東端には普明宝塔があり、東西にやや細長い境内配置となっている。

    日中戦争の戦火はまぬがれており、1940年日本映画支那の夜』の挿入歌『蘇州夜曲[2]でも、寒山寺が登場する。

    中華人民共和国成立後、2度にわたって大改修がおこなわれた。1982年には江蘇省人民政府により「江蘇省文物保護単位」に布告された。1986年には新しい鐘が寄贈され、2005年には重量108トンの大鐘が設けられた。

    寒山拾得
    伝顔輝作
    『寒山拾得図』
    寒山、
    元代(14世紀)
    伝顔輝作
    『寒山拾得図』
    拾得、
    元代(14世紀)
    寒山拾得
    (かんざんじっとく)
         
    人物

    寒山(かんざん)と拾得(じっとく)はともに唐代の脱俗的な人物で、両者とも在世年代は不詳である。

    寒山は始豊県[3]西方70里の寒巌幽窟に住んでいたため寒山と呼ばれ、カバの皮をかぶって大きな木靴をはいていたという。拾得は天台山国清寺[4]豊干(ぶかん)に拾い養われたので拾得と称し、国清寺の行者となった。

    2人は7世代にわたる仇敵同士の家に生まれたが、豊干は2人を悟りに導いたという。あい交わるようになった2人は国清寺に出入りし、その食事係となって、衆僧の残した残飯野菜クズを拾いにたくわえて食糧とし、乞食同然の生活をした。

    時には寺域のなかで奇声、叫声、罵声を発し、時に放歌高吟したり、また廊下を悠々と漫歩したりして、しばしば寺僧たちを困惑させ、寺僧が追いかけると手を打ち鳴らして呵々大笑しておもむろに立ち去ったといわれる。非僧非俗の風狂の徒であったが、仏教の哲理には深く通じていた。

    詩作をよくし、ことに寒山は「寒山子詩」と呼ばれる多数の詩をのこしている。寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の再来と呼ばれることがあり、また、師の豊干禅師を釈迦如来に見立て、あわせて「三聖」あるいは「三隠」と称する。寒山子詩を中心に3者の詩を集めたものに「三隠詩集」がある。

    文学や美術にあらわれた寒山拾得

    宋代以後、彼らの生き方に憧れる禅僧文人によって格好の画題とされてきた。

    中国の画家では、梁楷MOA美術館蔵)、伝・顔輝東京国立博物館蔵)、因陀羅(東京国立博物館蔵)などの作品が知られ、日本の画家では、可翁相国寺竜光院蔵)、伝・周文(東京国立博物館蔵)、明兆東福寺蔵)、霊彩MIHO MUSEUM蔵)、曾我蕭白(興聖寺蔵)、松谿徳川美術館蔵)、長沢蘆雪鳥取県立博物館蔵)、海北友松妙心寺蔵)、狩野山雪(真正極楽寺蔵)、池大雅京都国立博物館蔵)、富岡鉄斎武者小路実篤記念館蔵)などの作品が名高い。いずれも、台州刺史閭丘胤の「序」から発想したもので、寒山・拾得ともに有髪の人物として描かれている。

    寒山拾得の故事は、森鴎外小説寒山拾得』や坪内逍遙作の舞踊劇(長唄)『寒山拾得』などでも知られている。また、良寛は『寒山拾得に題する賛』という詩を詠んでいる。

    拾得寺

    寒山寺には、拾得がその後、日本に渡ってを説いたという伝承が残っている。『人民中国』日本語ウェブページでは、日本には「拾得寺」という寺院があるとも記している。

    楓橋夜泊

    寒山寺は、中唐の詩人で政治家でもあった張継七言絶句「楓橋夜泊」によって広く知られている。この詩は都落ちした旅人が、蘇州西郊の楓江にかけられた楓橋の辺りで船中に泊まった際、旅愁のために眠れぬまま寒山寺の鐘の音を聞いたという様子を詠ったものである。

    月落烏啼霜満天、  月(つき)落(お)ち烏(からす)啼(な)きて霜(しも)天(てん)に満(み)つ

    江楓漁火対愁眠。  江楓(こうふう)漁火(ぎょか)愁眠(しゅうみん)に対(たい)す

    姑蘇城外寒山寺、  姑蘇(こそ)城外(じょうがい)の寒山寺(かんざんじ)

    夜半鐘聲到客船。  夜半(やはん)の鐘声(しょうせい)客船(かくせん)に到(いた)る

    日本吟詠(詩吟)
    ①蘇州の水郷風景
    ②楓橋畔の張継の像 
      
    (意味)

    月は西に落ちて闇のなかにカラスの鳴く声が聞こえ、厳しい霜の気配は天いっぱいに満ちている[5]

    運河沿いに繁る楓と点々と灯る川のいさり火の光が、旅の愁いの浅い眠りにチラチラかすめる。

    そのとき姑蘇[6]の町はずれの寒山寺から、

    夜半を知らせる鐘の音が、私の乗る船にまで聞こえてきた。

    日本でよく読まれた漢詩の選集には『唐詩選』と『三体詩』があったが、「楓橋夜泊」はその両方に収載される数少ない詩のひとつであったことから、中国人はもとより、日本人にも古くから馴染み深い詩となっている。この詩がひろく人びとから愛好されるようになってから、歴代の詩人が次々に寒山寺を訪れて続作を詩に詠んでいる。

    欧陽修による批評

    宋の欧陽修が「句は秀逸であるが、夜中とは鐘を打つ時ではない」と評したため、「夜半鐘聲」をめぐって様々な議論が出た。しかし、その後、于鵠白居易の詩のなかに「半夜鐘」の語がみえるなど、夜中に鐘が鳴ると詠じた唐詩の例がたくさんあるとの反論が出た。唐代には夜中に時刻を知らせる鐘を鳴らすことがあり、宋代にはそうした習慣は消えたようである。

    詩碑

    寒山寺には、明代に「三絶」と呼ばれた蘇州の文人文徴明の筆になる「楓橋夜泊」の詩を刻んだ石碑があり、明・清代の人びとはその拓本を購買したが、長い年月のため損耗してきたので清末の光緒年間に学者??zh:????))が彫りなおした。境内には??の翻刻碑がある。その他、境内のいたる処に詩碑があり、なかでも「寒山寺碑廊」には多くの拓本が並ぶ。文物としては、「碑廊」と称する特別の部屋に置かれた歴代の石碑の価値が高く、文微明や??、劉海栗らの碑がある。拓本は寒山寺参詣の土産として人気が高い。なお、寺域外であるが、鉄鈴関(後述)のそばに「楓橋詩碑廊」があり、これはおもに現代の書家によるものである。

    楓橋

       
    楓橋に停泊する船(右側の建物は鉄鈴関)

    楓橋は、現在も寒山寺の北100メートルのところにかけられた石造の太鼓橋である。もと「封橋」と書いたが、張継の詩が有名になったので「楓橋」に改められたといい、自動車での通行は不可能である。今でも景勝地として知られており、また楓江と京杭大運河とが交わる交通の要衝でもある。現在、周辺は「楓橋風景名勝区」として整備が進んでいる。

    楓橋はまた、明代初期の蘇州出身の詩人で「呉中四傑」の一人でもある高啓(高青邱)が、かれの友人で蘇州の知事でもあった魏観に裏切られて蘇州の城内で捕縛され、そののち洪武6年(1373年)に、死を覚悟しての北行に際して「絶命詩」を詠んだ地としても知られる。

    高啓は、魏観のために書いた文章が禍し、猜疑心の強い太祖洪武帝(朱元璋)によって、この詩を詠んだ翌洪武7年(1374年)に南京で腰斬の刑を受けた。39歳であった。

    楓橋北望草斑斑。  楓橋(ふうきょう) 北望(ほくぼう)すれば草(くさ)斑斑(はんぱん)たり

    十去行人九不還。  十去(じっきょ)の行人(こうじん) 九(きゅう)還(かえ)らず

    自知清徹原無愧。  自(みずか)ら知(し)る清徹(せいてつ) もとより愧(はばか)る無(な)し

    蓋倩長江鑑此心。  むしろ長江(ちょうこう)を倩(やと)うて この心(こころ)を鑑(かんがみ)るべし

    寒山寺五古

      
    ①釈迦如来像(大雄宝殿) ②大雄宝殿の前庭のようす? ③普明宝塔

    「寒山寺五古」とは、寒山寺にまつわる5つの古いものという意味で、

    1. 古寺(寒山寺)
    2. 古橋(楓橋、江村橋)
    3. 古関(鉄鈴関)
    4. 古鎮(楓橋古鎮)
    5. 古運河(京杭大運河)

    を指している。

    古寺(寒山寺)

    照壁
    西のややオレンジがかった黄色い照壁が境内への入口となっている。門前には「江蘇省文物保護単位」の標識碑がある。
    大雄宝殿・羅漢堂
    境内中央には、本堂にあたる大雄宝殿があり、仏事はここでおこなわれる。クスノキの一刀彫りで金色に彩色された釈迦牟尼仏阿難迦葉の像があり、脇には十八羅漢が並んでいる。羅漢堂の向かい側には、鐘房と碑廊があり、数多くの鐘や古い詩碑が保管されている。
    大雄宝殿の前庭には香炉が置かれており、常に参詣客の線香が絶えない。
    なお、大雄宝殿の外には、唐代に建てられたという「釈迦牟尼説法図」の石碑がある。
    鐘楼
    大雄宝殿の南東側には、屋根の大きく反り返った2階建ての鐘楼があり、観光客はそこで鐘を撞くことができる。鐘楼の前には「聴鐘石」と刻された自然石が置かれており、記念写真の撮影スポットとなっている。
    寒拾殿
    境内東側にあり、金色に彩色された寒山と拾得の像が安置されている。
    普明宝塔
    境内東端、最奥に所在する普明宝塔は、1995年12月に建てられた高さ52メートルの木造の塔で、唐の楼閣式仏塔を模したものである。

    古橋(楓橋、江村橋)

    江村橋は、寒山寺南門付近に架かる橋で、多くの参詣客にとっては参道にあたる。この橋と上述の楓橋を合わせ「江楓古橋」と呼んでいる。ともに歴史は唐代にさかのぼるが、現今の橋はいずれも清の同治年間に修造されたものである。

    古関(鉄鈴関)

    鉄鈴関は、楓橋畔に築かれたで、創建は明の嘉靖年間である。蘇州には他にも強固な関があったとされるが、こんにちではいずれも失われ、現存するのは鉄鈴関のみである。

    古鎮(楓橋古鎮)

    京杭大運河の風景(蘇州)

    楓橋古鎮とは、楓橋大街から寒山寺弄の2条の通りに面した古い街並みのことである。こんにちでは、観光地として整備され、かえって古い街並みは失われている。

    古運河(京杭大運河)

    詳細は「大運河」を参照

    北京市通州区から浙江省杭州市までの約1,800キロメートルを流れる運河であり、春秋戦国時代に呉王夫差が建設に着手し、煬帝が本格的な工事を進めて610年に完成した。かつては、政治の中心地華北経済の先進地江南、さらに軍事の拠点?郡(幽州、いまの北京)とを結ぶ中国物流の大動脈であった。蘇州からは、南東へ杭州、西は楊州を経て洛陽へと通じている。

    寒山寺の鐘

    張継の詩に詠まれた寒山寺の鐘は、唐代に鋳造されたものと考えられるが、失われて久しかった。

    明代の嘉靖年間に、本寂禅師によって2代目の鐘が鋳造され、鐘楼も建てられたが、この鐘も16世紀末葉から17世紀前半にかけて失われてしまった。

    従前より寒山寺では2つの鐘が用いられていた。ともに最後に寒山寺が再建された、約100年前の朝末期のものである。ひとつは1906年に中国で製造された大きい鐘であり、もうひとつは、同じ頃に日本で鋳造されたものである。初代内閣総理大臣伊藤博文による以下のような銘文が鋳されている。

    姑蘇寒山寺、歴劫年久、唐時鐘声、空於張継詩中伝耳。嘗聞寺鐘転入我邦、今失所在、山田寒山捜索尽力、而遂不能得焉。乃将新鋳一鐘齋往懸之。  伊藤博文

    決して大きなものではないが、音色は清澄であると同時に荘厳さがあり、余韻が素晴らしいと言われていた。

      
    寒山寺の鐘楼(黄色い建物)と「聴鐘石」、奥の高い建物は宝塔

    原型となった唐朝時代の鐘は古い時期に日本に持ち去られたと信じている人(伊藤博文と康有為を含む)がおり、これについては、中国人韓国人の間で論争となったことがある[7]。実際、明治末年の当時から、鐘は倭寇が盗んで日本に持ち帰ったという話が現地にのこり、それに当惑した日本人も多かったようで、山田寒山という僧は、日本各地を訪ねて鐘を探したが見つからず、伊藤博文もまた、これを聞いて心配して部下に探させたが、やはり見つからなかったので、1905年、山田と伊藤が発起人となり、寄付を集めて梵鐘を鋳造することにしたものである。完成した鐘は唐風の銅鐘(青銅製乳頭鐘)で、1914年に寒山寺に寄贈された。この鐘は、現在、大雄宝殿の右側にある。

    鐘楼に懸けられている清の光緒32年(1906年)の大鐘は、当時の江蘇巡撫陳氏が寒山寺を修復した時に鋳造されたものであり、鐘の高さは1.3メートル、口径1.24メートル、重さ約2トンのものである。この鐘を撞くと、42秒間も響き続けるという。これが3代目の鐘とされる。

    4代目とされる鐘は、1986年に民豊鍋廠という工房で製作された鐘で、高さ2.25メートル、外周1.5メートル、重量2.5トン。梵鐘づくりの名工と呼ばれた李吉人が、北京に所在する大鐘寺の資料によって唐代の鐘を再現したものであった。

    2005年に寒山寺によって注文された5代目にあたる鐘は、武漢の工房で製造されて近年完成し、寒山寺に移送された。「古寒山寺」と大書され、法華経が鋳されており、特設された東屋のなかに安置されている。銅の純度が高く、重さ108トンにおよび、高さ8.5メートル、最大径5.2メートルの大型のものである。

    現在の寒山寺

    除夜の鐘

    寒山寺では、毎年大晦日には除夜の鐘が鳴らされることになっており、その鐘の音を聴くと10歳若返ると言われており、こんにちでは誰が撞き手の一番手となるかをせりにかける行事が恒例となっている。除夜の鐘を聞きながら新年を迎える行事は、1979年に藤尾昭が発起人となって始まった[8]。以後、12月31日には日本ばかりでなく、韓国をはじめとする各国の観光客や中国人も大勢参加するようになった。

    住所・アクセス

    • 蘇州市寒山寺弄24号
    • 蘇州駅より車で20分

    住職

    • 秋爽大師

    公開日・時間

    • 年中無休
    • 8:00-16:50
    • (夏期)7:00-18:00

    入観料

    • 20元(2007年現在)、鐘楼は別途5元

    脚注

    1. ^ 月落烏啼霜満天、江楓夜泊転凄然、兵戈破却寒山寺、複無鐘声到客船。(月落ち烏啼いて霜天に満ち、江楓夜泊うたた凄然。兵戈破却す 寒山寺、また鐘声の客船に到る無し。)
    2. ^ 作詞は西條八十、作曲は服部良一、歌は映画では李香蘭レコードでは霧島昇渡辺はま子であった。
    3. ^ 現代の浙江省台州市天台県。
    4. ^ 台州にある寺で天台宗総本山。日本の天台宗の開祖となった最澄が訪れて修学にはげんだ。かれの持ち帰った明州牒(浙江省寧波で発給された身分証明書)には「日本国求法僧の最澄、天台山に往きて巡礼せんと欲す」と記されている。円珍成尋ら天台宗の僧はもとより、栄西重源も天台山を訪れている。
    5. ^ 二十四節気のひとつに霜降がある。中国の伝統的な季節感のひとつに、冬が近づくにつれ、天空高くあった「霜の気」が降りてきて地上に接近して霜降を迎えるという考えがあった。
    6. ^ 春秋時代の古都。いまの蘇州。郊外の姑蘇山にちなむ地名である。呉王闔閭、その子夫差が山上に露台をもつ宮殿を築いて太湖の眺めを楽しんだといわれる。
    7. ^ 1人の韓国人留学生が伊藤博文銘のある鐘を「鬼子鐘」と呼んだことがきっかけとなった。一个?国留学生的怒吼
    8. ^ 中国では大晦日に除夜の鐘を撞く習慣はなく、時刻を知らせるために撞かれるのが通常であった。

    関連項目

    参考文献

    外部リンク