十七条憲法略解
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--十七という数字--
十七条という条数は、陰(偶数)の極数8と陽(奇数)の極数9をたしたもので陰陽思想の影響といわれれいます。この極数とは、当時の陰陽思想で、十を完全な数として数の頂点として考えます。しかし十は最上なため満ち足りると次は全てがなくなってしまうという考えから十よりは「九」を陽の最上の数(極数)、八を偶数の最上の数と考え、天の数として神聖視していました。
十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう、憲法十七条、十七条の憲法とも言う)とは
、『日本書紀』、『先代旧事本紀』に推古天皇12年(604年)4月3日に「夏四月 丙寅朔戊辰
皇太子親肇作憲法十七條」と記述されている17条からなる条文である。この皇太子は「豐聰爾皇子」(聖徳太子)。今日で言う憲法とは異なり、官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したものである。 儒教(例えば第1条の「以和爲貴」和ぐを以て貴しは、孔子の『論語』第1卷 学而第1「有子曰
禮之用和爲貴」礼をこれ用うるには、和を貴しとなす が引用元である)、仏教の思想が習合されており、法家、道教の影響も見られる。
十七条憲法は720年に成立した『日本書紀』に全文が引用されているものが初出であり、これを遡る原本も、写本も現存しない。
推古天皇12年(604年)に成立したというのは『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述を信じるほかはない。(『上宮聖徳法王帝説』によれば、少治田天皇御世乙丑年(605年)。『一心戒文』によれば602年。)
近代歴史学の誕生とともに、これには疑いも掛けられてきた。
津田左右吉は1930年の『日本上代史研究』において、十七条憲法に登場する「国司国造」という言葉や書かれている内容は推古朝当時の政治体制と合わず、後世すなわち『日本書紀』編纂ごろに作成されたものであろうとした。
坂本太郎は1979年の『聖徳太子』において、「国司」は推古朝当時に存在したと見てもよく、律令制以前であっても官制的なものはある程度存在したから、『日本書紀』の記述を肯定できるとした。
森博達は1999年の『日本書紀の謎を解く』において、十七条憲法の漢文の日本的特徴(和習)から7世紀とは考えられず、『日本書紀』編纂とともに創作されたものとした。
| 聖徳太子 | |
|---|---|
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| 時代 | 飛鳥時代 |
| 生誕 | 574年2月7日(敏達天皇3年1月1日) |
| 死没 | 622年4月8日(推古天皇30年2月22日) |
| 改名 | 上宮厩戸、厩戸皇子、厩戸皇太子、摂政太子 |
| 別名 | 厩戸皇子、厩戸王、上宮王、豊聡耳、 上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊耳聡聖 徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、 厩戸豊聰耳聖徳法王 |
| 諡号 | 聖徳太子 |
| 墓所 | 叡福寺北古墳 |
| 官位 | 摂政、皇太子 |
| 主君 | 用明天皇、崇峻天皇、推古天皇 |
| 氏族 | 皇族、上宮王家 |
| 父母 | 用明天皇、穴穂部間人皇女 |
| 兄弟 | 聖徳太子(厩戸皇子)、来目皇子、殖栗皇子 茨田皇子、田目皇子、麻呂子皇子 酸香手姫皇女 |
| 妻 | 菟道貝蛸皇女、刀自古郎女、橘大郎女、 膳大郎女 |
| 子 | 山背大兄王、財王、日置王、白髪部王 長谷王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王 片岡女王、手島女王、春米女王、 久波太女王、波止利女王、馬屋古女王 |
| 特記 事項 |
物部守屋討伐戦を元服と、また便宜上 天皇を主君とみなす。 |
聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代の皇族。政治家。用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。
推古天皇のもと、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行ない、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化、制度をとりいれて天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。また、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。
近年の歴史学研究においては、日本書紀等の聖徳太子像を虚構とする説を唱える研究者もいるが、批判も多く広くは支持されていない。→(詳細は#虚構説の節を参照)
本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。また母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が実母(小姉君)の実家で出産したため、つまり叔父・蘇我馬子の家で生まれたことから馬子屋敷が転じて厩戸(うまやど)と付けられたという説もあるが、現在のところ生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。
別名として豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれ、 『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、『万葉集』の巻三では上宮聖徳皇子と表記されるなど、様々な名で呼ばれた。
聖徳太子という名称は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。なお、顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている慶雲3年(706年)に作られた「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」と記されている[1]。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録[2]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載され、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期にはすでに諡として「聖徳太子」の名が広く用いられて一般的な呼称となったことが伺える。
現代において一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように「存命中に用いられていた名称ではない」という理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更された[3]。
聖徳太子の肖像画は過去に紙幣(日本銀行券)の絵柄として過去7回と最も多く使用されている。特に高度成長期に当たる1958年から1984年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用されていた。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。
敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。
幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は逝去した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子[4]となり、推古天皇元年(593年)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。
同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
推古天皇8年(600年)新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。[5]
推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。
推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。
推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法[6]を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている)。
推古天皇13年(605年)、斑鳩宮へ移り住んだ。
推古天皇15年(607年)、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書[7]を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。[8]
日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)[9]とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」[10]としている。
厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。
推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ。
推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。
以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。
なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている古事記や日本書紀の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている[11]。
「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は救世観音が胎内に入り、厩戸を身籠もった」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる[12]。 しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午(きのえうま)でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。
ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった[13]。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。
『上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。 また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。
一方「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。
なお一説には、豊臣秀吉の本姓である「豊臣」(とよとみ)はこの「豊聡耳」から付けられたと言われる。
『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代に、人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された『先代旧事本紀大成経』にある『未然本記』も未来記を模したものとみることができる。
「南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智の師の南嶽慧思の生まれ変わりであるとする。『四天王寺障子伝(=『七代記』)』、『上宮皇太子菩薩伝』、『聖徳太子伝暦』などに記述がある。
中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある[14]。
『聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。
『日本書紀』によると次のようなものである。
推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい。」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。
「斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮」
しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ
翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。
『万葉集』には上宮聖コ皇子作として次の歌がある。
上宮聖コ皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首
(小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古)
「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人[立心偏+可]怜」
家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ
また、『拾遺和歌集』には聖徳太子作として次の歌がある。[16]
しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし
後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている[17]。
ここでは、以下の寺院をいくつかとりあげる。
なお、日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる寺院が数多くあるが、必ずしも文献にはっきりと記されてはおらず、後世になって縁起で創作された寺院も多いと考えられている。
蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大阪市天王寺区)を建てた。なお、聖徳太子が佩刀していたとされる七星剣と丙子椒林剣が現在、四天王寺に保管されている。
四天王寺、法隆寺、中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)は『上宮聖徳法王帝説』や、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』によって聖徳太子が創建した七大寺と称されている。
聖徳太子は推古天皇から賜った播磨国揖保郡の地を「鵤荘」と名付け、伽藍を建立し、法隆寺に寄進をした。これが斑鳩寺の始まりと考えられている。斑鳩寺は創建から永らく法隆寺の別院(支院)であったが、焼失、再建の後に天台宗へ改宗した。ただ、現在も「お太子さん」と呼ばれて信仰を集めている。なお、俗に「聖徳太子の地球儀」と呼ばれる「地中石」という寺宝が伝わっている寺でもある。
聖徳太子ゆかりの寺院とされる叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺はそれぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、「河内三太子」と総称されている[18]。
詳細は「叡福寺#叡福寺北古墳」を参照
墓所は大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)。日本書紀には磯長陵とあるが、磯長墓と呼ばれることもある。穴穂部間人皇女と膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟。後世に定められたものとする説もある。
直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている[19][20]。
ここでは、以下の著作をいくつかとりあげる。ただ、聖徳太子の名を借りた(仮託)偽書も多い[21]ため注意が必要である。
関晃は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成, 遣隋使の派遣,天皇記 国記 以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」[22]。
田村圓澄は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」[23]。
内藤湖南は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」に記述された?王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と推定している[24]。
聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既にみえており、「聖徳太子信仰」が後世の人々により形作られていった。8世紀には、聖徳太子は「日本の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに、『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝が成立した[25]。
近代における実証的研究には久米邦武の『上宮太子実録』[26]がある。また、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者(狩谷鍵斎ら)に始まり、津田左右吉は1930年の『日本上代史研究』において十七条憲法を太子作ではないと主張した[27]。その結果、『日本上代史研究』ほか著書四冊は発禁となり、津田左右吉は早稲田大学を辞職している。
高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)は、聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった?古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。
1999年に吉川弘文館から出版された大山誠一(中部大学教授)の『「聖徳太子」の誕生』は大きな反響を呼んだ[28]。 大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。さらにこれら2つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しない、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり[29][30]、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。
大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。大山には『「聖徳太子」の誕生』に続く著作として『古代史の謎 知れば知るほど』(黛弘道(編)、実業之日本社、1997年)第三章「創られた太子信仰 聖徳太子はいなかった」及び『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001年)があり、『聖徳太子の真実』 (平凡社、2003年)は大山と賛同する研究者らの論を集大成した著作である。学術論文は『弘前大学國史研究』に発表されている[31]。
大山説は近年マスコミにも取り上げられ話題となった。『東アジアの古代文化』102号では特集が組まれ、102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房 2001年) にまとめられている。石田尚豊は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している[32]。『日本書紀』などの聖徳太子像には何らかの誇張が含まれるという点では、多くの研究者の意見は一致しているが[33]、聖徳太子像に潤色・脚色があるということから「非実在」を主張する大山説には批判的な意見が数多くあり、一部に賛同を表明する研究者もいる[34]。
大山説の概要「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧 道慈らである。十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作された。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。」[35][36]
仁藤敦史(国立歴史民俗博物館研究部教授)は次のように述べる。「「聖徳太子像」の変遷と実証的な研究動向を総括するならば、近年の「虚像」としての「聖徳太子」を否定する議論は、戦後においても十分払拭されていない『日本書紀』の拡大解釈にもとづく「偉大な宗教家・政治家」としての位置づけに対して根本的な批判を加えたものと考えられる。」「けれども、その史料批判の方法にも問題がないわけではない。すでに、奈良時代の前半には上宮太子を「聖徳」と称するのは死後に与える諡(おくりな)とする理解があり、さらに、慶雲3(706)年以前に「聖徳皇」と呼ばれていたとする金石文もある。加えて『古事記』には没後の名前と考えられる「豊聡耳」の称号、および「王」号ではなく後に即位した王子にのみ与えられる「命」表記を含む「上宮の厩戸豊聡耳命」の記載があり、遅くとも『日本書紀』成立以前の天武朝までには偉人化が開始されていたことは明らかとなる。このように『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認されるので、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると考えられる。推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題となる。(仁藤敦史 「聖徳太子は実在したのか」『中学校 歴史のしおり』 帝国書院 2005年 9月号)[37]。
遠山美都男は大山説について次のように述べる。「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみのことである。」「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だったのである。(遠山美都男『天皇と日本の起源』講談社 2003年)」
和田萃(京都教育大学名誉教授)は、聖徳太子が日本書紀の編纂段階で理想化されたことは多くの人が認めており、厩戸王と(脚色が加わった)聖徳太子を分けて考えるべきとする指摘は重要としながらも、そのことが「聖徳太子虚構説」や「蘇我王権説」につながるわけではないとする(日本経済新聞2004年1月10日)。
曽根正人(就実大学教授)は「後世に造形され、肥大化した聖徳太子がいなかったという点では大山説に反対しない。厩戸王の実像をどう考えるかでは見解が違う。歴史物語の研究によれば、全くのゼロから記事がつくられた例がない。素材となった記録・記事が何であるかは今後の課題だが、皆無とは考えにくい。」とする(毎日新聞東京夕刊2007年6月4日)。
聖徳太子虚構説に対する反論としては、遠山美都男 『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(2000年)、 直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)(2001年)、上原和『世界史上の聖徳太子 東洋の愛と智慧』(2002年)、田中英道『聖徳太子虚構説を排す』(2004年)、森田悌『推古朝と聖徳太子』(2005年)、曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』(2007年)などがある。
聖徳太子については『日本書紀(巻22推古紀)』、「十七条憲法」、『古事記』[38]、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、「天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文(=伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。)」、「法起寺塔露盤銘」、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたとする説があるものもあり、異説、反論もある。
日本書紀における聖徳太子像について、大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武天皇朝(697年〜707年)に文章博士の山田史御方(やまだのふひとみかた)がβ群の述作を開始したとする[39]。
十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者に始まる。また、津田左右吉は1930年の『日本上代史研究』において太子作ではないとしている。井上光貞、坂本太郎らは津田説に反論している[40]。また関晃は狩谷鍵斎、津田左右吉などの偽作説について、「その根拠はあまり有力とはいえない」とする[41]。一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている[42]。
「勝鬘経義疏」について藤枝晃は、敦煌より出土した「勝鬘義疏本義」と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたものであるとする[43]。「法華経義疏」巻頭の題箋(貼り紙)について、大山説は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(「是」、「非」など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。王勇(浙江工商大学日本文化研究所所長)は三経義疏について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、「法華経義疏」の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする[44]。また花山信勝は「法華経義疏」行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している[45]。
『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は『おそくとも大宝(701〜704)までは下らぬ時期に成立した』として、記紀成立よりも古い資料によるとしている[46]。
「天寿国繍帳」について大山説では天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繍帳の銘文に現れる干支が日本では持統4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている[47]。義江明子は天寿国繍帳の銘文を推古朝成立とみて良いとする[48]。石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。
法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする[49]。一方、志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする[50]。
大山説では道後湯岡碑銘文[51][52][53]は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264年〜1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11年〜正安3年頃(1274年〜1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は前掲二書に引用された伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)の官命で編纂された古風土記)の一部としている[54]。牧野謙次郎は「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、船首王の墓誌等がその最なるものである。」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は『續日本紀』に引く所にして、もと『伊豫風土記』に載せてあつた。」と述べている[55]。
慶雲3年(706年)に彫られたとされる「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では法起寺塔露盤銘は暦仁一年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記(古今目録抄〔法隆寺本〕)』にしか見出せないことなどから偽作とする。但し、全文の引用は無いものの、嘉禄三年(1227年)に四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている[56]。 また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではないと考える」と述べている[57]。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」とする[58]。
『播磨国風土記』(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社(おうしこじんじゃ)の「石の宝殿(石宝殿)」についての記述に、「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子[59]と考えられることから、『日本書紀』(養老4年、720年)が成立する以前に厩戸皇子が「聖徳王」と呼称されていたとする論がある。大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子(厩戸皇子)の諡号を聖徳王としたとある。
日本には聖徳太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。また、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもあり、親鸞が、太子信仰を有していたことは著名で、親鸞を観音の化身としたことが、既に妻・恵信尼の書状によって知られる。さらに親鸞は『正像末和讃』「皇太子聖徳奉讃」に11首、『皇太子聖徳奉讃』に75首、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』に114首、と和讃を著している。
その他、室町時代の終わり頃から、太子の忌日と言われる2月22日 (旧暦)を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間で講が行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった[60]。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。
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十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)とは、『日本書紀』、『先代旧事本紀』に推古天皇12年(604年)4月3日に「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」と記述されている17条からなる条文である。この皇太子は「??豐聰爾皇子」(聖徳太子)を指している。憲法十七条、十七条の憲法とも言う。
今で言う憲法とは異なり、官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したものである。今の国家公務員法、地方公務員法、国家公務員倫理法に近い性質のものと言われることもあるが、そもそも法規範とは言い難い。
儒教[1]・仏教の思想が習合されており、法家・道教の影響も見られる。
十七条憲法は、『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述によれば、推古天皇12年(604年)に成立したとされる(『上宮聖徳法王帝説』によれば、少治田天皇御世乙丑年(605年)。『一心戒文』によれば602年。)。
720年に成立した『日本書紀』に全文が引用されているものが初出であり、これを遡る原本、写本は現存しない。
近代歴史学の誕生とともに、十七条憲法には疑いも掛けられており、成立時期や作者については議論がある。
夏四月の丙寅の朔戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)作る。
一に曰(いわ)く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し(なし)、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党有り、また達(さと)れる者(もの)は少(すく)なし。或(ある)いは君父(くんぷ)に順(したがわ)不(ず)、乍(また)隣里(りんり)に違(たが)う。然(しか)れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事(こと)を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理(じり)おのずから通(つう)ず。何事(なにごと)か成(な)らざらん。
二に曰く、篤(あつ)く三宝を敬へ。三宝はとは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下…(略)
四に曰く、群臣百寮、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(みず)から治まる。
五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略)
六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略)
七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略)
八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略)
九に曰く、信は是義の本なり。(略)
十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)
十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略)
十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂()することなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略)
十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略)
十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略)
十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略)
十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)
十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)
? 『日本書紀』第二十二巻 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇十二年