温故知新TOP 安岡正篤の名言集 安岡正篤のプロフィール 安岡正篤著書一覧 安岡正篤(やすおか まさひろ/1898年2月13日-1983年12月13日/男性)は、大阪府大阪市出身の陽明学者・思想家・教育者。多くの政治家や財界人の精神的指導者や御意見番として知られる人物であり、安岡を師と仰いだ政治家には「吉幕」とも呼ばれた人物であるが、本人は「自分はただの教育者にすぎない」と黒幕と呼ばれるのも嫌がっていたとのこと。また「平成」の元号の考案者と言われており、「いつか昭和が終わったら次は平成というのはどうだろう?平和が成り立つという意味だ」と語ったとされている。(参考文献:ウィキペディア+楽天ブックス) 著作・書籍 主な著作・書籍に「安岡正篤一日一言 心を養い、生を養う」「安岡正篤活学一日一言 己を修め、人を治める」「「人間」としての生き方 現代語訳『東洋倫理概論』を読む」「活眼活学」「論語に学ぶ」「十八史略 激動に生きる強さの活学」「先哲が説く指導者の条件 『水雲問答』『熊沢蕃山語録』に学ぶ」「人物を修める 東洋思想十講」「いかに生くべきか 東洋倫理概論」「安岡正篤活学百言」などがある。 ・活力・気迫がなければ、 善も悪も、是も非もない。 ・幸福な人生とは、その人が一生の間にどれだけ「幸せだ」という感情を持つ事ができるかによって決まるもの。 ・こう考えると、 順風満帆の時もそうでない時も、その時、「どう感じるか」が重要になってくる。 ・つまり、いま、この瞬間を どう思うかなのである。 ・今を幸せと感じられれば、人生は「いま」の連続体なのだから、一生が幸せなのである。 ・最後まであきらめなかった人間が、成功しているのである。 ・一つの灯火を掲げて一隅を照らす。 ・そうした誠心誠意の歩みを続けると、いつか必ず共鳴する人が現れてくる。 ・一灯は二灯となり三灯となり、いつしか万灯となって、国をほのかに照らすようになる。 ・太い筆で細かい字を書く。 これが人生を渡る秘訣だ。 ・凡と非凡の分かれる所は能力の問題ではない。精神であり感激の問題だ。 ・一人の人間の死後に残り、思い出となるのは、 地位でも財産でも名誉でもない。 ・その人の心・精神・言動である。 ・愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、 ・そんな人間の方が、 根が真面目なだけに、 修養努力して大人物になることが多い 。 ・人間は学び続けなければならない。 学ぶことをやめたら、 人間でなくなる。 ・自己と仕事が分裂していてはダメ。 ・仕事に打ち込んでいくと、自分の対象である仕事は、 自己と一つになることによって精神化される。 ・そうすると、どんどん物事が解決していく。 ・なるべく人の世話役を心がけよ。 ・そして、報(むくい)を望むな。 求むるな。 ・人物が偉大であるほど立派な環境を作る。 ・人間ができていないと環境に支配される。 ・言葉は言う人によって、みな意味が違ってくる。 ・文字や言葉だけで、それがみな同じだと思ったら大間違いである。 ・人間なにが悩みかというと、自分が自分を知らざることである。 ・人を論じたり、 世を論じたりすることはやさしいが、 自分を論じ、 自分を知るということは、実はこれが一番大事であるにかかわらず、なかなか難しいことである。 ・人間は、先ず自分を責むべきであって、 世の中や時代を責むべきではない。 ・世の中が悪い、 時代が悪いというのならば、 ・そういう時世に対して、一体自分はどれだけ役に立つのか、それをどう解釈し、それに対してどういう信念・情熱を持っているのか、よく自分を責めるがよい。 ・皆が利を求めて行動するようになると、お互いに忌みあい、必ず人間関係、人間の生活、人間の事業というものを壊してしまう。 ・人間は自得から出発しなければならない。 ・人間はいろんなものを失うが、何が一番失いやすいかといいますと、自己である。 ・人間はまず自己を得なければいけない。人間はまず根本的に自己を徹見する。 ・これがあらゆる哲学、宗教、道徳の、基本問題である。 ・人間の自由は物質的満足の得られることにあるのではない。 ・窮しても苦しまず、憂えても意哀えざるにある。 ・禍福終始を知って惑わぬことにある。 ・積み上げて自分の身ほどの書物は、毎年読み続けるくらいの心がけが、人物を磨いていくのである。 ・道に志したなら、衣食がたとえ粗末であっても気にすることはない。 ・他人が見ても心地よい表情や態度を心がけて、感情の乱れを表に出してはいけない。 ・細心の注意を払い、実行する大胆さを持て。 ・人々の楽しみの後に自分は楽しめ。
知識・見識・胆識の三識が兼ね備わってはじめて人物の器量となる。 最後まであきらめなかった人間が、成功しているのである。 愚直で、少々頭も悪く、小才も利かぬ、そんな人間の方が、根が真面目なだけに、修養努力して大人物になることが多い 。 人間は何事によらず新鮮でなければならない。ところがいかにすれば新鮮であり得るかといえば、やはり真理を学んで、真理に従って生活しなければいけない。もっと突っ込んで言えば、人間としての深い道を学ぶ。正しい歴史伝統にしたがった深い哲理、真理を学び、それに根ざさなければ、葉や花と同じことで、四季に従って常に魅力のある、生命のみずみずしさを維持してゆくことはできるものではない。 我々の生活が自堕落になったとき、心から馬鹿と叱ってくれる畏敬する人を持つ者は幸いだ。 「さいわい」にも幸と福と二字ある。学問的にいうと、「幸」というのは幸いの原因が自分の中にない、偶然的な、他より与えられたに過ぎない幸いを幸という。たまたまいい家庭に生まれたとか、思いがけなく上手い巡り合わせにぶつかったとかいう、これは幸。そうではなくて原因を自己の中に有する、すなわち、自分の苦心、自分の努力によって勝ち得たる幸いを「福」という。福の示偏は神さまのことだ。旁(つくり)は「収穫を積み重ねた」という文字だ。農家でいうならば俵を積み上げるという文字。神の前に蓄積されたるものが「福」である。 徳とは無類の明るさのことである。 人間の脳というものは、いくら使ってもくたびれないばかりでなく、難しいことに使えば使うほど機能が優れてくる。つまらないことに使っておると退化する。 太陽の光に浴さなければ、物が育たないのと同じことで、人間の理想精神というものは心の太陽なのだ。理想に向かって情熱を湧かすということは、日に向かう、太陽を仰ぐということだ。これがないと人間のあらゆる徳が発達せず、したがって才知芸能も発達しない。 一、互いに明朗闊達なるべし 一、盛んに研究討論すべし 一、人に対して謙虚なるべし 一、事に当たって正義を立つべし 一、自ら処するに敏なるべし 英仏の古諺にいわく、「朝こそすべて」と。一日24時間、朝があり昼があり夜があるとするのは死んだ機械の一日にすぎない。活きた時間は朝だけ、換言すれば、本当の朝を持たなければ一日無意義だということだ。朝を活かすことから人生は始まる。 史記に「利は智をして昏(くら)からしむ」と書いている。人間は利益ばかり追求していると、頭が悪くなるというのである。ものごとの理(ことわり)がわからなくなって、思いがけない恨みを招いたりする。論語に「利をもって行えば怨(うら)み多し」と出ているが、経済というものは本来、矛盾衝突を内包するから、利害による恨みが出やすい。 凡と非凡のわかれるところは能力のいかんではない。精神であり感激の問題だ。 子供は言説で教えるよりも、情的に感じ取らせることの方が大事なのです。親父は千言万言を費やして説教するよりも、黙って子供に見せることであります。 名高い言葉に、「いかに善を為(な)すかということよりも、いかに善であるかということの方が大事である」というのがありますが、人間の第一義は、何を為すかということではなくて、何であるかということである。 大抵の人は、お辞儀というのは「相手に敬意を表する」ことと思っているが、それは第二義である。第一義は相手を敬するということではなくて、「自らを敬す」ということである。お辞儀をするということは「自分が相手に敬意を表すと同時に、相手を通じて自分が自分に対して敬意を表する」ことである。 人間なにが悩みかというと、自分が自分を知らざることである。人を論じたり、世を論じたりすることはやさしいが、自分を論じ、自分を知るということは、実はこれが一番大事であるにかかわらず、なかなか難しいことである。人間は、先ず自分を責むべきであって、世の中や時代を責むべきではない。世の中が悪い、時代が悪いというのならば、そういう時世に対して、一体自分はどれだけ役に立つのか、それをどう解釈し、それに対してどういう信念・情熱を持っているのか、よく自分を責めるがよい。 幸福な人生とは、その人が一生の間にどれだけ「幸せだ」という感情を持つ事ができるかによって決まるもの。こう考えると、順風満帆の時もそうでない時も、その時、「どう感じるか」が重要になってくる。つまり、いま、この瞬間をどう思うかなのである。今を幸せと感じられれば、人生は「いま」の連続体なのだから、一生が幸せなのである。 歴史はくり返す。たいていのことは古典の中にある。何千年もたっているのに、人間そのものの根本は少しも変わっていない。自分が創意工夫し、真理を発見したと思っているが、それは大変な錯覚で、すでに古典にのっていることを知らないのだ。 大努力を成すには、当然自ら苦しまねばならぬ。苦しんで開拓したものでなければ本物ではない。人並みの努力をしたのでは優れた者にはなれない。 人間は、早成する、早くものになるというほど危ないことはない。人間もなるべく晩成がよい。まあ、死ぬ頃なんとかものになるというくらいの覚悟でぼつぼつやるがよい。 優れた者となるためには、人の数倍の努力と苦労をしなければならない。人の寝るところは半分にし、人の食うところは半分くらいにしても、努力するところは人の10倍も20倍もやるだけの元気がなければならぬ。 人間は学び続けなければならない。学ぶことをやめたら、人間でなくなる。 太い筆で細かい字を書く。 これが人生を渡る秘訣だ。しかし、それには充分の力量がなければならぬ。 第一流の人物はどこか普通の人の型にはまらぬものがなければならぬ。凡人の測り知れない多面的な変化に富んでいなければならぬ。天に通ずる至誠、世を覆う気概とともに宇宙そのもののような寂寞(せきばく:ものさみしいさま)をその胸懐に秘めていてほしい。 世の中の法律や制度をいかに変えてみても、イデオロギーをいかに振り回してみても駄目である。人間そのものをなんとかしなければ、絶対に人間は救われない。 一人の人間の死後に残り、思い出となるのは、地位でも財産でも名誉でもない。その人の心・精神・言動である。 人間は自得から出発しなければならない。人間はいろんなものを失うが、何が一番失いやすいかといいますと、自己である。人間はまず自己を得なければいけない。人間はまず根本的に自己を徹見する。これがあらゆる哲学、宗教、道徳の、基本問題である。 人に嫌われぬための5か条 一、初対面に無心で接すること。有能な人間ほど、とかく慢心や偏見があり、どうしても有心で接する、これはいけない。 一、批判癖を直し、悪口屋にならぬこと。 一、努めて、人の美点・良所を見ること。 一、世の中に隠れて案外善いことが行われているのに平生注意すること。 一、好悪を問わず、人に誠を尽くすこと。 いかに貴い職業でも、人によって賤(いや)しくなる。たとえ賤しい仕事でも、人によっていくらでも貴くすることができる。 人間の本当の正しさは、ちょっとした日常の挨拶や振る舞いに表れ、何でもない行動に、案外人間内容やその背景を知ることができるものです。これに反して、大層偉そうな大げさなことを言う者は当てになりません。こんな人ほど、家の中や友達との付き合いになると、とんでもない愚劣なことを平気でやるものであります。ついうっかり言った言葉、ちょっとやった行為がその人の人間を決定します。 本当の自分を知り、本当の自分をつくれる人であって、初めて人を知ることができる、人をつくることができる。国を知り、国をつくることもできる。世界を知り、世界をつくることもできる。