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(中) 兼好法師(吉田兼好)  Tsurezuregusa (Yoshida Kenkō)
兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

第八十一段 屏風・障子などの絵も文字も 第八十二段 うすものの表紙は 第八十三段 竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はんに 第八十四段 法顕三蔵の、天竺にわたりて 第八十五段 人の心すなほならねば 第八十六段 惟継中納言は 第八十七段 下部に酒飲まする事は 第八十八段 或者、小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを 第八十九段 奥山に、猫またといふものありて 第九十段 大納言法印の召し使ひし乙鶴丸 第九十一段 赤舌日といふ事 第九十二段 或人、弓射る事を習ふに 第九十三段 牛を売る者あり 第九十四段 常盤井相国、出仕し給ひけるに 第九十五段 箱のくりかたに緒を付くる事 第九十六段 めなもみといふ草あり 第九十七段 その物に付きて、その物を費しそこなふ物 第九十八段 尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて 第九十九段 堀川相国は 第百段 久我相国は 第百一段 或人、任大臣の節会の内弁を勤められけるに、 第百二段 尹大納言光忠入道、追儺の上卿をつとめられけるに、 第百三段 大覚寺殿にて、近習の人ども、 第百四段 荒れたる宿の、人目なきに、 第百五段 北の屋かげに消え残りたる雪の、 第百六段 高野証空上人、京へのぼりけるに、 第百七段 女の物言ひかけたる返事、とりあへずよきほどにする男は、 第百八段 寸陰惜しむ人なし 第百九段 高名の木登りといひしをのこ、人をおきてて、 第百十段 双六の上手といひし人に、 第百十一段 囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、 第百十二段 明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、 第百十三段 四十にもあまりぬる人の、色めきたる方、 第百十四段 今出川のおほひ殿、嵯峨へおはしけるに、 第百十五段 宿河原といふところにて、 第百十六段 寺院の号、さらぬ万の物にも、 第百十七段 友とするにわろき者 第百十八段 鯉の羹食ひたる日は、 第百十九段 鎌倉の海に鰹といふ魚は、 第百二十段 唐の物は、薬の外は、なくとも事欠くまじ。 第百二十一段 養ひ飼ふものには、 第二十二段 人の才能は、 第百二十三段 無益のことをなして時を移すを、 第百二十四段 是法法師は、浄土宗に恥ぢずといへども、 第百二十五段 人におくれて、四十九日の仏事に、 第百二十六段 ばくちの負けきはまりて、 第百二十七段 あらためて益なき事 第百二十八段 雅房大納言は、才賢く、 第百二十九段 顔回は、志、 第百三十段 物に争はず、おのれを枉げて人に従がひ、 第百三十一段 貧しき者は財をもて礼とし、 第百三十二段 鳥羽の作道は、 第百三十三段 夜の御殿は東御枕なり 第百三十四段 高倉院の法華堂の三昧僧 第百三十五段 資季大納言入道とかや聞えける人 第百三十六段 医師篤成、故法皇の御前にさぶらひて 第百三十七段 花はさかりに 第百三十八段 祭過ぎぬれば、後の葵不要なりとて、 第百三十九段 家にありたき木は、 第百四十段 身死して財残る事は、 第百四十一段 悲田院尭蓮上人は、 第百四十二段 心なしと見ゆる者も、よき一言いふものなり 第百四十三段 人の終焉の有様のいみじかりし事など、 第百四十四段 栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、 第百四十五段 御随身秦重躬、北面の下野入道信願を、 第百四十六段 明雲座主、相者にあひ給ひて、 第百四十七段 灸治、あまた所になりぬれば、 第百四十八段 四十以後の人、身を灸を加へて三里を焼かざれば、 第百四十九段 鹿茸を鼻にあてて嗅ぐべからず。 第百五十段 能をつかんとする人、 第百五十一段 或人の伝はく、年五十になるまで 第百五十二段 西大寺静然上人、腰かがまり 第百五十三段 為兼大納言入道召し捕られて 第百五十四段 この人、東寺の門に 第百五十五段 世に従はん人は、先(ま)づ機嫌を知るべし 第百五十六段 大臣の大饗は 第百五十七段 筆をとれば物書かれ 第百五十八段 盃のそこを捨つる事は 第百五十九段 みなむすびといふは 第百六十段 門に額かくるを
  (仮朗読) (CD)

(朗読 1/22/2)原文・現代語訳(1~243段)原文(1~136段)YouTube


[古文] 第81段:
屏風・障子などの、絵も文字もかたくななる筆様して書きたるが、見にくきよりも、宿の主のつたなく覚ゆるなり。
大方、持てる調度にても、心劣りせらるる事はありぬべし。さのみよき物を持つべしとにもあらず。損ぜざらんためとて、品なく、見にくきさまにしなし、珍しからんとて、用なきことどもし添へ、わづらはしく好みなせるをいふなり。古めかしきやうにて、いたくことことしからず、つひえもなくて、物がらのよきがよきなり。

[現代語訳]
屏風・障子に、見苦しい上手くない筆遣いで絵や文字が書いていると、その字の下手さよりも、宿(家)の主人の品性・趣味が劣っていると感じてしまう。
大体、持っている家具・道具を見てみても、思っていたよりも趣味が劣っているなと感じることはあるものだ。それほど良いものを持つ必要はない。しかし、壊れないようにと思って、品性のない感じで醜く補強してみたり、珍しいからといって、実用性のない飾りを付け加えて、煩わしいデザインにするのはみっともないのである。歴史のある古めかしい感じで、おおげさ過ぎることがなく、破損することもなく頑丈で、品質の良いものが良いのである。


[古文] 第82段:
「羅(うすもの)の表紙は、疾く(とく)損ずるがわびしき」と人の言いしに、頓阿(とんあ)が、「羅は上下はつれ、螺鈿(らでん)の軸は貝落ちて後こそ、いみじけれ」と申し侍りしこそ、心まさりして覚えしか。一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都(こうゆうそうず)が、「物を必ず一具に調へんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。
「すべて、何も皆、事のととのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず、造り果てぬ所を残す事なり」と、或人申し侍りしなり。先賢の作れる内外の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。

[現代語訳]
『薄い布で装飾した書物の表紙は、すぐに痛んでしまうのが困る』と人が言った。和歌四天王のひとりである頓阿はそれに対して、『表紙の薄い布の上下がほつれてから。螺鈿細工の巻物は軸の貝が落ちてから。その後から味わいが出てくるのだ』と答えた。その言葉には、素晴らしい発想だと感心してしまった。
何冊かで一つにまとめられているシリーズものの草子(書物)が、同じ体裁(デザイン)でないのは見にくいと誰かが言ったが、弘融僧都は『本をすべて同じような体裁に整えようとするのは、センスのない人間のすることだ。不揃いのほうが良いではないか』と言った。この考えも、面白いと思った。
『全てをなにもかも、整えてしまうのは悪いことである。やり残した部分を残しておくというのが、(未来でも完成させるまでに時間がかかるので)生き延びさせる工夫なのだ。朝廷の内裏を造営する時にも、必ず造り終わっていない部分を残しておく』と、ある人が申し上げていた。優れた先人の書き残した書物にも、章段が欠けていて未完成の部分がある。


[古文] 第83段:
竹林院入道左大臣殿、太政大臣に上り給はんに、何の滞りかおはせんなれども、『珍しげなし。一上(いちのかみ)にて止みなん』とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿(とういんのさだいじんどの)、この事を甘心し給ひて、相国の望みおはせざりけり。
『亢竜の悔あり』とかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。万の事、先の詰まりたるは、破れに近き道なり。

[現代語訳]
竹林院入道左大臣の西園寺公衡(さいおんじ・きんひら)は、朝廷で太政大臣に出世しようと思えば何の支障もなかったが、『面白くも無い。左大臣の位でやめておこう』と言って、出家してしまわれた。洞院左大臣の藤原実泰(ふじわらのさねやす)が、この事を聞いていたく感心して、同じように太政大臣への出世の望みを捨ててしまわれた。
『天空まで上りきった竜に悔いあり(上りきった竜はそれ以上は上ることができない)』という格言もございます。満月は後は欠けるだけ、物事は盛りの時期を迎えれば後は衰える。すべての事柄は、行く先が詰まってしまえば、破綻に近づいているという道理でもある。


[古文] 第84段:
法顕三蔵の、天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひける事を聞きて、『さばかりの人の、無下にこそ心弱き気色を人の国にて見え給ひけれ』と人の言ひしに、弘融僧都、『優に情ありける三蔵かな』と言ひたりしこそ、法師のやうにもあらず、心にくく覚えしか。

[現代語訳]
法顕三蔵はインド(天竺)に渡ったが、(ホームシックで)故郷の扇を見ては悲しみを感じ、病に臥せれば故郷の中国(漢)の食事を求めたということだ。その話を聞いて、『高僧の三蔵ともあろう人物が、外国でなんと無闇に気弱な態度を見せたものか(情けないことだ)』と人が言っていた。しかし、弘融僧都は『何とこころが優しくて情け深い三蔵であることよ』と感嘆したが、その様子はあまりに法師らしくない感じで奥ゆかしく思った。


[古文] 第85段:
人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。『大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす』と謗る。己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬ、この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

[現代語訳]
人の心は素直ではないから、自分を偽るということが無いわけではない。しかし、初めから正直な人なんてどこにいるだろうか(いや、どこにもいない)。自分は素直ではないから、他人の賢さを見て羨ましがるのは普通である。相当に愚かな人物は、賢い人物を見て、その賢さを逆恨みしてしまう。
『大きな利益を得ようとして、小さな利益を得ようとしない。嘘で自分を巧みに飾って名誉を得ようとする』と賢い人をけなしてしまう。自分の心と賢い人の心が違うので、こういった嘲りを言ってしまうのである。この人は、愚鈍な本性から離れることができない。相手を偽って、小さな利益を手に入れようとし、仮にも賢い人から学ぼうとはしない。
狂人の真似をして大通りを走れば、それは狂人そのものだ。悪人の真似と言って人を殺せば、悪人になる。一日に千里走る名馬に学べば、その馬は同じように一日千里を走る。聖王の舜を真似したら舜と同様の名君になるだろう。偽りでも賢さを真似したら、その人を賢と言うべきだろう。


[古文] 第86段:
惟継中納言(これつぐのちゅうなごん)は、風月の才に富める人なり。一生精進にて、読経うちして、寺法師の円伊僧正(えんいそうじょう)と同宿して侍りけるに、文保に三井寺焼かれし時、坊主にあひて、『御坊をば寺法師とこそ申しつれど、寺はなければ、今よりは法師とこそ申さめ』と言はれけり。いみじき秀句なりけり。

[現代語訳]
惟継中納言(平惟継)は、風流な漢詩を書く才能に恵まれた人だ。生涯、仏教の教えに精進していて、読経をしていたが、三井寺の円伊僧正と同じ寺(僧房)で修行していたことがあった。 文保期に三井寺が焼き討ちされた時、惟継は焼き出された法師に会って、『あなた達は今まで三井寺の法師と申していたが、寺が焼けて無くなったので、これからはただの法師と名乗ることになる』と言った。これは素晴らしく優れた言葉である。
※三井寺(園城寺)という武力・経済力・権威を持った拠点を失って、本来あるべき一人の無欲な僧侶(法師)に戻ったことを平惟継は肯定的に捉えているが、三井寺の裕福だった僧侶たちがその言葉を真っ正直に受け容れられたかは分からない。


[古文] 第87段:
下部(しもべ)に酒飲まする事は、心すべきことなり。宇治に住み侍りけるをのこ、京に、具覚房(ぐかくぼう)とて、なまめきたる遁世の僧を、こじうとなりければ、常に申し睦びけり。或時、迎へに馬を遣したりければ、『遥かなるほどなり。口づきのおのこに、先ず一度せさせよ』とて、酒を出だしたれば、さし受けさし受け、よよと飲みぬ。
太刀うち佩きてかひがひしげなれば、頼もしく覚えて、召し具して行くほどに、木幡(こはた)のほどにて、奈良法師の、兵士あまた具して逢ひたるに、この男立ち向ひて、『日暮れにたる山中に、怪しきぞ。止まり候へ』と言ひて、太刀を引き抜きければ、人も皆、太刀抜き、矢はげなどしけるを、具覚房、手を摺りて、『現し心なく酔ひたる者に候ふ。まげて許し給はらん』と言ひければ、おのおの嘲りて過ぎぬ。この男、具覚房にあひて、『御房は口惜しき事し給ひつるものかな。己れ酔ひたる事侍らず。高名仕らんとするを、抜ける太刀空しくなし給ひつること』と怒りて、ひた斬りに斬り落としつ。
さて、『山だちあり』とののしりければ、里人おこりて出であえば、『我こそ山だちよ』と言ひて、走りかかりつつ斬り廻りけるを、あまたして手負ほせ、打ち伏せて縛りけり。馬は血つきて、宇治大路(うじのおおじ)の家に走り入りたり。あさましくて、をのこどもあまた走らかしたれば、具覚房はくちなし原にによひ伏したるを、求め出でて、舁き(かき)もて来つ。辛き命生きたれど、腰斬り損ぜられて、かたはに成りにけり。

[現代語訳]
しもべに酒を飲ませる時には、注意すべきである。京の宇治に具覚房と名乗る風雅な遁世の僧がいた。具覚房は宇治に住む親戚と仲が良くて、頻繁に交遊を結んでいた。ある時、宇治の親戚からお迎えの馬が遣わされてきて、『長い道中をやってきてくれたのだから、馬を引いてきた口取りの下男に酒でも一杯飲ませてやりなさい』と言い、酒を振る舞った。使いの男は杯(さかずき)で酒を何度も受けて、よよと大量の酒を飲んだ。
口取りの男は、太刀を腰に差しており頼りがいのありそうな感じだが、供として連れていく途中、木幡のあたりで、奈良の法師が多数の兵士を引き連れているのに遭遇した。それを見ると口取りの男は立ち向かう様子を見せて、『日も暮れかかる山の中で何者か。怪しい奴らだ。止まれ』といい太刀を抜いた。相手の兵士たちも太刀を抜いて矢をつがえ出したが、具覚房は手をすり合わせて、『この男は、酔っていて正気を失っています。どうかこの場はお許し下さい』と謝罪した。謝罪を聞いた奈良の法師は、単なる酔っ払いかと嘲り笑いながら通り過ぎていった。すると、口取りの男は『あなた様は、非常に勿体ないことをしてしまいましたな。私は酔ってなどいなかったのに。せっかく武功を立てようとしていたのに、この抜いた刀が何の役にも立たなくなってしまったではないか』と怒って、具覚坊に斬り付けてきた。
そして、男は『山賊が出た』と騒ぎ出して、何事かと里人たちが集まったところで、『俺こそが山賊だ』と言って、人々に走りかかって斬りつけた。里人たちは大勢で男を追いかけ、殴りつけて縛り上げた。(具覚房を乗せた)血だらけの馬は、宇治の親戚の家に戻ることができた。馬の様子を見た宇治の親戚はとても驚き、すぐに男どもを遣わして、具覚房を探させた。くちなし原でうめいて倒れている具覚房を見つけ、親戚の家まで担いで帰ってきた。何とか命だけは助かったが、斬られた腰の傷は深くて、具覚房は片輪(身体障害)になってしまった。


[古文] 第88段:
或者、小野道風(おののとうふう)の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人『御相伝(ごそうでん)、浮ける事には侍らじなれども四条大納言撰ばれたるものを、道風書かん事、時代や違ひ侍らん。覚束なくこそ』と言ひければ、『さ候へばこそ、世にあり難き物には侍りけれ』とて、いよいよ秘蔵しけり。

[現代語訳]
ある者が、三筆の一人である小野道風が書いた『和漢朗詠集』だとして持っていた書物がある。これを見たある人が、『先祖代々受け継がれる御相伝の書物を疑うわけではないのですが、小野道風が死んだ後に生まれた四条大納言の撰書である『和漢朗詠集』を、道風が書くなどという事が可能でしょうか。時代も違い、あり得ないことです』と言った。すると、持ち主は『あり得ないものだからこそ、世にもありがたい価値あるものなのでございます』と答え、ますますその偽作と思しき『和漢朗詠集』を大事そうに秘蔵してしまった。


[古文] 第89段:
『奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる』と人の言ひけるに、『山ならねども、これらにも、猫の経上りて(へあがりて)、猫またに成りて、人とる事はあなるものを』と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが聞きて、独り歩かん身は心すべきことにこそと思ひける比しも、或所にて夜更くるまで連歌して、ただ独り帰りけるに、小川の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸のほどを食はんとす。肝心も失せて、防かんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、『助けよや、猫またよやよや』と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。『こは如何に(いかに)』とて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物取りて、扇・小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ家に入りけり。
飼ひける犬の、暗けれど、主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。

[現代語訳]
『山奥には猫又という化け物がいて、人を食べてしまう』と人は言っているが、『山奥じゃなくても近所の猫でも、異常に長生きした猫は猫又になって人を襲うそうだ』という人もいる。 それを聞いた何阿弥陀仏とかいう連歌をする行願寺の法師は、一人歩きする時には、猫又には十分に気をつけようと思っていた。ある所で夜が明けるまで連歌をしていた法師は、一人で歩いて帰っていたが、小川沿いの道で噂に聞いていた猫又と紛れも無く出会い、その猫又が足元へすっと寄ってくる。そのまま飛びついてきて、首の部分に噛み付こうとする。
恐怖に耐える気持ちも無くなって、防ごうとしても力が入らず、怖くて足腰も立たなくなってしまった。法師はそのまま小川に転がり込んで、『助けてくれ。猫又だ、猫又が出た』と叫んだ。周囲の家々から、松明を灯して走り寄ってきたが、この辺りで見慣れた僧が小川の中にいた。『どうなさいましたか?』と言って、川の中から抱き起こして上げると、連歌の賭けで賞品として貰った扇や小箱などの価値あるものが、水に浸かってしまっていた。危機一髪で助かったという様子で、這うようにして法師は家に入った。
しかし、この猫又騒ぎの真相は、法師が飼っていた犬が周囲が暗いので、主人が帰ってきたのを知って喜び、飛びついてきただけということのようである。


[古文] 第90段:
大納言法印の召使ひし乙鶴丸(おとづるまる)、やすら殿といふ者を知りて、常に行き通ひしに、或時出でて帰り来たるを、法印、『いづくへ行きつるぞ』と問ひしかば、『やすら殿のがり罷りて候ふ』と言ふ。『そのやすら殿は、男か法師か』とまた問はれて、袖掻き合せて、『いかが候ふらん。頭をば見候はず』と答え申しき。
などか、頭ばかりの見えざりけん。

[現代語訳]
大納言法印が召し抱えていた稚児の乙鶴丸は、やすら殿という男を知って、いつも通っていた。ある時、乙鶴丸が寺を出ていって帰ってきた時に、法印が『どこへ行っていたのだ?』と聞いた。乙鶴丸は『やすら殿のところへ参っていました』と言う。『やすら殿というのは在俗の男か、出家した法師か?』と法印がまた聞くと、乙鶴丸は袖をかきあわせて言いづらそうに『どうでしょうか、剃髪しているか否かを頭を見ることが出来ませんでした』と答えた。
どうして、頭だけが見えないということがあるのか。
※僧侶と稚児(寺に仕える小さな子)の間で慣習的に行われていた『男色・同性愛』についての話である。法印(高位の僧侶)は、自分のお気に入りの稚児である乙鶴丸が、他の僧侶と浮気しているのではないかと嫉妬しているような口ぶりである。


[古文] 第91段:
赤舌日(しゃくぜつにち)といふ事、陰陽道には沙汰なき事なり。昔の人、これを忌まず。この比、何者の言ひ出でて忌み始めけるにか、この日ある事、末とほらずと言ひて、その日言ひたりしこと、したりしことかなはず、得たりし物は失ひつ、企てたりし事成らずといふ、愚かなり。吉日を撰びてなしたるわざの末とほらぬを数へて見んも、また等しかるべし。
その故は、無常変易(むじょうへんえき)の境、ありと見るものも存ぜず。始めある事も終りなし。志は遂げず。望みは絶えず。人の心不定なり。物皆幻化(げんげ)なり。何事か暫くも住する。この理を知らざるなり。『吉日に悪をなすに、必ず凶なり。悪日に善を行ふに、必ず吉なり』と言へり。吉凶は、人によりて、日によらず。

[現代語訳]
暦の赤口を忌む習慣というのは、陰陽道では忌むべき理由のないことである。昔の人も赤口を忌むことはなかった。最近、誰が言い始めたことなのだろうか、赤口にすることは『先が通らず(将来で良い結果にならない)』と言われる。赤口に言った事やした事は叶わないとされ、赤口で得たものは失うことになり、計画した事柄も成すことができないというが、そんな迷信は愚かだ。
暦の大安吉日を選んでやろうとした事で、良い結果に終わらなかった事を数えてみれば、赤口にやろうとして上手くいかなかったことと、同じくらいあるだろう。
その理由は、世の中は常に移り変わっていて、絶えず変化しやすいからである。あると思ったものがあるとは限らず、始めがあっても終わりがないこともある。志は遂げられず、欲望は絶えない、人のこころは不安定なものであり、すべてのものは幻影のようなものである。どんな事柄であれば、暫くの間でも変わらずに存在し続けられるのだろうか、いや、そういった変化しないものなど無いのだ。変わらないものがあると言い張るならば、この諸行無常の理を知らないというだけである。『吉日に悪をなすに、必ず凶なり。悪日に善を行うに、必ず吉なり』と言われている。吉凶は人間の行いによるものであり、暦の日付けの縁起とは関係がない。


[古文] 第92段:
或人、弓射る事を習ふに、諸矢(もろや)をたばさみて的に向ふ。師の云はく、『初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、ただ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ』と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし。
道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。況んや(いわんや)、一刹那の中において、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、ただ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き。

[現代語訳]
ある人が弓を射る技術を習い、二本の矢を手に挟んで的に向かっていく。これを見た弓の師匠が言った。『初心者は、二本の矢を持ってはならない。後の矢を頼りにして、始めの矢を適当にする心が生まれる。何回も的に当たるか当たらないかを考えるのではなく、いつもこの一矢で決めると思え』と。わずかに二本の矢、師匠の前で無駄にしようなどと思うものか。緩んだ緊張感のない心は、自分では気がつかなくても、師はそれを知っている。この戒めは、万事に及ぶものだ。
仏道を学ぶ者は、夕方には明日の朝があるさと思い、朝には夕方があるさと思って、何度も繰り返してしっかり修行しようとするものだ。どうして、僅かな瞬間の中で、怠けた心のある事など知ることができるだろうか。どうして、今この瞬間の一念(意志)によって、すぐにやろうとする事がこんなにも難しいのだろうか。


[古文] 第93段:
『牛を売る者あり。買ふ人、明日、その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんという人に利あり。売らんとする人に損あり』と語る人あり。
これを聞きて、かたへなる者の云はく、『牛の主、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり。一日の命、万金よりも重し。牛の値、鵞羽よりも軽し。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず』と言ふに、皆人嘲りて、『その理は、牛の主に限るべからず』と言ふ。
また云はく、『されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危うく他の財を貪るには、志満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし』と言ふに、人、いよいよ嘲る。

[現代語訳]
『牛を売る者がいた。買おうとする人が、明日、その牛の代金を支払って引き取ろうという。しかし、その日の夜に牛が死んでしまった。これは、買おうとした人が利益を得たのだ。売ろうとしていた人は損失を出してしまった』と言う人がいた。
これを聞いた近くの人が言った。『牛の持ち主は本当に損をしてしまったな。しかし、大きな利益を得たとも言える。なぜなら、命あるものは死の訪れを予測なんてできない。死んだ牛も当然予測できないし、人間も同じようなものだ。予期せずして牛は死んで、予期せずして牛の飼い主は生きている。一日の生命は、金銭よりも重いんだ。死ぬのに比べれば、牛の代金なんか羽毛よりも軽いよ。多額の金に勝る生命を得て、牛の代金を失っただけだ。損したとは言えない』と。それを聞いたみんなは嘲り笑って、『その理屈は、牛の飼い主だけに当てはまるものではないだろう(誰だって偶然に死ぬ恐れはあるんだから)』と言った。
更に近くの人は言う。『人は死を憎むのであれば、生を愛するべきだ。どうして、生命の喜びを毎日楽しもうとしないのか。愚かな人は、生きる喜びを忘れて、わざわざ苦労して外に楽しみを求め、生きている喜びを忘れて、危険を犯してまで他に楽しみを求める。理想の望みが果てる事はない。生きる事を楽しまないで、死が間近になってから死を怖れる。生きている事を楽しめないのは死を怖れないからだ。いや、死を怖れないのではない、いつも死が接近している事を忘れているだけだ。もし、自分の生死なんかどうでもいいと言うのであれば、真の悟りを得たというべきなのだろう』と。それを聞いて、みんなはいよいよ嘲り笑った。


[古文] 第94段:
常磐井相国(ときわいのしょうこく)、出仕し給ひけるに、勅書を持ちたる北面あひ奉りて、馬より下りたるけるを、相国、後に、『北面某(なにがし)は、勅書を持ちながら下馬し侍りし者なり。かほどの者、いかでか、君に仕うまつり候ふべき』と申されければ、北面を放たれにけり。
勅書(ちょくしょ)を、馬の上ながら、捧げて見せ奉るべし、下るべからずとぞ。

[現代語訳]
常磐井相国(西園寺実氏)が朝廷に出仕したところ、上皇の勅書を持った北面の武士が馬に乗って現れ、北面の武士は常磐井相国に出会ってつい馬を下りて挨拶してしまった。相国はその後、上皇に対して、『なにがしとかいう北面の武士は、上皇の勅書を持ちながら下馬致しました。この程度の者に、陛下の大切な勅書を持たされるのはいかがなものでしょうか』と言った。それを聞いた上皇は、その北面の武士を解任してしまった。
天皇・上皇の勅書という尊い文書は、どんな相手であっても馬に乗ったままで、捧げ奉るべきものである。勅書を持つ者は、決して馬を下りてはならないとされている。


[古文] 第95段:
『箱のくりかたに緒を付くる事、いづかたに付け侍るべきぞ』と、ある有職の人に尋ね申し侍りしかば、『軸に付け、表紙に付くる事、両説なれば、いずれも難なし。文の箱は、多くは右に付く。手箱には、軸に付くるも常の事なり』と仰せられき。

[現代語訳]
『箱についている紐を通す環(鉄のわっか)に紐をつける時には、結び目をどちらにつくるべきですか?』と、(宮中の作法・儀礼・行事に詳しい)ある有職の人に尋ねてみた。『本体でも、蓋でも、結び目はどちらにつくっても良いとされている。文書を送る箱であれば、多くは結び目を右(上)にする。日常的に使う小箱なら結び目は左(下)というのが普通である』とおっしゃられた。


[古文] 第96段:
めなもみといふ草あり。くちばみに螫(さ)されたる人、かの草を揉みて付けぬれば、即ち癒ゆとなん。見知りて置くべし。

[現代語訳]
めなもみという薬草がある。マムシに噛まれた人は、その草を揉んでつければすぐに治るという。どんな草なのか、見て知っておいたほうが良い。


[古文] 第97段:
その物に付きて、その物をつひやし損ふ物、数を知らずあり。身に虱(しらみ)あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財(ざい)あり。君子に仁義あり。僧に法あり。

[現代語訳]
その物に取り付いて、消耗させ害を与えるようなものは数多くある。身体に取り付く虱がある。家に住み着く鼠がある。国に暗躍する賊がいる。小人は財を求めて自滅する。君子は仁義を求めて苦悩する。僧侶は仏法にこだわって煩悩を抱く。


[古文] 第98段:
尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて、一言芳談(いちごんほうだん)とかや名づけたる草子を見侍りしに、心に合ひて覚えし事ども。
一、 しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほようは、せぬはよきなり。
一、 後世を思はん者は、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持経・本尊に至るまで、よき物を持つ、よしなき事なり。
一、 遁世者は、なきにことかけぬやうを計ひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
一、 上臈(じょうろう)は下臈(げろう)に成り、智者は愚者に成り、徳人は貧に成り、能ある人は無能に成るべきなり。
一、 仏道を願ふといふは、別の事なし。暇ある身になりて、世の事を心にかけぬを、第一の道とす。
この外もありし事ども、覚えず。

[現代語訳]
尊い僧侶(聖)が言い残した言葉を集めた『一言芳談』とかいう本を見つけたので、心に残って覚えた言葉を書き留めておこう。
一、するかしないか、しないのもいいかなと思う事なら、大体しないほうが良い。(明禅法印の言葉)
一、後世のことを考えるなら、糠味噌を入れる瓶の一つすらも持ってはいけない。お経や仏像に至るまで、良いものを持っている理由など無い。(俊乗房の言葉)
一、遁世者は、何も無い事を欠かさないように過ごす、何も無いのが最上である。(解脱上人の言葉)
一、身分の高い貴族は下郎になり、賢者は愚者となり、長者は貧者になり、能ある人は無能になるというのが煩悩が無くなって望ましい。(聖光上人の言葉)
一、仏の道は特別なものではない、暇人になって、世間の雑事を気に掛けないというのが第一の道である。(松蔭の顕性房の言葉)
その他にも色々書いてあったが、覚えなかった。


[古文] 第99段:
堀川相国は、美男のたのしき人にて、そのこととなく過差を好み給ひけり。御子(おんこ)基俊卿(もととしのきょう)を大理になして、庁務行はれけるに、庁屋の唐櫃(からひつ)見苦しとて、めでたく作り改めらるべき由仰せられけるに、この唐櫃は、上古より伝はりて、その始めを知らず、数百年を経たり。累代の公物、古弊(こへい)をもちて規模とす。たやすく改められ難き由、故実の諸官等申しければ、その事止みにけり。

[現代語訳]
堀川相国(久我基具)は、美男で楽しい人物であったが、過度の贅沢を好む性格であった。自分の息子を検非違使庁の長官にして、庁務を司らせたが、庁舎にある唐櫃(中国風の収納箱)が古くて見苦しいと、新調することを命じた。だが、この唐櫃は、古代から伝わっていて、いつ持ってこられたのかも分からず、数百年の年月を経た貴重な物である。代々伝えられた公共の物品で、古くなって破損していることにかえって価値がある。簡単に廃棄することなど出来ないと言う昔の出来事(故実)に詳しい役人の意見を聞いて、その事は止めにした。


[古文] 第100段:
久我相国は、殿上にて水を召しけるに、主殿司(とのもづかさ)、土器(かわらけ)を奉りければ、『まがりを参らせよ』とて、まがりしてぞ召しける。

[現代語訳]
久我相国が、宮中の殿上で水を所望すると、女官が土器に水を入れて差し上げました。相国は『まがりの器に入れて持ってきなさい』と言って、まがりの器で水をお飲みになった。※まがりの器が具体的にどんなものを指すのかは不詳である。


[古文] 第101段:
或人、任大臣(にんだいじん)の節会(せちえ)の内辨(ないべん)を勤められけるに、内記の持ちたる宣命を取らずして、堂上せられにけり。極まりなき失礼なれども、立ち帰り取るべきにもあらず、思ひわづらはれけるに、六位外記(ろくいのげき)康綱(やすつな)、衣被き(きぬかずき)の女房をかたらひて、かの宣命を持たせて、忍びやかに奉らせけり。いみじかりけり。

[現代語訳]
ある貴族が、大臣の任命を行う儀式の司会役(取り仕切り役)を勤めたが、詔勅・宣命を作成する内記(中務省の役人)の宣命書を受け取らないまま、紫宸殿に昇殿してしまった。大変な失態ではあるけれど、既に儀式は進行しており、今さら取りに戻るわけにもいかない。どうしようかと思い悩んでいると、外記の康綱が衣を被った女官と相談して、その女官に宣命書を持たせてそっと手渡すように取り計らってくれた。(六位という低い位階にも関わらず)康綱のとても素晴らしい機転である。


[古文] 第102段:
尹大納言(いんのだいなごん)光忠卿(みつただきょう)、追儺(ついな)の上卿(じょうけい)を勤められけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ、『又五郎男を師とするより外の才覚候はじ』とぞのたまひける。かの又五郎は、老いたる衛士の、よく公事に慣れたる者にてぞありける。
近衛殿著陣し給ひける時、軾(ざっき)を忘れて、外記を召されければ、火たきて候ひけるが、『先づ、軾を召さるべくや候ふらん』と忍びやかに呟きける、いとをかしかりけり。

[現代語訳]
尹大納言の源光忠は、朝廷の鬼やらいの儀式の責任者に任命されて、洞院右大臣殿(洞院公賢)に儀式の次第について尋ねた。『又五郎という優れた才覚を持つ男を師とする以外の手はないだろう』と右大臣は答える。その又五郎は老いた門番であったが、宮中の儀式には良く慣れていた。
近衛殿が所定の位置に着座した時、光忠卿は、下級役人が控えるべきゴザの準備を忘れて、下級役人を呼び寄せてしまった(このままでは下級役人たちは直接地面に座ってしまうことになる)。庭でたき火をしていた又五郎は光忠卿の側に寄り、『まずはゴザをご用意なさいませ』と静かにつぶやいた。(外記と軾の音の類似が)非常に面白かった。


[古文] 第103段:
大覚寺殿にて、近習(きんじゅう)の人ども、なぞなぞを作りて解かれける処へ、医師忠守参りたりけるに、侍従大納言公明(きんあきら)卿、『我が朝の者とも見えぬ忠守かな』と、なぞなぞにせられにけるを、『唐医師(からいし)』と解きて笑ひ合はれければ、腹立ちて退り出で(まかりいで)にけり。

[現代語訳]
大覚寺で、法王の近くに仕える側近たちがなぞなぞを作って解いているところに、忠守という医師が通りかかった。さっそく侍従大納言の公明卿が『我が朝の者とも見えぬ忠守かな?』となぞなぞにした。『朝廷の者に見えない忠守とは、中国出身の医師である唐医師ですか』と言って笑い合うので、忠守は腹を立てて退出した。


[古文] 第104段:
荒れたる宿の、人目なきに、女の、憚る事ある比にて、つれづれと籠り居たるを、或人、とぶらひ給はんとて、夕月夜のおぼつかなきほどに、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことことしくとがむれば、下衆女の、出でて、『いづくよりぞ』と言ふに、やがて案内せさせて、入り給ひぬ。心ぼそげなる有様、いかで過ぐすらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷に暫し立ち給へるを、もてしづめたるけはひの、若やかなるして、『こなた』と言ふ人あれば、たてあけ所狭げなる遣戸(やりど)よりぞ入り給ひぬる。
内のさまは、いたくすさまじからず。心にくく、火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、俄かにしもあらぬ匂ひいとなつかしう住みなしたり。『門よくさしてよ。雨もぞ降る、御車は門の下に、御供の人はそこそこに』と言えば、『今宵ぞ安き寝は寝べかめる』とうちささめくも、忍びたれど、程なければ、ほの聞ゆ。
さて、このほどの事ども細やかに聞え給ふに、夜深き鳥も鳴きぬ。来し方・行末かけてまめやかなる御物語に、この度は鳥も花やかなる声にうちしきれば、明けはなるるにやと聞き給へど、夜深く急ぐべき所のさまにもあらねば、少したゆみ給へるに、隙(ひま)白くなれば、忘れ難き事など言ひて立ち出で給ふに、梢も庭もめづらしく青み渡りたる卯月ばかりの曙、艶にをかしかりしを思し出でて、桂の木の大きなるが隠るるまで、今も見送り給ふとぞ。

[現代語訳]
人目のない田舎の荒れた家に、世にはばかる事があって隠れ住む女がいた。ある人が女のお見舞いに行こうと、月がうっすらと浮かぶ夕方に、ひっそりと女の屋敷を訪ねた。犬がおおげさに吠えるので、屋敷から下女が飛び出して来て『どちらから?』と聞いてくる。その下女に案内をしてもらい屋敷に入った。屋敷の物さびしい様子を見て『どうやって生活しているのだろうか?』と切ない気持ちになった。床が傷んだ廊下でしばらく待っていると、やがて落ち着いた若々しい声で『こちらへ』と呼ぶ人がいて、小さな引き戸を開けて部屋の中に入ると、部屋の中の様子は、そんなに荒れ果てているわけでもない。
奥ゆかしく、燈火がほのかにあたりを照らしており、物も美しく輝いて見える。いま焚いたばかりではない香の薫りがふんわりと漂っている。『門を良く閉じよ。雨が降る。牛車は門の下に。供の人はそこそこへ』と女が指示を出しており、『御主人様も、今夜は安眠できそうですね』と忍びやかに下女らがささやく声が、ほのかに聞こえてくる。
さて、細々とした最近の話などをしていると、夜遅くまで寝ているはずの一番鶏が鳴いた。やがて、過去の出来事やこれからの行く末について女が話しているうちに、鶏たちが騒ぎ始めたので、『夜明けが近いのですね?』と聞いた。まだ暗いうちに人目を忍んで急いで帰らなくてはいけない場所でもないので、もうしばらく居ようと別れを惜しんでいる間に、扉の隙間から光が差し込んできた。忘れずに女に伝えたかった事などを話して部屋を出ると、木々の梢も庭も青く染まっていた、四月の明け方である。そのある人は、優雅で風情があったその日のことを思い出して、その辺をお通りになる時には、女の家にある桂の大きな木が見えなくなるまで今でも見送るのだという。


[古文] 第105段:
北の屋陰に消え残りたる雪の、いたう凍りたるに、さし寄せたる車の轅(ながえ)も、霜いたくきらめきて、有明の月、さやかなれども、隈なくはあらぬに、人離れなる御堂の廊に、なみなみにはあらずと見ゆる男、女となげしに尻かけて、物語するさまこそ、何事にかあらん、尽きすまじけれ。
かぶし・かたちなどいとよしと見えて、えもいはぬ匂ひのさと薫りたるこそ、をかしけれ。けはひなど、はつれつれ聞こえたるも、ゆかし。

[現代語訳]
家の北側の陰に消えずに残っている雪が、ひどく凍り付いているが、近く寄せている牛車の轅(牛をつなぐための棒)にも、霜が降りて煌めいている。明け方の月が、まだ明るくかかっているが、その月もやがて日光で微かに消えていくだろう。人里離れた御堂の廊下に、並みの人物ではないように見える立派な男と女が並んで長押(木材)に腰掛けて、何かを話している。二人は何を話しているのだろうか、物語が尽きる事はない。
女は顔・かたちが美しく、風にふと香る女の着物の香の薫りも、何ともいえない心地よさである。途切れ途切れに聞こえてくる声も趣きがある。


[古文] 第106段:
高野証空上人(こうやの・しょうくうしょうにん)、京へ上りけるに、細道にて、馬に乗りたる女の、行きあひたりけるが、口曵きける男、あしく曵きて、聖の馬を堀へ落してげり。
聖、いと腹悪しくとがめて、『こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入れさする、未曾有の悪行なり』と言はれければ、口曵きの男、『いかに仰せらるるやらん、えこそ聞き知らね』と言ふに、上人、なほいきまきて、『何と言ふぞ、非修非学の男』とあららかに言ひて、極まりなき放言しつと思ひける気色にて、馬ひき返して逃げられにけり。
尊かりけるいさかひなるべし。

[現代語訳]
高野山の証空上人、京へ上る途中の細道で、女を乗せた馬と行き違ったが、女の馬の口取りの男の引き方が悪くて、上人の乗っていた馬を堀へ落としてしまった。
馬を落とされた上人は、激しく怒って口取りの男をとがめた。『これはあってはならない無礼な狼藉だぞ。四部の弟子というのは、比丘(出家した男性信者)よりは比丘尼(出家した女性信者)は劣り、比丘尼より優婆塞(在家の男性信者)は劣り、優婆塞より優婆夷(在家の女性信者)は劣る。そのように低い身分の優婆夷であるのに、高い身分の比丘の馬を堀へ蹴入れさせるとはいまだかつてない悪しき行いである』と。
(仏教の信仰について詳しくない)口取りの男は『なにを仰られているのか、良くわかりませんが』と答えたが、上人は更に怒って捲し立てた。『何を言うか、仏道を修める気もなく、学問もしていない無教養な男めが!』と。ここまで荒々しく罵った後に、ふと上人はこの上ない粗暴な暴言を言ってしまった(高僧という自分の立場も忘れて心無いことを言ってしまった)という気まずい顔をした。そしてそのまま、馬に乗ると逃げてしまった。
尊い言い争いであった。


[古文] 第107段:
『女の物言ひかけたる返事(かえりごと)、とりあへず、よきほどにする男はありがたきものぞ』とて、亀山院の御時、しれたる女房ども、若き男達の参らるる毎に、「郭公(ほととぎす)や聞き給へる』と問ひて心見られけるに、某の大納言とかやは、『数ならぬ身は、え聞き候はず』と答へられけり。堀川内大臣殿は、『岩倉にて聞きて候ひしやらん』と仰せられたりけるを、『これは難なし。数ならぬ身、むつかし』など定め合はれけり。
すべて、男をば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ。『浄土寺前関白殿は、幼くて、安喜門院のよく教へ参らせさせ給ひける故に、御詞などのよきぞ』と、人の仰せられけるとかや。山階(やましなの)左大臣殿は、『あやしの下女の見奉るも、いと恥づかしく、心づかひせらるる』とこそ仰せられけれ。女のなき世なりせば、衣文も冠も、いかにもあれ、ひきつくろふ人も侍らじ。
かく人に恥ぢらるる女、如何ばかりいみじきものぞと思ふに、女の性は皆ひがめり。人我の相深く、貪欲甚だしく、物の理を知らず。ただ、迷ひの方に心も速く移り、詞も巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず。用意あるかと見れば、また、あさましき事まで問はず語りに言ひ出だす。深くたばかり飾れる事は、男の智恵にもまさりたるかと思えば、その事、跡より顕はるるを知らず。すなほならずして拙きものは、女なり。その心に随ひてよく思はれん事は、心憂かるべし。されば、何かは女の恥づかしからん。もし賢女あらば、それもものうとく、すさまじかりなん。ただ、迷ひを主としてかれに随ふ時、やさしくも、面白くも覚ゆべき事なり。

[現代語訳]
『女が言いかけた質問に、とりあえずでも良い返事をする男は稀なものである』とか言いあっている。亀山天皇の御代に、御所で愚かな女房どもが、若くて身分の高い男が参られる度に、『うぐいすの声を聞きましたか』などと聞くと、ある若い大納言やらが、『物の数にも入らない身(大した身分もない自分)には聞こえませんでした』と答えていた。
堀川内大臣殿が『岩倉にて聞きましたよ』とおっしゃっているのを聞いて、『それは素晴らしい。大した身分でないということは嫌なものだ』などと批評し合われた。すべての男は、女に笑われないように育て上げるべきかと。『浄土寺の前関白殿(九条師教)は、幼少期から安喜門院(藤原有子)がよくお教えになられていたので、言葉づかいがとても良い』と、人がおっしゃっているとか。
山階左大臣殿は、『下女に見られてるのすら、とても恥ずかしくて気遣いしてしまう』とおっしゃられた。女のいない男だけの世界になれば、着こなしも冠も、どうでも良いものだ。衣服の乱れをひき繕う人もなくなるだろう。男に恥じらいを感じさせる女というものは、どんなに凄いものなのかと思うが、女の本性はみんな、僻みやわがままで、貪欲であり、物の道理を知らない。ただ、煩悩の迷いの方にばかり心は速く移ってしまう。
言葉は巧みな癖に、男が質問した時には、大したことではないのに何も答えなかったりする。何か深い考えでもあるのかと見ていると、気が向けばどうでも良い事まで、尋ねもしないのに語り始める。深く相手をだまして飾り立てる事は、男の智恵にも勝るかと思うが、意外に後でばれてしまうことを知らない。素直でなくて拙いものは、女である。
その女の心に従って良く思われようとする事は、気持ちが重くなることでもある。ならば、どうして女に気を遣わなければならないのか。もし人格と教養に秀でた賢女がいれば、それはそれで親しみがもてないし、何の魅力も感じられない。ただ、迷いに駆られて女に従うのであれば、女を優美なものとして、興趣ある存在として思うことができるだろう(完璧な欠点のない才女だったり、冷静な男の自分だったりすれば、女の妖艶で不思議な魅力というのは無くなってしまうのだ)。


[古文] 第108段:
寸陰(すんいん)惜しむ人なし。これ、よく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人のために言はば、一銭軽しと言へども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。されば、商人の、一銭を惜しむ心、切なり。刹那覚えずといへども、これを運びて止まざれば、命を終ふる期、忽ちに至る。
されば、道人(どうにん)は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来りて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日のうちに、飲食・便利・睡眠・言語・行歩(ぎょうぶ)、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇幾ばくならぬうちに、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて(わたりて)、一生を送る、尤も愚かなり。
謝霊運(しゃれいうん)は、法華の筆受なりしかども、心、常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮(びゃくれん)の交りを許さざりき。暫くもこれなき時は、死人に同じ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。

[現代語訳]
僅かの時間(瞬間)を惜しむ者はいない。これは惜しむ必要がないと知っているのか、あるいは愚かで惜しむ必要があることを知らないのか。愚かで怠けている人のために言えば、一銭(わずかなカネ)は軽いが、これを積み重ねていけば、貧しき人を富む人にしてしまう。商人の一銭を惜しむ心は切実である。一瞬のことなど覚えていないと言っても、瞬間が時間を運び去る事をやめないならば、最期の死の瞬間はたちまちやってくるだろう。
道を求める仏教者(修行者)は、長い月日を通して勤めることを惜しむべきではない。ただ今の一念によって、空しく時間を過ごすことを惜しまなければならない。もし、人がやって来て、自分の命が明日には失われると宣告されたら、今日一日が終わるまで、何をあてにして、何をしようとするだろうか。我らが生きる『今日の日』とは何か、今日死んでしまうと宣告されたその貴重な時節に他ならないのだ。
一日のうちに、飲食・排便・睡眠・会話・移動など、やむを得ないやらなければいけない事柄で無駄にする時間は多いのだ。何とか無駄を逃れたとしても、余った時間に無駄な事をしたり、無駄な事を言ったり、無駄な事を考えるのであれば愚かだ。一日はたちまち終わってしまい、月は変わって、一生を終えることになるだろう。
中国六朝時代の詩人・謝霊運は、法華経の中国語訳を行ったが、常に風流を楽しむ気持ちを抱いていたので、東晋の僧侶・恵遠は、念仏修行で浄土に行こうとする白蓮社との交流を許さなかった。一瞬を惜しんで努力する心のない者は、死んでいるも同然である。
どうして光陰(時間)を惜しむのかというと、内面に深く思い悩むことがないようにして、外部には俗世の雑事がないようにするためである。そして、悪事をやめようとするものはやめて、善行を為そうとする者はなせということのためでもある。


[古文] 第109段:
高名の木登りといひし男、人を掟てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るる時に、軒長(のきたけ)ばかりに成りて、『あやまちすな。心して降りよ』と言葉をかけ侍りしを、『かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ』と申し侍りしかば、『その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ』と言ふ。
あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。

[現代語訳]
高名な木登りの名人が、植木職人に指図して高い木に登らせ、枝を切らせていた。とても危ないように見える木の上では何も言わなかったが、職人が作業を終えて木から降りる時に、家の屋根ばかりの高さになると、『過って落ちるなよ、注意して降りよ』と言葉を掛けた。雇い主は、『それくらいの高さなら、飛び降りてでも降りられるのに、どうしてそのような事を言うのか』と聞いた。
木登りの名人は、『その事でございますか。目がまわる程に高い危ない枝の上では、自分で落ちるのを恐れますから注意しなくても良いのです。過って落ちるのは、いつも安心できる高さになってからなのです』と答えた。身分の低い下賎なものだが、聖人の戒めに適った考え方である。蹴鞠でも、難しいところを蹴りだした後に、安心していると必ずミスして落としてしまうものだ。


[古文] 第110段:
双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、『勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし』と言ふ。
道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。

[現代語訳]
双六の名人と言われている人に、勝つ為の手段を聞いてみると、『勝とうとして打つのはダメだ。負けないようにして打つのが良い。どの手が一番早く負けてしまうのかを心配して、その手を使わないようにし、少しでも遅く負けるような手を選ぶべきだ』と答えた。
物事の道理を弁えた教えだ。自分自身を治めて、国を維持していこうとする道も、また同じようなものである。


[古文] 第111段:
『囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重・五逆にもまされる悪事とぞ思ふ』と、或ひじりの申しし事、耳に止まりて、いみじく覚え侍り。

[現代語訳]
『囲碁・双六を好んで夜を明かして遊び暮らす人は、四重・五逆にも勝る悪事を犯していると思う』と、ある聖(民間の僧侶)が申していたことが耳にとどまっており、よく覚えている。
四重・五逆というのは仏教上の罪。四重とは『殺人・姦淫・窃盗・詐欺』のこと、五逆とは『父殺し・母殺し・解脱者(悟った者)殺し・仏法を破ること・僧侶殺し』のことである。


[古文] 第112段:
明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、心閑かになすべからんわざをば、人言ひかけてんや。俄かの大事をも営み、切に歎く事もある人は、他の事を聞き入れず、人の愁へ・喜びをも問はず。問はずとて、などやと恨むる人もなし。されば、年もやうやう闌け(たけ)、病にもまつはれ、況んや世をも遁れたらん人、また、これに同じかるべし。
人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、塗(みち)遠し。吾が生既に蹉陀(さだ)たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ、礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。毀る(そしる)とも苦しまじ。誉むとも聞き入じれ。

[現代語訳]
明日にも遠い国へ旅立つ人に、心を静かにしていられないような事を頼んだり、言ったりすることがあるだろうか。突然起こった大きな問題に取り組んでいる人やひたすら苦しく嘆いている人は、他人の言葉など聞き入れないし、他人の憂いや喜びを気にすることもできない。他人の憂いや喜びを気に掛けないからといって、どうして気に掛けないんだと恨むような人もいないだろう。ならば、年齢を重ねた老人や病人、まして遁世者(世捨て人)は、明日、遠い国に旅立とうとしている者と同じように生きるべきである
人間の儀式で、どれかやめにくいようなものがあるだろうか。世間の慣習を黙って無視してばかりもいられないということでこれに従っていると、願い事が多くなり、身体の調子も悪くなり、心も落ち着かなくなる。一生は、雑事の小片に邪魔されて、空しく暮れてしまう。日は暮れて、道は遠い。わが人生も、既に斜陽を迎えている。世俗の諸縁を放棄すべき時なのだ。 信義を守ることもなく、礼儀にもこだわらない。この心が分からない人は、狂ったと言ってもいいし、馬鹿だとでも、人間の情愛がないとでも思えばいい。謗られても苦しまないし、誉められても聞き入れない。


[古文] 第113段:
四十にも余りぬる人の、色めきたる方、おのづから忍びてあらんは、いかがはせん、言に打ち出でて、男・女の事、人の上をも言ひ戯るるこそ、にげなく、見苦しけれ。
大方、聞きにくく、見苦しき事、老人の、若き人に交りて、興あらんと物言ひゐたる。数ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人に饗応せんときらめきたる。

[現代語訳]
四十歳を越えようという人が色事(男女関係)の方面に関心を持ったとしても、心の中に秘めているのであれば仕方ないであろうか。男女関係の事柄や他人の恋愛を戯れながら語っているようだと、年齢に相応しくなくて見苦しいものである。
大体、聞きにくくて見苦しいのは、老人が若い人に交じって、面白いだろうと思って得々と物事を語っている様である。大した身分でもないのに、世の中で知られている名声のある人を、自分と全く隔て(遠慮)がない関係にあるかのように語っている様子。貧しいのに酒宴を好んで、客人を手厚くもてなそうとして接待している様子。


[古文] 第114段:
今出川の大殿、嵯峨へおはしけるに、有栖川のわたりに、水の流れたる所にて、賽王丸、御牛を追ひたりければ、あがきの水、前板までささとかかりけるを、為則、御車のしりに候ひけるが、『希有の童かな。かかる所にて御牛をば追ふものか』と言ひたりければ、大殿、御気色悪しくなりて、『おのれ、車やらん事、賽王丸にまさりてえ知らじ。希有の男なり』とて、御車に頭を打ち当てられにけり。この高名の賽王丸は、太秦殿の男、料の御牛飼いぞかし。
この太秦殿に侍りける女房の名ども、一人はひざさち、一人はことづち、一人ははふばら、一人はおとうしと付けられけり。

[現代語訳]
今出川の大殿(太政大臣・西園寺公相)が、牛車で嵯峨へお出かけになった時、有栖川の辺りの、水が流れているぬかるんだ道で、牛車の賽王丸がは車が泥濘(ぬかるみ)にはまり込まないように激しく牛を追い立てた。牛はあがいて水を蹴散らし、その水が大殿の御前までササッとかかったのだが、牛車の後ろに乗っていた従者の為則がそれを見て、『なんて馬鹿な奴だ、こんな水たまりの場所で牛を激しく追うなんて』ととがめた。
その様子を見ていた大殿は、機嫌が悪くなって、『おのれ!車を動かすことにおいて、お前は牛飼いに勝っているとでも言うのか。馬鹿はお前のほうだ』と為則の頭を車に打ち付けた。この高名な牛飼いの男は、太秦殿の賽王丸といい、賽王丸は大殿に歴代仕えてきた牛飼いであった。
(代々牛飼いの仕事で大殿に仕えてきた)太秦殿に仕えている女房の名前は、牛にちなんだ名前であり一人はひざさち、一人はことづち、一人ははふばら、一人はおとうしと名づけられていた。


[古文] 第115段:
宿河原(しゅくがわら)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、『もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします』と尋ねければ、その中より、『いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ』と答ふれば、『しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり』と言ふ。いろをし、『ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉るば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわずらひにならば、仏事の妨げに侍るべし』と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。
ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍(とうじょう)を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。

[現代語訳]
宿河原という所に、ぼろぼろ(山野・河川敷を放浪した乞食・浮浪民)が多く集まって、九品の念仏を唱えていたが、そこに他所から来たぼろぼろが来て尋ねた。『この中に、いろをし房と言うぼろは、いらっしゃいませんか?』と。するとぼろぼろの中から、『いろをしならばここにいるぞ。そう言っているあなたのほうは誰ですか?』と答えが返ってきた。『私はしら梵字と申す者です。東国で私の師匠が、いろをしと言うぼろに殺されたと聞いて、その人に会ってお恨みを申し上げたいと思い参上いたした次第です』とそのぼろが答えた。 いろをしは、『よくぞここまで参られたな。そのような事が確かにあった。だが、ここで対面致すと道場を血で汚す事になるので、前の河原へ一緒に参ろう。ぼろの皆さん、どちらにも味方はしてくださるな。大勢の揉め事になってしまえば、仏道修行の妨げになってしまいます』 と言った。二人は河原に出ると、心ゆくまで刀で切り合って共に死んでしまった。
ぼろぼろという者は、昔はいなかったと言われている。ぼろんじとか梵字、漢字などと名のりだした者たちが、その始めとされている。世を捨てたかのように見えて我執が深く、仏道を求めるように見えて闘争を好むところがある。放逸な気ままさを持ち、恥知らずな有様だが、自分の死を恐れることも無く、少しも生きることにこだわらない生き方に潔さを感じて、人の語るままにぼろぼろについて書きつけ申したのである。


[古文] 第116段:
寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、ただ、ありのままに、やすく付けけるなり。この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。
何事も、珍らしき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。

[現代語訳]
寺の名前やその他の物でも、名を付ける事を昔の人は少しも欲張らずに(こだわらずに)、ただ、ありのままに気安くつけたものだ。最近は、深く考え込んで、自分の才覚を表そうとでもするかのように聞こえる名が多くて、とても煩わしい。人の名前も、見慣れぬ文字を使おうとするのは、(読みにくいだけで)無益なことである。
何事でも、珍しい事を求めて、奇抜なものを好むのは、浅はかな才知を持つ人が必ずやる事だと言われている。


[古文] 第117段:
友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。
よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには医師。三つには、知恵ある友。

[現代語訳]
友とするのに悪い者には、七つの人がある。一つ目は、身分が高くて高貴過ぎる人。二つ目は、若い人。三つ目は、病気知らずで身体が強い人。四つ目は、酒を好む人。五つ目は、気が荒くて勇敢な兵士。六つ目は、嘘つきな人。七つ目は、欲深い人である。
良き友には、三つの人がある。一つ目は、物をくれる友。二つ目は、医師の友人。三つ目は、知恵のある友である。


[古文] 第118段:
鯉の羹食ひたる日は、鬢そそけずとなん。膠にも作るものなれば、粘りたるものにこそ。
鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなきものなり。雉・松茸などは、御湯殿の上に懸りたるも苦しからず。その外は、心うき事なり。中宮の御方の御湯殿の上の黒み棚に雁の見えつるを、北山入道殿の御覧じて、帰らせ給ひて、やがて、御文にて、「かやうなもの、さながら、その姿にて御棚にゐて候ひし事、見慣はず、さまあしき事なり。はかばかしき人のさふらはぬ故にこそ」など申されたりけり。

[現代語訳]
鯉料理(鯉の吸い物)を食った日は、髪がばらけにくいと言う。ニカワの材料にもなるので、粘りがつくのだろうか。
鯉というのは、天皇の御前でもさばかれる尊い魚でもある。鳥なら雉で、他に並ぶべき物はない。雉や松茸などは、御湯殿へと続く棚の上に置かれていても見苦しくはない。その他の食材は、(天皇の目に触れさせるのは)悩ましいものばかりである。
中宮の御所で、御湯殿の黒御棚に雁が見えていた。それを北山入道様が御覧になられて、自邸に帰った後にやがてお手紙で、『雁のような鳥をそのままの姿で棚においていらっしゃるのは、見慣れないことで、体裁が悪い事でございます。しっかりとした見識のある人がお側に仕えていないからでしょうか』などと申されていたという。


[古文] 第119段:
鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。
かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ候れ。

[現代語訳]
鎌倉の海で獲れるカツオという魚は、鎌倉辺りでは並ぶ物のない良いものだとして、もてはやされている魚だ。そのカツオは、鎌倉の老人が申し上げるには、『この魚は、わしらが若かった時分には、身分のある人が食べる物じゃありませんでした。カツオの頭など、手下どもでも食べずに切って捨てていたものです』という。
こんなものでも、世も末ならば、身分のある人の食卓にまで入り込んでくるようでございます。


[古文] 第120段:
唐の物は、薬の外は、みななくとも事欠くまじ。書どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。唐土船(もろこしぶね)の、たやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所狭く渡しもて来る、いと愚かなり。
『遠き物を宝とせず』とも、また、『得難き貨を貴まず(とうとまず)』とも、文にも侍るとかや。

[現代語訳]
中国からの舶来品(輸入品)は、薬の他はなくても困らない物ばかりである。書物なども、もう充分にこの国に広まっており、もう書き写すだけで良くなっている。中国の貿易船が、たやすくはない遠い道のりを、無用の物ばかり所狭しと積み込んでやって来るのは、非常に愚かしいことである。
『遠い国の物を宝にするな』とも、『手に入りにくい宝物を貴ぶな』とも、中国の賢人の書物には書いてあるとか。


[古文] 第121段:
養ひ飼ふものには、馬・牛。繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかがはせん。犬は、守り防くつとめ人にもまさりたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、殊更に求め飼はずともありなん。
その外の鳥・獣、すべて用なきものなり。走る獣は、檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は、翅を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁、止む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遙の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。
凡そ、『珍しき禽、あやしき獣、国に育はず』とこそ、文にも侍るなれ。

[現代語訳]
人が養って飼う動物には、馬と牛がいる。つなぎ苦しめるのは心苦しいけれども、牛と馬がいなくては人間の生活が成り立たないので、どうしようもない。犬も防犯の役目に関しては人よりも優れており、必ず飼っておきたい動物だ。しかし、各家ごとに飼っているのであれば、わざわざ自分が求めて飼うことも無いだろう。
その他の鳥や獣は、全て人間にとっては無用なものである。走る獣は、檻に閉じ込められて、鎖につながれ、飛ぶ鳥は、羽を切られて、籠に入れられているので、空を恋しく思って、野山を思う心は留まることがない。その鳥獣の憂いを我が身のことのように偲び難く感じるような心ある人が、動物の飼育を楽しめるだろうか。生き物を苦しめて、目を楽しませるのならば、人民を苦しめた古代中国の暴君である桀・紂の心と同じようなものである。
中国の王徽子は鳥を愛したが、捕らえて苦しめたのではなく、林を飛んでいる鳥の姿を見て楽しみ、散策の友としたのである。『珍しい鳥や変わった獣を、国が捕獲して育てるな』と中国の古典『書経』にも書いてある。


[古文] 第122段:
人の才能は、文明らかにして、聖の教を知れるを第一とす。次には、手書く事、むねとする事はなくとも、これを習ふべし。学問に便りあらんためなり。次に、医術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝の務も、医にあらずはあるべからず。次に、弓射、馬に乗る事、六芸に出だせり。必ずこれをうかがふべし。文・武・医の道、まことに、欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は、人の天なり。よく味はひを調へ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工、万に要多し。
この外の事ども、多能は君子の恥づる処なり。詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、漸くおろかになるに似たり。金(こがね)はすぐれたれども、鉄(くろがね)の益多きに及かざるが如し。

[現代語訳]
人の才能というものは、古典・文書を読み解くことができ、聖人の教えを知ることができるというのを第一にする。次は書道で、専門としていないとしても、書道には習熟しておくべきだ。次に医術を習ったほうが良い。自分の身を養生して、他人を助け、忠孝の勤めを果たす時には、医術を知らなければ成し遂げることができない。次に弓矢と乗馬で、中国古代の士官が習得すべき六芸にも挙げられている。必ずこれを身に付けておきたい。
文武と医術の道、これらは欠けてはならない能力である。これを学ぼうとする人を、無益なことをする人だと思ってはならない。次に食で、食は天の如く重要なものだ。美味しい料理を作る人は、大きな徳を持っていると言わなければならない。次に細工で、いろいろと必要が多いものだ。 これ以外の才能もあるが、多才は君子の恥とする事でもある。詩歌が巧みで、楽器を奏でるのは幽玄の道であるが、君臣がこれらを重視しても、今の世の中は幽玄さや優雅さで国を治める事などは出来ない。黄金(風雅)は美しいけれども、鉄(実務的技能)の利益の多さに及ばないのと同じことである。


[古文] 第123段:
無益のことをなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事する人とも言ふべし。国のため、君のために、止むことを得ずして為すべき事多し。その余りの暇、幾ばくならず。思ふべし、人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。
人間の大事、この三つには過ぎず。餓ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過すを楽しびとす。ただし、人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁忍び難し。医療を忘るべからず。薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、欠けざるを富めりとす。この四つの外を求め営むを奢りとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足らずとせん。

[現代語訳]
無益なことをして時を過ごす人は、愚かな人とも、不正なことをする人とも言うべきである。国の為、主君の為と、やむを得ずにしなければならないことは多い。それ以外の義務にとらわれない暇な時間というのは、ほとんどない。考えてみるといい、人間にとって絶対に必要とされるもの、第一に食べる物、第二に着る物、第三に住む場所である。
人間にとって大事なのは、この3つに過ぎない。餓えなくて、寒くなくて、雨風がしのげる家があるならば、後は閑かに楽しく過ごせば良いのだ。ただし、人には病気がある。病気に罹ってしまうと、その辛さは堪え難いものだ。だから医療を忘れてはならない。衣食住に医療と薬を加えた四つの事を求めても得られない者を貧者とする。この四つが欠けてない者を、金持ちとする。それ以上のことを望むのは、奢りである。四つの事でつつましく満足するなら、誰が足りないものなどあるだろうか。


[古文] 第124段:
是法法師(ぜほうほうし)は、浄土宗に恥ぢずといへども、学匠を立てず、ただ、明暮念仏して、安らかに世を過す有様、いとあらまほし。

[現代語訳]
是法法師は、浄土宗に恥じない学識を持つ僧侶だったが、学者であることを表明せず、ただ毎日念仏を唱えて安らかに世を過ごしていた。その有様は、理想的な生き方である。


[古文] 第125段:
人におくれて、四十九日の仏事に、或聖を請じ侍りしに、説法いみじくして、皆人涙を流しけり。導師帰りて後、聴聞の人ども、『いつよりも、殊に今日は尊く覚え侍りつる』と感じ合へりし返事に、或者の云はく、『何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなん上は』と言ひたりしに、あはれもさめて、をかしかりけり。さる、導師の誉めやうやはあるべき。
また、『人に酒勧むるとて、己れ先づたべて、人に強ひ奉らんとするは、剣にて人を斬らんとするに似たる事なり。二方に刃つきたるものなれば、もたぐる時、先づ我が頭を切る故に、人をばえ斬らぬなり。己れ先づ酔ひて臥しなば、人はよも召さじ』と申しき。剣にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。

[現代語訳]
人に先立たれた家で四十九日の法事を行い、その導師としてある聖(民間の僧侶)をお招きしたが、導師は法事に集まった人たちに説法をして、それを聞いた人は感動して涙を流しあった。導師が帰った後も、聴聞の人たちは『今日の説法は、いつも以上に尊いものでございましたな』と感動しながら話し合っていた。しかし、ある男が『そうでしょうな、あれだけ中国の唐犬に似ているというのは』などと言い出したので、それまでの感動も醒めてしまって、思わず笑い出してしまった。そんな導師の誉めようというものがあるのだろうか。
また、この男は『人に酒を勧める時に、まず自分が飲んでから人に無理やり飲ませようとするのは、剣で人を斬ろうとするのに似ています。諸刃の剣は双方に刃がついているので、人を斬ろうとして持ち上げた時には自分の顔を斬ってしまうので、人は斬れません。これと同じで、先に自分のほうが酔いつぶれてしまえば、人に酒を勧めることなんてできないのです』と申し上げた。この男は本当に剣を持って人を斬ろうとしたことがあるのだろうか。何ともおかしな男であったな。


[古文] 第126段:
『ばくちの、負極まりて、残りなく打ち入れんとせんにあひては、打つべからず。立ち返り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よきばくちといふなり 』と、或者申しき。

[現代語訳]
『ばくちの負けが込んでしまって、全てを賭けてばくちを打とうとする者を相手にすべきではない。立ち返って考えると、次はその相手が続けて勝つ時がやってくるということを知っていたほうがいい。そういう引き時を知っているのが、優れた博徒というものである』と、ある人が言っていた。

[古文] 第127段:
改めて益なき事は、改めぬをよしとするなり。

[現代語訳]
改めても益がない事は、改めないほうが良い。


[古文] 第128段:
雅房大納言(まさふさのだいなごん)は、才賢く、よき人にて、大将にもなさばやと思しける比(ころ)、院の近習(きんじゅう)なる人、『ただ今、あさましき事を見侍りつ』と申されければ、『何事ぞ』と問はせ給ひけるに、『雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を斬り侍りつるを、中墻(なかがき)の穴より見侍りつ』と申されけるに、うとましく、憎く思しめして、日来の御気色も違ひ、昇進もし給はざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど、犬の足は跡なき事なり。虚言は不便なれども、かかる事を聞かせ給ひて、憎ませ給ひける君の御心は、いと尊き事なり。
大方、生ける物を殺し、傷め、闘はしめて、遊び楽しまん人は、畜生残害の類なり。万の鳥獣、小さき虫までも、心をとめて有様を見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、嫉み、怒り、欲多く、身を愛し、命を惜しめること、偏へに愚痴なる故に、人よりもまさりて甚だし。彼に苦しみを与へ、命を奪はん事、いかでかいたましからざらん。
すべて、一切の有情を見て、慈悲の心なからんは、人倫にあらず。

[現代語訳]
雅房大納言(土御門雅房)は、学識のある優れた人物で、次は大将にでもしようかと雅房を重用する亀山法王は思っていた。そんな頃、近習の人が法王に、『ただ今、あさましい事を見ました』と申し上げ、法王が『何事か』とお聞きになられた。『雅房様が、鷹の餌として食わせようとして、生きた犬の足を斬り落としたのを、塀の穴より見てしまいました』と近習が申し上げると、法皇は雅房大納言のことを疎ましく不快に感じられ、気分も悪くなってしまった。雅房の昇進の話もいつの間にか無くなってしまった。雅房様が鷹をお飼いになられていたのは知らなかったが、犬の足の話は根拠のないことだった。虚言によって昇進できなかったことは雅房様にとって不憫で可哀想なことだが、こういった虚言を聞いて胸を痛ませられた法皇の御心はとても尊いものだ。
大体、生き物を殺して、傷つけ、戦わせて、遊び楽しむような人は、畜生と同じ類の低劣な存在である。全ての鳥獣はじめ、小さな虫まで、心を傾けてその様子を観てみれば、子を思い、親をなつかしみ、夫婦が連れ添い、妬み、怒り、欲多く、我が身を愛し、命を惜しむことについては、人よりもその愚かさで明らかに勝っている。そんな彼らに苦しみを与えて命を奪うことは、何と痛ましいことだろうか。
すべての心ある生命を見て、慈悲の心が起きないような人は、人としての道を踏み外している。


[古文] 第129段:
顔回は、志、人に労を施さじとなり。すべて、人を苦しめ、物を虐ぐる事、賤しき民の志をも奪ふべからず。また、いときなき子を賺し(すかし)、威し(おどし)、言ひ恥かしめて、興ずる事あり。おとなしき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身に沁みて、恐ろしく、恥かしく、あさましき思ひ、まことに切なるべし。これを悩まして興ずる事、慈悲の心にあらず。おとなしき人の、喜び、怒り、哀しび、楽しぶも、皆虚妄なれども、誰か実有の相に著(じゃく)せざる。
身をやぶるよりも、心を傷ましむるは、人を害ふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より来る病は少し。薬を飲みて汗を求むるには、験(しるし)なきことあれども、一旦恥ぢ、怖るることあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて白頭の人と成りし例、なきにあらず。

[現代語訳]
(孔子が最も期待して愛した弟子とされる)顔回は、人に苦労をかけないことを志した。全ての人や動物を苦しめたり、虐げたりしてはいけないし、身分の低い卑賤の者でもその意志を侵害してはならない。また、まだ幼い子供をおどしたりすかしたりして、言い恥ずかしめて面白がる人もいる。
大人なら相手が本気ではないことが分かっているので何でもないという風に思えるのだが、幼い心には身に沁みるし、恐ろしくて恥ずかしくて情けない思いをさせられるのは切実な問題である。幼い子供を悩ませて楽しむような人間には、慈悲の心が無い。大人の喜び、怒り、悲しみ、楽しみなどの感情も(仏教的観点からは)みんな虚妄に過ぎないのだが、大人でさえも現実にある本当の感情だと信じ込んでしまうものである(子どもであれば尚更、それらの感情を実在のものとして受け取ってしまうだろう)。
身体を傷つけられるよりも、心を痛めつけられることのほうが、人間の傷の深さは深くなってしまうこともあるのだ。病気になる時も、多くは心の悩みが原因であり、外部からやってくる病気は少ない。汗をかいて熱を下げるという薬を飲んでも、汗を出す効果が全くでないことがあるが、恥じたり恐れている時に必ず汗をかくのは心の仕業だということを知っておくべきだろう。とても高い場所で『凌雲の額』を書かされて、そこから下りてきた時には白髪になってしまったという例も無いわけではない。


[古文] 第130段:
物に争はず、己れを枉げて(まげて)人に従ひ、我が身を後にして、人を先にするには及かず(しかず)。
万の遊びにも、勝負を好む人は、勝ちて興あらんためなり。己れが芸のまさりたる事を喜ぶ。されば、負けて興なく覚ゆべき事、また知られたり。我負けて人を喜ばしめんと思はば、更に遊びの興なかるべし。人に本意なく思はせて我が心を慰めん事、徳に背けり。睦しき(むつましき)中に戯るるも、人を計り欺きて、己れが智のまさりたる事を興とす。これまた、礼にあらず。されば、始め興宴(きょうえん)より起りて、長き恨みを結ぶ類多し。これみな、争ひを好む失なり。
人にまさらん事を思はば、ただ学問して、その智を人に増さんと思ふべし。道を学ぶとならば、善に伐らず(ほこらず)、輩(ともがら)に争ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、ただ、学問の力なり。

[現代語訳]
人というものは他人と争わず、自分を曲げてまでも人に従い、我が身を後にして人に先を譲るというのが(処世の業としては)良い。
いろいろな遊びの中でも勝負事を好む人は、相手に勝って満足を感じようとするものだ。自分の技芸が優れていることを喜ぶものだ。であれば、負けてしまえば面白くないと感じることもまたよく知られたことである。自分がわざと負けて相手を喜ばせようなんて思えば、全く遊びの面白みが無くなってしまう。しかし、相手に残念だ悔しいと思わせて自分の心を慰めようとすることは、徳性には背いているんだよ。
親しい相手と勝負事で戯れている時に、あれこれ策略を巡らして欺いたりすることで、自分の知恵が勝っていることを楽しもうとすることもある。これもまた、礼には背いている。だから、宴会から始まった勝負事がもとで、長年の恨みに発展してしまうことも多い。これは、争いごとを好むが故の過失だけどね。
他人よりも優れたいというのであれば、学問でもして知識・知恵を増やしたほうがいいと思うよ。学問の道を学んでいけば、善行を誇るようなこともなくなり、友達と争ってはいけないということを知ることが出来るだろう。また、名誉ある官職を辞したり目先の利益を捨てられるというのも、学問の力だ。


[古文] 第131段:
貧しき者は、財をもて礼とし、老いたる者は、力をもて礼とす。己が分を知りて、及ばざる時は速かに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強いて励むは、己れが誤りなり。
貧しくて分を知らざれば盗み、力衰へて分を知らざれば病を受く。

[現代語訳]
貧しい者は、財力を礼節だと勘違いをし、老いた者は、体力を礼節だと勘違いしやすい。自分の能力の分を知って、できない時には速やかにあきらめるのが知恵である。そういった諦めを許さないというのは、人が陥りやすい誤りである。自分の分をわきまえずに無理やりに頑張るのは、自分の誤りというべきことである。
貧しくて分を知らなければ盗みを働き、力が衰えているのに分を知らなければ病気になってしまう。


[古文] 第132段:
鳥羽の作道(つくりみち)は、鳥羽殿建てられて後の号にはあらず。昔よりの名なり。元良親王(もとよししんのう)、元日の奏賀(そうが)の声、甚だ殊勝にして、大極殿より鳥羽の作道まで聞えけるよし、李部王(りほうおう)の記に侍るとかや。

[現代語訳]
鳥羽の作道という新しい道路は、鳥羽の御殿が建てられた後の名ではない。昔からの名である。元良親王が元日に、臣下に掛けられる祝賀の声がたいへん立派で素晴らしく、大極殿から鳥羽の作道のところまで聞こえたという。李部王の日記にそのことが書いてあるとかいう。


[古文] 第133段:
夜の御殿(おとど)は、東御枕(ひがしみまくら)なり。大方、東を枕として陽気を受くべき故に、孔子も東首し給へり。寝殿のしつらひ、或は南枕、常の事なり。白河院は、北首に御寝なりけり。『北は忌む事なり。また、伊勢は南なり。太神宮の御方を御跡にせさせ給ふ事いかが』と、人申しけり。ただし、太神宮(だいじんぐう)の遥拝(ようはい)は、巽(たつみ)に向はせ給ふ。南にはあらず。

[現代語訳]
上皇がお休みになる夜の寝殿では、枕を東向きにするのが決まりである。大体、太陽が昇る方角の東を枕とすれば、好ましい陽気を受けると言われており、中国の孔子も東を向いて寝たという。寝殿での布団と枕の配置も、東枕あるいは南枕というのが普通である。
白河上皇は、北枕で寝ておられた。『北は忌むべき方角です。また、皇室をお祭りする伊勢神宮は南の方角にあります。大神宮の方に足を向けて寝るのはいかがなものでしょうか?』と、ある人が申し上げた。しかし、天皇が京都の御所から大神宮を拝む時には、東南を向いて拝まれる。南の方角ではないのだ。


[古文] 第134段:
高倉院の法華堂の三昧僧、なにがしの律師とかやいふもの、或時、鏡を取りて、顔をつくづくと見て、我がかたちの見にくく、あさましき事余りに心うく覚えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後、長く、鏡を恐れて、手にだに取らず、更に、人に交はる事なし。御堂のつとめばかりにあひて、籠り居たりと聞き侍りしこそ、ありがたく覚えしか。
賢げなる人も、人の上をのみはかりて、己れをば知らざるなり。我を知らずして、外を知るといふ理あるべからず。されば、己れを知るを、物知れる人といふべし。かたち醜けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず。身の上の非を知らねば、まして、外の譏りを知らず。但し、かたちは鏡に見ゆ、年は数へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべきかたのなければ、知らぬに似たりとぞ言はまし。かたちを改め、齢を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞ、やがて退かざる。老いぬと知らば、何ぞ、閑かに居て、身を安くせざる。行ひおろかなりと知らば、何ぞ、茲(これ)を思ふこと茲にあらざる。
すべて、人に愛楽せられずして衆に交はるは恥なり。かたち見にくく、心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交はり、不堪(ふかん)の芸を持ちて堪能(かんのう)の座に列り(つらなり)、雪の頭を頂きて盛りなる人に並び、況んや、及ばざる事を望み、叶はぬ事を憂へ、来らざることを待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身を恥かしむるなり。貪る事の止まざるは、命の終ふる大事、今ここに来れりと、確かに知らざればなり。

[現代語訳]
高倉上皇の法華堂で仏道修行をしている僧侶で、なにがしの律僧と呼ばれる者がいた。ある日、その僧侶が鏡を手に取って自分の顔をつくづくと眺めてみると、自分の顔が醜くて見苦しいことに気づいて悩むようになった。鏡さえ疎ましく感じるようになって、その後は鏡を恐れて手にすら取らなくなった。更に、人と交わることもしないようになった。御堂の法華三昧の仕事にだけ精を出して、自分の部屋に引きこもっていると聞いたのだが、こういったことは有り得ないことではないと思った。
頭の良い人でも、、他人のことはよく見えても、意外に自分自身のことは知らない。自分のことを知らないのに、他人のことが分かるという道理はない。それでは、自分のことを知っている人を、物事を良く知っている人と言うべきだろうか。自分の容姿が醜くてもそれを知らず、心が愚かであることも知らず、自分の技芸の未熟さも知らず、自分の身分の低さも知らず、年老いているということも知らない、病気に罹っていることも知らず、死が迫っていることも知らず、仏道修行が不十分であることも知らない。
自分についての非難も知らないので、他人に対する誹謗ももちろん知らない。しかし、顔は鏡で見ることができるし、年齢は数えれば分かるものだ。自分のことをまったく知らないというわけではないが、欠点に対する対処法を知らなければ、知らないということと同じようなものだ。容姿を整えて年齢を若く見せろというわけではない。自分の未熟さや欠点を知ったならば、どうしてすぐに退かないのだ。老いたことを知ったならば、どうして静かに隠居して気持ちを安らかにしないのか。行いが愚かだと分かっているなら、どうしてこれだと思う正しいことをしないのか。
まったく、人に愛されていないというのに、人と交わろうとするのは恥である。容姿が醜いということで気後れしながら仕事をして、無知であるのに偉大な人たちの中に交じり、未熟なのにしたり顔をして、白髪頭で年老いているのに若い人の中に交じり、できもしないことを望んで、叶わないことが分かっている事に悩み、来るはずもない人を待ち、人を恐れて人に媚びている。これは、他人が与える恥ではなくて、自分の貪欲さに引き寄せられて、自分で自分を辱めているのである。貪欲の心が収まらないのは、命が終わる瞬間が、今ここに迫っているという実感がないからである。


[古文] 第135段:
資季大納言入道(すけすえのだいなごんにゅうどう)とかや聞えける人、具氏宰相中将(ともうじのさいしょうちゅうじょう)にあひて、『わぬしの問はれんほどのこと、何事なりとも答へ申さざらんや』と言はれければ、具氏、『いかが侍らん』と申されけるを、『さらば、あらがひ給へ』と言はれて、『はかばかしき事は、片端も学び知り侍らねば、尋ね申すまでもなし。何となきそぞろごとの中に、おぼつかなき事をこそ問ひ奉らめ』と申されけり。『まして、ここもとの浅き事は、何事なりとも明らめ申さん』と言はれければ、近習の人々、女房なども、『興あるあらがひなり。同じくは、御前にて争はるべし。負けたらん人は、供御(ぐご)をまうけらるべし』と定めて、御前にて召し合はせられたりけるに、具氏、『幼くより聞き習ひ侍れど、その心知らぬこと侍り。「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう」と申す事は、如何なる心にか侍らん。承らん』と申されけるに、大納言入道、はたと詰りて、『これはそぞろごとなれば、言ふにも足らず』と言はれけるを、『本より深き道は知り侍らず。そぞろごとを尋ね奉らんと定め申しつ』と申されければ、大納言入道、負になりて、所課(しょか)いかめしくせられたりけるとぞ。

[現代語訳]
資季大納言入道(藤原資季)と言われた年配の人が。具氏宰相中将に会って、『おぬしの問う程度の質問であれば、どんなことでもお答え申し上げますぞ』と言った。それを聞いた具氏は、『それはどうでしょうか?』と答えた。資季大納言は『そう言うならば、私と言い争いをしてみよ』と返した。具氏は『取り立ててご質問するような学問のことは全く知りませんので、何ということのない取り止めの無いことの中から、はっきりとしないことを質問しても良いですか?』と返答した。
『もちろんである。そこらの簡単なことであれば、どんなことでも説明して上げよう』と大納言入道は答えた。二人の会話を聞いていた院の近習や女房などが、『興味を引かれる言い争いですね。同じ争うなら、ぜひ天皇の御前にて争われるべきですよ。そして負けた人が、酒宴の席を準備すれば良いのです』と言いルールを決めて、二人を天皇の御前に召しだしたのである。具氏が『幼い頃より聞いていたのですが、その問いの心が分からないものがございます。「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう」と申す問いは、どういった意味なのでしょうか。承りたく存じます』と言った。
大納言入道ははたと答えに詰まって、『それは詰まらなさ過ぎる質問なので、答えるにも及ばない』などと言い出したが、具氏は『初めから深遠な学問のことなどは知らないので、とりとめもない事を尋ねても良いと定めておいたはずですよ』と申し上げた。結局、大納言入道は負けになってしまい、酒宴の準備の約束を盛大に果たされたということです。


[古文] 第136段:
医師篤成(くすし・あつしげ)、故法皇の御前に候ひて、供御(ぐご)の参りけるに、『今参り侍る供物の色々を、文字も功能も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草に御覧じ合はせられ侍れかし。一つも申し誤り侍らじ』と申しける時しも、六条故内府参り給ひて、『有房(ありふさ)、ついでに物習ひ侍らん』とて、『先づ、「しほ」という文字は、いずれの偏にか侍らん』と問はれたりけるに、『土偏に候ふ』と申したりければ、『才の程、既にあらはれにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし』と申されけるに、どよみに成りて、罷り出で(まかりいで)にけり。

[現代語訳]
(生前の後宇多法皇に仕えていた)医師の篤成が、法皇の御前に御食事が運ばれてきた時に、 『いま参りますお食事の数々について、名前でも効能でも何でも尋ねて下されば、そらでお答えしましょう。後で医学書の「本草書」を参照されて下さいませ。私の答えに一つも間違いはございませんから』と(自慢げに)申し上げた。
そこに内大臣の源有房が参られて、『有房も、ついでに篤成殿に物を教えて貰いましょうか』と言って、質問をした。『まず、「しお」という文字は、どんな偏でしょうか』と問うと、『土偏にございます』答えたが、有房は『おぬしの才知の程は既に明らかになった。今はその程度で良いだろう。知りたい事はもうない』と言った。すると、周囲の人々もどっと笑い出して、篤成はたまらずにその場を退出した。
※『しお』には『塩』だけではなく『監』という異字があり、そのことを知らなかった医師の篤成の学識のレベルを、有房は揶揄したのである。法皇の前で知識自慢をして不遜な態度を取っていた医師篤成を、内大臣の源有房がウィットの効いた質問で戒めたというエピソードである。


[古文] 第137段:
花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、『花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ』とも、『障る事ありてまからで』なども書けるは、『花を見て』と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、『この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし』などは言ふめる。
万の事も、始め・終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて持ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁みて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにもみえず、興ずるさまも等閑(なおざり)なり。片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果は、大きなる枝、心なく折り取らぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし。
さやうの人の祭見しさま、いと珍らかなりき。『見事いと遅し。そのほどは桟敷不用なり』とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、『渡り候ふ』と言ふ時に、おのおの肝潰るるやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、一事も見洩さじとまぼりて、『とあり、かかり』と物毎に言ひて、渡り過ぎぬれば、『また渡らんまで』と言ひて下りぬ。ただ、物をのみ見んとするなるべし。都の人のゆゆしげなるは、睡りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後に侍ふは、様あしくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。
何となく葵懸け渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例も思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。
かの桟敷の前をここら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴ること少しといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。烏部野・船岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺を鬻く(ひさく)者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思い懸けぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかには思ひなんや。継子立といふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまた数ふれば、彼是間抜き行くほどに、いづれも遁れざるに似たり。兵の、軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、閑かに水石を翫びて(もてあそびて)、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや。その、死に臨める事、軍の陣に進めるに同じ。

[現代語訳]
桜は満開、月は満月だけが見る価値があるべきものなのか。雨の日に月を恋しく思い、簾(すだれ)を垂れて部屋にこもって、春の行方を知らないでいるのも情趣が深い。花が咲く頃の梢であるとか、散って萎れた花びらが舞う庭だとかにも見所がある。歌の詞に『花見に参ったのに、早くも散り過ぎていて』とか、『支障があって、花を見ることができず』などと書くのは、『花を見て』と言うのに劣っているのだろうか。花が散り、月が傾くのを恋しく慕うのは習いであるが、特にあわれの感情を知らない人は、『この枝も、あの枝も散りに散っていて、すでに見所がない』なんて言ってしまうものだ。
あらゆる事は、始めと終わりこそが興味深いものなのだ。男女の情趣というのも、いちずに逢って抱き合うことだけを言っているのだろうか。逢えない事を憂いて、儚い約束を嘆いて、長い夜を独りで明かして、遠い雲の下に相手を思い、荒野の宿に昔の恋を偲んでいる。こういったことも、色恋の情趣と言えるだろう。千里の果てまで満月の明かりが照らしているのを眺めているよりも、夜明け近くになって漸く持っていた月が雲の隙間から見えた時のほうが、とてもその月の青さが心に深く染み渡ってくるものだ。青い月の下に見える深い山の杉の木の影、雨雲の隠れる具合など、この上なく感慨深い。椎柴・白樫の木などの濡れたような葉の上に月の光がきらめくのが身に沁みてきて、情趣を解する友と一緒に見れたならと思い、都のことが恋しくなる。
月や花はすべて、目だけで見るものなのだろうか。満開の桜なら家を出なくても、満月なら布団の上に居ながらでも想像することができ。それはそれでとても楽しくて味わいがあるものだ。風情や趣きを感じ取れる人は、ひたすらに面白がるような様子でもなく、何だか等閑に見ているように見える。片田舎の人の花見は、しつこく眺めて全てを面白がろうとするものだ。花の下ににじり寄って、立ち寄り、わき見もせずに花を見守って、酒を飲み歌って、最後には大きな枝を心なく折ってしまったりもする。田舎者は、夏の泉には必ず手足を浸すものだし、雪見では雪に降り立って足跡をつけてしまい、全ての物をそっと静かに見守るということができない。
そのような人たちの祭見物の様子も、とても珍しいものである。『祭の行列がなかなか来ないな。それまでは桟敷にいてもどうしようもない』などと言って、奥の部屋で、酒を飲み物を食べて、囲碁・双六で遊んでいる。桟敷には人を残しておいて、『行列が来たぞ』と聞けば、それぞれが心臓が止まるような勢いで桟敷まで争い走っていく。あわや落ちるんじゃないかという所まで手すりにはりついて、押し合いつつ、一つも祭りを見逃すまいと見守って『あれとか、それとか』と何かが前を通るたびに言い合っている。祭りの行列が渡り過ぎてしまうと『また来るまで』と言って桟敷を下りていく。ただ、物だけを見ようとしているようだ。反対に、都の人は、眠っているかのようでいて、祭を見ていないかのようである。その主人に仕える若い人たちは、常に立ち働いていて主人の後ろに控えているが、彼らは行儀の悪い態度をとって無理に祭りを見ようとすることはない。
賀茂祭では葵の葉を何となく掛けていて、優雅な感じがしているのだが、夜も明けきらないうちに、車が忍んで寄せてくるのである。その車の持ち主は誰だろうと思って近づいていくと、牛飼や下部などの中には見知った者もいる。祭りは面白くて、きらきらとしていて、さまざまな人たちが行き交っている、見ているだけで退屈することもない。日が暮れる頃には、並んでいた車や所狭しと集まっていた人たちもどこかへと去ってしまい、間もなく車も人もまばらになってくる。車たちの騒がしい行き来がなくなると、簾や畳も取り払われて、目の前は寂しげな様子になってくる。そんな時には世の無常の喩えも思い出されて、あわれな感慨が起こってくる。祭りは最後まで見てこそ、祭りを見たということができるのではないだろうか。
祭りが通る桟敷を行き交う人々には見知った顔も多くあるので、無常を知ることになる。世の中には非常に大勢の人たちがいるが、この人たちがみんな死んでしまった後にさて自分が死ぬ番ですよと決まったとしても、死ぬまでにはそれほど長く待つこともないだろう。大きな器に水を入れて底にキリで穴を開けると、少しずつ水が滴り落ちていくといっても、止まることなく水が漏れていくのであれば水はすぐに尽きてしまうだろう。都に人は多いが、人の死なない日はない。一日に死ぬのは一人や二人ではないだろう。烏部野や船岡、そのような野山に送る死者の多い日はあっても、誰も送らない日はない。
だから、棺というのは作っても作ってもゆっくり置いておく暇すらないのだ。死は若い人であっても、強い人であっても、思いがけない時に訪れる。今日まで死を逃れて生きてきたのは、ありえないほどに不思議なことだ。そうすると、この世の中がのどかだなんて思えない。
双六の石で『継子立て』というサイコロを作り、出た目の数字のコマに置いている石を取っていく遊びがあるが、石を並べた時には、どの石が取られるのかはわからない。サイコロを振ってその数のコマにある石を取っていくと、その他の石は今は取られることを逃れたように見えるが、実際にはサイコロを振り続けてあれこれ出た目を取っていくうちに、どの石も最期には必ず取られる運命であることが分かってくる。これは人の死に似ているのだ。出陣した兵は、死が近いことを知って、家を忘れ、我が身のことも忘れる。世に背いて出家した世捨て人の草庵では、静かに水石をもてあそんで、死をどこかに忘れようとするが、それはとても儚いことだ。静かな山奥にも、死という無常の敵は競って現れるもので、どこに居ようとも、死に臨む事は戦場にいるのと同じなのである。


[古文] 第138段:
『祭過ぎぬれば、後の葵不用なり』とて、或人の、御簾なるを皆取らせられ侍りしが、色もなく覚え侍りしを、よき人のし給ふ事なれば、さるべきにやと思ひしかど、周防内侍(すおうのないし)が、
かくれども かひなき物は もろともに みすの葵の 枯葉なりけり
と詠めるも、母屋の御簾に葵の懸りたる枯葉を詠めるよし、家の集に書けり。古き歌の詞書に、『枯れたる葵にさして遣はしける』とも侍り。枕草子にも、『来しかた恋しき物、枯れたる葵』と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひ寄りたれ。鴨長明が四季物語にも、『玉垂に後の葵は留りけり』とぞ書ける。己れと枯るるだにこそあるを、名残なく、いかが取り捨つべき。
御帳に懸れる薬玉も、九月九日、菊に取り換へらるるといへば、菖蒲は菊の折までもあるべきにこそ。枇杷皇太后宮かくれ給ひて後、古き御帳の内に、菖蒲・薬玉などの枯れたるが侍りけるを見て、『折ならぬ根をなほぞかけつる』と辨(べん)の乳母の言へる返事に、『あやめの草はありながら』とも、江侍従(ごうじじゅう)が詠みしぞかし。

[現代語訳]
『祭が終わったら、後の葵の飾りは不用になってしまう』と言って、ある人が御簾に飾っていた葵の飾りをみんな捨てさせたが、風情のないやり方だなと感じた。しかし、身分の高い教養のある人がする事なので、そうするべきものなのだろうとも思っていた。周防内侍の歌に、
隠しても仕方がないもの、心と共にすだれの葵はみんな枯れてしまった。
というものがある。母屋の簾に飾りっぱなしだった葵が枯葉になってしまった事を詠んだ歌だという解説が、彼女の家集に書かれている。ある古い和歌の説明に、『枯れた葵の枝に、詠んだ歌を差して相手に渡した』というものがある。枕草子にも、『来るのが悲しいのは、枯れた葵』と書いてあり、とても懐かしい気分にさせられる。
鴨長明の四季物語には、『祭りの葵が、まだそのままだ』と書いている。自然に枯れてしまい風情がなくなるのも名残惜しいのに、どうしてそのまま捨て去ってしまうことができるのだろうか。
寝室の簾に掛かった五月の節句の飾りに使われる菖蒲も、九月九日までに菊に取りかえられるが、菖蒲は菊の季節まで咲いているものなのだ。枇杷皇太后宮が亡くなられた後に、その寝室に節句の飾りの菖蒲が枯れたままに飾られているのを見て、乳母が『季節外れの飾りをまだ掛けている』と言った。その言葉に対して、『あやめの草はまだ盛りですから』と江侍従が返歌を詠んだと言われている。


[古文] 第139段:
家にありたき木は、松・桜。松は、五葉もよし。花は、一重なる、よし。八重桜は、奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多く成り侍るなり。吉野の花、左近の桜、皆、一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植ゑずともありなん。遅桜、またすさまじ。虫の附きたるもむつかし。梅は、白き・薄紅梅。一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の匂ひめでたきも、皆おかし。遅き梅は、桜に咲き合ひて、覚え劣り、気圧されて、枝に萎みつきたる、心うし。『一重なるが、まづ咲きて、散りたるは、心疾く、をかし』とて、京極入道中納言は、なほ、一重梅をなん、軒近く植ゑられたりける。京極の屋の南向きに、今も二本侍るめり。柳、またをかし。卯月ばかりの若楓、すべて、万の花・紅葉にもまさりてめでたきものなり。橘・桂、いづれも、木はもの古り、大きなる、よし。
草は、山吹・藤・杜若(かきつばた)・撫子(なでしこ)。池には、蓮。秋の草は、荻・薄(すすき)・桔梗(ききょう)・萩・女郎花(おみなえし)・藤袴・紫苑・吾木香(われもこう)・刈萱(かるかや)・竜胆・菊。黄菊も。蔦(つた)・葛・朝顔。いづれも、いと高からず、ささやかなる、墻に繁からぬ、よし。この外の、世に稀なるもの、唐めきたる名の聞きにくく、花も見慣れぬなど、いとなつかしからず。
大方、何も珍らしく、ありがたき物は、よからぬ人のもて興ずる物なり。さやうのもの、なくてありなん。

[現代語訳]
庭にあったら良い木は、松と桜である。松は、五葉もよい。桜は、一重がよい。八重桜は、奈良の都にだけ咲いていたのだが、最近はどこでも良く見かけるようになった。京の吉野や左近の桜は、みんな一重桜である。八重桜は異様なもので、ごちゃごちゃとしてひねくれた印象がある。庭には植えなくても良い。遅咲きの桜は興ざめであり、虫がつきやすいというのも厄介である。梅は、白や薄紅である。一重の梅は早く咲くが、紅梅の匂いも風情があり、みんな素晴らしい。遅咲きの梅は、桜と咲き合ってしまうので、人の記憶には残りにくい。桜に圧倒されて、枝に縮んで咲いてるような感じで、何だか心配になってしまう。
『一重の梅がまず咲いて、早々と散るのは、春を思う心がはやりたつようで面白い』と言うので、京極入道中納言様は、一重の梅を自邸の軒近くに植えられた。京極様の屋敷の南面には、今でも二本の梅がございます。柳も、また趣きがあるものだ。春の若楓(わかかえで)というのは、すべての花や紅葉にも勝るもので非常に深い趣きがある。橘や桂は、どちらも古びた大木のほうが良い。
草は、山吹・藤・杜若・撫子が良い。池には、蓮。秋の草なら、荻・薄・桔梗・萩・女郎花・藤袴・紫苑・吾木香・刈萱・りんどう・菊がある。黄色の菊も良い。夏なら蔦・葛・朝顔である。いずれにしても、たいして高いものではなく、ささやかな草木で垣根に無駄に繁らないのが良いのだこれ以外の、世にも珍しいもの、舶来の中国(唐)の草花のようなものなどは、花も見慣れておらず懐かしさを覚えないのである。
大体、珍しいものやなかなかないものというのは、教養や品性のない良からぬ人が一時的に持て囃すものなのだ。そのようなものは、無くたっていいのだ。


[古文] 第140段:
身死して財残る事は、智者のせざる処なり。よからぬ物蓄へ置きたるもつたなく、よき物は、心を止めけんとはかなし。こちたく多かる、まして口惜し。「我こそ得め」など言ふ者どもありて、跡に争ひたる、様あし。後は誰にと志す物あらば、生けらんうちにぞ譲るべき。
朝夕なくて叶はざらん物こそあらめ、その外は、何も持たでぞあらまほしき。

[現代語訳]
自分が死んだ後に財産を残すようなことを、頭の良い智者はしない。どうでもいい物を蓄えておくのはかっこ悪いことであり、価値ある良いものであれば、その物に心が留まってしまって余計に儚くなる。財産が多すぎるというのは、残念なことなのである。『私がその財産を頂く』などという遺族も現れてきて、死後に争いが起こるというのも見苦しい。死後に誰かに上げたい財物があれば、生きている間に譲っておいたほうが良いのだ。
毎日の生活に必要なもの以外には、何も所有しないでいるというのが望ましい。


[古文] 第141段:
悲田院尭蓮上人(ひでんいんのぎょうれんしょうにん)は、俗姓は三浦の某とかや、双なき武者なり。故郷の人の来りて、物語すとて、『吾妻人こそ、言ひつる事は頼まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実なし』と言ひしを、聖、『それはさこそおぼすらめども、己れは都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて、心柔かに、情ある故に、人の言ふほどの事、けやけく否び難くて、万え言い放たず、心弱くことうけしつ。偽りせんとは思わねど、乏しく、叶はぬ人のみあれば、自ら、本意通らぬ事多かるべし。吾妻人は、我が方なれど、げには、心の色なく、情おくれ、偏にすぐよかなるものなれば、始めより否と言ひて止みぬ。賑はひ、豊かなれば、人には頼まるるぞかし』とことわられ侍りしこそ、この聖、声うち歪み、荒々しくて、聖教の細やかなる理いと辨へずもやと思ひしに、この一言の後、心にくく成りて、多かる中に寺をも住持せらるるは、かく柔ぎたる所ありて、その益もあるにこそと覚え侍りし。

[現代語訳]
孤児や老人を療育する寺院である悲田院の尭蓮上人は、俗姓は三浦の何とかといい、並ぶ者のない強い武者だったらしい。ある日、尭蓮上人のところへ、故郷の相模国から知人がやって来て語り合った。『東の人は言う事が信頼できる。京の都の人は、受け答えの印象は良いのだが、真実(誠実さ)がない』と故郷の知人はいう。それに対して、尭蓮上人はこう言った。『それはそうだと思いますが、京の都に久しく住み慣れていますと、京の人の心が東の人よりも劣っているとは思えないのです。京の人は、おしなべて心優しくて情のある人が多く、人の頼みを簡単に断ることができず、言いたいことも言えず、押しに負けて頼みを引き受けてしまったりします。騙そうと言う意図などはなくて、ただ貧しくて、約束を守りたいという本意があっても、その本意を貫けないことが多いのです。東の人は、自分の故郷の人ですが、実際には心の優しさがなくて、人情味にも疎く、愛想もないので、初めから嫌だと言って断ってしまいます。東の人は、家も栄えていて豊かなので、無理な頼みを断ったとしても、まだ他の人に頼ることができるのです』と。
このように世の道理を語られた。尭蓮上人のことを発音に関東なまりがあって、荒々しい素振りで、仏の精細な教えもわきまえていない人物と見ていた知人は、この一言によって逆に心を惹かれたのである。多くいる僧侶の中で、尭蓮上人が寺をまかせられて住職としての地位に就いているのも、柔和な性格の魅力があるからで、そのことによるご利益もあるからなのだろうと思った。


[古文] 第142段:
心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。ある荒夷(あらえびす)の恐しげなるが、かたへにあひて、『御子はおはすや』と問ひしに、『一人も持ち侍らず』と答へしかば、『さては、もののあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらんと、いと恐し。子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ』と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛の道ならでは、かかる者の心に、慈悲ありなんや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ。
世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万に諂ひ(へつらい)、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事(ひがごと)なり。その人の心に成りて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、盗人を縛め、僻事をのみ罰せんよりは、世の人の餓ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恒の産なき時は、恒の心なし。人、窮まりて盗みす。世治らずして、凍餒(とうたい)の苦しみあらば、科(とが)の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはん事、不便のわざなり。
さて、いかがして人を恵むべきとならば、上の奢り、費す所を止め、民を撫で、農を勧めば、下に利あらん事、疑ひあるべからず。衣食尋常なる上に僻事せん人をぞ、真の盗人とは言ふべき。

[現代語訳]
心がないかのように見える者でも、良い事を言うものだ。ある恐ろしげな東国の荒武者が、かたわらの人に向かって、『あなたには子どもがおりますか?』と問うた。『いや、子どもは一人もいません』と答えた。
荒武者は『それでは物の哀れさをお知りにならないでしょうな。情愛のないお心を持っているというのはとても恐ろしいことです。子どもがいるからこそ、万物の哀れさ(同情心)を知ることができるのですから』と言った。当然のことではある。妻子に対する恩義や愛情の道があればこそ、このような荒くれ者にも、慈悲の心が芽生えたのである。親孝行の心を持たない者も、子どもを持つことで、親の気持ち(恩愛)について知るものである。
世捨て人が、家族のいない独り身であるのは当たり前だが、一般に、係累(親族)の絆が多い人は、家族のためにあらゆることにへつらい、欲望が深くなるものだが、これを見て無闇に見下すのは間違ったことである。その人の気持ちになって考えてみれば、本当に愛して思いやっている親や妻子のためならば、恥を忘れて盗みでさえも働くだろう。であれば、盗人を縛り上げて間違いだけを厳しく罰するよりは、為政者は世の中の人が飢えないように、寒くないようにする政治を心がけて欲しいものである。人間は安定した生活(収入・収穫)がないと、安定した正しい気持ちを持つことができない。人間は困って追い詰められたから盗みを働いてしまうのだ。世の中が治まらずに、飢えや寒さの苦しみが蔓延しているならば、家族のために罪を犯す者は絶えないだろう。人を苦しめて、法律を犯さざるを得ない状況にして、犯罪者を罰するというのは、可哀想な仕打ちである
では、どのようにして人を幸せにすれば良いかということだが、貴族の支配階層が贅沢や浪費をやめて、人民に思いやりを持って農業に注力させることが大切である。そうすれば、下の民衆の生活に利益があることは疑いがない。衣食住が足りていながらも、敢えて盗みをする者が本当の盗人なのである。


[古文] 第143段:
人の終焉の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、ただ、静かにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚かなる人は、あやしく、異なる相を語りつけ、言ひし言葉も振舞も、己れが好む方に誉めなすこそ、その人の日来の本意にもあらずやと覚ゆれ。
この大事は、権化の人も定むべからず。博学の士も測るべからず。己れ違ふ所なくは、人の見聞くにはよるべからず。

[現代語訳]
人の臨終の時の素晴らしかった様子などを人から聞くと、ただ静かに安らかに亡くなったとでも言ってくれれば趣き深く感じるのに、愚かな人は、不思議な様子を加えて異なるように大袈裟に語ってしまう。故人の語った言葉も振舞いも、自分が好きな方向に作為を加えて褒めちぎるのだが、その故人の普段の様子からすると、そういった(事実とは異なる)大袈裟な作為は本意ではないのではないかと思ったりもする。
人間の死という重大事は、神仏の権化であっても定めることなどできない。博学の有識者であっても、人の寿命は予測できないものだ。死にゆく人が、自分の普段の本意と異なることなく亡くなっていくのであれば、他人の見聞によってその故人の評価をすべきではないのだ。


[古文] 第144段:
栂尾(とがのお)の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、『あしあし』と言ひければ、上人立ち止りて、『あな尊や。宿執開発の人かな。阿字阿字と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。余りに尊く覚ゆるは』と尋ね給ひければ、『府生殿の御馬に候ふ』と答へけり。『こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあなれ。うれしき結縁をもしつるかな』とて、感涙を拭はれけるとぞ。

[現代語訳]
栂尾の上人(明恵上人)が、道を歩いている時に、川で馬を洗っている男を見かけたが、男は『足、足』と言いながら、馬の足を上げさせようとしている。
明恵上人は立ち止まって、『なんと尊いことだ。あなたは前世で功徳を積んだ方の生まれ変わりであろうか。馬を洗う時にまで阿字阿字とマントラを唱えている。その馬はどなたの馬なのでしょうか。その馬もとても尊い馬のように思える』とお尋ねになった。馬を洗っていた男は、『府生殿(検非違使の下級役人)の馬でございます』と答えた。『これは素晴らしいことである。「阿字不生」ですか。「阿字」は全ての根源であり、悟りにつながる仏法の奥義です。僧侶としてはこの上なく嬉しいご縁を結ぶことができた』と言って、明恵上人は感涙を拭われたという。


[古文] 第145段:
御随身(みずいじん)秦重躬(はたのしげみ)、北面の下野入道信願(しんがん)を、『落馬の相ある人なり。よくよく慎み給へ』と言ひけるを、いと真しからず思ひけるに、信願、馬より落ちて死ににけり。道に長じぬる一言、神の如しと人思へり。
さて、『如何なる相ぞ』と人の問ひければ、『極めて桃尻にして、沛艾(はいがい)の馬を好みしかば、この相を負せ侍りき。何時かは申し誤りたる』とぞ言ひける。

[現代語訳]
後宇多上皇の随身(警護役)である秦重躬は、北面の武士であった下野入道信願の乗馬を見て、『あの方には落馬の相がある。よくよく気をつけなさい』と注意したのだが、信願はこれを本当だとは思わずに乗馬していたので、落馬して死んでしまった。ある道に精通した者の一言は、神の如しと誰もが感嘆した。
さて、『落馬の相とはどんな相ですか?』とある人が秦重躬に質問すると、『桃のようにとても丸くて座りの悪い桃尻を持っていて、気が荒くて飛び上がる癖のある馬を好んでいたので、この相を持っていると感じた。今までこの相で見誤ったことはない』と答えた。


[古文] 第146段:
明雲座主(めいうんざす)、相者にあひ給ひて、『己れ、もし兵杖の難やある』と尋ね給ひければ、相人、『まことに、その相おはします』と申す。『如何なる相ぞ』と尋ね給ひければ、『傷害の恐れおはしますまじき御身にて、仮にも、かく思し寄りて、尋ね給ふ、これ、既に、その危みの兆なり』と申しけり。
果して、矢に当たりて失せ給ひにけり。

[現代語訳]
比叡山延暦寺の明雲座主が、人相見(易者)に会われてお尋ねになった。『もしや、私には戦死するような相はないだろうか?』と。人相見は『確かに、その相がおありですね』と答えた。明雲座主は更に『どのような相だ?』とお尋ねになったが、『戦場での怪我など心配なされる身分でもないのに、仮にも、そんな事を心配してお尋ねになられている。これはその事自体が、既に危険の前兆なのです』と人相見は申し上げた。
果たして、明雲座主は(1183年の法住寺合戦で木曾義仲方の)流れ矢に当たって亡くなってしまった。


[古文] 第147段:
灸治、あまた所に成りぬれば、神事に穢れありといふ事、近く、人の言ひ出せるなり。格式等にも見えずとぞ。

[現代語訳]
お灸による治療の痕は、数が多くなってくると、神域・神事での穢れとなるという事。これは、最近になって人々が言い出した迷信である。そんな事は、古代の法律・規則(内規)にも書かれていない。


[古文] 第148段:
四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すべし。

[現代語訳]
四十過ぎの人は、身体に灸を据えて三里のツボを焼かないと、上気の病に罹ることがある。必ずお灸をすべきなのだ。


[古文] 第149段:
鹿茸を鼻に当てて嗅ぐべからず。小さき虫ありて、鼻より入りて、脳を食むと言へり。

[現代語訳]
鹿の角に鼻を当てて匂いを嗅いではいけない。小さい虫がいて、鼻の穴から入って、脳を食べてしまうと言われている。


[古文] 第150段:
能をつかんとする人、『よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ』と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。
未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。
天下のものの上手といへども、始めは、不堪(ふかん)の聞えもあり、無下の瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。

[現代語訳]
芸能を習得しようとする人は、『上手くできないうちは、できるだけ人に知られないようにして、こっそり練習して上手くできるようになってから、人前に出ることが恥ずかしくない』といつも言うものだが、このように言う人は、一芸といえども習得することはできない。
まだ一向に技芸も知らないうちから、上手な先達の中に交じって、怒られようが笑われようが恥じる事もなく、平気で過ごして修練に励める者だけが芸を習得する。天性の才能・素質なんかなくても、芸能において停滞せず、自分勝手なやり方をせずに、修練の年月を過ごせば、器用で天性の才能に恵まれている人よりも、遂に技芸が上手な域に達して、人徳も高まり人から認められるようになり、並びなき名声を得ることにもなる。
天下の芸能の名人でも、最初は無能と言われたり、酷く恥ずかしい思いもしているものだ。しかし、名人はその道の教えを守って、これを尊重し無茶をしなかったので、その道の名人となり万人の師匠にもなれたのである。これは、どの道においても変わらないことである。


[古文] 第151段:
或人の云はく、年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし。老人の事をば、人もえ笑はず。衆に交りたるも、あいなく、見ぐるし。大方、万のしわざは止めて、暇あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携はりて生涯を暮すは、下愚の人なり。ゆかしく覚えん事は、学び訊くとも、その趣を知りなば、おぼつかなからずして止むべし。もとより、望むことなくして止まんは、第一の事なり。

[現代語訳]
ある人が言うには、50才になるまでに上手にならない芸などは捨てるべきということだ。その芸に50才以上になって習い励んでも先が無いのだ。老人のすることだから、誰も笑うこともない。老人が若い人たちに交じって練習しても、痛々しいし見苦しいものである。
大体、老人は全ての仕事をやめてゆっくりと過ごしているのが、見栄えが良くて望ましいのである。世俗の事柄にかかわって生涯を暮らすのは、愚かな人のやることである。 知りたいと思うことを学んで聞いたとしても、その概要を知ることができたならば、おぼつかないという程度でやめておいたほうがいい。初めから、老人は望みなどなくしてゆったりとしているのが、第一なのである。


[古文] 第152段:
西大寺静然上人(じょうねんしょうにん)、腰屈まり、眉白く、まことに徳たけたる有様にて、内裏へ参られたりけるを、西園寺内大臣殿、『あな尊の気色や』とて、信仰の気色ありければ、資朝卿、これを見て、『年の寄りたるに候ふ』と申されけり。
後日に、尨犬(むくいぬ)のあさましく老いさらぼひて、毛剥げたるを曵かせて、『この気色尊く見えて候ふ』とて、内府へ参らせられたりけるとぞ。

[現代語訳]
西大寺の静然上人は、腰が曲がって、眉が白く、本当に徳の高い御様子であった。静然上人が内裏に参られた時に、西園寺内大臣様が御覧になられて、『あぁ、何と尊い様子だろうか』といって信仰する様子さえ見せた。資朝卿はこれを見て、『ただの年寄りでしょう』と申された。
後日、惨めに老いぼれて毛も抜けかけたむく犬を引かせて、内大臣の邸に参上した資朝卿は、『この犬の様子が尊く見えるのでございましょうか?』と言ったのである。


[古文] 第153段:
為兼(ためかね)大納言入道、召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て(ゐて)行きければ、資朝卿(すけとものきょう)、一条わたりにてこれを見て、『あな羨まし。世にあらん思ひ出、かくこそあらまほしけれ』とぞ言はれける。

[現代語訳]
為兼大納言入道が(鎌倉幕府への謀略の疑いで)召し捕らえられた。武士どもが取り囲んで六波羅探題(幕府による京都の監視機関)に連行する様子を、資朝卿は一条のあたりで見ていて、『あぁ、羨ましい。この世に生きたという思い出。為兼大納言入道のような生き方こそ望ましい』と言っていた。
後醍醐天皇の側近の日野資朝は、鎌倉幕府追討の陰謀に参加して佐渡ヶ島に配流されたが、1332年6月、元弘の乱の際に佐渡ヶ島で斬られた。


[古文] 第154段:
この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集りゐたるが、手も足も捩ぢ歪み(ねじゆがみ)、うち反りて、いづくも不具に異様なるを見て、とりどりに類なき曲者なり、尤も愛するに足れりと思ひて、目守り給ひけるほどに、やがてその興尽きて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただ素直に珍らしからぬ物には如かずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゐられける木ども、皆堀り捨てられにけり。
さもありぬべき事なり。

[現代語訳]
資朝卿が東寺の門に雨宿りしたところ、かたわ者(身体障害者)たちが門の下に群れ集まっていたが、手足は捻じ曲がっていて、いずれも不具な異形をしており、それぞれが類稀な曲者であった。大いに面白いと思ってその様子を見守っていると、やがてはその興味も消えて、見るに堪えなくなり不快に思われてきた。ただ素直な珍しくもない身体には及ばないと思って、家に帰った後に、自分が趣味で好んでいた盆栽を見た、枝や幹の異様な曲がり具合を求めて楽しんでいたのは、あのかたわ者を愛でていたのと同じ事だと思い、急に興味が無くなってしまった。鉢に植えられた木々を、みんな土ごと捨ててしまったという。
当然のことである。
当時の身体障害者(不具者・不具ゆえの乞食)に対する貴族階級の差別意識が反映された段である。だが、当然ながら、差別を禁ずる『人権思想』が発生するには18世紀のヨーロッパ(フランス)の啓蒙主義やフランス革命を待たなければならず、日本では20世紀半ばまで『不具・奇形等の身体障害』に対する根強い社会的な差別意識が残存していた。


[古文] 第155段:
世に従はん人は、先ず、機嫌を知るべし。序(ついで)悪しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず。さようの折節を心得べきなり。但し、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、序悪しとて止む事なし。生・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲り流るるが如し。暫しも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先ず落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌し(きざし)つはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、持ちとる序甚だ速し。生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。

[現代語訳]
世間に従う人は、まず物事が上手くいく時機を知らなければならない。順序を間違うという事は、人の耳に逆らい、相手の心にも逆らうことになり、その事は成し遂げられないだろう。物事が上手くいく時節というものを心得なければならない。しかし、病気をすること、子どもを出産すること、死ぬということは、時機を上手く図ることもできず、順序が悪いからといって止まるという事もない。人の生命・住居・差異・消滅などが移り変わっていくが、これらの大事は、激しい流れの川が勢い良く流れていくようなものだ。僅かの間も流れが滞ることはなく、あっという間に流れ去っていく。だから、仏道修行でも俗世間での行為でも、必ず成し遂げようと思う事であれば、時機ということは関係がない。あれこれの準備などは必要ない、足を止めないことだ。
春が終わって夏になり、夏が終わって秋が来るというのではない。春は既に夏の気配を感じさせ、夏は既に秋へと通じており、秋はすぐに寒くなって、十月はの小春日和の肌寒い天気となり、すぐに草は青くなって、梅の蕾も出来てくるのである。枯れ葉が落ちるというのも、葉が落ちてから芽をつけるのではなく、木々で兆している新芽に堪えきれずに葉が落ちるのだ。 初春を迎える新芽の気を、内部に蓄えているが故に、枯れ葉はあっという間に落ちてしまう。
『生・老・病・死』が移り変わることも、この自然の推移と似ている。四季にはそれでも、定まった順序がある。だが、死期は順序を待つということもない。死は、必ずしも前より来るのではなくて、いつも背後に迫っているのだ。人は皆、死ぬ事を知ってはいるが、死は急には来ないものと思い込んでいるものの、死はいつの間にか予期していない時に後ろから迫る。沖の干潟は遥か彼方にあるけれど、潮は磯のほうから満ちてくるのである。


[古文] 第156段:
大臣の大饗は、さるべき所を申し請けて行ふ、常の事なり。宇治左大臣殿は、東三条殿にて行はる。内裏にてありけるを、申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事の寄せなけれども、女院の御所など借り申す、故実なりとぞ。

[現代語訳]
大臣に任命された人が開催する宴会は、しかるべき所を申し請けて行うというのが、世の常である。宇治左大臣殿(1156年の保元の乱で崇徳上皇側に付き戦死した藤原頼長)は、東三条殿に人を集めて宴を開いた。ここは天皇の内裏であったが、大臣からの申請があって天皇は他所へ移動なされたのである。大層な縁故がなくても、皇后陛下の御所なども大臣がお借りすることがある。これが故実(古来からの儀式・慣例・習慣)である。


[古文] 第157段:
筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤(だ)打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来る。仮にも、不善の戯れをなすべからず。
あからさまに聖教の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾(そつじ)にして多年の非を改むる事もあり。仮に、今、この文を披げ(ひろげ)ざらましかば、この事を知らんや。これ則ち、触るる所の益なり。心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業自ら修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし。
事・理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強いて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。

[現代語訳]
筆をもてば何か書きたいと思い、楽器を手に取れば音を出したいと思う。盃を持てば酒のことを思い、サイコロを手にすれば博打をしたいと思う。心は必ず、外部の物事に触れて動くものだ。仮であっても、不善を為すことにつながる戯れをしてはいけない。
つい気が向いた時に、仏教の経典を広げてその一句を見れば、何となくその前後の文も見えてしまう。その偶然に見えた文によって、突然、長年の誤り気がつく事もあるのだ。もし、経典を開かなかったら、この誤りには気づかなかっただろう。これは、物事に触れることによる利益である。 信心が起こらなくても、仏の前に座り、数珠を取って経を開いていれば、怠けていても自然に仏の教えが身につくものだ。また、気を散らしながらでも、縄の座椅子に座って座禅を組んでいれば、意図しなくても禅定の悟りの境地に達することもある。
事象と真理というものは、初めから二つの別々のものではない。外見の相や言葉が道理に反していなければ、必ず自己の内面も悟りに向かって成熟していく。無理に不信を言い立てる必要はない。外見だけでも良いので、仏を仰ぎ見て尊重していれば良いのである。


[古文] 第158段:
『盃の底を捨つる事は、いかが心得たる』と、或人の尋ねさせ給ひしに、『凝当(ぎょうとう)と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候ふらん』と申し侍りしかば、『さにはあらず。魚道なり。流れを残して、口の附きたる所を漱ぐ(すすぐ)なり』とぞ仰せられし。

[現代語訳]
『盃の底に残る酒を捨ててから、人に盃を回す風習をどう思っているのか?』と、ある人が尋ねた。『その作法は凝当と申すようですが、恐らく底に凝り固まった酒を捨てるからでございましょう』とある人が答えて申し上げた。『いや、そうではない。凝当ではなく魚道(ぎょどう)というのだ。酒の流れを残して、口がついた部分を綺麗に漱いでいるのだ』とある人はおっしゃった。
※古来、複数の人が酒を飲んで盃を回す時には、盃の底に残った酒を捨ててから渡すという作法があったが、この章ではその作法・慣習の意味を語っている。


[古文] 第159段:
『みな結びと言ふは、糸を結び重ねたるが、蜷といふ貝に似たれば言ふ』と、或やんごとなき人仰せられき。『にな』といふは誤なり。

[現代語訳]
『みな結びというのは、糸を結び重ねた様子が、蜷貝に似てるからそう言うのだ』と、ある身分の高い貴人がおっしゃった。だから、蜷貝を『にながい』というのは間違いなのである。


[古文] 第160段:
門に額懸くるを『打つ』と言ふは、よからぬにや。勘解由小路二品禅門(かでのこうじのにほんぜんもん)は、『額懸くる』とのたまひき。『見物の桟敷打つ』も、よからぬにや。『平張(ひらばり)打つ』などは、常の事なり。『桟敷構ふる』など言ふべし。『護摩焚く』と言ふも、わろし。『修する』『護摩する』など言ふなり。『行法も、法の字を清みて言ふ、わろし。濁りて言ふ』と、清閑寺(せいがんじ)僧正仰せられき。常に言ふ事に、かかる事のみ多し。

[現代語訳]
門に額を飾るのを『額を打つ』と言うのは正しい言い方なのか。書道の師家である勘解由小路二品禅門(藤原経尹)は、『額を懸ける』とおっしゃった。『(見物の時の)桟敷を打つ』という言い方も良いのであろうか。普通、『天幕を打つ』とは言う。しかし、『桟敷を構える』という言い方もあるのだ。
『護摩を焚く』と言うのも良くない(護摩という言葉自体に護摩を焚くという意味が含まれているので)。『修する』や『護摩する』などと言うほうが正しいだろう。『行法は、法の字を濁音無しで「ギョウホウ」と言うのは悪い。濁音できちんと「ギョウボウ」と言うべきだ』と、清閑寺の僧正がおっしゃっていた。いつも使う言葉であっても、このような間違った使い方が多いものだ。

引用文献原文全巻


江守孝三(Emori kozo)