四書五経十七条の憲法 冠位十二階(朗読)聖徳太子のすべて 十七条憲法のすべて(検索)新論国体
少年日本史(聖徳太子上) (聖徳太子下)国立国会図書(◎十七条憲法略解) (◎聖徳太子十七憲法講話)


Umayado Miko.jpg 聖徳太子の十七条憲法

第一条
一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

一に曰わく、 和(わ)を以(も)って貴(たふと)しとなし、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり、また達(さと)れるもの少なし。ここを以(も)って、あるいは君父に順わず、また隣里に違う。然(しか)れども、上和(やわら)ぎ下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通(つう)ず。何事か成らざらん。

 一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

 Harmony should be valued and quarrels should be avoided. Everyone is apt to form a clique, and there are few people who are intelligent. Therefore some disobey their lords and fathers, and feud with their neighbors. But when the public officers are in harmony with each other and the common people are friendly, then affairs are discussed in cooperation, everything will be right spontaneously. Then there is nothing which cannot be accomplished.

第二条
 二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之禁宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能ヘ従之。其不歸三寶、何以直枉。

 二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬(うやま)え。三宝とは仏(ぶつ)・法(ほふ)・僧(そう)なり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国(ばんごく)の極宗(ごくしゅう)なり。何 (いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

 二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。

 Be respectful to the three treasures sincerely. The three treasures, Buddha, (Buddhism) commandments and priests, are the final refuge for all the people, and are the ultimate doctrine in all countries. What world or what person can fail to respect the doctrine? . Few people are awfully bad. They should be taught and will follow the doctrine. But if they are not taught with the three treasures, how can their badness be corrected?

第三条●
 三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行、萬気得通。地欲天覆、則至懐耳。是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必愼。不謹自敗。

 三に曰く、詔(みことのり)を承(う)けては必(かなら)ず謹(つつし)め。君(きみ)をば天(てん)とす。臣(しん)をば地(ち)とす。天(てん)は覆(おほ)い、地(ち)は載(の)す。四時(しいじ)順(したが)ひ行(おこな)ひ、万気(ばんき)通(かよ)ふことを得(う)。地、天を覆(おほ)わんむとするときは、壊(やぶ)るることを致(いた)さむ。ここをもって、君(きみ)の言(のたま)ふことをば、臣(しん)承(うけたまわ)る。上(かみ)行うときは、下(しも)靡(なび)く。ゆえに詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必(かならず)ず謹(つつし)め。謹(つつし)まずば、自(おのず)から敗(やぶ)れん。

 三にいう。王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。

 You must obey the imperial command certainly. An emperor is Heaven, the vassal is the ground. Heaven overspreads the ground, and the ground supports Heaven. Then four seasons rotates correctly and spirits of Nature run through whole the world. If the ground overspreads Heaven, it ruins order of Nature. Therefore the vassal must obey the lord. If superiors do it, subordinates follow it. Therefore you must obey the imperial command. Or you ruin National order.

第四条
 四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非齊。下無礼以必有罪。是以群臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。

 四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼(れい)を以(も)って本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼(れい)にあり。上(かみ)礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼有るときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる。

 四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。

 The Ministers and public officers should be based on courtesy. It must be based on courtesy to rule the people. If the public officers are not courteous, the common people are disorderly. If the common people are not courteous, there must be offences. Therefore when the ministers and officers are courteous, the distinctions of class are not confused. And when the common people are courteous, the country will be in good order spontaneously.

第五条
 五曰、絶饗棄欲、明辨訴訟。其百姓之訟、一百千事。一日尚爾、況乎累歳。頃治訟者、得利爲常、見賄廳?。便有財之訟、如右投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。

 五に曰く、餐(キョウ・あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(ヨク・たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(ソショウ・うったえ)を弁(わきま)えよ。それ百姓の訟(うったえ)は、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)るを、いわんや歳を累(かさ)ねてをや。このごろ訟を治むる者、利を得るを常とし、賄(まいない)を見てはことわりもうすを聴く。すなわち財のあるものの訟は、石をもって水に投ぐるが如(ごと)し。貧しき者の訟は、水をもって石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は由(よ)る所を知らず。臣道またここにかく。

五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。

 The public officers must suppress their desire for meals and treasures and deal impartially with the suits. There are more than 1000 complaints by the people in one day. And how many will there be in some years? The officers who manage complaints by the people take bribes recently, and make a decision after receiving bribes. Then the suits of the rich man are like a stone cast into water and the complaints of the poor are like water cast on a stone. Under the circumstances the poor people don't know on what to rely. These things are against the way of the public officers.

第六条
 六曰、懲惡勸善、古之良典。是以无匿人善、見-悪必匡。其諂詐者、則爲覆二國家之利器、爲絶人民之鋒劔。亦佞媚者、對上則好説下過、逢下則誹謗上失。其如此人、皆无忠於君、无仁於民。是大亂之本也。

 六に曰わく、悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここを以(も)って人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡 (ただ)せ。其(そ)れ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆(くつがえ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。また佞(かたま)しく媚(こ)ぶる者は、上(かみ)に対しては則(すなわ)ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説き、下に逢(あ)いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それかくの如(ごと)きの人は、みな君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり。

六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。

 Encourage the good and punish the evil. This is the wonderful antique rule. Therefore praise good acts and correct evil acts. Flatterers and liars are effective weapons to overthrow the country, and sharp swords to ruin the people. Sycophants tell tales about inferiors to superiors, and backbite about superiors to inferiors. People of this kind don't have loyalty to their lord, and don't have any virtue to the common people. These are cause of a great confusion of the country.

第七条
 七曰、人各有任。掌宜-不濫。其賢哲任官、頌音則起。?者有官、禍亂則繁。世少生知。剋念作聖。事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此國家永久、社禝勿危。故古聖王、爲官以求人、爲人不求官。

 七に曰く、人おのおの任あり。掌(つかさど)ること、濫(みだ)れざるべし。それ賢哲(けんてつ)、官に任ずるときは、頌(ほ)むる音(こえ)すなわち起こり、奸者(かんじゃ)、官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。世に、生まれながら知るひと少なし。よく念(おも)いて聖(ひじり)となる。事、大少となく、人を得て必ず治まる。時、急緩(きゅうかん)となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これによりて、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危うからず、故に、古の聖王、官のために人を求む。人のために官を求めず。

七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。

 Each person has their own duty. They must not confuse their place of work. When a wise person is appointed suitable job, applause occur spontaneously. When an evil person is appointed some job, calamities occur frequently. There are few wise people from when they were born, diligence makes saints. Regardless of the importance, matters will be solved when suitable people do correctly. Regardless of speed of turning situations, the country will be well off naturally if there are sages. Therefore the country preserves eternity and will be free from danger. So legendary holy kings sought the officers for government posts, and did not seek posts for the officers.

第八条
 八曰、群卿百寮、早朝晏退。公事靡監。終日難盡。是以、遲朝不逮于急。早退必事不盡。

 八に曰く、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退(しりぞ)け。公事いとまなし。終日(ひねもす)にも尽くしがたし。ここをもって、遅く朝るときは急なることに逮(およ)ばず。早く退(さが)るときは必(かなら)ず事尽くさず。

八にいう。官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。

 The public officers must attend the office early in the morning and retire late. Public duties cannot be managed carelessly. It is difficult to complete even if you take a day. Therefore, You will not be in time if an emergency occurs. And You cannot complete your duty if you retire early.

第九条
 九曰、信是義本。毎事有信。其善悪成敗、要在于信。群臣共信、何事不成。群臣无信、萬事悉敗。

 九に曰く、信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣とも信あるときは、何事かならざらん。群臣信なきときは、万事ことごとく敗れん。

九にいう。真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。

 Faith is the foundation of right. In everything let there be faith. It depends on faith whether everything is good or bad, to succeed or to fail. If every vassal has a faith each other, everything will be accomplished. If they don't, everything will be failure.

第十条
 十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、?能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。、我獨雖得、從衆同擧。

 十に曰く、忿(心のいかり)を絶ち、瞋(おもてのいかり)を捨て、人の違(たが)うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執(と)るところあり。かれ是とすれば、われ非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。是非の理、たれかよく定むべけんや。あいともに賢愚(けんぐ)なること、鐶(みみがね)の端(はし)なきごとし。ここをもって、かの人は瞋(いか)るといえども、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われひとり得たりといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え。

十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

 Keep your mind without wrath, and don't show anger at your face. Do not get anger when others differ from you. Everyone has their heart and opinion. Their right may be your wrong, your right may be their wrong. We are not necessarily sages. Others are not necessarily fools. All of us are ordinary people. Who is the person to distinguish right from wrong? All of us are wise and fool, like a ring which has no end. Therefore if others get anger, think about your error. Even if you have a firm opinion, listen to others opinion.

第十一条
 十一曰、明察功過、賞罰必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿、宜明賞罰。

 十一に曰わく、功過(こうか)を明らかに察して、賞罰(しょうばつ)を必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事(こと)を執(と)る群卿(ぐんけい)、よろしく賞罰を明らかにすべし。

 十一にいう。官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである

 Give clear appreciation to merit and demerit. and give sure reward and punishment. There are rewards without merit and punishments without demerit recently. All the high officers who has responsibility, make clear rewards and punishments.

第十二条
 十二曰、國司國造、勿収斂百姓。國非二君。民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦斂百姓。

 十二に曰く、国司(こくし)・国造(こくそう)、百姓に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なし。民に両主なし。率徒(そつど)の兆民(ちょうみん)は王をもって主となす。所任の官司(かんじ)はみなこれ王の臣なり。何ぞあえて公と、百姓に賦斂(おさめと)らん。

十二にいう。国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか。

 The local public officers and governors must not impose taxes on people without leave. In the country, there are not two kings(emperor). The people cannot have two masters. The sovereign is the unique master of the people of the whole country. The public officers whom he appointed are all his vassals. How can they impose a tax except official taxes by the king?

第十三条
 十三曰、諸任官者、同知職掌。或病或使、有闕於事。然得知之日、和如曾識。其以非與聞。勿防公務。

 十三に曰く、もろもろの官に任ぜる者、同じく職掌(しょくしょう・しきしやう)を知れ。あるいは病し、あるいは使(つかい)して、事を闕(おこた)ることあらん。しかれども知ることを得る日には、和(あまな)うこと曽(かつ)てより識(し)かれるがごとくせよ。それを与(あずか)り聞かずということをもって、公務を妨(さまた)ぐことなかれ。

十三にいう。いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。

 All officers entrusted with government affairs should attend equally to duties. Your work may sometimes be interrupted due to illness or missions. But when you come to the office, understand what should do as if you had known it from before. And do not obstruct public affairs for the reason that you are not personally familiar with them.

第十四条
 十四曰、群臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、々亦嫉我。嫉妬之患、不知其極。所以、智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以、五百之乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治國。

 十四に曰く、群臣百寮(ぐんしんひゃくりょう)、嫉妬あることなかれ。われすでに人を嫉(うらや)むときは、人またわれを嫉む。嫉妬の患(うれ)え、その極(きわまり)を知らず。このゆえに、智おのれに勝るときは悦(よろこ)ばず。才おのれに優るときは嫉妬(ねた)む。ここをもって五百歳(いもとせ)にしていまし今賢に遇(あ)うとも、千載(せんざい)にしてひとりの聖を持つことに難(かた)し。それ賢聖を得ずば、何をもってか国を治めん。

十四にいう。官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。
 All vassals and public officers must not be envious. If you envy others, they also will envy you. The evils of envy has no limit. If others excel us in intelligence, you are not pleased. If others excel us in ability, you envy them. Therefore, It is very difficult to obtain one sage in 1000 years, even if we can meet wise people in 500 years. Without wise people and sages, how shall we govern the country?

第十五条
 十五曰、背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同、非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云、上下和諧、其亦是情歟。

 十五に曰わく、私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨(さまた)ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか。

十五にいう。私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。

 The vassal's way is to concentrate on official duties without one's own desire. If you do your duties with your desire, there will be a grudge. If there is a grudge, there will be discord. If there is discord, it will disturb official duties. When you have a grudge each other; that is, ruin an official system and laws.. Therefore; as I said Article 1, "All vassals and officers must cooperate together".

第十六条
十六曰、使民以時、古之良典。故冬月有間、以可使民。從春至秋、農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

 十六に曰く、民を使うに時をもってするは、古の良き典(のり)なり。ゆえに、冬の月に間あらば、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節なり。民を使うべからず。それ農(たつく)らずば、何をか食らわん。桑(くわと)らずば何をか着ん。

十六にいう。人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月〜12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。

 When you employ the people for public duties, you must consider seasons. This is an excellent rule from ancient times.. Therefore, you should employ them in winter, when they are at leisure. But from Spring to Autumn, they are engaged in agriculture and sericulture. Therefore, the people should not be employed. If they do not produce agricultural products, what can we eat? If they do not produce raw silk, what can we wear?

第十七条
 十七曰、夫事不可濁斷。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。故與衆相辮、辭則得理。

 十七に曰く、それ事は独り断(さだ)むべからず。かならず衆とともに論(あげつら)うべし。少事はこれを軽し。かならずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もし失(あやまち)あらんことを疑う。ゆえに衆と相弁(あいわきま)うるときは、辞(こと)すなわち理を得ん。

十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

 When you make an important decision, discuss with other people. You may decide small matters alone. However, important matters should be discussed by many people not to make mistakes. If you discussed with others, you will obtain a reasonable conclusion.

(『日本書紀』第二十二巻 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇十二年)



江守孝三(emori kozo)


◎十七条憲法略解
高島米峰著 東京:聖徳太子一千三百年御忌奉賛会,大正10


◎聖徳太子十七憲法講話
中島覚亮述,淡水会編 ,京都:法蔵館,大正5



聖徳太子
十七条憲法
第十七条 "聖徳太子 "google検索
日本書紀 五 製作憲法十七條

--十七という数字--
十七条という条数は、陰(偶数)の極数8と陽(奇数)の極数9をたしたもので陰陽思想の影響といわれれいます。この極数とは、当時の陰陽思想で、十を完全な数として数の頂点として考えます。しかし十は最上なため満ち足りると次は全てがなくなってしまうという考えから十よりは「九」を陽の最上の数(極数)、八を偶数の最上の数と考え、天の数として神聖視していました。

十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう、憲法十七条十七条の憲法とも言う)とは
、『日本書紀』、『先代旧事本紀』に推古天皇12年(604年4月3日に「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」と記述されている17条からなる条文である。この皇太子は「豐聰爾皇子」(聖徳太子)。今日で言う憲法とは異なり、官僚や貴族に対する道徳的な規範を示したものである。 儒教(例えば第1条の「以和爲貴」和ぐを以て貴しは、孔子の『論語』第1卷 学而第1「有子曰 禮之用和爲貴」礼をこれ用うるには、和を貴しとなす が引用元である)、仏教の思想が習合されており、法家道教の影響も見られる。

十七条憲法は720年に成立した『日本書紀』に全文が引用されているものが初出であり、これを遡る原本も、写本も現存しない。 推古天皇12年(604年)に成立したというのは『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述を信じるほかはない。(『上宮聖徳法王帝説』によれば、少治田天皇御世乙丑年(605年)。『一心戒文』によれば602年。) 近代歴史学の誕生とともに、これには疑いも掛けられてきた。

津田左右吉1930年の『日本上代史研究』において、十七条憲法に登場する「国司国造」という言葉や書かれている内容は推古朝当時の政治体制と合わず、後世すなわち『日本書紀』編纂ごろに作成されたものであろうとした。
坂本太郎1979年の『聖徳太子』において、「国司」は推古朝当時に存在したと見てもよく、律令制以前であっても官制的なものはある程度存在したから、『日本書紀』の記述を肯定できるとした。
森博達1999年の『日本書紀の謎を解く』において、十七条憲法の漢文の日本的特徴(和習)から7世紀とは考えられず、『日本書紀』編纂とともに創作されたものとした。


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聖徳太子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
聖徳太子
Umayado Miko.jpg
時代 飛鳥時代
生誕 574年2月7日敏達天皇3年1月1日
死没 622年4月8日推古天皇30年2月22日
改名 上宮厩戸、厩戸皇子、厩戸皇太子、摂政太子
別名 厩戸皇子、厩戸王、上宮王、豊聡耳、
上宮之厩戸豊聡耳命、法主王、豊耳聡聖
徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、
厩戸豊聰耳聖徳法王
諡号 聖徳太子
墓所 叡福寺北古墳
官位 摂政皇太子
主君 用明天皇崇峻天皇推古天皇
氏族 皇族上宮王家
父母 用明天皇穴穂部間人皇女
兄弟 聖徳太子(厩戸皇子)来目皇子殖栗皇子
茨田皇子田目皇子麻呂子皇子
酸香手姫皇女
菟道貝蛸皇女刀自古郎女橘大郎女
膳大郎女
山背大兄王財王日置王白髪部王
長谷王三枝王伊止志古王麻呂古王
片岡女王手島女王春米女王
久波太女王波止利女王馬屋古女王
特記
事項
物部守屋討伐戦を元服と、また便宜上
天皇を主君とみなす。
  

聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代皇族政治家用明天皇の第二皇子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。

推古天皇のもと、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行ない、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化、制度をとりいれて天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。また、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。

近年の歴史学研究においては、日本書紀等の聖徳太子像を虚構とする説を唱える研究者もいるが、批判も多く広くは支持されていない。→(詳細は#虚構説の節を参照)

名称

本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。また母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が実母(小姉君)の実家で出産したため、つまり叔父・蘇我馬子の家で生まれたことから馬子屋敷が転じて厩戸(うまやど)と付けられたという説もあるが、現在のところ生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。

別名として豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれ、 『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳豊聡耳法大王法主王、『万葉集』の巻三では上宮聖徳皇子と表記されるなど、様々な名で呼ばれた。

一般的に聖徳太子とされている人物の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)

聖徳太子という名称は生前に用いられた名称ではなく、没後100年以上を経て天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。なお、顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている慶雲3年(706年)に作られた「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」と記されている[1]。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録[2]』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載され、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期にはすでにとして「聖徳太子」の名が広く用いられて一般的な呼称となったことが伺える。

現代において一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように「存命中に用いられていた名称ではない」という理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更された[3]

聖徳太子の肖像画は過去に紙幣(日本銀行券)の絵柄として過去7回と最も多く使用されている。特に高度成長期に当たる1958年から1984年に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用されていた。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。

生涯

※本節の記述は『日本書紀』等によるものである(日本書紀の信頼性については当該項目を参照)。
聖徳太子立像(飛鳥寺

敏達天皇3年(574年)、橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。

幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。

用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。用明天皇2年(587年)、用明天皇は逝去した。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。討伐軍は三度撃退された。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺された。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子[4]となり、推古天皇元年(593年4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐した。

同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波四天王寺を建立した。推古天皇2年(594年)、仏教興隆の詔を発した。推古天皇3年(595年)、高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。

推古天皇8年(600年新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。[5]

推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営した。

推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こした。同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が死去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。

推古天皇11年(603年12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。

推古天皇12年(604年4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法[6]を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている)。

推古天皇13年(605年)、斑鳩宮へ移り住んだ。

推古天皇15年(607年)、小野妹子鞍作福利を使者とし随に国書[7]を送った。翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。[8]

日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)[9]とあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」[10]としている。

厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著した。

推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選んだ。

推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなった。

伝説

新井薬師寺 16歳の聖徳太子像

以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。

なお、聖徳太子の事績や伝説については、それらが主に掲載されている古事記日本書紀の編纂が既に死後1世紀近く経っていることや記紀成立の背景を反映して、脚色が加味されていると思われる。 そのため様々な研究・解釈が試みられている。平安時代に著された聖徳太子の伝記『聖徳太子伝暦』は、聖徳太子伝説の集大成として多数の伝説を伝えている[11]

出生について

「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は救世観音が胎内に入り、厩戸を身籠もった」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教キリスト教ネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる[12]。  しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支甲午(きのえうま)でいわゆる年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。

豊聡耳

ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった[13]。しかし実際には、10人が太子に順番に相談し、そして10人全ての話を聞いた後それぞれに的確な助言を残した、つまり記憶力が優れていた、という説が有力である。

上宮聖徳法王帝説』、『聖徳太子伝暦』では8人であり、それゆえ厩戸豊聰八耳皇子と呼ばれるとしている。 『日本書紀』と『日本現報善悪霊異記』では10人である。 また『聖徳太子伝暦』には11歳の時に子供36人の話を同時に聞き取れたと記されている。

一方「豊かな耳を持つ」=「人の話を聞き分けて理解することに優れている」=「頭がよい」という意味で豊聡耳という名が付けられてから上記の逸話が後付けされたとする説もある。

なお一説には、豊臣秀吉の本姓である「豊臣」(とよとみ)はこの「豊聡耳」から付けられたと言われる。

兼知未然

『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に「未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)」の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には楠木正成が未来記を実見し、後醍醐天皇の復帰とその親政を読み取る様が記されている。これらの記述からも未来記の名が当時良く知られていたことがうかがわれる。しかし、過去に未来記が実在した証拠が無く、物語中の架空の書か風聞の域を出ないものと言われている。江戸時代に、人心を惑わす偽書であるとして幕府により禁書とされ、編纂者の潮音らが処罰された『先代旧事本紀大成経』にある『未然本記』も未来記を模したものとみることができる。

南嶽慧思の生まれ変わり

南嶽慧思後身説(慧思禅師後身説)」と呼ばれる説。聖徳太子は天台宗開祖の天台智の師の南嶽慧思の生まれ変わりであるとする。『四天王寺障子伝(=『七代記』)』、『上宮皇太子菩薩伝』、『聖徳太子伝暦』などに記述がある。

中国でも、「南嶽慧思後身説」は知られており鑑真渡日の動機となったとする説もある[14]

飛翔伝説

聖徳太子伝暦』や『扶桑略記』によれば、太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。

片岡飢人(者)伝説

『日本書紀』によると次のようなものである。

推古天皇21年12月庚午(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい。」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。

「斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮」

しなてる 片岡山に 飯(いひ)に飢(ゑ)て 臥(こ)やせる その旅人(たびと)あはれ 親無しに 汝(なれ)生(な)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ

翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。

万葉集』には上宮聖コ皇子作として次の歌がある。

上宮聖コ皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首
(小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豐御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古)
「家有者 妹之手將纏 草枕 客爾臥有 此旅人[立心偏+可]怜」

[15]

家にあらば 妹(いも)が手纒(ま)かむ 草枕客(たび)に臥やせる この旅人あはれ

また、『拾遺和歌集』には聖徳太子作として次の歌がある。[16]

しなてるや片岡山に飯に飢ゑて臥せる旅人あはれ親なし

後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている[17]

ゆかりの寺院

法隆寺 夢殿

ここでは、以下の寺院をいくつかとりあげる。

なお、日本各地には聖徳太子が仏教を広めるために建てたとされる寺院が数多くあるが、必ずしも文献にはっきりと記されてはおらず、後世になって縁起で創作された寺院も多いと考えられている。

四天王寺

蘇我氏物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺大阪市天王寺区)を建てた。なお、聖徳太子が佩刀していたとされる七星剣丙子椒林剣が現在、四天王寺に保管されている。

建立七大寺

四天王寺法隆寺中宮寺(中宮尼寺)、橘寺、蜂岡寺(広隆寺)、池後寺(法起寺)、葛木寺(葛城尼寺)は『上宮聖徳法王帝説』や、『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』によって聖徳太子が創建した七大寺と称されている。

斑鳩寺

聖徳太子は推古天皇から賜った播磨国揖保郡の地を「鵤荘」と名付け、伽藍を建立し、法隆寺に寄進をした。これが斑鳩寺の始まりと考えられている。斑鳩寺は創建から永らく法隆寺の別院(支院)であったが、焼失、再建の後に天台宗へ改宗した。ただ、現在も「お太子さん」と呼ばれて信仰を集めている。なお、俗に「聖徳太子の地球儀」と呼ばれる「地中石」という寺宝が伝わっている寺でもある。

河内三太子

聖徳太子ゆかりの寺院とされる叡福寺野中寺大聖勝軍寺はそれぞれ上之太子(かみのたいし)、中之太子(なかのたいし)、下之太子(しものたいし)と呼ばれ、「河内三太子」と総称されている[18]

墓所

叡福寺 聖徳太子墓

詳細は「叡福寺#叡福寺北古墳」を参照

墓所は大阪府南河内郡太子町の叡福寺にある「叡福寺北古墳」が宮内庁により比定されている(聖徳太子御廟・磯長陵 しながりょう)。日本書紀には磯長陵とあるが、磯長墓と呼ばれることもある。穴穂部間人皇女膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟。後世に定められたものとする説もある。

直径約55メートルの円墳。墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている[19][20]

系譜

天皇系図 26〜37代
先祖

神武天皇~武烈天皇=継体天皇-欽明天皇-用明天皇-聖徳太子

兄弟姉妹
妻子

著作

ここでは、以下の著作をいくつかとりあげる。ただ、聖徳太子の名を借りた(仮託)偽書も多い[21]ため注意が必要である。

  • 三経義疏』(さんぎょうぎしょ)。このうち『法華義疏』は聖徳太子の真筆と伝えられるものが御物となっており、現存する書跡では最も古く、書道史においても重要な筆跡である。
  • 四天王寺縁起』は、聖徳太子の真筆と伝えられるものを四天王寺が所蔵しているが、後世(平安時代中期)の仮託と見られている。
  • 十七条憲法』は、『日本書紀』(推古天皇12年(604年))中に全文引用されているものが初出。『上宮聖徳法王帝説』には、乙丑の年(推古13年(605年)の七月に「十七餘法」を立てたと記されている。
  • 天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』は、『日本書紀』中に書名のみ記載されるが、現存せず内容は不明。
  • 先代旧事本紀』は、序文で聖徳太子と蘇我馬子が著したものとしているが、実際には平安時代初期の成立と見られる。
  • 未来記』は、特定の書ではなく、聖徳太子に仮託した「未来記」を称する鎌倉時代に頻出する偽書群。

後世の評価

関晃は次のように解説する。「推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成, 遣隋使の派遣,天皇記 国記 以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである」[22]

田村圓澄は次のように解説する。「推古朝の政治について、聖徳太子と蘇我馬子との二頭政治であるとか、あるいは馬子の主導によって国政は推進されたとする見解があるが、572年(敏達天皇1)に蘇我馬子が大臣となって以来、とくに画期的な政策を断行したことがなく、聖徳太子の在世中に内政・外交の新政策が集中している事実から考えれば、推古朝の政治は太子によって指導されたとみるべきである」[23]

内藤湖南は『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」に記述された?王多利思北孤による「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」の文言で知られる国書は聖徳太子らによる創作と推定している[24]

虚構説

聖徳太子を描いたとされる肖像画「唐本御影」。この肖像画は8世紀半ばに別人を描いた物であるとする説もある。

歴史

聖徳太子の聖人化は、『日本書紀』に既にみえており、「聖徳太子信仰」が後世の人々により形作られていった。8世紀には、聖徳太子は「日本の釈迦」と仰がれ、鎌倉時代までに、『聖徳太子伝暦』など現存するものだけで二十種以上の伝記と絵伝が成立した[25]

近代における実証的研究には久米邦武の『上宮太子実録』[26]がある。また、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者(狩谷鍵斎ら)に始まり、津田左右吉は1930年の『日本上代史研究』において十七条憲法を太子作ではないと主張した[27]。その結果、『日本上代史研究』ほか著書四冊は発禁となり、津田左右吉は早稲田大学を辞職している。

現代の聖徳太子虚構説

高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)は、聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった?古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。

1999年に吉川弘文館から出版された大山誠一(中部大学教授)の『「聖徳太子」の誕生』は大きな反響を呼んだ[28]。 大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階遣隋使の2つ以外は全くの虚構である」と主張している。さらにこれら2つにしても、『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しない、そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり[29][30]、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳、三経義疏」の二系統に分類し、すべて厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。

大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子かつ摂政として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。大山には『「聖徳太子」の誕生』に続く著作として『古代史の謎 知れば知るほど』(黛弘道(編)、実業之日本社、1997年)第三章「創られた太子信仰 聖徳太子はいなかった」及び『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001年)があり、『聖徳太子の真実』 (平凡社、2003年)は大山と賛同する研究者らの論を集大成した著作である。学術論文は『弘前大学國史研究』に発表されている[31]

大山説は近年マスコミにも取り上げられ話題となった。『東アジアの古代文化』102号では特集が組まれ、102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房 2001年) にまとめられている。石田尚豊は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している[32]。『日本書紀』などの聖徳太子像には何らかの誇張が含まれるという点では、多くの研究者の意見は一致しているが[33]、聖徳太子像に潤色・脚色があるということから「非実在」を主張する大山説には批判的な意見が数多くあり、一部に賛同を表明する研究者もいる[34]

大山説の概要「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等長屋王、僧 道慈らである。十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作された。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繍帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。」[35][36]

大山説への反論

仁藤敦史(国立歴史民俗博物館研究部教授)は次のように述べる。「「聖徳太子像」の変遷と実証的な研究動向を総括するならば、近年の「虚像」としての「聖徳太子」を否定する議論は、戦後においても十分払拭されていない『日本書紀』の拡大解釈にもとづく「偉大な宗教家・政治家」としての位置づけに対して根本的な批判を加えたものと考えられる。」「けれども、その史料批判の方法にも問題がないわけではない。すでに、奈良時代の前半には上宮太子を「聖徳」と称するのは死後に与える諡(おくりな)とする理解があり、さらに、慶雲3(706)年以前に「聖徳皇」と呼ばれていたとする金石文もある。加えて『古事記』には没後の名前と考えられる「豊聡耳」の称号、および「王」号ではなく後に即位した王子にのみ与えられる「命」表記を含む「上宮の厩戸豊聡耳命」の記載があり、遅くとも『日本書紀』成立以前の天武朝までには偉人化が開始されていたことは明らかとなる。このように『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認されるので、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると考えられる。推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題となる。(仁藤敦史 「聖徳太子は実在したのか」『中学校 歴史のしおり』 帝国書院 2005年 9月号)[37]

遠山美都男は大山説について次のように述べる。「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみのことである。」「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だったのである。(遠山美都男『天皇と日本の起源』講談社 2003年)」

和田萃(京都教育大学名誉教授)は、聖徳太子が日本書紀の編纂段階で理想化されたことは多くの人が認めており、厩戸王と(脚色が加わった)聖徳太子を分けて考えるべきとする指摘は重要としながらも、そのことが「聖徳太子虚構説」や「蘇我王権説」につながるわけではないとする(日本経済新聞2004年1月10日)。

曽根正人(就実大学教授)は「後世に造形され、肥大化した聖徳太子がいなかったという点では大山説に反対しない。厩戸王の実像をどう考えるかでは見解が違う。歴史物語の研究によれば、全くのゼロから記事がつくられた例がない。素材となった記録・記事が何であるかは今後の課題だが、皆無とは考えにくい。」とする(毎日新聞東京夕刊2007年6月4日)。

聖徳太子虚構説に対する反論としては、遠山美都男 『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(2000年)、 直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)(2001年)、上原和『世界史上の聖徳太子 東洋の愛と智慧』(2002年)、田中英道『聖徳太子虚構説を排す』(2004年)、森田悌『推古朝と聖徳太子』(2005年)、曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』(2007年)などがある。

虚構説への反論と歴史的資料

聖徳太子については『日本書紀(巻22推古紀)』、「十七条憲法」、『古事記[38]、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、「天寿国繍帳(天寿国曼荼羅繍帳)」、「法隆寺薬師像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像光背銘文」、「法隆寺釈迦三尊像台座内墨書」、「道後湯岡碑銘文(=伊予湯岡碑文、伊予国風土記逸文に記録。)」、「法起寺塔露盤銘」、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。これらには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは日本書紀成立以降に制作されたとする説があるものもあり、異説、反論もある。

日本書紀における聖徳太子像について、大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国した)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む日本書紀巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある。森博達は文武天皇朝(697年〜707年)に文章博士山田史御方(やまだのふひとみかた)がβ群の述作を開始したとする[39]

十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学者に始まる。また、津田左右吉は1930年の『日本上代史研究』において太子作ではないとしている。井上光貞坂本太郎らは津田説に反論している[40]。また関晃狩谷鍵斎、津田左右吉などの偽作説について、「その根拠はあまり有力とはいえない」とする[41]。一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている[42]

「勝鬘経義疏」について藤枝晃は、敦煌より出土した「勝鬘義疏本義」と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたものであるとする[43]。「法華経義疏」巻頭の題箋(貼り紙)について、大山説は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(「是」、「非」など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。王勇(浙江工商大学日本文化研究所所長)は三経義疏について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、「法華経義疏」の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする[44]。また花山信勝は「法華経義疏」行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している[45]

『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は『おそくとも大宝(701〜704)までは下らぬ時期に成立した』として、記紀成立よりも古い資料によるとしている[46]

「天寿国繍帳」について大山説では天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繍帳の銘文に現れる干支が日本では持統4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている[47]義江明子は天寿国繍帳の銘文を推古朝成立とみて良いとする[48]石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。

法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする[49]。一方、志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする[50]

大山説では道後湯岡碑銘文[51][52][53]仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264年〜1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11年〜正安3年頃(1274年〜1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は前掲二書に引用された伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)の官命で編纂された古風土記)の一部としている[54]牧野謙次郎は「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、船首王の墓誌等がその最なるものである。」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は『續日本紀』に引く所にして、もと『伊豫風土記』に載せてあつた。」と述べている[55]

慶雲3年(706年)に彫られたとされる「法起寺塔露盤銘」に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では法起寺塔露盤銘は暦仁一年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記(古今目録抄〔法隆寺本〕)』にしか見出せないことなどから偽作とする。但し、全文の引用は無いものの、嘉禄三年(1227年)に四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている[56]。 また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではないと考える」と述べている[57]。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」とする[58]

播磨国風土記』(713年-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社(おうしこじんじゃ)の「石の宝殿(石宝殿)」についての記述に、「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、または)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり」とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子[59]と考えられることから、『日本書紀』(養老4年、720年)が成立する以前に厩戸皇子が「聖徳王」と呼称されていたとする論がある。大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子(厩戸皇子)の諡号を聖徳王としたとある。

  • 播磨国風土記』二?里驛家 大國里 「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 ?? 弓削大連 守屋 所造之石也」

太子信仰

日本には聖徳太子自身を信仰対象として、聖徳太子像を祀った太子堂が各地の寺院にある。また、「聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりである」とする考えもあり、親鸞が、太子信仰を有していたことは著名で、親鸞を観音の化身としたことが、既に妻・恵信尼の書状によって知られる。さらに親鸞は『正像末和讃』「皇太子聖徳奉讃」に11首、『皇太子聖徳奉讃』に75首、『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』に114首、と和讃を著している。

その他、室町時代の終わり頃から、太子の忌日と言われる2月22日 (旧暦)を「太子講」の日と定め、大工や木工職人の間でが行なわれるようになった。これは、四天王寺や法隆寺などの巨大建築に太子が関わり諸職を定めたという説から、建築、木工の守護神として崇拝されたことが発端である。さらに江戸時代には大工らの他に左官や桶職人、鍛冶職人など、様々な職種の職人集団により太子講は盛んに営まれるようになった[60]。なお、聖徳太子を本尊として行われる法会は「太子会」と称される。

脚注

  1. ^ 読み方の例として「かみつみやのたいし しょうとくのすめら」
  2. ^ 巻二貞観元年(859年)五月十九日甲戌条、巻八貞観6年(864年)正月十四日辛丑条、巻卅八元慶4年(880年)十月廿日庚子条など。
  3. ^ 「厩戸王」は大山説でも使用されているが、歴史的資料には見られない。日本書紀は「厩戸皇子」。日本書籍の教科書を執筆した吉村武彦は「皇子を表記するに当たっては生存中の名前を使うのが一般的。『聖徳太子の時代』という表現にも違和感があり、『蘇我氏と厩戸皇子が政治をおこなう』と表記した」とする(2004年1月10日日本経済新聞)。
  4. ^ 荒木敏夫は皇太子制を飛鳥浄御原令の成立として厩戸皇子の立太子に疑問を呈する(『日本古代の皇太子』(吉川弘文館、1985年))が、河内祥輔は皇太子の称の有無とは別に、厩戸皇子の父・用明天皇は非皇族(蘇我氏)を母に持った皇族であったため、敏達天皇の后からの所生である竹田皇子の成人までの「中継ぎ」の天皇の地位に留まり、本来ならば厩戸皇子ら子孫への直系継承権を有していなかった。だが、竹田皇子の急逝後に竹田皇子の母后(推古天皇)が自己に最も近い皇族であった甥の厩戸皇子を新たな後継者とするために、自ら即位して厩戸皇子を後継者に指名(後世の立太子に相当)する必要があったとする。これによって用明天皇系である厩戸皇子(聖徳太子)は直系(敏達天皇系)に準じる者として皇位継承権を得たが、指名者である推古天皇が没するまでその地位に留まらざるを得なくなった(結果として即位することなく死去した)とする。(『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年))
  5. ^ 開皇20年(600年)『隋書』に、?國の「?王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩?彌」から初めて遣隋使がきた記事がある。なお『日本書紀』には同記事はない。「倭」を誤って「?」と表記したとする説が有力である。)
  6. ^ 日本書紀では十七条憲法の直後の記事に「推古天皇十二年(604年)秋九月 改朝礼 因以詔之曰 凡出入宮門 以両手押地 両脚跪之 越梱則立行」とある。日本書紀は、十七条憲法と共に、役人は宮門を出る時、宮門に入る時は土下座、四つんばいになるように命じられたとしている。
  7. ^ 日本書紀は随を大唐国としている。また、日本書紀には国書の内容(「日出る処・・・」)の記述はない。
  8. ^ 『日本書紀』には遣隋使、隋という文字はない。『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 ?國」)」との文言があり、隋の煬帝(開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となる)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)と大いに不快にさせた(煬帝が立腹したのは?國王が隋の皇帝と同位の立場である「天子」を名乗ったことについてであり、「日出處」「日沒處」との記述にではないとする説がある。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとする。)。この国書は?國が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の?國と結ぶ必要があった。
  9. ^ 『隋書』にこの記述はない。
  10. ^ どの時代から「天皇」という語が使用されているかについては諸説ある。
  11. ^ 田村圓澄は「その太子像は荒唐無稽な異聞奇瑞(きずい)で満たされている」とする。作者を藤原兼輔とする説が有力であったが、今日では疑問視されている(日本大百科全書(小学館) )。
  12. ^ 久米邦武は、学僧が日本に持ち帰った景教(ネストリウス派)の知識が太子誕生説話に付会されたのだろうと推定している。佐伯好朗は、1908年に論文「太秦を論ず」において聖徳太子と関係の深い秦氏と景教とユダヤ人の関わりについて論じ景教博士と呼ばれた。さらに空想をたくましくして秦氏と古代イスラエル民族と直接に関連するという日ユ同祖論を唱える極端な仮説(手島郁郎太秦の神-八幡信仰とキリスト景教』(1971年)が代表例)も存在する。
  13. ^ 妙法蓮華経法師功徳品(ほっしくどくほん)は「千二百の耳の功徳」について説いている。(爾時仏告常精進菩薩摩訶薩。若善男子善女人。受持是法華経。若讀若誦若解説若書寫。是人当得八百眼功徳。千二百耳功徳。八百鼻功徳。千二百舌功徳。八百身功徳。千二百意功徳。以是功徳荘厳六根皆令清浄。是善男子善女人。父母所生清浄肉眼。見於三千大千世界。内外所有山林河海。下至阿鼻地獄上至有頂。亦見其中一切衆生。及業因縁果報生処。悉見悉知。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言。)(無数種人聲。聞悉能解了。)
  14. ^ 『聖徳太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説』王勇 大修館書店、1994年
  15. ^ (『萬葉集』巻三 415) 万葉集では片岡山ではなく龍田山とある。
  16. ^ 拾遺和歌集巻20哀傷1350 この歌と返し歌をもって『拾遺和歌集』最終巻は終わる。『源氏物語』 第20帖 朝顔(あさかほ)にて、光源氏が老婆となった今も衰えぬ源典侍にかけた言葉「その世のことは みな昔語りになりゆくを はるかに思ひ出づるも 心細きに うれしき御声かな 親なしに臥せる旅人と 育みたまへかし(あのころのことは皆昔話になって、思い出してさえあまりに今と遠くて心細くなるばかりなのですが、うれしい方がおいでになりましたね。『親なしに臥(ふ)せる旅人』と思ってください 與謝野晶子訳)」はこの歌をふまえたものである。返し歌は「いかるがや富緒河の(とみの小川の)絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ」
  17. ^ 『日本書紀』編纂当時は、死穢・触穢を忌避する観念、風習は未発達であると考えられるが(『日本書紀』皇極天皇元年五月乙亥日条参照)、疫病は恐れられていた。『荘子 (書物)』大宗師篇第六に「真人」について詳説する部分がある。また、遺体の消滅は仙人の尸解仙(しかいせん)にも類似し、『新約聖書』も想起させる。大山誠一は、『日本書紀』の推古紀と道教に関心が深かった長屋王や道慈との関係について仮説を提示している。
  18. ^ 叡福寺の「聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)」七幅(南北朝〜室町時代に制作された)は2008年に修復が完成した。
  19. ^ 「聖徳太子墓はやや小さめ 宮内庁が研究者に公開」 共同通信 2002年11月14日、「「聖徳太子墓」を初めて研究者に公開 宮内庁」 asahi.com 2002年11月15日
  20. ^ 徒然草第六段に次の一文がある。「聖徳太子の御墓(みはか)を、かねて築(つ)かせ給(たま)ひける時も、「ここをきれ、かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり。」と侍(はべ)りけるとかや。」
  21. ^ 1675年延宝3年)、聖徳太子の憲法には「通蒙憲法」「政家憲法」「儒士憲法」「釈氏憲法」「神職憲法」の五憲法が存在し、「通蒙憲法」が十七条憲法であると説く『聖徳太子五憲法』と称する書が現れた。『聖徳太子五憲法』は1679年(延宝7年)に現れた偽書先代旧事本紀大成経』巻七十「憲法本紀」と同じ内容である。
  22. ^ 『世界大百科事典第二版』平凡社
  23. ^ 『日本大百科全書』小学館
  24. ^ 「それに國書の如きも隋書に載れる 日出處天子致書日沒處天子無恙云々 の如きは、其の語氣から察するに、恐らく太子自ら筆を執られたものであつたらしく、全然對等の詞を用ひられたので、隋の煬帝の如き、久しく分離した支那を統一したと謂ふ自尊心を持つて居る天子をして、從來に例の無い無禮な國書だと驚かしめたのである。」「聖徳太子」『内藤湖南全集第九巻』(筑摩書房 1976年)
  25. ^ 『日本大百科全書』(小学館)聖徳太子の項
  26. ^ 『久米邦武歴史著作集 第1巻 聖徳太子の研究』 吉川弘文館 1988年
  27. ^ 津田左右吉『日本古典の研究』(岩波書店、1972年)
  28. ^ 公開講演『聖徳太子は実在するか』
  29. ^ 高森明勅(國學院大學講師)は「大山氏の方法論の致命的な欠陥は、「日本書紀以前に確実な史料がなければ、日本書紀に描かれた人物であっても虚構だ」、と言っていること」と述べている。
  30. ^ 安本美典は次のように述べている。「失敗をくり返してきた19世紀的文献批判学に対して、海外では、すでに多くの再批判がおこなわれ、たとえば、『数理哲学の歴史』の著者のG・マルチンは、「自分自身に対して無批判な批判」と鋭く論評してる。しかし、日本では、いまもなお、津田左右吉流の擬古派的な主張をする学者が少なくない。擬古派的な考え方は、くりかえし、事実によって粉砕されてきたが、日本では、第二次世界大戦中の『古事記』『日本書紀』をそのまま信ずべしとする教育に対する反動から、擬古的な考えがいまだに強く、結果的に世界の趨勢からいちじるしくたちおくれた議論が、あいかわらず強調される傾向が続いている。「聖徳太子は実在しなかった」「大化の改新は偽りである」など、擬古派の立場でさまざまな本が出版される背景には、日本のこのような事情があるのである。」
  31. ^ 『弘前大学國史研究 100』 大山誠一「聖徳太子」研究の再検討(上) (1996年3月)、『弘前大学國史研究 101』 大山誠一「聖徳太子」研究の再検討(下) (1996年10月)
  32. ^ 公開講演『聖徳太子は実在するか』
  33. ^ 岡田英弘、宮脇淳子は大山説とは異なる視点からた聖徳太子像を論じている。岡田英弘『日本史の誕生』(筑摩書房、2008年)、宮脇淳子『淳子先生の歴史講座―こんなの常識!日本誕生@つくられた聖徳太子』(WiLL2009年7月号別冊 『歴史通』 NO.2)
  34. ^ 三浦佑之(立正大学教授)は大山の聖徳太子論に賛成している[1]
  35. ^ 『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房 2001年)
  36. ^ また、用明、祟峻、推古の王朝とされる時期には蘇我馬子の王権が存在したとする仮説(蘇我王権説)を提示している
  37. ^ [2]
  38. ^ 用明天皇の子として名前(上宮之厩戸豊聰耳命)が記されている。
  39. ^ 森博達『日本書紀の謎を解く?述作者は誰か』(中公新書 1999年)、謎解き日本史
  40. ^ 井上光貞『飛鳥の朝廷』(講談社学術文庫 1974年)、坂本太郎『聖徳太子』(吉川弘文館 1979年)
  41. ^ 『世界大百科事典第二版』平凡社
  42. ^ 森博達『日本書紀の謎を解く?述作者は誰か』(中公新書 1999年)
  43. ^ 藤枝晃「勝鬘経義疏」『聖徳太子集』(岩波書店 1975年)
  44. ^ 王勇「東アジアにおける「三経義疏」の流伝」『中国の日本研究』第2号(浙江大学日本文化研究所 2000年)
  45. ^ 『大日本仏教全書』(鈴木学術財団)、花山信勝『法華義疏の研究―聖徳太子御製』(東洋文庫)
  46. ^ 『日本思想大系2 聖徳太子集』 (岩波書店 1975年)
  47. ^ 大橋一章『天寿国繍帳の研究』(吉川弘文館 1995年)
  48. ^ 義江明子「天寿國繍帳銘系譜の一考察」『日本史研究』325号 1989年
  49. ^ 福山敏男「法隆寺金石文に関する二、三の問題 金堂薬師像・釋迦像・同寺小釋迦像の光背銘」(夢殿第13册 法隆寺の銘文 1935年)
  50. ^ 志水正司『古代寺院の成立』(六興出版 1979年)
  51. ^ 伊予国風土記逸文による道後湯岡碑銘文(駢儷体の詩文)を梅原猛は次のように解釈、現代語訳している。「法興6年10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。思うに、日月は上にあって、すべてのものを平等に照らして私事をしない。神の温泉は下から出でて、誰にも公平に恩恵を与える。全ての政事は、このように自然に適応して行われ、すべての人民は、その自然に従って、ひそかに動いているのである。かの太陽が、すべてのものを平等に照らして、偏ったところがないのは、天寿国が蓮の台に従って、開いたり閉じたりするようなものである。神の温泉に湯浴みして、病をいやすのは、ちょうど極楽浄土の蓮の花の池に落ちて、弱い人間を仏に化するようなものである。険しくそそりたった山岳を望み見て、振り返って自分もまた、五山に登って姿をくらましたかの張子平のように、登っていきたいと思う。椿の木はおおいかさなって、丸い大空のような形をしている。ちょうど『法華経』にある五百の羅漢が、五百の衣傘をさしているように思われる。朝に、鳥がしきりに戯れ鳴いているが、その声は、ただ耳にかまびすしく、一つ一つの声を聞き分けることはできない。赤い椿の花は、葉をまいて太陽の光に美しく照り映え、玉のような椿の実は、花びらをおおって、温泉の中にたれさがっている。この椿の下を通って、ゆったりと遊びたい。どうして天の川の天の庭の心を知ることができようか。私の詩才はとぼしくて、曹植のように、七歩歩く間に詩をつくることができないのを恥としている。後に出た学識人よ、どうかあざわらわないでほしい。」(梅原猛『聖徳太子』集英社 1993年)原文は外部リンク日本漢學史 道後温泉碑。法興は日本書紀に現れない年号(逸年号、私年号)とされ、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されている。「法王大王」は聖徳太子を指す。万葉集巻三239 柿本人麻呂の詠める「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而・・」のように大王は皇子に使用される例がある。
  52. ^ 外部リンク伊予湯岡碑文の考察
  53. ^ 山部赤人が伊豫温泉(道後温泉)を訪れて詠んだ歌(万葉集巻三 322)について、道後湯岡碑銘文または伊予国風土記の内容を踏まえたものとする説がある。
  54. ^ 荊木美行『風土記逸文の文献学的研究』(皇學館出版部 2002年)
  55. ^ 牧野謙次郎 述/三浦叶 筆記『日本漢學史』(世界堂書店 1938年)
  56. ^ 大橋一章「法起寺の発願と造営」早稲田大学大学院文学研究科紀要 2003年「法起寺の発願と造営」
  57. ^ 直木孝次郎「万葉集と木簡に見える「皇」」『東アジアの古代文化』 108号(大和書房 2001)
  58. ^ 2004年1月10日日本経済新聞
  59. ^ 『日本古典文学大系 風土記』(岩波書店 1977年)、間壁忠彦 間壁葭子『石宝殿―古代史の謎を解く』 (神戸新聞総合出版センター 1996年)
  60. ^ 能門伊都子「特定の職業・人に信仰される神々」、『大法輪』第72巻1号、法藏館2005年(平成17年)

参考文献

  • 家永三郎ほか『聖徳太子論争』2006 新版 新泉社 ISBN 4787706055
  • 梅原猛『聖徳太子』2003 小学館、1993 集英社文庫
  • 梅原猛『隠された十字架 法隆寺論』1986 新潮社 ISBN 4101244014
  • 遠山美都男『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』2000 角川書店 ISBN 4043551010
  • 森田悌『推古朝と聖徳太子』2005 岩田書院 ISBN 4872943910
  • 吉村武彦『聖徳太子』2002  岩波新書 岩波書店 ISBN 4004307694
  • 王勇『聖徳太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説』1994 大修館書店 ISBN 4469290696
  • 梅原猛・黒岩重吾・上田正昭ほか『聖徳太子の実像と幻像』2001 大和書房 ISBN 4479840591
  • 小林惠子『聖徳太子の正体 英雄は海を渡ってやってきた』1990 文藝春秋 ISBN 4163447202
  • 田中英道『聖徳太子虚構説を排す』2004 PHP ISBN 4569638279
  • 谷沢永一『聖徳太子はいなかった』2004 新潮新書:新潮社
  • 恵美嘉樹『図説 最新日本古代史』 2008 学習研究社 ISBN 4054038344
  • 大山誠一『長屋王家木簡と金石文』 ISBN 4642023259
  • 大山誠一『長屋王家木簡と奈良朝政治史』1992 吉川弘文館 ISBN 4642021671
  • 大山誠一『「聖徳太子」の誕生 歴史文化ライブラリー』1999 吉川弘文館 ISBN 4642054650
  • 大山誠一『聖徳太子と日本人』2001 風媒社 ISBN 4833105209
  • 大山誠一(編集・共著) 『聖徳太子の真実』2003 平凡社 ISBN 4582469043
  • 大山誠一『聖徳太子と日本人 ― 天皇制とともに生まれた<聖徳太子>像』2005 角川書店 ISBN 4043782012
  • 『聖徳太子の実像と幻像』2001 大和書房 ISBN 4479840591

関連項目

外部リンク

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十七条憲法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)とは、『日本書紀』、『先代旧事本紀』に推古天皇12年(604年4月3日に「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」と記述されている17条からなる条文である。この皇太子は「??豐聰爾皇子」(聖徳太子)を指している。憲法十七条十七条の憲法とも言う。

今で言う憲法とは異なり、官僚貴族に対する道徳的な規範を示したものである。今の国家公務員法地方公務員法国家公務員倫理法に近い性質のものと言われることもあるが、そもそも法規範とは言い難い。

儒教[1]仏教の思想が習合されており、法家道教の影響も見られる。

成立

十七条憲法は、『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述によれば、推古天皇12年(604年)に成立したとされる(『上宮聖徳法王帝説』によれば、少治田天皇御世乙丑年(605年)。『一心戒文』によれば602年。)。

720年に成立した『日本書紀』に全文が引用されているものが初出であり、これを遡る原本、写本は現存しない。

近代歴史学の誕生とともに、十七条憲法には疑いも掛けられており、成立時期や作者については議論がある。

  • 津田左右吉は、1930年の『日本上代史研究』において、十七条憲法に登場する「国司国造」という言葉や書かれている内容は推古朝当時の政治体制と合わず、後世すなわち『日本書紀』編纂ごろに作成されたものであろうとした。
  • 坂本太郎は、1979年の『聖徳太子』において、「国司」は推古朝当時に存在したと見てもよく、律令制以前であっても官制的なものはある程度存在したから、『日本書紀』の記述を肯定できるとした。
  • 森博達は「1999年の『日本書紀の謎を解く』において、十七条憲法の漢文の日本的特徴(和習)から7世紀とは考えられず、『日本書紀』編纂とともに創作されたもの」とした。

(日本書紀に記載されている)漢文の書き下し文

夏四月の丙寅の朔戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)作る。
一に曰(いわ)く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し(なし)、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党有り、また達(さと)れる者(もの)は少(すく)なし。或(ある)いは君父(くんぷ)に順(したがわ)不(ず)、乍(また)隣里(りんり)に違(たが)う。然(しか)れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事(こと)を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理(じり)おのずから通(つう)ず。何事(なにごと)か成(な)らざらん。
二に曰く、篤(あつ)く三宝を敬へ。三宝はとは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。
三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下…(略)
四に曰く、群臣百寮、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(みず)から治まる。
五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略)
六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略)
七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略)
八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略)
九に曰く、信は是義の本なり。(略)
十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)
十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略)
十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂()することなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略)
十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略)
十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略)
十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略)
十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)
十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)

? 『日本書紀』第二十二巻 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇十二年

脚注

  1. ^ 例えば第1条の「以和爲貴」(和を以て貴しと為す)は、孔子の『論語』第1卷 学而第1「有子曰 禮之用和爲貴」(礼を之れ用ふるには、和を貴しと為す) が引用元である

関連項目

外部リンク

参考文献

  • 金治勇『聖徳太子のこころ』大蔵出版 1986年10月 ISBN 4804357017