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『武士道 Bushido 』 -新渡戸稲造(Inazo Nitobé)-
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Bushido, the Soul of Japan by Inazo Nitobe [Book] [reading]

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Chapter00 (Prefaces 序文)、 Chapter01 (Bushido as an Ethical System 武士道とは)、 Chapter02 (Sources of Bushido 武士道の源)、 Chapter03 (Rectitude or Justice 「義」)、 Chapter04 (Courage, the Spirit of Daring and Bearing 「勇」)、 Chapter05 (Benevolence, the Feeling of Distress 「仁」)、 Chapter06 (Politeness 「礼」)、 Chapter07 (Veracity or Truthfulness 「誠」)、 Chapter08 (Honor 「名誉」)、 Chapter09 (The Duty of Loyalty 「忠義」)、 Chapter10 (Education and Training of a Samurai 武士は何を学びどう己を磨いたか)、 Chapter11 (Self-Control 人に勝ち己に勝つために)、 Chapter12 (The Institutions of Suicide and Redress 「切腹」)、 Chapter13 (The Sword, the Soul of the Samurai 「刀」)、 Chapter14 (The Training and Position of Woman 武士道が求めた女性の理想像)、 Chapter15 (The Influence of Bushido 「大和魂」)、 Chapter16 (Is Bushido Still Alive? 武士道は蘇るか)、 Chapter17 (The Future of Bushido 武士道から何を学ぶか)、 、 新渡戸稲造全集(目次)、 (写真)

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TOP 序文・概要 Chapter1 Chapter2 Chapter3 Chapter4 Chapter5 Chapter6 Chapter7 Chapter8 Chapter9
Chapter10 Chapter11 Chapter12 Chapter13 Chapter14 Chapter15 Chapter16 Chapter17 全集目次 写真 [修養] [自警録]

   

武士道 新渡戸稲造(全朗読) 第一章 、第二章 、第三章 、第四章

新渡戸稲造 生誕150年記念 第1弾「世界を結ぶ『志』~新渡戸稲造の生涯~」、 第2弾「未来につながる『道』~新渡戸稲造の武士道~」、 第3弾「すべてに根ざす『愛』~新渡戸稲造の苦悩~」、 「新渡戸稲造の名言」20話 、 新渡戸稲造の至極の名言集 【武士道】

日本の魂ー日本思想の解明ー 日本的思考の根源を見る。
”忠義”は追従ではない。”名誉”は求める心である。
(第三章 義-あるいは正義について)
サムライにとって、 卑怯な行動や不正な行動ほど恥ずべきものはない。
(第九章 忠義)
武士道は、われわれの良心を主君の奴隷となすべきことを要求しなかった
(第十章 武士の教育)
武士道は経済とは正反対のものである。それは貧しさを誇る。
(第十一章 克己)
心の奥底の思いや感情—特に宗教的なもの—を雄弁に述べ立てることは、日本人の間では、それは深遠でもなく、 誠実でもないことの疑いないしるしだと受け取られた。
(第十四章 女性の教育と地位)
妻がその夫、家庭そして家族のために身を捨てることは、男が主君と国のために身を捨てるのと同様、自発的かつみごとになされた。

新渡戸稲造(Inazo Nitobé) English   [Book] [reading] [朗読、Read]

                                       
  
武士道執筆後の著者
人物情報
生誕 新渡戸稲之助
1862年9月1日
陸奥国岩手郡盛岡
死没 1933年10月15日(満71歳没)
カナダの旗 カナダビクトリア
国籍 日本の旗 日本
出身校 札幌農学校
帝国大学退学
配偶者 メアリー・エルキントン(新渡戸万里子)
両親 父:新渡戸十次郎
子供 遠益
学問
研究分野 農学
主な業績 武士道』の執筆

武士道初版(各国)
  

第1巻[武士道]

第7巻[修養・自警録]
新渡戸稲造全集 全23巻+別巻2

ルビ付 [修養]

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本教育者・思想家。農業経済学・農学の研究も行っていた。

国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、長年読み続けられている。日本銀行券D五千円券の肖像としても知られる。東京女子大学初代学長。東京女子経済専門学校(東京文化短期大学・現:新渡戸文化短期大学)初代校長。

生涯

陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に、藩主南部利剛用人を務めた盛岡藩新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から稲之助は西洋への憧れを心に抱いたという。やがて作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入り、その傍ら新渡戸家の掛かり付けの医者から英語を習う。祖父は江戸で豪商として材木業で成功し、再び盛岡藩に戻り新渡戸家の家計を大いに助けた。

盛岡から上京

作人館を出て間もない頃、東京で洋服店を営んでいる叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、名を稲造と改めた。

東京に着くと、稲造は叔父の洋服店を訪ね、養子となって太田稲造と名のるようになった。まず英語学校で英語を学び、翌年には元盛岡藩主南部利恭が経営する「共慣義塾」という学校に入学して寄宿舎に入るが、授業があまりにも退屈なために抜け出すことが多かったという。この日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなっていった。それは、ある日の冬に自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず、「店の金を持ち出した」と疑われるほどであったという。それからというもの、稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。

13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の東京大学)に入学する。ここで稲造は佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、やがて農学の勉強に勤しむことを決意する。

札幌農学校へ

内村鑑三、宮部金吾と共に札幌農学校時代

札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。在学中、札幌丘珠事件が発生し、解剖担当者にあたったという。稲造は祖父[1]達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家)というあだ名を付けられた。

クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。この時にキリスト教に深い感銘を受け、のめり込んで行く。学校で喧嘩が発生した際、「キリストは争ってはならないと言った」と仲裁に入ったり、友人たちから議論の参加を呼びかけられても「そんな事より聖書を読みたまえ。聖書には真理が書かれている」と一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。

この頃から稲造は目を悪くし、眼鏡をかけるようになった。やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。数日後、病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。それは稲造にとってあまりにも大きすぎる悲しみであったがため、鬱病がさらに悪化してしまった。その後、母の死を知った内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。その後、洗礼を授けたハリスと横浜にて再会し、『サーター・リサータス』(Sartor Resartus)という一冊の本を譲り受ける。この本は稲造の鬱病を完全に克服し、やがては稲造の愛読書となったという。

学の道へ

谷崎潤一郎と新渡戸稲造

農学校卒業後、級友達とともに道庁に奉職し、畑の作物を食い散らすイナゴの大群を退治するためにあちらこちらの農村を駆け巡るが、学問を志して帝国大学(のち、東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし当時の農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学する。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会う。

その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク)より農業経済学の博士号を得る。この間、『女学雑誌』にドイツから女性の摂取すべき栄養や家政学についての寄稿を行っている(巌本善治は文中で新渡戸を「社友」と評している他、帰国後に新渡戸は巌本が主催する明治女学校で講演を行っており、その内容も『女学雑誌』に収められている)。帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職してカリフォルニア州で転地療養した。

この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。新渡戸の『武士道』は読み継がれ、21世紀に入っても解題書が出版され続けている[2]

台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平より1899年(明治32年)から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。赴任を請われた時、1日1時間の昼寝を赴任条件とした[3]。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した[4][5]

その後、1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、京都帝国大学より植民政策の論文で法学博士の学位もうけた。同年、牧野伸顕文相の意向で、日露戦争後の日本のリーダー育成にふさわしい人物として、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)。1911~1912年、日米交換教授の制度創設により、アメリカで日本理解の講義を行うため、渡米。帰国後、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。東京植民貿易語学校校長、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。その他、津田梅子津田塾に対しても顧問を務めており、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。

「郷土会」の発足

1909年(明治42年)、新渡戸の提唱で「郷土会」が発足した。自主的な制約のない立場から各地の郷土の制度、慣習、民間伝承などの事象を研究し調査することを主眼とした。メンバーには、柳田國男、草野俊介(理学博士)、尾佐竹猛(法学博士)、小野武夫(農学博士)、石黒忠篤牧口常三郎中山太郎(民俗学者)、前田多門らが加入していた。

国際連盟事務次長

1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長のひとりに選ばれた[6]。新渡戸は当時、東京帝国大学経済学部で植民政策を担当していたが辞職し、後任に矢内原忠雄が選ばれる。新渡戸らは国際連盟の規約に人種的差別撤廃提案をして過半数の支持を集めるも、議長を務めたアメリカのウィルソン大統領の意向により否決されている。事務次長としてバルト海オーランド諸島帰属問題などに尽力した。

エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラント作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。同年、オーランド諸島紛争を食い止めるという外交的成果も成し遂げている。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。

晩年

1928年(昭和3年)、札幌農学校の愛弟子であった森本厚吉が創立した東京女子経済専門学校(のち新渡戸文化短期大学)の初代校長に就任。1929年(昭和4年)、学監を務めた拓殖大学から名誉教授号を受ける。

札幌農学校時代の仲間と共にメリマン・ハリスの参り。1928年

1932年(昭和7年)、軍国主義思想が高まる中「わが国を滅ぼすものは共産党軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼、特に在郷軍人会や軍部に迎合していた新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。同年、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが、満洲国建国と時期が重なったこともあって「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。

1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加。会議終了後、当時国際港のあった西岸ビクトリアで倒れ、永眠する。

人物

新渡戸稲造と妻メアリー

キリスト教徒クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもある。その時のメンバーから矢内原忠雄高木八尺南原繁宇佐美毅前田多門藤井武塚本虎二河井道などの著名な教育者、政治家、聖書学者らを輩出した。

非常に交流の幅が広い人物であり、著作のひとつである『偉人群像』には、伊藤博文桂太郎乃木希典らなどとのエピソードも書かれている。

家族

妻メアリー・エルキントン

1891年(明治24年)にアメリカ人女性メアリー・エルキントン(Mary P. Elkinton 日本名:万里子)とフィラデルフィアで結婚している。二人の間には遠益(とおます)という長男が生まれたが生後8日で夭折している。養子に孝夫(よしお)がいる。

祖父の新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった南部盛岡藩の北部・三本木原(青森県十和田市付近)で灌漑用水路・稲生川の掘削事業を成功させ、稲造の父・十次郎はそれを補佐し産業開発も行った。傳は江戸で材木業を営み成功するといった才能もあった。この三本木原の総合開発事業は新渡戸家三代(稲造の祖父・傳、父・十次郎、長兄・七郎)に亘って行われ、十和田市発展の礎となっている。このように新渡戸家は稲造だけでなく傳を始めとした英才を輩出していたが、必ずしも恵まれた境遇ではなかった。稲造の曾祖父で兵法学者だった新渡戸維民(これたみ)は藩の方針に反対して僻地へ流され、祖父・傳も藩の重役への諌言癖から昇進が遅く、御用人にまでのぼりつめた父・十次郎もまた藩の財政立て直しに奔走したことが裏目に出て蟄居閉門となり、その失意のあまり病没している。

また、従弟に昆虫学者の新渡戸稲雄がいるが、31歳で早世している[7]

後世

生誕の地である盛岡市と、客死したビクトリア市は、新渡戸が縁となって現在姉妹都市となっている[8]

1984年(昭和59年)11月1日に発行された五千円紙幣D号券の肖像に採用された。

年譜

Bushido: The Soul of Japan (1900)

栄典

ゆかりの地

  • 新渡戸稲造没後50年を記念して、盛岡市下ノ橋町の生誕の地に、「新渡戸稲造生誕の地」の銅像が建立された。作者は朝倉文夫
  • 鎌倉稲村ケ崎にあった別荘跡地は、聖路加看護大学鎌倉セミナーハウス「アリスの家」になっている[11]

代表的な著書

※ その他、様々な出版社から発行されている。

脚注

  1. ^ 新渡戸伝(つとう、1793-1871)は、陸奥国三本木(青森県十和田市)の開拓者として有名(岡田俊裕『日本地理学人物事典[近世編]』原書房 2011年 107ページ)
  2. ^ 武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは』 李登輝 小学館、2003年
  3. ^ 鈴木満 『異国でこころを病んだとき』 弘文堂、2012年1月30日、211頁。ISBN 978-4-335-65152-6
  4. ^ 松隈俊子新渡戸稲造』 みすず書房、2010年12月20日(原著1969年)、204頁。ISBN 978-4-622-06226-4
  5. ^ 越澤明後藤新平――大震災と帝都復興』 筑摩書房〈ちくま新書〉、2011年11月7日、102-107頁。ISBN 978-4-480-06639-8
  6. ^ 組織の上で事務総長に次ぐ地位にあったのは Deputy Secretaries-general(総長代理)とUnder-Secretaries-General(事務次官)で、それぞれ複数任命されていた
  7. ^ 長谷川 仁(1967)「明治以降物故昆虫学関係者経歴資料集 : 日本の昆虫学を育てた人々」昆蟲 35(3号補遺), 1-"98-4"
  8. ^ 盛岡市ホームページ「ウェッブもりおか」のうち「盛岡市ガイド: 太平洋の架け橋に: カナダ・ビクトリア市と姉妹都市」。
  9. ^ 『官報』第6148号、「叙任及辞令」1903年12月28日。
  10. ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
  11. ^ 聖路加看護大学施設ガイド

参考文献

関連項目

外部リンク



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Nitobe Inazō

In this Japanese name, the family name is "Nitobe".
Nitobe Inazō
Born (1862-09-01)September 1, 1862
Morioka, Iwate, Japan
Died October 15, 1933(1933-10-15) (aged 71)
Victoria, British Columbia, Canada
Occupation agricultural economist, author, educator, diplomat, politician

Nitobe Inazō (新渡戸 稲造?, September 1, 1862 – October 15, 1933) was a Japanese agricultural economist, author, educator, diplomat, politician, and Christian during the pre-World War II period.

Early life

Nitobe was born in Morioka, Mutsu Province (present-day Iwate Prefecture). His father was a retainer to the local daimyō of the Nambu clan. His infant name was Inanosuke. Nitobe left Morioka for Tokyo in 1871 to become the heir to his uncle, Ota Tokitoshi, and adopted the name Ota Inazō. He later reverted to Nitobe when his brothers died.

Educational career

Nitobe was in the second class of the Sapporo Agricultural College (now Hokkaido University). He was converted to Christianity under the strong legacy left by Dr. William S. Clark, the first Vice-Principal of the College, who had taught in Sapporo for eight months before Nitobe's class arrived in the second year after the opening of the college; thus they never personally crossed paths. Nitobe's classmates who converted to Christianity at the same time included Uchimura Kanzō. Nitobe and his friends were baptized by an American Methodist Episcopal missionary Bishop M.C. Harris. Nitobe's decision to study agriculture was due to a hope expressed by Emperor Meiji that the Nitobe family would continue to advance the field of agricultural development (Nitobe's father developed former waste land in the north of the Nambu domain near present-day Towada, now part of Aomori Prefecture, into productive farmland).

In 1883, Nitobe entered Tokyo Imperial University for further studies in English literature and in economics. Disappointed by the level of research in Tokyo, he quit the university and sought study opportunities in the United States.

In 1884, Nitobe traveled to the United States where he stayed for three years, and studied economics and political science at Johns Hopkins University in Baltimore, Maryland. While in Baltimore he became a member of the Religious Society of Friends (Quakers).[1] It was through a Quaker community in Philadelphia that he met Mary Patterson Elkinton, whom he eventually married. He also influenced the establishment of the Friends School in Tokyo.

While at Johns Hopkins, he was granted an assistant professorship at his alma mater, the Sapporo Agricultural College, but was ordered to first obtain a doctorate in agricultural economics in Germany. He completed his degree after three years in Halle University and returned briefly to the United States to marry Mary Elkinton in Philadelphia before he assumed his teaching position in Sapporo in 1891. By the time he returned to Japan, he had published books in English and in German, and had received the first of his five doctorate degrees.

Nitobe continued his teaching tenure at Sapporo until 1897 as he took leave from the college. He spent three years writing first in Japan and later in California. One of the books he wrote during this period was Bushido: The Soul of Japan.

Meiji bureaucrat and educator

In 1901, Nitobe was appointed technical advisor to the Japanese colonial government in Taiwan, where he headed the Sugar Bureau.

Nitobe was appointed a full professor of law at the Kyoto Imperial University in 1904 and lectured on colonial studies. He became the Headmaster of the First Higher School (then the preparatory division for the Tokyo Imperial University) in 1906 and continued this position until he accepted the full-time professorship at the Law Faculty of Tokyo Imperial University in 1913. He taught agricultural economics and colonial studies and emphasized humanitarian aspect of colonial development and critical assessment of colonialism, and was cross-appointed the founding president of Tokyo Woman's Christian University (Tokyo Joshi Dai). His students at Tokyo Imperial University included Tadao Yanaihara, Shigeru Nanbara, Yasaka Takagi, and Tamon Maeda. (Yanaihara later continued Nitobe's chair in colonial studies at Tokyo University; but Yanaihara's pacifist views and emphasis on indigenous self-determination, which he partly inherited from Nitobe, came into a full conflict with Japan's wartime government during World War II, resulted in barring him from teaching until after the war).

Nitobe and Hamilton Wright Mabie in 1911 were the first exchange professors between Japan and the United States under the auspices of the Carnegie Endowment for International Peace.

After World War I, Nitobe joined other international and reform-minded Japanese in organizing the Japan Council of the Institute of Pacific Relations.[2]

Diplomat and statesman

When the League of Nations was established in 1920, Nitobe became one of the Under-Secretaries General of the League, and moved to Geneva, Switzerland. He became a founding director of the International Committee on Intellectual Cooperation (which later became UNESCO under the United Nations' mandate). His legacy in this period includes the settlement of territorial dispute between Sweden and Finland over the Swedish-speaking Åland Islands. In its resolution, the Islands remained under the Finnish control, but adopted complete disarmament (i.e., no military presence on the islands) and granted autonomy, averting a possible armed conflict (See also Åland crisis).

In August 1921, Nitobe took part in the 13th World Congress of Esperanto in Prague, as the official delegate of the League of Nations. His report to the General Assembly of the League was the first objective report on Esperanto by a high-ranking official representative of an intergovernmental organization.[3] Although the proposal for the League to accept Esperanto as their working language was accepted by ten delegates, the French delegate used his veto power to block the issue.[citation needed]

After his retirement from the League of Nations, Nitobe briefly served in the House of Peers in the Japanese Imperial Parliament; and he delivered a speech against militaristic prime minister Giichi Tanaka in the aftermath of the Huanggutun Incident (1928). He held critical views on increasing militarism in Japan in the early 1930s, and was devastated by Japan's withdrawal from the League of Nations in 1933 over the Manchurian Crisis and the Lytton Report.

In October 1933, Nitobe attended a conference in Banff, Alberta of the Institute of Pacific Relations, where the background and research papers from the Japanese delegation largely defended Japanese expansionist policies.[4] On his way home from the conference, Nitobe's pneumonia took a turn for the worse and was rushed to the Royal Jubilee Hospital in Victoria, British Columbia, Canada. Following an operation he died on October 15, 1933. Morioka, Nitobe's birthplace, and Victoria have been sister cities since 1985. Mary Elkinton Nitobe lived in Japan until her death in 1938. Mary compiled and edited many of Nitobe's unpublished manuscripts, including his memoirs of early childhood, and contributed greatly to the preservation of his writings.

Legacy

Title page of Bushido: The Soul of Japan (1900)

Nitobe was a prolific writer. He published many scholarly books as well as books for general readers (see below). He also contributed hundreds of articles to popular magazines and newspapers. Nitobe, however, is perhaps most famous in the west for his work Bushido: The Soul of Japan (1900), which was one of the first major works on samurai ethics and Japanese culture written originally in English for Western readers (The book was subsequently translated into Japanese and many other languages). Although sometimes criticized[who?] as portraying the samurai in terms so Western as to take away some of their actual meaning, this book nonetheless was a pioneering work of its kind.

The reception and impact of Bushido: The Soul of Japan were quite different in Japan and the West, however, with Japanese scholars such as Inoue Tetsujirō and Tsuda Sokichi criticizing or dismissing the book. It was not until the 1980s that Bushido: The Soul of Japan reached the height of its popularity in Japan, and is now the most widely available work on the subject of bushido. In the West, Bushido: The Soul of Japan has been a best-seller since the outbreak of the Russo-Japanese War of 1904-05, and has been translated into dozens of languages.[5]

Nitobe's writings are now available in Nitobe Inazo Zenshu (the Complete Works of Inazo Nitobe), a 25 volume set from Kyobunkan, 1969-2001. His English and other western language work are collected in the 5 volume Works of Inazo Nitobe, The University of Tokyo Press, 1972.

Major critical essays on Nitobe's life and thought were collected in John F. Howes, ed. Nitobe Inazo: Japan's Bridge Across the Pacific (Westview, 1995). Full biography in English is: George M. Oshiro, Internationalist in Pre-War Japan: Nitobe Inazo, 1862-1933 (UBC PhD. Thesis, 1986); and in Japanese by the same author: Nitobe Inazo, Kokusai-shugi no Kaitakusha (Chūō Daigaku Shuppanbu, 1992). The most detailed account of Nitobe's life after his tenure in the League of Nations, available in English, is: Nitobe Inazo, The Twilight Years, by Uchikawa Eiichiro (Kyobunkwan, 1985). Six (6) critical essays on Nitobe's legacy are included in Why Japan Matters!, vol.2, edited by Joseph F. Kess and Helen Lansdowne (University of Victoria, 2005), pp. 519–573, 655-663.

His portrait was featured on the Series D of ¥5000 banknote, printed from 1984 to 2004.

The Nitobe Memorial Garden at the University of British Columbia in Vancouver, Canada is named in his honour.

A Second Memorial Garden has been built at the Royal Jubilee Hospital in Victoria, British Columbia, Canada

Quotations

  • "What is important is to try to develop insights and wisdom rather than mere knowledge, respect someone's character rather than his learning, and nurture men of character rather than mere talents."
  • "If there is anything to do, there is certainly a best way to do it, and the best way is both the most economical and the most graceful."
  • "Did not Socrates, all the while he unflinchingly refused to concede one iota of loyalty to his daemon, obey with equal fidelity and equanimity the command of his earthly master, the State? His conscience he followed, alive; his country he served, dying. Alack the day when a state grows so powerful as to demand of its citizens the dictates of their consciences!"[6]

References

  1. Jump up ^ For a concise full biography of Nitobe in Quaker pamphlet, see Bridge across the Pacific : the life of Inazo Nitobe, Friend of justice and peace by Tadanobu Suzuki; Argenta, B.C. : Argenta Friends Press, 1994. (Canadian Quaker pamphlets ; 41) ISBN 0-920367-36-4.
  2. Jump up ^ Tomoko Akami, Internationalizing the Pacific: The United States, Japan, and the Institute of Pacific Relations in War and Peace, 1919-45 (London; New York: Routledge, 2002): 82-85
  3. Jump up ^ "Esperanto and the Language Question at the League of Nations"
  4. Jump up ^ Akami, Internationalizing the Pacific: 193-94.
  5. Jump up ^ Oleg Benesch. Inventing the Way of the Samurai: Nationalism, Internationalism, and Bushido in Modern Japan. Oxford: Oxford University Press, 2014. ISBN 0198706626, ISBN 9780198706625
  6. Jump up ^ Nitobe, Inazo (2006). Bushido: The Code of the Samurai. Sweetwater Press. pp. 127–128. ISBN 9781581736038. 

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