NHKテレビ 「100分de名著」 【菜根譚 Saikontan】を 放送 、好評 テキスト (逆境こそ自分を鍛える時だ!) (幸と不幸の境目はどこか? すべて人の心が決めるのだ) 。.。.   
    [温故知新][姉妹篇(前集)] [姉妹篇(後集)][100分de名著] 
はじめに
前集001~030 前集031~060 前集061~090 前集091~120 前集121~150 前集151~180 前集181~210 前集211~222
後集001~030 後集031~060 後集061~090 後集091~120 後集121~135
原文
巻之
原文
巻之
明刻本 清刻本

・国立国会図書館 [菜根譚. 巻之上] [ 巻之下]

菜根譚(さいこんたん) 前集 031~060 洪自誠

《前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説く》


前集31項 富貴、聡明な人物は

富貴家宜寛厚、而反忌刻。是富貴而貧賤其行矣。 如何能享。 聡明人宜斂蔵、而反炫耀。 是聡明而愚(蒙)其病矣。 如何不敗。

富貴(ふき)の家は宜(よろ)しく寛厚(かんこう)なるべくも、反(か)って忌刻(きこく)なり。是れ富貴にして、其の行いを貧賤(ひんせん)にするなり。如何(いかん)ぞ能(よ)く享(う)けん。 聡明な人は宜(よろ)しく斂蔵(れんぞう)すべくして、反って炫耀(げんよう)す。是れ聡明にして、其の病を愚(蒙)にするなり。如何(いかん)ぞ敗れざらん。

地位も財産にも恵まれている者は、当然、他人に対し寛容であるべきだが、反して他人をねたみ残酷なことをする。これは物に恵まれても、行いが貧しいからである。このようなことでどうして福を得られようか。 また、道理に明るく聡明な者は、当然、それを隠しておくべきだが、反して才能を自慢する。これは、才能に恵まれていても、心が貧しいからである。このようなことでどうして 失敗しないとと言えようか。 つまり、活人は強みを活かして誇らず、弱みを補われて感謝を忘れず。 言い換えれば、活人の所業は、秘すれば華、秘さざれば華ならずなのだ。


前集32項 立場を変えて見れば

居卑而後知登高之為危。 処晦而後知向明之太露。 守静而後知好動之過労。 養黙而後知多言之為躁。

卑(ひく)きに居(お)りて而後(しかるのち)高きに登るの危きを知る。 晦(くら)きに処(お)りて而後(しかるのち)明るきに向うの太(はなは)だ露(あらわ)るるを知る。 静(せい)を守りて而後(しかるのち)動を好むの労(ろう)に過ぐるを知る。 黙(もく)を養いて而後(しかるのち)言の多きの躁(そう)たるを知る。

低いところに居るからこそ、高いところに上るのだろうが、危険をわきまえておくこと。 暗いところに居るからこそ、明るいところに出るだろうが、でしゃばりをわきまえておくこと。 静けさを守っていたからこそ、動きたくなるだろうが、働き過ぎをわきまえておくこと。 言葉少ないを守っていたからこそ、多弁の騒がしさをわきまえておくこと。 つまり、活人は、対極に在る時に学び、対極に行きて活かすという戒めを忘れてはならない。 言い換えれば、欲望に任せた過剰反応、反動は厳に謹むのが活人ということ。


前集33項 道徳仁義にとらわれぬ心

放得功名富貴之心下、便可脱凡。 放得道徳仁義之心下、纔可入聖。

功名富貴(こうめいふき)の心を放(はなち)得下(えくだ)して、便(すなわ)ち凡を脱すべし。 道徳仁義(どうとくじんぎ)の心を放ち得下(えくだ)して、纔(はじめ)て聖に入るべし。

成功しよう、金持ちになろうとする心を捨て切ることが出来れば、並外れた人間になれる。 道徳や仁義を重視する心を捨て切れれば、聖人の仲間入りが出来る。 つまり、活人は大志を抱いて大志に任せず、大欲を抱いて大欲に任せず。 言い換えれば、活人の願いは偉大で、現実に対しては足るを知る。


前集34項 独善と知ったかぶり

利欲未尽害心、意見乃害心之?賊。 声色未必障道、聡明乃障道之藩屏。

利欲は未(いま)だ尽(ことごと)くは心を害せず、意見は乃(すなわ)ち心を害するの?賊(ぼうぞく)なり。 声色(せいしょく)は未(いま)だ必ずしも道を障(ささ)ず、聡明は乃(すなわ)ち道を障(ささえ)うるの藩屏(はんぺい)なり。

利益を求める気持ちは必ずしも善なる心を損なうわけではないが、思い込みが善を蝕む害虫のようなものである。 名声や色情は必ずしも修行の道のさまたげになるわけではないが、謙虚に欠けることが、修行の道の妨げとなる障害物のようなものである。 つまり、活人の心根は、大志を抱いて、拘らず、囚われず、謙虚に真面目に誠実に。 言い換えれば、活人は、清心万能、邪心万危を知る。


前集35項 人に譲る心がけ

人情反復、世路崎嶇。行不去処、須知退一歩之法。 行得去処、務加譲三分之功。

人情は反復し、世路(せいろ)は崎嶇(きく)たり。 行(ゆ)き去らざる処(ところ)は、須(すべか)らく一歩を退くの法を知るべし。 行き得去(えざ)る処は、務(つとめ)て三分を譲るの功を加えよ。

人情は手のひらを反すように変り易く、人生行路はまことに険しい。 抜き差しならないところでは、必ず一歩引くことをわきまえ、 通れるところでも、チョッと譲ることをわきまえるべきである。 つまり、活人は攻めるにしても守るにしても、リスクを計算して、「一歩引く」という行動スタイルをとるべきだということ。 言い換えれば、謙譲は美徳以上の価値があるということを知って実践しているのが活人と言えるのだろう。


前集36項 相手によって

待小人、不難於厳、而難於不悪。 待君子、不難於恭、而難於有礼。

小人(しょうにん)を待つは、厳に難(かた)からずして、悪(にく)まざるに難(がた)し。君子を待つは、恭(きょう)に難(かた)からずして、礼あるに難(がた)し。

未熟者に厳しくするのは簡単だが、憎まないようにするのは難しい。 上に立つ者に対し媚びるのは簡単だが、礼をつくすのは難しい。 つまり、活人への道は、己を鍛えることなのだ。 言い換えれば、活人は安きに流れてはならないということだ。


前集37項 華美を拝して

寧守渾?而黜聡明、留些正気還天地。 寧謝紛華而甘澹泊、遺個清名在乾坤。

寧(むし)ろ渾?(こんがく)を守りて、聡明を黜(しりぞ)け、些(いささ)かの正気を留めて天地に還(かえ)せ。 寧(むし)ろ紛華(ふんか)を謝して、澹泊(たんぱく)に甘んじ、個の清名(せいめい)をして乾坤(けんこん)に遺(のこ)せ。

素朴で素直な態度を守り、頭に依存することなく、自然体の元気で生き、死ぬ時にはその元気を天地に還(かえ)しなさい。 つまり、活人は、元気に生きて、元気に死になさいということ。 言い換えると、活人は己の『元気』と『真気』で社会貢献出来るのだろう。


前集38項 自分の心に勝つ

降魔者、先降自心。 心伏則群魔退聴。 馭横者、先馭此気。 気平則外横不侵。

魔(ま)を降(くだ)すには、先(ま)ず自(みずから)の心を降(くだ)す。心伏(しんふく)すれば、則(すな)ち群魔(ぐんま)退(しりぞ)き聴(したが)う。 横(ほしいまま)なるを馭(ぎょ)するには、先ず此(こ)の気を馭(ぎょ)す。気平(きたいら)かなれば、則(すなわ)ち外横(がいこう)も侵(おか)さず。

魔性のものを降伏させようとするなら、まず自分の心にある魔性を降伏させなければならない。煩悩や妄想を滅することができれば、外的な魔性は引き下がり逆らうことはなくなる。 また、横暴なものを制御しようとするなら、まず自分の心にある横暴な気を制御するしなければならない。勝気や客気を平静にすれば、外的な横暴は自分に進入することはない。 つまり、怖いからといって逃げればつけ込まれる。しかし、毅然としていれば、つけ込まれないということ。正に活人道。 言い換えれば、活人の奥義は泰然自若。平常心是道。無事是貴人ということだろう。


前集39項 若い人の教育にあたって

教弟子如養閨女。 最要厳出入謹交遊。 若一接近匪人、是清浄田中下一不浄種子。 便終身難植嘉禾。

弟子を教うるは閨女(けいじょ)を養うが如(ごと)し。最も出入(でいり)を厳しくし、交遊を謹(つつし)むを要す。 若(も)し一(ひと)たび匪人(ひじん)に接近せば、是れ清浄(しょうじょう)の田中(でんちゅう)に一(いつ)の不浄(ふじょう)の種子を下すなり。 便(すなわ)ち終身、嘉禾(かか)を植え難(がた)し。

若者を教育する時は、箱入り娘を養育するのと同じ。人の出入りを厳しく監督し、付き合い相手を慎重に選ばせなければならない。もし、一度でも素行の悪い者に近づけば、綺麗な田畑に不浄な種を撒くようなもので、以後は一生、良い苗を植えることが出来なくなる。 つまり、活人が若者を教育する際には、時、場所、人を観て厳格に行うことが大切ということ。 言い換えれば、活人自身が口先だけでなく、模範を示している必要がある。


前集40項 道理は一歩も譲るな

欲路上事、毋楽其便而姑為染指。 一染指、便深入万仭。 理路上事、毋憚其難而稍為退歩。 一退歩、便遠隔千山。

欲路上(よくろじょう)の事は、其の便(べん)を楽しみて姑(しばら)くも染指(せんし)をなすこと母(なか)れ。一(ひと)たび染指(せんし)せば、便(すなわ)ち深く万仭(ばんじょう)に入らん。 理路上(りろじょう)の事は、其の難(なん)を憚(はばか)りて、稍(わず)かも退歩(たいほ)を為(な)すこと母(なか)れ。一(ひと)たび退歩(たいほ)せば。便(すなわ)ち遠く千山(せんざん)を隔(へだ)てん。

欲望に絡んだことは、それがいくら楽しくても、染まってはならない。もし一度でも染まってしまえば、奈落の底に落ちてしまう。 それに対して、道理に関しては、それが如何に難しいからといって後ずさりしてはならない。もし一度でも後ずさりすれば道理は山々の彼方に離れて届かなくなってしまう。 つまり、活人の生き方は、欲望の実現は謹み、使命は必ず貫徹しろということ。 言い換えれば、活人には、言行一致した社会の模範となる生き方が望まれる。


前集41項 極端は避ける

念頭濃者、自待厚、待人亦厚、処処皆濃。 念頭淡者、自待薄、待人亦薄、事事皆淡。 故君子、居常嗜好、不可太濃艶、亦不宜太枯寂。

念頭濃(ねんとうこまや)かなる者は、自(みず)から待つことに厚く、人を待つこともまた厚く、処々皆濃(しょしょみなこま)やかかなり。 念頭淡(ねんとうあわ)き者は、自(みず)から待つこと薄く、人を待つこともまた薄く、事々皆淡(じじみなあわ)し。 故(ゆえ)に君子は居常(きょじょう)の嗜好(しこう)は、太(はなはだ)しく濃艶(のうえん)なるべからず、亦(また)宜しく太(なはだ)しく枯寂(こせき)なるべからず。

心が細やかな人は、自分にも他人にも、全てに対して細やかだ。これに対し心が大雑把な人は、自分にも他人にも、全てに対しての大雑把だ。 だから、上に立つ者は、細かすぎても、大雑把過ぎても良くない。 つまり、活人は、何事も中庸を旨としなさいということだ。 言い換えれば、活人は、極一般的な人間であれとも取れる。


前集42項 天地をも動かす

彼富我仁、彼爵我義。君子固不為君相所牢籠。 人定勝天、志一動気。 君子亦不受造物之陶鋳。

彼は富(ふ)なれば我は仁(じん)、彼は爵(しゃく)なれば我は義(ぎ)。君子固(くんしもと)より君相(くんそう)に牢籠(ろうろう)せられず。 人定(ひとさだ)まれば天に勝ち、志一(こころざしいつ)なれば気を動かす。君子亦(くんしまた)造物(ぞうぶつ)の陶鋳(とうちゅう)を受けず。

彼が財力で来るなら、自分は人格で対抗し、彼が名誉で来るなら自分は正義で対抗する。正しく人の上に立つ者は、元来、財力や名誉には取り込まれない。 人も心が安定すれば、自然現象にも勝り、人の志を集めれば、天の気すら動く。 正しく人の上に立つ者は、元来、鋳物や焼き物の型にははまらない。 つまり、物の豊かさより、心の正しさの方がはるかに価値があるということ。 言い換えれば、活人は拝物、拝金主義であってはならないのだ。


前集43項 一歩高みに立つ

立身不高一歩立、如塵裡振衣、泥中濯足、如何超達。 処世不退一歩処、如飛蛾投燭、羝羊触藩、如何安楽。
身を立つるに一歩を高くして立たずんば、塵裡(じんり)に衣を振(ふる)い、泥中(でいちゅう)に足を濯(あら)うが如(ごと)し。如何(いかん)ぞ超達(ちょうたつ)せん。世に処(お)るに、一歩を退(しりぞ)いて処(お)らずんば、飛蛾(ひが)の燭(しょく)に投じ、羝羊(ていよう)の藩(まがき)に触るるが如(ごと)し。如何(いかん)ぞ安楽ならん。

社会で出世しようとするなら、他人より一歩下がっていないと、埃の中で服を振るい、泥水で足を洗うようなもので目的は果たせないし、人が生きてゆく上では、他人より一歩下がっていないと、我が蝋燭の火に飛び込み、羊が垣根に頭を突っ込んでしまうようなもので、安心しては暮らして行けない。 つまり、活人はリスクマネージメントの達人と言える。 言い換えれば、活人は純粋なリスク回避は言うまでもなく、投機的なリスクは確実に回避しておかないと安心して生きてはいけませんということ。


前集44項 一つの目前に集中する

学者、要収拾精神、併帰一路。 如修徳而留意於事功名誉、必無実詣。 読書而寄興於吟咏風雅、定不深心。

学ぶ者、精神を収拾して、一路に併帰(へいき)するを要す。 如(も)し徳(とく)を修め、意を事功名誉(じこうめいよ)に留(とど)めれば、必ず実詣(じっけい)無し。 書を読みて、而(しか)も、興(きゅう)を吟咏風雅(ぎんえいふうが)に寄(よ)すれば、定めて深心(しんしん)ならず。

学問の道を志す者は、気力を一点に集中しなければならない。もし仮に道徳的に生き、名誉に気を取られているようでは、業績を残すことは出来ないし、本を読みつつ風流な遊びに心を奪われているようでは、本物の学者にはなれない。 つまり、善く思わせたい・思われたいという心が有っては本物の活人とは言えませんということ。 言い換えれば、活人は他人との無意味な競争や他人の評価を離れて、過去の自分を毎日越えて行くような生き方を日々淡々と行いだけ、といえる。


前集45項 至るところに楽しみ

人人有個大慈悲、維摩屠劊無二心也。 処処有種真趣味、金屋茅簷非両地也。 只是欲蔽情封、当面錯過、使咫尺千里矣。

人々、個の大慈悲あり、維摩(ゆいま)・屠劊(とかい)の二心(ふたごころ)無きなり。 処々、種の真趣味あり。金屋(かなや)・茅簷(ぼうえん)も両地にあらざるなり。 只だ是(こ)れ欲蔽(よくおお)く情を封(ふう)じ、当面に錯過(さっか)せば、咫尺(しせき)を使(し)て千里(せんり)ならしむ。

誰にでも慈悲深い仏心があり、維摩居士もと屠殺人や死刑執行人も違いはない。また、立派な館でだろうと、粗末なあばら屋であろいうと、そこなりに趣がある。 だから、誰であれ、欲に溺れず、人情に流されないようにしなければ、ほんの小さなズレが、時間とともに、大きな違いになる。 つまり、活人は、それが誰で、どんな事を、どこでしているかでは、善悪は決まらないし、心構えで人生の全てが修養へ道となるのだ。 言い換えれば、人生是道場ということなのだ。


前集46項 木石の心境で

進徳修道、要個木石的念頭。 若一有欣羨、便趨欲境。 済世経邦、要段雲水的趣味。 若一有貧着、便堕危機。

徳に進み、道を修むるには、個の木石念頭を要す。 若し一たび欣羨(きんせん)あれば、すなわち欲境に趨(おもむ)く。  世を済い邦(くに)を経(おさめ)むるには、段の雲水の趣味を要す。 若し一たび貧着(ひんちゃく)あれば、便(すなわ)ち危機に墮(おち)ん。

人格を磨いて人間的であろうとするなら、木や石のような無欲の存在であることが大切である。さらに、世の中を救い国を治めようとするなら、行雲流水の趣が必要であるが、一瞬でもそれに拘り執着する心が生まれれば危険極まりなくなる。 つまり


前集47項 善人と悪人の違い

吉人無論作用安詳、即夢寐神魂、無非和気。 凶人無論行事狼戻、即声音咲語、渾是殺機。

吉人(きつじん)は作用の安詳(あんしょう)をなる論ずるまでもなく、即(すなわ)ち夢寐(むび)の神魂(しんこん)も、和気(わきに)に非(あら)ざるは無し。 凶人(きゅううじん)は行事の狼戻(ろうれい)なるを論ずるまでもなく、即(すなわ)ち声音(せいいん)の咲語(しょうご)も、渾(すべ)て是(こ)れ殺機なり。

幸せを呼べる人は、日常生活が安らかで整っていることは言うまでもなく、夢うつつの時でさえゆったりとしている。一方、不幸を呼ぶ人は、日常の行動が捻くれて、悪どい事は言うまでもなく、声や笑い声まで、全てが殺気立っている。 つまり、幸せは穏やでゆったりとして人に集まり、不幸は捻くれ者で、殺気だった悪どい人間にあつまるということ。 言い換えれば、活人は、捻くれ者を傍に寄せ付けてはならないということ。


前集48項 人の目のとだかない所でも

肝受病、則目不能視、腎受病、則耳不能聴。 病受於人所不見、必発於人所共見。 故君子、欲無得罪於昭昭、先無得罪於冥冥。

肝、病を受くれば、即ち目は視ること能(あた)わず、腎、病を受くれば、耳は聴くこと能(あた)わず。 病いは人の見ざるところにて受けて、必ず人の共に見るところに発す。 故に君子は罪を昭々(しょしょう)に得ることなきを欲すれば、まず罪を冥々(めいめい)に得ることなかれ。

肝臓が病むと目が見えなくなり、腎臓が病むと耳が聞こえなくなる。 このように、病は他人からは見えないところでで始まり、やがては誰でもが見えるところに現れる。 だから、人の上に立つ者は、人前で罪を受けたくないなら、先ずは人から見えないところでも罪を犯さないようにすべきである。 つまり、活人は、陰日向なく公明正大でいないと、とんでも無い恥をかきますよということ。 言い換えれば、真の活人は、心身ともに健康なのだ。


前集49項 幸せと不幸

福莫福於少事、過莫過於多心。 唯苦事者、方知少事之為福、 唯平心者、始知多心之為過。

福(さいわい)は事少なきより福(ふく)なるはなく、禍(わざわい)は心多きより禍(か)なるはなし。 唯(た)だ事に苦しむ者は、方(はじ)めて事少なきの福たるを知る。 唯(た)だ心を平かにする者は、始めて心多きの禍(わざわい)たるを知る。

最も幸せなことは、事件が少ないということで、不幸なことは、心ここに在らずという状態のことだ。 日頃ゴタゴタ苦しんでいる者は、事件が少ないことこそ幸福だと知っている。 そして、心が穏やかな者は、心ここに在らずの状態が不幸だということを知っている。 つまり、平凡が一番ということを知っている人間こそが幸せなのだ。 言い換えれば、活人とは「無事是貴人」を地で行ける人なのだろう。


前集50項  時代によって

処治世宜方、処乱世宜円。処叔季之世、当方円並用。 待善人宜寛、待悪人宜厳。待庸衆之人、当寛厳互在。

治世に処しては宜(よろし)く方なるべく、乱世に処しては宜(よろし)く円なるべく、叔季(しゅくき)の世に処しては、当(まさ)に方円ならびに用(もち)うべし。 善人を待つには宜(よろし)く寛なるべく、悪人を待つには宜(よろし)く厳なるべく、庸衆(ようしゅう)の人を待つには、当(まさ)に寛厳(かんげん)互いに在すべし。

平時においては人には誠実に、有事においては臨機応変に対応し、世も末という時には、誠実でありながら臨機応変に生きよう。 これは善人は寛大に、悪人には厳格にということで、一般人には甘い辛いを使い分けよう。 つまり、甘い辛いは、臨機応変ということ。いつでも甘い、いつでも辛いというのは考え物だ。 言い換えれば、活人はメリハリの利いた態度で日常を送っているのだ。


前集51項 忘れてよいこと、わるいこと

我有功於人不可念、而過則不可不念。 人有恩於我不可忘、而怨則不可不忘。

我(われ)、人に功(こう)あるも念(おも)うべからず。而(しか)るに過ちは則(すなわ)ち念(おも)わざるべからず。 人、我に恩あらば忘れるべからず、而(しか)るに、怨みは則(すなわ)ち忘れざるべからず。

他人に施したと善行は、忘れ、かけた迷惑は忘れてはならない。 他人から恩を受けたら忘れず、恨みは忘れなければならない。 つまり、人に優しく、自分に厳しくということだ。 言い換えれば、活人でいようとしていてこそ、活人の条件だろう。


前集52項 感謝を期待するな

施恩者、内不見己、外不見人、即斗粟可当万鐘之恵。 利物者、計己之施、責人之報、雖百鎰難成一文之功。

恩を施す者は、内に己を見ず、外に人を見ざれば、即(たと)え斗粟(とぞく)も万鐘(ばんしょう)の恵みに当たるべし。 物を利する者は、己の施しを計り、人の報(むく)いを責(もと)むれば、百鎰(ひゃくいつ)と雖(いえど)も一文の功を成し難(がた)し。

他人に恩恵を施す者が、それを特別に良いことだと考えなければ、米一升であっても価値がある行為だが、施す気持ちに下心があれば、例えそれが大金であっても1円の価値もない。 つまり、善意は無心で行ってこそ価値があり、下心があれば無意味なのだ。 言い換えれば、活人とは善に対して匿名であることを重視している人だ。


前集53項 自他を見比べる

人之際遇、有斉有不斉、而能使己独斉乎。 己之情理、有順有不順、而能使人皆順乎。 以此相観対治、亦是一方便法門。

人の際遇(さいぐう)は、斉(さい)なる有り、斉ならざる有り、而(しか)してよく己れをして独(ひと)り斉(さい)ならしめんや。 己れの情理は、順(じゅん)なる有り、順ならざるあり、而してよく人をしてみな順ならしめんや。 此れを以って相観し対治すれば、またこれ一の方便の法門なり。

人の身の上をみれば、満たされている人もあれば、満たされていない人もあるので、どうして自分だけが幸せで良いものだろうか。 自分の思いが上手く実現する場合もあれば、そうでない場合もあるのに、どうして人の思いだけが上手くいっていいものだろうか。 それらの関係をよく考えて対応するのも一つの方便なのだ。 つまり、何事にもバランスをとることが大切だということ。 言い換えれば、活人は中庸を生きているといえる。


前集54項 古人に学ぶさいには

心地乾浄、方可読書学古。 不然見一善行竊以済私、聞一善言仮以覆短。 是又藉寇兵、而齎盗粮矣。

心地、乾浄(けんじょう)にして、方(はじ)めて書を読み、古(いにしえ)を学ぶべし。 然(しか)らざれば、一(いつ)の善行を見ては、竊(ぬす)みて以って私を済(すく)い、一の善言を聞いては、仮りて以って短を覆(おお)う。 これまた寇(こう)に兵を藉(か)し、盗(とう)に粮(ろう)を齎(もたら)すなり。

心がサバサバして清潔であってこそ温故知新だが、そうでなければ、都合の良いことばかり考えて利己心を満足させる。 このようなことでは、敵に武器を与え、泥棒にご馳走するようなもので、どんなに勉強しようと、自分のためにならない。 つまり、正しい心と正しい行いを前提として成果は実るということで、清心万能、邪心万危ということ。 言い換えれば、活人とは、成功者なのだ。


前集55項 割りに会わない

奢者富而不足。 何如倹者貧而有余。 能者労而府怨。 何如拙者逸而全真。

奢(おご)る者は富みて而(しか)も足らず。 何ぞ倹(つつましやか)なる者の貧(まず)しきに而(しか)も余りあるを如(し)かん。 能ある者は、労して而(しか)も怨(うら)みに府(あつ)まる。 何ぞ拙(つたな)き者の逸(いつ)にして而(しか)も真を全(まっと)うするに如(しか)ん。

贅沢な者は、いくら豊かでも満足しないが、いくら貧乏でも余裕のある倹約家はいる。 また才能のある者は、いくら努力しても恨みをかい、いくら粗忽でも本質に生きる者はいる。 つまり、足るを知って気楽に生きるのが最も幸せだということ。 言い換えれば、活人の人生は、正に、在べき様。忙しい時は忙しい様に、余裕がある時はユッタリと過ごしているのだ。


前集56項 役に立たないもの

読書不見聖賢、為鉛槧傭。 居官不愛子民、為衣冠盗。 講学不尚躬行、為口頭禅。 立業不思種徳、為眼前花。

書を読みて聖賢(せいけん)を見ざれば、鉛槧(えんざん)の傭(よう)たり。 官に居(お)りて子民(しみん)を愛せざれば、衣冠(いかん)の盗(とう)たり。 学を講じて、躬行(きゅうこう)を尚(くわ)へざれば、口頭(こうとう)の禅たり。 業を立てて種徳(しゅとく)を思わざれば、眼前の花たり。

本を読んでも内容の素晴らしさを理解できなければ、ただの読書中毒の筆耕屋だ。 役人であっても国民を愛さなければ、ただの制服を着た給料泥棒だ。 禅学を教えても、実行していなければ、ただの口先だけの知識に過ぎない。 起業して利益を上げても社会貢献しなければ、ただの目の前の花に過ぎない。 つまり、上辺を調えることより、全ては本質を理解し実行しなさいということ。 言い換えれば、活人は正に「中身」なのだ。


前集57項 真価をそこなう

人心有一部真文章、都被残編断簡封錮了。 有一部真鼓吹、都被妖歌艶舞湮没了。 学者須掃除外物、直?本来、纔有個真受用。

人心に一部の真なる文章あり、都(すべ)て残編断簡(ざんぺんだんかん)に封錮(ふうこ)し了(おわ)る。 一部の真なる鼓吹(こすい)あり、都(すべ)て妖歌艶舞(ようかえんぶ)に湮没(いんぼつ)し了(おわ)る。 学ぶ者は、須(すべから)く外物(げぶつ)を掃除(そうじょ)して、直(ただち)ちに本来を?(もと)むれば、纔(わず)かに真の受用有るべし。

人間には生れながらにして真理が書かれた本を心の中に持っているに、不完全な書物に惑わされている。同様に真理を奏でている音があるにも関わらず、怪しげな歌やエロティツクな踊りに囚われている。兎に角、周囲の邪魔なものを一掃し、直接的に本質を探求すれば、心の中に最初から全てあるので、直ぐにそれを享受できる。 つまり、不立文字・教外別伝・直指人心・見性成仏ということ。 言い換えれば、活人は心眼を得て、真贋は黙って坐れば、ピタッと観抜けるということだ。


前集58項 失意は得意のなかに

苦心中、常得悦心之趣。 得意時、便生失意之悲。

苦心の中(うち)に、常に心を悦(よろ)こばしむる趣(おもむき)を得る。 得意の時に、便(すなわ)ち失意の悲しみを生ず。

苦心している時こそ、「上手く行った」というような感動がある、上手く行っている時には「失敗した」というような悲しみがある。 つまり、何事も諦めず、油断せず、ということだ。 言い換えれば、活人は“切れ者”なのである。


前集59項 同じ花でも

富貴名誉、自道徳来者、如山林中花、自是舒徐繁衍。 自功業来者、如盆檻中花、便有遷徙廃興。 若以権力得者、如瓶鉢中花。 其根不植、其萎可立而待矣。

富貴名誉(ふきめいよ)の、道徳より来たる者は、山林の中の花の如(ごと)く、自(おのず)からこれ舒徐繁衍(じょじょはんえん)す。 功業より来たる者は、盆檻(ぼんかん)の中の花の如(ごと)く、便(すなわ)ち遷徙廃興(せいんしはいこう)あり。 若(も)し、権力をもって得たる者は、瓶鉢(へいかつ)の中の花の如(ごと)し。その根植(ねう)えざれば、其の萎(ちじ)むこと、立ちて待つべし。

徳を積んだ結果で得られた富貴や名誉は、大自然に咲く花のように、自然で自由自在で伸びやかに茂る。 これに対して、事業の成功で得られた富貴や名誉は、盆栽や花壇の花のように、人の心次第で枯れたり、間引きされたりする。 さらに、権力により得た富貴や名誉は、花瓶の切花のように根が無く、直ぐに枯れてしまう。 つまり、下心を持たずに淡々と出来上がっている社会の評価は永遠だが、事業の成功などによる評価は不自然で、況や権力で得た評価など一瞬の評価にしか過ぎないということ。 言い換えれば、活人は、成り上がり者ではなく、地に足を着けた堅実な人間ということになる。


前集60項 百年生きても

春至時和、花尚鋪一段好色、鳥且囀幾句好音。 士君子幸列頭角、復遇温飽。 不思立好言行好事、雖是在世百年、拾以未生一日。

春至(はるいた)り時和(ときやわら)げば、花尚一段(なおいちだん)の好色を鋪(し)き、鳥すら且(か)つ幾句(いくく)の好音(こうおん)を囀(さえず)る。 士君子(しくんし)、幸(さいわい)に頭角(とうかく)を列(つら)ね、復(ま)た温飽(おんぽう)に遇(あ)うも、好言(こうげん)を立て、好事(こうじ)を行(おこな)を思わざれば、是(こ)れ世に存(あ)ること百年なりと雖(いえど)も、恰(あたか)も未(いま)だ一日をも生きざるに似たり。

春が来て陽気がよくなると、花の色はより美しくなり、鳥のさえずりも上手くなる。 人格者でもあるエリートが、出世して、立派なことを言い、立派な行いをしても、それ以上に価値のある仕事に挑戦しないようでは、過去に百年の貢献があろうと、無価値なのだ。 つまり、過去の業績より、未来に挑戦する心の方が価値があるということ。当たり前だ! 言い換えれば、活人は如何なる場所、如何なる時、如何なる状況でも“挑戦者”なのだ。

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引用文献



菜根譚(さいこんたん)

菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、 主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。
別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。

その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。 中国ではあまり重んじられず、かえって日本の金沢藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって 文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。 尊経閣文庫に明本が所蔵されている。

菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、
「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、 節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる
(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。

「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。 敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、 便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」

(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、 先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。 物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)

などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。 また実業家や政治家などにも愛読されてきた。

(愛読者)
川上哲治
五島慶太
椎名悦三郎
田中角栄
藤平光一
野村克也
吉川英治
笹川良一
広田弘毅

参考文献
今井宇三郎 訳註『菜根譚』岩波書店、岩波文庫、1975年1月、
中村璋八, 石川力山 訳註『菜根譚』講談社、講談社学術文庫、1986年6月、
吉田公平著『菜根譚』たちばな出版、タチバナ教養文庫、1996年7月、
釈宗演著『菜根譚講話』京文社書店、1926年11月
蔡志忠作画、和田武司訳 『マンガ菜根譚・世説新語の思想』講談社、講談社+α文庫、1998年3月、
サンリオ編『みんなのたあ坊の菜根譚 今も昔も大切な100のことば』サンリオ、2004年1月、
守屋洋、守屋淳著『菜根譚の名言ベスト100』PHP研究所、2007年7月、


・[菜根譚 - Wikipedia]


善行81(「小学」に記載)
○汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。
【読み】
○汪信民、嘗て人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可しと言う。胡康侯之を聞き、節を撃ちて嘆賞す。

  

江守孝三 (Emori Kozo)