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安岡正篤の名言

安岡 正篤

              

[図解]安岡正篤の人間学 大型本 –PHP研究所 95ページ大変わかりやすい 2007/11/17 武田 鏡村 (著)
吉田茂、岸信介、池田勇人…歴代総理をはじめ、今も多くの政財界人が心の師と仰ぐ安岡正篤。その深遠なる教えとは―。心を高め、善く生きるための“安岡学入門”の書。

[図解]安岡正篤の行動学 単行本 –東洋経済新報社142ページ 2004/7 武田 鏡村 (著)
歴代総理のご意見番が説いたリーダーの条件、組織のあり方とは。
吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作など、戦後の歴代首相の指南番として活躍した思想家・安岡正篤。彼が説いたリーダーのあり方、出処進退の哲学など、指導者としての条件を解説する。

王道の研究「東洋政治哲学」の新装版 単行本 –致知出版社 427ページ 2003/12/25 安岡 正篤 (著)
覇道の政治経営は必ず行き詰まる。いまこそ「人の長たる者」は、王道のリーダーシップに目覚めこれに徹せよ!安岡政篤、渾身の力作。

いかに生くべきか「東洋倫理概論」の新装版 致知出版社 359ページ – 2011/9/16 安岡 正篤 (著)
いま、われわれはこの国に「倫理」を蘇らせねばならない。安岡教学の骨格的名著をここに復刊。
人間の一生を早年・中年・晩年に分け、それぞれの眼目となるべき倫理を志尚・敬義・立命に絞って、人間の生き方を追求する。玄黄社昭和4年刊「東洋倫理概論」の新装版。

古典手抄 (郷学研修所安岡正篤記念館 )190ページ 2000/12 安岡 正篤 (著)
深い思想体系から独自に四書を精選・再編した友好の書「友経」、呂坤の呻吟語から64則を抜粋した「呻吟語」、更に忠の貴重な文献「忠経」に「孝経」の全4篇を収録した古典入門。

「人間」としての生き方 (PHP文庫) 文庫 – 2008/3/3 安岡 正篤 (著), 安岡 正泰 (監修, 監修), 武石 章 (翻訳)
『東洋倫理概論』は、昭和二年、金〓(けい)学院を開院した際、そこに学ぶ青年たちに向けて著わした、いわば生き方の指針の書である。原本は歴史的仮名遣い、独特の表現も少なからずあるため、読者の理解の便を図り、原書の趣旨を損なわずに、現代語に直したのが本書である。多方面に怪しさが漂う現代、安岡数学の骨格をなす本書は、真っ当に生きることを考えるうえで、一度は読んでおきたい書である。
内容紹介 二十代、三十代、四十代にしておくべきこと、老後を有意義に過ごす考え方、病や死とどう向き合うべきか……。様々な人生論が、書店の店頭に溢れている。それは、わずかな期間に平均寿命が延び、働く目的・働き方が多様化した現代にあって、われわれはいかに生き、いかに死んでゆくかを模索しているからにほかならないといってもよいだろう。本書の原題は、陽明学の泰斗・安岡正篤が、昭和二年に著わした『東洋倫理概論』であるが、平明に言えば、「人としての生き方を述べた本」、その現代語訳である。本書の中で著者は、人生を青年期・壮年期・老年期に分け、「造化(天地の万物)」に逆らうことなく、人として「真っ当に生きること」の重要さを、古今東西の名著、漢詩・和歌等を引用しつつ説いている。それは、先達の人生観の結集といってもよい。時として生きる意味を見失いがちな現代、安岡教学の骨格をなす本書に、その答えを見出すことができるだろう。

論語の活学―人間学講話 (安岡正篤人間学講話)プレジデント社 264ページ2015/4/23 安岡正篤 (著)
シリーズ70万部突破!偉大なる「人間通」孔子はここを学べ! 論語の人間像 最も偉大な人間通 孔子学園の俊秀たち 論語読みの論語知らず「利」の本は「義」なり……(目次より)
論語をみると、われわれば日常遭遇する現象や問題がことごとく原理的に説明されている。こんなことにまで触れていたか、こんな問題まで出ていたかと、驚くばかりである。たとえば、里仁篇に、「利によって行えば怨み多し」とある。これは今日も同じことで、人びとは皆、「利」を追って暮らしているが、利を求めてかえって利を失い、利によって誤まられて、際限もなく怨みを作っている。それは「利とは何であるか」ということを知らないからである。「利の本は義」「利は義の和なり」(左伝)という。したがって本当に利を得ようとすれば「いかにすることが“義”か」という根本に立ち返らなければならない。これは千古かわらぬ事実であり、法則である。ここに気がついて初めて論語が〈活きた学問〉となる(まえがきより)。

論語に学ぶ (PHP文庫) 文庫 – 2002/10 安岡 正篤 (著)
日本人の生き方の指針として、長く愛読されてきた不朽の古典『論語』。孔子の言行を比較的平易な言葉でまとめた『論語』は、多くの金言名言の出典ともなり、私たちの生活に息づいてきた。しかし、その思想を咀嚼し、人生のなかできちんと実践することは相当に難しい。
本書は、東洋学の泰斗として知られた著者が、『論語』を自らの生活に活かし、心を高める糧とする方途をわかりやすく説いた講話録。活学としての『論語』の読み方を絶妙なたとえ話とともに詳説した「論語読みの論語知らず」、人間の進歩向上の原理を説き明かす「中庸章句」、『論語』の多彩な群像に人の世の機微を見る「論語の人間像」、日本人に根ざした儒教的伝統を簡明に解説した「日本と儒教」の4篇を収録した。

論語 人を動かし人を活かす100の言葉 ビジネス訳 (PHP研究所 オンデマンド) 224ページ – 2015/3/4 安岡活学塾 (編集)
教養としての論語ではなく、日々の仕事に直接役に立つ論語の本。 「あのポジションにどうしてつけないのかと思い悩む暇があるなら、そのポジションについたときに困らないように、ひたすらスキルアップに取り組んでおきましょう」(位無きを患えず、立つ所以を患う)。 「四十代には、あなたなりの判断基準を確立しましょう。そして、日々の業務の判断、人生の判断で迷うことのないように、一貫した判断をしていきましょう」(四十にして惑わず)。 2500年前の古典の叡智を、現代のビジネス書として読めるよう思い切って“超訳"。仕事の指針、リーダーシップの要諦を、誰にでもわかりやすく解説します。 スピードが求められる現代人に格好の論語入門です。
編者の「安岡活学塾」は、昭和の政財界トップの精神的支柱であった故・安岡正篤の教えを学ぶために設立されました。「活学」とは、学んだことを知識レベルに留めず、智恵に発展させ、社会のなかで実践していくことです。 「あのポジションにどうしてつけないのかと思い悩む暇があるなら、そのポジションについたときに困らないように、ひたすらスキルアップに取り組んでおきましょう」(位無きを患えず、立つ所以を患う)。 「四十代には、あなたなりの判断基準を確立しましょう。そして、日々の業務の判断、人生の判断で迷うことのないように、一貫した判断をしていきましょう」(四十にして惑わず)。 2500年前の古典の叡智を、現代のビジネス書として読めるよう思い切って“超訳"。仕事の指針、リーダーシップの要諦を、誰にでもわかりやすく解説します。 スピードが求められる現代人に格好の論語入門です。 編者の「安岡活学塾」は、昭和の政財界トップの精神的支柱であった故・安岡正篤の教えを学ぶために設立されました。「活学」とは、学んだことを知識レベルに留めず、智恵に発展させ、社会のなかで実践していくことです。

易と人生哲学 (致知選書) 単行本 – 1998/9/30 安岡 正篤 (著)
運命は宿命にあらず、立命となる。 中国千数百年にわたる天地自然と人間世界の相関をまとめあげた『易経』。 その難解さゆえに広く読まれなかった思想を 分かり易く解説するとともに、その深遠な哲学を説き、変転極まりない不透明な時代をいかに生きるかの指針を示す。

呻吟語を読む (致知選書) 213ページ – 2011/9/16 安岡 正篤 (著)
第一等の人物とは、明末の儒者・呂新吾の著した人間練磨の書が、安岡正篤師を通して蘇える。

王陽明 知識偏重を拒絶した人生と学問―現代活学講話選集〈7〉 (PHP文庫) 文庫 – 204ページ 2006/1
著者には、東京帝国大学の卒業記念として出版された『王陽明研究』と、「王陽明伝―王陽明の生涯と教学」(王陽明生誕五百年記念『陽明学大系 第一巻』所載、昭和46年)の名著がある。本書は、この名著を下敷きに、「分りやすく」と「平明に」を念頭に、王陽明と陽明学について説いた講話集である。難解と言われる陽明学の入門書にして、本シリーズの掉尾を飾るに相応しい、師の「陽明学第三の名著」である。

十八史略(上) 激動に生きる 強さの活学 (PHP文庫) 文庫 – 307ページ2005/3/2 安岡 正篤 (著)
人間研究の宝庫といわれ、中国古賢・先哲たちの智恵が凝縮されている「十八史略」。その智恵を現代に活かす方途を説いた珠玉の講話録。 人間研究の宝庫といわれ、何百年にもわたって多くの人々に読み継がれてきた絢爛たる中国歴史絵巻『十八史略』――本書は、東洋学の泰斗として世人の敬愛を集めた著者が、深みと風格のある解説で『十八史略』の妙味を語り明かした講話録である。 「鼓腹撃壌」(帝尭陶唐氏)、「一饋に十たび起つ」(夏・禹王)、「酒池肉林」(殷・紂王)、「暴を以て暴に易う」(周・武王)、「臥薪嘗胆」(呉王の夫差)、「誰か烏の雌雄を知らん」(孔子の孫・子思)、「鶏口となるとも、牛後となることなかれ」(蘇秦)、「三年飛ばず鳴かず」(楚の荘王)、「先ず隗より始めよ」(燕の昭王)……など、三皇五帝・三代の治から、孔子や孟子、老子の思想、戦国時代の英傑が残した故事格言までを取り上げながら、中国古賢・先哲の知恵をいかに現代に活かすかを説き明かしていく。 混迷の続く現代を強く、たくましく生き抜く方途を開示した「人生の指南書」。
何百年にもわたって人々に読み継がれてきた中国歴史絵巻『十八史略』―本書は、東洋学の泰斗が、深みと風格のある解説で『十八史略』の妙味を語り明かした講話録である。三皇五帝・三代の治、孔子や孟子、老子の思想、戦国時代の英傑が残した故事格言など、中国古賢・先哲の知恵をいかに現代に活かすかを説き明かす。混迷の続く現代を強く、たくましく生き抜く方途を説いた「人生の指南書」。

十八史略(下) 激動に生きる 強さの活学 (PHP文庫) 文庫 – 300ページ 2005/3/2 安岡 正篤 (著)
項羽と劉邦、曹操と劉備など、治乱興亡の中を生きた男たちの戦略・戦術とは。すべてのビジネスマンに贈る激動の社会を生き抜く智恵。 混迷の時代こそリーダーの資質が問われる! 本書は、秦の始皇帝、項羽と劉邦に始まり、三国時代の曹操、劉備、孫権、宋の哲人宰相・耶律楚材まで、戦国乱世に光芒を放った英雄たちの優れた戦略と巧みな人心掌握術について語り明かした講話録である。 「剣は一人の敵なり。学ぶに足らず。万人の敵を学ばん」(項羽)、「背水の陣」(韓信)、「太学を起こし礼楽を修明す」(後漢の光武帝)、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」(班超)、「不可ならば、君自ら取るべし」(劉備)、「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」(諸葛亮)、「刮目して相待つ」(呂蒙)、「至誠を以て天下を治めん」(唐の太宗)……など、知略をめぐらし、死力を尽くして成功を収めた者、悲劇を辿った者の言行は、時を超えて我々にリーダーの行動規範を指し示す。 わが国の指導者に多大な影響を与えた著者の確かな視座からの解説が心に響く好著である。ビジネスリーダー必読の一冊。
混迷の時代こそリーダーの資質が問われる!本書は、わが国の指導者に多大な影響を与えた著者が、秦の始皇帝から三国時代の曹操、劉備、諸葛亮まで、戦国乱世に光芒を放った英雄たちの優れた戦略と巧みな人心掌握術について語った講話録である。知略をめぐらし、死力を尽くして成功を収めた者、悲劇を辿った者の言行は、時を超えて我々にリーダーの行動規範を教示する。ビジネスリーダー必読の一冊

安岡 正篤 明治31年、大阪府に生まれる。東京大学法学部卒業。「東洋思想研究所」「国維会」「日本農士学校」「篤農協会」等を設立。また、戦後は「全国師友協会」「新日本協議会」等をつくり、政財界の精神的支柱として多くの敬仰者を持った。全国師友協会会長、松下政経塾相談役を歴任。昭和58年12月逝去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年(明治31年)2月13日 - 1983年(昭和58年)12月13日)は陽明学者・思想家。

経歴
 現在の大阪市中央区旧順慶町において、父・堀田喜一、母・悦子の四男として誕生。1904年(明治37年)大阪市道仁小学校入学。四書の「大学」から素読を始める。 1910年(明治43年)大阪府四条畷中学校入学。卒業までの五年間、歩きながら書を読んで電柱にぶつかったり、牛に突き当たったりしたという伝説が生まれる。中学校では剣道部に所属。一方で、近所の春日神社神官浅見晏斎に見出され、漢詩に親しみ、さらに柳生藩大参事であった陽明学者岡村達より感化を受ける。 第一高等学校に首席で入学し、東京帝国大学で上杉慎吉に師事[2]。1922年(大正11年)に東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された『王陽明研究』が反響を呼ぶ。
 大学卒業後に文部省に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。拓殖大学東洋思想講座講師をする傍ら『日本精神の研究』『天子論及官吏論』などの著作を発表し、一部華族や軍人などに心酔者を出した。1927年に酒井忠正の援助により「金鶏学院」を設立し、1931年には三井や住友などの財閥の出資により埼玉県に「日本農士学校」創設し、教化運動に乗り出した。
 金鶏学院は軍部や官界・財界に支持者を広げて行き、1932年には「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、酒井や後藤文夫、近衛文麿らとともに「国維会」を設立し、新官僚の本山となった。同団体から、斎藤や岡田両内閣に、後藤や吉田茂(後の首相とは別人で同姓同名の厚相・軍需相)、廣田弘毅ら会員が入閣したことで、世間の注目も集まったが、一方で政界の黒幕的な見方も強まったため、2年後には解散に追い込まれる。
 その間も金鶏学院などを通じた教化活動は続けられ、「二・二六事件の首謀者西田税らに影響を与えた一人」とも言われる。北一輝や大川周明の猶存社のメンバーでもあった。年上である八代六郎(元海軍大将)、山本五十六、更には中華民国総統の蒋介石などとも親交があり、第二次世界大戦中には大東亜省顧問として外交政策などに関わった。
 敗戦後に、かつて安岡が創設した各団体や学校は連合国軍最高司令官総司令部により解散を命じられ財産は没収、安岡自身も大東亜省奉職を理由に公職追放される。1949年に「師友会」(後の全国師友協会)を結成、機関紙『師と友』の発行による次代の指導者の育成や、全国各地を巡っての講演、更にはラジオによる講話などを通じた東洋古典思想の普及活動を行った。

 一方で政財界とのパイプは保ち続け、自民党政治家のアドバイザーとして主に東洋宰相学、帝王学を説き、彼らの「精神的指導者」「陰の御意見番」「首相指南役」の位置にあった他、1958年には岸信介、安倍源基、木村篤太郎らとともに「新日本協議会」を結成、安保改定運動や改憲運動などに関わった。東洋古典の研究と人材育成に尽力する一方で、「体制派右翼」の長老としても政財官界に影響力を持ち続けた。また、「平成」の元号の発案者と言われている(1990年に竹下登が記者会見で示唆)。「全国師友協会」は遺言もあって解散したが、各地域の支部がそれぞれ独立した団体として活動を続け、その思想を継承している。
 安岡には政界だけでなく、財界にも多くの心酔者がおり、三菱グループ・近鉄グループ・住友グループ・東京電力など多くの財界人をも指南していたとされる。
 終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)に加筆し原稿を完成させたことから皇室からも厚い信頼を受けていた。
 数々の伝説を残し、政界・財界・皇室までもが安岡を頼りにしていたことから「昭和最大の黒幕」と評される。

主な事績・逸話等
 戦前にあっては血盟団事件に「金鶏学院」の関係者が多く連座したため安岡も一時関与を疑われた。井上日召は、「血盟団事件の検挙の発端は、金鶏学院への波及を恐れた安岡が当局に密告したため」と、戦後に証言している。また安岡が、五・一五事件や二・二六事件の首謀者の一員とされる大川周明や北一輝と東京帝国大学時代に親交があったことからこれらの事件への関与を指摘する向きもあるが、安岡自身はこのことについて何も語っておらず、現在ではこれらへの関与を否定する見方が一般的である。一方で特に海軍関係者との親交や大東亜省顧問としての活動が挙げられるが、具体的に何に何処まで関与したかはほとんど明らかにされていない。
 戦後にあっては、自民党政治の中で東洋宰相学、帝王学に立脚し、「実践的人物学」、「活きた人間学」を元に多くの政治家や財界人の精神的指導者や御意見番の位置にあった。安岡を信奉し、師と仰いだとして知られる政治家には吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳など多くの首相が挙げられる。また代議士になった弟子に林大幹がおり、回想記を出している。
 昭和20年8月15日の終戦の詔書(玉音放送)の草案に対して、加筆し原稿を完成させたとされる。
 戦時中からすでに政治家や右翼活動家に影響力があったため、GHQより戦犯容疑がかかったが、中華民国の蒋介石が「ヤスオカほどの人物を戦犯にするのは間違いだ」とGHQを説得し逮捕されなかった。

 岸信介以降の歴代首相(田中角栄・三木武夫を除く)に施政方針演説の推敲を依頼されていたと言われる。 但し安岡の次女の著書によると、三木自身、秘書経由でなく自身で電話をして演説の文章について相談していたという。[3]
 池田勇人の派閥研究会「宏池会」の命名者である。
 長年の親友であった政界長老の肥田琢司の追悼集の表題『浩然録』は安岡の案によるものであり、肥田との思い出も綴られている。
 佐藤栄作の首相就任前の訪米時に応対辞令の極意を授け、このときのケネディ大統領との会談がケネディに沖縄返還交渉開始を決断させたと言われる。
 GHQによる「3S政策」の存在の可能性を著書『運命を創る―人生訓―』(プレジデント社・1985年)中で唱えている。

 晩年陽明学に傾倒した三島由紀夫は、自決の2年前の1968年(昭和43年)5月26日付けで安岡に手紙を書いている。この手紙では、当時入手困難だった安岡の著作を、伊沢甲子麿を通じ安岡本人から贈ってもらったことへの謝辞を「(安岡)先生のやうな真の学問に学ぶことのできる倖せ」と言い表すと共に、朱子学に傾倒する江藤淳や徂徠学に傾倒する丸山眞男への批判が述べられている[5][注釈 1]。三島の自決後、安岡は新聞が論評した三島流の「知行合一」を「動機の純粋を尊んで、結果の如何を問わないなんていう、そんなものは学問でもなく真理でもない」と批判している一方、三島個人については「惜しい人物であった。もう少し早く先師(王陽明)に触れていたら・・・」と述べたという。
 生前「いつか昭和が終わったら次は平成というのはどうだろう?平和が成り立つのいう意味だ」と平成の元号を考案したと一般的に言われている。しかし、これは事実に反しており、元号制定時に内閣内政審議室長だった的場順三によれば「平成を考案したのは山本達郎先生です。日本学士院で初めてお会いした時、『これはいい文章だと思うんだけどな。これとこれを合わせるとこうなる』と、その場で『平成』を示されました。(中略)『平成』は安岡正篤先生の案だとまことしやかにいう人もいますが、事実ではありません。亡くなっている人の案を採用することは無いのですから」と証言している。[6]
 戦後の歴代総理に「日本の黒幕はだれか?」と聞けばほとんどの首相が安岡正篤の名前を挙げたという 。

 安岡本人は「自分はただの教育者にすぎない」と考えていたため、「黒幕」と言われるのを嫌がった。しかし、自分自身が直接権力を持たない反面、権力者に対して絶大な発言力を持っていた。名のある大物ほど安岡の教えに心酔し、意見や講演を求め、本人の意思に反して各界に影響力を拡大していったためである。
年譜 1898年2月13日 - 大阪市順慶町(現在の中央区長堀)に素封家の堀田喜一・悦子の四男として生まれる。実兄に高野山金剛峯寺第403世座主、堀田真快がいる
1910年 - 東大阪市立孔合冊小学校を卒業
。 1915年 - 大阪府立四條畷中学(現大阪府立四條畷高等学校)卒業。卒業後、高知県貫属士族で東京在住の安岡盛治の養子となる。 安岡は、戊辰戦争の際、近藤勇を捕縛し斬首した功名で知られる土佐藩士安岡良亮の孫にあたる。
1919年 - 第一高等学校卒業
。 1922年 - 東京帝国大学法学部政治学科卒業、文部省に入省するも辞し、「東洋思想研究所」を設立。
1924年 - 拓殖大学東洋思想講座講師となる。
1927年 - 「金鶏学院」を創立。
1931年 - 「日本農士学校」を創立。
1932年 - 「国維会」を結成(~34年)。
1944年 - 大東亜省の顧問となる
1945年 - 起草された「終戦の詔勅」を刪修する。 1946年 - 連合国軍最高司令官総司令部により「金鶏学院」や「日本農士学校」に解散命令。本人も公職追放。
1949年 - 「師友会」を設立。
1954年 - 追放解除。以後師友会を「全国師友協会」と改め、ここでの活動を中心に陽明学を基礎とした東洋思想の普及に努める
1958年 - 「新日本協議会」を結成。
1975年 - 先妻が死去。二男二女があった。
1983年 - 当時赤坂のレストランパブ「マンハッタン」の経営者だった細木数子と再婚騒動があったが、安岡の死後に婚姻の無効が調停される。
1983年12月13日逝去。享年85。

 葬儀葬儀は1984年1月25日に青山葬儀所で、葬儀委員長に岸信介、同副委員長に稲山嘉寛・大槻文平・田中秀雄、委員に新井正明・江戸英雄・平岩外四によって執行。政界からは当時の首相・中曽根康弘を始め、田中・福田・鈴木の各歴代首相が並び中華民国の馬樹礼、韓国の朴泰俊等高官の参列。会葬者は2千有余であった。再婚1983年、当時銀座のバーのマダムであった細木数子と再婚の約束を交わしたが[注釈 2]、当時85歳で、認知症の症状があったと言われ、40歳近く歳の離れた女性との再婚であり、実際の結婚生活がほとんどなかったことから安岡家の親族が猛反対したが、細木が安岡と交わしたとされる「結婚誓約書」なるものを元に、婚姻届を提出し、受理されたことで、安岡家は東京地裁に「細木との婚姻の無効」を求める調停を申し立てた。その翌月安岡は他界。調停は婚姻はなかったこととして、細木が初七日で戸籍を抜く事(結婚生活は事実上無し)で決着した。


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呻吟語

呻吟語(しんぎんご)は、中国の古典籍の一つ。著者は明代の哲学者・呂坤。呂坤が30年に及ぶ長年に亘って良心の呻きから得た所の修己知人の箴言を書き記し、収録した自己啓発の書。六巻本で、内篇・外篇に分かれ、全17章より成る。
解題
『呻吟語』は始め寧陵で板行されたが、広く行き渡らないで中々入手に困難であった。その後、清の康熙26年4月、正定諸州県の役人の会合があり、その席上役人の修養が問題になった際、呂氏の郷人で央益仲と言う者がこの書を持っており、これを新たに刊行しようと言うことを提議した。これが正定刊本となる。この刊本に当時の程朱学派の儒者・陸隴其が序している。それによれば、明の末世の朱子学の末流は、低級固陋でほとんど時代の人心と没交渉になり、陸王学派の流れを酌む者も空疎な観念の遊戯に走って、民衆が政治的混乱の中で精神的不安に迷っていた時、呂氏独り俗流の上に卓出して身を以て正学を修めたことを賛美し、今同じく自ら俗流を抜かんとする人々によってこの書が刊行されることは、晋の永和9年春3月3日山陽の蘭亭に当時の名士41人が集まって、曲水に盃を流して詩を賦し、王羲之がこの序を作った彼の有名な蘭亭の会よりも結構なことでは無いかと述べている。因みに、後に陸隴其は『呻吟語疑』17則を著述している。 しかし、この正定刊本も広く世に流布するに至らず、その後乾隆の始め陳宏謀の節録本ができ、別に陳笠帆の節抄本も出たが、全書は正定本の次に呂氏23世の孫燕昭が金陵で役人をしていて、乾隆59年に刊行した。これがいわゆる金陵本で、その後では道光2年、呉蔗郷・鮑鉄帆・恒輔之・雲蘭舫・呉澗蒓・鄂敬亭諸氏の手に成るいわゆる関中本が出た。間もなく7年10月には河南開封の知事で寧陵の令もしたことのある栗毓美が最初の版(呂坤の祠に蔵されているので祠版と言う)を標準に諸書を比較考証して刊行された。
自序(訳)
「呻吟とは病気の際のうめきである。病中の苦痛はただ病者にのみ分かるもので、他人には通じがたい。しかもその病人ももう慎んでまたと再び病気はすまいと思いつつも、癒えてしまえば、やはりまた忘れてしまう。自分は小さい時からありとあらゆる病気を経験して来たが、その呻吟の語三十年来記す所若干巻、携えて以て自らの薬とする。友人の劉景沢は心・性を修めて、平生から呻吟する所の無い人物で、自分は非常にこれを愛している。ある時この『呻吟語』を出して彼に見せたところが、彼は自分もやはり呻吟する所があるのだが、まだこれを記してはおかなかった。我々の病は大抵同じものだ。君がそれを書きつけておいた上はどうしてそれを公にしないか。さすれば三つの益があろう。病を医する者は君の呻吟を見て、そんなに病まぬよう慎むであろう。これ君が一身を以て天下に病に懲りることを示してやるもので、命を延ばす者が沢山出る訳である。もし君は癒えぬでも、それで人を癒すことができれば結構では無いかと言ってくれた。自分は恐縮して、病人の苦し紛れの言葉で人を迷惑させるのもどんなものかと思うが、まあ余り酷く無い語を存しておくことにした。まあまあ生きている限りはまさに三年の艾(もぐさ)を求めてこの余生を健やかにせねばならぬ。慢性の病だからとて自棄になるものでは無い。景沢のお陰で猶自分を医することができると言うものだ」----万暦癸巳三月(万暦21年3月)
目次
性命、 存心、 倫理、 談道、 修身、 問学、 応務、 養生、 天地、 世運、 聖賢、 品藻、 治道、 人情、 物理、 広喩、 詞章、
関連項目
陽明学、 李卓吾、 荒木見悟、
参考文献
『呻吟語』(編訳・守屋洋、徳間書店)
『古典手抄』(安岡正篤、明徳出版社)
『呻吟語を読む』(安岡正篤、致知出版社)

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十八史略

十八史略』(じゅうはっし りゃく)は、南宋曾先之によってまとめられた中国の子供向けの歴史読本。三皇五帝の伝説時代から南宋までの十八の正史を要約し、編年体で綴っている。
内容
最も古い刊行時期は至治年間(1321年 - 1323年)である。曾先之がまとめたものは2巻本だが、その後、明の陳殷によって帝王世紀や朱子学の書を元に注釈を加えられ、現在と同じ7巻本となった。さらに明の中期、劉剡が(朱熹の『資治通鑑綱目』に従い)三国時代の正統王朝を魏から蜀とするなどの改変を行なった。
陳殷は中国の歴史を簡単に理解するために正史(次項参照)の中から記述を抜き出して作られたものと述べているが、現在の研究では『資治通鑑』などからの抜き書きも多いことが判明している。野史(勅選書以外の民間人によって書かれた歴史書)も多く取り入れられている。特に北宋・南宋に関しては曾先之の在世中に『宋史』が完成しなかったため、野史類や著者・関係者の保有する記録類に頼るところが大きかったと考えられている。
その内容・性格は、子ども向け教科書的なものであり、抄本である。現代中国の歴史書としては、宋代までの歴史の抄本という事で価値は失われており、著者の曾先之の名も忘れられている事が多い。
日本での受容
日本には室町時代初期に伝来したと伝えられる。江戸時代には初心者用のものだということは分かっていたが、明治以降、漢文教科書に多く採用されると、左伝や史記のような権威のある古典籍との区別がわからなくなってしまった。一時は爆発的な流行となったが、東洋史の新たな通読書が登場してからは尻すぼみとなっていった。その後は歴史書としてではなく、経営者やビジネスマン向けの啓発や哲学を紹介するための本として出版されることもあった。
中国文学者の高島俊男は、中国では古くから子供向けの書籍であることが正しく認識されていたが、日本人はこれを典拠たりうる歴史書と勘違いしてきたと批判している。
戦後に陳舜臣の『小説十八史略』が人気を博したが、これは『十八史略』で扱われている範囲の時代を小説化したものであり、創作した部分も多く、別の書というべきものである。
十八史
  • 史記』- 司馬遷
  • 漢書』- 班固
  • 後漢書』- 范曄
  • 三国志』- 陳寿
  • 晋書』- 房玄齢
  • 宋書』- 沈約
  • 南斉書』- 蕭子顕
  • 梁書』- 姚思廉
  • 陳書』- 姚思廉
  • 魏書』- 魏収
  • 北斉書』- 李百薬
  • 後周書』- 崔仁師
  • 隋書』- 魏徴長孫無忌
  • 南史』- 李延寿
  • 北史』- 李延寿
  • 新唐書』- 欧陽脩宋祁
  • 新五代史』- 欧陽脩
  • 「宋鑑」(以下の2書をひとつと数える)
  • 続宋編年資治通鑑』- 李熹
  • 続宋中興編年資治通鑑』- 劉時挙
  • 日本で注された版
  • (立斎先生標題解註音釈)十八史略 京都 藤井孫兵衛等 明治22年刊
  • 十八史略目録(立斎先生標題解註音釈十八史略より)
  • 巻第一: 太古・三皇・五帝・春秋戰國
  • 巻第二: 西漢
  • 巻第三: 東漢三國西晉
  • 巻第四: 東晉南北朝
  • 巻第五:
  • 巻第六: 五代宋上
  • 巻第七: 宋下・南宋
  • 関連項目
  • 二十四史
  • 『十八史略』巻一
  • 関連書籍
  • 林 秀一、『十八史略 上』、 新釈漢文大系明治書院、1967年7月20日 ()
  • 林 秀一、『十八史略 下』、 新釈漢文大系明治書院、1969年7月30日 ()
  • 林 秀一、『十八史略 新版』、 新書漢文大系明治書院、2002年 ()
  • 竹内弘行、『十八史略』、 講談社学術文庫講談社、2008年10月10日 (ISBN 978-4-06-159899-7)



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    伝習録


    (県立)
    新釈漢文大系13 伝習録 近藤康信著 明治書院 1966
    陽明学大系 別巻 伝習録諸註集成 荒木見悟編集 監修:宇野哲人,安岡正篤 明徳出版社 1972 〇
    世界の名著 続4 文集語類抄朱子著 ,伝習録王陽明著 , 荒木見悟溝口雄三責任編集 中央公論社 1974〇
    漢文大系 第16巻 周易 伝習録 富山房 1978
    伝習録  王陽明語録 , 山本正一訳注 法政大学出版局 1966
    近思録 朱子編 呂東莱編 塚本哲三 有朋堂書店 1919.12
    (市立)
    伝習録  王陽明著 中公クラシックス中央公論新社
    (吉田松陰、西郷隆盛、三島由紀夫も影響を受けたという陽明学。だが日本の陽明学と中国の陽明学は異なる。 エリートの道徳完成の学である朱子学的儒教を、庶民の道徳的実践の教えへと展開していった陽明学の精髄。 )
    新釈漢文大系13 伝習録 近藤康信著 明治書院  王文成公の肖像あり 年譜略:p14〜17

    伝習録( 王陽明)


    『伝習録』(旧字:傳習録、でんしゅうろく)は、中国の明の時代に、王陽明が起こした儒学の教え・陽明学の入門書。王陽明自身には、自ら著した書物がほとんどなく、本書は、弟子たちが王陽明の手紙や言行などをまとめた3巻で構成される。
    日本には、1614年に紹介され、大塩平八郎、西郷隆盛が傾倒し、日本思想史においても多大な影響を与えた。注釈・訳注書が多数ある。
    江戸時代を通じ、各地の儒学塾で講義された。豊後日田広瀬淡窓の咸宜園では、朱子学の『近思録』とともに、学業最後のテキストに用いられた。

    日本語文献
    『新釈 伝習録』守屋洋訳  PHP研究所 2013年
    『伝習録』<新書漢文大系22>明治書院近藤康信訳/鍋島亜朱華編 2003年。抜粋訳 近藤康信訳著 『傳習録』<新釈漢文大系13> 明治書院 1987年ほか
    『傳習録』岩波文庫初版 山田準/鈴木直治編訳1936年、復刊1996年ほか。読み下しのみ 山田準著 『伝習録講話』 明徳出版社 2001年
    『伝習録』溝口雄三訳<中公クラシックス>中央公論新社、2005年。現代語訳のみ
    『伝習録「陽明学」の真髄』<中国の古典> 講談社吉田公平編訳 1988年 改訂版 『王陽明「伝習録」を読む』講談社学術文庫、2013年
    『伝習録 「陽明学」の真髄』<タチバナ教養文庫> 吉田公平たちばな出版、1995年
    『伝習録』 <鑑賞中国の古典10> 角川書店 吉田公平編訳・解説、1988年
    『傳習録』<中国古典新書>〇安岡正篤訳著 明徳出版社 1978年。重版多数 『語録 王陽明全集第一巻』 明徳出版社 詳細な訳注。
    『王陽明全集抄評釈』<岡田武彦全集 6.7巻> 明徳出版社 詳細な研究
    「伝習録」 - 陽明思想の部屋 原文、注釈および日本語訳



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    伝習録(王陽明 著)【 伝習録.】【 伝習録上
    王陽明 (三宅雪嶺 著)【 王陽明

    王陽明

    百科事典

    王守仁『晩笑堂竹荘畫傳』より、王守仁

    王 陽明(おう ようめい、 成化8年9月30日1472年) - 嘉靖7年11月29日1529年1月10日)は、中国代の儒学者、思想家、高級官僚、武将。朱子学を批判的に継承し、読書のみによってに到達することはできないとして、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理をもとめる実践儒学陽明学を起こした。一方で武将としても優れ、その功績は「三征」と呼ばれている。

    事績

    は守仁(初名は雲、のち守仁と改名された)、陽明は号で、陽明洞(地名)に家を建てたことにちなむ。字は伯安。姓名から王守仁とも呼ばれる。文成公とおくりなされた。浙江省紹興府余姚県(今の寧波市余姚市)の出身で、王導の子孫といわれる。

    王華(1446-1522)は、1481年(成化17年)に科挙を首席の状元で合格した秀才。父の合格当時、陽明はすでに10歳であった。父はのち南京吏部尚書に至り、竜山公と称せられた。王陽明は、仏教武芸詩学など、様々な才能に秀でいた。青年時代には杓子定規な勉学に倦んで武術に熱中し、26歳の時には辺境問題の解決には軍略も必要だと考え、自らその任に当たるべく兵法を修めた。その一方で儒学を志し、万物に理が備わっているという朱子学の理気二元論を学んでいるとき、庭の竹の理を窮めると称して、七日七晩、竹の前に座り続け、ついに倒れたという逸話が残されている。1499年(弘治12年)、28歳、3度目の受験で科挙に合格して官吏になったが、儒学の勉強を怠ることはなかった。35歳のとき、宦官劉瑾の独断的な政治を批判する上奏文を、皇帝武宗に提出したが容れられず、劉謹の恨みを買って、はるか僻地の貴州省龍場駅の役人に左遷された。彼は、この言葉も風俗も異なる少数民族の住む地にあって、厳しい自炊生活を送りながら、思索を続け、「龍場の大悟」(龍場での大いなる悟り)といわれる新学説・陽明学を誕生させた。なお、龍場は現在の貴陽市の下の修文県に位置する。同県は、面積1076平方キロ,2002年で人口は29万人。県政府は龍場鎮にある。

    三征[編集]

    やがて、劉瑾の専横が明らかになり、彼が追放されると、王陽明は県知事に任じられたのを皮切りに、江西巡撫や南京兵部尚書などの高官を歴任することとなった。ここで3つの軍事的業績をあげ、後世「三征」と呼ばれた。一つ目は1515年正徳11年)から5年かけた、江西・復福建省南部で相次ぐ地方の農民反乱や匪賊の巡撫・鎮圧である。この地方は地方官衙の統制が及びにくく、様々な紛争が軋轢が絶えなかった。その追討の命を受けた陽明は、商船を徴用して水路で進軍、民兵を組織してこれらをことごとく鎮圧、民政にも手腕を発揮し治安維持に務めた。

    2つ目はその最中の1519年6月に起きた寧王の乱である。陽明は15日に反乱の一報を聞くと直ちに軍を返し、未だ朝廷から追討命令が出ていないにも関わらず吉安府で義兵を組織する。7月13日に吉安を進発し、寧王軍が南京攻略のため不在となっていた敵本拠地・南昌を急襲、これを落とした。慌てて戻ってきた寧王軍と24・25日にわたって会戦してこれを撃破、26日首謀者朱宸濠を捕らえた。陽明はまともな軍事訓練をしていない烏合の衆を率いて、反乱に向けて準備を進めていた寧王軍を僅か2ヶ月足らずで鎮圧したことになり、陽明の軍事能力の高さが窺える。8月朝廷は寧王残党がくすぶっていることを理由に皇帝親征を企てるが、陽明は無用だと建白している。陽明は皇帝が北京を留守にすれば、宿敵たる西北国境の異民族に隙を付かれかねず、その経費や労力にかかる民衆への負担が大きすぎると述べ、優秀な前線指揮官に留まらない、国家の大局・大勢を踏まえた陽明の戦略的思考がわかる。これらの功績により、陽明は1521年(正徳16年)10月に新建伯に封じられた。

    3つ目は1527年嘉靖6年)、広西で反乱が起きると、王陽明にその討伐の命が下った件である。彼は辞退したが許されず、病気をおして討伐軍を指揮し、それらを平定し事後処理を進めた。帰還命令が出ない中、独断で帰郷を図ったが、その帰途、病(結核)が重くなって江西省南安(現在、贛(かん)州市大余県青竜鋪)の船中で死去した。

    功績

    彼は、南宋陸九淵の思想を発展させて、「事物の理は自分の心をおいてなく、それ以外に事物の理を求めても、事物の理はない」という、心即理を明らかにした。また、天地に通じる理は自己の中にある判断力(良知)にある(良知を致す=致良知の説)と主張した。また、知と行を切り離して考えるべきでないという知行合一を主張した。

    自分の心に理を求めたり、自己の中にある判断力を求めることは、全ての人に可能なことであり、「満街の人すべて聖人」と言った。こうして、儒学を広く庶民の学問に押し広げたのである。

    備考

    この陽明学は、江戸時代日本にも伝えられ、大塩の乱を起こした元与力大塩平八郎や、倒幕運動した幕末維新志士を育て、自らも安政の大獄刑死した長州藩吉田松陰らは、陽明学者を自称している。

    非常に難解とされ訳されたことが無かった「公移」は、難波江通泰による詳細な訳注で『王陽明全集』第5巻(1985年明徳出版社全10巻)にて刊行。同じ版元で岡田武彦(1908年-2004年)の『全集』にも王陽明関連の著作が半数以上ある。

    関連書
  • 伝習録
  • 王文成公全書
  • 参考文献 伝記
  • 岡田武彦 『王陽明小伝』 明徳出版社、1995年
  • 岡田武彦『王陽明大伝』1~5、明徳出版社、2002年
  • 論文
  • 小島毅 「王守仁 ─いくさを嫌った名将」『【アジア遊学173】 日中韓の武将伝』 勉誠出版、2014年3月、pp.110-117
  • 小説
  • 芝豪 『小説 王陽明』上・下 明徳出版社、2006年

  • 王陽明(明代の儒学者で陽明学を提唱した)。
    王陽明(王守仁とも言う)は明代の学者、思想家で儒学の中の陽明学を提唱した人物。陽明は号であり、本名は守仁。浙江省の出身で父も科挙に合格した知識人。はじめ明の官学であった朱子学を学び、28歳で進士に合格、官界に入ったが宦官と対立して貴州の龍場という辺境の地の駅長に左遷された。そこで生活しながら思索し、1508年、朱子学の考えを批判する新しい儒学思想として陽明学を生み出した。その後官界に復帰し、武人としても各地の農民反乱や地方豪族の反乱の鎮圧に活躍、兵部尚書(陸軍大臣)を務めた。この経歴からもわかるように、王陽明は単なる思索の人ではなく行動の人であった。その主著は『伝習録』。彼の思想では「心即理」や「知行合一」がキーワードである。 → 明の文化
    Episode 王陽明の少年時代
    少年時代の王陽明はすこぶる勉強ぎらいで、塾をエスケープしては士大夫の子弟にあるまじき戦争ごっこに精を出していたという。また、13歳の時に生母に死別し、継母からいじめられると、街でふくろうを一匹買ってきて継母の蒲団の中に入れておき、おどろいた継母が占い師に占ってもらうと子供をいじめた罰だというので、継母はいじめを止めたという。もちろん、占い師は陽明が買収していたのだ。他の儒学者には考えられないような逸話である。このようなエピソードが伝えられているところに彼が当時いかに破格な人物と受け取られていたかがわかる。<島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書1967 p.122> 

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    陽明学

    百科事典

    陽明学(ようめいがく)は、中国代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また訓詁学考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた[1]心即理知行合一致良知の説を主要な思想とする[1]

    陽明学以前

    宋代の学者に従って儒学の歴史を振り返ると、隋唐以前は経書の音訓(音読)や訓詁(単語の意味)を重視した訓詁学が中心であった。しかし宋代の学者からすると、これら訓詁の学者は、六経五経)に込められた聖人(孔子など)の本旨を正しく理解できておらず、改めて聖人の本旨を理解する試みが必要であるとの認識に達した。その際、隋唐以前の訓詁的研究を行いつつも、より率直に聖人と解釈者との一体性を強調し、解釈者の心と聖人の心とが普遍であるという前提を構築することになった。その結果、宋代以後の儒学は、孔子の思想的側面(聖人の心と解釈者の心)を明らかにすることにも力を費やすことになり、結果として思弁性のあるものとなった。その代表が朱子学と陽明学であった。

    朱子学が最も重視したのは、古い歴史をもち、勝手な解釈の入る余地の少ない経書そのものではなく、「四書」と呼ばれる四つの書物であった。これは経書の中の『礼記』から分割編纂した「大学」と「中庸」、そして準経書扱いされていた『論語』と、『荀子』と並称されていた『孟子』という四つの書物である。これらの書物は比較的短文で、また勝手な解釈を混入させるに適当な内容の書物であったため、利用されるに至ったと考えられている。特に朱子学が従来の儒学議論の中から、孟子の「性善説」を取り出し、極端に尊崇したことから、「性」「善」の内容をめぐって議論を呼ぶことになった。そのため、諸種の学派間の抗争は、直接には性善説の解釈をめぐって行われる場合も多々見られることになった。

    隋唐を承け、北宋を経過した儒学は、南宋中頃以後に徐々に道学と呼ばれる思想集団が頭を擡げ、南宋中頃に朱熹が道学を集大成して、遂に江南思想界を席巻するに及んだ。後、元朝によって南宋が亡ぼされた結果、南北中国の交流が始まり、朱子学は漸く華北にも地歩を築くに至った。

    この朱子学の解釈は、正統的には「四書」と旧来の経書に対する注釈という形で伝わったものであった。そしてこの注釈書は元朝以来、徐々に科挙に登用され、明朝初期に及び、科挙の使用注釈書は全て朱子学系統のものとなった。この結果、朱子学は念願の王朝権力との一体化を果たし、思想界に重大な影響を与えることになったのである。

    このように明朝に於いて確立した朱子学の権威は、明朝統治下のほぼ全域に亘り巨大な力を持つにいたったのだが、明朝政権下の中でも最も商業の発達していた江南地方には、明初期以来、朱子学と微妙な距離を置く人々がいた。例えば、江西省撫州の人呉与弼(康斎)や 陳献章(白沙)は朱子学派に属するものの、その聖人となるための修養法は読書よりも実践・静坐を重視するなど、後世から見ると若干朱子学とは異なる側面も見られなくはなかったのである。このことは特に陳献章の弟子湛若水(甘泉)と王守仁とに交流があること、また王守仁と陳献章との学問的関係も絶無とされないことなどが注目され、明初期の江南地方の儒学者と、明中期以後の陽明学者との関係を意味づけるものと考えられる場合もある。しかし総じて明初期の思想界は朱子学的側面が強く、呉与弼や陳献章にせよ、本人としては朱子学の実践を行っているつもりであったのである。

    なお以上の解釈には一定の歴史的根拠が与えられるが、これらの説明は日本の近代中国思想研究に於ける影響下にあることを前もって知る必要がある。近代以後、日本の中国思想研究は、哲学(西欧の哲学)を模倣する必要に迫られた結果、朱子学の思弁的側面を強調し、これを以て哲学と比較可能であると見なすようになった。この結果、朱子学とその派生形態である陽明学の中にある、思弁的側面に集中的に研究が加えられ、或はその思弁的側面こそが朱子学ないし陽明学の特徴であると考えられるに至った。それ故に、一般的に朱子学及び陽明学として説明される試みの多くは、この思弁的側面のみに注目したものとなっている。

    また朱子学(旧来の思想に対抗して生れたように考えられた)、特に陽明学(後に説明されるように、これは明朝が正式に認めた学問であった朱子学に対抗して生まれ出たように見えた)は、敗戦後の日本に於ける近代思惟・反権力・人間解放などの概念と容易に結びつき、朱子学及び陽明学の中、比較的それらの概念に近似する部分を抜き取り、そこに思想的価値を与えるという試みが盛んに行われた。以後に説明される陽明学の特徴も、その様な意味づけを与えられた結果であり、それが朱子学及び陽明学の歴史的・全面的な結果であると言い得るか否かは大いに疑問とする立場も一部にはある。(2006年現在)

    王陽明の登場

    朱子学は支配イデオロギーとなったが、それ故に体制擁護としての作用が肥大化し、かつての道徳主義の側面が失われていった。その道徳倫理を再生させようとしたのが、王陽明である。朱子学では「」(万物の法則であり、根拠、規範。「然る所以の故であり、且つ当に然るべき則」)はあらゆるものにあるとし(「一木一草みな理あり」)、そうした理について読書など学問することにより理解を深めた後に「性」(個々に内在する理、五常五倫)へと至ることができるとした。いわば心の外にある理によって、心の内なる理を補完せんとしたのである。

    当初は王陽明も朱子学の徒であったが、「一木一草」の理に迫らんとして挫折し、ついに朱子学から離れることになる。その際王陽明は朱子学の根本原理となっている「格物致知」解釈に以下のような疑義を呈した。まず天下の事事物物の理に格(いた)るというが、どうすれば可能なのかという方法論への疑義。そして朱子は外の理によって内なる理を補完するというが、内なる理は完全であってそもそも外の理を必要としないのではないか、という根本原理への疑義である。こうした疑義から出発し思索する中で陸象山の学へと立ち帰り、それを精緻に発展させたのが陽明学である。ただ陽明学は宋代の陸象山の学を継承したものではあるが、その継承は直接的なものではない。

    なお陽明学の登場は、朱子学の時ほどドラスティックではなかった。朱子学は政治学、存在論(理・気説)、注釈学(『四書集注』等)、倫理学(「性即理」説)、方法論(「居敬窮理」説)などを全て包括する総合的な哲学大系であって、朱子の偉大さは、その体系内において極めて整合性の取れた論理を展開した点にある。しかし陽明学はそのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であったに過ぎない。無論儒教に於いて倫理学的側面は最も重要だったといえるが、だからといって大規模なパラダイム・シフトが起こったわけではなく、その点は注意を要する。

    陽明学の根本思想

    王陽明の思想は『伝習録』、『朱子晩年定論』、『大学問』にうかがうことができる。そしてその学問思想の特徴は以下のことばに凝縮されている。

    1. 心即理 ― 陽明学の倫理学的側面を表すことば。「心即理」は陸象山が朱子の「性即理」の反措定として唱えた概念で、王陽明はそれを継承した。朱子学のテーゼ「性即理」では、心を「性」と「情」に分別する。「性」とは天から賦与された純粋な善性を、他方「情」とは感情としてあらわれる心の動きを指し、「情」の極端なものが人欲といわれる。そして朱子は前者のみが「理」に当たるとした。また「理」とは人に内在する理(=性)であると同時に、外在する事事物物の「理」でもあるとされる。つまり「理」の遍在性・内外貫通性が朱子学の特徴であった。
    しかし王陽明は「理あに吾が心に外ならんや」と述べるように、「性」・「情」をあわせた心そのものが「理」に他ならないという立場をとる。この解釈では心の内にある「性」(=理)を完成させるために、外的な事物の理を参照する必要は無いことになる。この考えはやがて外的権威である経書、ひいては現実政治における権威の軽視にまでいたる危険性をはらんでいた。なお王陽明の「心即理」は基本的に陸象山のそれをトレースしたものであるが、陸が心に天理・人欲という区別を立てなかったのに対し、王陽明は朱子と同様「天理を存し人欲を去る」という倫理実践原理を持っていた点は異なる。
    2. 致良知 ― 陽明学の方法論的側面を表すことば。「致良知」の「良知」とは『孟子』の「良知良能」に由来することばで、「格物致知」の「知」を指すが、「致良知」はそれを元に王陽明が独自に提唱した概念である。まず「良知」とは貴賤にかかわらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ」)であり、また人間の生命力の根元でもある。天理や性が天から賦与されたものであることを想起させる言葉であるのに対し、「良知」は人が生来もつものというニュアンスが強い。また陽明学において非常に動的なものとして扱われる。
    そして「致良知」とはこの「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限りその行動は善なるものとされる。逆に言えばそれは「良知」に基づく行動は外的な規範に束縛されず、これを「無善無悪」という。王陽明は「無善無悪」について、以下に掲げる「四句教」を残した。
    無善無悪是心之体-善無く悪無きは是れ心の体なり
    有善有悪是意之動-善有り悪有るは是れ意の動なり
    知善知悪是良知-善を知り悪を知るは是れ良知なり
    為善去悪是格物-善を為し悪を去るは是れ格物なり
    これは、理そのものである心は善悪を超えたものだが、意(心が発動したもの)には善悪が生まれる。その善悪を知るものが良知にほかならず、良知によって正すこと、これが格物ということだ、というのが大意である。なお善悪を超えたといっても、孟子的性善説から乖離したというわけではない。ここにおける「無」は単なる存在としての有無ではなく、既成の善/悪の観念・価値からは自由であることを指す。しかし誤解を招きかねないことばであることは間違いなく、この解釈をめぐり、後に陽明学は分派することになる契機となり、また他派の猛烈な批判を招来することにもなる。
    3. 知行合一 ― 良知の有り様(1)。ここでの「知」(良知)とは端的に言えば認識を、「行」とは実践を指す。陽明学に反感を持つ朱子学者や日本では誤解され実践重視論として理解されたが、これは本来の意味からずれた理解である。心の外に理を認めない陽明学では、経書など外的知識によって理を悟るわけではない。むしろ認識と実践(あるいは体験)とは不可分と考える。たとえば美しい色を見るときのことを例に取ると、見るというのは「知」に、好むというのは「行」に属する。ただ美しいと感じてその色を見るときには、すでにして好んでいるのであるから、「知」と「行」、つまり認識と体験とは一体不可分であって、両者が離れてあるわけではないと王陽明は説く。また「知は行の始めにして、行は知の成なり」とする。これが「知行合一」である。道徳的知である良知は実践的性格を有し、また道徳的行いは良知に基づくものであって、もし「知」と「行」が分離するのであれば、それは私欲によって分断されているのだ、とする。朱子学では「知」が先にあって「行」が後になると教える(「知先行後」)が、「知行合一」はこれへの反措定である。
    4. 万物一体の仁と良知の結合 ― 良知の有り様(2)。「万物一体の仁」とは、人も含めて万物は根元が同じであると考え、自他一体とみなす思想である。元々は程明道に見られる発想であるが、陽明はそれを良知と結びつけた。陽明は自らを含む万物はいわば一つの肉体であって、他者の苦しみは自らの苦しみであり、それを癒そうとするのは自然で、良知のなせるものだとした。ここに陽明学は社会救済の根拠を見出したのである。
    5. 事上磨錬 ― 自己修養のあり方。朱子学においては読書や静坐を重視したが、陽明はそうした静的な環境で修養を積んでも一旦事があった場合役には立たない、日常の生活・仕事の中で良知を磨く努力をしなければならない、と説いた。これが「事上磨錬」である。

    『大学』の再解釈

    宋明理学において四書は非常に重視された経書であるが、宋以後著しく経書中の地位が上昇し、且つ朱子と王陽明で解釈が分かれるのが『大学』である。以下、主な朱子学との相違を記す。

    1.テキスト
    朱子は大きく『大学』を改訂した。朱子以前より『大学』は文章・字句が並べ間違えられている、あるいは抜けていると言われていたが、それを改めたのが『大学章句』である。これは 程顥程頤のテキスト・クリティークを継承して朱子が完成させたもので、脱落したと思われる箇所は朱子がわざわざ書き足している。
    これに対し、王陽明は朱子学以前のテキストをそのまま使用する。ただ王陽明の序を付したものを『古本大学』という。
    2. 「大学」ということばの意味
    朱子学では大学を大人の学問と規定する。「大人」とはすなわち「おとな」の意。これに対し陽明学では小人に対する大人、すなわち君子の学問と規定した。
    3. 三綱領の「親民」
    三綱領とは『大学』における三つの総括的テーマで、『大学』はこのテーマを説明するためにあるといってもよい。その二番目にあたる「親民」の解釈をめぐっても朱子と王陽明は大きく異なる。まず朱子は「親」を「新」と読み替え、「民を新たにす」(自分自身の明徳を明らかにした君子が、他者にまでそれを及ぼし革新する)という風に解した。
    他方、王陽明は素直に「民を親しむ」と読む。
    4. 八条目の「格物致知」
    八条目とは三綱領の細目で「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八つである。朱子は読書・修養によって聖人の高みに至るとしたが、その筆頭に置かれた「格物致知」に根拠を求めた。すなわち「物に格(いた)る」(事物に即して理を極める、格=至)とした。
    一方王陽明はこの部分を再解釈し「物を格(ただ)す」(物=事、格=正)とした。朱子においては「知」は道徳知と知識知が未可分であったが、陽明は専ら道徳知として理解する。「事」とは心の動きである「意」の所在であって、「知」とは良知を指す。「格物致知」を、「意」を正すことにより良知を発揮することとしたのである。端的に言えば心の不正を正すと王陽明は再解釈した。
    5. 「誠意」の重視
    朱子学において最も要とされたのが、上記の「格物致知」である。これに対し陽明学では「誠意」を要とする「大学の要は、意を誠にするのみ」)。

       もっとも陽明学の観点から言えば、意が誠ならば、良知は致されているし、物も格されている。つまり「物を格し、知を致す」とは「意を誠にする」ことである。

    陽明学が開いた地平

    • 聖人観の変化
    以後、「聖人、学んで至るべし」と言われるように、聖人は読書・修養によって人欲を取り除いた後に到達すべき目標とされるようになる。つまり理念的にはあらゆる人が努力次第で聖人となる道が開かれた。ただ読書などにかまける時間が多くの人々にあるはずもなく、実際にはその道は閉ざされたままだったといえる。
    しかし陽明学では心以外の外的な権威を否定するため、もう読書などは不可欠なものとは認められない。むしろ万人に平等に、そしてすでに良知が宿っていることを認めていこうとする。王陽明のある弟子の「満街これ聖人」(街には聖人が充ち満ちている)ということばは端的にこのことを表現していると言えよう。陽明学にあって聖人となれる可能性があるのは、読書人のみならず普通の庶民にも十分あるとされるのである。朱子学との連続性を考慮するならば、宋以後における聖人の世俗化の動きが、明代中葉・末期に至ってひとつの頂点を迎えたといえる。
    • 人欲肯定への道を開く
    心全体を理とするならば、その内にある欲望のみを否定することは原理的にできない。王陽明自身は「天理を存し人欲を去る」という朱子学的な側面を捨てきってはいなかったが、下で述べるように、その弟子達は人欲を自然なものとして肯定していくのである。よく知られているように明代中期以後、急速に貨幣経済が浸透する。軽々に思想と経済の間の因果関係を結論づけることはできないが、陽明学における人欲の肯定が、発展著しい商業経済にとって非常にタイムリーな思想であったことは間違いない。
    • 経書の地位低下
    心を外的な規範から解放した結果、六経などの経書を尊び学ぶ姿勢が減退していくことになる。王陽明自身は「吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず」と言い切ってはいても、未だ経書への姿勢は謙虚さがあった。しかしその弟子、就中高弟と言われる者でも生涯に読んだ経書は四書だけといわれる人が陽明学派から出てくるようになる。かくして経書はその聖性を減じていき、六経は単なる歴史に過ぎないという解釈が生まれた。これは清代考証学の一派である黄宗羲ら浙東史学から章学誠を経て、章炳麟へ受け継がれていった。
    • 朋友関係の重視
    陽明学の一派は、講学といわれる研究会を好んだことで知られる。派内の交遊が壮んであることは、「五倫」(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の中でも特に「朋友」という人間関係を重視する姿勢を生み出した。すなわち極めて同志意識・連帯意識が濃厚であった。本来、朋友以外の四倫は上下関係を基礎におくものであるが、朋友に限っては水平方向の人間関係である。それを重視するということは、儒教的価値観に一石を投じるものであった。

    陽明学、その後の展開

    陽明学左派-心学の横流-

    王陽明の高弟としては、王畿(龍溪)、王艮(おうこん、心斎)、徐愛、欧陽崇一 (南野)、銭徳洪(緒山)、鄒守益 (東廓)、羅洪先 (念奄)、聶豹 (じょうひょう、双江)らが有名である。しかし王陽明の死後、陽明学はいくつかの派に分裂した。陽明の生前より、主に良知説における「無善無悪」の解釈をめぐり 王龍溪ら左派と朱子学に再接近しようとする銭緒山らは対立していたが、師の没後分裂が決定的となった。

    陽明学左派の中心人物は王龍溪と王心斎であって、この両者を王学の二王と称する。王陽明は心そのものに善悪の区別はないとしたが、「四句教」にあるように「意」「良知」「物」には善悪を認めた。しかし王龍溪らは師の説は徹底を欠くとして、「意」「良知」「物」も「無善無悪」としたのである。したがってそれらに基づく行動も善悪無しと主張した。これを「四無説」という。いわば善悪といった倫理を超えたものとして「良知」を解したのである。この主張は銭緒山ら右派のみならず、朱子学からも倫理に背くものとされ、彼らの思想・行動は心学の横流と呼ばれ厳しく批判された。また、彼らは狂人は聖人と紙一重という説も唱えていた。

    • 王龍溪
    王龍溪が上で師王陽明の良知説を革新したと述べたが、もう少し具体的にいうと、以下の二つの意味を良知に追加した。まず王陽明にあって良知はあくまで人の心にあるものであったが、弟子王龍溪はそれを「天則」(天のことわり)にまで拡大した点。次に「現成良知」を主張した点。「現成」とは、眼前にすでに出現しできていることであり、良知を発現させるために作為的もしくは意識的な修養は無用であって、良知はすでに既成の善悪を超え自律的に正しく判断するのだと主張した。王龍溪は良知を非常に動的なものとして捉え直したといえる。
    また理学がその成立当初から禅宗の影響を強く受けていることは、宋代より言われ続けてきたことであるが、陽明学左派はとりわけ仏教の、そして老荘思想の影響が顕著である。この傾向は王陽明も持っていたが、特に王龍溪はこの傾向を強めたといわれる。その証拠として経書の解釈においても積極的に仏教などの語彙を使用して説明しようとした点がよく指摘される。そして仏教も道教も真理の一面を有していたことを認め、三教一致を目指そうとした。この傾向は王心斎の一派にも見られ、それ故にもはや儒教ではなく 禅宗の学だという批判を招くに至った。
    • 王心斎と泰州学派
    王心斎も王龍溪と同じく「現成良知」を奉じていたが、思弁性よりも、社会に向けた実践活動に特徴を有する。具体的には王心斎は、『孝経』と四書を重視したが、経書の注釈に拘らない自得の学問を説き、独特な「淮南格物」を主張したこと、古代を理想とする尚古思想をもっていたことがその思想的特徴といえるが、なによりも重要なのは、知識人層以外の階層に陽明学を広めることを己が責務としたことである。王心斎らの一派は泰州学派といわれ、この派からは何心隠、羅如芳(近渓)、楊復所、李贄(りし、卓吾)、周海門、陶望齢を輩出した。彼らはその身の中で、万民を救うという士大夫的責任感と「知行合一」とを結合させ、以下に述べるような社会批判を繰り広げていくのである。この意識が非常に高揚して、「侠」あるいは「遊侠」という境地に達するものも現れた。
    李卓吾は陽明学左派の掉尾を飾る人物である。彼にいたって、朱子学が唱えた読書による人欲の排除といった理学の基本概念とは全く正反対の主張がなされた。まず李は良知説を改良し、「童心説」を唱えた。童心とは経書など外的権威・道徳を学ぶ以前の純真な心を指し、読書学問によってかえって失われるとした。また「穿・衣・吃飯、即ち是れ人倫物理なり」とも述べ、食欲や衣服を身につけようとすることは人間の本来の自然だとし、人欲を全肯定した。

    陽明学右派と東林党

    明末は魏忠賢ら宦官に与する閹党と顧憲成らの東林党が党争を繰り返していた。このふたつの党派は当時の政治や社会の現状を認めるか否かによって分かたれた集団であって、思想的な差異によるものではない。したがって宦官政治に批判的な人々は朱子学・陽明学問わず東林党に集った。しかし東林党に入った陽明学の人々は右派が中心であったため、陽明学左派の行き過ぎた思想・行動には批判的であった。ただ人欲を人間本来の自然とみる考えを全否定することはなく、それを認めつつ、人欲をコントロールする役目を「理」に与えることにより現実的な政策・思想を構想しようとした。それは清代の考証学や経世致用の学を生み出す端緒となる。

    その代表的思想家は黄宗羲である。黄は陽明学右派劉宗周の弟子にあたり、『明夷待訪録』や『明儒学案』を著している。前者は政治・経済・軍事といった諸方面から国家のあり方を論じたもので、特に皇帝専制政治批判は舌鋒鋭く、清末に至り再評価された。そのため黄は「中国のルソー」と呼ばれる。後者は中国初の哲学史とも言うべき著作で、明代の儒学史研究において今でも必読書となっている。黄宗羲は、陽明学左派のようなひたすら唯心的に事柄を論ずる学風を好まず、事実に即した実証的な学問の確立を求めた。その学風は考証学の一派、浙東学派となって清朝の主要な思潮となっていくのである。

    明末清初の陽明学

    明朝の政治・思想に多大な影響を与えた陽明学であったが、その明朝と共に衰退し、清朝では考証学に学問の主役の座を奪われるに至る。しかし全くの絶学とはならず、清初においては右派が中心だったため穏健となり、陽明学は「聖学(=朱子学)と異同非ず」と 康熙帝が言うように必ずしも異学視されていたわけではなかった。ただすでに陽明学単体で学ばれるというよりも、「朱(子)王(陽明)一致」といわれ、朱子学を補完するものとして扱われたに過ぎない。雍正帝以降、朱子学の正学化確立、乾隆嘉慶の考証学全盛期(いわゆる乾嘉の学)到来によってさらにその傾向を強め、陽明学は衰微した。再び脚光を浴びるのは、清朝の末期になってからであった。

    清末の陽明学

    陽明学の沈滞状況は、1840年アヘン戦争以降徐々に変化する。まず『海国図志』を著した魏源によって陽明学は見直され初め、康有為の師である朱次琦は「朱王一致」を再び唱えるなど陽明学は復活の兆しを見せるようになる。後に今文公羊学を掲げる康有為自身も吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したという。

    下の日本の項目で述べるように陽明学は日本に伝来して江戸時代以降の日本史に大きな足跡を残した。特に明治維新の思想的原動力として大きな影響を及ぼしたといわれる。明治となっても、三宅雪嶺が『王陽明』という伝記を著して陽明学を顕彰し、また陽明学に国民道徳の基礎を求める雑誌『陽明学』やその類似雑誌がいくつも創刊された。

    日清戦争以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも俄然注意が向けられるようになった。明治期、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生達にもこの明治期の陽明学熱が伝わり、陽明学が中国でも再評価されるようになる。「陽明学」という呼称が、中国に伝わったのもこの頃であった。清代に禁書とされたこともあって、ほとんど忘れられていた李卓吾の『焚書』や『蔵書』は、明治期の陽明学熱によって中国に逆輸入されている。

    中国における陽明学再評価に最も力があったのは、先に触れた康有為の弟子梁啓超である。梁啓超は1905年上海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学を奉じた吉田松陰を称揚した。また同時期書かれた梁の『徳育鑑』や「論私徳」(代表作『新民説』の一節)には、井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』の影響が見られる。こうした梁の傾向は戊戌政変後に日本に亡命して以降顕著となるが、それは彼が当時求めていた国民国家創出と深く関係する。まとまりを欠いた「散砂」のような中国の人々を強く結合させるためには、国民精神・道徳が不可欠だと梁啓超は考えていた。陽明学宣揚は、国民国家の精神に注入すべく為されたものであった。

    こうした梁啓超の国民国家精神に陽明学を注入するというアイデアそのものも、実は当時の明治思潮から借りてきたものであった。明治30年代当時は、欧化主義の進展によって日本の道徳倫理あるいは武士道精神といったものが退廃にさらされていると考え、それらを陽明学で蘇らせようという風潮が日本にはあったが、これが明治期における陽明学熱の背景である。こうした風潮に梁啓超は感化されたのである。いわば梁啓超らは明治日本において陽明学の再発見・再評価したのみならず、陽明学を柱とする国民精神創造運動も取り込んだといえよう。

    日本における展開

    日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた。一方、陽明学は王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合もあった。 自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。鏡面のような心心即理)の状態に無いのに、己の私欲、執着を良知と勘違いして、妄念を心の本体の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新志向になりやすいという説もある(後述の山田方谷も、誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている)。

    江戸期の代表的な陽明学者は中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。

    幕末での陽明学の信奉者

    幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。吉田松陰高杉晋作西郷隆盛河井継之助佐久間象山が歴史上おり、革命運動(大塩平八郎 --大塩平八郎の乱 )に身を挺する者が多かったのは事実である。一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、瀕死の藩財政を見事、建て直した。山田方谷自身は陽明学者だったが、彼は陽明学の持つ危険性も承知しており、弟子には先に朱子学を学ばせ、センスの良いものにのみ、陽明学を教えた。山田方谷佐久間象山佐藤一斎が塾頭をしていた昌平黌で学んでいる。塾長の方谷に若き日の象山がいどんだ連夜の激論は塾の語り草であり、佐門の二傑と称された。佐藤一斎は昌平黌の儒官として、立場上朱子学を奉じなければならなかったので、公然と陽明学を主張できなかった。しかし、一斎の著である『大学一家私言』は、陽明学の視点で書かれたもので、特に幕末の志士に大きく影響をあたえた『言志四録』には陽明学の思想が散見される。また、彼が中江藤樹を尊崇していたことや、彼の門から陽明学の影響を受けたものが多数輩出していることなどから、一斎が陽明学を奉じていたことは明白である。そのため、『陽朱陰王』の謗りを受けたが、その主とする所は陽明学に存すると言える。

    近代日本における陽明学

    もっとも、日本における陽明学の全盛期は、明治維新以降だとする説もある。三宅雪嶺が1893年に刊行した『王陽明』をきっかけとする幕末陽明学の再興の動きが欧化政策の反動として高揚したナショナリズム武士道の見直しの動きと結びつき、明治後期から大正時代にかけてピークを迎えたという考え方である。当時の陽明学は日本国民の精神修養の一環として、死生を逸脱した純粋な心情と行動力とを陶冶する実践倫理として説かれる部分が大きかった[2]

    各界における信奉者

    財界
    その他
    • 広瀬武夫 - 大日本帝国海軍軍人軍神
    • 東郷平八郎 - 大日本帝国海軍軍人
    • 奥宮健之
    • 幸徳秋水
    • 富岡鉄斎 - 文人画家・儒学者
    • 三島由紀夫 - 作家。ただし、三島は王陽明の『伝習録』を直接読んでいる形跡はなく「日本陽明学」の系譜からの影響を受けた。三島は井上哲次郎の『王陽明の哲学の心髄骨子』を読んでいる。三島の評論には『革命哲学としての陽明学』がある[3]
    • 安岡正篤 - 戦後初期における自民党フィクサー、陽明学者。今日、陽明学のイメージを「帝王学」にしてしまった点で、本来は「心学」である陽明学イメージを変えた(歪めた)という意味で、功罪がある。安岡が東京帝国大学卒業時に出版した『王陽明研究』は日本および中国でも識者に大きな影響を与えた。安岡は大正末期から様々な活動をしており、若い頃は西洋の思想・宗教・哲学・文学なども耽読し、東洋思想に辿り着いた。安岡の著書は『東洋宰相学』『日本精神の研究』など多岐にわたる。それらはトータルとして安岡の「人間学」として大成されたもので、安岡を陽明学者としてのみ位置づけるのは本質を欠くとも言える。

    朝鮮における展開

    朝鮮半島には16世紀初めにもたらされた。その初期に陽明学を奉じた者としては南彦経李瑤がいる。次いで許筠張維が出て、陽明学を発展させた。前者は陽明学の立場から朱子学の礼教的側面を批判した。また朝鮮では最も早く人欲を肯定した人でもある。後者は朱子学の「知先行後」を論難し、陽明学の「知行合一」を賞賛した。また陽明学の個性尊重の側面を受け継ぎ、「自治・自立・自主」に重きを置いた学説を説いた。その後張維の影響を強く受けて、朝鮮陽明学の代表ともいえる鄭斉斗(霞谷)が出た。彼は朱子の理気二元論に異を唱え、理と気は一体不可分であるとし、また「知行合一」を称揚して実践を重視した。当時李氏朝鮮でも朱子学は形骸化しつつあったが、鄭は陽明学によって儒教を再生することを唱えるに至る。

    しかし朝鮮にあって陽明学は一貫してマイノリティーの地位を脱しきれなかった。本場中国以上に朱子学派から抑圧され、徐々に衰退していくのである。たとえば李退渓の著した『伝習録弁』は陽明学を批判して非常に厳しい。そのため陽明学の朝鮮史における影響は中国・日本に比して高いとは言えない。ただ朝鮮陽明学は実学・経世致用の思想に影響を与えたことは事実である。

    出典

    1. 『大辞泉』
    2. 荻生茂博「陽明学」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年)
    3. 三島由紀夫『行動学入門』(文藝春秋、1970年。文春文庫、1974年)に収む。

    参考文献

    • 山田準鈴木直治訳 『伝習録岩波文庫、1936年 復刊多数
    • 溝口雄三訳 『伝習録』 中央公論新社・新版中公クラシックス、2005年、
    • 島田虔次訳・解説 『中国文明選6 王陽明集』 朝日新聞社、1975年
    • 島田虔次 『朱子学と陽明学』 岩波新書、1967年、
    • 島田虔次訳・解説 『大学・中庸』 朝日文庫(上下)、1978年
    • 荒木見悟 『陽明学の位相』 研文出版、1992年、
    • 明徳出版社 『王陽明全集』(全10巻)、ほかに荒木らの編で『陽明学大系』全11巻別巻1、『シリーズ陽明学』など多数刊行。
    • 吉田公平 『日本における陽明学』 ぺりかん社、1999年、
    • 吉田公平 『陽明学が問いかけるもの』 研文出版〈研文選書〉、2000年、
    • 大橋健二 『良心と至誠の精神史―日本陽明学の近現代』 勉誠出版、1999年
    • 林田明大『真説「陽明学」入門、黄金の国の人間学』三五館、1994年
    • 林田明大『真説「伝習録」入門、人生を変えるには、まず思いから』三五館、1999年
    • 林田明大『イヤな「仕事」もニッコリやれる陽明学』三五館、2008年

    外部リンク


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