NHKテレビ 「100分de名著」 【菜根譚 Saikontan】を 放送 、好評 テキスト (逆境こそ自分を鍛える時だ!) (幸と不幸の境目はどこか? すべて人の心が決めるのだ) 。.。.   
    [温故知新][姉妹篇(前集)] [姉妹篇(後集)][100分de名著] 
はじめに
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後集001~030 後集031~060 後集061~090 後集091~120 後集121~135
原文
巻之
原文
巻之
明刻本 清刻本

・国立国会図書館 [菜根譚. 巻之上] [ 巻之下]

菜根譚(さいこんたん) 前集 181~210 洪自誠

《前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説く》

前集181項 平凡な生き方がよい

陰謀怪習、異行奇能、倶是渉世的禍胎。 只一個庸徳庸行、便可以完混沌而召和平。

陰謀怪習(いんぼうかいしゅう)、異行奇能(いこうきのう)は、倶(とも)に是れ世を渉(わた)る禍胎(かたい)なり。 只(ただ)一個(いっこ)の庸徳庸行(ようとくようとう)のみ、便(すなわ)ち以て混沌(こんとん)を完(まっと)し、和平(わへい)を召(まね)くべし。

邪悪な陰謀や奇異な能力は、ともに世の中における災いの原因である。 平凡で道徳的な行為こそこの世で唯一、人間、誰にも備わっている本来の心を実現し、穏やかな生活を招くことができる。 つまり、下心が見え隠れする、策謀、神がかりな占い、超能力などに見せかけている手品など現代と同じように社会悪そのもので、一人一人、本来は例外なく備わっている極めて平凡で道徳的な「善心」こそが、社会を善人に溢れた平和を建設できます、ということ。 言い換えれば、活人は、頭で生きるのではなく、心で生きなさいということ。


前集182項 「耐える」こと

語云、登山耐側路、踏雪耐危橋。 一耐字極有意味。 如傾険之人情、坎?之世道、若不得一耐字?持過去、幾何不堕入榛?坑塹哉。

語(ご)に云(い)う、「山に登りては脇路(そくろ)に耐(た)え、雪を踏んでは危橋(ききょう)に耐(た)う」。 一(いつ)の耐(たい)の字(じ)、極めて意味有り。 傾険(けいけん)の人情(にんじょう)、坎?(かんか)の世道(せどう)の如(ごと)きも、若(も)し一(いつ)の耐(たい)の字(じ)を得(え)て、?持(とうじ)し過ぎ去らずば、幾何(いくばく)か榛?坑塹(しんぼうこうざん)に堕入(だにゅう)せざらんや。

古(いにしえ)の言葉に「山に登る時は、険しい斜面に耐え、雪道では雪が積もっている危険な橋(当時は欄干が無く滑ると川に落ちた)に耐えて歩きなさい」と。 耐えるという事は大変大きな意味がある。 偏見に満ちた人情や不遇な境遇でも、もし「耐(える)」という一字を継続できければ、どれだけ多くの者が、藪や穴や堀に落ちないですみことか。 つまり、何は無くても「忍耐」ということ。 言い換えれば、活人は、どんな状態でも夢と希望と忍耐こそが成功の秘訣ということ覚えておきなさい。


前集183項 功績や学問はなくても

誇逞功業、炫燿文章、靠皆是外物做人。 不知心体螢然、本来不失、即無寸功隻字、亦自有堂堂正正做人処。

功業(こうぎょう)に誇逞(こてい)し、文章(ぶんしょう)を炫燿(げんしょう)するは、皆是(みなこ)れ外物(がいぶつ)に靠(よ)りて人(ひと)と做(なる)なり。 知らず、心体螢然(しんたいけいぜん)として、本来(ほんらい)を失(うしな)わざれば、即(すなわ)ち寸功隻字(すんこうせきじ)無きも、亦(また)自(おのず)から堂々正々(どうどうせいせい)として、人と做(なる)の処(ところ)有るを。

秀でた業績を誇り、知識をひけらかすのは、全て「自分以外」のものに頼って生きている者に他ならない。 このような人間は、「玉が輝く」ような人の心の本性を失わなければ、功績や知識が無くても、一人独立して正々堂々と生きてゆけることを知らない。 つまり、世間が社交辞令で褒め上げるような、事業の成功や知識など、誰にでも例外なく備わっている「本来の自己」の素晴らしさに比べれば「砂上の楼閣」のように事あれば崩れるようなものに頼って生きているのはナンセンス、ということ。 言い換えれば、活人は、どんな人間にも飾り物では適わない「素晴らしい心」があるので、素直にそれを見なさいということ。 翻って言えば、それこそが活人にとって最高の人生になりますよ、ということ。


前集184項 心の主体性

忙裡要偸閒、須先向閒時討個?柄。 閙中要取静、須先従静処立個主宰。 不然、未有不因境而遷、随事而靡者。

忙裡(ぼうり)に閒(かん)を偸(ぬす)まんを要(よう)さば、須(すべか)らく先(ま)ず閒事(かんじ)に個(こ)の?柄(はへい)を討(たず)ぬべし。 閙中(どうちゅう)に静(せい)を取(と)らんことを要(よう)さば、須(すべか)らく先(ま)ず静処(せいしょ)より個(こ)の主宰(しゅさい)を立(た)つべし。 然(しか)らざれば、未(いま)だ境(きょう)に困(よ)りて遷(うつ)り、事(じ)に随(したが)いて靡(なび)かざる者(もの)有(あ)らず。

忙しい時に閑をつくりたいと思うなら、先ずは閑な時に少々のコツを見つける努力をしなさい。 忙しい時に静けさが欲しいなら、先ずは静かな所で主体性を獲得しておかないと、必ず環境や状況に振り回され主体性を失う。 つまり、これも本質的には「坐禅の奨め」であり、ゴールは随所で主となれ、ということ。 言い換えれば、活人は、「心は絶えず平常(平常心是道)」を実現するためにには先ずコツを身に着けなさいということ。そうしないと、他人や状況に振り回されあなた自身の主体性を失ってしまいますよ、という警告だろう。


前集185項 してはならないこと三つ

不昧己心、不尽人情、不竭物力。 三者可以為天地立心、為生民立命、為子孫造福。

己(おのれ)の心を昧(くら)まさず、人の情(じょう)を尽(つく)さず、物(もの)の力(ちから)を竭(つく)さず。 三者、「以(もつ)て天地(てんち)の為(ため)に心(こころ)を立(た)て、生民(せいみん)の為(ため)に命(いのち)を立(た)て、子孫(しそん)の為(ため)に福(ふく)を造(な)すべし。

自分自身の本心を曇らさないで、人情をすてず、財力を使い切らないこと。 この3つの心がけで、自然界に対し貢献意欲を持ち、生活者のためには志を持ち、子孫の為に幸福をつくりなさい。 つまり、正しい判断力と思いやり忘れずに、少しの投資を行い、環境貢献、生活者支援を行えば、子孫に幸福が残せますよということ。 言い換えれば、活人が、今のあなたの環境貢献と人々に対する思いやりに投資を行えば、社会も子孫も幸せになれますよということで、功を成し財を残した活人への警鐘と受け止めなさい。


前集186項 公職と家庭生活

居官有二語、曰惟公則生明、惟廉則生威。 居家有二語、曰惟恕則情平、惟倹則用足。

官(かん)に居(お)るに二語(にご)あり、曰(いわ)く、「惟(ただ)公(こう)ならば、則(すなわ)ち明(めい)を生(しょう)じ、惟(ただ)廉(れん)なれば則(すなわ)ち威(い)を生(しょう)ず」。 家(いえ)に居(お)るに二語(にご)あり、曰(いわ)く、「惟(ただ)恕(じょ)ならば、則(すなわ)ち情(じょう)平(たい)らかに、惟(ただ)倹(けん)なれば則(すなわ)ち用(よう)足(た)る」。

役人には二つの戒め、「公平であれば明朗な行政が生まれ、清廉潔白であれば威厳が生まれる」がある。 家庭には二つの戒め、「慈悲深ければ家庭円満で穏やかになり、質素倹約であれば、家計が安定する」がある。 つまり、役人の心構えは公明正大と清廉潔白、家庭人の心構えは温和で質素倹約。それが出来れば、役人には威厳が、家庭人には安心な経済が実現しますよ、ということ。 言い換えれば、活人は、「修身齋家治国平天下(身を正しくして、家を修め、国を治められれば、世界平和だ)」ということ常に忘れるなということである。なお、この「大学」にある句から「修身」という表現が生まれているが、日本には、これが出来ない政治屋と教師団体、役人組織の協働で死語にされたのが残念。


前集187項 恵まれたときには

処富貴之地、要知貧賤的痛癢、当少壮之時、須念衰老的辛酸。

富貴(ふき)の地(ち)に処(お)りては、貧賤(にんせん)の痛癢(つうよう)を知(し)らんことを要(よう)し、少壮(しょうそう)の時(とき)に当(あた)りては、須(すべか)らく衰老(すいろう)の辛酸(しんさん)を念(おも)うべし。

人間、リッチな時にはプアーな人の気持ちを理解し、若く元気な時には年老いて衰えた人の辛さを思いやること。 つまり、備えよ常に、ということ。 言い換えれば、活人は、絶えず相手の身になって考えろ、ということだ。


前集188項 清濁あわせのむ

持身不可太皎潔。 一切汚辱垢穢、要茹納得。 与人不可太分明。 一切善悪賢愚、要包容得。

身(み)を持(じ)するに太(はなは)だ皎潔(こうけつ)なるべからず。 一切(いっさい)の汚辱垢穢(おじょくこうあい)をも茹納(じょうのう)し得(え)んことを要(よう)す。 人(ひと)に与(くみ)するには太(はなは)だ分明なるべからず。 一切の善悪賢愚(ぜんあくけんぐ)をも、包容(ほうよう)し得(え)んことを要す。

身を保つにはあまり潔癖であってはならない。 全ての汚(よご)れも穢(けが)れも併せ呑む必要がある。 人と共に事を成す時は、割り切り過ぎてはならない。 全ての善人、悪人、賢人、愚民も受容できる必要がある。 つまり、極論に走らず、大きな心で、結局は相対的な善悪、賢愚など併せ飲まなければ最終的な目標である清廉潔白は実現しないということ。 言換えれば、活人は「清濁併せ呑む」ことを辞すな、ということ。


前集189項 相手を選ぶ

休与小人仇讐。 小人自有対頭。 休向君子諂媚。 君子原無私恵。

小人(しょうじん)と仇讐(きゅうしゅう)することを休(や)めよ。 小人(しょうじん)は自(おの)ずから対頭(たいとう)有り。 君子(くんし)に向(む)かって諂媚(てんぴ)することを休(や)めよ。 君子(くんし)は原(もと)もと私恵(しけい)無し。

つまらない人間と憎しみあうのは止めなさい。 つまらない人間は、それに似合う相手がある。 人の上に立つ人間に、媚諂(こびえつら)うのは止めなさい。 人の上に立つ人間は、もともと“えこひいき”などはしない。 つまり、下衆な人間と対立すること、偉い人間に媚びることはナンセンスということ。 言換えれば、活人は、全てに“分相応”、似合いな相手があることを知っておけということだ。


前集190項 治せないもの

縦欲之病可医、而執理之病難医。 事物之障可除、而義理之障難除。

欲を縦(ほしいまま)にする病(やまい)いは医(いや)すべくも、而(しか)して理(り)に執(とら)わるるの病(やまい)は医(いや)し難(がた)し。事物(じぶつ)の障(すわ)りは除(のぞ)くべくも、而(しか)して義理(ぎり)の障(すわり)は除(のぞ)き難(がた)し。

欲望に取り付かれた病は治せるが、理屈に拘る事は救い難い。 物事に纏わる障害は排除できるが、道理に纏わる事は除き難い。 つまり、欲望に絡む問題は解決可能だが、信念に絡む問題は解決し難いということ。 言換えれば、活人は、混合したような問題は簡単に分解できるが、化合したような問題は簡単には分解できないということを覚えておけということ。


前集191項 慎重を期す

磨蠣当如百煉之金、急就者非邃養。 施為宜似千鈞之弩、軽発者無宏功。

磨蠣(まれい)は当(まさ)に百煉(ひゃくれん)の金(きん)の如く、急就(きゅうしゅう)は邃養(すいよう)に非(あら)ず。 施為(しい)は宜(よろ)しく千鈞(せんきん)の弩(ど)の似(ごと)く、軽発(けいはつ)は宏功(こうこう)無し。

自分自身を磨き上げるには、繰り返して練り鍛える金属のようにすべきで、簡単に行う修養ではあってはいけない。 起業する場合は、強靭な石弓を放つ時のように慎重にすべきで、軽薄な起業では成功はしない。 つまり、内面の問題であれ、外形の問題であれ、何事にも成果を出すには、慎重且つ堅実に行えということ。 言換えれば、活人は、インスタントは所詮インスタントということを肝に銘じておこう。


前集192項 叱責されたほうがよい

寧為小人所忌毀、毋為小人所媚悦。 寧為君子所責修、毋為君子所包容。

寧(むしろ)小人(しょうじん)の忌毀(きき)せらるるも、小人(しょうじん)の媚悦(びえつ)せらるること毋(なか)れ。 寧(むしろ)君子(くんし)の責修(せきしゅう)せらるるも、君子(くんし)の包容(ほうよう)せらるること毋(なか)れ。

つまらない人間に謗(そし)り罵(ののし)られても、彼らに媚び諂われることは無いように。 上に立つ立派な人間に責め立てられても、彼らに大目に見られることが無いように。 つまり、つまらない人間を遠退けるのは当然だが、だからといって自分から偉い人間に近づき受け入れられるようでは、つまらない人間と変りないし、立場を変えれば解ること。 言い換えれば、活人は、本当に自立した人間となり、相手の感情の対象になってはいけないということだ。


前集193項 人目につかない害

好利者、逸出於道義之外、其害顕而浅。 好名者、竄入於道義之中、其害隠而深。

利(り)を好(この)む者(もの)、道義(どうぎ)の外(そと)に逸出(いっしゅつ)し、其の害(がい)顕(あら)わるるは浅(あさ)し。 名(な)を好(この)む者は、道義(どうぎ)の中(うち)に竄入(ざんにゅう)し、其の害(がい)隠(かく)るるは深し。

利益を欲しがる者は、道を外れているので、その害毒は露見し易いので浅い。 名声を欲しがる者は、道を外れる事なくが裏工作があるので、其の害毒は露見しにくいので深い。 つまり、利益に拘る者は外部で派手に動くのでえその弊害は解り易く、早期発見できるので、罪は軽いが、名声を好む者は、内部の根回しで裏工作しているので、弊害が見えにくいので、罪は重い、ということ。 言換えれば、活人は、何事も正々堂々と道理を弁じて行動しなさいということ。


前集194項 冷たい心の持主

受人之恩、雖深不報、怨則浅亦報之。 聞人之悪、雖隠不疑、善則顕亦疑之。 此刻之極、薄之尤也、宜切戒之。

人(ひと)の恩(おん)を受(う)けては、深(ふか)しと雖(いえど)も報(ほう)ぜず、怨(うらみ)みは則(すなわ)ち浅(あ)きも亦之(またこれ)を報(ほう)ず。 人の悪(あく)を聞(き)いては、隠(かく)るると雖(いえど)も疑(うたが)わず。善はすなわち顕(あら)わるるも亦之(またこれ)を疑う。 此れ刻(こく)の極にて、薄(はく)の尤(ゆう)なり、宜(よろ)しく切(せつ)に此れを戒(いまし)むべし。

他人から受けた恩義は深いものでも報いず、恨みは浅くても必ず反す。 他人の悪評は、本当かどうか解らなくても疑わず、善い評判は確かなのに疑う。 このようなことは冷酷極まりなく、甚だ薄情なので、必ず改めなさい。 つまり、この教えは、思わず「ハイ」と言いそうな位に身に染みる。 言い換えれば、活人は、「すべき事」をせず、「すべきでない事」はする人間が昔から如何に多いものかを知り、反省しなさいということだ。 翻って言えば「素直」になりなさい、あなたの本心!ということ。


前集195項 用心すべきもの

讃夫毀士、如寸雲蔽日、不久自明。 媚子阿人、似隙風侵肌、不覚其損。

讃夫毀士(ざんぷきし)は、寸雲(すんうん)の日(ひ)を蔽(おお)うが如(ごと)く、久(ひさ)しからずして自(おのず)から明(あき)らかなり。 媚子阿人(びしあじん)は、隙風(げきふう)の肌(はだ)を侵(おか)すに似(に)て、その損(そん)を覚(おぼ)えず。

誹謗中傷する者は、一瞬だけ雲が太陽を覆うようなもので、事実は直ぐ明らかになる。 媚び諂うような者は、微風がじわじわと肌を傷つけるなもので、知らぬ間に体を悪くする。 つまり、心の外でおきる出来事は瞬間でしかないが、心の中でおきる出来事は長引くということ。 言い換えれば、活人は、世間の風には自然治癒力があり、心の中には免疫力を高める道徳という薬があるが、それを飲まなければ発動しませんよ、というこを知っておけということ。


前集196項 高すぎず狭すぎず

山之高峻処無木、而谿谷廻環、則草木叢生。 水之湍急処無魚、而渕潭停蓄、則魚鼈聚集。 此高絶之行、褊急之衷、君子重有戒焉。

山(やま)の高峻(こうしゅう)なる処(ところ)に木(き)無く、而(しか)るに、谿谷廻環(けいこくかいかん)すれば、草木叢生(そうもくそうせい)す。 水(みず)の湍急(たんきゅう)なる処(ところ)に魚(さかな)無く、而(しか)るに、渕潭停蓄(えんたんていちく)すれば、魚鼈聚集(ぎょべつしゅうしゅう)す。 此の高絶(こうぜつ)の行(こう)、褊急(へんきゅう)の衷(ちゅう)は、君子(くんし)、重(かさ)ねて戒(いまし)むる有り。

山が高く険しいところに木は生えないが、川がそこを廻っていれば、草木は群がるように芽吹く。 水の流れが激しいところに魚は生息しないが、水が停滞している淵や溜まりがあれば、魚やスッポンは集まってくる。 だから独りよがりの正義や、せっかちで狭い心は、上に立つ者は必ず改めなさい。 つまり、どんな事でも激しく、厳しいところには誰も寄り付かないが、、その周囲の干渉地帯があれば、皆そこに集まるということ。 言い換えれば、それが喩え正しくても、余りに厳しく激しい人の所には人は寄り付かず、近くにいる喩え間違っていても、温和で優しい人のところに人は寄り集まるので、人の上に立つ者は、極論を両忘し、中庸を大事しなさいということ。 翻った言えば、活人は、このような状態で内部分裂が起き、組織崩壊が始まるということを肝に銘じておけということ。


前集197項 成功の条件、失敗の原因

建功立業者、多虚円之士。 ?事失機者、必執拗之人。

功(こう)を建(た)て業(ぎょう)を立(た)つる者は、多(おお)くは虚円(きょえん)の士(し)なり。 事(こと)を?(やぶ)り機(き)を失(うしな)う者は、必ず執拗(しつよう)の人なり。

大きな功績や事業を成し遂げる者は、多くの場合“あっさり”していて円満な人間である。 事業に失敗し、チャンスを無くす者は、例外なく執念深く、偏狭固執する人間である。 つまり、偉業を成し遂げ成功したいなら、偏らず、囚われず、拘らず、執着心を無くしなさいということ。 言い換えれば、活人は、「あるべき様」で臨機応変、肯定的思考で、観自在に世の中の流れを読み、成功し続けなさいということ。


前集198項 不即不離

処世、不宜与俗同、亦不宜与俗異。 作事、不宜令人厭、亦不宜令人喜。

世(よ)に処(お)るには、宜(よろ)しく俗(ぞく)と同(どう)ずべからず、亦(また)宜(よろ)しく俗(ぞく)と異(い)なるべからず。 事(こと)を作(な)すには、宜(よろ)しく人をして厭(いと)わしむべからず、亦(また)宜(よろ)しく人をして喜(よろこ)ばしむべからず。

処世術としては、俗人と迎合してはいけないが、異端であってもいけない。 事業を起こすには、人の気分を害してはいけないが、喜ばせるのもいけない。 つまり、生きるにしても、仕事をするにしても、極端な状態は良くない。 言い換えれば、出る釘は打たれるし、出なければ抜かれるということ。 翻った言えば、活人は、世の中の全ては相対的だから、今すべきことを淡々としているのが一番の処世術だということを忘れるなということ。


前集199項 晩節を全うする

日既暮、而猶烟霞絢爛。 歳将晩、而更橙橘芳馨。 故末路晩年、君子更宜精神百倍。

日(ひ)既(すで)に暮れ、而(しか)も猶(な)お烟霞絢爛(えんかけんれん)たり。 歳(とし)将(まさ)に晩(く)れんとし、而(しか)も更(さら)に橙橘芳馨(とうきほうけい)たり。 故(ゆえ)に末路晩年(まつろばんねん)には、君子(くんし)更(さら)に宜(よろ)しく精神百倍(せいしんひゃくばい)すべし。

陽が沈んでも、夕映えは美しく輝いている。 年の瀬が来ても、橙(だいだい)や橘(たちばな)はさらに芳しい。 故に、晩年になってこそ、上に立つ立派な人間は百倍の精神力を発揮すべきなのだ。 つまり、もう終わりだという時期こそ、最後のチャンスがあり、頑張り次第で光り輝けるのだ。 言換えれば、活人は、有終の美は諦めない者には用意されているということを潜在意識に記銘しておくことだ。


前集200項 才能をひけらかすな

鷹立如睡、虎行似病。 正是他攫人噬人手段処。 故君子、要聡明不露、才華不逞。 纔有肩鴻任鉅的力量。

鷹(たか)の立(た)つや、睡(ねむ)るが如(ごと)く、虎(とら)の行(ゆ)くや病(や)むに似(に)たり。 正(まさ)に是(こ)れ他(かれ)の人(ひと)を攫(つか)み、人(ひと)を噬(か)む手段(しゅだん)の処(ところ)なり。 故(ゆえ)に君子(くんし)は、聡明(そうめい)を露(あら)わさず、才華(さいか)を逞(たくま)しくせざるを要す。 纔(わず)かに肩鴻任鉅(けんこうにんきょ)の力量(りきりょう)有(あ)り。

鷹が木に止まる姿は恰も眠るようであり、虎の動きは恰も病んでいるようだ。 これこそが、正に人間を襲い、攫み、噛付く方法なのだ。 だから、人の上に立つ立派な人間は、賢明さを悟らせず、才能を振り回さないようにする必要がある。 それでこそ大事を担う力量があると言えるのだ。 つまり、能ある鷹は爪を隠すということなのだが、実は鷹であることも隠しておけということ。 言い換えれば、活人は、大事の前の小事・障害は出来るだけ相手に油断をさせ、構えさせないようにしておけ、ということを忘れるな。


前集201項 度が過ぎれば

倹美徳也。 過則為慳吝、為鄙嗇、反傷雅道。 譲懿行也。 過則為足恭、為曲謹、多出機心。

倹(けん)は美徳(びとく)なり。 過(す)ぐれば則(すなわ)ち慳吝(けんりん)となりて、鄙嗇(ほしょう)となり、反(かえ)りて雅道(がどう)を傷(やぶ)る。 譲(じょう)は懿行(いこう)なり。 過(す)ぐれば即(すなわ)ち足恭(すうきょう)となりて、曲謹(きょっきん)となり、多(おお)くは機心(きしん)に出(い)ず。

倹約は美徳である。しかし、度を越すと“ケチ”となって、卑しくなり、目的とは反対に道を外れてしまう。 謙虚は善行である。しかし、度を越すと“バカ”丁寧となって、堅苦しくなり、魂胆があるように見なされてしまう。 つまり、物事には限度と適度があり、適度の幅は小さく、限度は越え易く、誤解を招き易いもの。 言い換えれば、活人が、良かれと思った行為こそ、誤解され易い。 翻って言える事は、道徳心のある自然体こそが一番との処世術ということだ。


前集202項 くじけず、おごらず

毋憂払意、毋喜快心。 毋恃久安、毋憚初難。

払意(ふつい)を憂(うれ)うこと毋(なか)れ、快心(かいしん)を喜(よろこ)ぶこと毋(なか)れ。 久安(きゅうあん)を恃(たの)むこと毋(なか)れ。初難(しょなん)を憚(はばか)ること毋(なか)れ。

思い通りにならないからといって心配してはならないし、思い通りになったからといって喜んではならない。 いつまでも平安だからといって、それを当てにしてはならないし、初めての災難に遭ったからといって、尻込みしてはならない。 つまり、雨の日に晴の準備、雨の日に晴の準備を淡々とするのが良く、「是で良い」といことも無ければ、「もうだめだ」ということも無いのだということ。言い換えれば、人間は油断し易いもの。活人よ、努々、油断めされるな、ということ。


前集203項 本筋を忘れている

飲宴之楽多、不是個好人家。 声華之習勝、不是個好士子。 名位之念重、不是個好臣工。

飲宴(いんえん)の楽しみ多きは、是れ個(こ)の好人家(こうじんか)にあらず。 声華(せいか)の習(なら)い勝(まさ)れるは、是れ個の好士子(こうしし)にあらず。 名位(かくい)の念(ねん)の重(おも)きは、是れ個の好臣工(こうしんこう)にあらず。

酒宴(接待交際)の楽しみが多いのは、格式が高い家柄とは言えない。 評判(タレント性)が高いのは、好感の持てる人物ではない。 功名の心(売名行為)が強いのは、素晴らしい部下ではない。 つまり、素晴らしい会社、素晴らしい組織、素晴らしい部下は、控えめでなければならないということ。 言換えれば、上辺だけの内容のない会社、自分だけが目立とうパフォーマンスに明け暮れる人間、和を以て組織を守り立てようとしない部下などが「信用を失墜する」代名詞で、そんなことを放置していると自分と組織の「品格」が落ちますよ、という活人への警鐘だ。忘れまい、忘れまい。


前集204項 苦しみのなかに楽しみ

世人以心肯処為楽、却被楽心引在苦処。 達士以心払処為楽、終為苦心換得楽来。

世人(せじん)は、心の肯(うけが)う処(ところ)を以(もつ)て楽しみと為(な)し、却(かえ)って楽心(らくしん)に引(ひ)かれて苦処(くしょ)に在(あ)り。 達士(たっし)は、心の払(もと)る処(ところ)を以(もつ)て楽しみと為(な)し、終(つい)に苦心(くしん)を楽しみに換(か)え得(え)て来(き)たると為(な)す。

俗人は、満足することを「楽しみ」としているが、それが結局は楽しみを得ようとして苦境に追い込まれている。 達人は、心を「無」にする事を「楽しみ」としているので、苦しみを楽しみに転換することが出来る。 つまり、満足を求める道には苦しみがあり、満足を捨てる道には楽しみがあるということ。 言い換えれば、活人は、人間という生き物は、欲望が苦しみを生み出しているのだから、真実の楽しみは欲望から離れることで味わえるということを知っておけということだ。


前集205項 あとがない

居盈満者、如水之将溢未溢。 切忌再加一滴。 処危急者、如木之将折未折。 切忌再加一搦。

盈満(えいまん)に居(お)る者(もの)は、水(みず)の将(まさ)に溢(あふ)れんとして、未(いま)だ溢(あふ)れざるが如(ごと)し。 切(せつ)に再(ふたた)び一滴(いってき)を加(くわ)うることを忌(い)む。 危急(ききゅう)に処(お)る者(もの)は、木(き)の将(まさ)に折(お)れんとして未(いま)だ折(お)れざるが如(ごと)し。 切(せつ)に再(ふたた)び一搦(いちじゃく)を加(くわ)うることを忌(い)む。

地位・財産・名誉が十分な人は、コップの水が表面張力で零れないような状態である。 だから、これ以上は一滴たりとも水が加わることを嫌って避ける。 危険が差し迫っている人は、木が折れようとして折れないでいるような状態である。 だから、これ以上は一押しとも力が加わることを嫌って避ける。 つまり、何事も「限界」に達すると、只管に不安が増大し、保身にしか目が行かず、活き活き生きることが出来なくなる。 言い換えれば、満ちれば欠ける月と同じように、限界に達すれば、物事は反転するということを活人は覚えておく必要があるのだ。 翻って言えば、活人よ、人間どん底になれば上がるし、頂上に達すれば衰えるということだ。


前集206項 冷静

冷眼観人、冷耳聴語、冷情当感、冷心思理。

冷眼(れいがん)にて人(ひと)を観(み)、冷耳(れいじ)にて語(ご)を聴(き)き、冷情(れいじょ)にて感(かん)に当(あた)り、冷心(れいしん)にて理(り)を思(おも)う。

冷静な目で人間を観察し、冷静な耳で言葉を聴き、冷静な感性で感じ、冷静な心で道理を考えるようにしなさい。 つまり、人間は冷静でないと事実を事実として観ることが出来ない。 言換えれば、活人は、絶えず冷静でなければ、正しい判断や決断が出来ません、ということ。 翻って言えば、どんな時でも冷静に対処できてこそ活人といえるのだ。


前集207項 ゆたかな心、卑しい心

仁人心地寛舒、便福厚而慶長、事事成個寛舒気象。 鄙夫念頭迫促、便禄薄而沢短、事事得個迫促規模。

仁人(じんじん)は、心地寛舒(しんちかんじょ)なれば、便(すなわ)ち福(ふく)厚(あつ)くして慶(けい)長(なが)く、事々(じじ)に個(こ)の寛舒(かんじょ)の気象(きしょう)を成(な)す。 鄙夫(ひふ)は、念頭迫促(ねんとうはくそく)なれば、便(すなわ)ち禄薄(ろくすう)くして沢(たく)短(みじか)く、事々(じじ)に個(こ)の迫促(はくそく)の規模(きぼ)を得(う)。

思いやりの心を持った人は、心が伸びやかで幸せで喜びも多く何事も長続きするから、何をしても余裕が現れる。 卑しい心を持った人は、心が忙しないから、物事に恵まれず何事も長続きしないから、何をしても忙しない。 つまり、完成した人間には、幸せが向こうから好んで来るが、心が卑しい未完成な人間は、苦しみが向こうから好んで来ますよということ。 言換えれば、活人は、幸福になりたければ先ずは人間として徳を積んで自分を完成することだ。勿論、不幸になりたければ、“こせこせ”していれば、自然と不幸になれる。 翻って言えば、物事に対する場合は、焦らずユッタリとした気持ちで対応していれば、いろいろな発見があり、気付きがあり、結果的に完成された人間になり、気が付くと幸せになっていることを活人は肝に銘じておこう。


前集208項 評判は当てにならない

聞悪不可就悪、恐為纔夫洩怒。 聞善不可急親、恐引奸人進身。

悪(あく)を聞(き)いては、就(すなわ)ち悪(にく)むべからず、恐(おそ)らくは纔夫(ざんぶ)の怒(いか)りを洩(も)らすを為(な)さん。 善(ぜん)を聞(き)いては、急(きゅう)に親(した)しむべからず、恐(おそ)らくは奸人(かんじん)の身(み)を進(すす)むるを引(まね)かん。

人の悪事を聞いたからといって、直ぐに悪と決め付けず、人を陥れる者の損失誘導かどうか確かめなさい。 人の善行を聞いたからといって、直ぐに親しくしてはならなず、心の捻じ曲がった者の利益誘導かどうか確かめなさい。 つまり、伝聞を事実確認足に信じて行動に移してはならない。 言換えれば、活人は、噂話や口車にうっかり乗ると痛い目に遭うということを忘れてはならない。 翻って言えば、一にも二にも先入観の無い純粋な「事実」を原因に判断し、行動していてこそ活人なのだ。


前集209項 粗雑な心、冷静な心

性燥心粗者、一事無成。 心和気平者、百福自集。

性(しょう)燥(かわ)き、心(こころ)粗(そ)なる者は、一事(いいじ)も成(な)すこと無し。 心(こころ)和(やわら)ぎ、気(き)平(たい)らかなる者は、百福(ひゃくふく)自(おの)ずから集(あつ)まる。

無味乾燥で粗野な心の持ち主は、一つとして物事を成し遂げることはない。 柔和で安定した心の持ち主は、多くの幸福が自然に集まってくる。 つまり、粗野で味気無い性格の者に仕事は出来ず、柔和で落ち着いた者は、自然体で成功するということ。 言い換えれば、活人の仕事の成否は、経験や技能より個性が多きなファクターとなることを覚えておこう。


前集210項 友を選ぶ

用人不宜刻。 刻則思効者去。 交友不宜濫。 濫則貢諛者来。

人(ひと)を用(もち)うるには、宜(よろ)しく刻(こく)なるべからず。刻(こく)なれば則(すなわ)ち、効(こう)を思(おも)う者(もの)は去(さ)らん。 友(とも)に交(まじ)わるには、宜(よろ)しく濫(らん)なるべからず。 濫(らん)なれば則(すなわ)ち、諛(ゆ)を貢(こう)する者(もの)来(き)たらん。

人を使うには厳しすぎてはならない。厳しすぎると、手柄を立てようとする者は去ってしまう。 友人と交際するには、無節操になってはならない。無節操だと、媚び諂う者まで集まってしまう。 つまり、能力のある人間を使う場合は、厳し過ぎるとすると、辞めてしまい、友達との交際は節度がないと、“よいしょ”人間が近寄ってきて、結果自分を過信するようになり、最終的には、仕事面に影響を与え部下の能力を冷静に判断できず、厳しい扱いをして、才能のある人間は去ってしまいますよ、ということ。 言い換えれば、活人は、仕事関係でも、私生活でも、相手とは適度な距離を保ち、合理的な関係を保ちなさいということ。

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引用文献



菜根譚(さいこんたん)

菜根譚(さいこんたん)は、中国の古典の一。前集222条、後集135条からなる中国明代末期のものであり、 主として前集は人の交わりを説き、後集では自然と閑居の楽しみを説いた書物である。
別名「処世修養篇」(孫鏘の説)。明時代末の人、洪自誠(洪応明、還初道人)による随筆集。

その内容は、通俗的な処世訓を、三教一致の立場から説く思想書である。 中国ではあまり重んじられず、かえって日本の金沢藩儒者、林蓀坡(1781年-1836年)によって 文化5年(1822年)に刊行(2巻、訓点本)され、禅僧の間などで盛んに愛読されてきた。 尊経閣文庫に明本が所蔵されている。

菜根譚という書名は、朱熹の撰した「小学」の善行第六の末尾に、
「汪信民、嘗(か)って人は常に菜根を咬み得ば、則(すなわ)ち百事做(な)すべし、と言う。胡康侯はこれを聞き、 節を撃(う)ちて嘆賞せり」という汪信民の語に基づくとされる
(菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる)。

「恩裡には、由来害を生ず。故に快意の時は、須(すべか)らく早く頭(こうべ)を回(めぐ)らすべし。 敗後には、或いは反(かえ)りて功を成す。故に払心の処(ところ)は、 便(たやす)くは手を放つこと莫(なか)れ(前集10)」

(失敗や逆境は順境のときにこそ芽生え始める。物事がうまくいっているときこそ、 先々の災難や失敗に注意することだ。成功、勝利は逆境から始まるものだ。 物事が思い通りにいかないときも決して自分から投げやりになってはならない)

などの人生の指南書ともいえる名言が多い。日本では僧侶によって仏典に準ずる扱いも受けてきた。 また実業家や政治家などにも愛読されてきた。

(愛読者)
川上哲治
五島慶太
椎名悦三郎
田中角栄
藤平光一
野村克也
吉川英治
笹川良一
広田弘毅

参考文献
今井宇三郎 訳註『菜根譚』岩波書店、岩波文庫、1975年1月、
中村璋八, 石川力山 訳註『菜根譚』講談社、講談社学術文庫、1986年6月、
吉田公平著『菜根譚』たちばな出版、タチバナ教養文庫、1996年7月、
釈宗演著『菜根譚講話』京文社書店、1926年11月
蔡志忠作画、和田武司訳 『マンガ菜根譚・世説新語の思想』講談社、講談社+α文庫、1998年3月、
サンリオ編『みんなのたあ坊の菜根譚 今も昔も大切な100のことば』サンリオ、2004年1月、
守屋洋、守屋淳著『菜根譚の名言ベスト100』PHP研究所、2007年7月、


・[菜根譚 - Wikipedia]


善行81(「小学」に記載)
○汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。
【読み】
○汪信民、嘗て人常に菜根を咬み得ば、則ち百事做す可しと言う。胡康侯之を聞き、節を撃ちて嘆賞す。

  

江守孝三 (Emori Kozo)