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【徒然草(TOP)(上)・(中)(下)】 (徒然草検索)(朗読 1/2朗読 2/2)(朗読 YouTube)NHKこころを読む(7-13/13)徒然草左大臣(1-54)徒然草YouTube吉田兼好(検索WikipediaYouTube)

(下) 兼好法師(吉田兼好)  Tsurezuregusa (Yoshida Kenkō)
兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた 『徒然草(つれづれぐさ)』 の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

第百六十一段 花のさかりは 第百六十二段 遍照寺の承仕法師 第百六十三段 太衝の太の字 第百六十四段 世の人あひ逢ふ時、暫くも黙止する事なし 第百六十五段 吾妻の人の都の人に交り 第百六十六段 人間の営みあへるわざを見るに 第百六十七段 一道に携る人、あらぬ道の筵に臨みて 第百六十八段 年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて 第百六十九段 何事の式といふ事は 第百七十段 さしたる事なくて人のがり行くは 第百七十一段 貝をおほふ人の、我がまへなるをばおきて 第百七十二段 若き時は、血気うちにあまり 第百七十三段 小野小町が事 第百七十四段 小鷹によき犬、大鷹に使ひぬれば 第百七十五段 世には心得ぬ事の多きなり 第百七十六段 黒戸は 第百七十七段 鎌倉中書王にて、御毬ありけるに 第百七十八段 或所の侍ども、内侍所の御神楽を見て 第百七十九段 入宋の沙門、道眼上人、一切経を持来して 第百八十段 さぎちやうは 第百八十一段 ふれふれこゆき、たんばのこゆき 第百八十二段 四条大納言隆親卿、乾鮭といふものを 第百八十三段 人突く牛をば角を切り 第百八十四段 相模守時頼の母は 第百八十五段 城陸奥守泰盛は、さうなき馬乗りなりけり 第百八十六段 吉田と申す馬乗り 第百八十七段 よろづの道の人、たとひ不堪なりといへども 第百八十八段 或者、子を法師になして 第百八十九段 今日は、その事をなさんと思へど 第百九十段 妻といふものこそ 第百九十一段 夜に入りて物のはえなしといふ人 第百九十二段 神仏にも、人のまうでぬ日 第百九十三段 くらき人の、人をはかりて 第百九十四段 達人の人を見る眼は 第百九十五段 或人久我縄手を通りけるに 第百九十六段 東大寺の神輿、東寺の若宮より帰座の時 第百九十七段 諸寺の僧のみにもあらず、定額の女孺といふ事 第百九十八段 揚名介にかぎらず 第百九十九段 横川行宣法印が申し侍りしは 第二百段 呉竹は葉細く、河竹は葉広し 第二百一段 退凡・下乗の卒塔婆 第二百二段 十月を神無月と言ひて 第二百三段 勅勘の所に靫かくる作法 第二百四段 犯人を笞にて打つ時は 第二百五段 比叡山に、大師勧請の起請といふ事は 第二百六段 徳大寺右大臣殿、検非違使の別当の時 第二百七段 亀山殿建てられんとて、地を引かれけるに 第二百八段 経文などの紐を結ふに 第二百九段 人の田を論ずるもの、訴へに負けて 第二百十段 喚子鳥は春のものなりとばかり言ひて 第二百十一段 よろづの事は頼むべからず 第二百十二段 秋の月は、かぎりなくめでたきものなり 第二百十三段 御前の火炉に火を置く時は 第二百十四段 想夫恋といふ楽は 第二百十五段 平宣時朝臣、老の後、昔語りに 第二百十六段 最明寺入道、鶴岡の社参の次に 第二百十七段 或大福長者の言はく 第二百十八段 狐は人に食ひつくものなり 第二百十九段 四条黄門命ぜられて言はく 第二百二十段 何事も辺土は、賤しく、かたくななれども 第二百二十一段 建治・弘安の比は、祭の日の放免の付物に 第二百二段 竹谷乗願房 第二百二十三段 鶴の大臣殿は 第二百二十四段 陰陽師有宗入道、鎌倉よりのぼりて 第二百二十五段 多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手の中に 第二百二十六段 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 第二百二十七段 六時礼賛は 第二百二十八段 千本の釈迦念仏は、文永の比 第二百二十九段 よき細工は 第二百三十段 五条内裏には、妖物ありけり 第二百三十一段 園の別当入道は、さうなき庖丁者なり 第二百三十二段 すべて人は、無智無能なるべきものなり 第二百三十三段 万の咎あらじと思はば 第二百三十四段 人のものを問ひたるに 第二百三十五段 主ある家には、すずろなる人 第二百三十六段 丹波に出雲といふ所あり 第二百三十七段 柳筥に据ゆるものは 第二百三十八段 御随身近友が自讃とて 第二百三十九段 八月十五日、九月十三日は、婁宿なり 第二百四十段 しのぶの浦の蜑の見るめも所せく 第二百四十一段 望月のまどかなる事は 第二百四十二段 とこしなへに違順に使はるる事は 第二百四十三段 八になりし時、父に問ひて言はく
  (仮朗読) (CD)

(朗読 1/22/2)原文・現代語訳(1~243段)原文(1~136段)YouTube


[古文] 第161段:
花の盛りは、冬至より百五十日とも、時正の後、七日とも言へど、立春より七十五日、大様違はず。

[現代語訳]
桜の花の盛りは、『冬至の日』より百五十日後とも、春分の日の二日後に訪れる『時正の日』から七日後とも言うけど、『立春の日』より七十五日後でも、桜の花の盛りということでは大きな違いはない。


[古文] 第162段:
遍照寺(へんじょうじ)の承仕(じょうじ)法師、池の鳥を日来飼ひつけて、堂の中まで餌を撒きて、戸一つ開けたれば、数も知らず入り籠りける後、己れも入りて、たて籠めて、捕へつつ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草刈る童聞きて、人に告げければ、村の男どもおこりて、入りて見るに、大雁どもふためき合へる中に、法師交りて、打ち伏せ、捩ぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使庁へ出したりけり。殺す所の鳥を頸に懸けさせて、禁獄せられにけり。
基俊大納言、別当の時になん侍りける。

[現代語訳]
遍照寺の雑役・労務をしていた法師が、池に来る鳥を日頃から飼いならして、堂の中にまで餌を撒いていた。戸を一つ開けているだけで、数えられないほど多くの鳥が餌を求めて堂の内部に入ってくる。そこへ法師は自分も入っていき戸を閉じて、池の鳥を捕えては殺している様子である。その殺生の様子が外までおどろおどろしく聞こえてくるので、草を刈っている少年が聞き咎めて人に報告した。村の男たちが集まって遍照寺の御堂に入ると、大きな雁が慌てふためきながら逃げまどう中に法師が交じっていて、その雁を打ち伏せてはねじ殺している有様である。 村の男達は法師を捕まえて、検非違使庁(警察のような当時の治安維持の担当官庁)につき出した。その法師は殺した鳥を首にかけさせられたまま、牢獄に投獄されたそうである。
基俊大納言が別当(検非違使庁の長官)の時の出来事だからかなり昔の話である。


[古文] 第163段:
太衝(たいしょう)の『太』の字、点打つ・打たずと言ふ事、陰陽の輩、相論(そうろん)の事ありけり。盛親入道申し侍りしは、『吉平が自筆の占文の裏に書かれたる御記、近衛関白殿にあり。点打ちたるを書きたり』と申しき。

[現代語訳]
太衝(陰陽道でいう9月のこと)の『太』の字は、『太』と点を打つのか『大』と点なしで良いのかという事で、陰陽に関係する人たちの間で論争になったことがあった。盛親入道が申し上げたのは、『(日本の陰陽道の始祖ともされる安倍晴明の息子である)安倍吉平が占文の裏に書いた自筆文書が近衛関白の邸宅に残されていた。それには太衝の「太」の字には点が打たれていた』ということである。


[古文] 第164段:
世の人相逢ふ時、暫くも黙止する事なし。必ず言葉あり。その事を聞くに、多くは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために、失多く、得少し。
これを語る時、互ひの心に、無益の事なりといふ事を知らず。

[現代語訳]
世の人が会う時には、少しの間も沈黙していることがない。必ずそこには雑談・世間話の言葉がある。その話を聞いていると、多くは無益な雑談である。世間に流布している根拠のない噂話・評判、他人の良いことと悪いことについての雑談、自分と相手にとって失うものばかり多くて、得るものは少ない。
こういった世間話をしている時には、お互いの心に無益・無意味な話をしているという自覚がない。


[古文] 第165段:
吾妻の人の、都の人に交り、都の人の、吾妻に行きて身を立て、また、本寺・本山を離れぬる、顕密の僧、すべて、我が俗にあらずして人に交れる、見ぐるし。

[現代語訳]
東国(鎌倉)の武士が京の人と交わり、京の貴族が鎌倉で立身出世をする。また、京にある本寺・本山を離れた京の僧侶が、顕教・密教を入り混ぜて自分の宗派とは異なる修行(勤行)をする。すべて、自分が属している生活圏の風習から外れた人(本来自分が居るべき場所にいない人)というのは、どこか見苦しいものだ。


[古文] 第166段:
人間の、営み合へるわざを見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀・珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること雪の如くなるうちに、営み待つこと甚だ多し。

[現代語訳]
世俗の人々が忙しく動いている営み・仕事を見ていると、まるで春の日に雪仏を作って、そのために金銀・珠玉(宝石)の飾りつけをし、御堂を建立しようとしているかのようである。御堂が完成するのを待って、すぐに溶けてしまう雪仏を安置することなどできるのだろうか。人の生命は長いと思っていても、下から消えていく生命は雪のような儚いものである。それなのに、一生懸命に働き続けて、(間もなく人は死んでしまうというのに)その成果を長く待っているような人が多い。


[古文] 第167段:
一道に携はる人、あらぬ道の筵に臨みて、『あはれ、我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを』と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、よに悪く覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、『あな羨まし。などか習はざりけん』と言ひてありなん。我が智を取り出でて人に争ふは、角ある物の、角を傾け、牙ある物の、牙を咬み出だす類なり。
人としては、善に伐らず(ほこらず)、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎あり。慎みて、これを忘るべし。痴にも見え、人にも言ひ消たれ、禍をも招くは、ただ、この慢心なり。
一道にまことに長じぬる人は、自ら、明らかにその非を知る故に、志常に満たずして、終に、物に伐る事なし。

[現代語訳]
ある専門の道に従事する人が、違う専門の道の会合に出席して、『あぁ、これが自分の専門の集まりであれば、このように何も言わずに傍観するだけではなかったのに』と言った。こういったことを思うのはよくあることだが、もし専門外のことに間違った反論をしてしまえば、酷く下らない人間だと思われてしまう。自分の知らない専門の道について羨ましく思うなら、『あぁ、羨ましいことだ。どうしてこの道を選ばなかったのだろう』と言っておけばいいのだ。 自分の知識教養を出して人と争うのは、角ある獣が角を傾け、牙がある獣が牙で咬み合うのと同じ類のことなのである。
人は、自分の長所・美点を敢えて誇らず、何物とも争わないことを徳とするものだ。他者より優れていることがあるなら、それが欠点ともなる。気品の高さでも、教養・才知の優秀さでも、先祖の名誉でも、人より自分は優れていると思った人は、例え口に出さなくても、心の中に多くの罪・過ちが生まれてしまう。自分の長所・自慢など慎んで忘れたほうがいい。馬鹿のように見られ、人から自分の発言を訂正されて、災禍を招く原因はこの慢心からなのである。
本当に一つの道に精通した者は、自分で明らかに自分の欠点を知っているが故に、いつまでも自分の理想の志が満たされることがない。だから、他者に自分の自慢をすることもないのだ。


[古文] 第168段:
年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて、『この人の後には、誰にか問はん』など言はるるは、老の方人にて、生けるも徒らならず。さはあれど、それも廃れたる所のなきは、一生、この事にて暮れにけりと、拙く見ゆ。『今は忘れにけり』と言ひてありなん。
大方は、知りたりとも、すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。『さだかにも辨へ(わきまえ)知らず』など言ひたるは、なほ、まことに、道の主とも覚えぬべし。まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、『さもあらず』と思ひながら聞きゐたる、いとわびし。

[現代語訳]
年老いた人が、優れた一事に関する才能があって、『この人が死んだ後には、誰にこの事について聞けば良いのだろうか?』などと言われるのであれば、老人にとっての味方とも言うべき人物であって、生き続けているのも無駄ではない。しかし、その専門について衰退している所が全くないというのは、この老人の一生はすべてこの事だけのために費やされてきたんだなと、つまらない人生のように見えてしまう。だから、『今はもう自分の専門については忘れてしまったよ』と言ってしまうのもありだろう。
大体のことは知っていても、やたらに言い散らすのは、それほどの才能が無いようにも見えるし、自然としゃべり散らす中で誤りも出てくるだろう。『その事についてははっきりとは確実に知らないが』などと言っていれば、本当に、その道の全てを大まかに知り尽くした先生のように思われるものだ。
まして、老人が知らない事をしたり顔で、大人しく物事を良く知らない若者に言い聞かせているのを見て、『そうではない(老人の言うことは間違っている)』とか思いながら聞いているのは、とてもやりきれないものだ。


[古文] 第169段:
『何事の式といふ事は、後嵯峨の御代までは言はざりけるを、近きほどより言ふ詞なり』と人の申し侍りしに、建礼門院の右京大夫、後鳥羽院の御位の後、また内裏住みしたる事を言ふに、『世の式も変りたる事はなきにも』と書きたり。

[現代語訳]
『何とか式という言い方は、後嵯峨天皇の時代までは使われなかった表現であり、最近になって使われ始めた言葉である』とある人が申していた。しかし、平清盛の娘(建礼門院・平徳子)に仕えた右京大夫という女房が、(平家滅亡後の)後鳥羽院の御世に宮中にお仕えしていた時、『世の式には何も変わりはないのに(平家は滅亡してしまった)』と書き残している。


[古文] 第170段:
さしたる事なくて人のがり行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば、疾く帰るべし。久しく居たる、いとむつかし。
人と向ひたれば、詞多く、身もくたびれ、心も閑かならず、万の事障りて時を移す、互ひのため益なし。厭はしげに言はんもわろし。心づきなき事あらん折は、なかなか、その由をも言ひてん。同じ心に向はまほしく思はん人の、つれづれにて、『今暫し。今日は心閑かに』など言はんは、この限りにはあらざるべし。阮籍(げんせき)が青き眼、誰にもあるべきことなり。
そのこととなきに、人の来りて、のどかに物語して帰りぬる、いとよし。また、文も、『久しく聞えさせねば』などばかり言ひおこせたる、いとうれし。

[現代語訳]
大した用事もないのに、他人の家に行くのは良くないことである。用事があって行ったとしても、用事が済んだら早く帰ったほうが良い。長居されるというのは、とても厄介(迷惑)なことだ。
他人と向き合っていると、余計な言葉が多くなり、身体もくたびれて、心も静かに落ち着かない、様々な事柄に支障が起こってきてやるべきこともできずに時間ばかりが流れてしまう。お互いのために何の役にも立たない。迷惑そうにして相手と話しているのも悪い。相手と話すことに気乗りがしない時には、むしろその理由を言ってしまったほうが良い。自分も同じ気持ち(関心)を持って向き合いたいと思う相手が、手持ち無沙汰で暇にしていて、『もう暫く居て下さい。今日は心静かに語り合いましょう』などと言う時には、この限りではない。晋の時代の竹林の七賢の一人である阮籍のように、客人を歓迎する『青い眼』をすることは誰にでもあることだ。
特に用事もなくて、知人が訪ねてきて、のんびり話してから帰るというのは嬉しいことだ。また、手紙でも『久しくお手紙を差し上げていませんで』などと書いてあるだけで、とても嬉しいものである。


[古文] 第171段:
貝を覆ふ人の、我が前なるをば措きて、余所を見渡して、人の袖のかげ、膝の下まで目を配る間に、前なるをば人に覆はれぬ。よく覆ふ人は、余所までわりなく取るとは見えずして、近きばかり覆ふやうなれど、多く覆ふなり。碁盤の隅に石を立てて弾くに、向ひなる石を目守りて弾くは、当らず、我が手許をよく見て、ここなる聖目を直に弾けば、立てたる石、必ず当る。
万の事、外に向きて求むべからず。ただ、ここもとを正しくすべし。清献公が言葉に、『好事を行じて、前程を問ふことなかれ』と言へり。世を保たん道も、かくや侍らん。内を慎まず、軽く、ほしきままにして、濫り(みだり)なれば、遠き国必ず叛く時、初めて謀を求む。『風に当り、湿に臥して、病を神霊に訴ふるは、愚かなる人なり』と医書に言へるが如し。目の前なる人の愁を止め、恵みを施し、道を正しくせば、その化遠く流れん事を知らざるなり。禹の行きて三苗を征せしも、師(いくさ)を班して(かえして)徳を敷くには及かざりき。

[現代語訳]
貝覆いという貝を用いたカルタ遊びをする人で、自分の目の前にある貝をさしおいて、よそを見渡し、人の袖の陰から膝の下まで目を配っている間に、目の前にある貝を人に取られてしまう。貝覆いの上手な人は、よその貝まで無理に取るようにも見えないのだが、手近な貝は必ず取るようにして、結果として最も多くの貝を取るのである。おはじき遊びをする時にも、碁盤の隅に石を置いて弾こうとして、目標の石ばかり見守っていてもまず当たらない。自分の手もとをよく見て、ここだという目安をつけて直線にして弾くなら、狙っている石に必ず当たるはずである。
全ての事は、外に向かって答えを求めてはならない。ただ自分自身を正せば良いのだ。11世紀の宋の名臣である清献公は、『今の自分に出来る善行を実践して、将来のことを問うてはならない』と言っている。世の中の秩序を保つ政治も、そのようなものではないだろうか。 内政を慎まずに軽んじて、みだりに為政者のほしいままにするなら、遠い国が陰謀を用いて反乱を起こす日が必ず来る。『(病気がちの人間が)冷たい風に吹かれて、湿気の多い布団に寝て、病気の治癒を神仏に訴えるのは愚かな人のやる事である』と医書で言われているようなものである。自分自身の養生や予防をせずに、病気を治すことなどはできないのだ。
為政者は、まず目の前にいる人々の悩みを止めて、恵沢を施し道を正しくすれば、その良い影響が遠くの地域にまで広がっていくという統治のやり方を知らないのだろうか。古代中国の聖王である禹(う)が異民族の三苗を征服した時のように、大規模な軍勢を引き返させて、(武力を用いない)徳政を敷くことには及ばないのである。


[古文] 第172段:
若き時は、血気内に余り、心物に動きて、情欲多し。身を危めて、砕け易き事、珠を走らしむるに似たり。美麗を好みて宝を費し、これを捨てて苔の袂に窶れ、勇める心盛りにして、物と争ひ、心に恥ぢ羨み、好む所日々に定まらず、色に耽り、情にめで、行ひを潔くして、百年の身を誤り、命を失へる例願はしくして、身の全く、久しからん事をば思はず、好ける方に心ひきて、永き世語りともなる。身を誤つ事は、若き時のしわざなり。
老いぬる人は、精神衰へ、淡く疎かにして、感じ動く所なし。心自ら静かなれば、無益のわざを為さず、身を助けて愁なく、人の煩ひなからん事を思ふ。老いて、智の、若きにまされる事、若くして、かたちの、老いたるにまされるが如し。

[現代語訳]
若い時は内面の血気が盛んであり、心が物に動かされて異性に対する情欲も多い。自分の身を危なくして無謀に砕けやすいことは、斜面で玉を転がすことにも似ている。美しいものを好んで金銭を費やし、あるいは金銭を捨てて苔の麓で身をやつし、勇ましい心を高ぶらせて他者と争い、恥ずかしがったり羨んだりして、好む相手・場所もなかなか定まらない。色欲に耽って、情愛に流されることで、行いを清廉潔白にすれば百年生きられるはずの身を損なってしまう。命を失うことすら願うような素振りで、自分が長生きする存在だとも思わずに、好きな方に心を惹きつけられて、長く語られる物語にもなる。身を誤ることは、若いからである。
老いた人は精神力が衰えて、欲望も淡く世俗にも疎くなっており、物事に敏感に感じて動くということもない。心は必然的に静かになり、無益なことをしない。自分の身を大切にして健康の悩みを減らすように努め、他人に迷惑を掛けないようにしようと思う。老いた人は生きる知恵において若い人に勝っているが、それは若い人が外見的な容姿・スタイルにおいて老人に勝っているのと同じである。


[古文] 第173段:
小野小町が事、極めて定かならず。衰へたる様は、「玉造(たまづくり)」と言ふ文(ふみ)に見えたり。この文、清行が書けりといふ説あれど、高野大師(こうやだいし)の御作(ごさく)の目録に入れり。大師は承和(じょうわ)の初めにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後の事にや。なほおぼつかなし。

[現代語訳]
平安初期(9世紀)の六歌仙の一人である小野小町という女性のことは、全くはっきりとした事が分からない。小野小町の美貌の衰微していく様子が『玉造』という書物に書かれている。この『玉造』という書物は、三善清行が書いたという説があるが、高野山の弘法大師(空海)の著作の目録にも『玉造』という書名が掲載されているのである。
弘法大師は承和二年(835年)に亡くなられている。その頃の小町はまだ十代の子どもだったと推測され、小町の美貌や才能が開花して盛りになったのは大師が亡くなった後の事になる。小野小町の事跡についてははっきりしないのだ。


[古文] 第174段:
小鷹(こたか)によき犬、大鷹(おおたか)に使ひぬれば、小鷹にわろくなるといふ。大に附き小を捨つる理、まことにしかなり。
人事(にんじ)多かる中に、道を楽しぶより気味深きはなし。これ、実(まこと)の大事なり。一度、道を開きて、これに志さん人、いづれのわざか廃れざらん、何事をか営まん。愚かなる人といふとも、賢き犬の心に劣らんや。

[現代語訳]
『雀・鶉(うずら)・鴫(しぎ)』などを叢(くさむら)から追い出す小鷹狩用の犬を、大鷹狩(雁・鶴・雉の大物を狙う狩り)に使うと、その犬は小鷹狩で使えなくなってしまうという。大について小を捨ててしまうという理屈は、全くその通りである。
人間のやる事が多い中で、仏道を楽しむよりも味わい深いものなど無いのだ。これは本当に大切なことである。一度、仏の道を進むことを決めて、これに志した人はどの技術が廃れるというのか、他に何事に取り組もうというのか。どんなに愚かな人間であっても、賢い犬の心に劣るということがあるだろうか、いやそんな事はない。


[古文] 第175段:
世には、心得ぬ事の多きなり。ともある毎(ごと)には、まづ、酒を勧めて、強ひ飲ませたるを興とする事、如何なる故とも心得ず。飲む人の、顔いと堪え難げに眉を顰め、人目を測りて捨てんとし、逃げんとするを、捉へて引き止めて、すずろに飲ませつれば、うるはしき人も、忽ち(たちまち)に狂人となりてをこがましく、息災なる人も、目の前に大事の病者となりて、前後も知らず倒れ伏す。
祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。明くる日まで頭痛く、物食はず、によひ臥し、生を隔てたるやうにして、昨日の事覚えず、公・私の大事を欠きて、煩ひとなる。人をしてかかる目を見する事、慈悲もなく、礼儀にも背けり。かく辛き目に逢ひたらん人、ねたく、口惜しと思はざらんや。人の国にかかる習ひあなりと、これらになき人事にて伝へ聞きたらんは、あやしく、不思議に覚えぬべし。
人の上にて見たるだに、心憂し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひののしり、詞多く、烏帽子歪み、紐外し、脛高く掲げて、用意なき気色、日来の人とも覚えず。女は、額髪(ひたいがみ)晴れらかに掻きやり、まばゆからず、顔うちささげてうち笑ひ、盃持てる手に取り付き、よからぬ人は、肴(さかな)取りて、口にさし当て、自らも食ひたる、様あし。
声の限り出して、おのおの歌ひ舞ひ、年老いたる法師召し出されて、黒く穢き(きたなき)身を肩抜ぎて、目も当てられずすぢりたるを、興じ見る人さへうとましく、憎し。或(ある)はまた、我が身いみじき事ども、かたはらいたく言ひ聞かせ、或は酔ひ泣きし、下ざまの人は、罵り合ひ、争ひて、あさましく、恐ろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、果は、許さぬ物ども押し取りて、縁より落ち、馬・車より落ちて、過しつ。
物にも乗らぬ際は、大路をよろぼひ行きて、築泥(ついひじ)・門の下などに向きて、えも言はぬ事どもし散らし、年老い、袈裟掛けたる法師の、小童の肩を押へて、聞えぬ事ども言ひつつよろめきたる、いとかはゆし。
かかる事をしても、この世も後の世も益あるべきわざならば、いかがはせん、この世には過ち多く、財を失ひ、病をまうく。百薬の長とはいへど、万の病は酒よりこそ起れ。憂忘るといへど、酔ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思い出でて泣くめる。後の世は、人の知恵を失ひ、善根を焼くこと火の如くして、悪を増し、万の戒を破りて、地獄に堕つべし。「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生る」とこそ、仏は説き給ふなれ。
かくうとましと思ふものなれど、おのづから、捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝、花の本にても、心長閑(のどか)に物語して、盃出したる、万の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入り来て、とり行ひたるも、心慰む。馴れ馴れしからぬあたりの御簾の中より、御果物・御酒など、よきやうなる気はひしてさし出されたる、いとよし。冬、狭き所にて、火にて物煎りなどして、隔てなきどちさし向ひて、多く飲みたる、いとをかし。
旅の仮屋、野山などにて、「御肴何がな」など言ひて、芝の上にて飲みたるも、をかし。いたう痛む人の、強ひられて少し飲みたるも、いとよし。よき人の、とり分きて、「今ひとつ。上少し」などのたまはせたるも、うれし。近づかまほしき人の、上戸にて、ひしひしと馴れぬる、またうれし。
さは言へど、上戸(じょうご)は、をかしく、罪許さるる者なり。酔ひくたびれて朝寝したる所を、主の引き開けたるに、惑ひて、惚れたる顔ながら、細き髻(もとどり)差し出し、物も着あへず抱き持ち、ひきしろひて逃ぐる、掻取姿(かいとりすがた)の後手、毛生ひたる細脛(ほそはぎ)のほど、をかしく、つきづきし。

[現代語訳]
この世には、よく分からない事が多い。これという宴のある時には、まず酒飲みはみんなに酒を注いで、飲みたくない人にまで酒を飲ませる事を強いて面白がったりする。なぜ、そんな無茶をするのか分からない。無理に酒を飲まされる人は、堪えがたい表情をして眉をひそめ、人目を盗んで密かに酒を捨てようとし、酒宴から逃げだそうとするのを、酒飲みは捕まえて引き止め、むやみに飲ませるのだが、きちんとした礼儀正しい人でも、たちまち狂人となって馬鹿な振舞いを始めてしまう。健康な人であっても、飲めない酒を飲めば、重症の病人のようになってしまい前後不覚になって倒れてしまう。
祝うべき日の宴なども、酒の飲めない人にとってはひどいものである。明くる日まで頭が痛くなって、物も食わずにうめいて倒れ、まるで生まれ変わったかのように昨日のことを何も覚えていない。公私の大事な仕事があっても欠席してしまい、他人に迷惑を掛ける。酒は人をこんなつらい目に遭わせるのであり、慈悲もなければ礼儀というものもない。こんな辛い目に遭わされた下戸の人は、酒も宴も、忌々しく恨めしいものになるのではないか。異国にはこんな飲酒の風習があると、飲酒の風習がない国の人が伝え聞いたならば、何とも異様で不思議な話だと思うだろう。
人ごとだと思って見ていても、酔っている者は心配である。思慮深そうで奥ゆかしく見えた人でも、酒を飲むと物事を考えることもなく笑って罵ったりする。言葉が多くなり、烏帽子は歪んで、紐を外して、脛を高く上げて股間が丸見えとなる準備のない様子は、日頃の思慮深き人とも思えない。
清楚に見える女性も、酒を飲めば髪をかきやって額を晴れやかにみんなに披露して、恥ずかしげもなく顔を晒し、大口を開けて笑い出すのだ、男の盃を持つ手に取り付いたり、更に慎みのない人は肴を取って男の口にまで持っていったり、それを逆の端から自分も食べたりするので、行儀はとても悪い。酔っぱらいは、声の限りを出して、みんなで歌い踊るのだが、やがて、年老いた法師も召し出されてきて、黒く汚い上半身を晒して身をよじりながら歌い踊るのである。とても見られたような見せ物ではないのだが、こんなものを喜んで見ている人さえ疎ましく憎らしく感じてしまう。
ある者は、自分がどんなに高貴ですごいかということを、恥ずかしげも無く他人に言い聞かせ、ある者は酔って泣きだし、身分の低い従者達は、怒鳴り合って争っているのだが、その様子はあさましくて恐ろしい。酔っぱらいは、恥ずかしくて心配になるような事ばかりをしでかして、最後は、他人のモノを取り合って、縁側から落ちたり、馬・車から落ちてしまって怪我をする。車に乗らないような人は、大路をよろよろとして歩いて帰り、垣根・門の下などに向けて言葉にしたくもないような事(放尿)をやってしまう。年老いて袈裟をかけた先ほど踊っていた法師が、小童の肩を抑えながら、誰に聞かせるでもなく何かを言いながらよろめいている、とても見苦しいものだ。
こんな情けない行為をしても、飲酒がこの世でも後の世でも利益のある事ならば、どうだろうかとは思うが実際には何の利益もない。この世には過ちが多くて、酒で財産を失ったり、病いを得たりしてしまう。酒は百薬の長とは言うが、病いの多くは酒が原因である。酒でこの世の憂さを忘れるとは言っても、酔った人は過ぎた嫌なことも思い出して泣いている。酒は人の知恵を奪って、積徳の善根を焼くことは火のようなものであり、悪を増長させて、全ての戒めを破ることにもつながり、来世では地獄に堕ちるだろう。『酒を手にとって人に飲ませた者は、五百生の間、手のない者に生まれ変わる』と、仏様も説いておられるのだ。
酒はこのように疎ましいモノではあるが、時には捨て難いという時もある。月の夜や雪の朝、桜の木の下で、心のどかに語り合って、その傍らに酒の盃がある、これはあらゆる事物に興趣を添える業(わざ)というべきものである。手持ち無沙汰で退屈な日に、思いのほか友人がやって来て、盃を交わすというのも心が慰められる。あまり親しくない貴人の御簾の中から、果物や酒などを優雅な様子で差し出されるというのも、とても良いものだ。
冬に、狭い家の中で煎り物などをつつきながら、隔てのない親しい相手と向き合って、多く酒を飲むというのはとても楽しい。旅の仮屋や野山で『肴になるものは何かないか』などと言い合いながら、芝の上で酒を飲むのも愉快である。飲めない人が無理強いされて少しだけ飲むのも、なかなか良い。高貴な方からお酌をして貰って、『もうひとつどうですか。まだ飲み足りないでしょう』などと酒を勧められるのも嬉しい。お近づきになりたかった人が、酒が飲める上戸で、飲むうちに段々と打ち解けていくのも、また嬉しいものだ。
そうは言ったけれど、上戸の酒飲みは面白くて罪のない者たちである。酔いくたびれて引き戸にもたれかかって朝寝をしてると、主人が戸を引き開けて焦って戸惑っている。寝ぼけた顔をしながら、烏帽子もかぶり忘れて髻を出したまま、着物も着れずに抱え持って、帯をひきずって逃げようとする。その裾をたくしあげた後ろ姿、毛が生えた細脛のあたりがおかしく感じられて、その姿は罪のない上戸に似つかわしいものだ。


[古文] 第176段:
黒戸(くろど)は、小松御門、位に即かせ給ひて、昔、ただ人にておはしましし時、まさな事せさひ給ひしを忘れ給はで、常に営ませ給ひける間なり。御薪に煤けたれば、黒戸と言ふとぞ。

[現代語訳]
清涼殿にある北廊の西向きの戸は『黒戸の御所』と呼ばれる。小松の御門(光孝天皇)が即位なされる以前、ただの人であられた時には、御自分で料理をなされていたそうだ。その事を忘れずに、即位されてからもお戯れで以前のように自分で料理をしておられたので、薪の煤(すす)で扉は黒く汚れることになり、『黒戸の御所』と言われるようになった。


[古文] 第177段:
鎌倉中書王(ちゅうしょおう)にて御鞠(おんまり)ありけるに、雨降りて後、未だ庭の乾かざりければ、いかがせんと沙汰ありけるに、佐々木隠岐入道(おきのにゅうどう)、鋸(のこぎり)の屑(くず)を車に積みて、多く奉りたりければ、一庭に敷かれて、泥土の煩ひなかりけり。「取り留めけん用意、有り難し」と、人感じ合へりけり。
この事を或者の語り出でたりしに、吉田中納言の、「乾き砂子(すなご)の用意やはなかりける」とのたまひたりしかば、恥かしかりき。いみじと思ひける鋸の屑、賤しく、異様(ことよう)の事なり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子を設くるは、故実なりとぞ。

[現代語訳]
鎌倉の中書王(後嵯峨天皇の第二皇子・宗尊親王)の御所で蹴鞠が催された時、雨が降ってきた後で庭がまだ乾いていなかったので、どうしようかと話し合っていると、佐々木隠岐入道が鋸で引いた後のおがくずを車一杯に積んで現れた。沢山のおがくずを庭に敷き詰めたので、泥水や泥土の心配は無くなった。『こんな時の為におがくずを用意しているというのはありがたい』と、人々は甚く感動した。
この鎌倉での出来事をある者が吉田中納言に語ると、『乾いた砂の用意はなかったのですか?』と言われてしまい、恥ずかしい思いをした。素晴らしいと思ったおがくずは、身分の低い者の適当な対処で、京都では異様なことでもある。貴人の庭の管理をする人は、雨・泥に備えて乾いた砂を用意しておくというのが、昔からの儀礼である。


[古文] 第178段:
或所の侍(さぶらひ)ども、内侍所の御神楽を見て、人に語るとて、「宝剣をばその人ぞ持ち給ひつる」など言ふを聞きて、内なる女房の中に、「別殿(べつでん)の行幸(ぎょうこう)には、昼御座(ひのござ)の御剣(ぎょけん)にてこそあれ」と忍びやかに言ひたりし、心にくかりき。その人、古き典侍(ないしのすけ)なりけるとかや。

[現代語訳]
ある貴人の邸に仕える従者(家人)どもが、内侍所で行われた御神楽を見物して、『三種の神器の宝剣を、あの人が持たれているぞ』などと仲間同士で語り合っていると、近くの御簾の中にいた女房が、『(方違えのための)別殿の行幸の時は、それは(三種の神器の草薙の剣ではなくて)昼御座の御剣でございますよ』と密かに教えていた、心憎いことである。その女房は、古くから仕えている典侍だったという。


[古文] 第179段:
入宋(にっそう)の沙門(しゃもん)、道眼上人(どうげんしょうにん)、一切経を持来して、六波羅のあたり、やけ野といふ所に安置して、殊に首楞厳経(しゅりょうごんきょう)を講じて、那蘭陀寺(ならんだじ)と号す。
その聖の申されしは、「那蘭陀寺は、大門北向きなりと、江帥(ごうぞつ)の説として言ひ伝へたれど、西域伝・法顕伝などにも見えず、更に所見なし。江帥は如何なる才学にてか申されけん、おぼつかなし。唐土の西明寺(さいみょうじ)は、北向き勿論(もちろん)なり」と申しき。

[現代語訳]
宋で仏教を学んで帰国した僧侶の道眼上人は、一切経を持ち帰って京都の六波羅のあたり、やけ野という所に経を安置した。特に首楞厳経を講義して、その地に建てた寺を那蘭陀寺と呼んだ。
その道眼上人が、『天竺(インド)の那蘭陀寺の大門は北向きだと、江帥の説として伝え聞いているが、玄奘三蔵(三蔵法師)の『西域伝』や法顕上人の『法顕伝』などにはその記述がなく、更に他の文献でも見当たらない。江帥はどういう根拠で北向きだと言われたのかが分からない。唐の西明寺は、もちろん北向きなのだが』とおっしゃっていた。


[古文] 第180段:
さぎちやうは、正月に打ちたる毬杖(ぎじょう)を、真言院より神泉苑(しんぜんえん)へ出して、焼き上ぐるなり。「法成就(ほうじょうじゅ)の池にこそ」と囃すは、神泉苑の池をいふなり。

[現代語訳]
家の前の篝火に色々なものを投げ入れて燃やすという『左義長(さぎちょう)』の行事では、正月に使った毬杖(毬を打つ杖)を真言院から出して、神泉苑で焼き上げるのだ。『法成就の池にこそ(弘法大師の奇跡に対する褒め言葉)』と囃すのは、神泉苑の池の事を言う。


[古文] 第181段:
「『降れ降れ粉雪、たんばの粉雪』といふ事、米搗き(よねつき)篩ひ(ふるひ)たるに似たれば、粉雪といふ。『たまれ粉雪』と言ふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。『垣や木の股に』と謡ふべし」と、或物知り申しき。
昔より言ひける事にや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せられける由、讃岐典侍(さぬきのすけ)が日記に書きたり。

[現代語訳]
「『ふれふれこゆき、丹波のこゆき』という童謡で、粉雪というのは米をついた粉をふるっている時の様子に似ているからである。『たんばの』は誤りであり、『たんまれ粉雪』というのが正しい。その後は『垣や木の股に』と歌っていくのだ」と、ある物知りが言っていた。
昔から謡われている歌なのか、讃岐典侍の日記には、鳥羽天皇の幼い頃、雪の降る日にこの歌を謡っていたと書いている。


[古文] 第182段:
四条大納言(しじょうのだいなごん)隆親卿(たかちかのきょう)、乾鮭(からざけ)と言ふものを供御(くご)に参らせられたりけるを、「かくあやしき物、参る様あらじ」と人の申しけるを聞きて、大納言、「鮭といふ魚、参らぬ事にてあらんにこそあれ、鮭の白乾し(しらぼし)、何条事(なじょうこと)かあらん。鮎の白乾しは参らぬかは」と申されけり。

[現代語訳]
四条大納言隆親卿が、乾鮭というものを天皇の食卓にお届けしたのだが、『こんなあやしい魚を、天皇の御前にお出しするわけにはいかない』と人に言われたのを聞いて、四条大納言は『鮭という魚が天皇へお出しできないということはないだろう。鮭の乾したものに何か問題があるのだろうか、鮎の白乾しはお出しできないのか?』と言い返された。


[古文] 第183段:
人觝く(つく)牛をば角を截り(きり)、人喰ふ馬をば耳を截りて、その標(しるし)とす。標を附けずして人を傷らせ(やぶらせ)ぬるは、主の咎(とが)なり。人喰ふ犬をば養ひ飼ふべからず。これ皆、咎あり。律の禁(いましめ)なり。

[現代語訳]
人を突く牛は角を切り、人を咬む馬は耳を切って、危険な家畜の印とするのだ。印をつけずに人を傷つければ、家畜の主人の落ち度となる。人を咬む犬は飼ってはならない。これらはみな罪になる。これらは、王朝政治の礎となる律令の『律』で定められた禁令である。


[古文] 第184段:
相模守時頼(さがみのかみときより)の母は、松下禅尼(まつしたのぜんに)とぞ申しける。守を入れ申さるる事ありけるに、煤け(すすけ)たる明り障子の破ればかりを、禅尼、手づから、小刀して切り廻しつつ張られければ、兄の城介義景(じょうのすけよしかげ)、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりて、某男(なにがしおのこ)に張らせ候はん。さようの事に心得たる者に候ふ」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」とて、なほ、一間(ひとま)づつ張られけるを、義景、「皆を張り替へ候はんは、遥かにたやすく候ふべし。斑ら(まだら)に候ふも見苦しくや」と重ねて申されければ、「尼も、後は、さはさはと張り替へんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心づけんためなり」と申されける、いと有難かりけり。
世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、ただ人にはあらざりけるとぞ。

[現代語訳]
鎌倉幕府第五代執権・相模守時頼(北条時頼)の母は、松下禅尼と言う尼僧であった。その松下禅尼の家に、息子の相模守を招待なされる事があり、家の者でその準備をしていた時、松下禅尼は手に小刀を持って、障子紙を切り回しながら香の煙で煤けた障子の破れた所だけを切り貼りしていた。松下禅尼の兄・城介義景が、その日の世話役として控えていたが、その様子を見て『その障子貼りのお仕事をいただいて他の者にやらせます。そのような事を心得た男がおりますので』といった。『だが、その男の細工はよもや尼の細工に勝りますまい』と松下禅尼は答えて、更に障子の破れを一間ずつ張り替え続けた。
『全部一気に貼り替える方がはるかに簡単です。それに、そのやり方だと新しい所と古い所でマダラになってしまうので、見苦しくありませんか?』と義景が申し上げた。『尼も、後にはさっぱりと全て貼り替えようとは思うが、今日ばかりはわざとこうしているのだ。物は、壊れた所だけを修理して用いるものだと、若い人に見習わせて覚えさせる為なのである』と松下禅尼はお答えになったが、とてもありがたいお言葉である。
世を治める道は倹約を基本としている。松下禅尼は女性といえども、聖人の心に通じておられる。やはり、天下を保つほどの人(北条時頼)を子としてお産みになっただけのことはある、本当に並の人間ではない。


[古文] 第185段:
城陸奥守泰盛(やすもり)は、双なき馬乗りなりけり。馬を引き出させけるに、足を揃へて閾(しきみ)をゆらりと超ゆるを見ては、「これは勇める馬なり」とて、鞍を置き換へさせけり。また、足を伸べて閾に蹴当てぬれば、「これは鈍くして、過ちあるべし」とて、乗らざりけり。
道を知らざらん人、かばかり恐れなんや。

[現代語訳]
陸奥守泰盛(安達城介義景)は、比類のない馬乗りだった。厩から馬を引き出させる時に、足を揃えて敷居ををゆらりと超える馬を見て、『これは勇み馬だ』と言って、鞍を置き換えさせた。次の馬が足を伸ばして敷居にひずめを蹴り当てるのを見て、『この馬は鈍くて、怪我するかもしれない』と言って乗らなかった。乗馬の道に精通していない人は、こんなにも恐れないだろう。


[古文] 第186段:
吉田と申す馬乗りの申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力争ふべからずと知るべし。乗るべき馬をば、先づよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に、轡(くつわ)・鞍の具に危き事やあると見て、心に懸る事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ、秘蔵(ひぞう)の事なり」と申しき。

[現代語訳]
吉田という馬乗りが申し上げることには、『馬はどの馬も手強くて、人の力など馬に敵うはずもないと知るべきだろう。乗る馬をまずはよく見て、長所や短所を知らなければならない。次に、くつわや鞍などの馬具に危険はないかと見て、心にひっかかる事があるならば、馬を走らせるべきではない。この用意を忘れない者を真の馬乗りと言うのだ。これが、馬に乗る秘訣なのだ。』と言った。


[古文] 第187段:
万の道の人、たとひ不堪(ふかん)なりといへども、堪能(かんのう)の非家(ひか)の人に並ぶ時、必ず勝る事は、弛みなく慎みて軽々しくせぬと、偏へ(ひとえ)に自由なるとの等しからぬなり。
芸能・所作のみにあらず、大方の振舞・心遣ひも、愚かにして慎めるは、得の本なり。巧みにして欲しきままなるは、失の本なり。

[現代語訳]
それぞれの道の専門家は、専門家の中では劣っていても、素人の中で上手な人と並んだ時には、必ず勝つようになっている。これは、専門家がこれこそが自分の生きる道(天職)であると思い、その技芸・知識を慎んで訓練して軽々しく扱わないことと、素人が自由気ままに練習して上達を目指すこととの違いである。
芸能や儀礼の所作だけではなくて、普段の振舞いや心づかいにしても、自分の未熟さを認めて慎むのであれば、熟達・成功の原因となる。技術が優れているからといって好き勝手にやるのは、失敗・失策の原因である。


[古文] 第188段:
或者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説教などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教のままに、説教師にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。輿・車は持たぬ身の、導師に請(しょう)ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事の後、酒など勧むる事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説教習うべき隙なくて、年寄りにけり。
この法師のみにもあらず、世間の人、なべて、この事あり。若きほどは、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも成じ、能をも附き、学問をもせんと、行末久しくあらます事ども心には懸けながら、世を長閑に思ひて打ち怠りつつ、先づ、差し当りたる、目の前の事のみに紛れて、月日を送れば、事々成す事なくして、身は老いぬ。終に、物の上手にもならず、思ひしやうに身をも待たず、悔ゆれども取り返さるる齢ならねば、走りて坂を下る輪の如くに衰へ行く。
されば、一生の中、むねとあらまほしからん事の中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。一日の中、一時の中にも、数多の事の来らん中に、少しも益の勝らん事を営みて、その外をば打ち捨てて、大事を急ぐべきなり。何万をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず。
例へば、碁を打つ人、一手も徒らにせず、人に先立ちて、小を捨て大に就くが如し。それにとりて、三つの石を捨てて、十の石に就くことは易し。十を捨てて、十一に就くことは難し。一つなりとも勝らん方へこそ就くべきを、十まで成りぬれば、惜しく覚えて、多く勝らぬ石には換へ難し。これをも捨てず、かれをも取らんと思ふ心に、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。
京に住む人、急ぎて東山に用ありて、既に行き着きたりとも、西山に行きてその益勝るべき事を思ひ得たらば、門より帰りて西山に行くべきなり。「此所まで来着きぬれば、この事をば先づ言ひてん。日を指さぬ事なれば、西山の事は帰りてまたこそ思ひ立ため」と思ふ故に、一時の懈怠(けたい)、即ち一生の懈怠となる。これを恐るべし。
一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るるをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず。人の数多ありける中にて、或者、「ますほの薄(すすき)、まそほの薄など言ふ事あり。渡辺の聖、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮(とうれん)法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠やある。貸し給へ。かの薄の事習ひに、渡辺の聖のがり尋ね罷らん」と言ひけるを、「余りに物騒がし。雨止みてこそ」と人の言ひければ、「無下の事をも仰せらるるものかな。人の命は雨の晴れ間をも待つものかは。我も死に、聖も失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつつ、習ひ侍りにけりと申し伝へたるこそ、ゆゆしく、有難う覚ゆれ。「敏き時は、即ち功あり」とぞ、論語と云ふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。

[現代語訳]
ある者が、自分の子を法師にして言った。『仏の道を学んで物事の因果の理を知り、学んだ内容を説経でもして、世を渡るための支えとせよ』と。子は親の教えのままに、説経師になることに決め、最初に乗馬を習うことにした。大きな寺の僧侶のように牛車・輿に乗れる身分でもないので、法事の導師として招かれて馬などで迎えに来られた時に、桃尻で落馬したら恥ずかしい思いをすると心配になったからである。次に、法事の後で、酒など勧められた時に芸の一つも披露できないと、檀那がつまらなく思うだろうと思って早歌を習った。乗馬・早歌の二つがだんだんと熟練の域に達して、いよいよその道が面白くなってしまい懸命に練習しているうちに、本来の目的だった仏教の説経を習う暇(時間)もないままに年寄りになってしまった。
この法師だけではない、世間の人は誰でもこんなものだ。若いうちは何につけても、まずは身を立て、大いなる目的をも達成し、技芸を身につけて、学問を修めようと、長い将来をあれこれと計画しているものだ。だが、まだまだ人生は長いと思ってやるべきことを怠けていると、差し迫った目の前の仕事に紛れて月日を送り、何事も達成できないままに身は老いてしまう。 最後には、何の道にも精通せず、思い通りに出世することもできず、それを悔いたところで取り返しのつかない年齢になっており、ただ坂道を転がる車輪のように衰えていくだけである。
そうであれば、一生のうち、あれもこれもと望む事の中から、どれが勝るかをよく思い比べて第一の事を決定し、その他は思い切って捨てて、一つの事に励むのが良いのだ。一日のうち、僅かな時間の間にも数多くのやることがあるが、その中から少しでも自分に利益のある事を行い、その他のことを打ち捨てて、大切な大事こそ急ぐべきだ。やりたいこと全てを捨てまいとして心に持っていては、一つの大事も成し遂げることはできない。
例えば、碁の名人が一手も無駄にせず、相手に先立って小を捨て大につくようなものである。三つの石を捨てて十の石を取るのは簡単だ。だが、十の石を捨てて十一の石を取るのは難しい。一つでも多く石を得て勝つ手を取るべきだが、石が十個までなるとそれを失うのが惜しく思えて、多く石を取れる手には換えがたくなってしまう。これを捨てたくない、あれは取りたいと思う心では、あれも得られないし、これも失ってしまう最悪の手になってしまう。
京に住む人が東山に急用ができて、既に東山に行き着いていたとしても、西山に東山よりも勝る利益がある事に思い至ったならば、すぐに門から出て西山に急ぐべきなのだ。『ここまで来たんだから、まずこの用事を済まそう。日時の決まった事でもないんだから、西山の事は家に帰ってからまた考えよう』と思ってしまうがために、一時の懈怠(怠りと緩み)がそのまま一生の懈怠になってしまう。このことこそを、恐れるべきだ。
一つの事を必ず成そうと思うならば、他の事が失敗しても落ち込むのではなく、他人の嘲りを受けても恥じてはいけない。全ての事柄と引き換えにしなければ、一番の大事が成るはずなどない。 大勢の人がいる中である人がこう言った。『ますほのススキ、まそほのススキなどと言うことがある。渡辺の聖は、このススキについて何か知っているということだ』と。その場にいた登蓮法師はそれを聞いて、雨が降っていたのにも関わらず、『笠と蓑はありますか。あれば貸して下さい。そのススキの事を習いに、今から渡辺の聖のところへ行って参ります』と言った。『あまりにせっかちですね。雨がやんでからでいいでしょう』と周りの人が言ったのだが、『とんでもないことを言わないで下さい。人の命が雨の晴れ間をも待つものでしょうか。私が死んで、聖も死ねば、誰が尋ねて誰が教えることができるんですか。』と登蓮法師は言い返した。登蓮法師は雨の中を駆け出して、渡辺の聖にススキの事を習いに行ってしまったと伝えられているが、立派な即断であり、なかなか出来ないことでもある。
『敏き時は、即ち功あり(すぐに行えば、すぐに良い結果が得られる)』と、論語という書にも書かれている。ススキを不審に思ってすぐに知ろうとした登蓮法師のように、乗馬・早歌の道に逸れた初めの法師も、一大事の因縁(諸仏が出現する機縁と仏道の精進)こそを思うべきであった。


[古文] 第189段:
今日はその事をなさんと思へど、あらぬ急ぎ先づ出で来て紛れ暮し、待つ人は障りありて、頼めぬ人は来たり。頼みたる方の事は違ひて、思ひ寄らぬ道ばかりは叶ひぬ。煩はしかりつる事はことなくて、易かるべき事はいと心苦し。日々に過ぎ行くさま、予て(かねて)思ひつるには似ず。一年の中もかくの如し。一生の間もしかなり。
予てのあらまし、皆違ひ行くかと思ふに、おのづから、違はぬ事もあれば、いよいよ、物は定め難し。不定と心得ぬるのみ、実(まこと)にて違はず。

[現代語訳]
今日はあの事をやろうと考えていたら、思わぬ急用が出来てしまいそれに紛れて時間を過ごし、待っていた人は用事で来れなくなり、期待していない人が来たりもする。期待していた方面は駄目になり、思いがけない方面の事柄だけが思い通りになってしまったりもする。 面倒だと思ってきたことは何でもなくて、簡単に終わるはずだった事には苦労する。一年というのはこんなものだ。一生という時間もこんな風に過ぎていくだろう。
かねてからの予定は、全て計画と食い違ってしまうかと思えば、たまには予定通りに行く事もあるから、いよいよ物事というのは定めにくいものだ。予定なんて不定(未定)と考えていれば、実際の現実と大きく異なることはない。


[古文] 第190段:
妻(め)といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるるわざなり。殊なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、苟しくも推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空(なかぞら)にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍らしかりぬべし。

[現代語訳]
妻というのは、男が持つべきものではない。『いつまでも独り者で』などと言われるのは心憎いものであるが、『誰それの婿になった』とか、また、『こういった女を家に連れ込んで、一緒に住んでいる』とか聞くと、その男をやたらと見下げてしまうような気持ちになる。格別の魅力がない女を素晴らしいと思い込んだ上で一緒になったと、無責任にも周囲から推測され、良い女であれば可愛がって自分の守り本尊のように崇め奉ってしまう(尻に敷かれてしまう)。
例えば、妻を持つことをその程度のものだと思ってしまう。更に、家を守って家政を司る女は、非常につまらない人生となる。子どもが出来れば、妻は大切に世話して可愛がるが、これも気分が沈む。夫が亡くなれば、貞節を通して尼となり年を重ねる。男というのは、死んでも妻に干渉しているのがあさましくて興醒めである。
どんな女であっても、朝から晩まで毎日見ていれば、ひどく気に食わないところが出てきて憎くなってしまう。女にとっても、嫌われつつも一緒にいて世話をしなければならない、そんな結婚は中途半端なものになってしまうだろう。他の場所から時々通い住むという通い婚こそ、年月を経ても絶えない男女の仲になるのではないか。不意に男がやって来て、そのまま一泊して帰るのは、きっと女にとっても新鮮な関係になるだろう。


[古文] 第191段:
「夜に入りて、物の映え(はえ)なし」といふ人、いと口をし。万のものの綺羅・飾り・色ふしも、夜のみこそめでたけれ。昼は、ことそぎ、およすけたる姿にてもありなん。夜は、きららかに、花やかなる装束、いとよし。人の気色も、夜の火影ぞ、よきはよく、物言ひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心にくし。匂ひも、ものの音も、ただ、夜ぞひときはめでたき。
さして殊なる事なき夜、うち更けて参れる人の、清げなるさましたる、いとよし。若きどち、心止めて見る人は、時をも分かぬものならば、殊に、うち解けぬべき折節ぞ、褻(け)・晴(はれ)なくひきつくろはまほしき。よき男の、日暮れてゆするし、女も、夜更くる程に、すべりつつ、鏡取りて、顔などつくろひて出づるこそ、をかしけれ。

[現代語訳]
『夜になると、物の見映えがしない』と言う人は、全く残念な美意識の持ち主である。全てのものの美しさ・装飾・色合いなども、夜こそが素晴らしい。昼なんかは簡素で地味な姿でいても良いだろう。夜は、煌びやかで華やかな装束がとても似合って良いのだ。人の気配にしても夜の火影のもとなら、美しい人はさらに美しく見えるし、話している声も、暗い場所で聞いていると、声をひそめる気配りがされているので、心引かれるものがある。匂いも声も、夜の時間帯のほうがひときわ素晴らしい。
取り立てて何という事もない夜、夜更けに参上した人が、とても清らかなすっきりした顔をしているのが良い。若い者同士でお互いを注意して見る時には、時間の区別もなくなってしまうものだが、特に打ち解けあう機会には、ハレとケの区別もせずに身だしなみを整えていて欲しいものだ。身分のある男が、日が暮れてから髪を洗い、女も夜更けに廊下を静かに滑るように退席し、鏡を取って顔(化粧)をつくろってから男の前に再び出る、こういった場面に情趣があるのである。


[古文] 第192段:
神・仏にも、人の詣でぬ日、夜参りたる、よし。

[現代語訳]
神社の神・寺院の仏には、人が詣でる事のない日(神社の祭日や寺院の行事などが無い日)の夜に参るのが良い。


[古文] 第193段:
くらき人の、人を測りて、その智を知れりと思はん、さらに当るべからず。
拙き人の、碁打つ事ばかりにさとく、巧みなるは、賢き人の、この芸におろかなるを見て、己れが智に及ばずと定めて、万の道の匠、我が道を人の知らざるを見て、己れすぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。文字の法師、暗証の禅師、互ひに測りて、己れに如かずと思へる、共に当らず。
己れが境界にあらざるものをば、争ふべからず、是非すべからず。

[現代語訳]
知力のない暗愚な人が他人を推測して、その知性を評価しても、まったく当たるはずがない。知力の乏しい人が自分が碁を巧みに打てるからといって、碁の技芸には劣っている賢い人を見て、こいつは自分よりも知力が劣っていると決め付ける。それぞれの道に通じた専門家(職人)が、他人が自分の専門分野のことを知らないのを見て、自分のほうが優れていると思い込むのは大きな誤りである。経典・文字を専門とする法師、座禅・瞑想に通じた禅師が、お互いに相手の知力を推測して、自分には及ばないと思ったりもするが、これは共に間違っている。
自分の範疇(専門)にないものに対して、争ってはいけないし、是非善悪を論じても仕方が無いのである。


[古文] 第194段:
達人の、人を見る眼は、少しも誤る所あるべからず。
例へば、或人の、世に虚言を構へ出して、人を謀る事あらんに、素直に、実と思ひて、言ふままに謀らるる人あり。余りに深く信を起して、なほ煩はしく、虚言を心得添ふる人あり。また、何としも思はで、心をつけぬ人あり。また、いささかおぼつかなく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じゐたる人あり。また、実しくは覚えねども、人の言ふ事なれば、さもあらんとて止みぬる人もあり。また、さまざまに推し、心得たるよしして、賢げにうちうなづき、ほほ笑みてゐたれど、つやつや知らぬ人あり。また、推し出して、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ、誤りもこそあれと怪しむ人あり。また、「異なるやうもなかりけり」と、手を拍ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりとも言はず、おぼつかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を、初めより心得て、少しもあざむかず、構へ出したる人と同じ心になりて、力を合はする人あり。
愚者の中の戯れだに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、詞にても、顔にても、隠れなく知られぬべし。まして、明らかならん人の、惑へる我等を見んこと、掌の上の物を見んが如し。但し、かやうの推し測りにて、仏法までをなずらへ言ふべきにはあらず。

[現代語訳]
物事の道理を知った達人の人間性を見る目には、少しも誤りがない。
例えば、ある人が、世間に陰謀を企てて、人をだまそうとすると、素直に本当だと信じて言うがままにだまされる人もあれば、余りに深く信じ過ぎて、更に煩わしくも虚言に自分の印象を付け加えてしまう者もある。また、何とも思わないで、虚言を心にもかけない人もいる。また、何でもない下らない話だと思っても、信じるでもなく信じないでもなくで思い悩む人もいる。
また、本当だとは思えないけれど、人の言う事であればそんなこともあるのかなと、そこで考えを止めてしまう人もいる。また、さまざまな推測をして心得たような振りをして、賢そうにうなづきつつ微笑んでいるが、はっきりとは知らない人もいる。また、虚言を推し測って、『あら、そうなのか』と嘘の真相に気づきながらも、自分に誤りがあるかもしれないと疑う人もいる。
また、事が終わってしまった後で、『特にいつもと異なる様子もなかった』と、手を打って笑うような人もいる。また、虚言だと分かってはいてもそれを知ってるとも言わずに、事実がはっきりしない間は、知らない人と同じようにして静かに過ごす人もいる。また、この虚言の本意を初めから心得ていて、真剣に陰謀の首謀者と同じ気持ちになって力を合わせる協力者もいる。
こんな愚か者の戯れですら、物事を良く知った達人の前では、言葉から顔色から全てが隠すこともできずに知られてしまう。こういった達人が、判断に迷っている我等を見る目は、手のひらに載せた物を見るようなものである。ただし、達人であろうとも、このような推測だけで仏法までも虚言と見なしてしまうべきではないだろう(仏法には、衆生救済・解脱を目指すために嘘も方便ということがあるのだから)


[古文] 第195段:
或人、久我縄手(こがなわて)を通りけるに、小袖(こそで)に大口着たる人、木造りの地蔵を田の中の水におし浸して、ねんごろに洗ひけり。心得難く見るほどに、狩衣(かりぎぬ)の男二三人出で来て、「ここにおはしましけり」とて、この人を具して去にけり。久我内大臣殿(こがのないだいじんどの)にてぞおはしける。
尋常におはしましける時は、神妙に、やんごとなき人にておはしけり。

[現代語訳]
ある人が久我縄手の通りを歩いていると、小袖に大口という下着姿の人が、木製の地蔵を田んぼの水に浸しながら丁寧に洗っていた。何をしているのかと不審に思って見ているうちに、貴族の着る狩衣を着た男が二、三人出て来て、『ここにおられましたか』と言うなり、地蔵を洗っていた男を連れて去ってしまった。その人こそ、久我内大臣殿(源通基)でございました。
正気でございました時は、頭もしっかりとしていて身分の高い高貴な方でございましたが。


[古文] 第196段:
東大寺の神輿(しんよ)、東寺の若宮より帰座の時、源氏の公卿参られけるに、この殿、大将にて先を追はれけるを、土御門相国(つちみかどのしょうこく)、「社頭にて、警蹕(けいひつ)いかが侍るべからん」と申されければ、「随身(ずいじん)の振舞は、兵杖(ひょうじょう)の家が知る事に候」とばかり答え給ひけり。
さて、後に仰せられけるは、「この相国、北山抄(ほくざんしょう)を見て、西宮の説をこそ知られざりけれ。眷属の悪鬼・悪神恐るる故に、神社にて、殊に先を追ふべき理あり」とぞ仰せられける。

[現代語訳]
初めは奈良・東大寺にあった手向山八幡宮の御神体を、京都・東寺の若宮八幡宮の御神体にしていたが、その神輿を奈良の東大寺にまで帰座させた事があった。この時に、八幡宮を氏神とする源氏の公卿達が神輿の警護を務めたのだが、その大将・源通基は家来に命じて声を出させて貴人でも通るかのように前を行く人達を人払いした。神輿の行列に付き添っていた土御門相国(源定実)が、大将の源通基に『神社の前で、このような威圧的な警護はいかがなものでしょうか』と申し上げたが、通基は『神をお送りする作法というのは、武家の家柄が知るところのものである』と得意そうに答えるだけであった。
後になって源通基(久我内大臣)がおっしゃったのは、『あの人(源定実)は「北山抄」は読んでいたようだが、西宮の説を知らなかったようだ。神輿につきまとう眷属の悪鬼・悪神を恐れるがために、神社であろうとも人を追い払う道理があるのだ』ということだった。


[古文] 第197段:
諸寺の僧のみにもあらず、定額(じょうがく)の女孺(にょじゅ)といふ事、延喜式に見えたり。すべて、数定まりたる公人(くにん)の通号にこそ。

[現代語訳]
(決まった給与で雇われる)定額僧と呼ばれる者は諸寺の僧侶だけではない、『延喜式』にも『定額の女孺』という言葉があるのを見た。『定額』というのは、定員が定まったすべての役人の通称とすべきではないか。


[古文] 第198段:
揚名介(ようめいのすけ)に限らず、揚名目(ようめいのさかん)といふものあり。政事要略(せいじようりゃく)にあり。

[現代語訳]
決まった任国を持たない名目だけの国司次官である『揚名介』だけではなく、名目だけの国司役人である『揚名目』というものもある。『政事要略』という平安時代の法制についての書物に載っている。


[古文] 第199段:
横川行宣法印(よかわの・ぎょうせんぽういん)が申し侍りしは、「唐土は呂の国なり。律の音なし。和国は、単律の国にて、呂の音なし」と申しき。

[現代語訳]
比叡山延暦寺にある横川で修行していた行宣法印が申したのは、『中国は雅楽の呂旋法の国であり、律の音階がない。日本は、律旋法で雅楽が演奏される国で、呂の音階がない』ということである。


[古文] 第200段:
呉竹(くれたけ)は葉細く、河竹(かわたけ)は葉広し。御溝(みかわ)に近きは河竹、仁寿殿(じじゅうでん)の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。

[現代語訳]
(中国産とされる)呉竹は葉が細く、(日本産とされる)河竹は葉が広い。宮中の庭にある溝に近いのは河竹で、仁寿殿に近い場所に植えられているのは呉竹である。


[古文] 第201段:
退凡(たいぼん)・下乗(げじょう)の卒塔婆(そとば)、外なるは下乗、内なるは退凡なり。

[現代語訳]
『退凡(たいぼん)」と『下乗(げじょう)』の卒塔婆。外にあるのが『下乗』、内にあるのが『退凡』である。
紀元前6世紀、インドの霊鷲山で釈迦牟尼世尊が説法をしたが、その説法を聞くためにマカダ国のビンバシャラ王が山頂への道を開き、その途中に荘厳な卒塔婆を一対建てたのだが、それが『退凡・下乗の卒塔婆』と呼ばれるものである。
『下乗の卒塔婆』というのは、ここから先は神聖な場所になるので、そこから乗物を降りよと指示する卒塔婆であった。『退凡の卒塔婆』とは凡人・凡夫の立ち入りを禁止するという意味の卒塔婆であり、上座部仏教(小乗仏教)の出家者だけが救済されるというエリート主義をイメージさせるものである。


[古文] 第202段:
十月を神無月と言ひて、神事に憚る(はばかる)べきよしは、記したる物なし。本文も見えず。但し、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。
この月、万の神達、太神宮に集り給ふなど言ふ説あれども、その本説なし。さる事ならば、伊勢には殊に祭月とすべきに、その例もなし。十月、諸社の行幸(ぎょうこう)、その例も多し。但し、多くは不吉の例なり。

[現代語訳]
十月を『神無月(かんなづき)』と言うが、神社に神のいない月だとして祭りを遠慮する理由を記した書物はない。古典にもその根拠となるような文書はない。ただし、十月にはどこの神社も祭りを行わないので、神無月と呼ばれるようになったのだろうか。
十月には、全ての神々が伊勢神宮に集まるなどという説もあるが、伊勢に集まるという根拠のある説があるわけではない。神々が集まるのであれば、伊勢神宮では特別な祭りの月とすべきなのにその例もないのだ。十月は、各神社へ天皇がご参拝するという例も多い。だが、その多くは不吉な例である。
現代の通説では、神無月に神々が集まるのは三重県の『伊勢神宮』ではなくて島根県の『出雲大社』であるが、吉田神社の神官の家系でもある兼好法師が、10月に神々が集まる場所を『伊勢神宮』と考えているのが興味深いところである。


[古文] 第203段:
勅勘(ちょっかん)の所に靫(ゆき)懸くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上(しゅじょう)の御悩(ごのう)、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫懸けられたりける神なり。看督長(かどのおさ)の負ひたる靫をその家に懸けられぬれば、人出で入らず。この事絶えて後、今の世には、封を著くる(つくる)ことになりにけり。

[現代語訳]
勅命によって謹慎処分となった者の家には『靫(ゆき:竹や革・銅で作られた矢を入れて背負う入れ物)』をかける作法があったが、今では知る人がない。天皇の御病気の時、あるいは世の中が乱れた時には、五条の天神という神社に靫をかけられる。鞍馬にある靫の明神というのも、靫をかけられた神である。朝廷の警察機構である検非違使庁の看督長が背負った靫を、謹慎中の人物の家に懸ければ、人の出入りは出来なくなるのだ。この罪人(謹慎者)を罰するための制度・慣習は今ではすっかり絶えてしまっているが、今の世(六波羅探題が管轄する武家の世)では、謹慎者の家の門を封印するようになっている。


[古文] 第204段:
犯人を笞(しもと)にて打つ時は、拷器に寄せて結ひ附くる(ゆいつくる)なり。拷器の様も、寄する作法も、今は、わきまへ知れる人なしとぞ。

[現代語訳]
罪を犯した犯人を木の枝で造った鞭でムチ打つ時には、拷問器に寄せて縛りつけるものだ。だが、拷問器の形状も、拷問器に縛りつける方法も、今ではそれを知っている人がもういない(朝廷の検非違使庁が警察として治安を維持する時代が終わりを告げて、幕府の六波羅探題が京都の治安を担当する時代となった)。


[古文] 第205段:
比叡山に、大師勧請(だいしかんじょう)の起請(きしょう)といふ事は、慈恵僧正(じけいそうじょう)書き始め給ひけるなり。起請文といふ事、法曹にはその沙汰なし。古の聖代、すべて、起請文につきて行はるる政はなきを、近代、この事流布したるなり。
また、法令には、水火に穢れを立てず。入物には穢れあるべし。

[現代語訳]
比叡山の開祖である伝教大師・最澄の『霊威の召還』は、慈恵僧正によって始められたと書き伝えられている。神仏や大師を召還する際の契約書である起請文は、召還を実際に行った慈恵僧正以外の僧侶・法師をも縛るものではない。古代の神聖な霊威が残っていた時代には、こういう起請文(誓約書)に基づいて政治を行ったという例はない。最近になって、神仏・大師と契約を交わす起請文が政治・祭祀の場で流行してきたのである。
また、公的な法令では水・火にはケガレを認めない。だが、入れ物にはケガレがあるはずであるという。


[古文] 第206段:
徳大寺故大臣殿、検非違使の別当の時、中門にて使庁の評定行はれける程に、官人章兼(あきかね)が牛放れて、庁の中へ入りて、大理の座の浜床(はまゆか)の上に登りて、にれうちかみて臥したりけり。重き怪異(かいい)なりとて、牛を陰陽師(おんみょうじ)の許へ遣すべきよし、各々申しけるを、父の相国聞き給ひて、「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。オウ弱の官人、たまたま出仕の微牛を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。
「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。

[現代語訳]
今は亡き徳大寺の大臣殿(藤原公孝)が検非違使庁の長官の時に、庁舎の屋敷の中門で検非違使庁の評定が行われたことがあった。その評定の途中で、中原章兼という検非違使の下級役人の牛が牛車から離れて、屋敷の中に入ってしまった。その牛は、評定の座の大臣殿が座る席に上がり、草をくちゃくちゃと反芻しながら横になってしまった。
それを見ていた人たちは、これはめったにない怪異現象だと言って、その牛を陰陽師の元へやるべきだという意見もでた。だが、徳大寺殿の父である徳大寺実基が騒ぎを聞きつけておっしゃった。『牛に分別なんてない。足があればどこへでも登るものだ。微禄の下級役人がたまたま出仕に利用しただけの牛を取りあげることは無いだろう』と。徳大寺殿の父がそう言われるので、その牛は主人に返すことにして、牛が寝て汚れた畳を取り替えるだけで終わらせた。その簡単な対応だけで、何も凶事(悪い事)が起こることも無かった。
『怪しい事象を見ても、怪しまなければ、怪しい事柄は自然に破れる(何も奇妙な凶事は起こらない)』と言うことである。


[古文] 第207段:
亀山殿建てられんとて地を引かれけるに、大きなる蛇(くちなわ)、数も知らず凝り集りたる塚ありけり。「この所の神なり」と言ひて、事の由を申しければ、「いかがあるべき」と勅問ありけるに、「古くよりこの地を占めたる物ならば、さうなく掘り捨てられ難し」と皆人申されけるに、この大臣、一人、「王土にをらん虫、皇居を建てられんに、何の祟りをかなすべき。鬼神はよこしまなし。咎むべからず。ただ、皆掘り捨つべし」と申されたりければ、塚を崩して、蛇をば大井河に流してげり。
さらに祟りなかりけり。

[現代語訳]
亀山殿の屋敷を建設しようとして、土地の地ならしをしていると、大きな蛇が数も数えられないほど沢山寄り集っている塚が見つかった。建設担当の役人は『この蛇は、この土地の神である』と言って工事を中止し、その蛇塚が出てきた状況を後嵯峨院に伝えると、反対に院から『どうしたほうが良いのか』と勅問をされてしまった。
『古くからこの地にいる蛇神ですから、そう簡単には掘り捨てられないでしょう』とみんなが申し上げた。だが、亀山殿の建設責任者である大臣(徳大寺実基)ひとりだけが反対して、『陛下が支配する王土に住んでいる蛇が、どうして皇居を建てているのに祟りを起こすだろうか、いや起こすはずもない。鬼神は邪心を持たず、建設を中断すべきではない。ただみんなで蛇を掘り出して川に流せば良い』と申し上げた。大臣がそう言うので、蛇塚を崩して大量の蛇を大井川に流してしまった。
蛇を川に流したにも関わらず、(大臣の言うとおり)祟りなどは全くなかった。


[古文] 第208段:
経文などの紐を結ふに、上下よりたすきに交へて、二筋の中よりわなの頭を横様に引き出す事は、常の事なり。さやうにしたるをば、華厳院弘舜僧正、解きて直させけり。「これは、この比様(このごろよう)の事なり。いとにくし。うるはしくは、ただ、くるくると巻きて、上より下へ、わなの先を挟むべし」と申されけり。
古き人にて、かやうの事知れる人になん侍りける。

[現代語訳]
仏教のお経など巻物の紐を結ぶのに、上から下へとたすきに交えて二筋の中から、紐の先を横向きに引き出すのは通常よく行われていることだ。ある巻物を、そういう風にして華厳院弘舜僧正が解いて直させた。『この結び方は今風過ぎるので、(伝統が感じられず)相当に醜い。麗しい結び方とは、ただくるくると巻いて、最後に上の紐の先を下に通せば良いだけなのだ』と僧正はおっしゃる。
僧正は古い人であり、(大勢の人が忘れている)こんな事を知っているのである。


[古文] 第209段:
人の田を論ずる者、訴へに負けて、ねたさに、「その田を刈りて取れ」とて、人を遣しける(つかわしける)に、先づ、道すがらの田をさえ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」と言ひければ、刈る者ども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事(ひがごと)せんとて罷る者なれば、いづくをか刈らざらん」とぞ言ひける。
理、いとをかしかりけり。

[現代語訳]
他人の田の所有権を巡って、訴えを起こし負けた者がいた。その残念さと妬ましさで、『その田の稲を刈り取って来い』と、配下の男達に命令した。命じられた男達は、まず通り道にある他の田んぼの稲も刈り取って行く。その横暴を見た百姓達が、『ここは訴訟になっている場所ではないぞ。どうしてこんな事をするのだ』と反論して止めようとしたが、勝手に稲を刈っている男達は、『目指している田んぼの稲だって勝手に刈り取って良いなどという理由はないだろう。これから悪事をしようとして参る者なら、どこだって刈り取っていくものさ』と言う。
こういった理屈は、とても面白い。※この段の逸話は、鎌倉時代末期の地方武士(地侍・国人)の勢力が時に行った『刈田狼藉(かりたろうぜき)』に関するものであり、半農半士の武装勢力が強引に他人の田んぼの稲を刈り取る乱暴を働くことがあったのである。


[古文] 第210段:
「喚子鳥(よぶこどり)は春のものなり」とばかり言ひて、如何なる鳥ともさだかに記せる物なし。或真言書の中に、喚子鳥鳴く時、招魂の法をば行ふ次第あり。これは鵺(ぬえ)なり。万葉集の長歌に、「霞立つ、長き春日の」など続けたり。鵺鳥も喚子鳥のことざまに通いて聞ゆ。

[現代語訳]
『喚子鳥とは春の鳥である』とは言うのだが、どのような鳥であるかについて明確に記した書物はない。ある真言宗の書の中に、喚子鳥が鳴く時に『招魂の法』という秘儀を行う方法が書いてあるが、これは鵺という鳥である。万葉集の長歌に、『霞立つ、長き春日の』などと続けてたりしているので、鵺鳥も喚子鳥の様子に似通って見える鳥なのだと思われる。※現在では、喚子鳥はカッコウのこと、鵺はトラツグミのことだと考えられている。


[古文] 第211段:
万の事は頼むべからず。愚かなる人は、深く物を頼む故に、恨み、怒る事あり。勢ひありとて、頼むべからず。こはき者先づ滅ぶ。財多しとて、頼むべからず。時の間に失ひ易し。才ありとて、頼むべからず。孔子も時に遇はず。徳ありとて、頼むべからず。顔回も不幸なりき。君の寵をも頼むべからず。誅を受くる事速かなり。奴(やっこ)従へりとて、頼むべからず。背き走る事あり。人の志をも頼むべからず。必ず変ず。約をも頼むべからず。信ある事少し。
身をも人をも頼まざれば、是なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右広ければ、障らず、前後遠ければ、塞がらず。狭き時は拉げ(ひしげ)砕く。心を用ゐる事少しきにして厳しき時は、物に逆ひ、争ひて破る。緩くして柔らかなる時は、一毛も損せず。
人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性、何ぞ異ならん。寛大にして極まらざる時は、喜怒これに障らずして、物のために煩はず。

[現代語訳]
あらゆる事は頼りにすべきではない。愚かな人は、他人やモノを強く頼りにし過ぎるので、恨んだり怒ったりすることになってしまう。
勢いがあっても頼りにするな。強い者からまず滅ぶ。財産が多くても頼りにするな。一瞬で金などなくなる。才能があっても頼りにするな。あの孔子さえ時機(好機)には恵まれなかった。徳があっても頼りにするな。顔回さえ不幸な末路に陥った。主人の寵愛も頼りにするな。失敗すれば速やかに罰を受けることになる。従ってくれる家来がいても頼りにするな。裏切って敵に寝返ってしまうことがある。人の心(意志)を頼りにするな。人の不安定な心は必ず変わるものだ。他人との約束を頼りにするな。信義を貫いて約束を守る事など少ない。
自分も他人も頼りにしないなら、良い時には素直に喜べるし、悪くても誰も恨まないで済む。左右が広ければ人の障害にもならず、前後が遠ければ前が塞がれてしまうということもない。狭い場所に人が集まると、互いに押し合い潰し合うことになる。人間関係の中で頭が働かず気持ちに余裕のない厳しい状況では、他人に逆らって争い合うことになり、最後には自分が傷ついてしまう。心が緩やかにリラックスしていて柔軟な思考ができる時には、髪の毛一本さえも傷つけられるということが無いだろう。
人は天地の霊である。天地は無限である。であれば、人の本性も天地と異ならず無限であるだろう。寛大な気持ちで追い詰められていない状況であれば、喜怒の感情に振り回されないし、他人やモノに煩わされることもないのだ。


[古文] 第212段:
秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべき事なり。

[現代語訳]
秋の月は、限りなく美しいものである。いつでも月というものは秋月のようであって欲しいと思い、別の季節の月との区別がつかないような人は、ひどく情けなくて残念だと思う。


[古文] 第213段:
御前の火炉(かろ)に火を置く時は、火箸して挟む事なし。土器より直ちに移すべし。されば、転び落ちぬやうに心得て、炭を積むべきなり。
八幡(やはた)の御幸(ごこう)に、供奉(ぐぶ)の人、浄衣(じょうえ)を着て、手にて炭をさされければ、或有職(ゆうしょく)の人、「白き物を着たる日は。火箸を用ゐる、苦しからず」と申されけり。

[現代語訳]
天皇の火鉢に火を移す時には、火箸を使うということはない。火種にしても、土器からすみやかに移動させることになる。であれば、火種が転び落ちたりしないように初めから炭を高く積んでおくべきだろう。
天皇が石清水八幡宮に出かけられた時に、御供した貴族が、白い浄衣を着て、手で炭を置かれていた。それを見た宮廷の儀礼に詳しいある有職の人が言われた。『白い着物を着ている日であれば、火箸を用いても問題はないのだ』と。


[古文] 第214段:
想夫恋(そうふれん)といふ楽は、女、男を恋ふる故の名にはあらず、本は相府蓮、文字の通へるなり。晋の王倹、大臣として、家に蓮を植ゑて愛せし時の楽なり。これより、大臣を蓮府(れんぷ)といふ。
廻忽(かいこつ)も廻鶻(かいこつ)なり。廻鶻国とて、夷(えびす)のこはき国あり。その夷、漢に伏して後に、来りて、己れが国の楽を奏せしなり。

[現代語訳]
『想夫恋(そうふれん)』という楽曲は、女が夫を恋いしがる故の名前ではない。元々、『相府蓮(そうふれん)』で、文字と音が似通っているものとの混同である。晋の王倹が大臣の時に、家に蓮を植えて愛した時の曲である。これにより、大臣を『蓮府』と呼ぶようになった。
『廻忽(かいこつ)』も『廻鶻(かいこつ)』というのが正しい。廻鶻国という異国で武芸の強い国があった。その国が漢に服従した後に、廻鶻の民が漢にやって来て、自分の国の音楽を演奏したということである。※王倹が実際に仕えたのは晋ではなくて宋や斉であり、この段落では幾つかの『史実の誤り』も指摘されている。


[古文] 第215段:
平宣時朝臣(たいらののぶとき・あそん)、老の後、昔語に、「最明寺入道、或宵の間に呼ばるる事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、また、使来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様なりとも、疾く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのままにて罷りたりしに、銚子に土器取り添へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭さして、隅々を求めし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。

[現代語訳]
鎌倉幕府の重臣・大仏宣時が、老いてから昔話をした。『ある日の夕暮れに、執権の最明寺入道様(北条時頼)に呼ばれた。「すぐに参ります」と使者には伝えながらも、拝謁するのにふさわしい直垂がない。あれこれとしているうちに、また最明寺入道様の使者が来て、「直垂などがございませんか。夜なので変な格好でも良いから早く来てください」と言う。なので、よれよれの直垂で家にいたままの普段着の格好で参上すると、入道様は銚子とお猪口を取り揃えて待っていた。
『この酒を独りで飲むのが寂しくて、貴公を呼んだのである。だが、酒の肴がない。人はもう寝静まっているので、何か肴にふさわしいものがないか、どこまでも探してきて貰えないだろうかとおっしゃる。紙燭を灯して隅々まで探し求めるうちに、台所の棚の上に、味噌の少しついた素焼きの器を見つけ出した。「探していると、これを見つけました」と申し上げると、「この味噌で十分である」と言って、気持ちよく何杯かお酒を飲み、興に乗られました。あの時代は、そんなものだったなあ』と大仏宣時は申された。


[古文] 第216段
最明寺入道、鶴岡の社参の次に、足利左馬入道の許へ、先づ使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献に打ち鮑(あわび)、二献に海老、三献にかひもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正、主方の人にて座せられけり。さて、「年毎に給はる足利の染物、心もとなく候ふ」と申されければ、「用意し候ふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖に調ぜさせて、後に遣されけり。
その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。

[現代語訳]
鎌倉幕府の執権・北条時頼が、鶴岡八幡宮に参拝したついでに、御家人の足利左馬入道の屋敷にまずは使いを送って、その後に立ち寄られた。時頼様が主賓としてもてなされた時の献立は、一献にあわび、二献は海老、三献にかい餅という感じで終わった。その座には、亭主夫婦だけでなく、隆辨僧正(りゅうべんそうじょう)も主方の人として座っていた。さて、時頼様が、『毎年頂いている足利の染物が、待ち遠しく思われます』と申されると、足利左馬入道は『既に用意してございます』と返し、色々な染め物を三十反、それを目の前で女房どもに小袖に仕立てさせて後で贈られた。
それを実際に見た人が、最近までいらっしゃったので、その人から伝え聞いた話である。


[古文] 第217段:
或大福長者(だいふくちょうじゃ)の云はく、「人は、万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては、生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかんと思はば、すべからく、先づ、その心遣ひを修行すべし。その心と云ふは、他の事にあらず。人間常住の思ひに住して、仮にも無常を観ずる事なかれ。これ、第一の用心なり。次に、万事の用を叶ふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に随ひて(したがいて)志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、暫くも住すべからず。所願は止む時なし。
財は尽くる期(ご)あり。限りある財をもちて、限りなき願ひに随ふ事、得べからず。所願心に萌す事あらば、我を滅すべき悪念来れりと固く慎み恐れて、小要をも為すべからず。次に、銭を奴の如くして使ひ用ゐる物と知らば、永く貧苦を免るべからず。君の如く、神の如く畏れ尊みて、従へ用ゐる事なかれ。次に、恥に臨むといふとも、怒り恨むる事なかれ。次に、正直にして、約を固くすべし。この義を守りて利を求めん人は、富の来る事、火の燥ける(かわける)に就き、水の下れるに随ふが如くなるべし。銭積りて尽きざる時は、宴飲・声色を事とせず、居所を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く、楽し」と申しき。
そもそも、人は、所願を成ぜんがために、財を求む。銭を財とする事は、願ひを叶ふるが故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。何をか楽しびとせん。この掟は、ただ、人間の望みを断ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。欲を成じて楽しびとせんよりは、如かじ、財なからんには。癰(よう)・疽(そ)を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんには如かじ。ここに至りては、貧・富分く所なし。究竟(くきょう)は理即(りそく)に等し。大欲は無欲に似たり。

[現代語訳]
ある大富豪が次のように言った。『人は全てを差し置いて、ただひたすらに富(利益)を得られるほうにつくべきである。貧しくては生きている甲斐もない。富める者のみが人なのである。得をしたいのであれば、まずその心の使い方を磨くべきだ。その心というのは他でもない。人や世の中はいつも同じ状態に落ち着いていて簡単には変化しないという考えをしっかりと持ち、仏教的な智慧・悟りなど働かせて世の中の無常を観照(達観)したりしてはいけない。これが第一の用心である。次に全ての用事を思い通りに終わらせてはいけない。この世の欲望というのは、私でも他の人でも無限である。欲に従って志を遂げようと思うのであれば、百万の金銭があっても暫く休む暇さえない。欲は尽きることがないが、財産のほうは無くなってしまう。
限られた財産で、無限の欲望を満たそうとしてもそれは不可能である。欲望が心に生まれたならば、我が身を滅ぼす悪い思念が起こったと解釈して、自分の欲望を慎み恐れて、小さな用事であっても金銭を使ってはいけない(ケチであるべきだ)。次に、金銭を奴婢のように自分勝手に使うものと考えるならば、永遠に貧苦から抜け出ることはできないということだ。主君のように、神のように畏怖して尊び、自分自身のほうが金に仕えるのだ。次に金銭のことで恥をかいても、怒ったり恨んだりしてはいけない。次に、正直に生きて、約束を守ること。これらの正しい道理を守って利益を求める人は、富が向こうからやってくることは、火が乾いた方角に燃えていき、水が低い方向に流れていくのと同じようなものである。お金が貯まって無くならないという時には、宴会や女の色香がなく住居を飾り立てず、欲望を満たさなくても、お金が多くあるというだけで心は常に安らいで楽しいのだ』と。
だが、そもそも人は、自分の欲望を満たすために金を求めるものだ。金銭を価値あるものとするのは、金銭で願いを叶えることができるからである。欲望があっても叶えず、金があっても使わないというのは、全く貧者と同じではないか。ただ延々と金だけ貯めて、何を楽しみにするというのか。この金を貯める話は、自分の欲望を断ち切って、苦労を恐れるなという風に聞こえる。欲望を満たして楽しみとするのは、財産がないということには及ばない。悪性の腫物(皮膚疾患)を患っている者が、水で体を洗うのを楽しみとするよりは、初めから皮膚疾患を病まないほうが良い。ここに至っては、富者と貧者の区別(貧富の格差)が無くなってしまう。菩薩の悟りの段階で最高の悟りに当たる『究竟』は、初期の悟りの入り口に過ぎない『理即』と等しい。大欲というのは、無欲に似ているのである。


[古文] 第218段:
狐は人に食ひつくものなり。堀川殿にて、舎人(とねり)が寝たる足を狐に食はる。仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師に、狐三つ飛びかかりて食ひつきければ、刀を抜きてこれを防ぐ間、狐二疋を突く。一つは突き殺しぬ。二つは逃げぬ。法師は、数多所食はれながら、事故なかりけり。

[現代語訳]
狐は人に噛み付くものである。堀川様の屋敷(大納言・久我通具の子孫が住んだ屋敷)で、番人が寝ていたら足を狐に噛まれた。夜に仁和寺で本殿の前を通った下働きの法師に、狐が三匹飛び掛ってきて噛み付いた。法師は刀を抜いてこれを防ぎ、狐二匹を刀で突いた。一匹は突き殺したが、それ以外の二匹は逃げてしまった。法師は、数ヶ所を狐に噛まれながらも、(生命に別状は無く)大事に至らなかった。


[古文] 第219段:
四条黄門(しじょうのこうもん)命ぜられて云はく、「竜秋(たつあき)は、道にとりては、やんごとなき者なり。先日来りて云はく、『短慮の至り、極めて荒涼の事なれども、横笛の五の穴は、聊か(いささか)いぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。その故は、干(かん)の穴は平調(ひょうちょう)、五の穴は下無調(しもむちょう)なり。その間に、勝絶調(しょうぜつちょう)を隔てたり。上の穴、双調(そうちょう)。次に、鳧鐘調(ふしょうちょう)を置きて、夕(さく)の穴、黄鐘調(おうじきちょう)なり。その次に鸞鏡調(らんけいちょう)を置きて、中の穴、盤渉調(ばんしきちょう)、中と六とのあはひに、神仙調(しんせんちょう)あり。かやうに、間々に皆一律をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子を持たずして、しかも、間を配る事等しき故に、その声不快なり。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物に合はず。吹き得る人難し』と申しき。料簡(りょうけん)の至り、まことに興あり。先達、後生を畏ると云ふこと、この事なり」と侍りき。
他日に、景茂(かげもち)が申し侍りしは、「笙(しょう)は調べおほせて、持ちたれば、ただ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴毎(ごと)に、口伝の上に性骨(しょうこつ)を加へて、心を入るること、五の穴のみに限らず。偏(ひとえ)に、のくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も心よからず。上手はいづれをも吹き合はす。呂律(りょりつ)の、物に適はざるは、人の咎(とが)なり。器の失にあらず」と申しき。

[現代語訳]
四条の黄門様(南朝の重臣・藤原隆資)がなんとなく語られた。『笙(しょう)の名人の豊原竜秋は、音楽の道に関しては素晴らしい人物である。先日、竜秋が来て次のように言っていたよ。「短慮の至りであって極めて口にしにくいことですが、横笛の五の穴には、いささか疑問点がございます。その理由は、干の穴は平調、五の穴は下無調。その間に、勝絶調を隔てて上の穴が双調、次に鳧鐘調を置いて、夕の穴は黄鐘調となります。その次に鸞鏡調を置いて、中の穴が盤渉調、中と六とのあいだに、神仙調というのがあります。このように横笛の吹き口は、みんな一律に調子を揃えているのですが、五の穴のみが上の間に調子を持たず、吹き口の間隔だけは他の穴と等しいので、その声色が不快になりがちなのです。なので、この穴を吹く時には、必ず口を退けます。退けないと、他の楽器に合わないのです。五の穴を適切に吹ける人は滅多にいません」と申していた。本当に簡潔で優れた意見であり、強く興味を引かれる。先達が後生を畏れるとは、この事であるな』と申した。
その話を聞いていた大神景茂(おおみわのかげもち)が後日に言った。『笙なら調律さえ合わせれば、後はただ吹くだけだ。横笛は、吹きながら調律を合わせて調べていくものだ。なので、その穴ごとに口伝の教えがあるだけではなく、吹き手の生来の勘を加えて吹かなければならない。その勘の働かせ方は、五の穴のみに限らないし、口を退けるばかりとも限らないのだ。悪く吹けば、どの穴も良くない音がする。上手な名人ならば、どの音も吹いて合わせることができる。調子が他の楽器と合わないのは、奏者の責任であって、楽器のせいではない』と申した。


[古文] 第220段:
「何事も、辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」と云ふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「当寺の楽は、よく図を調べ合はせて、ものの音のめでたく調り(ととのおり)侍る事、外よりもすぐれたり。故は、太子の御時の図、今に侍るを博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。その声、黄鐘調(おうじきちょう)の最中なり。寒・暑に随ひて上り・下りあるべき故に、二月涅槃会(ねはんえ)より聖霊会(しょうりょうえ)までの中間を指南とす。秘蔵の事なり。この一調子をもちて、いずれの声をも調へ侍るなり」と申しき。
凡そ(およそ)、鐘の音は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らる(いらる)べしとて、数多度(あまたたび)鋳かへられけれども、叶はざりけるを、遠国より尋ね出されけり。浄金剛院(じょうこんごういん)の鐘の音、また黄鐘調なり。

[現代語訳]
『何につけても京都から離れた辺境の土地は下品で粗野であるけれど、天王寺の舞楽のみは都に負けていない』と言う。それを聞いた天王寺の楽人が申すには、『私どもの寺の舞楽は図竹を使って調律を合わせており、楽器の音の調律が綺麗に整っているという点において、他よりも優れています。理由は、聖徳太子の時代からの調律の秘策である図竹(調律合わせのための笛)を今に残していて、基準にしているからです。いわゆる六時堂の前にある鐘の音を調律に使います。その鐘の音の音程は、『黄鐘調』そのものです。寺の鐘は暑さ・寒さで伸び縮みするので、音程にも上り下りがあります。それで二月の涅槃会より聖霊会までの間の音を標準としているのです。これが秘蔵の調律合わせの方法です。ただこの一調子のみを用いて、全ての楽器の調律を合わせることができます』と申し上げた。
およそ、鐘の音というのは『黄鐘調』であるべきだ。これは、無常の調子であり祇園精舎の無常院の音色でもある。西園寺の鐘も黄鐘調になるように鋳られたが、何度も鋳かえたけれども出来なくて、結局は遠国より探し出した鐘を使うことになった。浄金剛院の鐘の音も、また黄鐘調の音程になっている。


[古文] 第221段:
「建治・弘安の比は、祭の日の放免の附物に、異様なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾・髪には燈心をして、蜘蛛の網書きたる水干に附けて、歌の心など言ひて渡りし事、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志どもの、今日も語り侍るなり。
この比は、附物、年を送りて、過差殊の外になりて、万の重き物を多く附けて、左右の袖を人に持たせて、自らは鉾をだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し。

[現代語訳]
『後宇多天皇の御世である建治・弘安の頃は、賀茂祭の日に無罪放免された罪人が行列して余興をするが、あの頃は変わった紺色の布、四・五反ほどで馬を作り、馬の尾や鬣(たてがみ)にろうそくを灯し、蜘蛛の巣の柄(デザイン)の水干にその飾り馬をつけたのを着ていた。歌の心などと言って賀茂祭に参加していたが、祭りの時にいつも見ている光景ではあるが、実に興趣のあることをしているなという気持ちであった』と、年老いた役人たちが今でも語っている。
最近の賀茂祭は、年ごとに飾りが過剰になっており、放免たちは色々と重い飾りを多く身に付けている。袖の左右を人に持たせて、鉾さえ持てずに息を切らして苦しんでる有様というのは非常に見苦しいものではある。


[古文] 第222段:
竹谷乗願房(たけたにのじょうがんぼう)、東二条院へ参られたりけるに、「亡者の追善には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明真言(こうみょうしんごん)・宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念仏に勝る事候ふまじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「我が宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、正しく、称名を追福に修して巨益あるべしと説ける経文を見及ばねば、何に見えたるぞと重ねて問はせ給はば、いかが申さんと思ひて、本経の確かなるにつきて、この真言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。

[現代語訳]
竹谷上人が、東二条院様(後深草天皇の皇后)の元へ参られた時に皇后から、『亡き人の供養で、勝利・成仏につながるお経はないものでしょうか?』と尋ねられた。『光明真言の宝篋印陀羅尼でございます』と答えたが、弟子たちは『どうしてこのように申し上げなかったのですか。なぜ念仏に勝るものなどないということを言わなかったのですか』と質問した。
『もちろん、「南無阿弥陀仏」はうちの浄土宗だから、そう言いたかったところなんだけど、「南無阿弥陀仏」で死者を成仏させた上で更に大きな利益まであると書いた経文は見たことがない。どの経典にそんな事が書いてあるのかと質問されたら、何と答えれば良いのかと思って、根拠とする原典が確かな「真言の陀羅尼」を勧めたわけだ』と申した。


[古文] 第223段:
鶴(たづ)の大臣殿は、童名(わらわな)、たづ君なり。鶴を飼ひ給ひける故にと申すは、僻事(ひがこと)なり。

[現代語訳]
鶴の大臣(九条基家)は幼い頃に『鶴君』と呼ばれた。鶴を飼っていたから鶴大臣だというのは間違いである。


[古文] 第224段:
陰陽師有宗入道(ありむねにゅうどう)、鎌倉より上りて、尋ねまうで来りしが、先づさし入りて、『この庭のいたづらに広きこと、あさましく、あるべからぬ事なり。道を知る者は、植うる事を努む。細道一つ残して、皆、畠(はたけ)に作り給へ』と諌め侍りき。
まことに、少しの地をもいたづらに置かんことは、益なき事なり。食ふ物・薬種など植ゑ置くべし。

[現代語訳]
陰陽師の安倍有宗(あべのありむね)が、鎌倉より京に上ってきて我が家(兼好の家)に訪ねて来られた。まず家に入ってきて、『この家の庭はいたずらに広くて、みっともないものである。道を知る者ならば、まず作物を植えるように努める。細い道一つを残してみんな畑にしてはどうか』と諌められた。
確かに、少しの土地でもいたずらに広く置いておくことは無益(欲深)である。野菜や薬草でも植えておいたほうが良い(そちらのほうがまだ有益だ)。


[古文] 第225段:
多久資(おおのひさすけ)が申しけるは、通憲入道(みちのりにゅうどう)、舞の手の中に興ある事どもを選びて、磯の禅師といひける女に教えて舞はせけり。白き水干(すいかん)に、鞘巻(さやまき)を差させ、烏帽子(えぼし)を引き入れたりければ、男舞とぞ言ひける。禅師が娘、静と言ひける、この芸を継げり。これ、白拍子(しらびょうし)の根元なり。仏神の本縁を歌ふ。その後、源光行、多くの事を作れり。後鳥羽院の御作(ごさく)もあり、亀菊(かめぎく)に教えさせ給ひけるとぞ。

[現代語訳]
多久資という朝廷に勤めた楽人が申し上げるには、通憲入道が舞いの中から特に面白いのを選び、後に『磯の禅師(静御前の母親)』と呼ばれることになる妻に教えて舞わせたという。この時の舞いの衣装は、男物の白い着物の水干であり、腰に刀を差して、長い髪を烏帽子に引き入れていたので『男舞』と言われた。磯の禅師の娘は静御前(源義経の愛人)といって、この芸を引き継いだ。これが『白拍手』という舞いの元祖なのである。神仏の由来を歌いながら舞うものだ。その後、源光行が多くの舞いを創作した。後鳥羽院も多くの舞いを作り、愛妾の『亀菊(承久の乱の一因になったとも言われる女性)』に教えられたということである。


[古文] 第226段:
後鳥羽院の御時、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、稽古の誉(ほまれ)ありけるが、楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚(じちんおしょう)、一芸ある者をば、下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(ふち)し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゆしく書けり。九郎判官(くろうほうがん)の事は委しく(くわしく)知りて書き載せたり。蒲冠者(かばのかんじゃ)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業(わざ)は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。

[現代語訳]
後鳥羽院の御時、信濃の国司であった中山行長は、学問の道での誉れが高かった。しかし、『白氏文集』の論議の席において意見を求められた時に『七徳の舞』のうちの二つを忘れてしまい、『五徳の冠者』という不名誉な渾名を付けられてしまった。行長はそのことを悩んでしまい、学問を捨てて遁世してしまった。慈鎮和尚は、一芸ある者を厚遇しており、身分の低い者でも技能がある者であれば召しかかえた。そして、この信濃の出家者である行長も召しかかえて面倒を見たのである。
この行長入道が『平家物語』を作って、生仏という名の盲目の法師に教えて語らせた。さて、山門(比叡山延暦寺)の事は格別に詳しく書けた。九郎判官(源義経)の事は詳しく知っていて書き記しているが、蒲冠者(源範頼)の事はよく知らなかったのだろうか、多くの事を書き漏らしている。武士のこと、弓馬の道については、生仏が東国の生まれであることもあり、武士に詳しく聞いてから書いたのだろう。その生仏の生れつきの声を、今の琵琶法師は学んでいるのである。


[古文] 第227段:
時礼讃(ろくじらいさん)は、法然上人の弟子、安楽といひける僧、経文を集めて作りて、勤めにしけり。その後、太秦善観房(うずまさのぜんかんぼう)といふ僧、節博士(ふしはかせ)を定めて、声明(しょうみょう)になせり。一念の念仏の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讃(ほうじさん)も、同じく、善観房始めたるなり。

[現代語訳]
六時礼讃(一日を六時に分けてその度に極楽往生の讃文を唱える浄土門の方法)は、法然上人の弟子の安楽という僧が経文を集めて作って、お勤めしたものである。その後、太秦の善観房という僧が音楽的な節や調子を定めて声明にしたのである。一念の念仏の最初とされる。後嵯峨院の御代よりこれは始まった。法事讃(浄土転経行道の法則を明らかにした方法)も、同じく善観房が始めたものである。


[古文] 第228段:
千本の釈迦念仏は、文永の比(ころ)、如輪上人(にょりんしょうにん)、これを始められけり。

[現代語訳]
千本(京都市上京区千本にある瑞応山大報恩寺)の釈迦念仏(南無釈迦牟尼仏と唱える念仏)は、文永の頃に如輪上人が始められたものである。


[古文] 第229段:
よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ。妙観(みょうかん)が刀はいたく立たず。

[現代語訳]
小さな器具を巧みに製作する職人は、少し切れ味の鈍い刃物を使う。彫刻の名人の妙観の小刀はまるで切れないという。


[古文] 第230段:
五条内裏には、妖物(ばけもの)ありけり。藤大納言殿(とうのだいなごんどの)語られ侍りしは、殿上人ども、黒戸にて碁を打ちけるに、御簾(みす)を掲げて見るものあり。『誰そ』と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さし覗きたるを、『あれ狐よ』とどよまれて、惑ひ逃げにけり。
未練の狐、化け損じけるにこそ。

[現代語訳]
五条の内裏には妖怪がいた。藤の大納言様(二条為世)が語られるには、夜に黒戸で殿上人たちが碁を打っていると、御簾をかかげて覗いているものがいる。『誰だ?』とそちらの方向を見てみると、狐が人のように突っ立って覗いていた。『あれは狐だ』と大声でみんなが騒いで逃げていった。
(化ける技術が)未熟な狐が、化け損じたらしい。


[古文] 第231段:
園の別当入道は、さうなき庖丁者(ほうちょうしゃ)なり。或人の許にて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の包丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかがとためらひけるを、別当入道、さる人にて、『この程、百日の鯉を切り侍るを、今日欠き侍るべきにあらず。枉げて申し請けん』とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、『かやうの事、己れはよにうるさく覚ゆるなり。「切りぬべき人なくは、給べ(たべ)。切らん」と言ひたらんは、なほよかりなん。何条、百日の鯉を切らんぞ』とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。
大方、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人(まれびと)の饗応(きょうおう)なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、ただ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。

[現代語訳]
園の別当入道(1234年に24歳で出家した藤原基氏)は、比類のない庖丁人である。ある人の屋敷で立派な鯉がでてきた時に、みんなが別当入道の包丁捌きを見たいと思ったが、名人にたやすく匠の技の披露を求めるのもいかがなものかと躊躇う中、当の別当入道はさりげなく、『最近、百日にわたって鯉を切り続けているので、今日も欠かすべきではない。是非ともその鯉を申し受けたいと思います』とおっしゃって鯉を切られた。とても自然で素晴らしい振舞いだとその場にいた人たちは興趣を感じた。ある人が、この話を北山の太政入道殿(西園寺実兼)に語ったところ、『そのような話は、自分にはとても煩わしく回りくどいもののように思える。「切る人がいないのならば、私が鯉を切りましょう」とでも言っていれば更に良かったのに。どうして、百日の鯉を切ろうなどと言ったのだろうか』とおっしゃっていたので、それを聞いた人が面白い話だと語ったのだが、確かに面白い言い分である。
大体、日常生活では特別な感じに振る舞って趣きがあるようにするよりも、趣きなどがなくても安らかな方が勝っているのだ。客人をもてなす饗応でも、大げさな接待もまことに結構なことだけれども、ただ特別な事をせずに客人の前に料理を並べるだけのほうが(気疲れしなくて)とても良い。人に物を上げる場合でも、何かのついでじゃなくて『これをあげる』とでも言ったほうが真心が伝わる。惜しむふりをしてそれが欲しいと言われたくなったり、勝負の負けを理由にして上げるなどのこともあるが、人に自然に嫌味(負担)なく物を上げるというのは難しい。


[古文] 第232段:
すべて、人は、無智・無能なるべきものなり。或人の子の、見ざまなど悪しからぬが、父の前にて、人と物言ふとて、史書の文を引きたりし、賢しくは聞えしかども、尊者の前にてはさらずともと覚えしなり。また、或人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて琵琶を召し寄せたるに、柱の一つ落ちたりしかば、『作りて附けよ』と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、『古き柄杓の柄ありや』など言ふを見れば、爪を生ふ(おう)したり。琵琶など弾くにこそ。盲法師(めくらほうし)の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。道に心得たる由にやと、かたはらいたかりき。『柄杓の柄は、檜物木とかやいひて、よからぬ物に』とぞ或人仰せられし。
若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

[現代語訳]
すべての人間は、学問がなくて芸能がないくらいのほうが良いものなのだ。ある人の子供が、外見は悪くないのだが、父親の前で父の客人と議論していた。『史書』の文を引用したりして賢くは見えたのだけれど、目上の人の前で知識自慢をするのは如何なものかと思った。また、ある人の家で、琵琶法師の弾き語りでも聞こうと思って、まず琵琶を召し寄せたのだが、その琵琶の弦の支柱が一つ落ちていて弾くことができず、『作ってつけよ』と主人が言った。ある男たちの中で身分が低くないように見える男が、『古い柄杓の柄はあるか?』などと言うから見てみると爪を長く伸ばしている。いかにも琵琶を弾きそうな感じである。盲目の法師の弾く琵琶には、そんな処置の仕方などは必要ない。琵琶の道を心得た振りをしているだけかと片腹痛かった。『柄杓の柄は、檜物の木で良くないものだ』とある人もおっしゃっていたのだが。
(老人にとっては)若い人のやる事は、少しのことであっても、よく見えたり悪く見えたりするものなのだ。


[古文] 第233段:
万の咎(とが)あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女・老少、皆、さる人こそよけれども、殊に、若く、かたちよき人の、言うるはしきは、忘れ難く、思ひつかるるものなり。
万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所得たる気色して、人をないがしろにするにあり。

[現代語訳]
あらゆる事で他人の非難を受けないようにしようと思うならば、何事も実直にして、人を区別せずに礼儀正しく振る舞い、多くを語り過ぎない事が大切だ。老若男女に関係なくみんな平等にというのが理想ではあるが、特に若くて外見の美しい人の言葉の麗しさは、忘れ難いもので、心が惹きつけられるものである。
物事の失敗の要因は、(本当は大したことがないのに)物事に習熟している振りをして自慢したり、高い地位を得て得意そうな行動をし、人を軽く見て侮るところにあるのである。


[古文] 第234段:
人の、物を問ひたるに、知らずしもあらじ、ありのままに言はんはをこがましとにや、心惑はすやうに返事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うららかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。
人は未だ聞き及ばぬ事を、我が知りたるままに、『さても、その人の事のあさましさ』などばかり言ひ遣りたれば、『如何なる事のあるにか』と、押し返し問ひに遣るこそ、心づきなけれ。世に古り(ふり)ぬる事をも、おのづから聞き洩すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに告げ遣りたらん、悪しかるべきことかは。
かやうの事は、物馴れぬ人のある事なり。

[現代語訳]
人から質問をされた時に、こんな事を知らないはずもない、ありのままに言うのも馬鹿げていると思い、相手を惑わせるような曖昧な返事を事がある。これは良くない事だ。人は自分が知っている事であっても、なおその知識を確かなものにしたいと思って質問することがある。また、本当に常識的なことを知らない人もいないわけではない。知っていることを簡単に言い聞かせるならば、相手に素直な意見として聞いてもらうことができる。
人がまだ聞き及ばないことを自分が知っていると、つい自分が知っていることのままに、『それにしても、あの人の事件の驚いた事といったら』などと曖昧なかたちで言ってしまうものだ。『どのような事件だったのでしょうか』と、詳しく聞き返さなければならない相手の立場からすると、(はっきりしない曖昧なほのめかしは)不快で面白くなかったりする。世間で言い古されている古い情報であっても、何となく聞き漏らしてしまう事だってあるのだから、誰にでも分かるように丁寧に語り聞かせる事は悪いことであろうか、いや悪いことではない。
曖昧なほのめかしのような物の言い方は、自分自身もそのことについて余り詳しくない人が良くする言い方である。


[古文] 第235段:
主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来る事なし。主なき所には、道行人(みちゆきびと)濫り(みだり)に立ち入り、狐・梟やうの物も、人気に塞かれ(せかれ)ねば、所得顔に入り棲み、木霊など云ふ、けしからぬ形も現はるるなり。
また、鏡には、色・像(かたち)なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。
虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあ らん。心に主あらましかば、胸の中に、若干(そこばく)の事は入り来らざまし。

[現代語訳]
主人がいる家には、無関係な人が気ままに入って来るという事はない。主人のいない家には、道行く人もむやみに立ち入るし、狐やフクロウみたいな動物も人気がない家には、棲家を得たという顔をして入り棲むことになる。更には、木霊などという怪しい霊魂まで現われることになる。
また、鏡には、色も形態もないからこそ、すべての影が映るのだ。鏡に色や形があれば、なにも映らないだろう。
空っぽの虚空はよく物を含むことができる。私たちの心には様々な思念・感情が浮かんでは消えるが、これは心が虚空だからであろうか。心に主人がいるならば、胸の内に、若干の些末な事(様々な感情・思念)は入って来れないはずだが。


[古文] 第236段:
丹波に出雲と云ふ所あり。大社(おおやしろ)を移して、めでたく造れり。しだの某とかやしる所なれば、秋の比、聖海上人(しょうかいしょうにん)、その他も人数多誘ひて、『いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん』とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゆしく信(しん)起したり。
御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、『あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん』と涙ぐみて、『いかに殿原、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり』と言へば、各々怪しみて、『まことに他に異なりけり』、『都のつとに語らん』など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、『この御社の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承らばや』と言はれければ、『その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり』とて、さし寄りて、据ゑ直して、往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

[現代語訳]
丹波(京都府亀岡市千歳町)に出雲という場所がある。島根県の出雲大社が神霊を勧請して、新たな社殿を築いた。丹波の領主・志田の何とかいう男が、秋の頃に、都の聖海上人やその他大勢の人達を出雲に誘い、『どうぞいらっしゃって下さい、出雲を拝みに。かいもちをご馳走しましょう』と言った。聖海上人やその他の人たちは、丹波の領主に付いていって出雲まで行き、それぞれ礼拝して、強い信仰心を起こす事になった。
社殿の前にある獅子や狛犬は普通は向き合って置かれているものだが、出雲大社の狛犬は互いに後ろ向きで置いてあった。これを見た聖海上人は酷く感動して、『あぁ、珍しい。この獅子の立ち方はとても珍しいものだ。何か深い由縁があるのだろう』と涙ぐんだ。『皆さん、こんな珍しいものに気づかないんですか。これを見て何も思わないのであれば残念なことです』と言った。それを聞いたみんなは確かに不思議な獅子の置き方だと思い、『本当に他とは違う置き方ですね』、『都への土産話として語りましょう』などと言う。
聖海上人はその由縁を知りたいと思い、年寄りの物知りそうな神官を呼んで、『御社の獅子の立て方は、慣例の定めに従ってないですよね。ちょっとその由縁を聞かせて頂きたい』と質問したが、『その事でございますか。どうしようもない子ども達の悪戯ですよ、怪しからんことです』と答えた。そう言って、獅子の近くに寄って、正しい向き方に置き直して、立ち去ってしまったので、聖海上人の感涙は無駄になってしまった。


[古文] 第237段:
柳筥(やなぎばこ)に据うる物は、縦様・横様(たてさま・よこさま)、物によるべきにや。『巻物などは、縦様に置きて、木の間より紙ひねりを通して、結ひ附く。硯も、縦様に置きたる、筆転ばず、よし』と、三条右大臣殿仰せられき。
勘解由小路(かでのこうじ)の家の能書(のうじょ)の人々は、仮にも縦様に置かるる事なし。必ず、横様に据ゑられ侍りき。

[現代語訳]
柳箱(柳の木を広さ五分ほどに三角に削って作った筆・硯・書物などを置く台)に物を置く時に縦にするか、横にするかは、物によって変わってくる。『巻物などは縦に置けば木の間から、こより(紙縒り)を通して結びつけられる。硯も縦に置けば筆が転ばなくてよい』と三条の右大臣殿(三条実重)は仰られた。
書道で有名な勘解由小路家で書に優れた人たちは、仮にも縦に置くことがない。必ず、硯は柳箱を横にして置かれていた。


[古文] 第238段:
御随身近友(みずいじん・ちかとも)が自讃とて、七箇条書き止めたる事あり。皆、馬芸、させることなき事どもなり。その例を思ひて、自讃の事七つあり。
一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の辺にて、男の、馬を走らしむるを見て、『今一度馬を馳するものならば、馬倒れて、落つべし。暫し見給へ』とて立ち止りたるに、また、馬を馳す。止むる所にて、馬を引き倒して、乗る人、泥土の中に転び入る。その詞の誤らざる事を人皆感ず。
一、当代未だ坊におはしましし比、万里小路殿御所なりしに、堀川大納言殿伺候し給ひし御曹子(みぞうし)へ用ありて参りたりしに、論語の四・五・六の巻をくりひろげ給ひて、『ただ今、御所にて、「紫の、朱奪ふことを悪む」と云ふ文を御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり。「なほよく引き見よ」と仰せ事にて、求むるなり』と仰せらるるに、『九の巻のそこそこの程に侍る』と申したりしかば、『あな嬉し』とて、もて参らせ給ひき。かほどの事は、児どもも常の事なれど、昔の人はいささかの事をもいみじく自讃したるなり。後鳥羽院の、御歌に、『袖と袂と、一首の中に悪しかりなんや』と、定家卿に尋ね仰せられたるに、『「秋の野の草の袂か花薄穂(はなずすきほ)に出でて招く袖と見ゆらん」と侍れば、何事か候ふべき』と申されたる事も、『時に当りて本歌を覚悟す。道の冥加なり、高運なり』など、ことことしく記し置かれ侍るなり。九条相国伊通公(これみちこう)の款状にも、殊なる事なき題目をも書き載せて、自讃せられたり。
一、常在光院(じょうざいこういん)の撞き鐘の銘は、在兼卿(ありかねのきょう)の草なり。行房朝臣(ゆきふさのあそん)清書して、鋳型に模さんとせしに、奉行の入道、かの草を取り出でて見せ侍りしに、『花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ』と云ふ句あり。『陽唐の韻と見ゆるに、百里誤りか』と申したりしを、『よくぞ見せ奉りける。己れが高名なり』とて、筆者の許へ言ひ遣りたるに、『誤り侍りけり。数行と直さるべし』と返事侍りき。数行も如何なるべきにか。若し数歩の心か。おぼつかなし。 数行なほ不審。数は四五也。鐘四五歩 不幾也(いくばくならざるなり)。ただ、遠く聞こゆる心也。
一、人あまた伴ひて、三塔巡礼の事侍りしに、横川の常行堂の中、竜華院(りょうげいん)と書ける、古き額あり。『佐理・行成の間疑ひありて、未だ決せずと申し伝へたり』と、堂僧ことことしく申し侍りしを、『行成ならば、裏書あるべきし。佐理ならば、裏書あるべからず』と言ひたりしに、裏は塵積り、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、各々見侍りしに、行成位署・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、人皆興に入る。
一、 那蘭陀寺(ならんだじ)にて、道眼(どうげん)聖談義(ひじりだんぎ)せしに、八災と云ふ事を忘れて、『これや覚え給ふ』と言ひしを、所化(しょけ)皆覚えざりしに、局のうちより、『これこれにや』と言ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。
一、賢助僧正(けんじょそうじょう)に伴ひて、加持香水を見侍りしに、未だ果てぬ程に、僧正帰り出で侍りしに、陣の外まで僧都見えず。法師どもを返して求めさするに、『同じ様なる大衆多くて、え求め逢はず』と言ひて、いと久しくて出でたりしを、『あなわびし。それ、求めておはせよ』と言はれしに、帰り入りて、やがて具して出でぬ。
一、二月十五日、月明き夜、うち更けて、千本の寺に詣でて、後より入りて、独り顔深く隠して聴聞し侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ、人より殊なるが、分け入りて、膝に居かかれば、匂ひなども移るばかりなれば、便あしと思ひて、摩り退き(すりのき)たるに、なほ居寄りて、同じ様なれば、立ちぬ。その後、ある御所様の古き女房の、そぞろごと言はれしついでに、『無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉る事なんありし。情なしと恨み奉る人なんある』とのたまひ出したるに、『更にこそ心得侍らね』と申して止みぬ。この事、後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局の内より、人の御覧じ知りて、候ふ女房を作り立てて出し給ひて、『便(びん)よくは、言葉などかけんものぞ。その有様参りて申せ。興あらん』とて、謀り給ひけるとぞ。

[現代語訳]
御随身の近友が『自讃(自分の自慢)』だと言って、自分の自慢話を七つ書き止めた事がある。その内容は、みんな馬術がらみでとりとめのないものだが、その故事の例を真似て、私にも自讃の事が七つある。
一、大勢で連れだって花見に行くと、最勝光院の辺りで、男が馬を走らせていた。それを見て、『もう一度、馬を走らせれば、馬が倒れて落ちるはずだ。しばらく見ていなさい』と言って、皆を立ち止まらせた。その男はまた馬を走らせるが、馬は止まる直前に倒れて乗っている男は泥土の中に転がり込んでしまった。言った通りになったので、みんなが感心した。
二、後醍醐天皇が、まだ皇太子であられた頃は、万里小路殿が皇太子の御所だった。堀川の大納言様に用事があって、御所に伺候されている大納言様(源具親)の部屋に参りますと、大納言は『論語』の四・五・六巻を広げておられます。『今、皇太子に「紫の朱を奪うことをにくむ」いう文を御覧になりたいと希望され、『論語』から原文を探しているのだが、見つからない。「なおよく探して見つけよ」と言いつけられたので、更に捜している』という。なので、『その部分であれば、九巻のあたりですよ』と、お教えすると、『おぅ、嬉しきことよ』などと言って、九巻を持って行かれた。この程度の事は子どもでも知っている事だが、昔の人は小さな事でもすごく自讃したものである。 後鳥羽院が、『袖』と『袂』とを一首の歌の中に両方入れたら悪いだろうかと藤原定家に尋ねたところ、『古今集』に『秋の野の草の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらん』という歌があるので問題はございませんという答えが返ってきた。『重要な時に合わせて歌を記憶しておくというのも、歌人の冥加(歌の道の神の加護)であり、これは幸運なことなのである』などと、大袈裟に書き残されている。九条相国の伊通公(藤原伊通)の款状にも、大した事がない題目を書き載せており、自讃されている。
三、常在光院のつき鐘の銘は、在兼卿が下書きをした。行房の朝臣が清書をして、鋳型に模そうとする前に、奉行をしていた入道がその草書を取り出して見せてくれた。『花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ』という句が草書にある。『陽唐の韻に見えるが韻は踏んでいない。百里は誤りではないか』と言うと、『よくぞ見つけた。これは私の功績にさせてもらいます』と言って、筆者のもとに奉行の入道が知らせた。『この部分は誤りでございました。百里は数行と直して下さい』と返事をしたのである。 だが、数行というのもいかがなものか。もしや数歩の心のほうがいいかなど考えが固まらない。数行はなお不審で、数は四・五である。鐘四五歩では幾ばくもない。ただ、遠くで聞こえる心の声のようなものである。
四、大勢で比叡山の三塔を巡礼した。横川にある常行堂の中に『滝華院』と書かれた古い額がある。『この額の作者は、佐理であるか行成であるか(藤原佐理,すけまさか藤原行成か)、今では分からないと言い伝えらえています』などと、案内の僧がもったいつけていうので、『行成なら裏書きがあるはず。佐理なら裏書きがあるはずない』と言ったら、額の裏は塵がつもり、虫の巣で良く分からなくなっている。その汚れを払って拭いて見ると、行成の位署や名字、年号まではっきりした裏書きが見えて、みんなに感心された。
五、那蘭陀寺で、道眼の聖が講義をした。『八災』を忘れて、『誰かこれを覚えていないか』と尋ねたが、弟子たちはみな覚えていなかった。そこで奥から、『これこれではないですか』と言うと、酷く感心された。
六、賢助の僧正に付いていって『加持香水』を見ることができた。まだ行事も終わらないうちから、僧正たちは帰りだす。しかし、一緒に来ていた僧都の姿がどこにも見当たらない。僧正は、弟子達を使って僧都を探したが、『同じ様な格好の法師が多くて、僧都が見つかりません』と言われてなかなか見つからない。『あぁ、困ったことだ。あなたが捜して来て下さい』と言われたので、賢助僧正のおられた場所にまで行ってすぐに僧都を連れてきた。
七、二月十五日、月が明るい夜。深夜に一人で千本寺を詣でた。後ろから入って、顔を隠して聴聞していると、姿・匂いが美しい女が分け入ってきて、いきなり膝に寄りかかってきた。その芳醇な匂いも移ってくるばかりで、これは都合が悪いと思いその場から逃げ出すと、女は更に寄ってきて同じような状況なので退散することにした。
その後、ある御所の近所の古い女房が世間話として、『あなたはある女に色を知らない男だと見下されています。情けないことだと恨んでいる女がいるようです』と言われた。私は『そんな事は知りませんでした』と言ってその話を打ち切った。
この後になって聞いたところでは、どうやらこの夜に、御局の内より人が来ていて、その人に仕えている女房の一人を飾り立てていたという。『上手くやってあいつに言葉などかけてこい。その有様を帰って報告すれば、きっと面白くなる』などと言って、私を騙して馬鹿にしようとしていたようだ。


[古文] 第239段:
八月十五日・九月十三日は、婁宿(ろうしゅく)なり。この宿、清明なる故に、月を翫ぶ(もてあそぶ)に良夜とす。

[現代語訳]
八月の十五夜と九月の十三夜は、古代中国の天文学における『婁宿の日(黄道沿いの28の星座を地球の月・日の基準としたが、その28宿のうちの一つで月を鑑賞するのに適した日))』だ。この婁宿の日は、月が清くて明るいので、月を見るのに良い夜となる。


[古文] 第240段:
しのぶの浦の蜑(あま)の見る目も所せく、くらぶの山も守る人繁からんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふ、節々の忘れ難き事も多からめ、親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。
世にありわぶる女の、似げなき老法師、あやしの吾妻人(あづまうど)なりとも、賑ははしきにつきて、『誘ふ水あらば』など云ふを、仲人、何方も心にくき様に言ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をか打ち出づる言の葉にせん。年月のつらさをも、『分け来し葉山の』なども相語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ。
すべて、余所の人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、品下り、見にくく、年も長けなん男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心劣りせられ、我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん。いとこそあいなからめ。
梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も、我が身様に偲ばるべくもなからん人は、ただ、色好まざらんには如かじ。

[現代語訳]
海岸で人目を忍んで好きな女に逢おうとしても、他人の見る目は煩わしいもので、闇に紛れた山で女に逢おうとしても、山守りの目線があったりもする。そう考えると、無理をしてまで女の下へ通っていく男の心情には深くしみじみとした哀れさがあるものだが、その時々で忘れられない事というのも多いだろう。だが女の親・兄弟から関係を許されて、ただ自分の家に引き取って生活の面倒を見てやるだけというのは、余り輝かしい(喜ばしい)ものでもない。
世渡りに困ってあぶれた女が、自分の年齢に似つかわしくない老人や、怪しげな関東人などであっても裕福であるのに惹かれて、『誘う水あれば(小野小町作の歌 わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘ふ水あらば 往なんとぞ思ふ)』などと言えば、仲人は双方ともに奥ゆかしい人のように言いくるめて、お互いに知らない人を引き合わせることにもなるが、これは何ともつまらないことだ。こうして仲人によって結び合わせられる男女は、初めにどんな言葉を口にするのだろうか。それよりも気楽に合えなかった年月のつらさを、『分けて来た葉山の(筑波山 端山繁山 しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり 新古今和歌集)』などと言ってお互いに語り合えるような関係のほうが、話の種が尽きることが無いだろう。
すべて、本人ではない人がお膳立てしたような結婚は、何とも気にくわない事が多いものだ。仲介者が素晴らしい女を紹介してくれても、その女よりも身分が低く、容姿が醜く、老いてしまったような男だと、こんなつまらない自分のためにあんなに素晴らしい女性が人生を無駄にすることになるのではないかと考えてしまう。自分と女の落差から自分に自信が持てなくなり、我が身に向かう時には、鏡に映る自分の影すらも恥ずかしく思えてしまうのである。ひどく味気ない人生である。
梅の花が薫る夜に、朧月の下で恋人を求めて彷徨い歩くのも、恋人の住む家の垣根の辺りを露を分けて帰ろうとする夜明けの空も、これを我が身のことのように思えない人は、恋心は分からないし恋愛に夢中にならないほうが良いだろう。


[古文] 第241段:
望月の円か(まどか)なる事は、暫くも住せず、やがて欠けぬ。心止めぬ人は、一夜の中にさまで変る様も見えぬにやあらん。病の重るも、住する隙なくして、死期既に近し。されども、未だ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生(じょうじゅうへいぜい)の念に習ひて、生の中に多くの事を成じて後、閑かに道を修せんと思ふ程に、病を受けて死門に臨む時、所願一事(しょがんいちじ)も成ぜず。言ふかひなくて、年月の懈怠(けだい)を悔いて、この度、若し立ち直りて命を全くせば、夜を日に継ぎて、この事、かの事、怠らず成じてんと願ひを起すらめど、やがて重りぬれば、我にもあらず取り乱して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。
所願を成じて後、暇ありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻(にょげん)の生の中に、何事をかなさん。すべて、所願皆妄想なり。所願心に来たらば、妄心迷乱すと知りて、一事をもなすべからず。直に万事を放下して道に向ふ時、障りなく、所作なくて、心身永く閑かなり。

[現代語訳]
満月の丸さは少しも留まることがなく、やがては欠ける。月に心をとめない人ならば、一夜のうちに満月がそんなにも変わっているようには見えないだろう。病いの重さにしても、とどまる暇はなく死期はすぐに迫る。しかし、まだ病気も重くなくて死なない程度だと、誰しもずっと平穏無事だろうと思い込むもので、もっと色々な事をしてから、老後にでも静かに仏道を修めるとしようなどと思っているものだ。病を重くして死に臨む時には、仏道の願いなどはまだ一つも成せていないと語るのも虚しく、ただ年月の怠惰を悔やむことになり、『もし病が治って天寿を全うできるなら、昼夜を問わずに、この事、あの事、すべて怠りなく行う所存です』とか言うのだけれど、やがて病気は重症化していき、自我を見失って取り乱したままで亡くなってしまう。こんな事例が多いのだ。この事をまず、人々は急いで心に刻むべきなのだろう。
俗世での願望を果たした後で、暇があったら出家したいものだというのでは、世俗的な欲が尽きるはずもないのだ。夢幻のごとき人生で、何を成し遂げられるか。すべての願いは、みな妄想である。俗世での願いが心に浮かんだならば、それが妄信を生んで心を惑わすものだと知って、俗世的な欲望を実現するために何もすべきではないのだ。即座に全てを放り出して仏道に向えば、何の障害もなくて、する事もないのだから、身も心も末永く静かに落ち着いたものとなる。


[古文] 第242段:
とこしなへに違順(いじゅん)に使はるる事は、ひとへに苦楽のためなり。楽と言ふは、好み愛する事なり。これを求むること、止む時なし。楽欲(がくよく)する所、一つには名なり。名に二種あり。行跡(ぎょうせき)と才芸との誉なり。二つには色欲、三つには味ひ(あじわい)なり。万の願ひ、この三つには如かず。これ、顛倒(てんどう)の想より起りて、若干の煩ひあり。求めざらんには如かじ。

[現代語訳]
永遠に終わりなく、順境(幸福)と逆境(不幸)とにこき使われることは、ただ一途に楽を求めて苦を逃れようとするためである。『楽』というのは、あるものを好んで愛することである。これを求めれば、終わりがない。楽しんで欲望することの、一つは『名誉』である。名誉には二種類ある。自分がやってきた実績(あるいは公的な身分・立場)と自分の持っている才能・技芸の二つの名誉である。楽しんで欲望することの二つ目は『色欲』である。三つ目は『美味しいもの』を食べたいという味覚の欲である。すべての願いは、この基本的な三つの欲望には及ばない。これらは真実とは正反対のことを信じる顛倒の思念によって起こるもので、多くの心の苦悩を伴うものだ。多くを求めないことに越したことはない。


[古文] 第243段:
八つになりし年、父に問ひて云はく、『仏は如何なるものにか候ふらん』と云ふ。父が云はく、『仏には、人の成りたるなり』と。また問ふ、『人は何として仏には成り候ふやらん』と。父また、『仏の教によりて成るなり』と答ふ。また問ふ、『教え候ひける仏をば、何が教へ候ひける』と。また答ふ、『それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり』と。また問ふ、『その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける』と云ふ時、父、『空よりや降りけん。土よりや湧きけん』と言ひて笑ふ。『問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ』と、諸人に語りて興じき。

[現代語訳]
八つになった年に、父に質問した。『仏とは、どういうものでございますか?』と言った。父が言うことには『仏とは、人が悟りを開き成ったものだ』と。また問いかけた。『人はどうして仏に成れたのですか?』と。父はまた『仏の教によって仏に成るのである』と答えた。また問うた。『その道を教えてくれる仏自身は、何から教わったのですか?』と。また父は答える。『その仏もまた、前の仏の教えによって仏に成られたのだ』と。また問う。『その教えを始められた第一の仏は、どのような仏にございますか?』と聞くと、父は『空より降ってきたか。土から湧いてきたか』と答えて笑った。『息子から問い詰められて、仏の原点について答えられなくなりました』と、父はみんなに語って面白がっていた。

引用文献原文全巻


江守孝三(Emori kozo)