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(国立国会図書館) 〇 言志録・言志後録・言志晩録・言志耋録. 言志録 佐藤一斎 著 (文魁堂, 1898)
(原文)〇言志録〇言志後録〇言志晩録〇言志耋録
(検索) ◎言志四録 、◎言志四録 全文 、〇佐藤一斎「言志四禄」総目次(引用文献)

  佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」岫雲斎( 先生42歳~53歳 )








【言志四録を読む前に】01而学の説 02佐藤一斎先生の偉さ 03佐藤一斎学について 04語録の学「論語と儒学」 05仏教の語録の学 06語録の学「無門関」 07言志四録起草について 08愛日楼について 09言志四録への思い

日本人の先祖が書いた修養本を読むべく、多くの人が賞賛する言志四録、著者の年齢に応じて4録ある
1)42歳~=言志録
2)57歳~約10年間=言志後録
3)67歳~78歳=言志晩録
4)80歳時起稿=言志耋録(てつろく)

(1) 言志録で学べることを抽出すると
○過去の自分が現在の自分を作り、現在の自分が将来の自分を作る。
○屈辱を受けて発憤したことで後世に名を残す人になった例あり。
○忙しいという人も実際に必要なことは1~2/10
○心は顔色と言葉にあらわれる。
○一芸は万芸に通ず。
○人には、その人の長所を話してもらうと自分にもためになる。
○賢者は死を当然来るものととらえているから恐れない。
○平生の言動こそ遺訓
○良き子供を育てるのは、私事ととらえず公事ととらえるべし
などなど。

目次    言志四録 目次 (川上正光全訳) 

   

目次   言志四録 目次 (久須本文雄全訳) 




その1その2その3その4その5その6その7その8

序めに
 岫雲斎

私は、人間を見る尺度として、
先ず第一に、礼儀と言葉遣いである。
第二に、ボディ・ランゲージでそれを確認している。

第三は、学歴とか地位、財産とかは一切無用で判定する。特に引退後の人物の姿勢を洞察し、社会人として、過去を捨てた本来の人間性が出来ているか判定している。個人としては、健康、謙譲を最大の眼目としている。
言志録

佐藤一斉先生

この書名は、論語・公治長篇からの出所と言われる。孔子が弟子の(がん)(えん)()()に言う、「なんぞ各々(なんじ)の志を言わざる」、各自が志を言い終わり、子路が孔子に「願わくば()の志を聞かん」と言う。孔子が「老者は之に(やす)んじ、朋友は之を信じ、少者は之を(なつ)けん」と答えた故事がある。 その各々その志を言う、これが言志録の語源であると言われる。因みに、

(げん)志後録(しこうろく)(先生57歳以後10年間)
(げんし)()晩録(ばんろく)(先生67歳より78才まで)

(げん)()耋録(てつろく)(先生80歳に起稿し二年間)である。
まとめて言志四録である。
岫雲斎も申すことにする。

当時の社会情勢

文化10年は徳川11代将軍家斉、江戸の文化は爛熟の極みで頽廃の兆しあり。鎖国ながら海外の情勢は不穏、外国は刻々日本に迫るが300諸侯は、世は太平なりののん気さは現在と酷似している。 先生が耋録(てつろく)上梓(じょうし)された嘉永6年ペルーが浦賀に来航し幕府の威信は地に落ちた、国内情勢一変の時で、これまた現在の日本の事情と岫雲斎の年齢と酷似している。先生は、この社会情勢を見て各般に亘り語録で警告されたと言えるのである。
西郷隆盛 言志四録は西郷南州に愛読された。また多くの明治維新の志士たちに愛読されたと言われる。 従って一斎先生は間接的に明治維新の原動力となっている。
岫雲斎も挑戦!

禅の巨匠には九十歳以上の長寿の方が大勢おられる。ある和尚曰く、「仏教では、本当に長寿で呆けないことが修行の証左だ」と。

最後まで知力でも衰えない方が大勢おられる。

岫雲斎もあやかりたいと思い言志録に挑戦する。
心無けい礙(しんむけいげ) 無けい礙(むけいげい)()

般若心経の核心は「心無けい礙(しんむけいげ) 無けい礙(むけいげい)() 無有(むう)恐怖(くふ) 遠離(おんり)一切(いっさい) 顛倒(てんどう)夢想(むそう)究竟(くうきょう)涅槃(ねはん)」だと思っている。

愚生は若い時から般若心経に傾注しそれなりの理解がある。
長寿の秘訣は、心無けい礙(しんむけいげ) 、心にけい礙なければ恐怖あることなしなのであろう。

言志録 本文

  佐藤一斎

  岫雲斎補注
1.   

 
みな、前に定まる

凡そ天地間の事は、古往(こおう)今来(きんらい)、陰陽昼夜、日月(じつげつ)(かわ)(かわ)る明らかに 四時(たがい)(めぐ)り 其の数皆な前に(さだま)れり。人の富貴貧賤(ふうきひんせん)死生寿殀(しせいじゅよう)利害(りがい)栄辱(えいじょく)聚散(しゅうさん)離合(りごう)に至るまで一定の数に非ざるは()し。殊に未だ之れを前知(ぜんち)せざるのみ。(たと)えば猶お傀儡(かいらい)()の機関(すで)(そなわ)れども、而も観る者知らざるがごときなり。世人其の(かく)の如きを悟らず、以て(おのれ)の知力(たの)むに足ると()して終身(しゅうしん)役々(えきえき)として東に(もと)め西に求め、遂に悴労(すいろう)して以て(たお)る。()れ亦惑えるの(はなはだ)しきなり。

一斎先生は宿命的運命論であるが、私は、安岡正篤先生の「立命論」を信奉する。

仏教では因果応報と言う、現世での自己の言動の因縁因果は理解するが、前世の行為が現世に出現する云々には直ちには組みしない。

だが、自分の先祖のDNAを継承して現れる己の現世のことは宿命である。

2

天を師と仰ぐ
太上(たいじょう)は天を師とし、

其の次は人を師とし、

其の次は(けい)を師とす。

岫雲斎
最上の人間は宇宙自然を師とする。これは真理。森羅万象の一つの存在に過ぎない人間は、その範疇の中の一生物だからである。(けい)は、古典であり人類英知の結晶でありこれは森羅万象の英知に近い、取捨選択は必須だが。

3.
天に仕える心
凡そ事を()すには、(すべか)らく天に(つか)うるの心有るを要すべし。人に示すの念有るを要せず。 

岫雲斎
これは正しい行いの精髄である。宗教の核心でもある。安岡先生は、人間に最も大切なのは「(しん)(どく)」だと言われたが相通ずるものである。

4.
天道(てんどう)
の運行は(ぜん)

天道は漸を以て(めぐ)り。人事は漸を以て変ず。必至の(いきおい)は、之を(しりぞ)け遠ざからしむる能わず、又、之を(うなが)して(すみや)かならしむる(あた)わず。

岫雲斎

 万物、物事の流転は、それなりの運行速度があるという含蓄。
それに逆らうと成るものも成らぬ。
これは実に微妙なるもので人生の摩訶不思議。

5.
(ふん)のエンジン

憤の一字は、()れ進学の機関なり。(しゅん)何人(なんびと)ぞや、(われ)何人(なんびと)ぞやとは、(まさ)()(ふん)なり。 

岫雲斎

発奮は学問の大事な機関車だという。
舜皇帝も人間ではないか。

自分だってと言う気概こそ全てだ。
 

6.
学は立志次第

学は立志より要なるは()し。(しこう)して立志も亦之れを()うる()らず。只だ本心の好む所に従うのみ。

岫雲斎 
学問は発心(ほっしん)し、目標を立てて決心する。心を奮い立たせ実行継続し続けるしかない。強制すべきものでもなく本心次第である。

7.
立志

立志の功は、恥を知るを以て要と為す

岫雲斎
内心で恥を知ることがポイント。戦後日本は、この「恥」の思想が消滅した。恥は自ら内心で恥じることが肝心要。大臣・官僚・企業のトップがミスを謝罪するのに、ご迷惑かけて申し訳ありませんでしたばかりで、誰一人として「恥しい」と謝罪しない。外面のみの謝罪では永遠にミスは続く、根本的でないからだ。恥は自己に対してだから本質的反省となる。

8.          
本分を尽す

性分(しょうぶん)本然(ほんぜん)を尽くし、職分の当然を努む。
()の如きのみ。
 

岫雲斎
人間が生来持っているはずの性分の仁・義・礼・智・信が本然。職分は孝・悌・忠・信など人間としての本来の道、これ等を人間はやればいいだけである。 

9.        
 
徳と位

君子とは有徳(ゆうとく)の称なり。其の徳有れば、(すなわ)ち其の位有り。徳の高下(こうげ)()て、位の崇卑(すうひ)()す。(しゅく)()に及んで其の徳無くして、其の位に居る者有れば、則ち君子も亦遂に(もっぱ)ら在位に就いて之を称する者有り。今の君子、(なん)虚名(きょめい)(おか)すの恥たるを知らざる 

岫雲斎

後世、近代となり徳がなくても良い位や地位につくようになった。

大臣や社長、高級官僚、徳もないのに単なる学歴と狡賢さだけで、為政者でいるのが人間社会の根本的罪悪であり不幸である。

10
 
自らの省察(せいさつ)が肝要

人は(すべか)らく自ら省察すべし。「天何の故にか我が身を生出(うみいだ)し、我れをして果して(なん)の用にか供せしむる。我れ既に天の物なれば、必ず天の(やく)あり。天の役(きょう)せずんば、天の(とが)必ず至らむ」。省察して(ここ)に到れば(すなわ)ち我が身の(いやし)くも生()からざるを知らむ。 

岫雲斎

天がなぜ自分を生み出したか、何の用が自分にあるのか、自分は天の物だから必ず天職がある、この天職を果たさねば天罰を受ける。
これは中々難しい問題だ。自分は生かされているとは長い間生きていると分る。
この地上での職となると分かり難い。天職とは自分以外の人、妻子でもいい、親兄弟でもいい、人さまの為とすれば現実的で理解できるのではないか。職を仕事と取ると難しい。
 

11        
 
自ら是非を知るべし

権は能く物を軽重(けいちょう)すれども、(しか)も自ら其の軽重を定むること(あた)わず。()は能く物を長短すれども、而も自ら其の長短を(はか)ること能わず。心は則ち能く物を是非して、而も又自ら其の是非を知る。是れ()(れい)たる所以(ゆえん)なるか。 

岫雲斎

権はハカリ、ハカリは自分の重さは(はか)れぬ。度、モノサシは自分の長さを計れぬ。人間の心は、自分の心の善悪も、他の物の是非善悪を知ることが出来る。これは人間の心が霊妙な証拠である。同感であるが弊害もあるのは事実だ。
心は又、コロコロして余程の修養・鍛錬をしないといけない。

12.
学者の見識

 

三代以上の意思を以て、三代以上の文字を読め。

岫雲斎
三代とは、()(いん)(しゅう)、理想の時代との認識が中国にはある。これは、固定認識に囚われぬなと言うことであれば大切なことでもある。 

13.
読書は手段
学を為す。故に書を読む。 

岫雲斎
読書は手段であり学を為すための、飽くまでも手段に過ぎぬ。

14.
多聞(たもん)
多見(たけん)
吾既に善を()るの心有れば、父兄(ふけい)師友(しゆう)の言、()だ聞くことの多からざるを恐る。読書に至っても亦多からざるを得んや。聖賢云う所の多聞多見とは、意正に()くの如し。 

岫雲斎

善への道が至っておらなくては、見聞の広いことが禍いして、身を害する事がある。

15 
修辞(しゅうじ)(りっ)(せい)
(ことば)(おさ)めて其の誠を立て、誠を立てて其の辞を修む。其の理一なり。 

岫雲斎

易経にも「修辞立誠」とある。経書の言葉をよく修得して精神修養の道を立てる。

16.
生々(せいせい)
の道

()うる者は之を(つちか)う。雨露(うろ)(もと)より生々なり。

傾く者は之を(くつが)えす。霜雪(そうせつ)も亦生々なり
 

岫雲斎
植物も人間も、天はその物の性質の自然な成長を偏り無く発揮させようとする。雨露が植生を助けるようなものだ。人間を含むあらゆる森羅万象は、持って生まれた素質に厚薄があるのは確かである。その上に花を咲かせるしかないのが冷徹な現実だ。易経の繋辞上篇に「生々之を易と云う」とある。

17        
  
造化(ぞうか)の妙

静に造化の跡を観るに、皆な其の事無き所に行わる。 

岫雲斎

天地万物、森羅万象の造化は、生々として行われる。摂理(せつり)と呼ぶに相応しい、恰も、大空を白雲が静かに悠々と流れて行くようにであろうか。

18   
事の妙処(みょうしょ)

(およ)そ事の妙処(みょうしょ)に到るは、天然の形成を自得するに過ぎず。

此の(ほか)更に別に
(みょう)無し。 

岫雲斎
将に至言なり。数百年、数千年と大きく伸びる老杉、桜樹などは、森羅万象の霊妙なる呼吸と完全合致したからであろう。人間とて同様なことが言えるのだと信ずる。易では自然の大道、仏教は諸法実相、神道は元来、自然のままである。

19.
   面・背・胸・腹

(おもて)は冷ならんことを欲し、背は(だん)ならんことを欲し、胸は虚ならんことを欲し、腹は実ならんことを欲す。 

岫雲斎
頭は冷やして正しい判断が可能。背中が温かいと熱情生まれ人々を魅了し動かす。心が虚心坦懐ならば他人の意見を大きく受け容れることが可能。腹が充実しておれば、則ち胆力あれば物に動じない、このような人物になりたいものである。

20
 
精神の収斂(しゅうれん)

人の精神(ことごと)(おもて)に在れば、物を()いて妄動すること(まぬか)れず。(すべか)らく精神を収斂して、(これ)を背に()ましむべし。(まさ)()く其の身を忘れて、身(しん)に吾が(ゆう)()らん。 

岫雲斎

心が顔面にのみあると、判断を間違え易い。
心を引き締めて、心を後方の背中に住まわせると判断を誤らない。
身を忘れてこそ心が自分のものとなる。

 21
心が(ふさが)れば全思考を間違える 
心下(しんか)痞塞(ひそく)すれば、百慮(ひゃくりょ)(あやま)る。 

岫雲斎
心が逼塞して伸び伸びとしていないと、良い考えが出てこない、全てのものを間違えることとなる。
心の容量は大きく運動領域は広いのがいい。

22

志の気を剣の如く
間思雑慮(かんしざつりょ)紛々擾々(ふんぷんじょうじょう)たるは、外物(がいぶつ)(これ)(みだ)すに()るなり。常に志気をして剣の如くにして、一切の外誘(がいゆう)を駆除し、敢て()()(おそ)い近づかざらしめば、自ら浄潔(じょうけつ)快豁(かいかつ)なるを覚えむ。 

岫雲斎

心に雑念が起きるのは外界の雑事が心を乱すからである。

精神を剣の如くして誘惑を一切寄せ付けねばさっぱりした気持ちになれる。

剣の如き精神次第だ。

23     
 
まず腹を据える

吾方(われまさ)に事を(しょ)せんとす。必ず先ず心下(しんか)に於て自ら(すう)(しん)(くだ)し、然る(のち)事に従う。 

岫雲斎

自分は、事態解決の時には、先ず心に(はり)を数本打つ。

そして腹を据え、覚悟を決めて熟考し仕事を始める。

24        
人柄と書画の相関

心の(じゃ)(せい)、気の強弱は、筆画之を(おお)うこと能わず。喜怒哀懼(きどあいく)勤惰静躁(きんだせいそう)に至りても、亦皆(これ)を字に(あら)一日の内、自ら数字を書し、以て反観せば、亦省心(せいしん)の一助ならむ。 

岫雲斎

筆跡に、心が邪しまか、正しいか、気が強いか現れて隠すことは出来ぬ。
心の喜び、哀しみ、(おそ)れ、勤勉、怠惰、平静、(そう)(ぜん)に至るまでみな字に現れる。
だから毎日、自分で文字を書いて繰り返し観れば自己反省の(たすけ)になる。

25
名を求めても避けても非

名を求むるに心有るは、(もと)より非なり。名を避くるに心有るも亦非なり 

岫雲斎

無理して名声を希求するのは宜しくない。また無理に名声を避けようとする心が有るのも宜しくない。

  佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その二 岫雲斎補注  

26
慮事(りょじ)処事(しょじ)

事を(おもんばか)るは周詳(しゅうしょう)ならんことを欲し、事を処するは易簡(いかん)ならんことを欲す。        

岫雲斎

周到に綿密に物事を考えることは必要。考えが決まったらさっさと片付けることだ。

27    
大志(だいし)の人は

真に大志有る者は、()小物(しょうぶつ)を勤め、真に遠慮有る者は、細事(さいじ)を忽にせず。 

岫雲斎

本当に大きな志を持つ人物は、小さな事柄も粗末にしない。また遠大な思考をする人は些細な事も疎かにしない。

28
誇伐(こばつ)の念こそ敵

(わずか)に誇伐の念頭有らば、便(すなわ)ち天地と(あい)()ず。 

岫雲斎
少しでも頭の中に誇り高ぶる思いあらば、それは天地の道理と離れることとなる。誇伐(こばつ)の念とは誇り高ぶる気持ち、天地は偉大な恩恵を与えても誇らない当たり前の顔をしている。自然の一つの人間もそうあるのが道理、当たり前ではないか。

29
大徳・小徳

大徳は(のり)()えざれ。小徳は出入(しゅつにゅう)すとも可なり。(ここ)を以て人を待つ。儘好(ままよ)し。 

岫雲斎
忠・信・孝・悌というような大きな徳に該当するものは、外れてはならぬ。しかし、小徳とも云える進退・応対のようなものは、他人には寛大に対応してよいだろう。自分に対しては小徳でもキチンと守るべきであろう。

30
自らに厳、他に寛
自ら責むること厳なる者は、人を責むることも亦厳なり。人を(じょ)すること(かん)なる者は、自ら恕することも亦寛なり。皆一偏(いっぺん)たるを(まぬが)れず。君子は則ち()自ら厚うして、薄く人を責む。 

岫雲斎

立派な君子たる人間であれば自分を責めることは厳でも、他人には寛である。

31.

 実事(じつじ)閑事(かんじ)

今人率(こんじんおおむ)ね口に多忙を説く、其の為す所を視るに、実事を整頓するもの十に一、二。閑事(かんじ)を料理するもの十に八、九、又、閑事を認めて以て実事と為す。(うべ)なり其の多忙なるや。志有る者誤って此のか(このか)を踏むこと(なか)れ。 

岫雲斎

現代人は多忙を口実として実際に必要なことをしているのはごく僅かである。
そして実につまらない仕事が大多数を占めている。
忙しいのは当たり前だ。
真の志ある者はこの穴に入らぬことだ。
 

32.

立志を

 

(きび)しく此の志を立てて以て之を求めば、薪を(はこ)び水を運ぶと雖も、亦是れ学の在る所なり。(いわん)や書を読み理を窮むるをや。志の立たざれば、終日読書に従事するとも、亦唯是れ閑事のみ。故に学を為すは志を立つるより(かみ)なるは()し。

岫雲斎

聖賢たらんと志を立てれば、薪を運び、水を運んでもそこに学問の道は有り真理を得ることが可能だ。志が立っていなければ一日中読書していても聖賢には程遠いのである。志を立てることが大切だ。

33.
志ある者は
志有るの士は利刃(りじん)の如し。(ひゃく)(じゃ)辟易(へきえき)す。志無きの人は(どん)(とう)の如し。(どう)(もう)侮翫(ぶかん)す。 

岫雲斎

志ある人は鋭利に刃の如くで魔神も近寄らぬ。

意思のない人はなまくら刀で子供にまでバカにされる。
 

  34.
少年と老年の心得
少年の時は当に老成の工夫を(あらわ)すべし。
老成の時は、当に少年の志気を存すべし。
 

岫雲斎
うーむ、なかなか良き言葉かな。若い時は経験者の如く熟慮し手落ち無きように工夫せよ。年をとってからは若者のような意気と気概を失わぬようにするのがいい。

35

対人三則
その一
物を容るるは美徳なり。然れども亦明暗あり。 

岫雲斎
雅量があり人を許容するのは美徳だが、悪を容れるのは良くない。

36.
対人三則
その二
人の言は須く容れて之を選ぶべし。(こば)()からず。又惑う可からず。 

岫雲斎
他人の言うことは一応聞き入れてから善悪を選択したらよい。始めから断ってはいけない。また、その言に惑わされてはいけない。自分の考えがなくてはならない。

37

対人三則
その三
能く人を容るる者にして、而る後以て人を責むべし。
人も亦其の責を受く。
人を容るること能わざる者は人を責むること能わず。
人も亦其の責を受けず。
 

岫雲斎
人を容れる雅量があってこそ始めて人の欠点を責める資格がある。そのような人からの責めは受け入れられよう。反対に雅量のない人は人の短所を責める資格もない。このような人の責めは受け容れられないであろう。

38

人相は隠せない

心の(あら)わるる所は、尤も言と色とに在り。
言を察して色を()れば、(けん)不肖(ふしょう)
、人
隠す能わず。 

岫雲斎

言葉と顔色に人の心が最も現れる。その人の言葉を推察し、顔色を照らし合わせて観れば、利巧かバカか分る。人というものは決して隠せるものではない。 

39
(けん)()(そう)
人の賢否は、初めて見る時に於て之を(そう)するに、多く(あやま)らず

 

岫雲斎
私には100パーセントそうだと云えない。人間性の第一印象の直観はほぼ当たっているとは思うが、諸対面で賢否の判定には自信がない。 

40.

愛憎
(あい)()念頭(ねんとう)、最も(そう)(かん)(わずら)わす。 

岫雲斎

好き嫌いが頭にあると、人物鑑定の間違いの元となる。

41
富貴と貧賤

富貴は(たと)えば則ち春夏なり。人の心をして(とう)せしむ。貧賤は喩えば則ち秋冬なり。人の心をして粛ならしむ。故に富貴に於ては則ち其の志を溺らし、貧賤に於ては則ち其の志を(かた)うす。 

岫雲斎
貧賤は粛ならしむ、近年はこの感覚が欠けている。みな太った豚みたいな顔の指導者ばかりに見える。これは社会の弛緩となりあらゆる場面で事故多発となっている。これで日本国の斜陽が始まると社会が益々悪化しよう。

42
          
 

知分(ちぶん)()(そく)
(ぶん)を知り、然る(のち)()るを知る。 

 

岫雲斎
これは自分の能力、人間的実力、地位などを勘案すれば、それなりに満足しなくてはならぬ事か。広い世間を知らぬ者が陥る場合が多い。私はそれを田舎者という、都会にも田舎者が多い。概して井戸の中の蛙は地方に多い。田舎に住んだ儘の人々には見えないものがあるのに本人は気がつかない。ただ本当に学んでいる人は田舎に住んでも物の見える人も存在する。

43
 
(さく)()と今の過ち
昨の非を悔ゆる者は之れ有り、今の(あやまち)を改むる者は(すくな)し。 

岫雲斎

この言葉は真言なり。
現在、只今の非を自覚してこそ進歩である。

44.

得意の時こそ
得意の時候は、最も(まさ)に退歩の工夫を()くべし。一時一事も亦皆(こう)(りゅう)有り。 

岫雲斎
我が思いが成功した時こそ退歩、一歩下がる気持ちを工夫せよという、至極最もだが難しいものだ。上に登り詰めた者は退くことを考えておかないと悔いに直面する。菅直人の例など当に然りだ。 

45.

寵愛(ちょうあい)
を受けたら
(ちょう)過ぐる者は、(うらみ)(しょう)なり。(じつ)(はなはだ)しき者は、(うとん)ぜらるるの(ぜん)なり。 

岫雲斎

上の人から寵愛されたら身を慎むことじゃ。
周囲から疎まれ恨みを招く。
これが人情というものだ。
 

46.
政治の要諦

土地人民は天物(てんぶつ)なり。()けて之を養い、物をして各々其の所を得しむ。是れ君の職なり。(じん)(くん)或は(あやま)りて、土地人民は皆我が物なりと()うて之を(あら)す。此を之れ君、天物を(ぬす)むと謂う。 

岫雲斎

土地人民を私物化して安泰であったタメシは歴史的にあるまい。
日本の天皇様の如く、被災者の見舞いに膝をついておられる姿、菅直人クンの最初の訪問時の罵声と見比べるとよく理解できよう。

47

 
君主

君の臣に於ける、賢を挙げ能を使い、(とも)に天職を治め、与に天禄を()み、元首股肱(ここう)、合して一体を成す。此を義と()う。(じん)(くん)()(いたず)らに、我れ禄俸(ろくほう)(いだ)し以て人を(やしな)い、人(まさ)に報じて以て駆使に赴かんとすと謂うのみならば、則ち市道と何を以てか異ならむ。 

岫雲斎

君主は禄を出して人民を意のままに使い、人民はその禄に報いるだけでは単なる商売と異ならぬ、道義は益々廃れる。

賢者を登用し、人民の夫々の能力を存分に発揮させてこそ君主とか上に立つ者と言える。

48

(たか)く地(ひく)くして、乾坤(けんこん)定る。君臣の分は、(すで)(てん)(てい)に属す。各々其の職に尽くすのみ。故に臣の君に於ける、当に(ちく)(よう)の恩如何を視て其の報を厚薄(こうはく)にせざるべきなり。 

岫雲斎
現代の感覚には当てはまらないからこの理の理解が出来ない人が多かろう。然し、天は高く、地は低いから天地が定まるのは法則であり絶対だ。物事には原理が正しく働かねば動かぬ。組織をよく機能させるには、上に立つ者の在り方が良くなければならないのは確かな真理だ。
組織の原理は民主的ではないのも事実だ。
 

49

  
指導者の道

天工を助くる者は、我従うて之を賞し、天物を(そこな)う者は、我従うて之を罰す。人君は(わたくし)()るるに非ず。 

岫雲斎

上に立つ者には、私心があってはならないと云うこと。
現代は恐ろしいくらいのこの原理が忘却されている。
上のものの根幹的思想なのであるが。

50 
 
財成

てきばききりもりすること
五穀自ら生ずれども、耒耜(らいし)を仮りて以て之を助く。人君の財成輔相(ほしょう)も亦此れと似たり。 

岫雲斎
耒耜(らいし)は「(すき)」のこと。

五穀も人間が鋤や鍬で栽培せねば良くならん。良い人民も君主次第であろう。

51

大臣

大臣の職は、大綱を()ぶるのみ。日間(につかん)()()は、旧套(きゅうとう)遵依(じゅんい)するも可なり。但だ人の発し難きの口を発し、人の処し難きの事を処するは、年間(おおむ)ね数次に過ぎず、紛更労擾(ふんこうろうじょう)(もち)うること(なか)れ。 

岫雲斎
情けない近年の日本の大臣である。大臣は最も大切な点のみ統べればいいが、民主主義では総理もままならぬこととなった。日常の些細なことは、幹部に任せたらいい。それをやっていては本質的な処理ができない。本来の大臣は、ここに指摘されているように、「人が言わんとして言えない事を言い」、「人が処理に迷う難事を処断」することだ。その為に日頃の心労を避けよと云っているのだが・・。

52.
重臣の任務
社稷(しゃしょく)の臣の執る所二あり。曰く鎮定。曰く機に応ず。  

岫雲斎
国家経営者の最大の任務は二つ、一つは安全保障・民生安定。二は、臨機応変である。菅直人クンは私が有り過ぎて国家大局を喪失している。

53  

()(おう)の気

家翁、今年八十有六、(かたわ)らに人多き時は、神気(しんき)自ら()(そう)(じつ)なれども、人少なき時は、神気(とみ)(すい)(だつ)す。()思う、子孫男女は同体一気なれば、其の頼んで以て安んずる所の者(もと)よりなり。但だ此れのみならず、老人は気(とぼ)し。人の気を得て以て之を助くれば、(けだ)し一時気体(きたい)調和(ちょうわ)すること、温補(おんぼ)薬味(やくみ)を服するが如きと一般なり。此れ其の人多きを愛して、人少きを愛せざる所以なり。()って悟る、王制に「八十、人に非ざれば(たん)ならず」とは、蓋し人の気を以て之を(あたた)むるを謂うなり。膚嫗(ふう)(いい)に非ざるを」 

岫雲斎

要するに八十六の父親に関して、肌身に添ってくれる老女が必要なのではなく、年寄りには側に人がいて賑やかだと気持ちが暖かくなり元気が出てくるのだと言う趣旨である。

孤独が最もいけないと云うことだ。
 

54.

酒三則

酒は(こく)()の精なり。(すこ)しく飲めば以て生を養う()し。過飲して狂?(きょうく)に至るは、是れ薬に()って病を発するなり。人?(にんじん)附子(ふす)()()大黄(だいおう)の類の如きも、多く之を服すれば必ず瞑眩(めんけん)を致す。酒を飲んで発狂するも亦猶お此くのごとし。 

岫雲斎

酒は穀物の精だから養生に良い、だが多飲すれば狂うのは薬により発病するのと同じ。

人参などなど多用して眩暈が出来るのがその証明だ。
 

55.
.


酒三則
酒の用には二つあり。鬼神(きじん)は気有りて形無し。故に気の精なるものを以て之を(あつ)む。老人は気衰う。故に亦気の精なる者を以て之を養う。少壮気(さかん)なる人の(ごと)きは、?(まさ)に以て病を致すに足るのみ 

岫雲斎

気が有り形の無いのは神様だからお供えし招く。
老人は気が衰退するから酒により気力を養う。
気溢れて盛んな若者は病を招くから多飲を避けるべし。
 

56


酒三則
勤の反を()()し、倹の反を(しゃ)と為す。余思うに、酒能く人をして惰を生ぜしめ、又人をして奢を長ぜしむ。勤倹以て家を興す()ければ、則ち惰奢(だしゃ)以て家を(ほろぼ)すに足る。(けだ)し酒之れが(なかだち)を為すなり。 

岫雲斎

酒は人間を怠惰にするし又驕りの心を起させる。
家運興隆は勤勉と節約に拠る。
怠惰、贅沢は家運衰退の元だ、酒がこれの媒体となる。

佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その三 岫雲斎補注  

57

 
実学二則
その一

草木を培植(ばいしょく)して、以て元気機緘(きかん)の妙を観る。何事か学に非ざらむ。 

岫雲斎
草木を育てるとその生々発育する過程に、森羅万象の気運とその微妙さが観察出来て大いに得るものがある。そこに活学がある。

58.           実学二則 その二

山岳に登り、(せん)(かい)(わた)り、数十百里を走り、時有ってか露宿(ろしゅく)して()ねず、時有ってか()うれども(らく)わず、寒けれども()ず、()()れ多少実際の学問なり。()徒爾(とじ)として、明窓浄几(めいそうじょうき)(こう)()き書を読むが(ごと)き、恐らくは力を得るの(ところ)(すく)なからむ。 

岫雲斎

人間的実力を身につけるのは活学であり現場での体験であることの謂いである。

腹一杯食べて、きれいな冷暖房の効いた環境での学問は知識のみで実人生に役に立たぬ。

心身の鍛錬、社会の人情の機微も体験しなくては真のリーダーたり得ない。

現代日本の指導者に全く欠如している事象であろう。
 

59. 
艱難は才能を磨く

凡そ遭う所の艱難(かんなん)(へん)()屈辱(くつじょく)讒謗(ざんぼう)(ふつ)(ぎゃく)の事は、皆天の吾才を老せしめる所以にして砥砺(しれい)切磋(せっさ)の地に非ざるは()し。君子は当に之に処する所以を(おもんばか)るべし。(いたず)らに之を免れんとするは不可なり。 

岫雲斎

艱難は八苦、変事や屈辱は世間では日常茶飯事、

人からの悪口は当たり前、合点のゆかぬことは毎日起きる。

これは天が自分の才能を鍛錬していると思うべし、免れようと思わぬことじゃ。

60.  
経を離れるのも学問

古人は経を読みて以て其の心を養い、経を離れて以て其の志を弁ず。則ち、独り経を読むを学と為すのみならず、経を離るるも亦是れ学なり。 

岫雲斎

経典は、その真意を汲み取る事が肝要。
一字一句こだわり、囚われるように読むのは正しくない。

61.

達人同士は話が通じる 

一芸の士は、皆語る可し。 

岫雲斎
どのような道でも、一流に達した人同士は、通じ合うものだ。

62.

聞き上手

凡そ、人と語るには、(すべから)(かれ)をして其の長ずる所を説かしむべし。我に於て益有り 

岫雲斎
(かれ)には詮索する意味はない、彼でよかろう。

人との会話では相手の長所を話題にすると自分の勉強になる。

63.

為すべきことを避けるな
凡そ、事吾が分の已むを得ざる者に於ては、当に之を為して避けざるべし。已むを得べくして()めずば、これ則ち我より事を生ぜん。 

岫雲斎
自分の本分としてしなければならぬ事は敢然と為すべし。
避けてはならぬ。しなくても良い事を、やめないでしたならば問題を起す。

64.

才は剣の如し
才は猶お剣のごとし。善く之を用うれば、則ち以て身を(まも)るに足り、善く之を用いざれば、則ち以て身を殺すに足る。 

岫雲斎
才能というものは、剣のようなものだ。善く使えば身を守ってくれる。悪く使うと我が身を殺すハメになる。才人、才に溺れると諺もある通りだ。

65.     

姦悪な小人

古今姦悪(かんあく)を為すの小人は、皆才、人に過ぐ、(しょう)(しん)の若きは、最も是れ非常の才子なり。微、()()(かん)の諸賢にして且つ(しん)有りと雖も、其の心を(ただ)す能わず、又其の位を()うる能わず。

(つい)に以て其の身を(たお)して、()かも其の世を()つ。是れ才の(おそ)るべきなり。 又其の位を()うる能わず。(つい)に以て其の身を(たお)して、()かも其の世を()つ。是れ才の(おそ)るべきなり。 

65姦悪な小人

岫雲斎補注

岫雲斎
昔から、悪賢い小者は人並みはずれて才智が勝れている。その典型的な商辛()の紂王は兄の微子の諫めを聞かず、叔父の箕子(きし)も逃げた。

()(かん)も叔父だが、諫言されて()き殺された。紂王は滅亡し子孫も絶えた。才智のみ勝れて学問しない人間は気をつけねばならないのは現代とて同様である。
66
.      
小利に注意

(しゃく)(ろく)を辞するは易く、小利に動かされざるは難し。 

岫雲斎
清廉な人物と言われたい為に地位やお金を辞退するのは戦前迄のことで現代ではとても参考になるまい。
だが、小さな利益は油断があり心が動かされ易いものだ。

67

利は公共のもの

利は天下公共の物なれば、何ぞ()って悪有らん。但で自ら之を専らにすれば、則ち怨を取るの道たるのみ。 

岫雲斎
分かり易い事例は、田中角栄は、大きくばら撒いたから怨まれていない。
小沢一郎は私物化しているから嫌われている。

68
  
礼の妙用

情に(したが)って情を制し、欲を達して欲を(とど)む。是れ礼の妙用なり。 

岫雲斎
情というものは程よく制しなくては弊害が出る。欲望はある程度満たしたら限度を設けることが肝要。これが礼儀=慎みの妙用というもの。

69. 

自他一套事(とうじ)

己を治むると人を治むると、只だ是れ一套事(とうじ)のみ。自ら欺くと人を欺くと、亦只だ是れ一套事(とうじ)のみ。 

岫雲斎
套事(とうじ)は同じこと。
自分の気持ちで治めることだと云うこと。自分を自ら欺くことは他人を欺くこと同じである。なぜなら自分の誠に反したことをしたことになるからだ。


70

諫言二則 その一

凡そ、人を(いさ)めんと欲するには、唯だ一団の誠意、言に溢るる有るのみ。(いやしく)も一忿疾(ふんしつ)の心を挟まば、諫めは決して入らじ。 

岫雲斎

熱烈な誠意や態度が言葉に溢れるようでなくてはなるまい。腹を立てたり、憎むような心が少しでもあれば、相手は忠告は聞かない。

71
諫言二則 その二
(いさめ)を聞く者は、()(すべから)らく(きょ)(かい)なるべし。諫を進むる者も亦須らく虚懐なるべし。 

岫雲斎

忠告をする者は、誠心を尽くし誠意を尽してわだかまりの無いものでなくてはならぬ。また、聞く者もそうなくてはならぬ。

72

(がく)と礼
人をして懽欣(かんきん)鼓舞(こぶ)して外に(ちょう)(はつ)せしむる者は(がく)なり。人をして(せい)(しゅく)収斂(しゅうれん)して内に固守(こしゅ)せしむる者は礼なり。人をして懽欣鼓舞の意を整粛収斂の(うち)(ぐう)せしむる者は、(れい)(がく)合一(ごういつ)の妙なり。 

岫雲斎

音楽は、人を踊らせ喜ばせ伸び伸びさせる。また、礼は、人の身を整え、慎ませ、心に引き締めさせるものがある。この相反する楽と礼だが、合一して喜びの中に引き締めるものがその妙である。
岫雲斎は、毎朝、浄土宗勤行と般若心経を声高らかに朗誦する。祝詞も上げる、厳粛であり胆からの声で至って健康的と考えている。

73           和暢(わよう)の妙

(いにしえ)(ほう)相氏(そうし)()を為す。熊皮(ゆうひ)(こうむ)り、黄金(おうごん)(もく)(げん)()(しゅ)(しょう)(ほこ)を執り(たて)()げ、百隷(ひゃくれい)(ひき)いて之を()つ。郷人(きょうじん)群然として出でて観る。蓋し、礼を制する者深意有り。伏陰愆(ふくいんけん)(よう)、結ばれて(えき)()と為る。之を駆除せんと欲するには、人の純陽の気に()るに()くは()し。

方相(ほうそう)気を()して率先し、百隷之に従う。状、恠物(かいぶつ)(ごと)く然り。(こう)(きょう)の老少、雑とうして、(あつま)り観て、且つ(おどろ)き且つ(わら)う。(ここ)に於て陽気四発し、疫気自ら能く消散す。(すなわ)(こう)(きょう)の人心に至りても、亦(よっ)て以て(かん)(ぜん)として和暢(わよう)し、()(じゃ)(とく)の内に伏欝(ふくうつ)する無し。蓋し其の()に近き処、是れ其の妙用の在る所か。 
73 和暢の妙

岫雲斎

岫雲斎
逐条解説しても余り現代的意味がなく空しいので取りやめる。要するに、礼と楽の一致した所に妙があると云う道化(どうげ)である。

疫病は、隠された陰気であり、これを追い出すのは人間の持つ純粋な陽気によるのが一番だという方相氏の疫病祓いの儀式の次第である。
74.

平和時の政事
治安日に久しければ、楽時漸く多きは、(いきおい)(しか)るなり。勢の趣く所は即ち天なり。士女聚(しじょあつま)(よろこ)びて、飲讌(いんえん)歌舞(かぶ)するが如き、在在(ざいざい)に之れ有り。(もと)より得て禁止す可からず。而るを乃ち強いて之を禁じなば、則ち人気抑鬱(よくうつ)して、発洩(はつえい)する所無く、必ず伏して邪悪と()(かく)れて凶姦(きょうかん)と為り、或は結ばれて疾?毒(しつちんどく)(そう)と為り其の害殊に(はなはだ)しからん。(まつりごと)を為す者()だ当に人情を斟酌して、之れが操縦を為し、之を禁不禁の間に置き、其れをして過甚(かじん)に至らざらしむべし。是れも亦時に赴くの(まつりごと)然りと為す。 

岫雲斎

要諦は為政者は人心を汲み取り、禁ずるでもなく、うまく操り偏らないようにするのが時代に順応した政治だというのである。
それは平和が続くと楽しみ事が増えるのは自然で、男女が歓楽し歌舞することは止める訳には出来ない。
禁止して人心抑圧すれば、隠れてやるとか不満が溜ると色々の病気の元で、禁止するより甚しくなるからという前提の上の話である。

だが、放縦の現代は、徳川時代と異なり、この話題は全く該当しない。
 

75.  
歓楽(かんらく)発揚(はつよう)の場

人心は歓楽発揚の処無かる可からず。故に王者の世に出ずる必ず(がく)を作りて以て之を教え、人心をして寄する所有り、楽しんで淫するに至らず、和して流るるに至らざらしむ。(ふう)移り俗(かわ)りて、(ここ)(じや)(とく)無し。当今(とうこん)伝うる所の雅俗の楽部(がくぶ)は、(ならび)(ふう)を移し俗を()うるの用無しと(いえど)も、而も士君子(しくんし)之を為すとも、亦不可なる無し。坊間(ぼうかん)詞曲(しきょく)の如きに至っては、多くは是れ淫哇巴ゆう(いんあいはゆ)、損有りて益無し。 

但だ此を捨てては則ち()()の男女、寄せて以て歓楽発揚す可き所無し。勢も亦之をしゃく停す可からず。

(これ)を病に(たと)うるに、発揚は表なり。

抑鬱(よくうつ)は裏なり。表を撃てば則ち裏に入る、救う可からざるなり。(しばら)く其の表を(ゆる)くして、以て内攻(ないこう)を防ぐに()かず。

此れ(まつりごと)を為す者の宜しく知るべき所なり。
 
岫雲斎

岫雲斎
政治の要諦を比喩で語ったもの。人間には適切な楽しみで発散する事が必要だという。徳の高い君主はそれを音楽に求めた話である。だが世間では猥らな音楽で、これを歌うと損ばかり招く、だがそれを止めると男女が心 

を寄せ合い発散する場所がなくなり強いて中止も出来ぬ。病気で言えば発散するのが表、押さえつけるのが裏、表を撃てば裏に廻りどうにもならなくなるから表を少し緩める呼吸を政治は心得たが良いという。
76.    

人心発揚

人君当に士人をして常に射騎刀さく(しゃきとうさく)の義に遊ばしむべし。蓋し、其の進退、駆逐、坐作(ざさ)(げき)()、人の心身をして大に発揚する所()らしむ。是れ但だ治に乱を忘れざるのみならず、而も又(せい)()に於て補い有り。 

岫雲斎

君主は武士に弓、馬術、刀や薙刀を使う武術を督励し、退いたり、走ったりさせて身体を元気にさせておくが宜しい。

平和ボケで有事を忘れさせないだけでなく、国政全般の遂行上の効果も期待できるのだ。

77

古楽の滅亡
古楽は亡びざる能わず。楽は其れ(いずれん)の世にか始まりし。果して聖人より前なるか。若し聖人に待つこと有って而して後作りしならんには、則ち其の人既に亡くして而も其の作る所、安んぞ能く独り久遠(くおん)を保せんや。 
聖人の徳の精英、発して楽とある。乃ち之を管絃に被らせ、之を簫磬(しようけい)(ととの)え、聴く者をして之に親炙(しんしゃ)するが如くならしむ。則ち楽の感召(かんしょう)にして、其の徳の此に(ぐう)するを以てなり。今聖を去ること既に遠く、之を伝うる者其の人に非ず。其の漸く差繆(さびゅう)を致し、遂に以て亡びるも亦理勢(りぜい)の必然なり。 
(しょう)(さい)に伝わる、孔子高く心に(かな)えり。孔子深く心に契えり。然れども恐らくは(すで)に当時の全きに(あら)じ。但だ其の遺音(いおん)尚お以て人を感ずるに足りしならんも、而も今亦遂に亡びたり。 凡そ天地間の事物、生者は皆死に、金鉄も亦滅す。況や物に寓する者能く久遠(くおん)を保せんや。故に、曰く、古楽(こがく)亡びざる能わずと。但し元声(げんせい)太和(たいわ)の天地人心に存する能はずと。但し、天地人心に存する者に至りては、即ち聖人より前なるも、成人より後なるも、未だ(かつ)て始終有らず。是れも、亦知らざる可からざるなり
岫雲斎 聖人が亡くなった以上、聖人の作った古楽が何時までも残っているはずはない。聖人の徳が音楽になり人に感銘を与えたのは聖人の徳が音楽に寄寓していたからだ、死と共に亡びるのは理の当然。 天地の事物は、生じたものは死滅するし、金や鉄のようなものさえ滅してしまう。まして音楽ぞや。だが、天地人心の中に存在する至上の音楽は、聖人の現れる前も後も不変であることを知らねばならない。 
78.

自然の楽と礼
気息(きそく)、 一笑話も、皆(がく)なり。一挙手、一投足も、皆礼なり 

岫雲斎
一呼吸も、自然の音楽も談笑も人心を和するのが音楽と言える。挙手も足を動かすのも皆、礼である。

79.

上に立つ者の心得

聡明にして重厚、威厳にして(けん)(ちゅう)
人の(かみ)たる者は当に此の如くなるべし
 

岫雲斎
上の立つ人間は、聡にして明に物事を洞察し、しかも重々しくて穏やかでなくてはならぬ。その上に威厳を伴わなくてはならぬ。更に謙虚で、わだかまりの無い人物であらねばならぬ。

80.  

人君の心得三則
その一

(くに)(おさ)むるに手を下す処は、?内(こんない)()に在り。淫靡(いんび)を禁じ、冗費(じょうひ)を省くを、最も先努(せんむ)()す。 

岫雲斎

諸大名が国を治める最初の施策は奥御殿を治めることなり。
みだらな奢侈を禁止し、無駄な出費を省くことが真っ先にやることである。

81
人君の心得三則その二

人君閨門(けいもん)の事、其の好丐(こうたい)は、外人能く()って(ひそ)かに之を議す。故に風俗を正し、教化(きょうか)(あつ)くせんと欲するには、必ず(もとい)(ここ)に起こす。 

岫雲斎

大名の大奥の事の良否は、外の人がよく知って、こそこそ批評するものだ。
だから領内の風俗を立派にして教育を高めるにはこの大奥を正す事から始めるのが宜しい。

82
.
人君の心得三則その三

(じん)(しゅ)事毎(ことごと)(ひそか)に自ら令すれば、則ち威厳を()き、有司(ゆうし)()れば則ち人之を厳憚(げんたん)す。 

岫雲斎

大名が私ごとの如き命令を下していくと、威厳が無くなる。担当の役人経由の命令なら人々は謹んで受け容れるものだ。
組織のルートを活用しなくては菅直人クンのようになる。

83

凡庸な上司

大臣の言を信ぜずして左右の言を信じ、男子の言を聴かずして婦人の言を聴く。

庸主皆然り。
 

岫雲斎
庸主とは平凡な上司であるが、近年は、大臣などボンクラだし、男子より女性の方が現実的で聡明なのが多い観すらある。決断出来ない部課長が多いとも聞く。この言葉は時代に合わず、最早や死語だ。

84.  

下情と下事とは別

下情は下事と同じからず。人に君たる者、下情には通ぜざる可からず。下事には則ち必ずしも通ぜず。 

岫雲斎
下情に通じる、これは大切なことである。企業でも政治にもである。細々(こまごま)した下事に通じることは不用だが、現場の現実を知ることは大切だ。「現場を知る」、現場感覚はトップには不可欠な要素だ。現場を知り大局観ある人材を育てることが肝要。

85

権は徳に在り

(くに)、道有れば、則ち君は権を譲る。権は徳に在りて力に在らず。邦、道無ければ、則ち君は大臣と権を争う。権は力に在りて徳に在らず。権、徳に在れば、則ち権、上に離れず。権、力に在れば、則ち権遂に(しも)に帰す。故に(まつりごと)を為すには唯徳礼を以てするを之(とう)としと()す。 

岫雲斎
国政に道理が通っておれば君主と大臣が譲り合う。
権力側に政治の道理が無ければ政権闘争になるのは徳がないからだ。
政権が徳を伴っておれば現代の君主である国民は離れない。
政治には、いかなる時代でも徳と礼が欠けたらお終いとなる。
悪政の見本は民主党・菅直人である。

86. 

大臣の権を弄ぶ風潮

大臣の権を弄ぶの風は、多く幼君よりして起る。権一たび(しも)に移れば、()た収む可からず。主、年既に長ずれども、()お虚器を擁し、沿襲(えんしゅう)して風を成せば、則ち患、(こう)(こん)に遺る。但だ大臣其の人を得れば、則ち独り此の患無きのみ。  

岫雲斎

幼君のとき、大臣が権力を濫用して問題が起こる。
一度権力の味を占めたら退陣をしない菅直人君のようになる。
原理原則を間違えたら思わぬ支離滅裂な結果になる。

徳を備えた人物が総理になれば、このような災いは起きぬ。

託孤(たっこ)の任

託孤(たっこ)の任に当たる者は、()(しゅ)(ちょうず)ずるに?(およ)べば、則ち当に早く権を君に還し、以て自ら退避すべし。(すなわ)ち能く君臣(ふたつ)つながら全からん。伊尹(いいん)曰く「臣、寵利を以て成功に居ること()かれ」と。是れ阿衡(あこう)が実践の言にして万世大臣の亀鑑なり。 

岫雲斎

 
託孤(たっこ)とは先君の遺児を託して国政を委ねること。

幼児君主の貢献人は、君主が成長して正常に政治を司れるようになったら、大権を返上して地位を退くがよい。
君子に可愛がられても、功なり名を遂げたら地位の引退をするべきだ。
これは大臣の手本となる言葉である。

佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その三 岫雲斎補注  

57

 
実学二則
その一

草木を培植(ばいしょく)して、以て元気機緘(きかん)の妙を観る。何事か学に非ざらむ。 

岫雲斎
草木を育てるとその生々発育する過程に、森羅万象の気運とその微妙さが観察出来て大いに得るものがある。そこに活学がある。

58.           実学二則 その二

山岳に登り、(せん)(かい)(わた)り、数十百里を走り、時有ってか露宿(ろしゅく)して()ねず、時有ってか()うれども(らく)わず、寒けれども()ず、()()れ多少実際の学問なり。()徒爾(とじ)として、明窓浄几(めいそうじょうき)(こう)()き書を読むが(ごと)き、恐らくは力を得るの(ところ)(すく)なからむ。 

岫雲斎

人間的実力を身につけるのは活学であり現場での体験であることの謂いである。

腹一杯食べて、きれいな冷暖房の効いた環境での学問は知識のみで実人生に役に立たぬ。

心身の鍛錬、社会の人情の機微も体験しなくては真のリーダーたり得ない。

現代日本の指導者に全く欠如している事象であろう。
 

59. 
艱難は才能を磨く

凡そ遭う所の艱難(かんなん)(へん)()屈辱(くつじょく)讒謗(ざんぼう)(ふつ)(ぎゃく)の事は、皆天の吾才を老せしめる所以にして砥砺(しれい)切磋(せっさ)の地に非ざるは()し。君子は当に之に処する所以を(おもんばか)るべし。(いたず)らに之を免れんとするは不可なり。 

岫雲斎

艱難は八苦、変事や屈辱は世間では日常茶飯事、

人からの悪口は当たり前、合点のゆかぬことは毎日起きる。

これは天が自分の才能を鍛錬していると思うべし、免れようと思わぬことじゃ。

60.  
経を離れるのも学問

古人は経を読みて以て其の心を養い、経を離れて以て其の志を弁ず。則ち、独り経を読むを学と為すのみならず、経を離るるも亦是れ学なり。 

岫雲斎

経典は、その真意を汲み取る事が肝要。
一字一句こだわり、囚われるように読むのは正しくない。

61.

達人同士は話が通じる 

一芸の士は、皆語る可し。 

岫雲斎
どのような道でも、一流に達した人同士は、通じ合うものだ。

62.

聞き上手

凡そ、人と語るには、(すべから)(かれ)をして其の長ずる所を説かしむべし。我に於て益有り 

岫雲斎
(かれ)には詮索する意味はない、彼でよかろう。

人との会話では相手の長所を話題にすると自分の勉強になる。

63.

為すべきことを避けるな
凡そ、事吾が分の已むを得ざる者に於ては、当に之を為して避けざるべし。已むを得べくして()めずば、これ則ち我より事を生ぜん。 

岫雲斎
自分の本分としてしなければならぬ事は敢然と為すべし。
避けてはならぬ。しなくても良い事を、やめないでしたならば問題を起す。

64.

才は剣の如し
才は猶お剣のごとし。善く之を用うれば、則ち以て身を(まも)るに足り、善く之を用いざれば、則ち以て身を殺すに足る。 

岫雲斎
才能というものは、剣のようなものだ。善く使えば身を守ってくれる。悪く使うと我が身を殺すハメになる。才人、才に溺れると諺もある通りだ。

65.     

姦悪な小人

古今姦悪(かんあく)を為すの小人は、皆才、人に過ぐ、(しょう)(しん)の若きは、最も是れ非常の才子なり。微、()()(かん)の諸賢にして且つ(しん)有りと雖も、其の心を(ただ)す能わず、又其の位を()うる能わず。

(つい)に以て其の身を(たお)して、()かも其の世を()つ。是れ才の(おそ)るべきなり。 又其の位を()うる能わず。(つい)に以て其の身を(たお)して、()かも其の世を()つ。是れ才の(おそ)るべきなり。 

65姦悪な小人

岫雲斎補注

岫雲斎
昔から、悪賢い小者は人並みはずれて才智が勝れている。その典型的な商辛()の紂王は兄の微子の諫めを聞かず、叔父の箕子(きし)も逃げた。

()(かん)も叔父だが、諫言されて()き殺された。紂王は滅亡し子孫も絶えた。才智のみ勝れて学問しない人間は気をつけねばならないのは現代とて同様である。
66
.      
小利に注意

(しゃく)(ろく)を辞するは易く、小利に動かされざるは難し。 

岫雲斎
清廉な人物と言われたい為に地位やお金を辞退するのは戦前迄のことで現代ではとても参考になるまい。
だが、小さな利益は油断があり心が動かされ易いものだ。

67

利は公共のもの

利は天下公共の物なれば、何ぞ()って悪有らん。但で自ら之を専らにすれば、則ち怨を取るの道たるのみ。 

岫雲斎
分かり易い事例は、田中角栄は、大きくばら撒いたから怨まれていない。
小沢一郎は私物化しているから嫌われている。

68
  
礼の妙用

情に(したが)って情を制し、欲を達して欲を(とど)む。是れ礼の妙用なり。 

岫雲斎
情というものは程よく制しなくては弊害が出る。欲望はある程度満たしたら限度を設けることが肝要。これが礼儀=慎みの妙用というもの。

69. 

自他一套事(とうじ)

己を治むると人を治むると、只だ是れ一套事(とうじ)のみ。自ら欺くと人を欺くと、亦只だ是れ一套事(とうじ)のみ。 

岫雲斎
套事(とうじ)は同じこと。
自分の気持ちで治めることだと云うこと。自分を自ら欺くことは他人を欺くこと同じである。なぜなら自分の誠に反したことをしたことになるからだ。


70

諫言二則 その一

凡そ、人を(いさ)めんと欲するには、唯だ一団の誠意、言に溢るる有るのみ。(いやしく)も一忿疾(ふんしつ)の心を挟まば、諫めは決して入らじ。 

岫雲斎

熱烈な誠意や態度が言葉に溢れるようでなくてはなるまい。腹を立てたり、憎むような心が少しでもあれば、相手は忠告は聞かない。

71
諫言二則 その二
(いさめ)を聞く者は、()(すべから)らく(きょ)(かい)なるべし。諫を進むる者も亦須らく虚懐なるべし。 

岫雲斎

忠告をする者は、誠心を尽くし誠意を尽してわだかまりの無いものでなくてはならぬ。また、聞く者もそうなくてはならぬ。

72

(がく)と礼
人をして懽欣(かんきん)鼓舞(こぶ)して外に(ちょう)(はつ)せしむる者は(がく)なり。人をして(せい)(しゅく)収斂(しゅうれん)して内に固守(こしゅ)せしむる者は礼なり。人をして懽欣鼓舞の意を整粛収斂の(うち)(ぐう)せしむる者は、(れい)(がく)合一(ごういつ)の妙なり。 

岫雲斎

音楽は、人を踊らせ喜ばせ伸び伸びさせる。また、礼は、人の身を整え、慎ませ、心に引き締めさせるものがある。この相反する楽と礼だが、合一して喜びの中に引き締めるものがその妙である。
岫雲斎は、毎朝、浄土宗勤行と般若心経を声高らかに朗誦する。祝詞も上げる、厳粛であり胆からの声で至って健康的と考えている。

73           和暢(わよう)の妙

(いにしえ)(ほう)相氏(そうし)()を為す。熊皮(ゆうひ)(こうむ)り、黄金(おうごん)(もく)(げん)()(しゅ)(しょう)(ほこ)を執り(たて)()げ、百隷(ひゃくれい)(ひき)いて之を()つ。郷人(きょうじん)群然として出でて観る。蓋し、礼を制する者深意有り。伏陰愆(ふくいんけん)(よう)、結ばれて(えき)()と為る。之を駆除せんと欲するには、人の純陽の気に()るに()くは()し。

方相(ほうそう)気を()して率先し、百隷之に従う。状、恠物(かいぶつ)(ごと)く然り。(こう)(きょう)の老少、雑とうして、(あつま)り観て、且つ(おどろ)き且つ(わら)う。(ここ)に於て陽気四発し、疫気自ら能く消散す。(すなわ)(こう)(きょう)の人心に至りても、亦(よっ)て以て(かん)(ぜん)として和暢(わよう)し、()(じゃ)(とく)の内に伏欝(ふくうつ)する無し。蓋し其の()に近き処、是れ其の妙用の在る所か。 
73 和暢の妙

岫雲斎

岫雲斎
逐条解説しても余り現代的意味がなく空しいので取りやめる。要するに、礼と楽の一致した所に妙があると云う道化(どうげ)である。

疫病は、隠された陰気であり、これを追い出すのは人間の持つ純粋な陽気によるのが一番だという方相氏の疫病祓いの儀式の次第である。
74.

平和時の政事
治安日に久しければ、楽時漸く多きは、(いきおい)(しか)るなり。勢の趣く所は即ち天なり。士女聚(しじょあつま)(よろこ)びて、飲讌(いんえん)歌舞(かぶ)するが如き、在在(ざいざい)に之れ有り。(もと)より得て禁止す可からず。而るを乃ち強いて之を禁じなば、則ち人気抑鬱(よくうつ)して、発洩(はつえい)する所無く、必ず伏して邪悪と()(かく)れて凶姦(きょうかん)と為り、或は結ばれて疾?毒(しつちんどく)(そう)と為り其の害殊に(はなはだ)しからん。(まつりごと)を為す者()だ当に人情を斟酌して、之れが操縦を為し、之を禁不禁の間に置き、其れをして過甚(かじん)に至らざらしむべし。是れも亦時に赴くの(まつりごと)然りと為す。 

岫雲斎

要諦は為政者は人心を汲み取り、禁ずるでもなく、うまく操り偏らないようにするのが時代に順応した政治だというのである。
それは平和が続くと楽しみ事が増えるのは自然で、男女が歓楽し歌舞することは止める訳には出来ない。
禁止して人心抑圧すれば、隠れてやるとか不満が溜ると色々の病気の元で、禁止するより甚しくなるからという前提の上の話である。

だが、放縦の現代は、徳川時代と異なり、この話題は全く該当しない。
 

75.  
歓楽(かんらく)発揚(はつよう)の場

人心は歓楽発揚の処無かる可からず。故に王者の世に出ずる必ず(がく)を作りて以て之を教え、人心をして寄する所有り、楽しんで淫するに至らず、和して流るるに至らざらしむ。(ふう)移り俗(かわ)りて、(ここ)(じや)(とく)無し。当今(とうこん)伝うる所の雅俗の楽部(がくぶ)は、(ならび)(ふう)を移し俗を()うるの用無しと(いえど)も、而も士君子(しくんし)之を為すとも、亦不可なる無し。坊間(ぼうかん)詞曲(しきょく)の如きに至っては、多くは是れ淫哇巴ゆう(いんあいはゆ)、損有りて益無し。 

但だ此を捨てては則ち()()の男女、寄せて以て歓楽発揚す可き所無し。勢も亦之をしゃく停す可からず。

(これ)を病に(たと)うるに、発揚は表なり。

抑鬱(よくうつ)は裏なり。表を撃てば則ち裏に入る、救う可からざるなり。(しばら)く其の表を(ゆる)くして、以て内攻(ないこう)を防ぐに()かず。

此れ(まつりごと)を為す者の宜しく知るべき所なり。
 
岫雲斎

岫雲斎
政治の要諦を比喩で語ったもの。人間には適切な楽しみで発散する事が必要だという。徳の高い君主はそれを音楽に求めた話である。だが世間では猥らな音楽で、これを歌うと損ばかり招く、だがそれを止めると男女が心 

を寄せ合い発散する場所がなくなり強いて中止も出来ぬ。病気で言えば発散するのが表、押さえつけるのが裏、表を撃てば裏に廻りどうにもならなくなるから表を少し緩める呼吸を政治は心得たが良いという。
76.    

人心発揚

人君当に士人をして常に射騎刀さく(しゃきとうさく)の義に遊ばしむべし。蓋し、其の進退、駆逐、坐作(ざさ)(げき)()、人の心身をして大に発揚する所()らしむ。是れ但だ治に乱を忘れざるのみならず、而も又(せい)()に於て補い有り。 

岫雲斎

君主は武士に弓、馬術、刀や薙刀を使う武術を督励し、退いたり、走ったりさせて身体を元気にさせておくが宜しい。

平和ボケで有事を忘れさせないだけでなく、国政全般の遂行上の効果も期待できるのだ。

77

古楽の滅亡
古楽は亡びざる能わず。楽は其れ(いずれん)の世にか始まりし。果して聖人より前なるか。若し聖人に待つこと有って而して後作りしならんには、則ち其の人既に亡くして而も其の作る所、安んぞ能く独り久遠(くおん)を保せんや。 
聖人の徳の精英、発して楽とある。乃ち之を管絃に被らせ、之を簫磬(しようけい)(ととの)え、聴く者をして之に親炙(しんしゃ)するが如くならしむ。則ち楽の感召(かんしょう)にして、其の徳の此に(ぐう)するを以てなり。今聖を去ること既に遠く、之を伝うる者其の人に非ず。其の漸く差繆(さびゅう)を致し、遂に以て亡びるも亦理勢(りぜい)の必然なり。 
(しょう)(さい)に伝わる、孔子高く心に(かな)えり。孔子深く心に契えり。然れども恐らくは(すで)に当時の全きに(あら)じ。但だ其の遺音(いおん)尚お以て人を感ずるに足りしならんも、而も今亦遂に亡びたり。 凡そ天地間の事物、生者は皆死に、金鉄も亦滅す。況や物に寓する者能く久遠(くおん)を保せんや。故に、曰く、古楽(こがく)亡びざる能わずと。但し元声(げんせい)太和(たいわ)の天地人心に存する能はずと。但し、天地人心に存する者に至りては、即ち聖人より前なるも、成人より後なるも、未だ(かつ)て始終有らず。是れも、亦知らざる可からざるなり
岫雲斎 聖人が亡くなった以上、聖人の作った古楽が何時までも残っているはずはない。聖人の徳が音楽になり人に感銘を与えたのは聖人の徳が音楽に寄寓していたからだ、死と共に亡びるのは理の当然。 天地の事物は、生じたものは死滅するし、金や鉄のようなものさえ滅してしまう。まして音楽ぞや。だが、天地人心の中に存在する至上の音楽は、聖人の現れる前も後も不変であることを知らねばならない。 
78.

自然の楽と礼
気息(きそく)、 一笑話も、皆(がく)なり。一挙手、一投足も、皆礼なり 

岫雲斎
一呼吸も、自然の音楽も談笑も人心を和するのが音楽と言える。挙手も足を動かすのも皆、礼である。

79.

上に立つ者の心得

聡明にして重厚、威厳にして(けん)(ちゅう)
人の(かみ)たる者は当に此の如くなるべし
 

岫雲斎
上の立つ人間は、聡にして明に物事を洞察し、しかも重々しくて穏やかでなくてはならぬ。その上に威厳を伴わなくてはならぬ。更に謙虚で、わだかまりの無い人物であらねばならぬ。

80.  

人君の心得三則
その一

(くに)(おさ)むるに手を下す処は、?内(こんない)()に在り。淫靡(いんび)を禁じ、冗費(じょうひ)を省くを、最も先努(せんむ)()す。 

岫雲斎

諸大名が国を治める最初の施策は奥御殿を治めることなり。
みだらな奢侈を禁止し、無駄な出費を省くことが真っ先にやることである。

81
人君の心得三則その二

人君閨門(けいもん)の事、其の好丐(こうたい)は、外人能く()って(ひそ)かに之を議す。故に風俗を正し、教化(きょうか)(あつ)くせんと欲するには、必ず(もとい)(ここ)に起こす。 

岫雲斎

大名の大奥の事の良否は、外の人がよく知って、こそこそ批評するものだ。
だから領内の風俗を立派にして教育を高めるにはこの大奥を正す事から始めるのが宜しい。

82
.
人君の心得三則その三

(じん)(しゅ)事毎(ことごと)(ひそか)に自ら令すれば、則ち威厳を()き、有司(ゆうし)()れば則ち人之を厳憚(げんたん)す。 

岫雲斎

大名が私ごとの如き命令を下していくと、威厳が無くなる。担当の役人経由の命令なら人々は謹んで受け容れるものだ。
組織のルートを活用しなくては菅直人クンのようになる。

83

凡庸な上司

大臣の言を信ぜずして左右の言を信じ、男子の言を聴かずして婦人の言を聴く。

庸主皆然り。
 

岫雲斎
庸主とは平凡な上司であるが、近年は、大臣などボンクラだし、男子より女性の方が現実的で聡明なのが多い観すらある。決断出来ない部課長が多いとも聞く。この言葉は時代に合わず、最早や死語だ。

84.  

下情と下事とは別

下情は下事と同じからず。人に君たる者、下情には通ぜざる可からず。下事には則ち必ずしも通ぜず。 

岫雲斎
下情に通じる、これは大切なことである。企業でも政治にもである。細々(こまごま)した下事に通じることは不用だが、現場の現実を知ることは大切だ。「現場を知る」、現場感覚はトップには不可欠な要素だ。現場を知り大局観ある人材を育てることが肝要。

85

権は徳に在り

(くに)、道有れば、則ち君は権を譲る。権は徳に在りて力に在らず。邦、道無ければ、則ち君は大臣と権を争う。権は力に在りて徳に在らず。権、徳に在れば、則ち権、上に離れず。権、力に在れば、則ち権遂に(しも)に帰す。故に(まつりごと)を為すには唯徳礼を以てするを之(とう)としと()す。 

岫雲斎
国政に道理が通っておれば君主と大臣が譲り合う。
権力側に政治の道理が無ければ政権闘争になるのは徳がないからだ。
政権が徳を伴っておれば現代の君主である国民は離れない。
政治には、いかなる時代でも徳と礼が欠けたらお終いとなる。
悪政の見本は民主党・菅直人である。

86. 

大臣の権を弄ぶ風潮

大臣の権を弄ぶの風は、多く幼君よりして起る。権一たび(しも)に移れば、()た収む可からず。主、年既に長ずれども、()お虚器を擁し、沿襲(えんしゅう)して風を成せば、則ち患、(こう)(こん)に遺る。但だ大臣其の人を得れば、則ち独り此の患無きのみ。  

岫雲斎

幼君のとき、大臣が権力を濫用して問題が起こる。
一度権力の味を占めたら退陣をしない菅直人君のようになる。
原理原則を間違えたら思わぬ支離滅裂な結果になる。

徳を備えた人物が総理になれば、このような災いは起きぬ。

託孤(たっこ)の任

託孤(たっこ)の任に当たる者は、()(しゅ)(ちょうず)ずるに?(およ)べば、則ち当に早く権を君に還し、以て自ら退避すべし。(すなわ)ち能く君臣(ふたつ)つながら全からん。伊尹(いいん)曰く「臣、寵利を以て成功に居ること()かれ」と。是れ阿衡(あこう)が実践の言にして万世大臣の亀鑑なり。 

岫雲斎

 
託孤(たっこ)とは先君の遺児を託して国政を委ねること。

幼児君主の貢献人は、君主が成長して正常に政治を司れるようになったら、大権を返上して地位を退くがよい。
君子に可愛がられても、功なり名を遂げたら地位の引退をするべきだ。
これは大臣の手本となる言葉である。

  佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その四 岫雲斎補注  

88.

眼を高くつけよ
(ちゃく)(がん)高ければ、則ち理を見て()せず。 

岫雲斎
大局観あらば、物の道理が見えて迷うこと無く決断できる。日本人は島国で、国際的視野が低い、これだけ国際化したら日本人の目の高さの低すぎるのが危険因子となった。地方分権の怖さを痛感している。  

89.    
後世の毀誉(きよ)

当今の毀誉は(おそ)るるに足らず。後世の毀誉は懼るべし。一身の(とく)(そう)(おもんばか)るに足らず。 

岫雲斎
後世では拭うことが出来ぬから恐ろしいが、現世での毀誉褒貶は恐るるに足りない。自分自身の得失、利害は心配するに当たらないが、子孫に及ぼす影響はよく良く考えておかなくてはならぬ。

90

過去は未来への教訓

(すで)に死するの物は、(まさ)に生くるの用を為し、既に過ぐるの事は、将に来らんとするの(かん)を為す。 

岫雲斎
遠く昔に死んだものは生きている者の役に立ち、また遠く昔に過ぎ去った事柄は未来への教訓となる。
91.   

月を見て思うこと

人の月を()るは、皆(いたず)らに看るなり。(すべから)(ここ)に於て宇宙窮り無きの概を想うべし。  

岫雲斎

日本人は鑑賞的に月を眺めるが、一斎先生は、宇宙の果てしない事に思いを致せという。先進的なものが秘められており流石である。

92.    

花 

已むを得ざるに(せま)りて、而る後に(これ)を外に発する者は花なり。 

岫雲斎
花は、大自然の生気が満ち満ちて開くものだ。已むに已まれぬ我々の思い、精神の発露が物を実らせる。

93.   

自然の妙

布置(ふち)宜しきを得て、而も按排(あんばい)を仮らざる者は山川(さんせん)なり。 

岫雲斎
山や川の配置の妙を感嘆したのであろう。私は登山家だが、山には「安らぎ」が流れている。大自然の環境により微妙に異なる植生に驚くことばかり。

94

()(どう)三則
その一

人は(すべか)らく地道を守るべし。

地道は敬に在り。

順にして天に()くるのみ。
 

岫雲斎
易経「天道(てんどう)下済(かさい)して光明 地道卑(ちどうひく)うして上行(じょうこう)す」なのである。
地道とは、敬でもある。人を敬し、己は慎むことなり。
さすれば、上行す。

95.  

 
()(どう)三則
その二

耳・目・口・鼻・四肢(しし)(ひゃく)(がい)、各々其の職を守りて以て心に聴く。是れ地の天に(したが)うなり。 

岫雲斎

身体の各部分は、夫々自己の職務に忠実に必死に働いて心の指図を受ける。
これは地が天に従うの道理である。

96.
()(どう)三則
その三

地をして能く天に()けしむる者は、天之を使()しむるなり。身をして能く心に(したが)わしむる者は、心之を使()しむるなり。一なり。 

岫雲斎

地が天の命をよく聞くのは、天が上で地を支配するからである。
同様に身体が心によく従うのは心が全体の機能をよく総括するからである。その理由は一つだ。

97

百物皆来処あり

目を挙ぐれば百物(ひゃくぶつ)皆来処(みならいしょ)有り。()(かく)の父母に出ずるも、亦来処なり。心に至りては、則ち来処(いず)くにか在る。()(いわ)く、躯殻は是れ()()の精英にして、父母に由って之を(あつ)む。心は則ち天なり。躯殻成って天焉(てんこれ)(ぐう)し、天寓して知覚生じ、天離れて知覚(ほろ)びぬ。心の来処は(すなわ)太虚(たいきょ)()れのみ。 

岫雲斎

全てのものは、大元がある。心は何処から来たのか。

肉体は地の気のエッセンスを父母を通じて集められたものだ。
父母により肉体が完成すると天が宿る。

天が宿ると知覚が生まれるし、天が肉体を離れると知覚も滅する。

故に、心の由って来るのは太虚、則ち宇宙の本源からである。

98.    

 
気は自然の凝縮
気に自然の形有り。結んで体質を成す。体質は(すなわ)ち気の(あつま)れるなり。気は人人(ひとひと)異なり。故に体質も亦人人同じからず。(もろもろ)其の思惟・運動・言談・作為する所、各々其の気の()くる所に従って之を発す。()(せい)にして之を察するに、小は則ち字画・工芸より、大は則ち事業・功名まで、其の(あと)皆其の気を結ぶ所の如くして、之が形を為す。人の少長童稚(しょうちょうどうち)の面貌よりして、而して漸く以て長ず。既に其の長ずるや、凡そ(あと)を外に発する者は、一気を推して之を条達すること、体躯の長大にして已まざるが如きなり。故に字画・工芸若しくは其の結構する所の堂室(どうしつ)園池(えんち)を観るも、亦以て其の人の気象如何も想見す可し。 

岫雲斎

人間の気は天・大自然より夫々が別々の形で受けている。

気は万物創造の大元である。

人間の思考も、運動も、言論も、仕事も、その気が発動したものだ。

人間の為すあらゆる作為はこの気から発現し、全て異なる発現をしている。

その人間の作為の結果である産物を見れば、その人の気質が想像できるのである。

99

性と質
性は同じゆうして質は()なり。質の異なるは教え由って設くる所なり。性の同じさは、教の由って立つ所なり。

岫雲斎
人間の本性は同一だが気質が異なる。そこに教育する必然的理由がある。本性が同一だから人夫々に相応しい教育が望ましい。

100.
人倫は重し その一

人君は社稷(しゃしょく)を以て重しと為す。而れども人倫は殊に社稷より重し。

社稷は棄つ可し。人倫は棄つ可からず。
 

岫雲斎
社稷、この概念は戦後余り知らない。社は土地神。稷は五穀神。国王は戒壇を設け祭祀を行う。社稷とは国家のことである。大名は領土を大切にするが、人間の踏むべき道徳は、領土より大切だから領土を棄てても人倫を棄ててはいけないと一斎先生は言う。近代国家を棄てよという意味ではない。

101 

人倫は重し その二

或ひと疑う。成王、周公の三監(さんらん)を征しなば、社稷を重んじ人倫を軽んぜしに非ずやと。予謂う、然らずと。三叔(さんしゅく)()(こう)を助けて以て(そむ)けり。是は則ち文武に(そむ)きしなり。或王、周公たる者、文武の為に其の罪を(ちゅう)せずして、故らに之を騙して以て其の悪に覚せんや。則ち()お是れ人倫を重んぜしなり。 

岫雲斎

成王、周公は聖人と言えるが、三監(さんらん)を討伐した。

自分の先祖等の反逆者を討伐しないで三人のなすままにしてその悪には組みする事はできない、成王、周公は人倫の道を選んだのである。

102.

上より禍が起きる
諺に云う、禍は(しも)より起こると。余謂う、是れ国を亡ぼすの言なり。人主をして誤りて之を信ぜしむ()からずと。凡そ禍は皆上よりして起こる。其の下より出ずる者と雖も、而も亦必ず致す所有り。成湯之誥(せいとうのこう)に曰く、(なんじ)万方(ばんぽう)の罪有るは()れ一人に在りと。人主たる者は、当に此の言を(かんが)みるべし。 

岫雲斎

禍は上より起きる、大名はこれを信じてはならぬ。

全ては上から起きるものだ。例え下から出た禍も、上に立つ者がそうさせている処のものがある。殷の(とう)(こう)の模範的な言葉がある。それは「四方の国々の人民に罪悪があるのは自分一人の責任である」と。上に立つ者の在り方次第だということ。
上の者の在り方が全ての鍵を握るのだ。

103

.井田(せいでん)の法

(せい)、十が一に止まれば則ち井田なり。経界(けいかい)(まん)にせざれば則ち井田なり。深く耕し(おさ)(くさぎ)れば則ち井田なり。百姓親睦すれば則ち井田なり。何ぞ必ずしも方里(ほうり)九区に拘拘(くく)として然る後井田と為さんや。 

岫雲斎

征は税、井田は殷・周時代の田制。田を九等分して井の形とし、周囲を八軒に分ける。税金が収穫の十分の一であれば井田法の原理に適う。則ちお上の管理が行き届き田地区画も明快で乱れていない。田をよく耕し、十分除草しておればそれで十分。
徒に法にかかずらうことはない。

104. 

()禄の法

()后氏而来(こうしこのかた)(じん)(くん)皆子(みなこ)に伝う。是れ其の禄を世にするなり。人君既に自ら其の禄を(よよ)にして、而も人臣をして独り其の禄を(よよ)にすることを得ざらしむる者は、斯れ亦自ら(わたくし)するならざらんや、故に()(ろく)の法は天下の公なり。 

岫雲斎

皇帝が地位を子に譲り、臣下には禄を伝えさせないならそれは私であり、公ではない。

105.      

無用の用 その一
天下の事物、理勢(りせい)然らざるを得ざる者有り。学人或は(すなわ)ち人事を(しりぞ)けて、(もく)するに無用を以てす。殊に知らず、天下無用の物無ければ、則ち亦無用の事無きを。其の斥けて以て無用と為す者、(いず)くんぞ其の大いに有用の者たらざるを知らんや。若し輒ち一概に無用を以て之を目すれば、則ち天の万物を生ずる。一に何ぞ無用の多きや。材に(あた)らざるの草木有り。食うべからざるの禽獣(きんじゅう)虫魚(ちゅうぎょ)有り。天果して何の用有ってか之を生ずる。殆ど情量の及ぶ所に非ず。易に曰く「其の(ひげ)(かざ)る」と。(ひげ)亦将(または)た何の用ぞ」。 

岫雲斎

人間は簡単に、無用と物を考えてはならぬ、自然の趨勢と言うものがあるとの趣旨。

事実、世の中、みな存在理由はあり、自然の成り行きでそうなるというものがある。

学者・知識人は目先の理屈で非難、排斥し無用視するが、大自然には無用の物、無用の事も無いと知るべし。

(あご)(ひげ)は何の役に立つのか、簡単に物を考えないことだ。

人間が万物の原理を知らないだけなのだ。

106      

無用の用 その二

凡そ年間の人事万端、(かぞ)(きた)れば十中の七は無用なり。但だ人、(へい)(せい)()り、心寄する所無くば、則ち間居(かんきょ)して不善を為すことも亦少なからじ。今貴賎男女を連ね、(おおむ)ね無用に纏綿駆(てんめんく)(えき)せられて、以て日を(わた)れば、則ち(おも)い不善に及ぶ者或は少なからん。(ここ)も亦其の用ある処なり。蓋し治安の世界には然らざるを得ざるも、亦理勢(りせい)なり。 

岫雲斎

一年間の仕事の七から八割は無用、人間は平和な時代には、心を寄せるものが無いと小人閑居して不善をなすものである。

今の世は、上から下まで、男女を問わず無用のものに引き廻されて忙しくしている、悪事を思いつくのも人間である。

太平の世というものはこのようなものである。

現代日本の事のようだ。

107
  
本性と()(かく) その一

性の善なるを知らんと欲せば、(すべか)らく先ず悪を為すの由る所を究むべし。人の悪を為すは、果して何の為ぞ。()目鼻(もくび)(こう)四肢(しし)の為に非ずや、耳目有りて而る後に声色(せいしき)に溺れ、鼻口有りて而る後に臭味(しゅうみ)(ふけ)り、四肢有りて而る後に安逸(あんいつ)(ほしいまま)にす。皆悪の由りて起こ所なり。()し躯殻をして耳目鼻口を去り、打して(いっ)(かい)の血肉と()さしめば、則ち此の人果して何の悪を為す所あらんや。又性をして躯殻より脱せしめば、則ち此の性果して悪を為すの(そう)有りや否や。(なん)(こころみ)に一たび之を思わざる。 

岫雲斎

性善説の解明を試みておられる。
人がなぜ悪をするのか。

耳や目があるから音楽や女色に溺れる。

鼻や口があるから匂いや味に耽る。

手足があるから、これを動かさずに安楽を求める。

これらが悪の原因という。

これらの耳目鼻口を身体から取り払い一つの血肉の塊となればこの人間はどんな悪をなすのか。

また人間の本性を取り除けば、この本性はどんな悪をなそうとするのか。

考えて見ては如何。

108.  

本性と躯殻 その二

性は(これ)を天に()け、()(かく)(これ)を地に受く。天は純粋にして形無し。形無ければ則ち通ず。(すなわ)ち善に一なるのみ。地は(ばく)(ざつ)にして形有り。形有れば則ち(とどこお)る。故に善悪を兼ぬ。地は()()く天()けて以て功を成す者、風雨を起して以て万物を生ずるが如き是れなり。又時有りてか、風雨も物も(やぶ)れば、則ち善悪を兼ぬ。其の謂わゆる悪なる者、亦真に悪有るに非ず。過不及有るに由りて然り。性の善と躯殻の善悪を兼ぬることは亦此くの如し。 

岫雲斎

人間の本性は天から、身体は地から受けたもの。
天は純粋で融通無碍で形無く善一筋。
地は色々形があるから制限もある。
時に善、時に悪と両用だ。
地は天から活力を受けて地の働きをする、風雨を起こし万物を生ぜしめる。
風雨は破壊があるから地は善悪を備えていると云える。

地の悪は真悪でない、本性が善であるからだ。
ただ活力オーバーか、不足かの問題である。

人間の身体が善悪を備えているのもこれと同じ原理である。

109.

本性と躯殻 その三

性は善なりと雖も而も躯殻無ければ、其の善を行うこと能わず。躯殻の設け、本心の使役に趣きて以て善を為さしむる者なり。但だ其の形有る者滞れば、則ち既に心に承けて以て善を為し、又過不及(かふきゅう)有るに由りて悪に流る。孟子云う「(けい)(しき)は天性なり。惟だ聖人にして然る後に以て形を()む可し」と。見る可し。躯殻も亦(もと)不善無きことを。 

岫雲斎

本性が善であるにしても身体が無ければ善を行えない。
身体は心に使われて善を為すためである。
その心も身体の中に停滞すると善も為すけれども時には行過ぎたり及ばないで悪に流れてしまう。
孟子は「身体も顔色も天の賦与したものだが、聖人にして初めて天性通りに実践できる」と言った。
このように考えると身体も元々不善でないことが分かる。

110

聖人は欲を善処に用いる
人は欲無きこと(あた)わず。欲は()く悪を為す。天既に人に()するに性の善なる者を以てして、而も又必ず之を(みだ)すに欲の悪なる者を以てす。天(なん)ぞ人をして初より欲無からしめざる。欲は果して何の用ぞや。余()う、欲は人身の生気にして、(こう)()精液(せいえき)(じょう)ずる所なり。此れ有りて生き、此れ無くして死す。人身の欲気(よくき)四暢(よんちょう)九竅(きゅうきょう)毛孔(もうこう)に由りて(ろう)(しゅつ)す。()りて躯殻をして其の願を(さかん)ならしむ。悪に流るる所以なり。凡そ生物は欲無き能わず。唯だ聖人は其の欲を善処に用うるのみ。孟子曰く「欲す可き、之を善と謂う」と。孔子曰く「心の欲する所に従う」と。(しゅん)曰く「(われ)をして欲するに従い以て治めしめよ」と。皆善処に就きて之を言うなり。 

岫雲斎

人間に欲は本源的なものだ。だが、欲が人間を悪くする。天は本性に善を与えている。

その上にそれを乱すものとして欲を付加した。

欲は何の役に立つのか、なぜ初めから欲を無しとしなかったのか。

思うに、生身の人間の生気そのものが欲である。
身体の膏や精液の蒸ずる所である。
欲があってこそ人間は生きられるが無ければ死ぬ。
欲気が体内に広がり身体の穴や毛穴から漏れ出て欲望を盛んとならしめる。
これが悪に流される所以である。
生き物は欲が無い訳には参らぬ。
聖人がその欲を善用するばかりである。
孟子は「思うままが善である」、
孔子は「自らの心のままに従う」、
舜皇帝は「心の欲する処に従って民を治めさせよ」と言った。

聖人は、欲の本質を理解して善用したのである。

111.

人身の生気

人身の生気は、(すなわ)()()の精なり。故に生物必ず欲有り。地、善悪を兼ぬ。故に欲も亦善悪有り。 

岫雲斎
人間の活き活きとした元気は地気の精だ。だから、生物には必ず欲がある。地は善悪を兼ね備えているから欲にも善と悪がある。

112.

欲を漏らすな

草木(そうもく)の生気有りて、日に暢茂(ちょうも)するは、是れ其の欲なり。其の枝葉(しよう)の長ずる所に従えば、則ち欲漏る。故に其の枝葉を()れば、則ち生気、(こん)(かえ)りて、(かん)(すなわ)ち大なり。人の如きも亦躯殻の欲に従えば則ち欲漏る。欲漏るれば則ち神耗(しんもう)して、霊なること能わざるなり。故に欲を外に(ふさ)げば、則ち生気内に(たくわ)えられて心(すなわ)ち霊に、身も亦健なり。 

岫雲斎

草木に生気あり日々伸張するは草木に欲があるからだ。

だが枝葉の伸びるに任せれば欲が漏出する。

だから枝葉を伐採すれば生気が根に帰り幹が大きくなる。

人間も同様で欲に任せておれば欲が漏れ出して精神消耗し、霊妙なる働きが失せてくる。
だから欲が外に漏れぬようにすれば生気が内に充実し、心は霊妙な作用をするし身体も健康となる。

113

欲を(ふさ)

鍋内(かない)の湯、蒸して(えん)()を成す。気、外に漏るれば則ち湯減ず。(ふた)を以て之を塞げば、則ち気漏るること能わず。露に化して滴下(てきか)し、湯(すなわ)ち減ぜず。人能く欲を塞げば、則ち心身並に其の養を得るも亦此の如し。 

岫雲斎

鍋の中の湯が蒸発し湯気となる。
湯気が外に漏れると湯は少なくなる。
蓋で鍋を塞ぐと湯気は漏れないで露となり再び鍋の中に滴り落ちて湯は減らない。
欲を塞ぐと心も体もよく養生できるのと同様である。

114. 

孝子(こうし)の表彰

近代孝子を賞するに、金帛(きんはく)(ぞく)(べい)を賜いて之を(あら)わす。頽俗(たいぞく)風励(ふうれい)するの意に於ては則ち得たり。但だ其の之を賞するには、当に(これ)孝子(こうし)の心に(もと)づくを可と為すべし。孝子の心は、親を愛するの外に他念無し。其の身の(かん)()すら、且つ甘んじて之を受く、(いわん)や敢て名を求めんや。故に金帛粟米の()、宜しく其の親に厚くして其の子に薄くすべし。蓋し、其の子に薄くするに非ず。其の親に厚うする所以の者は、則ち其の子に厚うする所以なり。親を賞するの辞に曰く、「庭訓(ていくん)、素有り」と。子を賞するの辞に曰く「能く庭訓に従う」と。此くの如くなれば則ち孝子の素願足る。

岫雲斎

要するに孝行の子供の表彰に金銭物品を与えるが、それは親にした方がよいという一斎先生の主張である。

そうすれば親思いの子供も喜ぶし、親の教訓が良かったからとなるから孝行な子供は満足するだろう。

115 
孝名ある者

孝名の(あら)わるるは、必ず貧窶(ひんく)、艱難、疾病(しっぺい)(へん)()に由れば、則ち凡そ孝名有る者、(おおむ)ね不幸の人なり。今若し徒らに厚く孝子に賜うて、而して親に及ばざれば則ち孝子たる者に於て、其の家の不幸を資として以て賞を()り名を(もと)むるに(ちか)きなり。其の心恐らくは安からざる所有らむ。且つ凡そ人の善を称するは、当に必ず其の父兄に本づくべし。此くの如くなれば、則ち独り其の孝弟を勧むるのみならずして、あわせて以て其の慈友を(すす)む。一挙にして之を両得と謂うべし。 

岫雲斎

孝行の評判の子供は大概にして不幸な境遇から生まれている。

やたらと孝行を褒めすぎると不幸の種で名誉・賞を獲得するに近く却って孝行の子供は内心不安に思うだろう。

善を賞賛するのはその父兄を元に行うのがよい。

さすれば、親には孝も兄弟には親睦を勧めるばかりか、親の子に対する慈の道、兄の弟に対する肉親愛を褒めることとなり一挙両得ではないか。

116          

舜の大孝(だいこう)の名を喜ばず
古今、舜を以て大孝の人と為せり。舜は(もと)より大孝なり。然れども余は舜の為に此の名を称するを願わず。舜果して孝子たらんか。其の此の名有るを聞かば、必ず将に(しょう)(ぜん)として瑞懼(ずいく)し、(ただ)(はだえ)?(へん)()を受くるのみならざらんとす。蓋し舜の孝名は、瞽そう不慈(ふじ)に由りて(あら)わる。瞽そうをして慈父たらしめば、則ち舜の孝も亦(みん)(ぜん)として(あと)無からん。此れ()と其の願う所なり。(すなわ)ち然るを得ず。故に舜只だ憂苦百(ゆうくひゃく)(たん)、罪を負い(よこしま)を引き、父の為に之を隠くす。思う、己れ寧ろ不幸の(そしり)を得んとも、而も親の不慈をして(ぼう)(はく)せしめじと。然り(しこう)して天下後世の論(すで)に定り、舜を推して以て古今第一等の孝子と為して、瞽?を目して以て古今第一等の不慈と為す。夫れ舜の孝名、摩滅すべからざれば、則ち瞽?の不慈も亦摩滅すべからず。舜をして之を知らしめば、必ず痛苦に()えざらん者有り。故に曰く、「舜の為に此の名を称することを願わず」と。 

岫雲斎

舜は大孝の人には間違いない。
だが一斎先生はそう云う事を望まないという。
舜が若しそれを聞いたら鍼で皮膚を突き刺される思いであろう。
父の瞽
そうが親としての慈愛を尽くさなかったから孝行の評判が立ったのだ。
舜は色々憂い、自ら罪を負い、父の為に父の悪行を隠したのである。
一斎は、舜が親の不慈愛な行いを白日の下に曝け出すまいと思ったのである。
後世になりその評価は決まり、舜は第一等の孝行、父は古今第一等の不慈愛なるものとなった。
舜を親孝行と称することは願わない。

117  

      
国家の発生

上古(じょうこ)の時、人君無く、百官有司無し。人各々其の力に()み、以て生を()す。殆ど禽獣と等しきのみ。()の時に当たり、強は弱を(しの)ぎ、衆は()(あら)し、其の生を遂ぐるを得ざる者有り。其の間、才徳の衆に出ずる者有れば、則ち人必ず来り()ぐるに情を以てして宰断(さいだん)を請う者あり。是に於て()いて為に之を理解す。強き者、衆き者、其の直に屈して、而も其の義に服し、敢えて復た陵暴せず。

弱き者、(すくな)き者、()りて以て其の生を遂ぐるを得たり。此くの如き者漸く多く、遂に群然として来り()げ、自ら其の力に()む能わざるに至れば、(いきおい)之を拒絶せざるを得ず。是に於て衆必ず相議(あいぎ)して曰く、「()の人()かりせば(かん)(また)(おこ)らん。(なん)ぞ各々衣食を(いだ)し以て之に給し、是の人をして()た力に食むの労無からしめざる。則ち必ず能く我が為に専ら之れに任ずることを(がえ)んぜん」と。衆議(すなわ)(ととの)う。是を以て再び請いしに、才徳の者果して之を諾せり。是れ則ち(くん)(ちょう)の始にして、而も貢賦(こうふ)の由りて起こる所なり。是くの如き者、彼此(ひし)之れ有り。其の間、又才徳の(おおい)に衆に卓越する者有らば、次なる者も亦皆来りて命を聴き、推して之を上げ、第一等才徳の者を以て(これ)を第一等の地位に置く。乃ち億兆の君師(くんし)是れなり。孟子の()わゆる「(きゅう)(みん)に得て天子(てんし)()る」と。意も亦此れと類す。

岫雲斎

国家とか、指導者の発生過程を記したの。

大昔は君主も人民もなく各自、鳥獣のように自力で生活していた。強い者は弱い者をいじめ、少数は多勢に荒され生活できないものもいた。
才智や徳の有る者が、弱者や少数者の事情を聞いて公平な裁きを受けるようになる。
才徳者は紛争場に行き説き明かし、強者もそれに服して乱暴も無くなり安心して住めるようになる。

かかる事件が増えると才徳者は自分で働けなくなり裁きを断る。

そこで才徳者に皆が衣食を提供し専門的に裁くようになる。
これが君長の初めであり租税や賦役の始原である。

このような事が各地で起きた。才徳の最も優れた者が現れると命令を受けるようになる。

遂にその才徳者が第一等の地位に就く。

これが人民の君であり師である。孟子が言った、「賎しい田野の民の中に在っても徳さえあれば民の心を得て天子になれる」と。

似たものである。

佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その五 岫雲斎補注  

118.    

古今一等の人物
世間第一等の人物と()らんと欲するは、其の志小ならず。余は則ち以て猶お小なりと為す。世間には(せい)(みん)(おお)しと雖も、而も数に限り有り。()の事恐らくは()し難きに非ざらむ。前古(ぜんこ)(すで)に死せし人の如きは、則ち今に幾万倍せり。其の中聖人、賢人、英雄、豪傑、数うるに()うべからず。我れ今日未だ死せざれば、則ち(やや)出頭(しゅっとう)の人に似たれども、而も明日()し死になば、(すなわ)(たちま)ちに古人の?中(ろくちゅう)に入らむ。是に於て我が為したる所を以て、(これ)を古人に(くら)ぶれば、比数するに足る者無し。是れ即ち()ず可し。故に志有る者は、要は(まさ)に古今第一等の人物を以て自ら期すべし。  岫雲斎

気宇壮大な志を持てということであろう。
世間で名声ある人物になろうとする事は小さくない志である。

だが自分は、まだそれは小さいと申す。
第一等の人物になるのはそう難しいことではあるまい。

過去の死んだ人々は幾万倍もある。その中に聖人、賢人達も無数にいる。
自分はまだ生きているが、人より少しは優れているが明日にも死んでしまえば故人の仲間入りする。
現在、自分のなしたことを古人と比較すれば、比べものにならない。
恥しいものだ。だから、
志ある者は、古今第一等の人物になるんだと自ら期すべきである。

119.   

己を(たの)むべし

士は当に己れに在る者を恃むべし。動天驚地極大の事業も、亦()べて一己(いっこ)より締造(ていぞう)す。 

岫雲斎  いい言葉じゃ。
男子大丈夫たるものは、己に在るものに拠るべきである。
他人を期待して何が出来るのか。驚天動地の大事業も全て己より創出されるものだ。

120.   

己を失えば

己れを(うしな)えば(ここ)に人を喪う。人を喪えば斯に物を喪う。 

岫雲斎
己を失い自信が無くなると世間の信用を失う。信用を失うと何もかも失うことになる。

121
独立自尊

士は独立自信を貴ぶ。熱に依り炎に附くの念起すべからず。
 

岫雲斎
大丈夫たる者は、他に依存しない。独り立って、自信を以て行動するものである。権力者に媚び、カネ持ちに追従するような考えを起すべきではない。

122
         
真実の己と仮の己

本然(ほんねん)真己(しんこ)有り。躯殻の()()有り。須らく自ら認め得んことを要すべし。 

岫雲斎
大自然の本質と一致する生来の真の自己がある。また外見上の身体を持つ仮己がある。自己は二つある。真の自己を知ることが肝要なり。

123

 
(せき)(いん)

人は、少壮の時に(あた)りては、惜陰を知らず。知ると雖も(はなは)だ惜しむには至らず。四十を過ぎて已後(いご)、始めて惜陰を知る。既に知るの時は、精力漸く(もう)せり。故に人の学を為むるには、須らく時に及びて立志勉励するを要すべし。しからざれば則ち百たび悔ゆるとも亦(つい)に益無からむ。 

岫雲斎
人間は若く元気な時は時間を惜しむことを知らない。たとえ知っていたとしても四十歳過ぎて始めて時間を惜しむ事を知るものだ。だがその頃には精力が衰えてきている。だから人間は学問するには若い時に立志し大いに勉励しなくてはならぬ。そうでないと、どんなに悔やんでも無益となる。

124.   

やむをえざる勢 
その一

雲烟(うかえん)已むを得ざるに(あつま)り、風雨は已むを得ざるに洩れ、雷霆(らいてい)は已むを得ざるに(ふる)う。(ここ)に以て至誠の作用を観るべし。 

岫雲斎
大自然の現象から人間の至誠に就いて思考したもの。雲も風雨も自然の現象の必然の結果である。雷とて同じ現象で已む得ず鳴り響く。人間も已むを得ざる思いの至誠が人を社会を動かす事を示唆したものであろう。

125.

やむをえざる勢
その二

已む可からざるの勢に動けば、則ち動いて(くく)られず。()ぐ可からざるの(みち)を履めば、則ち履んで危からず。 

岫雲斎
熟考の上に、最善と決断し、旺盛な勢いで実行すれば行詰ることはない。
正道を突き進めば危険は無い。

126.    

飲食は薬の如し

周官に食医有りて飲食を(つかさど)る。飲食は(すべか)らく()て常用の薬餌(やくじ)と為すべきのみ。「()は精なるを(いと)わず。(かい)(さい)なるを厭わず」とは、則ち是れ製法謹厳の意思なり。「()()して?(あい)し、魚の(だい)して肉の(やぶ)るるを(くら)わず。色の悪しきは(くら)わず。臭の悪しきは(くら)わず」とは、即ち是れ薬品精良の意思なり。「肉多しと雖も、()()に勝たしめず」とは、即ち是れ君臣佐使(さし)分量の意思なり。 

岫雲斎

周官と言う書物に食医という官名の事あり。飲食を掌るもの。飲食物は薬と同じと考えるべき。飯は精白でもよいし、(かい)はどんなに細くてもよい、と言う意味は注意して作れの意である。飯の腐って味のおかしいもの、魚の爛れて腐ったものは食べない、色の悪いもの、臭いの悪いものも食べない、これらは薬品をよく吟味する意味と言える。肉は多くとも飯より多くはダメと言う事は昔の調剤法にも適切な指摘があったということか。

(
君臣佐使とは調剤法のこと。君は主成分、臣は補薬、佐は臣を助けるもの、使はそれを補うもの)

127
.
聖人無病

聖人は強健にして病無き人の如く、賢人は摂生して病を慎む人の如く、常人(じょうじん)虚羸(きょるい)にして病多き人の如し。 

岫雲斎
聖人は力強く健康、無病の如し。賢人は摂生して病いにかからぬよう気をつけているようだ。普通人は虚弱で病気勝ちのようだ。

128
常に病む人

(つね)に病む者は、其の痛みを覚えず。心恒に病む者も、亦其の痛みを覚えず。 

岫雲斎
中々含蓄ある指摘である。病気を常に持っている人は病に就いて自覚がない、同様に悪心の人は常習的となり良心が麻痺している。

129
待てば晴れる

需は雨天なり。待てば則ち(はれ)る。待たざれば則ち(てん)(じゅ)す。 

岫雲斎
需は雨天を意味する。雨の降る時は、静かな心で待てば晴れる、待たないと濡れてしまう。

130  
急げば失敗
急迫は事を(やぶ)り、寧耐(ねいたい)は事を成す。 

岫雲斎
何事も急いでは事を仕損じる。忍耐強く落ち着いて時の至るのを待てば目的を遂げることが出来る。

131
人間には平等に道理一貫

茫々(ぼうぼう)たる宇宙、此の道は只だ是れ一貫す。人より之を視れば、中国有り。夷狄(いてき)有り。天より之れを視れば、中国無く、夷狄無し。中国に秉彜(へいい)の性有り。中国に惻隠羞悪辞(そくいんしゅうおじ)(じょう)是非(ぜひ)の情有り。夷狄にも亦惻隠羞悪辞譲是非の情有り。中国に父子君臣夫婦長幼朋友の倫有り。天(いずく)んぞその間に厚薄愛憎有らんや。此の道の只だ是れ一貫なる所以なり。但だ漢土の古聖人の此の道を発揮する者、独り先にして又独り精なり。故に其の言語文字、以て人心を興起するに足る。而れども其の実、則ち道は人心に在りて言語文字の能く尽くす所に非ず。若し道は独り漢土の文字に在りと謂わば、則ち試に之を思え・六合の内、同文の域、凡そ幾ばくか有る。而も猶お治乱有り。其の余の(おう)(ぶん)の俗も、亦能く其の性を性として、足らざる所無く。其の倫を倫として、(そな)わらざる所無し。以て其の生を養い、以て其の死を送る。然らば、則ち道()に独り漢土の文字のみに在らんや。天果して厚薄愛憎の(こと)なる有りと云わんや。 

岫雲斎
広大なる宇宙には正道が一本貫いている。人間が見れば文明国、野蛮国等あるが天から見ればその区別はない。道徳は文明国、野蛮国共にそれなりのものがある。仁義礼智、父子の情、君臣の忠、夫婦の別、長幼の序、朋友の信の五常も両者に存在している。
天が、ある者には厚く、ある者には薄く、愛とか憎しみの差別は在りえない。天の正道は一本筋が貫いている。中国の古代聖人がこの正道を振起したが他よりも他の時代よりも早くまた詳しいだけだ。聖人達が用いた言語や文字は人間を奮起させた。この正道なるものは人間の心に存在するものであり決して言語や文字では表せない。だから、この正道が中国の文字に在るという説は間違いである。考えてみるがよい、中国と同じ文字を使用する国が幾つあるか知らぬが、それらの国々には治も乱もあり中国と異ならない。横文字の国の人民も道徳を守る気質もあり人間の倫理も備えて生き、そして死んでいる。かくの如く考察すると正道は中国の文字ばかりあるのではない。天は彼我を愛憎差別し厚薄差別するものではない。天の正道は何れの国に於いても一貫しているのだ。

132

死にざま
聖人は死に安んじ、賢人は死を(ぶん)とし、常人は死を畏る。 

岫雲斎
聖人は生死を超越している。だから死に対して心が安らかである。賢人は生者必滅の理を理解している、死は生ある者の必然の理と知っており冷静である。通常の人はひたすら死を畏れている。

133.

聖人に遺訓なし

賢者は没るに臨み、理の当に然るべきを見て以て分と為し、死を畏るることを恥じて死に安んずることを(ねが)う。故に神気乱れず。又遺訓有り、以て聴を(そびや)かすに足る。而して其の聖人に及ばざるも、亦(ここ)に在り。聖人は平生(へいぜい)の言動、一として訓に非ざる無くして、?(ぼっ)するに臨み、未だ必ずしも遺訓を為さず。死生を視ること、真に昼夜の如く、念を()くる所無し。 

岫雲斎
賢者は死を当然のものとし、生者の覚悟の必要なものとした。死を畏れる事を恥じ、安らかな死を希求する。従って精神の混乱もない。遺訓があり傾聴に値いするものがありこれは賢者の聖人に及ばないものである。
聖人の平生の言動は全て教訓であり死ぬ時に特別に改まったものを述べることをしない。
死生がまるで昼夜の如きなのが聖人の死生観である。

134.  

堯舜の訓誥(くんこう)

堯・舜・文王、其の遺す所の典謨(てんぼ)訓誥(くんこう)は、皆以て万世の法と為す可し。何の遺命か之に()かん。成王の()(めい)、曾子の善言に至りては、賢人の分上、自ら当に此くの如くなるべきのみ。()りて疑う。孔子泰山の歌、後人(こうじん)仮託(かたく)して之を為すかを。(だん)(きゅう)の信じがたきは、此の類多し。聖人を尊ばんと欲して、而も(かぇ)って之が(るい)を為すなり。 

岫雲斎堯・舜・文王が書経に残した教訓は万世に渡る法則であり尊い遺命と云える。
周の成王の臨終の言葉や、曾子の善言は賢人のものであり聖人のそれではない。
それで疑うのだが、孔子の臨終の時に作った泰山の歌が檀弓上篇に掲載されているがそれは信じがたい。後世の人が孔子を尊ぶべきかこつけたもので、この類は他に多く禍を招くものである。

参考。檀弓上篇の孔子の話とは「泰山其れ(くず)れんか、梁木其れ壊せんか。哲人其れ()まんか」。 典謨(てんぼ)訓誥(くんこう) 古代帝王の治国の法則ある書経の篇名。
成王顧名   書経の顧名篇にあり顧名とは臨終の命のこと。
曾子善言  論語の泰伯篇「烏のまさに死なんとするや、その鳴くや哀し。人のまさに死なんとするや、その言や善し。
 

135.  

       
常人(じょうじん)の臨終
常人は平素一善の称すべき無くして、(たまたま)(あつ)きに及び、自ら()たざるを知り遺嘱(いしょく)して乱れず、賢者の(しわざ)の如き者有り。(これ)は則ち死に臨みて一節の取るべきに似たり。然れども一種の死病の証候(しょうこう)、或は然るを致すこと有り。()れ亦知らざる()からず。 

岫雲斎

平生なんらの善行のない市井人が、死を自覚すると立派な遺言をして乱れないのは賢者の如しである。
臨終の場の一つの模範である。

ただ、これは死病の一つの容態としてこうなるのも有る事を知っておくべきである。

136

死に安んずるのは誰か

気節の士、貞烈の婦、其の心激する所有り。敢て死を畏れざるは、死を分とする者の次なり。血気の勇の死を(かろ)んじ、狂惑の()の死を甘んずるは、則ち死を畏るる者より(さが)れり。又(しゃく)(ろう)の徒の如きは、死に処するに(すこぶ)る自得有り。然れども其の学畢竟(ひっきょう)亦死を畏るるよりして来る。独り極大の老人、生気全く尽き、(こう)(ぜん)として病無くして以て終る者は、則ち死に安んずる者と異なる無きのみ。 

岫雲斎
節操もあり気概ある人、強く貞操観念ある女性等が、何かに感激し発奮して死を畏れない、これは自己の死を責任の結果とし受け容れたもので賢者に次ぐ行為である。血気に(はや)り死を軽んじる狂気のように男が簡単に死ぬのは、これは死を畏れるより下劣である。仏教とか道教の信徒、死に対処して平然としているようであるが、それらの学問自体が元々、死を畏れる所から発生しているのだから本当にそうなのか不明である。ひとり、極めて長命の老人が、元気喪失後、無病で忽然と世を去るのは、真に死に安んじた者と異ならない。

137
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死生と変易(へんえき)

生物は、皆な死を畏る。人は其の霊なり。当に死を畏るるの(うち)より、死を畏れざるの理を(えら)び出すべし。吾思う。我が身は天物なり。死生の権は天に在り。当に(したか)いて之を受くべし。我の生るるや、自然にして生る。生るる時未だ(かつ)て喜ぶを知らざるなり。則ち我の死するや、(まさ)に亦自然にして死し、死する時未だ嘗って悲しむを知らざるべきなり。天之れを生じて、天之れを死せしむ。一に天に(まか)すのみ。吾れ何ぞ畏れむ。我が性は則ち天なり。躯殻は則ち天を蔵するの室なり。精気の物と()るや、天此の室に寓せしめ、遊魂の変を為すや。天此の室より離れしむ。死の後は即ち生の前、生の前は即ち死の後にして、而して吾が性の性たる所以の者は、恒に死生の外に在り。吾れ何ぞ()れを畏れむ。()れ昼夜は一理、幽明も一理、始を(たず)ねて終に(かえ)り、死生の説を知る。何ぞ其の易簡(いかん)にして明白なるや。吾人当に此の理を以て自ら省みるべし。 

岫雲斎
生物はみな死を畏れる。人間は万物の霊長だ、死を畏れる中にも、畏れない理由を見出さねばならぬ。私は次ぎの如く思う。身体は天より授けられたものであるから死生の権利は天に在る。故に天の命に従順に従わねばならぬ。我々は自然に生まれておりその時の喜びを知らぬ。我々の死ぬのも自然であるから死ぬ時に悲しむ事を知らぬのが宜しい。天が我々を生み、そして死なせるのだから死生は天に任すべきもので、我々は畏れないでよいのである。我が本性は天から与えられたものである。身体は天が与えた本性を格納する部屋である。精気が形となると、天、則ち本性はこの部屋に住み込み、魂が遊離を始めると天はこの部屋から離れる。死ねば生まれ、生まれると死ぬものであり本性の本性たる所以のものは常に死生の外にあるのだから自分は少しも死を畏れぬ。昼夜には一つの理がある。死生にも一つの理がある。春を始原とすれば必ず冬がある。冬を終りとして始原を尋ねれば必ず春となるが如きが死生である。極めて分かり易いものだ。
我々はこの原理を踏まえて自省すべきである。

138.  
躯殻と性

死を畏るるは、生後の情なり。躯殻有りて而る後に是の情有り。死を畏れざるは生前の性なり。躯殻を離れて而して始めて是の性を見る。
人須らく死を畏れざるの理を死を畏るるの中に自得すべし。
性に復るに(ちか)からむ。
 

岫雲斎
死を畏れるのは生まれた後に生じた感情である。身体があり、その後にこの感情があるわけだ。死を畏れないのは、生まれる前の本性である。身体を離れて始めてこの本性が分かる。人は死を畏れないという理を、死を畏れる中、則ち生後に自得しなくてはならぬ。このようにしてこそ、生前の本性に近づくと云えるのであろう。

139
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亡霊観

亡霊の形を現わすは、往々にして之れ有り。蓋し其の人未だ死せざる時に於て、或は思慕の切に、或は遺恨を極め、気既に凝結して身に(あまね)く、身死すと雖も、而も気の凝結する者散ぜず、()りて或は(たたり)を為し(わざわい)を為す。然れども(あつま)る者は散ぜざるの理無し。(たと)えば、猶お(とう)(げつ)水を器に貯うれば、凍冱(とおご)して氷を成し、器は(こわれ)たると雖も、而も氷は尚存し、(つい)に亦()(じん)せざる能わざるがごとし。 

岫雲斎

幽霊が形を現すことは時にある。その人が生きている時、何か思い込み、強い憤慨があり気が凝縮して身体に広がっておると死んでもその気が散らない。

それが祟りとか災いを起す。
然し、集まったものは必ず散る。冬の凍結した氷は、器が破損しても溶けないが終には溶けるように幽霊もいつかは消える。

幽霊は信じがたいが、集まったものは必ず散るは真理だ。

140
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活きた学問

経を読む時に(あた)りては、(すべか)らく我が遭う所の人情事変を()りて注脚と()すべし。事を処する時に臨みては則ち須らく(さかしま)に聖賢の言語を把りて注脚と做すべし。事理融会(ゆうえ)して、学問は日用を離れざる意思を見得(けんとく)するに(ちか)からん。 

岫雲斎

経書を読む時は、自分が体験した人情や事件を参照にして解釈するがよい。
現実の事件処理には、反対に聖人や賢人の言葉を引用し活用するがよい。
このようにすれば実例と理屈が融合して学問は決して日常を離れないものだと納得できる。

141.       

  
読史眼
一部の歴史は、皆形迹(けいせき)を伝うれども、而も情実は或は伝わらず。史を読む者は、須らく形迹に就きて以て情実を(たず)ね出すを要すべし。 

岫雲斎
歴史は、外に現れた跡形のみで、その内部の真相は伝わらないものだ。歴史を学ぶ者はその形跡の隠された真実を探求しなくてはならぬ。

142
 
読書の感想

吾れ書を読むに(あた)り、一たび古昔(こせき)聖賢・豪傑の体魄(たいはく)皆死せるを想えば、則ち(かしら)を俯して感愴(かんそう)し、一たび聖賢・豪傑の精神尚お存するを想えば、則ち(まなこ)を開きて(ふん)(こう)す。 

岫雲斎
自分は書物を読むに際し昔の聖賢や豪傑の体も精神もみな死んでおるのだなと思うと、頭をうなだれ身にしみて悲しい。だが一たび、その聖賢・豪傑の精神はなお活き活きと生存しておると思うと、瞠目し発奮興奮して読書をする。

143
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古往の歴史と今来の世界

古往の歴史は、是れ現世界にして、今来(こんらい)の世界は、是れ活歴史なり。 

岫雲斎
現在は過去の歴史から生まれたもの。これからの歴史は我々が直接に関わる活きた歴史である。

144
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聡明の(おう)(じゅ)

博聞(はくぶん)強記(きょうき)は聡明の(おう)なり。(せい)()入神(にゅうしん)(じゅ)なり。 

岫雲斎
広く諸々の事情に詳しく記憶の強いのは聡明の横軸である。深く物事を詳細に研究して奥義を窮めるのは聡明の縦軸である。

145.
 死に学問
()宿(しゅく)有り好みて書を読む。飲食を除く外、手に巻を()かずして以て老に至れり。人皆篤学(とくがく)と称す。余を以て之を視るに、恐らくは事を()さざらんと。()れは其の心常々(つねづね)()かれて書上に在り。収めて腔子(こうし)(うち)に在らず。人は五官の用、須らく均斉に之れを役すべし。而るを渠れは精神をば専ら目に注ぎ、目のみ偏して其の労を受け、而して精神も亦従いて昏かいす。此くの如きは則ち能く書を視ると雖も、而て決して深造(しんぞう)自得(じとく)すること能わず。便(すなわ)()だ是れ放心のみ。且つ孔門の教えの如きは、終食より造次順沛(ぞうじてんぱい)に至るまで、敢て仁に(たが)わず。(こころみ)に思え、渠れは一生手に巻を()かざれども放心斯くの如し。
能く仁に違わずや否やと。
 

岫雲斎
()宿(しゅく)は老学者。老学者が食事以外は書物から手を放さないくらい読書して老人となる。みな、篤学だという。
自分はこう思う、かかる人は事を成していないと。彼は心(腔子(こうし)(うち))
を本の上に置いて、心の中に置いてない。
人間は五官を均等に使用すべきだ。彼は精神を目ばかりに置いて疲れ精神は曇っている。
こんな事では幾ら読書しても薀蓄を極めて深奥の把握はできない。
心を本の上に放置しているだけだ。孔子の教えは、食事の時間から突発時(
造次順沛(ぞうじてんぱい))まで仁を違えてはならないのだ。

考えてみよ、彼は生涯、本を手から離さないが、心は放ったままである。これは仁に非ず。

146

学者今昔(こんじゃく)
孔門の諸子、或は誾誾如(ぎんぎんじょ)たり。或は行行如(ぎょうぎょうじょ)たり。或は侃侃如(かんかんじょ)たり。気象何等(なんら)の剛直明快ぞ。今の学者、終歳(しゅうさい)故紙(こし)陳編(ちんぺん)()(えき)する所と()り、神気(しんき)奄奄(えんえん)として奮わず。一種衰颯(すいさつ)の気象を養成す。
孔門の諸子とは霄壌(しょうじょう)なり。
 

岫雲斎
孔子の門弟は(びん)子のように、温和に論じたり(誾誾(ぎんぎん))、或は()()の如く剛毅であったり(行行(ぎょうぎょう))、或は、(ぜん)(ゆう)()(こう)のように真っ正直(侃侃(かんかん))であったり、なんと気象が明快剛直であったことか。
現在の学者は、年中、古本やほご紙に振り回されて青息吐息、少しも奮わない。哀れな淋しい気分である。孔子の門弟たちとは天地の違いがある。

147伯魚庭(はくぎょてい)に走る 伯魚庭(はくぎょてい)(はし)り、始めて詩礼を聞く。時に年(けだ)(すで)に二十を過ぎぬ。古者子(いにしえはこ)を易えて之を教うれば、則ち伯魚(はくぎょ)は必ず既に従学せり。而るに趨庭(すうてい)の前、未だ詩礼を聞かず。学ぶ所の者何事ぞや。
陳亢(ちんこう)も亦一を問いて三を得るを喜べば、則ち此より前に未だ詩礼を学ばざりしに似たり。
此等の処学者宜しく深く之を思うべし。
 

岫雲斎
孔子の子の伯魚(名は鯉)が庭を走った時、既に20才であったが父の孔子から詩と礼を学ばなければならぬ事を聞いた。昔は、親たちが子供を取り替えて教育したから伯魚は孔子から直接学んでいなかった。だから、詩や礼を学んだかと孔子が聞いたのである。詩や礼を学ばないと、まともな話も世に立つことも難しい時代であった。孔子と伯魚の会話を聞いていた陳亢(ちんこう)は一を聞いて三を得たことを喜んだのは、それ迄に詩や礼を学んでいなかったのである。これらの事は学問をする者は深く考えてみなければならない。(論語李氏篇参照)

148.

「信」三則 その一

信を人に取ること(かた)し。
人は口を信ぜずして()を信じ、躬を信ぜずして心を信ず。
(ここ)を以て難し。
 

岫雲斎
人の信用を得るのは難しい。
人は口先を信じないで行いを信じる。
否、行いを信じないで心を信じると云えよう。心は見えないから人の信を得るのは難しい。

佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その六 岫雲斎補注  

149

「信」三則

その二
臨時の信は、功を平日に(かさ)ね、平日の信は、効を臨時に収む。 

岫雲斎
突発的な出来事を巧く処理して信用を取ると、以後ますます信用が高まることがある。
また、逆に平素の信用があるから緊急に際し手腕を発揮することもある。

150.   

「信」
三則
その三
信、上下に()すれば、天下甚だ処し難き事無し。 

岫雲斎
上下に信用があれば、この世で出来ないことはない。
蓋し名言であり心すべきである。

151.  

責善の道
善を責むるは朋友の道なり。只だ須らく懇到(こんとう)(せっ)()にして以て之に告ぐべし。然らずして、徒らに口舌(こうぜつ)()りて、以て責善の名を博せんとせば、()れ以て徳と為さず、(かえ)って以て仇と為さん。益無きなり。 

岫雲斎

朋友は善をなすように責め合うものである。
ただ、その忠告は懇ろに丁寧でなくてはならぬ。そうでなく、口任せの忠告は、善を勧奨するという美名だけのもので、友人は感謝せず寧ろ仇と思うことであろう。
そうなると忠告は全く無益の極みとなる。

152

誠の蓄と不蓄
(たくわ)うること厚ければ発すること遠し。誠の物を動かすは、(しん)(どく)より始まる。独り()るとき能く慎まば、物に接する時に於て、(はなは)だ意を()けずと雖も而も人(おのずか)(かたち)を改め(うやまい)を起さむ。独り処るとき慎む能わずんば、物に接する時に於て、(こころ)()けて咯謹(かっきん)すと雖も、而るに人も亦敢て容を改め敬を起さじ。誠の(ちく)不蓄(ふちく)と其の感応(かんのう)(すみやか)なること(すで)に此くの如し。 

岫雲斎

誠の蓄積が多いとこれは遠くにまで顕れてくる。
誠が物事を動かすのは慎独から出ている。独り居る時に慎むことの出来る者は、人物に接した時、格別用心せずとも自然に(かたち)を正して敬意を表わしている。

この慎独の習慣がなければ、人に接する時、用心して謹んで見せても人は決して容を正し尊敬の念を払うことはないだろう。

誠が蓄えられているのと、そうでないのとの感応の速いことは、このようなものだ。
 

153
. 
心の誠否

(こころ)(せい)()は、須らく夢寐中(むびちゅう)の事に於て之を験すべし。 

岫雲斎

自分の心が誠であるかどうかは睡眠中の夢で試みるがよい。(平生考えている事は夢に顕れる)

154

「敬」六則 
その一

妄念を起さざるは是れ敬にして、妄念起らざるは是れ誠なり。 

岫雲斎
下らぬ考えを起さないのが敬である。下らない考えが起きないのが誠である。

155
.          

「敬」六則 その二

敬能く妄念を截断(せつだん)す。昔人(せきじん)云う、敬は百邪に勝つと。百邪の(きた)るには、必ず妄念有りて之が先導を為す。 

岫雲斎
敬が心にあれば下らない妄念を断ち切ってしまう。
古人は「敬は諸々の邪悪に勝つ」と言った。色々な誘惑が来る時は必ず初めに下らぬ考えがあるからだ。

156
. 

「敬」六則 その三

一箇の敬は許多(きょた)の聡明を生ず。周公曰く、汝其れ敬にして百辟(ひゃくへき)(きょう)()り、亦其の不享(ふきょう)の有るを識れりと。既に(すで)に道破せり。

岫雲斎
敬は人を非常に聡明にする。昔、周公が、兄・武王の子の成王に「汝は常に謹み、諸侯が持参した貢物を受けるか否かを知るがよい」と言った。これは誠があり来た者と、そうでない者とを敬の一字で聡明に識別せよだが、既に喝破しておる。

157
.  
「敬」六則 その四

敬すれば則ち心清明なり。 

岫雲斎
心に敬があれば、妄念なく、いつも清々しく晴れやかである。

158
.          
「敬」六則 その五

己れを修むるに敬を以てして、以て人を安んじ、以て百姓(ひゃくせい)を安んず。(いつ)に是れ天心の流注(りゅうちゅう)なり。 

岫雲斎
自己を修めるのに敬を以てすれば、人々を安んじることができる。それは天下人民を安んずることとなる。敬は天の心の流れ来たものである。

159.

「敬」六則 その六

敬を(あやの)り認めて一物と()し、胸中に放在すること(なか)れ。但だに聡明を生ぜざるのみならず。(かえ)って聡明を(ふさ)がん。即ち是れ(わざわい)なり。(たと)えば猶お肛中(とちゅう)(かい)有るがごとし。気血之れが為に渋滞して流れず。即ち是れ病なり。 

岫雲斎

敬を誤って放置してはいけない。
そうすると賢明な働きをしないばかりか、賢明さを塞いでしまい災いとなる。

例えば、腹中に塊があるようなもので、血液が滞り流れないのと同様である。

これは病気だ。

160

死敬
人は明快灑落(しゃらく)(ところ)無かる可からず。若し徒爾として畏縮し?()するのみならば、只だ是れ死敬なり。甚事(はなはだこと)をか()し得む。 

岫雲斎
人間は、明快に気持ちよい、さっぱりした処がなくてはならぬ。もし徒に縮み上がり、グズグズするばかりでは、活きた敬ではない。それは死敬であり何事もなすことは出来ない。

161
胸臆
胸臆(きょうおく)(きょ)(めい)なれば、神光四発す。  岫雲斎

心にわだかまりが無ければ、精神が四方に光り輝く。
162.   

(ひき)いて気従う
耳目(じもく)手足(しゅそく)は、()べて神帥いて気従い、気導きて(たい)動くを要す。 

岫雲斎
耳目手足が動くのは全て精神が率いている。次に気がこれに従う。
この気が導いて体が動くということが肝要である。

163.

色欲論二則
その一

学者は当に徳は(とし)と長じ、業は年を()いて広がるべし。四十以後の人、血気漸く衰う。最も宜しく牀?(しょうし)を戒むべし。然らずんば神昏(しんくら)気耗(きもう)し、徳業遠きを致すこと(あた)わじ。独り戒むること(わか)き時に在るのみならず。 

岫雲斎

学問の徳は年齢と共に進み、学業が年々広がってゆく。

40歳を過ぎると血気が次第に衰えるから閨房は慎むがよい。さもなくば、精神・気力も衰え学徳の達成に到らぬこととなる。
閨房の慎みは若い時だけでなく40歳以後の人も戒めるべきである。

164.

色欲論二則

その二

少壮の人、精固く(とざ)して少しも漏らさざるも亦不可なり。神滞(しんとどこお)りて()びず。度を過ぐれば則ち又(おのずか)?(そこな)う。故に節を得るを之れ(かた)しと()す。飲食の度を過ぐるは人も亦或は之れを(ただ)せども、淫欲の度を過ぐるは人の伺わざる所にして、且つ言い難し。自ら規すに非ずんば誰か規さん。 

岫雲斎

若くて盛んな人が、精を極端に抑圧するのは良くない。

精神が停滞して豁達でなくなる。
だが、度を越すと体を損う。節度が必要であるが難しい。飲食の度を過ぎるのは人も注意するし規制し安いが、閨房の度を過ぎても他人には分らない、また口に出し難いものだ。
自分が規制しなければならないものだ。

165. 

活上の節度

民は水火に非ざれば生活せず。而れども水火又能く物を焚溺(ふんでき)す。飲食男女は、人の生息する所以なり。而れども飲食男女又能く人を?(しょう)(がい)す。 

岫雲斎

人間は水と火が無ければ生活できぬ。
然し、水は人を溺らせ、火は物を焼く。
飲食や男女の交わりは生きる上に必要なものであるが、この二つは人を害する危険性がある。

166.  

儒者の心得三則 その一
学を為すに、門戸(もんこ)標榜(ひょうぼう)するは、只だ是れ(じん)(よく)(わたくし)なり。 

岫雲斎
学問をするのに、門戸に看板を掲げ学才を見せびらかすのは私欲であり、真に学問する者のなすべきことではない。

167
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儒者の心得三則 その二

今の儒は今の釈を攻むること勿れ。儒は既に古の儒に非ず。釈も亦古の釈に非ず。 

岫雲斎
現在の儒学を学ぶ者は、現在の仏教を攻撃してはならぬ。今の儒学は、最早や古の儒学ではなく、仏教もまた同じだからである。

168
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儒者の心得三則 その三

其の言を儒にして、其の(こう)を儒にせざれば、則ち其の言やまさ()自ら(そし)るなり。 

岫雲斎
云う所は儒者のように立派でも行為が儒学の通りでなくては、その発言は当に自らを謗ることなのである。

169
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洋学の批判

泰西(たいせい)の説、(すで)に漸く盛なる機有り。其の謂わゆる窮理は以て人を驚すに足る。昔者(むかしは)程子(ていし)(ぶっ)()の理に近きを以て害と()しき。而るに今洋説の理に近きことは、仏氏より甚し。且つ其の(いだ)す所、奇抜淫(きばついん)(こう)にして、人の奢侈を導き、人をして駸駸(しんしん)(ぜん)として其の(うち)に入るを覚えざらしむ。学者当に亦淫声(いんせい)()(しょく)を以て之れを待つべし。 

岫雲斎

西洋学問が盛んとなる気配がある。それは理を極めるもので驚くべきものがある。

昔、程子(ていし)(程明道と程伊川の兄弟)が、仏教は理に近く人々を害すると言ったが西洋学問は理に近い点から申すと仏教より甚だしい。

彼らのなす、思いもよらぬいかさま事は人間を奢侈に誘導し、ずんずんその中に入るようである。

学者は洋学を、淫らな声の美女と考えて彼らのなすままに惑わぬことじゃ。

170
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儒の窮理
窮理の二字、易伝に原本す。道徳に和順して、義に(すじみち)し、理を窮め性を尽くし、以て命に至る。故に吾が儒の窮理は、唯だ義に(すじみち)するのみ。義は我に在り。窮理も亦我に在り。若し外に(したが)い物を()うを以て窮理と為さば、恐らくは終に欧羅(ようろっ)巴人(ぱじん)をして吾が儒に(まさ)らしめん。可ならんや。 

岫雲斎

窮理は易に基づく、道徳に従い行動は義に適い本性を尽くし命に至るのである。

儒教の窮理は行いが義に合するかどうかで義は我に在る。
だから窮理も我に在る。
それを自分以外のものに真理を探究し窮理とするならば、我々の儒者よりも欧州人の方を優れたものにしてしまう。これで良いのか。

(これは、一斎先生少し意味が違うと思われる。)

171

天道と至教
吾れ俯仰(ふぎょう)して之れを観察すれば、日月(じつげつ)は昭然として(めい)を掲げ、星辰(せいしん)燦然(さんぜん)として(ぶん)を列し、春風(しゅんぷう)和燠(わいく)にして()()べ、雨露(うろ)膏沢(こうたく)して物に(あまね)く、霜雪(そうせつ)は気凛然(りんぜん)として(しゅく)に、雷霆(らいてい)威嚇(いかく)(ぜん)として(ふる)い、山岳は安静にして(うつ)らず、()(かい)は弘量にして能く()れ、谿壑(けいかく)は深くして測る可からず。原野は広くして隠す所無く、而も元気は生々して()まず。其の間に斡旋す。凡そ此れ皆天地の一大政事にして、謂わゆる天道の()(きょう)なり。風雨(ふうう)(そう)()も教に非ざる無き者、人君最も宜しく此れを体すべし。 

岫雲斎

天を仰ぎ伏して地を見ると、日月は明らかに光輝き、星は燦然と綾をなしている。
春風は穏やかに万物を化育し、雨露は万物に普く恵みをもたらしている。
霜雪は厳粛な気の如く粛であり、雷の威光は鳴り響いている。
山岳はどっしりと不変である。河海は広く何ものも受け入れ、谷や絶壁は千尋の深さである。
野原は浩々として何ら隠す物もなく、生々として休むことなく活気を漲ぎらせ間を取っている。
全てこれらの現象は、天地の一大政事であり、天の道の至大な教えである。
風雨も霜露も教えでないものは無い。
人の君主たる者は、これらを確りと身につけておらなくてはならぬ。

172.

天下の体と務
天下の(たい)、交易を以てして立ち、天下の務、変易を以てして行わる。 

岫雲斎
天地自然の本質は陰陽交代(交易)により成立している。時に従い、世の中の事も、事によりて変化する。

173. 

創業と保守

吾れ古今の人主を観るに、志の文治(ぶんじ)に存する者は必ず業を(はじ)め、武備を忘れざる者は能く成るを守る。 

岫雲斎
古今の人君を見ると、文を以て治めようとする志の者は必ず創業の人物であり、武備を忘れない人は、よく後を守り続ける人物である。

174

消費と生産

国家の(しょつ)()に於けるは遺策無し。園田、山林、市廛(してん)を連ね、尺地の租入を欠く無く、金、銀、銅並に署を()きて鋳出(ちゅうしゅつ)す。日に幾万計なるを知らず。而るに当今上下困弊(こんへい)して、財帑(ざいど)足らず。或ひと謂う、奢侈の致す所なりと。余は則ち謂う、特に此れのみならずと。蓋し治安日久しきを以て、貴賎の人口繁衍(はんえん)し、(これ)を二百年前に比ぶるに、恐らくは(ただ)に十数倍なるのみならざらん。之を衣食する者、年を()うて(ぞう)()し、之を生ずる者給せず。勢必ず(ここ)に至る。然らば、則ち困弊此くの如きも、亦治安の久しきに由る。是れ賀す可くして歎ず可きに非ず。但だ世道の(せめ)有る者、徒らに諸を時運に?(ゆだ)ねて、之を救う所以の方を(おもんばか)らざる可からず。其の方も亦別法の説く可き無し。唯だ之を(くら)う者(すくな)く、之を用うる者(しずか)に、之を生ずる者(おお)く、之を(つく)る者()かれと曰うに過ぎず。而して制度一たび立ち、上下(しょうか)之を守り措置宜しきを得、士民之を信ずるに至るは、則ち蓋し其の人に存す。 

岫雲斎

国家は食糧とか通貨上の問題で手落ちは許されぬ。
田畑、山林、市場に至る僅かの土地の租税収入の滞納もなく、金貨、銀貨、銅貨など造幣所で鋳出する金銭は毎日幾らあるか分らぬが当今上下とも疲弊しカネが足らぬとは何故なのか。
某氏云う、「贅沢だ」と、自分はそれのみでないと思う、考えて見ると、平和が長く続いて人口が増え、200年前と比較すれば十数倍であろう。
故に衣食する人口は年々増加するのに、それらを供給する事がそれに伴っておらぬから食糧不足は当然のことである。

だが、国が疲れたのは平和が続いたことに拠るのだから、実はこれは喜ぶべきもので嘆く必要はない。
ただ、人心を誘導する責任者は、徒らにこれを時の運に任せてきりにして、これの解決方法を考えないのは良くない。その方法は、格別変わった手段ではない。

「大学」にあるように、「働かないで食う者を減らし物品節約、生産者を増やし、生産スピードを上げる」ことに過ぎない。
このような制度が成立し、国民がそれを守り、その運営を軌道に乗せ、国民もそれを信用すれば良い。

それが成功するかどうかは、上に立つ人次第であろう。

175
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いつの世にも小人あり
世に小人有るも亦(ことわり)なり。小人は小知すべく、不賢者は其の小なる者を(しる)す。()れ亦天地間()の人無かる()からず。或ひとの謂う、堯舜の民、比屋(ひおく)(ほう)()しとは、則ち過つこと甚し。但だ(とう)()の世、小人有りと雖も、??(こうこう)として自得し、各々其の分に安んぜしのみ。  岫雲斎

世の中に小人がおるが、それはそれなりの理由がある。

小人は、知識も大局観も欠けている。愚者は小人を知って助け合う。天地の間にはこのような小人がいなければならないのだ。或人謂う、「堯・舜の時代の人々はみな大名にしてよいくらい立派だった」と。これは間違いだ。当時は、小人もいたが自ら自覚して満足し各自がその分を守っていたに過ぎないのである。
外見上立派な人間ばかりに見えたのである。
176
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一党一国論

方は類を以て(あつま)り、物は群を以て分る。人君は国を以て党を為す者なり。(いやし)くも然ること能わずんば、(しも)各々自ら相党せん。是れ必然の理なり。故に下に朋党有るは(くん)(どう)の衰えたるなり。乱の(ちょう)なり。 

岫雲斎

方向を同じくするものは集る。物は群れごとに分かれる。トップ指導者は、国民国民全体を以て一党となすべきである。出来ない場合、国民は夫々幾つかの党派に分れるのは必然のこと。だから、党派が出来るのはトップの道が衰えたことを意味する。

国の乱れの兆候である。

177

君道と師道

聡明叡知にして、能く其の性を尽くす者は君師なり。君の(こう)(めい)は即ち師の教訓にして、二つ無きなり。世の下るに?(およ)びて、君師判る。師道の立つは、君道の衰えたるなり。故に五倫の(もく)、君臣有りて師弟無し。師弟無きに非ず。君臣即ち師弟にして、必ずしも別に目を立てず。或ひと朋友に師弟を兼ぬと謂うはあやまれり。 

岫雲斎

聡明かつ叡知ある人で良くその天分を尽くす方は君主と教師を兼ねた人物である。その場合、君主の言うことが教師の教訓となる。二つではないのだ。だが後世になると、君主と教師が分れた。師の道が立ってきたと云うことは君師の道が衰弱したからである。だから、五倫の項目に君主があり師弟は記されていない。師弟が無いわけではない。君臣が即師弟であったからで別に師弟の項目を立てる必要が無かったのである。
或る人が五倫の中の朋友が師弟を兼ねていると言うのは誤りである。

178
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邦を治める道

(くに)(おさ)むるの道、教養の二途(にと)()でず。(きょう)(けん)(どう)なり。()(どう)なり。養は(こん)(どう)なり。母道(ぼどう)なり。 

岫雲斎

国家を治める大道は、教と養の二途のみである。

教は天道(乾坤の乾道)であり、父道である。
(乾坤の坤道)は地道であり母道である。

菅直人に教えてやりたい。

佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その七 岫雲斎補注  

179.   

投剤と施政

虚実強弱を弁じて、而る後(ざい)投ず可し。時世習俗を知って、而る後(せい)施す可し。 

岫雲斎
平素、病人の体質が虚弱か強壮かをよく見極めた上で投薬する如く、その時代の国家内外の情勢、世論を知悉して政治を行うべきである。

180
 

全体と永遠を想え

一物の是非を見て、大体の是非を問わず。一時の利害に拘りて、久遠の利害を察せず。政を為すに此くの如くなれば、国危し。 

岫雲斎
一つの物の是非のみで全体のそれを問わない。また目先の一時の利害のみに拘泥して長い目での利害を勘案しない。為政者がこのようであれば国家は危い。

181

人情の気機
人情の気機(きき)は一定を以て求む可からず。之を(いざな)いて勧め之を禁じて(とどむ)むるは順なり。之を導いて反って()し、之を抑えて益々(あが)るは逆なり。是の故に駕馭(がぎょ)の道は、当に其の向背(こうはい)を察し、其の軽重を(つまびらか)にし、勢に因りて之を利導し機に応じて之を激励し(それ)をして自ら其の然る所以を覚えざらしむべし。(これ)を之れ得たりと()す。 

岫雲斎

人間の情とか心は一定の規則によらない。
時には誘って勧めたり、時には禁じて止めさせるのは順当なやり方である。
反対に誘導して却って悪を阻止したり、抑圧し却って盛んにならせてしまうのは逆手である。
民衆を誘導するには彼らの向う方向、反対する所を察して、物事の軽重をよく把握し、勢いを活用して有利に動かし、機会を捉えて励ましたりする、こう云う事が最も良いと覚らしめる、これが人を使う極意である。

182. 

難事に処する道

処し難きの事に()わば、妄動することを得ざれ、須らく幾の至るを(うかが)いて之に応ずべし。 

岫雲斎
難問に遭遇したら妄りに動かぬことじゃ。じっとして時を待つ、好機到来の機会を伺い、対応策を講じるがいい。

183
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私心を挟むな

事を処理するに理有りと雖も、而も一点の己れを便ずるもの、(さしはさ)みて其の内に在れば、則ち理に於て即ち一点の障碍を()して、理も亦()びず。 

岫雲斎

自分に理が有っても、事の処理は、僅かでも自己便益の私心が挟まれておれば、道理上の障碍となり道理が通じなくなる。

184
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人を教うる道

人を教うる者、要は須らく其の志を責むべし。聒聒(かつかつ)として口に(のぼ)すとも、益無きなり。

岫雲斎

人を教える者の大切なポイントは、立志が固いかどうかがポイントで、その他は口やかましく云わない方がよい。

185

慎言五則 その一

饒舌(じょうぜつ)の時、自ら気の暴するを覚ゆ。暴すれば(ここ)()う。(いずく)んぞ能く人を動かさんや。 

岫雲斎

多弁を弄している時、我ながら気の乱れているのを感じる。気が乱れると道理を欠いているものだ。道理の欠けたものでは人を動かすことは到底出来ない。

186
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慎言五則 その二

言を慎む処、即ち(おこない)を慎む処なり。 

岫雲斎
言葉を慎むことは行いを慎むことである。これは中々至難なことだ。人間修養の根幹かも知れぬ。言葉は「徳の響き」という言葉もある。

187
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慎言五則 その三
昏睡して(たわ)(ごと)を発するは、心の存せざるを見るに足る。 

岫雲斎

眠っている時に、うわごとを言う事は心が確固としていない証拠である。うーむ、きつい。

188.   
  
慎言五則 その四

狂を病む人は言語に(じょ)無し。則ち言語に序無き者は、真の病狂を去るや遠からず。 

岫雲斎
気の狂った人間は言葉に順序がない。言葉に順序無き人間は狂人と変わらぬ。

189
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慎言五則 その五

人は最も当に口を慎むべし。口の職は二用(によう)を兼ぬ。言語を(いだ)し、飲食を()るる是なり。言語を慎まざれば、以て()(まね)くに足り、飲食を慎まざれば、以て病を致すに足る。諺に云う、(わざわい)は口より出で、病は口より入ると。 

岫雲斎

人間は最も口を慎まねばならぬ。
口は二つの職務を持つ。
一つは言葉を発し、今一つは飲食を取り入れる。
言葉を慎まぬと禍を招く、飲食を慎まないと病気を招く。

諺にあるではないか「渦は口より出て、病は口より入る」と。

190.

欲は制すべし

此の()(かく)を同じゆうすれば、則ち此の情を同じゆうす。聖賢も亦人と同じきのみ。故に其の訓に曰く、(おごり)は長ず可からず。欲は(ほしいまま)にす可からずと。(ごう)(よく)も亦是れ情種なり。何ぞ必ずしも之れを(だん)(めつ)せん。只だ是れ長ず可からず、(ほしいまま)にすべからざるのみ。大学の敖惰(ごうだ)も、人往々にして之を疑えども、吾は然りと謂わず。 

岫雲斎

人間はみな同じ身体と感情を持っている。聖賢も我々人間と同じだ。
だから教訓である礼記の「驕りを増長させてはならぬ。
欲望は放縦にしてはならぬ」の通りである。
驕りも欲望も我々の感情の一つであるからこれを殲滅しようとしても出来ることではない。
ただ濫りにそれを増長させたり放縦にしないことである。
大学も「驕り怠け過ぎるな」と戒めている。
世の中の人々はこれを疑問視するが自分はそれには不賛成である。

191.

その心を問うべし
枚乗(ばいじょう)曰く、「人の聞く無からんことを欲せば、言う()きに()くは()く、人の知る無からんことを欲せば、()す勿きに若くは莫し」」と。(せつ)(ぶん)(せい)以て名言と為しき。余は則ち以て(いまだ)しと為すなり。凡そ事は当に其の心の如何(いか)なるかを問うべし。心(いやし)くも物有らば、已れ言わずと雖も、人将に之を聞かんとす。人聞かずと雖も、鬼神(きじん)将に之をうかがわんとす。 

岫雲斎

枚乗(ばいじょう)の発言、「人に聞いて欲しくないと思うなら言わないこと。
人に知られたくないなら、しないこと」。

(せつ)(ぶん)(せい)はそれを名言だと言った。
然し、自分はそれでは物足りぬ。一切は心を問うべきだと思うからだ。
仮に心にわだかまりがあれは、自分は言わなくても人がそれを知ろうとするであろう。人が聞こうとしなくても、鬼神がこれを知ろうとするからである。
要は心があればそれは人間には判らなくても神は知るであろうか。

192.

心の火の如し
心は()お火の如く、物に()きて体を()し、善に著かざれば則ち不善に著く。故に芸に遊ぶの訓、特に()れを善に導くのみならず、而も又不善を防ぐ所以なり。博奕(ばくえき)()むに(まさ)るも亦此れを以てなり。 

岫雲斎

人の心は火のようなものだ。火は物につけば燃えるように心に火がつけば形を作り、善につかなければ不然につく。孔子「芸に遊ぶの」の教訓は人の心を善へ誘導するばかりでなく不善防止ともなる。
双六や囲碁は感心しないが何もしないより良いと言ったのもこの理由によるものだ。

193.

心服させる言

(ことわり)到るの言は、人服せざるを得ず。然れども其の言激する所有れば則ち服せず。()うる所あれば則ち服せず。(さしはさ)む所有れば則ち服せず。便ずる所有れば則ち服せず。凡そ理到って人服せざれば、君子必ず自ら(かえ)りみる。我れ先ず服して、而る後に人之れに服す。 

岫雲斎
道理の行き届いた言葉に人は従わないわけには参らぬものだ。だがその言葉に激しいものがあると決して従わない。押し付けられる感じかあると服従しない。身勝手な私心を見抜かれたらこれ又服しない。自己の便宜を図る意図があると従わない。道理があるのに拘わらず人が従わない時、君子は反省する。そして自ら心から服従してこそ他人は納得するのである。これは真言である。

194.       

聖人・禹の態度
禹は善言を聞けば則ち拝す。中心感悦して、自然に能く()くの如し。拝の字最も善く(うらわ)せり。猶お膝の覚えずして屈すと言うがごとし。 

岫雲斎
聖人と云われた禹王は、善い言葉を聞くとその人を拝礼した。心から喜びを感じ自然とそうなったのである。拝の字がよくそれを表現している。思わず膝を(かが)めるようなものである。

195
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欲心と道心

人心()れ危ければ、則ち堯・舜の心即ち(けつ)(ちゅう)の心即ち堯・舜なり。 

岫雲斎
人間の欲望が盛んとなり人心が危険な状態になると、堯・舜の聖人のような人間も悪逆非道な(けつ)(ちゅう)の如くになる。また道理に従う心があれば(けつ)(ちゅう)のような人間も堯・舜のようになるものだ。

196
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水気、山気、地気

水気(すいき)結びて(ぎょ)(べつ)()る。魚鼈は即ち水なり。而れども魚鼈は自ら其の水たるを知らず。山気(さんき)結びて禽獣と為り、草木と為る。禽獣、草木は即ち山なり。而れども禽獣、草木は自ら其の山たるを知らず。()()の精英結びて人と為る。人は即ち地なり。而れども人自ら其の地たるを知らず。 

岫雲斎

水気が凝結して魚や(すっぽん)となったのだから、彼らの本質は水である。

だが彼らは自分が水であるとは知らない。
山気は同様に禽獣や草木となるから禽獣草木は山であるがそれを知らない。
地気は凝結して人間となったのだから人間の本質は地である。
然し、人は自らが地であることを知らない。

197         

人も物も地である

人と万物とは畢竟(ひっきょう)地を離るること能わず。人と物と皆地なり。今(こころみ)(しば)らく心を六合(りくごう)の外に遊ばせ、以て世界を俯瞰せんに、()だ世界の一弾丸黒子(こくし)の如きを見るのみにして、而も人と物とは見るべからず。是に於て思察す。「此の中に(せん)(かい)有り。山岳有り。禽獣、草木有り。人類有り。渾然(こんぜん)として此の一弾丸を成す」と。著想(ちやくそう)して(ここ)に到らば、(すなわ)ち人と物との地たるを知らん。 

岫雲斎

人も万物もこの地から離れることは出来ない、皆、地の気で出来上がったものだ。

試しに、心を天地の外に遊ばして、この世界を俯瞰して見たら、世界は一つの小さな球が見えるだけで人も物も見えぬであろう。

この小さな球の上に、川も海も、山も禽獣も草木もある、人類もいる。

これらが一塊になりこの地球を作っている。

ここまで考えると人も物も元々、地であることが分かる。

198

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わが心は天なり
此の心霊昭不昧(しょうふまい)にして、衆理(そなわ)り、万事()ず。果して何れよりして之を得たる。吾が生の前、此の心何れの処にか(ほう)(ざい)せし。吾が没するの後、此の心何れの処にか帰宿(きしゅく)する。果して生没有るか。無きか。著想(ちゃくそう)して此に到れば、凛々として自ら(おそ)る。吾が心即ち天なり。 

岫雲斎

人間の心は、少しも(くら)からず、多くの道理も内在して霊妙なるものであり万事はここから発している。

かかる霊昭な心は何処から得たものであろうか。生前、この心は何処より放たれたものか。また死後は、どこに帰着するのであろうか。この心は果して生没があるのか。
このように考えると、凛々として私は懼れ慎む気持ちになってくる。理由は、我が心は実に、実に天そのものだと感得するからである。

199

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勉励のすすめ

人の受くる所の気、其の厚薄の分数、大抵相()たり。躯の大小、寿(じゅ)(しゅう)(たん)、力の強弱、心の智愚の如き、大に相遠ざかる者無し、其の間に一処の厚きを受くる者有れば、皆之を非常と謂う。非常なるは則ち(しばら)く之を置く。(すなわ)ち常人の如きは、躯と寿と力との分数、之を奈何(いかん)ともすべからず。独り心の智愚に至りては以て学んで之を変化す可し。故に、博学、審問、慎思(しんし)も明弁、篤行(とっこう)、人之を一たび十たびすれば、己れ之を百たび千たびす。果して此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず、(あきらか)に、柔なりと雖も必ず強く、以て漸く非常の域に進む可し。蓋し、此の(ことわり)有り、(ただ)だ常人は多く遊惰(ゆうだ)にして然する能わず。()に亦天に算籌(さんちゅう)有るか。 

岫雲斎

人間、生を受けてからの気は厚薄あるも大体同じようなものである。
身体の大小、寿命の長短、力の強弱、馬鹿と利巧の度合は大きな差異はない。

特に一箇所だけ厚く受けた者があれば、皆それを非凡という。

非凡は別にして、常人の分け前はどうすることも出来ない。
一つだけ、心の利巧、馬鹿は、学ぶ事により変化させ得る。
だから、中庸に「博く学び、審らかに之を問い、慎んで思い、明らかに弁じ、篤く行う。
人一たび之を良くすれば、己は百たび、人が十なら自分は千たびする。
この道をよくよくすれば、愚と雖も、間違いなく明となり、柔と雖も必ず強くなる」とある如く、この心掛けで日常怠らず励行すれば常人以上の域に到達することが出来る。

ただ、常人の多くは、この努力が出来ない。
これは天の計らいがあるのであろうか。

200

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不肖の子多し

有名人の父、其の子の家声(かせい)(おと)さざる者(すくな)し。或ひと謂う、世人(せじん)其の父を推尊し、因りて其の子に及ぶ。子たる者(かん)(よう)に長じ、且つ(さしはさ)む所有り。遂に傲惰(ごうだ)の性を養成す。故に多く不肖なりと。(もと)より此の理無きに非ず。而れども独り此れのみならず。父既に非常の人なり。(いずく)んぞ(おもんばかり)(あらかじ)め之が防を為すに及ばざらんや。畢竟(ひっきょう)之を反りみしむる能わざるのみ。蓋し亦数有り。(こころみ)に之を思え、(すなわ)ち草木の如きも、今年実を結ぶこと多きに過ぐれば、則ち明年必ず(けん)ず。人家乗除(じょうじょ)の数も、亦然る者有り。 

岫雲斎

有名人の子供で家名を落とさない者は少ない。

某氏言う「世間が父親を尊敬し、その子まで誉める。

贅沢で子供は成長し父親の名を鼻にかけ、そして傲慢で怠惰な性格を身につける。

だから多くが愚か者となる」と。
かかる理由はあるが、これだけではない。
父親は既に優れた人物である、だからどうして、父親は子供に対する防止策を考えないのか。
予防の考えがあっても、多忙で手が届かない間に子供は既に転落して父親が子供に反省させる事が出来なかったというだけではないか。これは運命であろう。
考えて見よ、草木でも、今年の結実が多すぎると翌年は必ず不作となる。

人間の運命の盛衰も同様ではなかろうか。

201.

神だのみ
人、(さいかん)(かか)れば、鬼神に(いの)りて以て之を(はら)う。(いやし)くも誠を以て?(いの)らば、或は以て(しるし)得可(うべ)し。然れども猶お(まどい)なり。凡そ天来の禍福には、数有りて、趨避(すうひ)す可からず。又趨避する能わず。鬼神の力、(たと)い能く一時之れを(はら)うとも、而も数有るの禍は、(つい)に免るること能わず。天必ず他の禍を以て之に()う。(たと)えば頭目(とうもく)(やまい)(これ)腹背(ふくはい)に移すが如し。何の益か之れ有らむ。故に君子は(したが)いて其の正を受く。 

岫雲斎

災難や心配事があると、神様に祈って払おうとする。

誠の心で祈れば効験はあるだろう。それでも人間は迷うものだ。

禍や幸は、運命であり避けるべきものでもないし避けられないものだ。
鬼神の力で一時的に払ったとしても運命により禍は結局免れ難いものである。

天の神は必ず他の禍をもたらす、頭や目の病気を背や腹に移すようなものだ。

祈っても益はない。

だから君子は「天理に従い身を修め、正当な運命を受け容れる」と孟子は言っている。

202

気運の流行と対峙
吉凶、理を以て之を言えば、君子は常に吉にして、小人は常に凶なり。気を以て之を言えば、流行有り對待(たいたい)有り。盛衰(たが)いに至るが如きは、是れ流行なり。憂楽相遇(あいぐう)するは、是れ對待なり。 

岫雲斎

道理で言えば君子は常に吉、小人は凶である。
現象の気によると流行なるものがあり吉と凶は交々である。盛と衰が互いに互換するのは流行で、憂いと楽しみが共に互いに現れるのが對待である。

203.  

大丈夫の心境

天下の憂、一身に集るは凶に非ずや。天下の楽、一身に帰するは吉に非ずや。天下の楽を()ける者、必ず天下の憂に任ずれば、則ち吉凶果して何の定る所ぞ。召公(しょうこう)云く、(かぎり)り無く惟休(これよ)けん亦彊り無く惟れ(うれ)えんと。 

岫雲斎
天下の憂いを一身に集めるのは凶であろう。天下の楽しみを独占するのは吉ではないか。然し天下の楽しみを一身に受ける者は天下の憂いを解決すべき責任がある。従って吉凶は何処にあると見るべきか。周の成王に仕えた召公は「窮まりなくこれをよけん、窮まりなくこれを憂う」と云ったが天下を治めんとする者は「天下の楽しみを楽しみとし天下の憂いを憂いとする」ということであろう。

204


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良知と良能

(けん)()を以て(つかさど)るとは、良知なり。(こん)は簡を以て能くすとは、良能なり。乾坤(けんこん)(たい)(きょく)()べらる。知、能は一なり。 

岫雲斎
乾、即ち天が易々と万物を統べているのは人間の良知に相当する。
坤、即ち地が簡単に森羅万象を成育させているのは人間の良能に当たる。

乾坤、則ち天地は根源の太極に統べられているから良知も良能も同じものなのである。

205

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悪と善
()(きた)れば宇宙内の事、(なん)(かつ)て悪有らん。過不及(かふきゅう)有る処即ち是れ悪なり。看来れば、宇宙内の事、曷ぞ嘗て善有らん。過不及無き処即ち是れ善なり。 

岫雲斎
考えてみれば、宇宙のことで悪ということは本来あるわけはない。過ぎたり、及ばぬことが悪なのである。同様に善というものは本来あるわけはない、過ぎたり及ばなかったりしないのが善である。

206

万物一体

万物相待ちて用を為し、相兼ぬる能わず。是も亦其の一体たる所以なり。 

岫雲斎
万物は、相寄り相待って役目を果たしている。互いに兼ねることはできない。それは万物が根底に於て一体であるからだ。

207
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形質相似
形質相似たる者、気性も亦相類す。人と物と皆然り。 

岫雲斎
表面的形や性質の似たものは、気性とか外形も似ている。人間でも物でもみなそうである。

208
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君子は人相を見ず

相法(そうほう)は道理()きに非ざれども、然れども其の人を惑わすこと(すくな)からず。故に君子は為さざるなり。(じゅん)(けい)の非相、言は武断なりと雖も、而れども亦説破して痛快なり。 

岫雲斎
人相を観るのは道理が無い訳ではないが人を惑わすことも少なくない。だから道理をわきまえた人間は人相を観ない。荀子の非相篇に人相を観る事は道理でない、と述べているのは思い切った言で痛快である。易を知る者は(ぼく)せずと同じであろう。

209
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音楽の妙

雅楽感召(かんしょう)の妙は、百獣率いて舞い、庶尹(しよいん)(まこと)(やわら)ぐに至る。蓋し聴く者をして手の舞い足の踏むを覚えざらしむ。何ぞ(かつ)(ねむり)を思わんや。(てい)(えい)淫哇(いんあい)なる如きも、亦人をして手舞い足踏ましむ。故に以て雅楽を乱るに足るのみ。(すなわ)ち知る。魏の文候古楽を聴きて、唯だ臥せんことを恐れし者は、恐らくは已に先王の()(そう)に非ざりしことを。 

岫雲斎

高尚な音楽は人心を感動させ佳境に入ると動物たちが舞い踊り多くの官僚達も和むようになる。

このような音楽は聴くものをして手の舞い足の踏むのを忘れさせるもので決して眠りを招くものではない。

鄭国や衛国の淫らな音楽でも聴く人をしてそうさせるから正しい音楽が撹乱される。

禮記、楽記篇にある、魏の文王が古楽を聴いて眠くなったと言っているが、これはその音楽が先王の作った高雅な音楽でなかつたのであろう。

佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その八 岫雲斎補注  

210         

孔子と音楽

雅楽の秘訣は声音(せいおん)節奏(せつそう)(ほか)に在り。尋常の怜工(れいこう)(もと)より知るに及ばず。唯だ大師或は(とも)に語るべし。故に孔子之に語る。聖人は天地万物を以て一体と為す。故に其の作る所の(がく)も、亦自ら天地と流を同じゅうす。春気始めて至り、万物(えい)に向う。(これ)翕如(きゅうじょ)に見る。(ちょう)()条達(じょうたっ)して、大和畢(たいかことごと)(あら)わる。諸を純如(じゅんじょ)に見る。結実形を成し、条理明整なり。諸を皦如(きゅうじょ)に見る。外に剥落して、内に胎孕(たいよう)す。諸を繹如(えきじょ)に見る。蓋し其の妙の四時と其の序を合する者有ること(かく)の如し。唯だ夫子(ふうし)能く之を知る。故に語りて以て其の秘を洩せり。然らずんば、大師は既に是れ大師なり。声音節奏は、彼の熟講する所なれば、夫子と雖も(いずく)んぞ能く(さかさま)に之に(おしえ)えんや。

岫雲斎

雅楽の妙は声音や韻律にあるのではなく内面的なものにある。楽員には分らず楽長は理解しているであろう。

孔子が楽長と語ったことがある。
聖人は天地万物を一体と喝破し、音楽も自然の階律と一致していると。

だから、春の気を感じ万物が繁茂を始め、それを音楽では五つの音が合唱していると表現する。

夏になると、草も木も葉も伸びて大和合の状態となる、音楽ではこれを八音の完全調和と表現する。秋の結実は子孫の為に責任を果たす条理が整うので楽では明らかと表現する。

冬、落葉するが内には春の気も孕む、これを音楽では絶えない状況と云う。楽の秘訣は四季とその順序が同じことにある。

孔子だけがこの事を知悉していたので楽長に洩らしたのである。

若し、孔子以外がこの事を知っていたならば、専門家の楽長に孔子が音楽の秘訣を教えるという逆ごとは無い筈である。

211. 

親の身は我が身

(すべか)らく知るべし、親(いま)す時、親の身即ち吾が身なり。親没せし後、吾が身即ち親の身なることを。則ち、(おのずか)(みずか)ら愛するの心を以て親を愛し、親を敬する心を以て(みずか)ら敬せざるを得ず。 

岫雲斎

親の生存中は親の身は即自分の身、親の死去後は自分の身は親の身であることを知らねばならぬ。

即ち自分の身を自に愛する心で親を愛し、親を敬う心で自分自身を敬わねばならぬ。

212


. 
聖人は九族に親しむ

吾れ(せい)()独り思うに、吾が()は、一毛、一(ぱつ)、一(ぜん)、一(そく)、皆父母なり。一視、一聴、一寝、一食、皆父母なり。既に吾が躯の父母たるを知り、又我が子の吾が躯たるを知れば、則ち推して之を(のぼ)せば、祖、曾、(こう)も我れに非ざること無きなり。(てい)して之を下せば、孫、曾、玄も我に非ざること無きなり。聖人は九族を親しむ。其の念頭に起る処、蓋し此に在り。 

岫雲斎

静かな夜、独り思うことあり、自分の身体の毛髪、喘、息、みな父母から頂いたもので父母そのものだ。

視る聴く、寝る、食べるみな父母からの賜物だ。

自分の身体は、父母であり、子供は自分の身体である。
先祖は高祖まで、孫は玄孫まで自分でない者はない。
聖人が九族みな親しむというのはこのようなことから起きているのだと思う。

213

.大人(たいじん)
の心
(たい)()垢汚(こうお)、化して?蝨(きしつ)()れば、刷除(さつじょ)せざるを得ず。又此の物も亦吾が()