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竹取物語百科 (english)
KaguyaHime-TheMoonPrinces -(P1~P79)

竹取物語 竹取物語百科 (english)

 むかし、いつのころでありましたか、竹取たけとりのおきなといふひとがありました。ほんとうの讃岐さぬき造麻呂みやつこまろといふのでしたが、毎日まいにちのように野山のやま竹藪たけやぶにはひつて、たけつて、いろ/\のものつくり、それをあきなふことにしてゐましたので、ぞく竹取たけとりのおきなといふとほつてゐました。ある、いつものように竹藪たけやぶんでますと、一本いつぽんみようひかたけみきがありました。不思議ふしぎおもつて近寄ちかよつて、そっとつてると、そのつたつゝなかたか三寸さんずんばかりのうつくしいをんながゐました。いつも見慣みなれてゐるやぶたけなかにゐるひとですから、きっと、てんとしてあたへてくれたものであらうとかんがへて、そのうへせてかへり、つまのおばあさんにわたして、よくそだてるようにいひつけました。おばあさんもこのたいそううつくしいのをよろこんで、かごなかれて大切たいせつそだてました。
 このことがあつてからも、おきなはやはりたけつて、その/\をおくつてゐましたが、奇妙きみようなことには、おほくのたけるうちにふしふしとのあひだに、黄金おうごんがはひつてゐるたけつけることが度々たび/\ありました。それでおきないへ次第しだい裕福ゆうふくになりました。
 ところで、たけなかからは、そだかたがよかつたとえて、ずん/\おほきくなつて、三月みつきばかりたつうちに一人前いちにんまへひとになりました。そこで少女をとめにふさはしい髮飾かみかざりや衣裳いしようをさせましたが、大事だいじですから、いへおくにかこつてそとへはすこしもさずに、いよ/\こゝろれてやしなひました。おほきくなるにしたがつて少女をとめかほかたちはます/\うるはしくなり、とてもこの世界せかいにないくらゐなばかりか、いへなかすみからすみまでひかかゞやきました。おきなにはこのるのがなによりのくすりで、またなによりのなぐさみでした。そのあひだ相變あひかはらずたけつては、黄金おうごんれましたので、つひにはたいした身代しんだいになつて、家屋敷いへやしきおほきくかまへ、使つかひなどもたくさんいて、世間せけんからもうやまはれるようになりました。さて、これまでつい少女をとめをつけることをわすれてゐましたが、もうおほきくなつてのないのもへんだとづいて、いゝづけおやたのんでをつけてもらひました。その嫋竹なよたけ赫映姫かぐやひめといふのでした。そのころ習慣ならはしにしたがつて、三日みつかあひだ大宴會だいえんかいひらいて、近所きんじよひとたちや、そのほかおほくの男女なんによをよんでいはひました。
 このうつくしい少女をとめ評判ひようばんたかくなつたので、世間せけんをとこたちはつまもらひたい、またるだけでもておきたいとおもつて、いへちかくにて、すきのようなところからのぞかうとしましたが、どうしても姿すがたることが出來できません。せめていへひとつて、ものをいはうとしても、それさへつてくれぬ始末しまつで、人々ひと/″\はいよ/\んでさわぐのでした。そのうちで、よるひるもぶっとほしにいへそばはなれずに、どうにかして赫映姫かぐやひめつてこゝろざしせようとおも熱心家ねつしんか五人ごにんありました。みなくらゐたか身分みぶんたふとかたで、一人ひとり石造いしつくりの皇子みこ一人ひとり車持くらもちの皇子みこ一人ひとり右大臣うだいじん阿倍御主人あべのみうし一人ひとり大納言だいなごん大伴御行おほとものみゆき一人ひとり中納言ちゆうなごん石上麻呂いそのかみのまろでありました。このひとたちはおもひ/\にだてをめぐらしてひめれようとしましたが、たれ成功せいこうしませんでした。おきなもあまりのことにおもつて、あるときひめむかつて、
「たゞのひとでないとはいひながら、今日けふまでやしなそだてたわしをおやおもつて、わしのいふことをきいてもらひたい」
 と、前置まへおきして、
「わしは七十しちじゆうさかして、もういついのちをはるかわからぬ。いまのうちによい婿むこをとつて、心殘こゝろのこりのないようにしてきたい。ひめいつしよう懸命けんめいおもつてゐるかたがこんなにたくさんあるのだから、このうちからこゝろにかなつたひとえらんではどうだらう」
 と、いひますと、ひめ案外あんがいかほをしてこたしぶつてゐましたが、おもつて、
わたしおもひどほりのふかこゝろざしせたかたでなくては、をつとさだめることは出來できません。それはたいしてむづかしいことでもありません。五人ごにん方々かた/″\わたししいとおももの註文ちゆうもんして、それを間違まちがひなくつてくださるかたにおつかへすることにいたしませう」
 と、いひました。おきなすこ安心あんしんして、れい五人ごにんひとたちのあつまつてゐるところにつて、そのことをげますと、みな異存いぞんのあらうはずがありませんから、すぐに承知しようちしました。ところがひめ註文ちゆうもんといふのはなか/\むづかしいことでした。それは五人ごにんとも別々べつ/\で、石造皇子いしつくりのみこには天竺てんじくにあるほとけ御石みいしはち車持皇子くらもちのみこには東海とうかい蓬莱山ほうらいさんにあるぎんきんくき白玉しらたまをもつたえだ一本いつぽん阿倍あべ右大臣うだいじんには唐土もろこしにある火鼠ひねずみ皮衣かはごろも大伴おほとも[#ルビの「おほとも」は底本では「おもとも」]大納言だいなごんにはたつくびについてゐる五色ごしきたま石上いそのかみ中納言ちゆうなごんにはつばめのもつてゐる子安貝こやすがひひとつといふのであります。そこでおきなはいひました。
「それはなか/\の難題なんだいだ。そんなことはまをされない」
 しかし、ひめは、
「たいしてむづかしいことではありません」と、いひつて平氣へいきでをります。おきな仕方しかたなしにひめ註文ちゆうもんどほりをつたへますと、みなあきれかへつていへりました。
 それでも、どうにかして赫映姫かぐやひめ自分じぶんつまにしようと覺悟かくごした五人ごにんは、それ/″\いろいろの工夫くふうをして註文ちゆうもんしなつけようとしました。
 第一番だいいちばんに、石造皇子いしつくりのみこずるいほうさいのあつたかたですから、註文ちゆうもんほとけ御石みいしはちりに天竺てんじくつたようにせかけて、三年さんねんばかりたつて、大和やまとくにのある山寺やまでら賓頭廬樣びんずるさままへいてあるいしはち眞黒まつくろすゝけたのを、もったいらしくにしきふくろれてひめのもとにさししました。ところが、立派りつぱひかりのあるはずのはち螢火ほたるびほどのひかりもないので、すぐに註文ちゆうもんちがひといつてねつけられてしまひました。
 第二番だいにばんに、車持皇子くらもちのみこは、蓬莱ほうらいたまえだりにくといひふらして船出ふなでをするにはしましたが、じつ三日目みつかめにこっそりとかへつて、かね/″\たくんでいたとほり、上手じようず玉職人たましよくにんおほせて、ひそかに註文ちゆうもんたまえだつくらせて、ひめのところにつてきました。おきなひめもその細工さいく立派りつぱなのにをどろいてゐますと、そこへうんわるく玉職人たましよくにん親方おやかたがやつてて、千日せんにちあまりも骨折ほねをつてつくつたのに、まだ細工賃さいくちんくださるといふ御沙汰ごさたがないと、苦情くじようみましたので、まやかしものといふことがわかつて、これもたちまかへされ、皇子みこ大恥おほはぢをかいてきさがりました。
 第三番だいさんばん阿倍あべ右大臣うだいじん財産家ざいさんかでしたから、あまりわるごすくはたくまず、ちょうど、そのとし日本につぽん唐船とうせんあつらへて火鼠ひねずみ皮衣かはごろもといふものつてるようにたのみました。やがて、その商人あきうどは、やう/\のことでもと天竺てんじくにあつたのをもとめたといふ手紙てがみへて、皮衣かはごろもらしいものをおくり、まへあづかつた代金だいきん不足ふそく請求せいきゆうしてました。大臣だいじんよろこんで品物しなものると、皮衣かはごろも紺青色こんじよういろのさきは黄金色おうごんしよくをしてゐます。これならばひめるにちがひない、きっと自分じぶんひめのお婿むこさんになれるだらうなどゝかんがへて、おほめかしにめかしんでかけました。ひめ一時いちじ本物ほんものかとおもつて内々ない/\心配しんぱいしましたが、けないはずだから、ためしてようといふので、をつけさせてると、ひとたまりもなくめら/\とけました。そこで右大臣うだいじんもすっかりてがはづれました。
 四番よばんめの大伴おほとも大納言だいなごんは、家來けらいどもをあつめて嚴命げんめいくだし、かならたつくびたまつていといつて、邸内やしきうちにあるきぬ綿わたぜにのありたけをして路用ろようにさせました。ところが家來けらいたちは主人しゆじんおろかなことをそしり、たまりにくふりをして、めい/\の勝手かつてほうかけたり、自分じぶんいへこもつたりしてゐました。右大臣うだいじんちかねて、自分じぶんでもとほうみして、たつつけ次第しだい矢先やさきにかけて射落いおとさうとおもつてゐるうちに、九州きゆうしうほうながされて、はげしい雷雨らいうたれ、そののち明石あかしはまかへされ、波風なみかぜまれて死人しにんのようになつて磯端いそばたたふれてゐました。やう/\のこと、くに役人やくにん世話せわ手輿てごしせられていへきました。そこへ家來けらいどもがけつけて、お見舞みまひをまをげると、大納言だいなごんすもゝのようにあかくなつたひらいて、
たつかみなりのようなものとえた。あれをころしでもしたら、このほういのちはあるまい。おまへたちはよくたつらずにた。ういやつどもぢや」
 とおほめになつて、うちに少々しよう/\のこつてゐたもの褒美ほうびらせました。もちろんひめ難題なんだいにはふるひ、「赫映姫かぐやひめおほがたりめ」とさけんで、またと近寄ちかよらうともしませんでした。
 五番ごばんめの石上いそのかみ中納言ちゆうなごんつばめ子安貝こやすがひるのに苦心くしんして、いろ/\とひと相談そうだんしてのち、ある下役したやくをとこすゝめにつくことにしました。そこで、自分じぶんかごつて、つなたかむねにひきあげさせて、つばめたまごむところをさぐるうちに、ふとひらたいものをつかみあてたので、うれしがつてかごおろ合圖あひずをしたところが、したにゐたひとつなをひきそこなつて、つながぷっつりとれて、うんわるくもしたにあつたかなへうへちてまはしました。みづませられてやうや正氣しようきになつたとき
こしいたむが子安貝こやすがひつたぞ。それてくれ」
 といひました。みながそれをると、子安貝こやすがひではなくてつばめ古糞ふるくそでありました。中納言ちゆうなごんはそれきりこしたず、氣病きやみもくははつてんでしまひました。五人ごにんのうちであまりものいりもしなかつたかはりに、智慧ちえのないざまをして、一番いちばんむごたのがこのひとです。
 そのうちに、赫映姫かぐやひめならぶものゝないほどうつくしいといふうはさを、ときみかどがおきになつて、一人ひとり女官じよかんに、
ひめ姿すがたがどのようであるかまゐれ」
 とおほせられました。その女官じよかんがさっそく竹取たけとりのおきないへ出向でむいて勅旨ちよくしべ、ぜひひめひたいといふと、おきなはかしこまつてそれをひめにとりつぎました。ところがひめは、
べつによい器量きりようでもありませぬから、お使つかひにふことは御免ごめんかうむります」
 とねて、どうすかしても、しかつてもはうとしませんので、女官じよかん面目めんぼくなさそうに宮中きゆうちゆうかへつてそのことをまをげました。みかどさらおきな御命令ごめいれいくだして、もしひめ宮仕みやづかへにさしすならば、おきなくらいをやらう。どうにかしてひめいて納得なつとくさせてくれ。おやで、そのくらゐのことの出來できぬはずはなからうとおほせられました。おきなはそのとほりをひめつたへて、ぜひともみかどのお言葉ことばしたがひ、自分じぶんたのみをかなへさせてくれといひますと、
「むりに宮仕みやづかへをしろとおほせられるならば、わたしえてしまひませう。あなたのおくらゐをおもらひになるのをて、わたしぬだけでございます」
 とひめこたへましたので、おきなはびっくりして、
くらゐいたゞいても、そなたになれてなんとしよう。しかし、宮仕みやづかへをしてもなねばならぬ道理どうりはあるまい」
 といつてなげきましたが、ひめはいよ/\しぶるばかりで、すこしもきいれる樣子ようすがありませんので、おきなのつけようがなくなつて、どうしても宮中きゆうちゆうにはあがらぬといふことをおこたへして、
自分じぶんいへうまれた子供こどもでもなく、むかしやまつけたのをやしなつただけのことでありますから、氣持きもちも世間せけん普通ふつうひととはちがつてをりますので、殘念ざんねんではございますが……」
 とおそつてまをへました。みかどはこれをきこされて、それならばおきないへにほどちか山邊やまべ御狩みかりの行幸みゆきをするふうにしてひめくからと、そのことをおきな承知しようちさせて、きめたひめいへにおなりになりました。すると、まばゆいようにかゞやをんながゐます。これこそ赫映姫かぐやひめちがひないとおぼしてお近寄ちかよりになると、そのをんなおくげてきます。そのそでをおとりになると、かほかくしましたが、はじめにちらと御覽ごらんになつて、いたよりも美人びじんおぼされて、
げてもゆるさぬ。宮中きゆうちゆうくぞ」
 とおほせられました。
わたしがこのくにうまれたものでありますならば、お宮仕みやづかへもいたしませうけれど、さうではございませんから、おれになることはかなひますまい」
 とひめまをげました。
「いや、そんなはずはない。どうあつてもれてく」
 かねて支度したくしてあつたお輿こしせようとなさると、ひめかたちかげのようにえてしまひました。みかどおどろかれて、
「それではもうれてはくまい。せめてもとかたちになつてせておくれ。それをかへることにするから」
 と、おほせられると、ひめはやがてもと姿すがたになりました。みかどいたかたがございませんから、そのはおかへりになりましたが、それからといふもの、いままで、ずいぶんうつくしいとおもつたひとなどもひめとはくらべものにならないとおぼすようになりました。それで、時々とき/″\お手がみやおうたをおおくりになると、それにはいち/\お返事へんじをさしげますので、やう/\おこゝろなぐさめておいでになりました。
 さうかうするうちに三年さんねんばかりたちました。そのとし春先はるさきから、赫映姫かぐやひめは、どうしたわけだか、つきのよいばんになると、そのつきながめてかなしむようになりました。それがだん/\つのつて、七月しちがつ十五夜じゆうごやなどにはいてばかりゐました。おきなたちが心配しんぱいして、つきることをめるようにとさとしましたけれども、
つきずにはゐられませぬ」
 といつて、やはりつき時分じぶんになると、わざ/\縁先えんさきなどへなげきます。おきなにはそれが不思議ふしぎでもあり、こゝろがゝりでもありますので、あるとき、そのわけをきますと、
いままでに、度々たび/\はなししようとおもひましたが、御心配ごしんぱいをかけるのもどうかとおもつて、けることが出來できませんでした。じつまをしますと、わたしはこのくに人間にんげんではありません。つきみやこものでございます。ある因縁いんねんがあつて、この世界せかいてゐるのですが、いまかへらねばならぬときになりました。この八月はちがつ十五夜じゆうごやむかへのひとたちがれば、おわかれしてわたし天上てんじようかへります。そのときはさぞおなげきになることであらうと、前々まへ/\からかなしんでゐたのでございます」
 ひめはさういつて、ひとしほりました。それをくと、おきな氣違きちがひのようにしました。
たけなかからひろつてこの年月としつき大事だいじそだてたわがを、だれむかへにようともわたすものではない。もしつてかれようものなら、わしこそんでしまひませう」
つきみやこ父母ちゝはゝすこしのあひだといつて、わたしをこのくにによこされたのですが、もうなが年月としつきがたちました。みのおやのこともわすれて、こゝのお二人ふたりしたしみましたので、わたしはおそばはなれてくのが、ほんとうにかなしうございます」
 二人ふたり大泣おほなきにきました。いへものどもゝ、かほかたちがうつくしいばかりでなく、上品じようひんこゝろだてのやさしいひめに、今更いまさらながのおわかれをするのがかなしくて、湯水ゆみづのどとほりませんでした。
 このことがみかどのおみゝたつしましたので、お使つかひをくだされてお見舞みまひがありました。おきな委細いさいをおはなしして、
「この八月はちがつ十五日じゆうごにちにはてんからむかへのものるとまをしてをりますが、そのときには人數にんずをおつかはしになつて、つきみやこ人々ひと/″\つかまへてくださいませ」
 と、く/\おねがひしました。お使つかひがかへつてそのとほりをまをげると、みかどおきな同情どうじようされて、いよ/\十五日じゆうごにちると高野たかの少將しようしようといふひと勅使ちよくしとして、武士ぶし二千人にせんにんつて竹取たけとりのおきないへをまもらせられました。さて、屋根やねうへ千人せんにんいへのまはりの土手どてうへ千人せんにんといふふう手分てわけして、てんからりて人々ひと/″\退しりぞけるはずであります。このほかいへつかはれてゐるもの大勢おほぜいぐすねいてつてゐます。いへうちをんなどもがばんをし、おばあさんは、ひめかゝへて土藏どぞうなかにはひり、おきな土藏どぞうめて戸口とぐちひかへてゐます。そのときひめはいひました。
「それほどになさつても、なんのやくにもちません。あのくにひとれば、どこのもみなひとりでにいて、たゝかはうとするひとたちもえしびれたようになつてちからません」
「いやなあに、むかへのひとがやつてたら、ひどいはせてかへしてやる」
 とおきなはりきみました。ひめも、年寄としよつた方々かた/″\老先おいさき見屆みとゞけずにわかれるのかとおもへば、おいとかかなしみとかのないあのくにかへるのも、一向いつこううれしくないといつてまたなげきます。
 そのうちによるもなかばになつたとおもふと、いへのあたりがにはかにあかるくなつて、滿月まんげつじつそうばいぐらゐのひかりで、人々ひと/″\毛孔けあなさへえるほどであります。そのときそらからくもつた人々ひと/″\りてて、地面じめんから五尺ごしやくばかりの空中くうちゆうに、ずらりとならびました。「それたっ」と、武士ぶしたちが得物えものをとつてむかはうとすると、だれもかれもものおそはれたようにたゝかもなくなり、ちからず、たゞ、ぼんやりとしてをぱち/\させてゐるばかりであります。そこへつき人々ひと/″\そらくるまひとつてました。そのなかからかしららしい一人ひとりおきなして、
なんぢおきなよ、そちはすこしばかりのいことをしたので、それをたすけるために片時かたときあひだひめくだして、たくさんの黄金おうごんまうけさせるようにしてやつたが、いまひめつみえたのでむかへにた。はやかへすがよい」
 とさけびます。おきなすこしぶつてゐると、それにはかまはずに、
「さあ/\ひめ、こんなきたないところにゐるものではありません」
 といつて、れいくるまをさしせると、不思議ふしぎにもかたとざした格子こうし土藏どぞう自然しぜんいて、ひめからだはする/\とました。おきなめようとあがくのをひめしづかにおさへて、形見かたみふみいておきなわたし、またみかどにさしげるべつ手紙てがみいて、それにつき人々ひと/″\つて不死ふしくすり一壺ひとつぼへて勅使ちよくしわたし、あま羽衣はごろもて、あのくるまつて、百人ひやくにんばかりの天人てんにんりまかれて、空高そらたかのぼつてきました。これを見送みおくつておきな夫婦ふうふはまたひとしきりこゑをあげてきましたが、なんのかひもありませんでした。
 一方いつぽう勅使ちよくし宮中きゆうちゆう參上さんじようして、その一部始終いちぶしじゆうまをげて、かの手紙てがみくすりをさしげました。みかどは、てん一番いちばんちかやま駿河するがくににあるときこして、使つかひの役人やくにんをそのやまのぼらせて、不死ふしくすりかしめられました。それからはこのやま不死ふしやまぶようになつて、そのくすりけむりはいまでもくもなかのぼるといふことであります。

引用文献



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竹取物語   english

百科事典
かぐや姫を籠に入れて育てる翁夫妻。17世紀末(江戸時代後期)、メトロポリタン美術館蔵。

竹取物語』(たけとりものがたり)は、平安時代初期に成立した日本物語。成立年、作者ともに未詳。

概要

主人公・かぐや姫と竹取の翁 (満谷国四郎筆、笠間日動美術館蔵)

竹取の翁(たけとりのおきな)によって光り輝くの中から見出され、翁夫婦に育てられた少女かぐや姫を巡る奇譚。

源氏物語』に「物語の出で来はじめの祖(おや)なる竹取の翁」とあるように、日本最古の物語といわれる。9世紀後半から10世紀前半頃に成立したとされ、かなによって書かれた最初期の物語の一つである。現代では『かぐや姫』というタイトルで、絵本・アニメ・映画など様々な形において受容されている。

題名

『竹取物語』は通称であり、平安時代から室町時代には次のように呼ばれていた[1]

古写本の外題では『竹取物語』の他に『竹とり』(久曾神甲本・流布本第1類)、『竹物語』(高松宮本・同第3類)、『竹取翁物語』(古活字十行甲本・同第3類 など)と呼ばれている[2]

成立

伝・後光厳天皇筆古筆切の1つ。「火鼠の皮衣」の一節が記されている。京都府毘沙門堂旧蔵(現在所在不明)

成立年は明らかになっていない。原本は現存せず、写本後光厳天皇の筆とされる室町時代初期(南北朝時代14世紀)の古筆切数葉が最古といわれ、完本では室町時代末期の元亀元年(1570年)の奥付を有する「里村紹巴本」、無奥書だが永禄天正頃とされる[注釈 1][3]吉田本」が発見されているものの、いずれも室町時代を遡るものではない。しかし、10世紀の『大和物語』、『うつほ物語』や11世紀の『栄花物語』、『狭衣物語』、また、『源氏物語』に「絵は巨勢相覧、手は紀貫之書けり」と言及されていることから、遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている。

またこの物語に関連あるものとしては、『丹後国風土記』、『万葉集[4]、『今昔物語集[5]などの文献、謡曲羽衣』、昔話『天人女房』、『絵姿女房』、『竹伐爺』、『鳥呑み爺』などが挙げられる。当時の竹取説話群を元に、とある人物が創作したものと考えられる。

作者についても不詳である。作者像として、当時の推定識字率から庶民は考えづらく、上流階級に属しており、貴族の情報が入手できる平安京近隣に居住し、物語に反体制的要素が認められることから、当時権力を握っていた藤原氏の係累ではなく、漢学漢語漢文訓読体の使用)・仏教民間伝承に精通し、仮名文字を操ることができ、和歌の才能もあり、貴重であった紙の入手も可能な人物で、性別は男性だったのではないかと推定されている。また、和歌の技法(掛詞縁語の多用、人名の使用)は六歌仙時代の傾向に近いことが指摘されている[6]

以上をふまえ、源順源融遍昭紀貫之紀長谷雄菅原道真[注釈 2]など数多くの説が提唱されている。

諸本

竹取物語の本文系統が本格的に研究の対象となったのは昭和に入ってからである。昭和5年(1930年)、初めて徳本正俊によって3系統に分類された[7]。昭和14年(1939年)に新井信之によって「古本系」「流布本系」の分類が示され[8]、そして昭和40年(1965年)に中田剛直がそれまでの研究を受けた上で示した、流布本を3類7種とする分類が現在最も一般的なものとなっている。古本系については、中田は2類2種、南波浩は後光厳院本を加えて3類4種に分類している[注釈 3][9]

流布本系

通行本系とも呼ばれる。現在最も広く流布している本文。

現在最も一般的な竹取物語の本文は、第3類第3種に属する古活字十行甲本を底本とするものである。

古本系

上賀茂神社三手文庫に伝わる、今井似閑宝永4年(1707年)に校合・書き入れを行なった元禄5年(1692年)刊本における奥書に、

ある古本を以て一校せしめ畢ぬ

互ニ見合セハ好本と成侍るへし

宝永四亥ノ八月 洛東隠士

とあることから名づけられた。流布本系と比較すると数多くの異文を有しており、より古態を残すとされる。

上記の他に、伝承筆者を阿仏尼とする古筆切の存在が藤井隆によって報告されている[注釈 17] [15]

なお、和歌の一部が鎌倉時代の『海道記』や『風葉和歌集』、室町時代の『塵荊抄』に、梗概としての本文が室町時代源氏物語梗概書である『源氏物語提要』や注釈書である『花鳥余情』(共に絵合巻についての記事)に、それぞれ引用されている。

古本系本文と流布本(通行本)系本文については、南波浩は『海道記』に引用された和歌二首が、一首が古本系からの引用であるのに対し、もう一首が流布本系と古本系を混用したものになっていることから、鎌倉時代中期頃には既に両系が並立していたとする[16]

古本系本文に対しては、「中世における改変本文の可能性が強い」(片桐洋一[17]「江戸時代の学者が『竹取物語』の不審部分を合理的に理解しようとしてテキストをいじくったもの」(保立道久[18]といった批判的な意見もあるが、中田剛直は『花鳥余情』の梗概本文は新井本に近い古本系の一本に近似すること、古型をもつと指摘される京大本や狩野文庫本などの『風葉和歌集』の竹取和歌が古本系であることから、「現存古本系統系の一本が、通行本系に先行せるものではないか」[19]とし、上原作和も「まさに「古本」と称する価値の本文を有するもの」[20]と述べるなど肯定的な意見もあり、意見が分かれている。

あらすじ

ここでは現在一般的に知られている話を紹介する。

今となっては昔のことであるが、竹を取り様々な用途に使い暮らしていた翁とその妻の嫗がいた。翁の名はさるき[注釈 18][21]のみやつこといった。

ある日、翁が竹林にでかけると、光り輝く竹があった。不思議に思って近寄ってみると、中から三[注釈 19](約 9 cm)程の可愛らしいことこの上ない女の子が出て来たので、自分たちの子供として育てることにした。

その後、竹の中に金を見つける日が続き、翁の夫婦は豊かになっていった。 翁が見つけた子供はどんどん大きくなり、三ヶ月ほどで妙齢の娘になったので、髪を結い上げる儀式を手配し、を着せた。この世のものとは思えない程の美しさで、家の中には暗い場が無く光に満ちている。翁は、心が悪く苦しいときも、この子を見れば消えた。

この子はとても大きくなったため、御室戸斎部(みむろどいんべ)[注釈 20]の秋田を呼んで名前をつけさせた。秋田は「なよ竹のかぐや姫」と名づけた。[注釈 21] このとき人を集めて詩歌や舞など色々な遊びを催し、三日に渡り盛大な祝宴をした。

幼子を見つける竹取の翁(土佐広通、土佐広澄・画)

世間の男は、その貴賤を問わず皆どうにかしてかぐや姫と結婚したいと、噂に聞いては恋い慕い思い悩んだ。その姿を覗き見ようと竹取の翁の家の周りをうろつく公達は後を絶たず、彼らは翁の家の垣根にも門にも、家の中にいる人でさえかぐや姫を容易に見られないのに、誰も彼もが夜も寝ず、闇夜に出でて穴をえぐり、覗き込むほど夢中になっていた。

そのような時から、女に求婚することを「よばひ」と言うようになった[注釈 22]

その内に、志の無い者は来なくなっていった。最後に残ったのは色好みといわれる五人の公達で、彼らは諦めず夜昼となく通ってきた。五人の公達は、石作皇子車(庫)持皇子右大臣阿倍御主人大納言大伴御行中納言石上麻呂といった。

これを見て翁がかぐや姫に「仏のように大切なわが子よ、変化の者[注釈 23]とはいえ翁も七十となり今日とも明日とも知れない。この世の男女は結婚するもので、あなたも結婚のないままいらっしゃるわけにはいかない」と言うとかぐや姫は、良くもない容姿で相手の深い心も知らずに結婚して、浮気でもされたら後悔するに違いないとし、「世の畏れ多い方々であっても、深い志を知らないままに結婚できません。ほんのちょっとしたことです。『私の言う物を持って来ることが出来た人にお仕えいたしましょう』と彼らに伝えてください」と言った。 夜になると例の五人が集まって、或る者は笛を吹き、或る者は和歌を詠い、或る者は唱歌し、或る者は口笛を吹き、扇を鳴らしたりしていた。翁は公達を集めてかぐや姫の意思を伝えた。

その意思とは石作皇子には「仏の御石の鉢」、車持皇子には「蓬莱の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)」、右大臣阿倍御主人には「火鼠の裘(かわごろも、焼いても燃えない布)」、大納言大伴御行には「の首の珠」、中納言石上麻呂には「の産んだ子安貝」を持って来させるというものだった。どれも話にしか聞かない珍しい宝ばかりで、手に入れるのは困難だった。

石作皇子は大和国十市郡の山寺にあった只の鉢を持っていき嘘がばれたが、鉢を捨ててまた言い寄ったことから、思い嘆くことを「はぢを捨てる」[注釈 24]と言うようになった。

車持皇子は玉の枝の偽物をわざわざ作ったがその報酬を支払われていない職人たちがやってきて偽物と発覚、長い年月姿が見えなかったことから「たまさがなる」[注釈 25]と言うようになった。

阿倍はの商人から火鼠の皮衣を購入した。この衣は本来燃えぬはずであったが、姫が焼いてみると燃えたので贋作と分かり、阿倍に因んでやり遂げられないことを「あへなし」[注釈 26]と言うようになった。

大伴は船で探索するが嵐に遭い、更に重病にかかり両目は二つののようになり、世間の人々が「大伴の大納言は、龍の首の珠を取りなさったのか」「いや、御目に二つ李のような珠をつけていらっしゃる」「ああたべがたい」と言ったことから、理に合わないことを「あなたへがた」[注釈 27]と言うようになった。

石上は大炊寮大八洲という名の大釜が据えてある小屋の屋根に上って子安貝らしきものを掴んだが転落して腰を打ち、しかも掴んだのは燕の古い糞であり貝は無かったことから、期待外れのことを「かひなし」[注釈 28]と言うようになった。

その後、中納言が気弱になり病床にあることを聞いたかぐや姫が「まつかひもない」[注釈 29]と見舞いの歌を送ると中納言はかろうじて、かひはなくありけるものを[注釈 30]、と返歌を書き息絶えた。これを聞いてかぐや姫は少し気の毒に思ったことから、少し嬉しいことを「かひあり」(甲斐がある)と言うようになった。結局、かぐや姫が出した難題をこなした者は誰一人としていなかった。

そんな様子がにも伝わり、帝は姫に会いたがった。使いとして内侍中臣房子を派遣し、房子は嫗にかぐや姫と対面させるよう迫るが、再三の説得にも関わらず、ことごとく拒絶される。この事を帝に伝えると、帝は一旦は思いとどまったものの、やはり会いたくなり、翁を呼び出して「姫を差し出せば官位をやる」と告げる。喜ぶ翁の取りなしにもかかわらずかぐや姫は「帝がお召しになって仰られたとしても、畏れ多いとも思いません」と言い姿を見せようともしない。帝は「多くの人を殺してきた心であるよ」と言ったが、なおこの女の心積もりに負けてなるものかと諦めない。かぐや姫は「無理にお仕えさせようとなさるならば消え失せてしまうつもりです」と翁に言った。翁がこの事を帝に伝えると、帝は狩りに行幸するふりをして会うことを提案する。翁もそれに賛同した。

帝が狩りに行くついでに不意をつき、かぐや姫の家に入ると、光に満ちて清らかに坐っている人を見た。帝は初めて見たかぐや姫を類なく美しく思い、神輿を寄せて連れて行こうとしたが、姫は一瞬のうちに姿(実体)を影(光)と化した。 本当に地上の人間ではないと帝は思ったが、より一層すばらしい女だと思う気持ちが抑えがたい。帝は、魂をその場に留め置いている心地でかぐや姫を残して帰った。

日頃仕えている女官たちを見ると、かぐや姫の近くに寄っていられる人さえない。他の人より清く美しいと思っていた人は、あのかぐや姫に比べると人並でもない。かぐや姫ばかりが心にかかって、ただ一人で過ごしている。かぐや姫のもとにだけ、手紙を書いて文通している。

月へ帰って行くかぐや姫(同上)

帝と和歌を遣り取りするようになって三年の月日が経った頃、かぐや姫は月を見て物思いに耽るようになった。 八月の満月が近づくにつれ、かぐや姫は激しく泣くようになり、翁が問うと「自分はこの国の人ではなく月の都の人であって、十五日に帰らねばならない。ほんの少しの間ということであの国からやって来たが、この様にこの国で長い年月を経てしまった。[注釈 31]それでも自分の心のままにならず、お暇申し上げる」という。

それを帝が知り、翁の意を受けて、勇ましい軍勢を送ることとなった。 その十五日には、各役所に命じ勅使として中将高野大国を指名し、六衛府を合せて二千人を竹取の家に派遣する。 家に行って、築地の上に千人、建物の上に千人、家の使用人がとても多かったのと合わせて、空いている隙もなく守らせた。 嫗は、塗籠[注釈 32]の内でかぐや姫を抱きかかえている。翁も、塗籠の戸に錠を下ろして戸口にいる。

かぐや姫は「私を閉じ込めて、守り戦う準備をしていても、あの国の人に対して戦うことはできないのです。弓矢で射ることもできないでしょう。このように閉じ込めていても、あの国の人が来たら、みな開いてしまうでしょう。戦い合おうとしても、あの国の人が来たら、勇猛な心を奮う人も、まさかいないでしょう」という。

翁は迎えを、長い爪で眼を掴み潰そう、髪の毛を取って引き落とし、尻を引き出して役人たちに見せて恥をかかせてやろうと腹を立てている。 かぐや姫は「大声でおっしゃいますな。屋根の上にいる者どもが聞くと、大層よろしくない。お爺さま、お婆さまのこれまでのご愛情をわきまえもしないでお別れしようとすることが、残念でございます。両親に対するお世話を、僅かも致さずに、帰っていく道中も安らかにはなりますまい。あの都の人は、とても清らかで美しく、老いることもないのです。もの思いもありません。そのような所へ行くことも、嬉しいとも存じません」と言った。

そして子の刻(真夜中頃)、家の周りが昼の明るさよりも光った。大空から人が雲に乗って降りて来て、地面から五尺(約1.5メートル)くらい上った所に立ち並んでいる。 内外の人々の心は、得体が知れない存在に襲われるようで、戦い合おうという気もなかった。何とか心を奮って弓矢を構えようとしても、手に力も無くなって萎えてしまった。気丈な者が堪えて射ようとしたが矢はあらぬ方へ飛んでいき、ただ茫然とお互い見つめ合っている。 王と思われる人が「造麻呂、出て参れ」と言うと、猛々しかった造麻呂も、何か酔ったような心地になって、うつ伏せにひれ伏している。

王は「お前、幼き者[注釈 33]よ。少しばかり翁が善行を作ったから助けにと、僅かばかりの間ということで姫を下したところ、長い年月の間に多くの黄金を賜って、お前は生まれ変わったように金持ちになったのだ。かぐや姫は罪を御作りになったので、このように賤しいお前の元にしばらくいらっしゃったのだ。罪の期限は過ぎた。早くお出し申しあげよ」と翁に言うが、翁は従わない。

屋根の上に飛ぶ車を近づけて「さあ、かぐや姫。穢れた所(地上)にどうして長く居られるのでしょうか」と言うと、締め切っていた戸や格子が即座に開いていく。嫗が抱きかかえて座っていたかぐや姫は、外に出てしまう。

かぐや姫は、せめて天に上っていくのだけでもお見送りくださいと言うが翁は泣き伏してしまう。「御心が乱れてしまっている」と見かねたかぐや姫は「この先、恋しい折々に、取り出してご覧ください」と手紙を書き置いた。天人の中の者に持たせた箱があり、それには天の羽衣が、また別の箱には不死の薬が入っている。 一人の天人が姫に「穢い所の物を召し上がっていたのでご気分が悪いことでしょう」と言い薬を持って寄ったのでかぐや姫は僅かに嘗め、天の羽衣を着せようとしていた天人を制し、帝への手紙と歌を書いた。その歌には、

いまはとて 天の羽衣 着る時ぞ 君をあはれと おもひいでぬる[注釈 34]

と詠んだ。その手紙に、薬を添えて頭中将へ渡させた。 中将が受け取ると天人がさっと天の羽衣を着せたので、かぐや姫のこれまで翁を痛ましい、愛しいと思っていたことも消えてしまった。この羽衣を着た人は物思いがなくなってしまうのだったから、かぐや姫は車に乗って昇ってしまった。

帝は手紙を読みひどく深く悲しみ、何も食べず詩歌管弦もしなかった。 大臣や上達部を呼び「どの山が天に近いか」と尋ねると、ある人が駿河の国にあるという山だと言うのを聞き「会うことも無いので、こぼれ落ちる涙に浮かんでいるようなわが身にとって、不死の薬が何になろう」と詠み、かぐや姫からの不死の薬と手紙を、壺も添えて使者に渡し、つきの岩笠[注釈 35][22]という人を召して、それらを駿河国にある日本で一番高い山で焼くように命じた。

その由緒を謹んで受け、「士(つわもの)らを大勢連れて、不死薬を焼きに山へ登った」ことから、その山を「ふじの山」[注釈 36]と名づけた。 その煙は今も雲の中に立ち昇っていると言い伝えられている。

物語としての性格

『月宮迎』(月岡芳年『月百姿』)

この作品には、かぐや姫が竹の中から生まれたという竹中生誕説話(異常出生説話)、かぐやが3ヶ月で大きくなったという急成長説話、かぐや姫の神異によって竹取の翁が富み栄えたという致富長者説話、複数の求婚者へ難題を課していずれも失敗する求婚難題説話、帝の求婚を拒否する帝求婚説話、かぐや姫が月へ戻るという昇天説話(羽衣説話)、最後に富士山の地名由来を説き明かす地名起源説話など、非常に多様な要素が含まれているにもかかわらず、高い完成度を有していることから物語、または古代小説の最初期作品として評価されている[誰によって?]

大きく捉えれば、天人女房型説話が難題求婚譚を挟んだ形になっているが、これは単なる伝承の継ぎ接ぎではない。それら伝承を利用しつつ、「人間の姿そのものという新たな世界」を創り出そうとしたところに、物語文学の誕生があるからである。

竹中生誕説話において、竹は茎が空洞であることや成長の急激さにより神聖視され、説話の重要な構成要素の一つになっている。その特徴を顕著に示す話の一つが『竹取物語』であり同系列の昔話に『竹姫』、『竹の子童子』がある。竹中誕生譚は他の異常誕生譚に比べると事例が稀で、日本国内よりはむしろ中国東南アジアに多い。『継子と笛』も継子の霊が竹になり、それで作った笛を父親が吹くとが自分の消息を伝える。日本の昔話では竹中の精霊は人間界に留まれないものが多い。竹は神の依代であると同時に呪力を持つと考えられていた。七夕の竹を畑に立てての虫除け、耳病に火吹竹をあてる等の風習が地方にはあり、また聖人の杖が根づいたり、呪言とともに逆さにした竹が成長したという神聖視する心意の伝説も多い。竹は普段の生活に密着しており、その点でも説話の生成伝播を促した。

多くの要素を含んでいるため、他作品との類似性ないし他作品からの影響が指摘されている。『竹取物語』は、異界から来た主人公が貧しい人を富ませた後に再び異界へ去っていくという構造から成り立っており、構造的には羽衣伝説と同一である。

南波浩は、この物語の成立系統を次のように推定している[23]

伝承竹取説話
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(漢文竹取説話)?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
仮名書竹取物語
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今昔物語集
竹取説話
部分的改変
現存諸本

平安時代後期の『今昔物語集』にも竹取物語と同様の説話(巻31第33「竹取翁、見付けし女の児を養へる語」)が採集されているが、求婚者への難題は「空に鳴る雷」「優曇華」「打たぬに鳴る鼓」の3題のみで個人別ではなく、月へ帰る夜も十五夜でなく、富士山の地名由来譚も登場しないといった、『竹取物語』より簡略化された内容である。『今昔』所収の竹取説話は、(既に成立していた『竹取物語』を参照していた可能性はあるものの)口頭伝承されてきた「伝承竹取説話」の古態を伝えているのではないかとしている。

なお、後年の作家によって、本作は「世界最初のSF小説」と言及される事がある(藤川桂介著の「宇宙皇子」の後書きなど)。しかしながら実際には、古代ギリシアの作家ルキアノスの書いた『本当の話』と『イカロメニッパス』のほうが古い。

登場人物と時代

かぐや姫のモデル

『竹取物語』のかぐや姫のモデルとしては、『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている[注釈 37]大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がいる。『古事記』によるとこの兄弟は開化天皇丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。『日本書紀』には開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。

他に賀茂建角身命の子孫で馬岐耳乃命または伊志麻命の娘・賀具夜媛命などがあげられている。

イラン史研究者の孫崎紀子は、百済善光王や、675年正月に天武天皇に拝謁して以後、行方のわからないトカラ人サーサーン朝ペルシア人)の舎衞女ダラ女とする説を出している[24]

5人の貴公子のモデル[

竹取物語には壬申の乱で活躍した実在の人物が登場していることも本作品の特徴である。5人の貴公子のうち、阿倍御主人大伴御行石上麻呂は実在の人物である。

また、庫持皇子は藤原不比等とされ、不比等は天智天皇落胤との説があり、母の姓が「庫持」であるためといわれる。

石作皇子のモデルは多治比嶋(丹比真人島)と推定される。多治比嶋が宣化天皇の四世孫で、「石作」氏と同族だったためである。

時代設定

この5人はいずれも壬申の乱の功臣で天武天皇持統天皇に仕えた人物であることから、奈良時代初期が物語の舞台だったと考えられている。

また、この時期に富士山が噴気活動中の火山として描かれていることから、科学論文に成立などが引用されることがある古典のひとつである。

時代背景

江戸時代国文学者加納諸平は『竹取物語』中のかぐや姫に言い寄る5人の貴公子が、『公卿補任』の文武天皇5年(701年)に記されている公卿にそっくりだと指摘した。しかし物語中の4人の貴公子まではその実在の公卿4人を連想されるものの、5人のうち最も卑劣な人物として描かれる車持皇子は、最後のひとり藤原不比等がまるで似ていないことにも触れている。だが、これは反対であるがゆえに不比等本人ではないかと推測する見方もでき、表向きには言えないがゆえに、車持皇子を「卑怯である」と書くことによって陰に藤原氏への悪口を含ませ、藤原氏を批判しようとする作者の意図がその文章の背後に見えるとする意見もある[25]

由縁の地

日本各地に竹取物語由縁の地と名乗る地域があり、竹取物語(かぐや姫)をテーマにしたまちづくりを行っている。また以下の7市町(市町村コード順)では「かぐや姫サミット」という地域間交流が定期的に開催されているが、行政間での繋がりの交流であり直接「竹取物語の舞台」だということにこだわった「サミット」を行っているのではない。これら地域は、上記に記されたような地名起源説など無く竹林の関係や天女伝説地それに地名に「竹原」とある等の関係からで物語発祥にこだわった団体ではない。

木花咲耶姫を主祭神と祀る浅間神社の総本社・富士山本宮浅間大社
  • 静岡県富士市
    • 物語の結末で、富士の山(士に富む山)が登場することと、かぐや姫が月ではなく富士山に帰ったという富士市説から麓の富士市にある竹林を由来としている。また、竹取物語と類似の話が富士山本宮浅間大社富士宮市)の縁起として伝えられており、祭神の木花咲耶姫がかぐや姫のモデルだとする説もあるが、祭神を木花咲耶姫に擬するのは近世からともされる。
  • 京都府向日市竹の子の里であり孟宗竹が多い。孟宗竹は江戸時代からのものである。
  • 奈良県広陵町
    • 竹取の翁は「讃岐の造(さぬきのみやつこ)」と呼ばれていることから、竹取物語の舞台は大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷(現奈良県北葛城郡広陵町三吉)と考えられている。また、かぐや姫に求婚をした5人の貴族が住んでいたと想定される藤原京から十分通える距離であり、「竹取物語ゆかりの神社」と称する讃岐神社も鎮座している。
  • 奈良県高取町
    • 古代歴史の舞台である飛鳥や藤原京の南に位置する高取山は、中世には高取城がそびえたち、現在も立派な石垣が残っている。この高取山が、竹取の翁が住んでいた場所だという説がある。鎌倉時代に僧・仙覚が、江戸時代にも国学者・契沖が、「竹取」は「タカトリ」と読み、高取山が竹取説話の舞台であるという説を唱えている。

海外の類話とそれに関する諸説

中国神話との関連

中国神話嫦娥とその伝承がある。

アバ・チベット族「斑竹姑娘」との関連

竹取物語に似た日本国外の民間伝承としては、例えば中華人民共和国四川省アバ・チベット族に伝わる「斑竹姑娘」(はんちくこしょう)という物語[26]がある。内容は、竹の中から生まれた少女が、領主の息子たちから求婚を受けたが難題をつけて退け、かねてより想いを寄せていた男性と結ばれるという話だが、中でも求婚の部分は宝物の数、内容、男性側のやりとりや結末などが非常に酷似している。

伊藤清司(東洋史)[注釈 38]は、原説話が日本とアバ・チベット族に別個に伝播翻案され「竹取物語」と「斑竹姑娘」になったとした[27]。これに対し、益田勝実(日本古代文学)[注釈 39]は、『金玉鳳凰』収載の「斑竹姑娘」の改訂過程への疑問と翻案説に賛成しないとした[28]

近年の研究では、奥津春雄(国文学)[注釈 40]はむしろ「斑竹姑娘」の方が「竹取物語」の翻案であるとしている[29]

刊行本

原文・校注

本文
流布本系
古本系

現代語訳

解説書

注釈

  1. ^ 中田剛直阪倉篤義慶長頃の書写とするが、吉田によれば、「題簽朱地短冊に模様のある料紙が、三条西実隆公条などがその書写本に用いているものと同じであり、本文の書風から推しても、慶長まで下るものとは思われない」という。
  2. ^ 文章博士などを歴任し、仁和2年(886年)から仁和6年(890年)まで、竹取の翁の名・讃岐造と同じ讃岐国の讃岐守に遷任したことがあり、自身の出生も余呉羽衣伝説で語られる。
  3. ^ 久曾神昇田中登は、後光厳院筆断簡を古本とも流布本とも異なる別系統とする。
  4. ^ 伊賀守上原元純の書写本を、中院通勝安土桃山時代天正20年(1592年)に一度校正、文禄5年(1596年)に「松下民部少甫述久本」(第3類第2種の尊経閣本か)を以て重校した旨の奥付を有する。紹巴本の発見までは最古の写本と言われていた。国文学者武藤元信の旧蔵で、現在は天理大学附属天理図書館所蔵、重要文化財
  5. ^ 後述するように古本書入を有する。現在は國學院大學図書館蔵。
  6. ^ 高山市図書館ではなく高山市郷土館の方である。
  7. ^ 現在は國學院大學図書館蔵。
  8. ^ 武藤本の校正者でもある中院通勝慶長3年(1598年)以前に書写した本の転写本であるが、427項(誤写等を除いても205項)もの独自異文を有し、これは古本系と流布本系との異文数546項に匹敵する。中田は、異文に本文を簡略化する傾向が極めて多い点から、「絵巻の絵詞本文ではなかつたらうか」と指摘している。
  9. ^ 西洞院時慶の筆と見られており、中田は武藤本に校合されている「松下本」(時慶と知己であり、今川氏真の師であったといわれる上賀茂神社神官の松下述久蔵本か)と同一とする。
  10. ^ 巻第309・物語部3に収載。松平織部正乗尹蔵本に「古写本三本」(うち二本は滋岡本、内閣文庫本か)「活版本」「流布印本」(正保3年刊本)を校合した旨の識語を有する。
  11. ^ 紹巴による元亀元年(1570年)の奥書を持ち、書写年代が明らかな写本としては現在最古。中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」塙書房、1965年には未収載だが、pp.211を始めとする第3類第2種の分類基準に従う。
  12. ^ 現在国立歴史民俗博物館蔵。中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」塙書房、1965年には未収載だが、pp.211を始めとする第3類第2種の分類基準に従う。
  13. ^ 大阪天満宮の神職家。
  14. ^ 行数と刊行時期による分類で、十行甲本・乙本、十一行甲本・乙本・丙本・丁本がある。このうち十行甲本・十一行甲本は慶長の頃のもので、最も古いとされる。
  15. ^ 年代に関しては諸説あるが、小松茂美鎌倉時代末期(14世紀初期)、久曾神昇高田信敬は室町時代初期以前、片桐洋一は室町時代中期から後期としている。
  16. ^ 流布本系第1類第1種の平瀬本への書入本文のこと。
  17. ^ 「◯伝阿仏筆竹取物語切 竹取物語は、新井信之氏の紹介された伝後光厳院筆小六半切以外全く知られてゐなかつたが、京都のG書店で伝阿仏筆と云ふ、下絵のある六半切を最近売つたと聞いた。好事家に渡つたらしく、紹介される見込は少ないが注目すべきものと思はれ、公開が望まれる」と述べられているのみで、本文などの情報は一切不明である。
  18. ^ 武藤本(流1-1)・高山図書館本(流1-1)・武田本(流1-2)・島原本(流2)・蓬左文庫本(流3-1)・吉田本(流3-1)等に「さかき」。山岸本(流1-3)・群書類従本(流3-2)に「さぬき」。他流布本、並び古本に「さるき」。
  19. ^ この物語には「三」という数字が頻出する。
  20. ^ 室戸斎部とも。斎部氏は朝廷の祭祀を司る氏族。
  21. ^ なよ竹は「しなやかな竹」という意味で、ちらちらと揺れて光ることを「かがよう」という。
  22. ^ 「夜這い」の語は本来結婚を求める「呼ぶ」に由来する言葉とされている。ここでは「夜に這い回る」を語源とする新解釈を創作している。
  23. ^ 神仏が人の形をとって顕現した姿、または化物の類。
  24. ^ 「鉢を捨てる」と「恥を捨てる」。
  25. ^ 「玉(玉の枝)が悪い」と「魂(性質)が悪い」。
  26. ^ 「阿部なし」と「敢へなし」("敢えない"、張り合いがない)。
  27. ^ 「あな食べ難」(ああ食べにくい)と「あな堪へ難」(ああ耐え難い)。
  28. ^ 「貝無し」と「甲斐なし」。
  29. ^ 『年を経て浪たちよらぬ住吉のまつかひなしときくはまことか』。"幾年も経って浪が打ち寄せなくなった住吉の浜の「松」のように待っていたのに「貝がない」なら、「待つ」「甲斐がない」と聞くけれど、本当なの?"
  30. ^ 「かひはなく有りける物をわびはててしぬる命をすくひやはせぬ」。"かい(貝・甲斐)は無かったけれど、思い悩んで死んでいく命を、かい(匙)で掬うように、救ってはくれないのか"。
  31. ^ 人間界での長い年月は天人にとって僅かな時間に当たる。
  32. ^ 周囲を壁で塗り籠めた部屋。
  33. ^ 未熟者。天界と人界では時の感覚が異なり、翁といえど「幼き人」。あるいは単に「幼稚」(=愚かな)の意味か。
  34. ^ 最後だと、天の羽衣を着るまさにその時に、ふとあなたをしみじみと思い出してしまうものね。
  35. ^ 月世界への思いを表現する仕事に相応しい氏。新井本(古2)「いはかど」。その他流布本「いはかさ」。
  36. ^ 富士の山(士に富む山)」と「不死の山」。これは適当でないという説もある。
  37. ^ 「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもあるか。また、同音の「綴喜」には月読命を祀る樺井月神社月読神社を祀る式内社が鎮座する
  38. ^ 慶應義塾大学名誉教授で東洋史専門
  39. ^ 法政大学教授で古代文学専門
  40. ^ 徳島文理大学教授で国文学専門

参考文献

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  1. ^ 南波浩「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 5
  2. ^ 『竹取物語本文集成』王朝物語史研究会 編 勉誠出版 2008年9月、p. ⅴ
  3. ^ 吉田幸一「竹取物語 古写本三種」古典文庫、1973年 pp.. 254
  4. ^ 巻16第3791歌~第3793歌。
  5. ^ 巻31『本朝付雑事』第33「竹取翁、見付けし女の児を養へる語」
  6. ^ 上原作和安藤徹外山敦子編『かぐや姫と絵巻の世界 一冊で読む竹取物語 訳注付』武蔵野書院 pp.. 174
  7. ^ 「国語教育」15巻第10号、1930年5月
  8. ^ 新井信之「竹取物語の研究 本文篇」国書出版、1944年 pp.2
  9. ^ 南波浩「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 36-40
  10. ^ 中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」塙書房、1965年 pp.170-171
  11. ^ 中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」塙書房、1965年 pp.258
  12. ^ 小松茂美『古筆学大成』第23巻「物語・物語注釈」講談社、1992年6月 pp.363、高田信敬「竹取物語断簡新出二葉 ―(付)延べ書き「富士山記」―」『国文学研究資料館紀要』第10号、1984年3月 pp.13-14
  13. ^ 古筆学研究所編「古筆学のあゆみ」八木書店、1995年 pp..119-120
  14. ^ 中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」塙書房、1965年 pp.135
  15. ^ 藤井隆「物語系古筆切について(補遺篇)」『名古屋大学国語国文学』第14号、1964年4月 pp.10
  16. ^ 南波浩「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 40
  17. ^ 片桐洋一「校訂付記」『新編日本古典文学全集 12 竹取物語、伊勢物語、大和物語、平中物語』小学館、1994年12月 pp.78
  18. ^ 『竹取物語』の「不審本文」ー文学史料の「編纂」: 保立道久の研究雑記、2010年8月
  19. ^ 中田剛直「竹取物語の研究 校異篇・解説篇」塙書房、1965年 pp.282
  20. ^ 絶望の言説-『竹取翁物語』の物語る世界と物語世界」、1998年9月
  21. ^ 南波浩「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 141
  22. ^ 上原作和安藤徹外山敦子編『かぐや姫と絵巻の世界 一冊で読む竹取物語 訳注付』武蔵野書院 pp.. 105
  23. ^ 南波浩「日本古典全書 『竹取物語・伊勢物語』」朝日新聞社、1960年 pp.. 17
  24. ^ [1]孫崎紀子「『竹取物語』のかぐや姫はイラン人だった」,現代ビジネス、近藤大介「北京ランダム・ウォーカー 革命から33周年 過去10年で最高の危険水域に達しているイランの危機」2012年2月13日
  25. ^ 関裕二著『古代史謎解き紀行 I ヤマト編』ポプラ社、2006年
  26. ^ 田海燕編『金玉鳳凰』少年児童出版社、中華人民共和国・上海、1961年 に収載/邦訳:田海燕編・君島久子訳『チベットのものいう鳥』岩波書店、1977年
  27. ^ 伊藤清司『かぐや姫の誕生 ― 古代説話の起源』講談社、1973年
  28. ^ 益田勝実「「斑竹姑娘」の性格−『竹取物語』とのかかわりで」『法政大学文学部紀要』33、1987年
  29. ^ 奥津春雄『竹取物語の研究 - 達成と変容』翰林書房、2000年

関連文献

関連項目

外部リンク

テキスト・解説

写本・版本

古本系
流布本系

絵巻・奈良絵本

自治体関連


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The Tale of the Bamboo Cutter

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Discovery of Princess Kaguya

The Tale of the Bamboo Cutter (竹取物語, Taketori Monogatari) is a 10th-century Japanese monogatari (fictional prose narrative) containing Japanese folklore. It is considered the oldest extant Japanese prose narrative[1][2] although the oldest manuscript dates to 1592.[3]

The tale is also known as The Tale of Princess Kaguya (かぐや姫の物語, Kaguya-hime no Monogatari), after its protagonist.[4] It primarily details the life of a mysterious girl called Kaguya-hime, who was discovered as a baby inside the stalk of a glowing bamboo plant.

Narrative

Taketori no Okina takes Kaguya-hime to his home, Drawn by Tosa Hiromichi, c. 1600

One day, while walking in the bamboo forest, an old, childless bamboo cutter called Taketori no Okina (竹取翁, "the Old Man who Harvests Bamboo") came across a mysterious, shining stalk of bamboo. After cutting it open, he found inside it an infant the size of his thumb. He rejoiced to find such a beautiful girl and took her home. He and his wife raised her as their own child and named her Kaguya-hime (かぐや姫 accurately, Nayotake-no-Kaguya-hime "princess of flexible bamboos scattering light"). Thereafter, Taketori no Okina found that whenever he cut down a stalk of bamboo, inside would be a small nugget of gold. Soon he became rich. Kaguya-hime grew from a small baby into a woman of ordinary size and extraordinary beauty. At first, Taketori no Okina tried to keep her away from outsiders, but over time the news of her beauty spread.

Eventually, five princes came to Taketori no Okina's residence to ask for Kaguya-hime's hand in marriage. The princes eventually persuaded Taketori no Okina to tell a reluctant Kaguya-hime to choose from among them. Kaguya-hime concocted impossible tasks for the princes, agreeing to marry the one who managed to bring her his specified item. That night, Taketori no Okina told the five princes what each must bring. The first was told to bring her the stone begging bowl of the Buddha Gautama Shakyamuni from India, the second a jeweled branch from the mythical island of Hōrai,[5] the third the legendary robe of the fire-rat of China, the fourth a colored jewel from a dragon's neck, and the final prince a cowry shell born of swallows.

Realizing that it was an impossible task, the first prince returned with an expensive bowl, but after noticing that the bowl did not glow with holy light, Kaguya-hime saw through his deception. Likewise, two other princes attempted to deceive her with fakes, but also failed. The fourth gave up after encountering a storm, while the final prince lost his life (severely injured in some versions) in his attempt.

After this, the Emperor of Japan, Mikado, came to see the strangely beautiful Kaguya-hime and, upon falling in love, asked her to marry him. Although he was not subjected to the impossible trials that had thwarted the princes, Kaguya-hime rejected his request for marriage as well, telling him that she was not of his country and thus could not go to the palace with him. She stayed in contact with the Emperor, but continued to rebuff his requests and marriage proposals.

That summer, whenever Kaguya-hime saw the full moon, her eyes filled with tears. Though her adoptive parents worried greatly and questioned her, she was unable to tell them what was wrong. Her behaviour became increasingly erratic until she revealed that she was not of this world and must return to her people on the Moon. In some versions of this tale, it is said that she was sent to the Earth, where she would inevitably form material attachment, as a temporary punishment for some crime, while in others, she was sent to Earth for her own safety during a celestial war. The gold that Taketori no Okina had been finding had in fact been a stipend from the people of the Moon, sent down to pay for Kaguya-hime's upkeep.

Kaguya-hime goes back to the Moon

As the day of her return approached, the Emperor sent many guards around her house to protect her from the Moon people, but when an embassy of "Heavenly Beings" arrived at the door of Taketori no Okina's house, the guards were blinded by a strange light. Kaguya-hime announced that, though she loved her many friends on Earth, she must return with the Moon people to her true home. She wrote sad notes of apology to her parents and to the Emperor, then gave her parents her own robe as a memento. She then took a small taste of the elixir of life, attached it to her letter to the Emperor, and gave it to a guard officer. As she handed it to him, the feather robe was placed on her shoulders, and all of her sadness and compassion for the people of the Earth were forgotten. The heavenly entourage took Kaguya-hime back to Tsuki-no-Miyako (月の都; lit. "the Capital of the Moon"), leaving her earthly foster parents in tears.

The receding Princess

The parents became very sad and were soon put to bed sick. The officer returned to the Emperor with the items Kaguya-hime had given him as her last mortal act, and reported what had happened. The Emperor read her letter and was overcome with sadness. He asked his servants, "Which mountain is the closest place to Heaven?", to which one replied the Great Mountain of Suruga Province. The Emperor ordered his men to take the letter to the summit of the mountain and burn it, in the hope that his message would reach the distant princess. The men were also commanded to burn the elixir of immortality since the Emperor did not wish to live forever without being able to see her. The legend has it that the word immortality, 不死 (fushi), became the name of the mountain, Mount Fuji. It is also said that the kanji for the mountain, 富士山 (literally "Mountain Abounding with Warriors"), are derived from the Emperor's army ascending the slopes of the mountain to carry out his order. It is said that the smoke from the burning still rises to this day. (In the past, Mount Fuji was much more volcanically active.)

Literary connections

Elements of the tale were drawn from earlier stories. The protagonist Taketori no Okina, given by name, appears in the earlier poetry collection Man'yōshū (c. 759; poem# 3791). In it, he meets a group of women to whom he recites a poem. This indicates that there previously existed an image or tale revolving around a bamboo cutter and celestial or mystical women.[6][7]

A similar retelling of the tale appears in the c. 12th century Konjaku Monogatarishū (volume 31, chapter 33), although their relation is under debate.[8]

Banzhu Guniang[edit]

In 1957, Jinyu Fenghuang (金玉鳳凰), a Chinese book of Tibetan tales, was published.[9] In early 1970s, Japanese literary researchers became aware that "Banzhu Guniang" (班竹姑娘), one of the tales in the book, had certain similarities with The Tale of the Bamboo Cutter.[10][11] Initially, many researchers thought that "Banzhu Guniang" must be related to Tale of Bamboo Cutter, although some were skeptical.

In 1980s, studies showed that the relationship is not as simple as initially thought. Okutsu provides extensive review of the research, and notes that the book Jinyu Fenghuang was intended to be for children, and as such, the editor took some liberties in adapting the tales. No other compilation of Tibetan tales contains the story.[12]

A Tibet-born person wrote that he did not know the story.[13] A researcher went to Sichuan and found that, apart from those who had already read "Jinyu Fenghuang", local researchers in Chengdu did not know the story.[14] Tibetan informants in Ngawa Tibetan and Qiang Autonomous Prefecture did not know the story either.[14]

Adaptations

The 1975 Japanese TV series Manga Nihon Mukashi Banashi[15] (Cartoon Tales of Old Japan) contains a 10-minute adaption of the story, directed by Takao Kodama with animation by Masakazu Higuchi and art by Koji Abe.[16]

Kon Ichikawa made a film of the story in 1987 entitled Princess from the Moon. Composer Robert Moran saw it and composed an opera based on it, From the Towers of the Moon.[citation needed]

The tale was also featured in the 1989 film Big Bird in Japan, where Big Bird first is told the tale as folklore, and later realizes that his guide, named Kaguya, is the girl from the tale, but he is too late to see her return to the moon, and assumes that his imagination got away from him again.

In 1988, Japanese composer Maki Ishii asked Czech choreographer Jiří Kylián to produce a ballet for his musical work bearing the name Princess Kaguya. The product was a contemporary ballet named Kaguyahime the Moon Princess, where elements of Western and Japanese cultures combine.[citation neede]

Studio Ghibli released in November 2013 in Japan an anime film based on the folktale under the title of The Tale of the Princess Kaguya.[17]

Notes

  1. Jump up ^ "Japan: Literature", Windows on Asia, MSU ,
  2. Jump up ^ "17. A Picture Contest". The Tale of Genji. the ancestor of all romances )
  3. Jump up ^ Katagiri et al. 1994: 95.
  4. Jump up ^ Katagiri et al. 1994: 81.
  5. Jump up ^ McCullough, Helen Craig (1990). Classical Japanese Prose. Stanford University Press. pp. 30, 570. ISBN 0-8047-1960-8. 
  6. Jump up ^ Horiuchi (1997:345-346)
  7. Jump up ^ Satake (2003:14-18)
  8. Jump up ^ Yamada (1963:301-303)
  9. Jump up ^ 田海燕, ed. (1957). 金玉鳳凰 (in Chinese). Shanghai: 少年兒童出版社. 
  10. Jump up ^ 百田弥栄子 (1971). 竹取物語の成立に関する一考察. アジア・アフリカ語学院紀要 (in Japanese). 3. 
  11. Jump up ^ 伊藤清司 (1973). かぐや姫の誕生―古代説話の起源 (in Japanese). 講談社. 
  12. Jump up ^ 奥津 春雄 (2000). 竹取物語の研究 (in Japanese). 翰林書房. ISBN 4-87737-097-8. 
  13. Jump up ^ テンジン・タシ, ed. (2001). 東チベットの民話 (in Japanese). Translated by 梶濱 亮俊. SKK. 
  14. ^ Jump up to: a b 繁原 央 (2004). 日中説話の比較研究 (in Japanese). 汲古書院. ISBN 4-7629-3521-2. 
  15. Jump up ^ Manga Nihon Mukashi Banashi (TV '75), Anime news network. Retrieved 2014-10-04.
  16. Jump up ^ The Tale of Princess Kaguya, Pelleas. Retrieved 2014-10-04.
  17. Jump up ^ "Kaguya-hime monogatari" (in Japanese). JP. Retrieved December 29, 2014. 

References

External links


Kaguya

Kaguya, Kaguya-hime, or Princess Kaguya may refer to:

Fiction

Other