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(徒然草検索)(朗読 1/2朗読 2/2)(朗読 YouTube)NHKこころを読む(7-13/13)徒然草左大臣(1-54)徒然草YouTube吉田兼好(検索WikipediaYouTube)

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(上) 兼好法師(吉田兼好)  Tsurezuregusa (Yoshida Kenkō)
兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた 『徒然草(つれづれぐさ)』 の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

序段 つれづれなるままに 第一段 いでや、この世に生まれては 第二段 おろそかなるをもてよしとす 第三段 色好まざらん男は、いとさうざうし 第四段 後の世の事、心にわすれず 第五段 不幸に愁にしづめる人の 第六段 子といふ物なくてありなん 第七段 あだし野の露きゆる時なく 第八段 世の人の心まどはす事、色欲にはしかず 第九段 愛著の道 第十段 家居のつきづきしく、あらまほしきこそ 第十一段 来栖野といふ所を過ぎて 第十二段 おなじ心ならん人としめやかに物語して 第十三段 ひとり灯のもとに文をひろげて 第十四段 和歌こそ、なほをかしきものなれ 第十五段 しばし旅だちたるこそ、目さむる心地すれ 第十六段 神楽こそ 第十七段 山寺にかきこもりて 第十八段 人はおのれをつづまやかにし 第十九段 折節のうつりかはるこそ 第二十段 なしがしとかや言ひし世捨人の 第二十一段 よろづのことは、月見るにこそ 第二十二段 なに事も、古き世のみぞしたはしき 第二十三段 おとろへたる末の世とはいへど 第二十四段 斎王の野宮におはしますありさまこそ 第二十五段 飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば 第二十六段 風も吹きあへずうつろふ人の心の花に 第二十七段 御国ゆづりの節会おこなはれて 第二十八段 諒闇の年ばかりあはれなる事はあらじ 第二十九段 しづかに思へば 第三十段 人のなきあとばかり 第三十一段 雪のおもしろう降りたりし朝 第三十二段 九月廿日の比 第三十三段 今の内裏作り出だされて 第三十四段 甲香は 第三十五段 手のわろき人の 第三十六段 久しくおとづれぬ比、いかばかりうらむらんと 第三十七段 朝夕隔てなく馴れたる人の 第三十八段 名利に使はれて、しづかなるいとまなく、 第三十九段 或人、法然上人に、 第四十段 因幡国に、何の入道とかやいふ者の娘、 第四十一段 五月五日、賀茂の競馬を見侍りしに、 第四十二段 唐橋中将といふ人の子に、 第四十三段 春の暮つかた、のどやかに艶なる空に、 第四十四段 あやしの竹の編戸のうちより、いと若き男の、 第四十五段 公世の二位のせうとに、良寛僧正と聞えしは、 第四十六段 柳原の辺に、強盗法印と号する僧ありけり 第四十七段 或人、清水へまゐりけるに、 第四十八段 光親卿、院の最勝講奉行してさぶらひけるを、 第四十九段 老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。 第五十段 女の鬼になりたるを率てのぼりたりといふ事ありて、 第五十一段 亀山殿の御池に、大井川の水をまかせられんとて、 第五十二段 仁和寺にある法師、年よるまで、石清水を拝まざりければ、 第五十三段 是も仁和寺の法師、童の法師にならんとする名残とて、 第五十四段 御室に、いみじき児のありけるを、 第五十五段 家の作りやうは、夏をむねとすべし。 第五十六段 久しく隔りて逢ひたる人の、我が方にありつる事、 第五十七段 人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ 第五十八段 道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交わるとも、 第五十九段 大事を思ひたたん人は、 第六十段 真乗院に盛親僧都とて、やんごとなき智者ありけり。 第六十一段 御産のとき甑落す事は、さだまれる事にはあらず、 第六十二段 延政門院いときなくおはしましける時、 第六十三段 後七日の阿闍梨、武者をあつむる事、 第六十四段 車の五緒は、必ず人によらず、 第六十五段この比(ごろ)の冠(こうぶり)は、 第六十六段 岡本関白殿(おかもとのかんぱくどの)、盛りなる紅梅の枝に、 第六十七段 賀茂の岩本・橋本は、 第六十八段 筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなるもののありけるが、 第六十九段 書写の上人は、 第七十段 元応の清暑堂の御遊びに 第七十一段 名を聞くより、やがて面影はおしはからるる心地するを、 第七十二段 賤しげなるもの 第七十三段 世に伝ふる事、まことはあいなきにや 第七十四段 蟻のごとくに集まりて 第七十五段 つれづれわぶる人は 第七十六段 世の覚え華やかなるあたりに 第七十七段 世の中に、その比人のもてあつかひぐさに言ひあへる事 第七十八段 今様の事どものめづらしきを 第七十九段 何事も入りたたぬさましたるぞよき 第八十段 人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。
  (仮朗読) (CD)

(朗読 1/22/2)原文・現代語訳(1~243段)原文(1~136段)YouTube


[古文] 序段.
つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

[現代語訳]
手持ち無沙汰にやることもなく一日を過ごし、硯(すずり)に向かって心に浮かんでくる取りとめも無いことを、特に定まったこともなく書いていると、妙に馬鹿馬鹿しい気持ちになるものだ。


[古文]1段:
いでや、この世に生まれては、願はしかるべき事多かんめれ。御門(みかど)の御位(おんくらい)は、いともかしこし。竹の園生(そのふ)の、末葉まで人間の種ならぬぞ、やんごとなき。一の人の御有様(おおんありさま)はさらなり、ただ人も、舎人(とねり)など賜はるきはは、ゆゆしと見ゆ。その子・うまごまでは、はふれにたれど、なほなまめかし。それより下つ方(しもつかた)は、ほどにつけつつ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。
法師ばかりうらやましからぬものはあらじ。『人には木の端のやうに思はるるよ』と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。勢(いきほひ)まうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず、増賀聖(そうがひじり)の言いけんやうに、名聞(みょうもん)ぐるしく、仏の御教(みおしえ)にたがふらんとぞ覚ゆる。ひたふるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。
人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ、物うち言ひたる、聞きにくからず、愛敬(あいぎょう)ありて、言葉多からぬこそ、飽かず向かはまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣り(こころおとり)せらるる本性見えんこそ、口をしかるべけれ。しな・かたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。かたち・心ざまよき人も、才(ざえ)なく成りぬれば、品下り、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ、本意(ほい)なきわざなれ
ありたき事は、まことしき文の道、作文・和歌・管絃の道。また、有職(うしょく)に公事(くじ)の方、人の鏡ならんこそいみじかるべけれ。手など拙からず走り書き、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、男(おのこ)はよけれ。

[現代語訳]
この世に生まれ出たからには、理想とする望ましいことは多いものだ。最高に望ましいのは天皇の位だが、これは非常に畏れ多いものである。天皇・皇族は子孫に至るまで、私たちと同じ一般の人間ではない(特別な血統である)。摂政・関白の位が私たち貴族にとっては、理想の職位である。一般の人でも、朝廷を警護する舎人(とねり)になれたらなかなか威厳があるものだ。そこから落ちぶれたとしても、孫の代までは気品があるように感じる。しかし、それよりも下の位になると、得意顔で自分の地位を自慢するのは、とても情けない(恥ずかしい)ことである。
しかし、最も羨ましくないのが僧侶(隠棲者)である。清少納言が『人から木っ端(取るに足りないもの)のように思われる』と書いたのも、本当に最もである。勢力を増して僧侶としてのし上がっても、凄いようには見えない。増賀上人が言ったように、名声欲は仏教の教義に背いているのだ。(名声・地位への欲望がない)本当の世捨人であれば、望ましい部分もあるかもしれないが。
人は容姿が優れているほうが良いと思われがちであるが、聞き苦しくない楽しい話ができて、程よい愛敬があり言葉数の少ない人のほうが、向かい合っていていつまでも飽きることがない。反対に、外見が良いように見える人の性格(心持ち)が悪くて、その(悪しき)本性が見えたときには本当に残念に思う。家柄・容姿は生得的なもので変えられないが、性格や教養は変えようと思って努力すれば変えることができる。一方、容姿と性格が良くてもそれに見合う教養がないと、醜くて下品な相手から議論で押さえ込まれてしまって不本意なことになってしまう。
理想的であるのは、本当の学問の道を修得して、漢詩・和歌・雅楽に精通しているということである。更に、朝廷の儀式・制度・慣習などの有職故実(ゆうそくこじつ)に通じている人を、人の模範となるべき凄い人物というのである。男ならば、筆で書く文字が達筆であり、音楽に合わせて上手に歌うことができ、酒も程よく飲めるというのが理想である。


[古文] 2段.
いにしへのひじりの御世の政(まつりごと)をも忘れ、民の愁(うれい)、国のそこなはるるをも知らず、万(よろず)にきよらを尽くしていみじと思ひ、所せきさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。
『衣冠より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ』とぞ、九条殿の遺誡にも侍る(はんべる)。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、『おほやけの奉り物は、おろそかなるをもってよしとす』とこそ侍れ。

[現代語訳]
古代の聖人(天子)の治世を忘れて、民衆の心配や国の損失のことも考えず、すべてに華美の限りを尽くして素晴らしいなどと思い、所狭しとばかりにふんぞり返っている人は、何ともひどくて浅慮(浅はか)だと思う。
『衣冠・馬車などに至るまで、そこにあるものを用いれば良い。華美な贅沢を求めてはいけない』と、九条殿(右大臣・藤原師輔)の遺誡にも書かれている。順徳天皇が朝廷の仕儀についてお書きになったもの(『禁秘抄』)にも、『天皇のお召し物は、質素・粗末なもので良いとする』とあるのに。


[古文] 3段:
万(よろず)にいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉のさかづきの当(そこ)なき心地ぞすべき。露霜(つゆしも)にしほたれて、所定めずまどひ歩き、親の諌め、世の謗り(そしり)をつつむに心の暇(いとま)なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは、独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。
さりとて、ひたすらにたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。

[現代語訳]
すべてにおいて優れているのに、女を好まないという男は、どこか間が抜けていて、水晶(玉石)の盃(さかずき)の底が無くなっているような感じを受ける。夜露に着物を濡らしながら、行き場所もなくさまよい歩いており、親の注意も世間の非難を聞くだけの気持ちの余裕もなく、あれこれと思い悩んでいる。その結果、独りで寒々と眠ることになるのだが、その寝つけない夜というのが興趣をそそるのである。
しかし、ただ淫らに女を求め過ぎるというのもダメであり、女に軽い男と思われない程度に振る舞うのが望ましいやり方なのだ。


[古文] 4段:
後の世の事、心に忘れず、仏の道うとからぬ、心にくし。

[現代語訳]
彼岸の世界(あの世)のことを、心の中で忘れずに、仏道を軽んじないということが、奥ゆかしい。


[古文] 5段:
不幸に憂(うれえ)に沈める人の、頭(かしら)おろしなどふつつかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに、門(かど)さしこめて、待つこともなく明し(あかし)暮したる、さるかたにあらまほし。顕基(あきもと)中納言の言ひけん、配所(はいしょ)の月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。

[現代語訳]
不幸で心配に沈んでいる人(出世の望みのない貴族)でも、剃髪して出家することを軽々しく決心したのではなくて、門を閉じて自邸の中にひきこもり、やることもなく日々を暮らしている。そういう人(世捨人・隠棲者)になりたいものだ。顕基・中納言(源顕基)は『無実の罪で流された場所から月を眺めていたい』と語ったとされるが、(世俗を離れたい)私もそのように思っている。


[古文] 6段.
わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん。前中書王(さきのちゅうしょおう)・九条太政大臣・花園左大臣、みな、族(ぞう)絶えん事を願ひ給へり。
染殿大臣(そめどののおとど)も、『子孫おはせぬぞよく侍る(はんべる)。末のおくれ給へるは、わろき事なり』とぞ、世継(よつぎ)の翁(おきな)の物語には言へる。聖徳太子の、御墓(みはか)をかねて築かせ給ひける時も、『ここを切れ。かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり』と侍りけるとかや。

[現代語訳]
自分が高貴な身分でなくても、取るに足りない場合にも、子供というものはいないほうが良い。前の中書王(中務卿・兼明親王)も、九条の太政大臣(藤原信長)も、花園の左大臣(源有仁)も、みんな自分の血筋(血族)が絶えることを願っておられた。 『大鏡』では、染殿の大臣(藤原良房)も『子孫などいないほうが良い。ろくでなしの子ができるのは悪いことである』と語っていたそうだ。聖徳太子も自分の墓を築かせる時に『あれもいらない。これもいらない。自分は子孫を残すつもりなどはない』とおっしゃっていたと伝えられている。


[古文] 7段:
あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙(けぶり)立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふの夕べを待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年(ひととせ)を暮すほどだにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過す(すぐす)とも、一夜の夢の心地こそせめ。住み果てぬ世にみにくき姿を持ち得て、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも、四十(よそじ)に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出で交らはん事を思ひ、夕べの陽(ひ)に子孫を愛して、さかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

[現代語訳]
あだし野の墓地の露が消えないように人間が生き続け、鳥部屋の煙が消えないように人間の生命が終わらないのであれば、この世の面白み・興趣もきっと無くなってしまうだろう。人生(生命)は定まっていないから良いのである。
命あるものの中で、人間ほど長生きするものはない。蜻蛉(かげろう)のように一日で死ぬものもあれば、夏の蝉のように春も秋も知らずにその生命を終えてしまうものもある。その儚さと比べたら、人生はその内のたった一年でも、この上なく長いもののように思う。その人生に満足せずに、いつまでも生きていたいと思うなら、たとえ千年生きても、一夜の夢のように短いと思うだろう。永遠に生きられない定めの世界で、醜い老人になるまで長く生きて、一体何をしようというのか。漢籍の『荘子』では『命長ければ辱多し』とも言っている。長くても、せいぜい四十前に死ぬのが見苦しくなくて良いのである。
四十以上まで生きるようなことがあれば、人は外見を恥じる気持ちも無くなり、人前に哀れな姿を出して世に交わろうとするだろう。死期が近づくと、子孫のことを気に掛けることが多くなり、子孫の栄える将来まで長生きしたくなってくる。この世の安逸を貪る気持ちばかりが強くなり、風流さ・趣深さも分からなくなってしまう。情けないことだ。


[古文] 8段:
世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外(ほか)の色ならねば、さもあらんかし。

[現代語訳]
人の心を迷わすもので、色欲(性欲)に勝るものはない。人の心とは愚かなものであるな。
女の匂いなどはそれは本人の匂いではなく、服に付けた仮り初めのもの(焚きしめた香料の匂い)だと分かっていながら、いい匂いのする女に出会うと、男は必ず胸がときめくものである。久米の仙人が、洗濯女の白いふくらはぎを見て神通力を失ったという逸話があるが、本当にそういうことがあってもおかしくはない。女の手足・素肌のふっくらした肉付きの良さや華やかな美しさというのは、(仮り初めの香料などではなく)身体そのものの美しさ・魅力なのだから抵抗しがたい。


[古文] 9段.
女は、髪のめでたからんこそ、人の目立つべかんめれ、人のほど・心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越しにも知らるれ。
ことにふれて、うちあるさまにも人の心を惑はし、すべて、女の、うちとけたる寝(い)もねず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬわざにもよく堪へしのぶは、ただ、色を思ふがゆゑなり。
まことに、愛著(あいぢゃく)の道、その根深く、源遠し。六塵(ろくじん)の楽欲(ごうよく)多しといへども、みな厭離(おんり)しつべし。その中に、ただ、かの惑ひのひとつ止めがたきのみぞ、老いたるも、若きも、智あるも、愚かなるも、変る所なしと見ゆる。
されば、女の髪すぢを縒れる(よれる)綱には、大象もよく繋がれ、女のはける足駄(あしだ)にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言ひ伝え侍る。自ら戒めて、恐るべく、慎むべきは、この惑ひなり。

[現代語訳]
髪の美しい女こそ、男の視線を引きつけると思われているようだが、女性の魅力や風情ある心情は話をしている気配で、障子越しにも伝わってくるものだ。
何かにつけて、女はただそこにいるだけでも男の心を惑わす。女がくつろいで寝ることがなく、我が身を顧みることもなく、耐え難いことにも耐え忍べるのは、ひとえに愛欲(色欲)によるものである。
本当に、愛欲・愛着の道はその根が深くてその源ははるかに遠い。人間の心を汚す『五感・法がもたらす多くの欲望』は、仏道の修行によって遠ざけることができる。しかし、その中でも愛欲(色欲)の迷いというのは、老いも若きも愚者も賢者も捨てがたいのである。
そうであれば、巨大な象でも女の髪で編んだ綱につながれるといい、女の履いた下駄の木で作った笛の音には、必ず発情した秋の鹿が集まってくると伝えられている。男が自ら戒め恐れて控えるべきものは、この愛欲の迷いである。


[古文] 10段:
家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ。よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きららかならねど、木立もの古りて(ふりて)、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、すのこ・透垣(すいがい)のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
多くの工(たくみ)の、心を尽してみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽(せんざい)の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間のけぶりともなりなんとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寝殿に、鳶ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、『鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ』とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮の、おはします小坂殿の棟に、いつぞや縄を引かれたりしかば、かの例(ためし)思ひ出でられ侍りしに、『まことや、烏の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん』と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にも、いかなる故か侍りけん。

[現代語訳]
家構えは自分の身分に似合っているものが望ましい。家は無常の世では、一時的な仮の宿ではあるが、人の家には興味を引かれる。身分の高い人がのどかに暮らしていると、家に差し込む月の光すら、しみじみとした趣きがあるように見える。そんな風情ある家の庭は、流行を追っておらず、華やかでもないけれど、木立は程よく古びており、手を入れていない庭は自由に生い茂っている。建物や透垣(竹・細板で作った向こうが透けて見える板垣)の配置も素晴らしく、それとなく置いている調度品(家具)にも古い歴史が感じられて、気持ちが落ち着かせられる。
多くの匠(職人)が一生懸命に磨きあげ、唐物(中国からの輸入品)や大和の珍しい調度を並べたとしても、庭の植木・植物まで意図的に良く見えるように植え込んでしまうと、見苦しくなってしまい寂しいものだ。人間はどのくらい長くその家に住めるのだろう。家なんてあっという間に焼けて煙になってしまうこともあるのにと、家を見ながら思ったりもする。家の構えを見ることで、その家に住む人の人柄や考えが推し量れることもある。
後徳大寺大臣の家の屋根に、鳶(鳥のとんび)が止まれないように縄をはっていたのを、西行法師が見かけて『トンビが屋根にとまると、何か問題がありますか?この家の主人の心はそのように狭いものなのか』と言ったという。その後は、二度とその家を訪れることがなかったと聞いている。綾小路宮が住んでいる小坂殿の屋根にも、いつからかカラスを避ける縄が張られていたので、西行の逸話を思い出したのだが、『実はカラスが池の蛙を捕まえるのを見て、綾小路様が悲しまれていた』と人が言っているのを聞いた。そうであれば、素晴らしい心がけだと思う。(西行に敬遠された)後徳大寺殿にも、何か縄を張った理由があったのではないだろうか。


[古文] 11段:
神無月のころ、栗栖野(くるすの)といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるる懸樋(かけい)の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし。
かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子の木の、枝もたわわになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか。

[現代語訳]
神無月(旧暦10月)の頃、栗栖野という所を通り過ぎて、ある山里にたずね入る事がありましたが、遥かな苔の細道を踏み分けて行くと、心細い様子で誰かが住んでいる庵があった。木の葉に埋もれる懸け樋の雫以外には、まったく音を立てるものがない。仏前に水・花を供えるための閼伽棚には菊や紅葉などが折り散らしてある。さすがに誰か住む人がいるからだろう。
こんなに荒れていても住んでいられるのかと、憐れに思って見ていると、向こうの庭に大きな蜜柑の木が、枝もたわむほどに実をならせていた。しかし、蜜柑の木の周りを厳しく囲っており、少し興ざめして、(庵の家主のケチ・吝嗇な人柄を推測させる)この木が無ければ良かったのにと思った。


[古文] 12段.
同じ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向ひゐたらんは、ただひとりある心地やせん。
たがひに言はんほどの事をば、「げに」と聞くかひあるものから、いささか違ふ所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など争ひ憎み、「さるから、さぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、少し、かこつ方も我と等しからざらん人は、大方のよしなし事言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔たる所のありぬべきぞ、わびしきや。

[現代語訳]
同じ心(気持ち)の人としんみりと世間話などして、面白い事も世のはかない事も、裏表なく話し合って慰め合えれば嬉しいのだけど、そのような人はいないだろうから、少しも違わないようにと相手に気を遣って向かい合っているのは、ただひとりでいるような孤独な気持ちである。
お互いに言おうとする事が『本当に』と聞く価値のあるものであれば良いが、少し自分の考えと違う所があるような人と『私はそう思わない』などと言い争いになることもある。『そういうことだから、そうか』ともし(お互いに譲って)語ることができれば、何となく気持ちも慰められると思うけれど。本当は少し愚痴を言う方法が自分と違っているような人は、大体、良くも悪くもない事を言っている間は良いのだが、(そういった毒にも薬にもならないやり取りは)本当の心の友とは、全く異なっているところがありそうで、何ともやりきれない。


[古文] 13段:
ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
文(ふみ)は、文選(もんぜん)のあはれなる巻々(まきまき)、白氏文集(はくしもんじゅう)、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。

[現代語訳]
一人、明かりの下で、本(巻物)を開いていると、見たこともない昔の作者を友とする気持ちがしてきて、この上なく気持ちが慰められるのである。
本(巻物)には、『文選(全30巻)』の興趣ある文章の数々、唐の詩人・白楽天が書いた『白氏文集』、『老子』の無為自然を説くことば、南華と呼ばれる『荘子』の篇の数々がある。この国の文章博士たちが書いた物にも、古いものには、しみじみとした趣きのあるものが多い。


[古文] 14段:
和歌こそ、なほをかしきものなれ。あやしのしず・山がつのしわざも、言ひ出でつればおもしろく、おそろしき猪のししも、「ふす猪の床(ふすいのとこ)」と言へば、やさしくなりぬ。
この比(ごろ)の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外に、あはれに、けしき覚ゆるはなし。貫之が、「糸による物ならなくに」といへるは、古今集の中の歌屑とかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、姿・ことば、このたぐひのみ多し。この歌に限りてかく言ひたてられたるも、知り難し。源氏物語には、「物とはなしに」とぞ書ける。新古今には、「残る松さへ峰にさびしき」といへる歌をぞいふなるは、まことに、少しくだけたる姿にもや見ゆらん。されど、この歌も、衆議判(しゅぎはん)の時、よろしきよし沙汰ありて、後にも、ことさらに感じ、仰せ下されけるよし、家長が日記には書けり。
歌の道のみいにしへに変わらぬなどいふ事もあれど、いさや。今も詠みあへる同じ詞・枕詞(まくらことば)も、昔の人の詠めるは、さらに、同じものにあらず、やすく、すなほにして、姿もきよげに、あはれも深く見ゆ。
梁塵秘抄(りょうじんひしょう)の郢曲(えいきょく)の言葉こそ、また、あはれなる事は多かめれ。昔の人は、ただ、いかに言ひ捨てたることぐさも、みな、いみじく聞ゆるにや。

[現代語訳]
和歌というのは、やはり情趣・風情がある。身分の低い下賎な者・山に住む木こりの所業も、歌にすればおもしろくて、恐ろしい猪でも『ふす猪の床』と言えば優しい印象になってしまう。
この頃の新しい歌は、部分的に趣深く詠めているように見えるものはあるが、どういうわけか、古い和歌のように言葉の外にある情趣の感覚を覚えることはない。紀貫之(きのつらゆき)が『糸による物ならなくに』と詠んだ歌は、『古今和歌集』の中では屑の歌(ダメな歌)と言ひ伝えられているけれど、今の世の歌人が詠めるような歌ではない。
古い歌には、『形・ことば(全体的構成・部分的な言葉遣い)』においてこういった優れた類が多いのである。この紀貫之の歌に限って悪く言われるのも、分かりにくい。源氏物語では『物とはなしに』と書いてある。新古今和歌集には『残る松さへ峰にさびしき』という歌をそのように悪く言っているが、実際、少しくだけた感じの歌にも見える。しかし、この歌も、衆議判(歌の優劣の議論を通した判定)の時には、『よい歌だ』という内容の判定があった。後に、後鳥羽院(上皇)もそのように良い歌に感じたということが、源家長の日記には書いてある。
歌の道は昔と変わらないと言う事もあるが、そうだろうか。今、歌に詠まれる同じ詞・枕詞も、昔の人が詠めば、全く同じものではない。言葉が平易で素直であり、形式も整っていて、しみじみとした深い感動が伝わってくる。
後鳥羽院が勅撰した『梁塵秘抄』の流行りの歌の言葉にも、また趣きのあるものが多い。昔の人は、日常的な言葉・話しぶりであっても、みんな素晴らしいように聞こえてしまうのだ。


[古文] 15段.
いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ。  そのわたり、ここ・かしこ見ありき、ゐなかびたる所、山里などは、いと目慣れぬ事のみぞ多かる。都へ便り求めて文やる、『その事、かの事、便宜に忘れるな』など言ひやるこそおかしけれ。
さようの所にてこそ、万に心づかひせらるれ。持てる調度まで、よきはよく、能ある人、かたちよき人も、常よりはおかしとこそ見ゆれ。寺・社などに忍びて籠りたるもをかし。

[現代語訳]
どこであっても、しばらくの間、旅立つということは、目がさめる心地がする。 そのあたり、ここかしこを見てまわり、田舎びた所、山里などは、本当に見慣れないことが多いだろう。都へ良い知らせを求めて手紙を送る、『(自分が旅に出かけている間に)その事、あの事、都合良く忘れるな』などと言ってやるのは面白いものだ。
そのような旅先でこそ、全てのことに心遣い(注意)をすることができるだろう。持っている調度品も良いものは良い、芸能のある人、容姿が美しい人も、いつもより興味深く見ることができる。寺や神社などに忍び込んで、ひっそりと籠るのもまた面白い。


[古文] 16段:
神楽(かぐら)こそ、なまめかしく、おもしろけれ。
おほかた、ものの音(ね)には、笛・篳篥(ひちりき)。常に聞きたきは、琵琶(びわ)・和琴(わごん)。

[現代語訳]
(神に捧げる)神楽こそ、世俗じみていない優雅さが感じられ、情趣がある。
一般的な楽器の音というのは、笛(日本製のヤマト笛)・篳篥(中国渡来の竹の笛)だが、いつも聞きたいのは、琵琶・和琴だな。


[古文] 17段:
山寺にかきこもりて、仏に仕う(つかう)まつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ。

[現代語訳]
山寺に籠もって仏にお勤め(勤行)することは、とりとめも無く、心の濁り(世俗の煩悩)も清まる感じがする。


[古文] 18段:
人は、己れをつづまやかにし、奢り(おごり)を退けて、財(たから)を持たず、世を貪らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり。
唐土(もろこし)に許由(きょゆう)といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へ(たくわえ)もなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びて(むすびて)ぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨(そんしん)は、冬の月に衾(ふすま)なくて、藁一束(わらひとたば)ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝(あした)には収めけり。
唐土のひとは、これをいみじと思へばこそ、記し止めて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず。

[現代語訳]
人は自分を質素にして、奢りたかぶりを退け、財を持たずに、世俗の欲望を貪らないようにすることが、素晴らしいことだ。昔から、賢人が富むのは稀なことである。
唐土(中国)の許由という人物は、自分の身に備えた貯えもろくになくて、水を手に捧げて飲んでいるのを人が見て、「なりひさこ(水筒になるひょうたん)」という物を与えた。ある時、木の枝にひょうたんを掛けていたら、風に吹かれてそれが鳴るので、音がうるさいと捨ててしまった。また、手ですくって水を飲むようになった。どんなに心が涼やかになったことだろうか。孫晨は、冬の月に衾(布団の寝具)がなくて、藁一束だけがそこにあった。夜はこの藁に寝転がって、朝はその藁を片付けた。
中国の人は、こういった質素倹約な生活を素晴らしいと思えばこそ、これを書き残して世に伝えたのだ。しかし、日本の人は、この事績を語りもしなければ伝えもしない。


[古文] 19段.
折節(おりふし)の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。
『もののあはれは秋こそまされ』と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあんめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、墻根(かきねの草萌え出づるころより、やや春ふかく、霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折しも、雨・風うちつづきて、心あわたたしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。花橘(はなたちばな)は名にこそ負へれ、なほ、梅の匂ひにぞ、古の事も、立ちかへり恋しう思い出でらるる。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し。
『灌仏の比(かんぶつのころ)、祭の比、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ』と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月、菖蒲(あやめ)ふく比(ころ)、早苗とる比、水鶏(くいな)の叩くなど、心ぼそからぬかは。六月(みなづき)の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火(かやりび)ふすぶるも、あはれなり。六月祓(みなづきばらえ)、またをかし。
七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒(よさむ)になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分(のわき)の朝(あした)こそをかしけれ。言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つ(やりすつ)べきものなれば、人の見るべきにもあらず。
さて、冬枯(ふゆがれ)のけしきこそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀(みぎわ)の草に紅葉の散り止まりて、霜いと白うおける朝、遣水(やりみず)より烟(けぶり)の立つこそをかしけれ。年の暮れ果てて、人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日(はつか)余りの空こそ、心ぼそきものなれ。御仏名、荷前の使(のさきのつかい)立つなどぞ、あはれにやんごとなき。公事(くじ)ども繁く、春の急ぎにとり重ねて催し行はるるさまぞ、いみじきや。追儺(ついな)より四方拝(しほうはい)に続くこそ面白けれ。晦日(つもごり)の夜、いたう闇きに、松どもともして、夜半過ぐるまで、人の、門叩き、走りありきて、何事にかあらん、ことことしくののしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて魂祭る(たままつる)わざは、このごろ都にはなきを、東(あずま)のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか。
かくて明けゆく空のけしき、昨日に変りたりとはみえねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路(おおじ)のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ、またあはれなれ。

[現代語訳]
季節の移り変わりこそ、物事にしみじみとした趣きがあるものだ。
『物事の趣きの深さは秋こそ優れている』と人々は言うけれど、それは確かにそうだが、いま一層心を浮き立たせる季節は、春の景色である。鳥の声も事のほか春めいてきて、のどかな日の光に、垣根の草も萌えいずる時期から、やや春は深まり、霞がかってぼんやりとし、桜の花もようやく色づき始める。ちょうど、雨風が続いて、心が休まる暇もなく桜の花の季節が終わってしまう。桜が青葉になっていくまで、ただすべて、花のことのみに心を悩ませられるものだ。花橘は名前こそ桜に負けてはいないが、梅の匂いのほうが思い出されてくる。昔の事を振り返れば、恋しい気持ちになってくるが、山吹の清らかさ、藤のはっきりしない趣き、すべてが捨てがたいものばかりである。
『灌仏会と賀茂神社の祭りの頃の若葉が木の梢に涼しげに茂っている様子は、世の物悲しさや人の恋しさにも勝っている』と人が語るのは、本当にその通りである。五月に、邪気をはらう菖蒲の葉を屋根に葺き(ふき)、早苗を取り込む時期の、水鶏(くいな)が戸を叩くような声は、心細く感じてしまわないだろうか。六月の頃には、貧しい家に夕顔が白く咲いて、蚊遣り火がくすぶっているのもしみじみとしている。六月禊は、また興味深い。
七夕祭はなまめかしさがある。少しずつ夜が寒くなり、雁が鳴いている頃には、萩の下葉は色づくほどで、早稲(わせ)の稲刈りをして干している。取り集めて語りたい事は、秋に多いものだ。また、風が吹く明朝こそ、情緒的な趣きがある。言い続けられていることは、みんな源氏物語・枕草子などで使い古されてるのだが、同じことを、もう一度また言えないという事もないだろう。思ったことを言わないのは腹がふくれるような感じがすることだから、筆に任せながらの他愛のない遊びなので、すぐに破り捨てたほうが良いものである。人に見せるような価値はない。
さて、冬枯れの景色というのも、秋に少しも劣らないものだ。水辺の草に紅葉は散り落ちており、霜がとても白く降りている朝には、庭の小川から湯気立つのが興味深い。年も暮れて、人々が急ぎ合っている時期には、また何となくしみじみとした気持ちになる。もの寂しいと決め込んで見る人もない月は、寒々として澄んでいる。20日あたりの空というのは、心細さ・寂しさを感じるものである。懺悔・滅罪のための仏名会や朝廷の勅使の出発は、趣深くて尊いものである。公の行事が多くて、新春の準備と重なって、行事が行われている様子はとても大変である。
追儺(鬼やらい)の儀式から四方拝へと続く時期が興味深い。晦日の夜はとても暗いのに、松明をともして、夜半が過ぎるまで、人の家の門を叩いて走り回って何事なのだろうか。物々しく罵り合って足を空にぶらりとさせている。明け方から、さすがに静かになってくるが、一年を名残惜しく振り返るのは心細いものだ。亡くなった人の訪れる夜として魂を祭る行事は、最近の都では見なくなったが、日本の東方では、今でも行っている所もある。その魂をお祭りする行事は、とても情趣豊かなものではないだろうか。
このようにして明けていく空の景色は、昨日から変わっているようには見えないが、珍しい感じがする。都の大路の様子は、松を多く植えていて、華やかで気分が晴れやかであり、また趣き深いものである。


[古文] 20段:
某(なにがし)とかやいひし世捨人の、『この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき』と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。

[現代語訳]
なにがしとかいう世捨て人が、『この俗世に縛り付けられるような物を持っていない身には、ただ空から受ける感動・余韻のみが惜しい』と言ったのだが、本当にそのように思ってしまう。


[古文] 21段:
万(よろず)のことは、月見るにこそ、慰むものなれ、ある人の、『月ばかり面白きものはあらじ』と言ひしに、またひとり、『露こそなほあはれなれ』と争ひしこそ、をかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん。
月・花はさらなり、風のみこそ、人に心はつくめれ。岩に砕けて清く流るる水のけしきこそ、時をも分かずめでたけれ。『元・湘、日夜、東に流れさる。愁人のために止まること小時もせず』といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。けい康(けいこう)も、『山沢に遊びて、魚鳥を見れば、心楽しぶ』と言へり。人遠く、水草清き所にさまよひありきたるばかり、心慰むことはあらじ。

[現代語訳]
どんなことがあっても、月さえ眺めていれば、気持ちが慰められるものだ。ある人が、『月ほど面白いものはない』と言えば、また別のひとりが、『露のほうこそ趣きがある』と言って言い争いになったのだが、これも趣深いものだった。良い時期に当たらなければ、それに趣深さがあるとは言えない(あはれと感じる事象には、それを鑑賞するのに最適の時期があるのではないだろうか)。
月・花は言うまでもないが、風も、人の心を興趣へと揺り動かすものである。岩に当たって砕ける清く流れる水の景色は、季節を問わずに素晴らしい。『元・湘(中国の川)は日夜、東に流れ去っていく。愁えている人のために流れを止めることを、少しの間もすることがない』という詩を拝見致しましたが、これは情趣がある。竹林の七賢のけい康も、(『文選』という古典の詩集の中で)『山沢に遊びて、魚鳥を見れば、心楽しぶ』と言っている。人は遠くに出かけて、水草の清い所をさまよい歩くばかりでは、心が慰められることもないだろう。


[古文] 22段.
何事も、古き世のみぞ慕わしき。今様(いまよう)は、無下(むげ)にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる、うつくしき器物(うつわもの)も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。
文の詞(ふみのことば)などぞ、昔の反古どもはいみじき。ただ言ふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。古は、「車もたげよ」、「火かかげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮人数立て(とのもりょうにんじゅたて)」と言ふべきを、「たちあかししろくせよ」と言ひ、最勝講(さいしょうこう)の御聴聞所(みちょうもんじょ)なるをば「御講の廬(ごこうのろ)」とこそ言ふを、「講廬(こうろ)」と言ふ。口をしとぞ、古き人は仰せられし。

[現代語訳]
何事も、古い世が慕わしく感じる。今風のものは、何かひどく卑俗なものになっていくようだ。あの木の職人(匠)が造った美しい器物も、古風な姿にこそ情趣があるのだ。
手紙の内容なども、昔の人が書き損じた手紙のほうがまだ素晴らしい。普段の話し言葉ですら、残念でつまらないものになっていく。昔は、「車もたげよ(牛車の轅を持ち上げよ)」、「火かかげよ(灯火の光を明るくせよ)」と言っていたのが、今では、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言っている。「主殿寮人数立て(主殿寮の役人に列席して式場を松明で照らせという命令)」と言うべきを、「松明で明るく照らせ」と言い、四大寺(東大寺・興福寺・延暦寺・園城寺)の僧を集めて天下太平を祈る最勝講の儀式に、天皇が講義を聞かれる御座所は「御講の廬」と言うべきを「講廬」と言っている。情けないことだと、古事・慣習に通じた老人はおっしゃっている。


[古文] 23段:
衰へたる末の世とはいへど、なほ、九重(ここのえ)の神さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ。
露台(ろだい)・朝餉(あさがれい)・何殿(なにでん)・何門(なにもん)などは、いみじとも聞ゆべし。あやしの所にもありぬべき小蔀(こじとみ)・小板敷(こいたじき)・高遣戸(たかやりど)なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣に夜の設(もうけ)せよ」と言ふこそいみじけれ。夜の御殿(おとど)のをば、「かいともしとうよ」など言ふ、まためでたし。上卿(じょうけい)の、陣にて事行へるさまはさらなり、諸司の下人(しもうど)どもの、したり顔に馴れたるも、をかし。さばかり寒き夜もすがら、ここ・かしこに睡り居たる(ねぶりいたる)こそおかしけれ。「内侍所(ないしどころ)の御鈴の音は、めでたく、優なるものなり」とぞ、徳大寺大政大臣(おおきおとど)は仰せられける。

[現代語訳]
朝廷の権威が衰えた末法の武士の世とは言っても、今なお、幾重もの門に囲まれた宮中の神々しい様子は素晴らしいものである。
板張りの廊下である露台、天皇が食事を召し上がる部屋を朝餉の間というが、何とか殿、何とか門などと聞くだけでも、神々しいもののように聞こえてしまう。どこの家にでもあるような、板組みの小窓や板の間、開き戸であっても、宮中で「小蔀・小板敷・高遣戸」と言っていれば、特別に素晴らしいもののように聞こえる。
警護の役人が「陣に夜の寝る準備をせよ」などと言っているのを聞けば、物々しい威厳を感じる。 夜に天皇の御寝所を警護する者が、明かりを灯そうとして「かいともしとうよ(油火の燈籠を早く灯せよ)」とか言うのだが、それもまた洗練されている。宮廷行事を担当する公卿が、詰め所で行事進行の命令を下すのもかっこいい。宮廷の警護の下級役人たちが、自分はよくやっているという得意顔をしているのも面白い。更に、とても寒い真冬の夜に、警護の役人たちが、そこかしこで眠り込んでしまっている様子もおかしい。「(天皇が聞くことになる)内侍所の御鈴の音は、めでたく、優なるものなり」と、徳大寺大政大臣(=藤原公孝)は仰っている。


[古文] 24段:
斎宮の、野宮におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか。「経」「仏」など忌みて、「なかご」「染紙」など言ふなるもをかし。
すべて、神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。もの古りたる森のけしきもただならぬに、玉垣しわたして、榊に木綿懸けたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰(きぶね)・吉田・大原野・松尾・梅宮。

[現代語訳]
斎宮(伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女)が、伊勢神宮に下る前に心身を清めるための野宮(仮所)に滞在しておられるご様子は、優美であり、非常に趣き深いものに感じられました。伊勢神宮の神域では、仏教や経文を忌み嫌っており、「染紙」「なかご」などと違う言葉に言い換えられていたのも趣きがある。
そのように、すべての神社は捨て難いものであり、魅惑的なものなのだ。鬱蒼と古木が生い茂った森の景色も普通ではない。石垣が張り巡らされていて、榊の木に御幣がたなびいている状況は、神秘的な情趣を感じさせる。特に素晴らしい神社は、伊勢、賀茂、春日、平野、住吉、三輪、貴布禰、吉田、大原野、松尾、梅宮である。



[古文] 25段.
飛鳥川の淵瀬(ふちせ)常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび・悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ。桃李(とうり)もの言はねば、誰とともにか昔を語らん。まして、見ぬ古のやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。
京極殿(きょうごくどの)・法成寺(ほうじょうじ)など見るこそ、志留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族(おおんぞく)のみ、御門の御後見(おおんうしろみ)、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門・金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ。金堂は、その後、倒れ伏したるままにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、その形とて残りたる。丈六の仏九体、いと尊くて並びおはします。行成大納言(こうぜいだいなごん)の額、兼行(かねゆき)が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。
されば、万に、見ざらん世までを思ひ掟てん(おきてん)こそ、はかなかるべけれ。

[現代語訳]
飛鳥川の淵や瀬は常に姿を変えているが、この川の流れのように移り変わり続けるのが世の常であるならば、時は移り、物事は過ぎ去って、喜びも悲しみも入り交じり過去に流れ去っていく。華やかだった場所も、やがて人の住まない荒野となるが、家が残っていたとしても住む人は違う人に変わってしまう。
毎年のように花を咲かせる桃李は何も語らないので、誰に遠い昔のことを尋ねればよいのだろうか。見たこともない古代の繁栄・高貴の遺構を示す廃墟は、とても儚いものである。摂政になった藤原道長が建立した豪華な京極殿・法成寺などの跡を見ると、昔の貴人の思いが偲ばれて、今のすっかり荒れ果てて変わってしまった様子が哀れに感じる。
多くの荘園を寄進して、自らの一族(藤原家)が末代まで天皇の後見人(摂政関白)となることを望んだ道長は、その繁栄を極めている時期にこのように変わり果ててしまった状態を予測することができただろうか。法成寺の大門・金堂などは最近まであったのだが、正和の頃に南門は焼け落ち、金堂はその後に倒れたままであり、再建する目途も立っていない。無量寿院だけが、その形を今でも残しており、一丈六尺の仏様が九体、尊い姿で並んでおられる。行成大納言の書いた額、源兼行が書いた扉の絵が、今も鮮やかに残っている様子が悲しく感じられる。
法華堂などもまだ残っているが、これもいつまで持つだろうか。こういった過去の名残・記録もないような場所には、建物の土台の跡が残っているだけで、何の建物の跡だったのかを正確に知る人はいないのである。だから、自分が見ることのできない遠い子孫の代まで繁栄の基礎を築こうとするようなことは、すべて儚いのである。


[古文] 26段:
風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ。
されば、白き糸の染まんことを悲しび、路のちまたの分かれんことを歎く人もありけんかし。堀川院の百首の歌の中に、
昔見し妹が墻根は荒れにけりつばなまじりの菫のみして
さびしきけしき、さる事侍りけん。

[現代語訳]
風も吹き荒れていないのに散ってゆく花のように、移り変わってゆく人の心、過去に親しんだ月日のことを思うと、しみじみと感動して聞いた一つ一つの言葉が忘れられない。そんな大切な言葉を少しずつ忘れ去っていっていることは、亡くなった人との別れよりも悲しいものである。
だから、白い糸が必ず汚れることを悲しみ、道が必ず分かれる事を嘆いた人もいたのだろう。堀川院の選んだ百首の歌の中に、以下のようなものがある。
昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして
この和歌の意味は、昔の彼女の家の垣根がすっかり荒れ果てていた、茅草の中にすみれの花ばかりが咲いているというものである。この歌に詠まれた寂しい景色に、しみじみとした思いを寄せる。


[古文] 27段:
御国譲り(みくにゆずり)の節会(せちえ)行はれて、剣・璽・内侍所渡し奉らるるほどこそ、限りなう心ぼそけれ。
新院の、おりゐさせ給ひての春、詠ませ給ひけるとかや。
殿守(とのもり)のとものみやつこよそにして掃はぬ(はらわぬ)庭に花ぞ散りしく
今の世のこと繁きにまぎれて、院には参る人もなきぞさびしげなる。かかる折にぞ、人の心もあらはれぬべき。

[現代語訳]
持明院統の花園上皇が、大覚寺統の後醍醐天皇に、天皇位を譲位する「御国譲りの節会」の儀式が行われた。花園上皇が、三種の神器を新天皇にお譲りになられた時には、この上なく心細い気持ちになった。
花園上皇が退位なされた年の春に詠まれた歌は、以下のようなものである。
殿守の とものみやつこ よそにして 掃はぬ庭に 花ぞ散りしく
この歌の意味は、新しい天皇の御世になって、主殿寮の役人が誰も自分の屋敷の庭掃除をしてくれないので、花が庭に敷き詰めるかのように散り落ちているというものである。権力の座を失った花園上皇の周辺のもの寂しさを表現した歌である。
現在の世俗の忙しさに紛れて、花園院の周辺には参上する人もなくて寂しげな様子である。こういった落魄(失意)の時期にこそ、人間の心(忠誠心)というものは現れてくるものだ。


[古文] 28段.
諒闇(りょうあん)の年ばかり、あはれなることはあらじ。
倚廬(いろ)の御所のさまなど、板敷(いたじき)を下げ、葦の御簾(あしのみす)を掛けて、布の帽額(もこう)あらあらしく、御調度(みちょうど)どもおろそかに、皆人(みなひと)の装束・太刀・平緒まで、異様なるぞゆゆしき。

[現代語訳]
諒闇の年(天皇の父母が亡くなった時に服喪する期間)ほど、悲しくつらいことはない。1319年に、後醍醐天皇の母である談天門院・藤原忠子が亡くなり、後醍醐天皇が約1年間の喪に服した。
天皇が13日間の間、喪に服する仮御所の「倚廬の御所(いろのごしょ)」の様子は、板敷を下げてあり、庶民の用いる葦の御簾を掛け、布の帽額(御簾の外側に横長に張った布)は薄墨色で粗末である。家具の品々も質素なものである。服喪している天皇にお仕えする人々の装束・太刀・平緒まで薄墨色に染めてあって、その異様な様子も厳粛で重々しい感じがする。


[古文] 29段.
静かに思へば、万に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。
人静まりて後、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる(やりすつる)中に、亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし。手慣れし具足なども、心もなくて、変らず、久しき、いとかなし。

[現代語訳]
静かにもの思えば、すべて過ぎ去った過去のみが恋しくてどうしようもない。
人が寝静まった後には、長い夜の気慰めに、何となく身のまわりの道具を取り出して、残しておきたくない書き損じの手紙などを破り捨てている。その中に、亡き人が気ままに書き散らした文字や絵(落書き)などを見つけたのだが、それらを見ると昔のことを思い出してしまう。
まだ生きている人からの手紙でも古いものになってくると。どんな時にもらったものか、どのくらい昔にもらったものかと思い出しているうちに物悲しくなってくる。故人の使い慣れている道具は感情を持っておらず、昔と変わらずそのままの形であるのだが、それがとても悲しいのだ。


[古文] 30段:
人の亡き跡ばかり、悲しきはなし。
中陰のほど、山里などに移ろひて、便あしく、狭き所にあまたあひ居て、後のわざども営み合へる、心あわたたし。日数の速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我賢げに物ひきしたため、ちりぢりに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。
年月経ても、つゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸は気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく、卒都婆(そとば)も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に咽び(むせび)し松も千年を待たで薪(たきぎ)に摧かれ(くだかれ)、古き墳(つか)は犂かれて(すかれて)田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。

[現代語訳]
人が死んだ後ほど、悲しいことはない。
四十九日の間、便利の悪い狭い山寺に大勢の人がこもって、亡くなった人の追善供養をするのだが、心が落ち着かない。その日にちが速く過ぎていくのは、何とも言えない気持ちだ。四十九日の最後の日は、とても薄情に感じられる。お互いに故人について語り合うこともなく、自分本位に要領よく身の回りの品々を整理して、山寺からバラバラに帰っていく。自分たちの本邸に帰りつくと、更に悲しいことは増えてくる。「これこれのことは、あぁ恐れ多い。後のために不吉なこととして忌むことにする」などと言うのは、これほどの悲しみの中でどうしてそういうこと(故人の死が不吉だということ)を言うのかと、人間の心が非常に情けないもののように思える。
何年経っても、私は亡くなった人を忘れないが、亡くなった人は次第に周囲の人から忘れ去られてゆく。周囲の人は故人の思い出を笑い話として語るようになるが、私は臨終の時のことを覚えておこう。死骸は人気のない山奥に埋められたが、然るべき時でなければ墓を訪れる者も無く、墓は苔蒸して枯れ葉に埋まり、夕方の風と夜の月だけが語り合う縁者になっている。
故人を思い出して偲ぶ人がいなくなれば、故人の面影はなくなってしまうだろう。その子孫の世代では、墓に眠る故人のことを直接知らず、ただそのありし日の姿を伝聞によって知るのみである。そして、子孫もいなくなってしまえば、誰も墓参りをする者もなく、誰の墓かも分からなくなる。(誰のものかも分からない墓の周囲で)春の草が生い茂る様子は、風流を解する人の情趣を強く誘うだろう。嵐に堪える松も千年を待たずに枯れて、薪にされる。古い塚は鋤かれ耕かされて、田んぼにされる。そういう風に形すら残せない人間の死というものは悲しい。


[古文] 31段.
雪のおもしろう降りたりし朝(あした)、人のがり言ふべき事ありて、文をやるとて、雪のこと何とも言はざりし返事に、「この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の仰せらるる事、聞き入るべきかは。返す返す口をしき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。

[現代語訳]
雪が趣深く降り積もった朝、ある人の元に伝えることがあって手紙を送ったのだが、その手紙の返事には昨晩から降り続いている雪のことが全く触れられていなかった。
その雪に感じる興趣のない返事に対して、「この雪をどのように見るのかについて、一言も書かないようなひねくれ者の言う事を聞き入れても良いものだろうか。かえすがえすも残念な気持ちです」と言っているのが面白かった。
今は亡き人のエピソードであるから、こんな事でも忘れることができない。


[古文] 32段.
九月廿日(ながつきはつか)の比(ころ)、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬ匂ひ、しめやかにうち薫りて、忍びたるけはひ、いとものあはれなり。
よきほどにて出で給ひぬれど、なほ、事ざまの優に覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらしまかば、口をしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。
その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。

[現代語訳]
九月二十日の頃、ある人に誘われて夜明けまで月を見て歩いた。ある人が思い出した場所があるということで、私に案内させて、その家の中に入っていった。荒れた庭の生い茂る植物には露が降りており、周囲にはわざとではない焚き物の香りが漂っていて、忍びながら話している気配が非常にしみじみとした情趣を醸している。
適当な時間にある人はおいとまされたのだが、まだこの家に住んでいる女性の姿が優美に感じられて、物陰からしばらく見ていた。その女性は妻戸を少しだけ開いて、月を見ている様子だった。すぐに引きこもって戸締まりをしてしまっていたら、残念な気持ちになっただろう。(その家の女性は)まさか客人が帰った後にも自分を見ているなどとは思いもかけなかっただろう。こういった幸運は、ただ、常日頃の心がけによるものだ。
その人は、間もなく亡くなられたと聞いている。



[古文] 33段:
今の内裏作り出されて、有職(ゆうそく)の人々に見せられけるに、いづくも難なしとて、既に遷幸(せんこう)の日近く成りけるに、玄輝門院(げんきもんいん)の御覧じて、「閑院殿の櫛形(くしがた)の穴は、丸く、縁もなくてぞありし」と仰せられける、いみじかりけり。
これは、葉の入りて、木にて縁をしたりければ、あやまりにて、なほされにけり。

[現代語訳]
新しい内裏が作られて、古来の建築様式を知る有職の方々に見てもらったところ、どこにも問題はないということで、花園天皇が新内裏に移る「遷幸の日」も近づいていた。しかし、花園天皇の祖母の玄輝門院が新内裏を御覧になって、「かつての閑院殿では、覗き窓の形が丸くて、ふちもないようだったのですが」と仰られたという。(その記憶力と情趣は)素晴らしいことだ。
この新しい覗き窓には、切り込みが入っており、木で周りに縁を作っていたのだが、これは伝統建築の誤りだったとして、直されることになった。


[古文] 34段:
甲香(こうこう)は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長にさし出でたる貝の蓋なり。
武蔵国金沢といふ浦にありしを、所の者は、「へなだりと申し侍る」とぞ言ひし。

[現代語訳]
練香のお香の材料となる「貝香(かいこう)」は、ほら貝のようであるが、小さくて口のあたりが細長く突き出た貝の蓋である。
武蔵国の金沢という浦にもあったのだが、近所の者は「へなたりと申します」と言っていた。


[古文] 35段.
手のわろき人の、はばからず、文書き散らすは、よし。見ぐるしとて、人に書かするは、うるさし。

[現代語訳]
文字が下手な人が、遠慮をせずに、文書(恋文など)をどんどんと書き散らすのは良い。しかし、文字が上手くないからといって(文字が下手なのを隠そうとして)、人に代筆をさせて書かせるのは見苦しい(うざったい)。


[古文] 36段.
「久しくおとづれぬ比(ころ)、いかばかり恨むらんと、我が怠り思ひ知られて、言葉なき心地するに、女の方より、『使丁(しちょう)やある。ひとり』など言ひおこせたるこそ、ありがたく、うれしけれ。さる心ざましたる人ぞよき」と人の申し侍りし、さもあるべき事なり。

[現代語訳]
「長い間にわたって、好きな女の家を訪ねないでいた時、どれほどその女が自分を恨んでいるだろうかと、自分の怠慢さを悔やみ、まったく弁解の余地さえないような気持ちがしていた。そんな時に女のほうから、『召使いの下僕はいますか。一人お貸しください(間接的に皮肉を効かせて好きな男のことを呼んでいる言葉)』などと(気配りして)言って手紙を送ってくれたのが、予想外の思いがけないことで嬉しかったのだ。そのような寛容な心持ちをした人は素晴らしい」と人が申し上げていたのだが、まったくその通りだ。


[古文] 37段.
朝夕、隔てなく馴れたる人(なれたるひと)の、ともある時、我に心おき、ひきつくろへるさまに見ゆるこそ、「今更、かくやは」など言ふ人もありぬべけれど、なほ、げにげにしく、よき人かなとぞ覚ゆる。
疎き人の、うちとけたる事など言ひたる、また、よしと思ひつきぬべし。

[現代語訳]
朝も夕べもすっかりうちとけて慣れていた女性が、ふとした時に、自分に気を遣い始めて、よそよそしく態度を取り繕ったりすると、『今さら、そんなことをしないでも良いではないか』と思う人もいるだろうが、これが誠実で真剣なのだから、魅力的で良い人だなと感じてしまう。
知り合ったばかりの女性が、うちとけた様子で馴れ馴れしく話しかけてくるのも、また良いものだと思うけれどね。


[古文] 38段:
名利(みょうり)に使はれて、閑か(しずか)なる暇(いとま)なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
財多ければ、身を守るにまどし。害を賈ひ(かい)、累(わずらい)を招く媒(なかだち)なり。身の後には、金をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山に棄て、玉は淵に投ぐ(なぐ)べし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢へば、高き位に昇り、奢(おごり)を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賤しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏(ひとえ)に高き官・位を望むも、次に愚かなり。
智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉(ほまれ)も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。誉むる人、毀る(そしる)人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉はまた毀りの本なり。身の後の名、残りて、さらに益なし。これを願ふも、次に愚かなり。
但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。
迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。

[現代語訳]
名誉や利益に使役されて、心を静かに穏やかに保つ時間もなく、一生を苦しむのは愚かである。
財産が多ければ、財産を守ることに精一杯で、自分の身を守れなくなる。財産は、害を生みだし、災いを招く媒介になってしまうこともある。自分が死んだ後に、金銭が山と積み上げられて北斗星を支えるほどの栄華があっても、残された人々に余計な厄介ごと(遺産相続の紛争)を残すだけだ。愚かな人の目を楽しませる趣味も、また虚しい。大きな車、肥えた立派な馬、宝石や黄金の飾りも、風流を解する心ある人ならば、つまらなくて愚かな俗物趣味の産物と見るだけである。金銭を山に捨てて、宝石は川に投げ捨てたほうがいい。金銭・利益に惑わされるのは、一番愚かなことである。
永遠に消えない名誉・名声を後世にまで残したいというのは、誰もがそう願うことであろう。しかし、高位高官を得た高貴な人たちが、本当に優れた人たちだと言えるだろうか。愚かで思慮が足りない人でも、それなりの名門・名家の家柄に生まれて、時流に乗ることができれば、高位高官に上り詰めて贅沢な生活ができる。反対に、並外れた才覚・人柄を持つ賢人や聖人が、卑賤な官位に留まって、時流に乗ることができずに、そのままこの世を去ってしまうことも多い。故に、高位高官に上って名声を残そうとするのは、財力を求めることの次に愚かなことである。
世間一般の人よりも優れた知恵と精神を持っていれば、知性において名誉を残したいと思うものだが、よくよく考えてみれば、知性・賢さに関する名誉を欲するということは、世間の評判を求めているだけのことである。自分を褒める人もけなす人も、共にいつかはこの世からいなくなってしまう。自分の賢さについての評判を伝え聞いていた人も、また遠からずこの世を去ってしまい、自分の名誉も消え去ってしまう。(そういった諸行無常の世において)自分の名誉を、誰に対して恥ずかしく思い、誰に認められたいと願うのだろうか。名誉は誹謗(非難)の原因でもある。死んだ後に、名誉名声が残っても何にもならない。知恵・賢さの名誉を求めようとするのは、高位高官を求めることの次に愚かなことである。
しかし、本気で知恵を求め、賢明さの獲得を願っている人に敢えて言うならば。知恵があるからこそ偽りが生まれるのである。才能とは、煩悩(欲望)の増長したものに過ぎない。人から伝え聞いて、書物で読み知ったような知識は、真の知識(知恵)ではないのだ。では、どういったものが、本当の知識と言えるのだろうか。世の中でいう可、不可とは、明確な区別があるものではなく一条の流れである。真の知性を体得した賢人には、智もなく、徳もなく、功もなく、名もない。こんな脱俗の境地を誰が知っていて、誰が伝えることができるだろうか。これは、徳性(仁徳)を隠して、愚を装うだけの境地ではない。初めから、真の賢者は、賢と愚(頭の良さの高低)・得と失(損得)を区別して満足するような相対的な境地にはいないからである。
迷いの心を持って、名誉や金銭を欲すると、全てが愚かな結末を迎えてしまう。名誉・金銭に関わる世俗の万事は、すべて否定されるべきことだ。(あなたが様々な不満・迷いを抱えているにしても)語るに足らず、願うに足りないということである。


[古文] 39段.
或人(あるひと)、法然上人(ほうねんしょうにん)に、「念仏の時、睡(ねぶり)にをかされて、行を怠り侍る事、いかがして、この障りを止め侍らん」と申しければ、「目の覚めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。
また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思えば不定なり」と言はれけり。これも尊し。
また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。

[現代語訳]
ある人が、法然上人に『念仏を唱えている時に、睡魔に襲われてしまい、称名念仏の勤行を怠ってしまうのですが、どのようにして、この障害を乗り越えればよろしいのでしょうか?』と質問した。すると、法然上人は『目が覚めている時に、念仏をしなさい』と答えられた、とても尊いことである。
また、『極楽往生は、確実(必然)と思えば確実(必然)であるが、不確実(偶然)と思うならば不確実(偶然)でもある』とおっしゃられた。これもまた尊いことである。
また、『疑う気持ちがありながらも、念仏を唱えていれば極楽往生することができる』ともおっしゃった。これもまた尊いお言葉である。


[古文] 40段.
因幡国(いなばのくに)に、何の入道とかやいふ者の娘、かたちよしと聞きて、人あまた言ひわたりけれども、この娘、ただ、栗(くり)をのみ食ひて、更に、米の類を食はざりければ、「かかる異様の者、人に見ゆべきにあらず」とて、親許さざりけり。

[現代語訳]
因幡国(現在の鳥取県)に、何とか入道という者の娘が、容姿端麗な美人だと評判になっていて、大勢の男が求婚をしたが、この娘は、ただ栗ばかり食べていて、まったく米・穀物の類を食べなかった。『このような変わった者は、よそ様の家の嫁にはやれない』と、親は結婚を許さなかったという。


[古文] 41段:
五月五日、賀茂(かも)の競べ馬(くらべうま)を見侍りしに、車の前に雑人(ぞうにん)立ち隔てて見えざりしかば、おのおの下りて、埒(らち)のきはに寄りたれど、殊に人多く立ち込みて、分け入りぬべきやうもなし。
かかる折に、向ひなる楝(あうち)の木に、法師の、登りて、木の股についゐて、物見るあり。取りつきながら、いたう睡りて(ねぶりて)、落ちぬべき時に目を醒ます事、度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、「世のしれ者かな。かく危き枝の上にて、安き心ありて睡るらんよ」と言ふに、我が心にふと思ひしままに、「我等が生死の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮す、愚かなる事はなほまさりたるものを」と言ひたれば、前なる人ども、「まことにさにこそ候ひけれ。尤も愚かに候ふ」と言ひて、皆、後を見返りて、「ここへ入らせ給え」とて、所を去りて、呼び入れ侍りにき。
かほどの理(ことわり)、誰かは思ひよらざらんなれども、折からの、思ひかけぬ心地して、胸に当りけるにや。人、木石にあらねば、時にとりて、物に感ずる事なきにあらず。

[現代語訳]
5月5日に、上賀茂神社の競べ馬を見に行ったが、牛車の前に大衆が立ちはだかっていた見えなかったので、それぞれ車を降りて柵の側まで寄って見たのだが、人が余りに多くてそれ以上前へ行けそうにもない。
そんな状況の中で、向かいの栴檀(せんだん)の木の上に登った法師が、木の枝に座って特等席で見物している。法師はその木の枝に取り付きながら、たいそう眠たい様子で居眠りをしているのだが、『あっ、落ちそうだ』という瞬間に目を覚ましてしがみつくことを、何度も繰り返している。人々は法師のそんな様子をあざけり笑って見ていた。『バカな坊さんだな。あんな危ない木の枝の上で、安らかに熟睡できるなんて』などと言っている。
しかし、自分の気持ちの赴くままに、『私たちの生死の境目も、まさに今起こるのかもしれない(私たちも、今日死ぬことになる可能性がある)。その事を忘れて、祭り見物で一日をつぶしている。愚かなのは我らとて同じようなものだ』と言ってみると、前にいる人たちが『まことにおっしゃる通りですね。私たちも愚かなものですな』と答えてきた。みんなが自分のいる後ろを振り返り、『ここに入りなさい』と少しばかり場所を空けてくれて、競べ馬が見やすい前列へと招いてくれた。
このくらいの理屈は誰でも思いつくものだろうが、こういった状況で不意に言われると、思いがけない気持ちがして心を打たれたのだろう。人間は、非情な木石ではないので、時機・関係に応じて、いたく物事に感動することがあるのである。


[古文] 42段.
唐橋中将(からはしのちゅうじょう)といふ人の子に、行雅僧都(ぎょうがそうづ)とて、教相(きょうそう)の人の師する僧ありけり。気(け)の上る(あがる)病ありて、年のやうやう闌くる(たくる)程に、鼻の中ふたがりて、息も出で難かりければ、さまざまにつくろひけれど、わづらはしくなりて、目・眉・額なども腫れまどひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞の面(おもて)のやうに見えけるが、ただ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額のほど鼻になりなどして、後は、坊の内の人にも見えず籠りゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて、死ににけり。
かかる病もある事にこそありけれ。

[現代語訳]
唐橋中将(源雅清)という人の子に、行雅僧都(ぎょうがそうづ)という人がいた。行雅僧都は、仏教の教理・思想を学ぶ人々の先生をしている偉い僧侶だったが、気の上る病(高血圧でのぼせあがる病気)を持っていた。年齢を段々と重ねていくうちに、鼻の中がふさがって呼吸もしにくくなったので、さまざまな治療をしてみたが効果が上がらず病状は悪化していった。目・眉・額などが腫れ上がってしまい、目蓋の上に覆いかぶさって物が見えなくなる。その顔は二の舞の面のように見えたが、ただ恐ろしい形相であり、鬼の顔のようになって、目は額の方について、鼻は額のほうについてしまった。その後は、お寺の中の人にも会わなくなって暫く引きこもっていたが、長い年月が流れるうちに、更に病状が重くなり亡くなってしまった。
こんな原因不明の恐ろしい病も、ある事があるのだ。


[古文] 43段.
春の暮つ(くれつ)かた、のどやかに艶(えん)なる空に、賤しからぬ家の、奥深く、木立もの古りて(ふりて)、庭に散り萎れたる花見過しがたきを、さし入りて見れば、南面の格子皆おろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどにあきたる、御簾の破れより見れば、かたち清げなる男の、年廿ばかりにて、うちとけたれど、心にくく、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。
いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし。

[現代語訳]
晩春ののどかで風情のある美しい空、身分が低くないことを伺わせる立派な造りの家の奥深く、古びた趣きのある木立に、庭に散り萎れた花びらがあれば、これは見過ごしがたい情趣を感じる。その家の中に入っていって見ると、南面の格子の戸をすべて下ろしていて寂しげな様子なのに、東に向いた妻戸(両開きになる板戸)は程よく開いている。御簾(すだれ)の破れから見てみると、容姿端麗で清らかな20歳頃の男性が、くつろいだ様子で過ごしていて、心が引き寄せられてしまう。その男性はのどかな風情で、机の上に文書を広げて読んでいるようだ。
どのような人物なのであろうか、尋ねて聞いてみたいものだ。


[古文] 44段:
あやしの竹の編戸の内より、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つややかなる狩衣(かりぎぬ)に濃き指貫(さしぬき)、いとゆゑづきたるさまにて、ささやかなる童ひとりを具して、遥かなる田の中の細道を、稲葉の露にそぼちつつ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見送りつつ行けば、笛を吹き止みて、山のきはに惣門(そうもん)のある内に入りぬ。榻(しじ)に立てたる車の見ゆるも、都よりは目止まる心地して、下人(しもうど)に問へば、「しかしかの宮のおはします比にて、御仏事など候ふにや」と言ふ。
御堂(みどう)の方に法師ども参りたり。夜寒の風に誘はれくるそらだきものの匂ひも、身に沁む心地す。寝殿より御堂の廊に通ふ女房の追風用意(おいかぜようい)など、人目もなき山里ともいはず、心遣ひしたり。
心のままに茂れる秋の野らは、置き余る露に埋もれて、虫の音かごとがましく、遣水(やりみず)の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来も速き心地して、月の晴れ曇る事定め難し。


[現代語訳]
粗末な竹の網戸の中から、たいそう若い男が出てきた。おぼろげな月明かりの中では、色合いまではっきり分からないが、艶のある狩衣(貴族の日常着る服)を着て、濃い紫色の袴をつけているようだ。とても風情を感じさせる様子の男は、童子ひとりをささやかなお供に連れており、田んぼの長い細道を、笛を吹きながら歩いている。刈り入れも近い稲穂の露に濡れながら歩く男が吹いている笛の音は、とても情趣があって上手いのだが、誰もその趣き深い笛の音を聞く人もいないような田んぼ道だった。
この若い男の行き先が知りたくなって、距離を置きながらついて行くと、山際にあるお屋敷の大門の中に入っていった。牛を括りつける台がある牛車が見えたが、都にある牛車よりも目立つ感じがして、屋敷の下人に何が行われるのかを聞いてみた。『これこれという宮様がご滞在中であり、ここで仏事が執り行われるようです』と下人が答えた。
御堂のほうに法師が集まってきている。夜風に流されて薫き物の良い香りが漂ってきて、何とも言えない心地よい気分になってくる。寝殿では、女房が慌しく香を焚いて追い風を起こしながら、廊下を移動している。人目につかない山里であるにも関わらず、丁寧な心遣いが行き届いている様子である。
思いのままに生い茂った秋の草木は露に濡れており、虫の声は死者を悼むような鳴き声である。庭では遣水の音がのどかに響いている。ここの雲は、都よりも速く流れているようだ。雲の流れが速いので月が見えたり隠れたりしており、今の天気は晴れとも曇りとも定めがたい趣きのある感じである。


[古文] 45段:
公世(きんよ)の二位のせうとに、良覚僧正(りょうがくそうじょう)と聞えし(きこえし)は、極めて腹あしき人なりけり。
坊の傍(かたわら)に、大きなる榎の木(えのき)のありければ、人、「榎木僧正(えのきのそうじょう)」とぞ言ひける。この名然るべからずとて、かの木を伐られにけり。その根のありければ、「きりくひの僧正」と言ひけり。いよいよ腹立ちて、きりくひを掘り捨てたりければ、その跡大きなる堀にてありければ、「堀池僧正」とぞ言ひける。

[現代語訳]
藤原公世(ふじわらのきんよ)の兄弟に、良覚僧正といわれる人がいたが、とても怒りっぽい人だった。
僧坊(僧の住居)の傍らに、大きな榎の木があったので、人が良覚のことを『榎木僧正』と呼んだ。すると、この渾名は不適切だといって、この榎の木を切ってしまわれた。しかし榎の木の切り株が残ったので、人が『きりくいの僧正』と呼ぶと、良覚はますます腹を立てて、切り株を掘り出して捨ててしまった。その掘り出した後が大きな堀になったので、良覚は『堀池僧正』と呼ばれるようになってしまった。


[古文] 46段.
柳原(やなぎはら)の辺に、強盗法印(ごうとうのほういん)と号する僧ありけり。度々強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。

[現代語訳]
柳原(京都市上京区柳原町)の辺りに、強盗法印と号する僧がいた。度々、強盗にあったために、この名をつけたそうだ。


[古文] 47段.
或人、清水へ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応 へもせず、なほ言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹立てて「やや。鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君の、比叡山に児にておはしますが、ただ今もや鼻ひ給はんと思えば、かく申すぞかし」と言ひけり。
有り難き志なりけんかし。

[現代語訳]
ある人が、老いた尼僧を連れて、京都の清水寺に参拝した。尼僧がその道の途中で『くさめくさめ(くしゃみをした時に、生命が弱らないように唱える呪文・まじないのようなもの)』と言いながら歩くので、『尼御前。なにをぶつぶつ言ってるのですか?』と尋ねたのですが返事がない。
なお尼僧が言いやまないので、何度も問いかけていると、尼僧は腹を立てて『あぁ、くしゃみをした時に、このようなまじないを唱えないと死んでしまうというでしょう。私が養育した若君が、比叡山で修行をしているのですが、もしも今くしゃみをしていたらと思うと心配で堪らないので、このようにくさめくさめと申し上げているのです』と答えた。
なかなか有り得ないような、ありがたい志(気持ち)ではないだろうか。


[古文] 48段:
光親卿(みつちかのきょう)、院の最勝請(さいしょうこう)奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御(ぐご)を出だされて食はせられけり。さて、食ひ散らしたる衝重(ついがさね)を御簾の中へさし入れて、罷り出で(まかりいで)にけり。女房、「あな汚な。誰にとれとてか」など申し合はれければ、「有職(ゆうそく)の振舞、やんごとなき事なり」と、返々(かえすがえす)感ぜさ給ひけるとぞ。

[現代語訳]
光親卿(藤原光親)は、院(後鳥羽上皇の在所する仙洞御所)で最勝講(五月に各寺の高僧を集め天下太平を祈念する儀式)の奉行としてお仕えしていた。光親は上皇の御前へ召し出されて、供御(上皇の食べかけの食事)を出されて食わされた。
さて、光親は食い散らかした衝重(料理を載せる膳)を上皇の居る御簾の中へさし入れて、退出した。女房たちは、『あぁ、汚い。誰がこれを片付けるのか?』などと愚痴を言い合ったが、後鳥羽上皇は『古来からの礼儀作法に通じた振る舞いは、並々ではない素晴らしいものだ』と、何度も繰り返し感心していらっしゃったという。


[古文] 49段:
老(おい)来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、忽ち(たちまち)にこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。
人は、ただ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。
「昔ありける聖は、人来りて自他の要事を言ふ時、答へて云はく、『今、火急の事ありて、既に朝夕に逼れり(せまれり)』とて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因に侍り。心戒といひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、静かにつゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。

[現代語訳]
老いが迫ってきてから初めて、仏道の修行をしようというのではいけない。古い墓も、多くは少年の墓である。予想もせずに病気にかかり、間もなくこの世を去ろうとする時にこそ、過去の誤っていた行いが思い出されてくる。誤りというのは他でもない。優先して速やかにすべき事を後回しにして、後でもできる事を急いでやったということであり、こういった過去の過ちを悔しく感じるのである。しかし、死が差し迫った時に後悔しても、どうしようもない。
人間はただ諸行無常の真理の下に、死が迫ってくることをしっかり意識して、わずかの間といえども、それを忘れてはならないのである。そうすれば、俗世の煩悩も弱まっていき、仏道に精進しようという心も切実なものになっていくのだ。
禅林の永観が書いた『往生十因』には、『ある僧は人が訪ねてきても念仏をやめようとはせず、「いま火急の事があって、すでに朝夕(死)が迫り余裕がない」と答えた。そのまま、耳をふさいで念仏を唱え続けて、遂に極楽往生を果たした』とある。心戒という聖人の僧侶は、この世があまりに仮のものに過ぎないと思って、座る時にも尻をつける事がなく、常にうずくまっていたと言われている。


[古文] 50段:
応長の比、伊勢国より、女の鬼に成りたるをゐて上りたりといふ事ありて、その比廿日(はつか)ばかり、日ごとに、京・白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に参りたりし」、「今日は院へ参るべし」、「ただ今はそこそこに」など言ひ合へり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言と云ふ人もなし。上下、ただ鬼の事のみ言ひ止まず。
その比、東山より安居院辺(あぐいへん)へ罷り侍りしに、四条よりかみさまの人、皆、北をさして走る。「一条室町に鬼あり」とののしり合へり。今出川の辺より見やれば、院の御桟敷のあたり、更に通り得べうもあらず、立ちこみたり。はやく、跡なき事にはあらざめりとて、人を遣りて見するに、おほかた、逢へる者なし。暮るるまでかく立ち騒ぎて、果は闘諍(とうじょう)起りて、あさましきことどもありけり。
その比、おしなべて、二三日(ふつかみか)、人のわづらふ事侍りしをぞ、かの、鬼の虚言(そらごと)は、このしるしを示すなりけりと言ふ人も侍りし。

[現代語訳]
応長の頃に、伊勢の国で鬼になった女を捕らえて京に上ったと言う噂が起こった。その噂が流れた頃より二十日ばかりの間は、京の都は鬼の噂でもちきりで、みんな鬼を見ようとして出歩いていた。「昨日は西園寺殿のお屋敷に鬼が連れて来られたそうだ」「今日は上皇の元へ来るのだろう」「たった今はそこそこにいたようだ」など大衆が言い合っている。本当に見たという人も、ただの虚言だと断言する人もいない。身分の高い者も低い者も、ただ鬼の噂ばかりを言い合っている。
その頃、所用があって東山から安居院のあたりまで出かけたのだが、四条から北に向かって人々が走ってくる。「今、一条室町に鬼がいる」と叫んでいる。今出川の橋の上から見ると、鴨川の桟敷の辺りまで人が群がっていて、そこを通ることもできない。これほどの騒ぎになっているので、全く根も葉もない噂ではないだろうと、供の者を遣いにやってみたが、まったく鬼に出会ったという者はいなかったという。日が暮れるまでこのような騒ぎで、喧嘩・乱闘なども起こって、感心できないつまらないことも多くあったようだ。
その頃だったか、二、三日ばかり人が発熱して苦しむ疫病が都に流行ったというのは。先ほどの鬼の虚言は、この疫病の予兆であったと言う人もいた。


[古文] 51段.
亀山殿の御池に大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を作らせられけり。多くの銭を給ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、大方廻らざりければ、とかく直しけれども、終に廻らで、いたずらに立てりけり。
さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて(ゆいて)参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るる事めでたかりけり。
万(よろず)に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。

[現代語訳]
後嵯峨上皇が、亀山殿(仙洞院)の庭の池に引く水を、大井川から引こうとして、大井の百姓に命じて水車を作らせた。百姓たちに労賃となる銭(おあし)を沢山与えて、数日で水車の本体を作り上げさせたが、大井川に水車を設置してみたところ、まったく回らない。何とか直そうとしてみたが、結局水車は回ることがなく、無意味にそこに立てかけられたままであった。
そこで、宇治の里人たちを召しだして、水車をこしらえさせてみると、簡単に水車を組みあげて設置したのだが、思いのままに水車は良く回った。水は亀山殿の庭の池にスムーズに流れるようになり、その水車作りの技術は素晴らしかった。
何につけても、その道をよく知っている者(その道に慣れて精通している者)は、素晴らしいものである。


[古文] 52段:
仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしに過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。


[現代語訳]
仁和寺にいた法師が、年寄りになるまで石清水八幡宮を拝まなかったのを、残念(心残り)に思っていた。ある時思い立ち、一人で徒歩で石清水に参詣しようとした。山の麓にある極楽寺・高良神社を拝んでから、このようなものかと納得して寺に帰った。
さて、仲間の僧侶に会ったその法師は、『長年思っていたことを、果たしてきました。聞いていた以上に、石清水八幡宮は尊いところでございました。しかし、参っている人たちがみんな、山へ登っていたのは、何かあったのでしょうか?知りたかったのですが、神へお参りすることが本来の目的と思って、山までは見ませんでした』と言った。
そのみんなが登っていた山の上にある神社こそ、お参りしたかった『石清水八幡宮』なのだが、法師はそんな基本的なことも知らずに出かけていたのだ。少しの事であっても、(その道に詳しい)先達・先行者の案内はあったほうが良いということである。


[古文] 53段:
これも仁和寺(にんなじ)の法師、童(わらわ)の法師にならんとする名残とて、おのおのあそぶ事ありけるに、酔ひて興に入る余り、傍なる足鼎(あしがなえ)を取りて、頭に被き(かずき)たれば、詰るやうにするを、鼻をおし平めて顔をさし入れて、舞い出でたるに、満座(まんざ)興に入る事限りなし。
しばしかなでて後、抜かんとするに、大方抜かれず。酒宴ことさめて、いかがはせんと惑ひけり。とかくすれば、頸(くび)の廻り欠けて、血垂り(たり)、ただ腫れに腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪え難かりければ、かなはで、すべきやうなくて、三足(みつあし)なる角(つの)の上に帷子(かたびら)をうち掛けて、手をひき、杖をつかせて、京なる医師のがり率て行きける、道すがら、人の怪しみ見る事限りなし。医師のもとにさし入りて、向ひゐたりけんありさま、さこそ異様なりけめ。物を言ふも、くぐもり声に響きて聞えず。「かかることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし」と言えば、また、仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上(まくらがみ)に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんとも覚えず。
かかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ、力を立てて引きに引き給へ」とて、藁のしべを廻りにさし入れて、かねを隔てて、頸もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。

[現代語訳]
仁和寺の稚児が法師になるというので、それぞれが芸や歌で遊び楽しむお祝いの酒宴が開かれた。ある法師が酔っ払って興に乗り、側にあった足鼎を手に取ると、鼻が引っかかるような感じがしたがそのまま鼻をおしつぶして頭にかぶり踊り出した。みんなは盛り上がって大喜びしている。
その法師はしばらく踊ってから、足鼎を抜こうとしたのだが、まったく抜けない。酒宴の興趣も冷めてしまい、どうしようかと慌てふためいてしまう。何とかしようと引っ張ってみたが、首の周りの皮膚が破れて血が流れ、腫れに腫れ上がり、息が苦しくなってしまった。次は、足鼎を割ろうとしたが簡単には割れない。音が響いて苦しそうなので、割ることを諦めたが、どうしようもない。三つ足の角の上に帷子をかけて、手をひき、杖をつかせて医師の所へ向かうと、道ゆく人たちが怪しげな様子で見ている。医師の元に行って、医師と三本角が向かい合っている様子もおかしなものだったろう。
法師は医師に何か言っているが、声がくぐもってしまって聞こえない。『こんな症例は本にも書いていないし、聞いた事もない』と医師は言い、諦めてしまったので、すごすごと仁和寺に帰った。法師の母親や親しい者が集まって枕元で泣き悲しんでいたが、その悲しみの声が聞こえているのかどうかもわからない。
このような時に、ある人が言った。『たとえ耳鼻がそげ落ちようとも、命さえあれば生きていけるだろう。こうなったら、ひたすら力のばかりに引きに引いて何とか抜いてしまおう』と。そこで、足鼎と首の間にわらを詰め込んで、首もちぎれんばかりに引いたら、耳鼻が欠け落ちて穴が開いたがどうにか抜けた。命は何とか助かり、法師はしばらく病気になって寝込んでしまった。


[古文] 54段:
御室(おむろ)にいみじき児(ちご)のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばんと企む法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、風流の破子(わりご)やうの物、ねんごろにいとなみ出でて、箱風情(はこふぜい)の物にしたため入れて、双の岡(ならびのおか)の便よき所に埋み置きて、紅葉散らしかけなど、思ひ寄らぬさまにして、御所へ参りて、児をそそのかし出でにけり。
うれしと思ひて、ここ・かしこ遊び廻りて、ありつる苔のむしろに並み居て、「いたうこそ困じ(こうじ)にたれ」、「あはれ、紅葉を焼かん人もがな」、「験(げん)あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、埋みつる木の下に向きて、数珠おし摩り、印ことごとしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされども、なかりけり。埋みけるを人の見置きて、御所へ参りたる間に盗めるなりけり。法師ども、言の葉なくて、聞きにくいいさかひ、腹立ちて帰りにけり。
あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。

[現代語訳]
法王の居住する「仁和寺の御室」に、すごく美しい稚児が仕えていて、仁和寺の法師たちの中に、なんとかこの稚児を誘い出して遊びに行けないだろうかと企んでいる者たちがいた。芸能ができる法師を仲間に加えて、しゃれたデザインの(食物を入れる)重箱のようなものを念入りに作って、箱のような形をしたものにその重箱を全部まとめて入れた。それを双の丘の便利の良い場所に埋めて、その上に紅葉を散らして、誰も気づかないような状態にした。御所に参った法師たちは、稚児をそそのかして連れ出した。
嬉しく感じてそこかしこを遊び回ったが、(ちょうど良い時間に)先ほど箱を埋めておいた苔が一面に生えている場所に並んで座った。「とても疲れてしまった」、「誰かもみじの葉っぱを燃やして、酒でも温めてくれないか」、「効験のある僧侶たち、試しに祈ってみよ」など互いに言い合って、箱を埋めておいた木の下を向いて、数珠をすりあわせ、手で印を結んで、無駄におおげさに振る舞ってみせた。そして、木の葉をかき分けてみたのだが、全く埋めておいた箱が見当たらない。掘るところを間違えたかと、掘らぬ場所もないぐらいに山を掘り返してみたけれど、箱は見つからない。埋めるところを誰かに見られて、御所に稚児を誘いに行っている間に盗まれたのである。法師たちは稚児へ語りかける言葉もなくしてしまい、互いに言い争って、腹を立てて帰ってしまった。
あまりに興趣ある状況を作為的に作り上げようとすることは、かえってつまらなくなるだけのことである。


[古文] 55段:
家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪え難き事なり。
深き水は、涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。細かなる物を見るに、遣戸(やりど)は、蔀(しとみ)の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、燈(ともしび)暗し。造作は、用なき所を作りたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍りし。

[現代語訳]
家の作り・構造は、夏向けを基本とするのが良い。冬はどんな場所にも住むことができる。しかし、夏の暑い時期は、暑さを凌げない悪い住居に住むのは耐えがたいことである。
(庭に作る小川や池にしても)深い流れは、淀んでいて涼しげがない。浅くサラサラと流れる様子が涼しげなのである。室内の小さなものを見る時には、扉を押し上げて開く窓(蔀)より、両開きの窓(遣戸)の方が明るくて良い。天井が高いと、冬は寒くて、夜はともしびの光が届きにくくて暗くなる。家の普請・作りは、(当面は)役に立たない場所を作ったりするほうが、見た目にも面白いし、何かのときに色々と役に立って良いと、人々が話し合っていたよ。


[古文] 56段:
久しく隔りて逢ひたる人の、我が方にありつる事、数々に残りなく語り続くるこそ、あいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、程経て見るは、恥づかしからぬかは。つぎざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつる事とて、息も継ぎあへず語り興ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、一人に向きて言ふを、おのづから、人も聞くにこそあれ、よからぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆同じく笑ひののしる、いとらうがはし。をかしき事を言ひてもいたく興ぜぬと、興なき事を言ひてもよく笑ふにぞ、品のほど計られぬべき。
人の身ざまのよし・あし、才ある人はその事など定め合へるに、己が身をひきかけて言ひ出でたる、いとわびし。

[現代語訳]
長らく会わなかった人から、その人の最近の状況を、余すところなく次々と語り続けられるのはつまらない。近くにいて慣れ親しんでいる人でも、暫く会わなければ、何となく他人のように遠慮を感じるようにならないだろうか。教養や品位に欠ける人は、ちょっとの間、外出しただけなのに、今日はこんなことがあったと言って、息継ぎもできないほどに自分ひとりで捲くし立てるように語って面白がっているものだ(そんな一方的な話を聞かされているほうは、何も面白くないんだけど)。教養と品位のある人の話は、一人に向けて語っていても、みんなが自然に耳を傾けて聞きたがるものだ。
教養のない人は誰ともなく、大勢の中に自分から出てきて、さも今見てきたかのように話すので、みんなが同じように大笑いしてひどく騒がしくなる。面白いことを言っているのにあまり面白がらず(興趣を感じず)、面白くもない事を言っているのに周囲に合わせてよく笑うというのは、その人の品性のほどが窺い知れるというものだ。
人の容姿の良し悪しを評したり、才能ある人の能力について論評したりしているのに、それらの人とまったく関係のない自分の身を引き合いに出して『自分語り(自分ならこうするという話)』をしようとするのは、とても聞き苦しくてつまらないものだ。


[古文] 57段:
人の語り出でたる歌物語の、歌のわろきこそ、本意なけれ。少しその道知らん人は、いみじと思ひては語らじ。
すべて、いとも知らぬ道の物語したる、かたはらいたく、聞きにくし。

[現代語訳]
人の語り出した歌物語(和歌に関する話)では、話題になっている歌が悪いことこそ、不本意である。少しはその和歌の道を知っている人なら、悪い歌についてそれをすごいと思って語ることはない。
万事において、それほど知らない道(専門)についてあれこれ語るのは、的外れでおかしいが、(知ったかぶりは)聞き苦しいものでもある。


[古文] 58段:
「道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人に交はるとも、後世を願はんに難かるべきかは」と言ふは、さらに、後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず、生死を出でんと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を願みる営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑かならでは、道は行じ難し。
その器、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓を助け、嵐を防くよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから、世を貪るに似たる事も、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下の事なり。さすがに、一度、道に入りて世を厭はん人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾(ふすま)、麻の衣、一鉢のまうけ、藜(あかざ)の羹(あつもの)、いくばくか人の費えをなさん。求むる所は得やすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいえど、悪には疎く、善には近づく事のみぞ多き。
人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁れんことこそ、あらまほしけれ。偏へに貪る事をつとめて、菩提に趣かざらんは、万の畜類に変る所あるまじくや。

[現代語訳]
「仏道を学ぼうとする心があれば、住む所にこだわらず修行はできる。家にいても、人と交わっていても、来世の極楽浄土を願うことに何の障害があるだろうか」と言うのは、全然、来世とは何かを知らない人である。本当に、この世俗を儚んで、生死の執着を離れようとしているのに、何の意味があって、主人に仕えたり、家事に打ち込んでいたりするのか。人の心は他者との縁に引きずられて移ろうものだから、人とできるだけ交わらない静かな心境でなければ、修行に打ち込むのは難しい。
その器は昔の人には及ばない。山奥に一人で籠もっても、餓えと雨風を凌ぐ手段が無ければ生存を維持することができないので、世俗の人と同じように貪欲になることがどうして無いと言い切れるだろうか(場合によっては貪欲になってしまうこともあるだろう)。だから、「世俗を捨てた意味がない。(餓えや寒さに耐えられない)その程度ならどうして世俗を捨てたのか」というのは、無茶なことである。しかし、さすがに一度は仏の道を志した者である、たとえ僅かな望みがあろうと、世俗の貪欲な者の望みには遠く及ばないのである。紙の布団に、麻の着物、一杯の飯に、藜の汁、こんなものがどれだけ他人のものを浪費するというのか。遁世者の求めるものは得ることが容易く、その心は簡単に満足してしまう。粗末な格好をしているので、見た目を恥じるところはあるが、その生活ぶりは悪事からは遠く離れており、善・仏に近いことが多い。
人として生まれた証を立てるためには、どうにかして世俗の欲望を捨て切るということ(煩悩を捨てて遁世すること)が望ましいのである。ただ利益や欲望を貪ることばかりに努めて、悟りを得ようとしないのであれば、(その生き方は本能のままに生きる)畜生(動物)と変わる所が無いのではないだろうか。


[古文] 59段:
大事を思ひ立たん人は、去り難く、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばし。この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰し置きて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん。行末(ゆくすえ)難なくしたためまうけて」、「年来(としごろ)もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心あるきはは、皆、このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ(のがれ)去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むめるよりも速かに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。

[現代語訳]
大事(出家など重要なこと)を思い立った人で、何かに囚われて離れがたかったり、心のどこかにひっかかることがあって本意を遂げられないでいるなら、その全てを捨てたほうが良い。
『もうしばらくしたら。この事が終わったら』、『同じように時間がかかるならば、あの事もきちんとし終わってから』、『しかし、これは人に笑われるだろう。笑われないように確実に準備してからでないと』、『いや待て。長年の経験の蓄積があるのだから、その結果を見届けてからにしよう、波風が立って騒がしくならないように』などと考えていると、やり終えていない事ばかりが山積みになり、それらをやり終えることはできず、大事にかかる本意(本当に重要でやるべき出家など)を遂げる日はいつまでもやってこない。
いつか出家して仏門に励もうとしている大抵の人は、みんなこのような物事に追われた状態で死(臨終)を迎えてしまう。隣の家が燃えているのに、『暫く待ってから逃げよう』なんて言うだろうか。生命が助かりたいならば恥も忘れて、財産も捨てて家事から逃げるはずだ。寿命は人の都合など待ってくれない。無常の変化が押し寄せるさまは、大火のように大水のように凄い速さであるから、その無常から逃げることなんて出来ないんだよ。死ぬ時には、捨てがたいはずの親や我が子、恩義や情愛すら、みんな捨てざるを得ないのだから。


[古文] 60段:
真乗院に、盛親僧都(じょうしんそうづ)とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭(いもがしら)といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつつ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日・二七日など、療治とて籠り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。ただひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠、死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋(さんまんびき)を芋頭の銭(あし)と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。
この僧都、或法師を見て、しろうるりといふ名をつけたりけり。「とは何物ぞ」と人の問ひければ、「さる物を我も知らず。若しあらましかば、この僧の顔に似てん」とぞ言ひける。
この僧都、みめよく、力強く、大食にて、能書・学匠(がくしょう)・辯舌(べんぜつ)、人にすぐれて、宗の法燈なれば、寺中にも重く思はれたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従ふといふ事なし。出仕して餐膳(きょうぜん)などにつく時も、皆人の前据ゑわたすを待たず、我が前に据ゑぬれば、やがてひとりうち食ひて、帰りたければ、ひとりつい立ちて行きけり。斎(とき)・非時(ひじ)も、人に等しく定めて食はず。我が食ひたき時、夜中にも暁にも食ひて、睡たければ、昼もかけ籠りて、いかなる大事あれども、人の言ふ事聞き入れず、目覚めぬれば、幾夜も寝ねず、心を澄ましてうそぶきありきなど、尋常ならぬさまなれども、人に厭はれず、万許されけり。徳の至れりけるにや。

[現代語訳]
仁和寺の真乗院に盛親僧都という、極めて頭の良い僧がいた。芋頭という食べ物を好んでおり、毎日のように食べていた。講義の席でも、大きな鉢に芋頭をうずたかく盛り上げて、膝元において食べながら、もぐもぐと口を動かしお経を読んでいた。病気をすると一~二週間は治療だと言って部屋に閉じこもり、気が済むまで良い芋を選んで、いつもよりたくさん食べてどんな病気でも治してしまった。人に芋を食べさせることはなく、いつも一人で食べていた。
極めて貧しかったが、師匠が亡くなった後に、僧坊(住居)と二百貫の財産を相続した。家を百貫で売り払って、三百貫の財産をつくると、全てを芋代にすると決めてしまった。京都にいる人にお金を預けると、十貫づつお金を下ろして、いつも芋頭が途絶えないように計画して食べていた。しかし、他に財産を使う用途もないので、すべてを芋代にしたのである。『お金もないのに、三百貫もの大金を全て芋代に使うとは、珍しい道心者(仏道修行をする者)だ』と人々は言った。
この僧都が、ある坊さんを見て『しろるうり』と名づけた。『しろるうりとは何ですか』と人に聞かれると、『そんなことは知らない。もし、そのようなものがあるなら、きっとこの坊主にそっくりなんだろう』と答えた。
この僧都は、外見・容姿が良くて、力が強く、大飯ぐらいである。書道、学問、弁論、全ての分野にも優れていて、寺でも重く用いられていた。しかし、どこか世間をバカにしている曲者でもあった。すべて好き勝手に自由にやって、人の言うことなど聞くことがない。寺の外の法事のときにも、自分の目の前にお膳があると、他の人のお膳が準備されていなくても、さっさと自分一人だけで食べてしまう。帰りたくなれば、一人で立ち上がってそのまま帰ったという。寺での食事も、周囲に配慮することもなく、自分の食べたい時には、夜中でも明け方でも食事をする(食欲を我慢することがない)。眠たい時には、昼間でも部屋に籠って寝てしまう。どんな大切な用事があっても自分が起きたくないなら起きない。目が冴えてくると、真夜中でも歌など詠みながら散歩をする。普通ではない有様であるが、人に嫌われることもなく、すべての我がままは許してもらっていた。きっとこの僧侶の徳が高いからなのだろう。


[古文] 61段:
御産(ごさん)の時、甑(こしき)落す事は、定まれる事にはあらず。御胞衣(おんえな)とどこほる時のまじなひなり。とどこおらせ給はねば、この事なし。
下ざまより事起りて、させる本説なし。大原の里の甑を召すなり。古き宝蔵の絵に、賤しき人の子産みたる所に、甑落したるを書きたり。

[現代語訳]
お産の時に、屋根の上から甑(こしき=土器で作られた米などを蒸す道具)を落とす風習は別に決まった事ではない。お産が滞ってなかなか赤ちゃんが産まれない時のまじないであるが、お産が難産に陥っていなければやる必要もない。
身分の低い庶民が始めた迷信なので、たいした根拠というものもない。大原の甑を取り寄せるのが、縁起が良いとされる。古い宝蔵に収納されていた絵巻には、貧しい者が子を産む時に、屋根から甑を落としている情景が描かれていた。


[古文] 第62段:
延政門院、いときなくおはしましける時、院へ参る人に、御言つてとて申させ給ひける御歌、
ふたつ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる
恋しく思ひ参らせ給ふとなり。

[現代語訳]
延政門院(出家した後嵯峨天皇の皇女・悦子内親王)が、幼少の折に、院(御所)へ参上する人に言伝を頼んでお詠みになったお歌。
ふたつ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる
後嵯峨天皇のことを恋しく思っていらっしゃる気持ちが詠まれている。
一読すると意味不明な章なのだが、悦子内親王が読んだ歌は『言葉遊びのパズル』のようなものになっている。和歌にある『ふたつ文字』は平仮名の『こ』、牛の角文字は『い』、まっ直ぐな文字は『し』、ゆがみ文字は『く』を意味しており、それらを合わせると『こいしく(恋しく)』になるわけである。


[古文] 第63段:
後七日(ごしちにち)の阿闍梨(あじゃり)、武者を集むる事、いつとかや、盗人にあひにけるより、宿直人(とのいびと)とて、かくことことしくなりにけり。一年の相は、この修中のありさまにこそ見ゆなれば、兵(つわもの)を用ゐん事、穏かならぬことなり。

[現代語訳]
一月八日から天下太平・五穀豊穣・国家繁栄を祈願して大内裏で行われる『後七日』の行事に、宿直人と言う武者が配置されるようになったのは、いつからだろうか。『後七日』を指導なされる阿闍梨の指示ということだが、昔、行事の最中に盗人が侵入したことがあり、このような物々しい警備になったようだ。今年一年の情勢・吉兆を占うとされる後七日の儀式に、武装した兵士を配置しているのは、穏やかではないことである(兵乱の予兆にも成りかねない不吉なことである)。


[古文] 第64段:
「車の五緒(いつつお)は、必ず人によらず、程につけて、極むる官・位に至りぬれば、乗るものなり」とぞ、或人仰せられし。

[現代語訳]
『豪華な五緒の飾りを垂らした牛車は、必ずしも(身分に関係なく)優れた人が乗るというものではない。その家柄に従って、極められるまで官(役職)や位(身分)を極めた者が、乗るものなのである』と、ある人がおっしゃっていた。


[古文] 第65段:
この比(ごろ)の冠は、昔よりははるかに高くなりたるなり。古代の冠桶(かんむりおけ)を持ちたる人は、はたを継ぎて、今用ゐるなり。

[現代語訳]
この頃の冠は、昔よりはるかに高くなった。だから、昔の冠入れ(冠を入れるケース)を持っている人は、箱の端っこを継ぎはぎして、今でも使っているのだ。


[古文] 第66段:
岡本関白殿、盛りなる紅梅の枝に、鳥一双を添へて、この枝に付けて参らすべきよし、御鷹飼(おんたかかい)、下毛野武勝(しもつけのたけかつ)に仰せられたりけるに、「花に鳥付くる術、知り候はず。一枝に二つ付くる事も、存知し候はず」と申しければ、膳部に尋ねられ、人々に問はせ給ひて、また、武勝に、「さらば、己れが思はんやうに付けて参らせよ」と仰せられたりければ、花もなき梅の枝に、一つを付けて参らせけり。
武勝が申し侍りしは、「柴の枝、梅の枝、つぼみたると散りたるとに付く。五葉などにも付く。枝の長さ七尺、或は六尺、返し刀五分に切る。枝の半に鳥を付く。付くる枝、踏まする枝あり。しじら藤の割らぬにて、二所付くべし。藤の先は、ひうち羽の長に比べて切りて、牛の角のやうに撓むべし。初雪の朝、枝を肩にかけて、中門より振舞ひて参る。大砌(おおみぎり)の石を伝ひて、雪に跡をつけず、あまおほひの毛を少しかなぐり散らして、二棟の御所の高欄に寄せ掛く。禄を出ださるれば、肩に掛けて、拝して退く。初雪といへども、沓のはなの隠れぬほどの雪には、参らず。あまおほひの毛を散らすことは、鷹はよわ腰を取る事なれば、御鷹の取りたるよしなるべし」と申しき。
花に鳥付けずとは、いかなる故にかありけん。長月ばかりに、梅の作り枝に雉を付けて、「君がためにと折る花は時しも分かぬ」と言へる事、伊勢物語に見えたり。造り花は苦しからぬにや。

[現代語訳]
岡本関白殿(近衛家平)は、朝廷に仕える鷹飼の下毛野武勝に、花の盛りにある紅梅の枝につがいの雉の雌雄を添えて参上するように命じた。しかし、鷹飼の下毛野は『花の咲いた枝に、鳥を取り付ける技など知りません。ましてや、一つの枝に二羽の鳥を付ける方法などは存じていません』と答えた。次に岡本関白は膳部の料理人や周囲の人々に聞いてみて、もう一度、武勝に『お前の好きなように鳥をつけて持って参れ』と命じた。すると鷹飼の武勝は、花のない梅の枝に鳥を一匹だけくくりつけて、関白の元に参上した。
鷹飼の武勝が申し上げるところによると、『柴の枝。梅の枝。つぼみのある枝と散った枝には鳥を付けることができます。五葉の松にもくっつけられます。枝の長さは七尺、あるいは六尺、枝の両端は返し刀で五分に切り落とす。枝の中ほどに鳥を付ける。鳥の頭を付ける枝と足で踏ませる枝とがあります。しじら藤の割ってない蔓で、鳥の頭と足の二カ所を枝にくくり付けます。藤の先は、火打羽の丈と同じ長さに切って、牛の角のようにふくらませる。人の家に送るのであれば、初雪の朝に、枝を肩にかついで、中門より参上します。この時に、大砌の石を伝って歩いて、雪に足跡をつけてはいけません。枝につけた鳥の風切羽を少しばかり散らしてから、御所の手すりにかけて置いておきます。送り先の家が祝儀を下さるのであれば、今度は祝儀を肩にかついで、拝礼して退きます。初雪といっても、靴の先っぽが隠れないほどの雪ならば、風情がないので行くべきではありません。風切羽を散らすというのは、鷹は鳥の風切羽のあたりを狙って捕獲するので、鷹がその鳥を狩ったという証拠になるのです』ということだ。
花の咲いた枝に、鳥をくくってはいけないというのは、どういう理由からなのだろうか。『伊勢物語』で、秋の季節に梅の造花に雉をくくって愛する人の元に送ったという故事があるのだが、造花ならば花がついた枝でも、鳥をくくっても良いものなのだろうか。


[古文] 第67段:
賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひ紛へ侍れば、一年参りたりしに、老いたる宮司の過ぎしを呼び止めて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗(みたらし)に影の映りける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。吉水和尚(よしみずのおしょう)の、
月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら
と詠み給ひけるは、岩本の社(やしろ)とこそ承り置き侍れど、己れらよりは、なかなか、御存知などもこそ候はめ」と、いとうやうやしく言ひたりしこそ、いみじく覚えしか。
今出川院近衛とて、集どもにあまた入りたる人は、若かりける時、常に百首の歌を詠みて、かの二つの社の御前の水にて書きて、手向けられたり。まことにやんごとなき誉れありて、人の口にある歌多し。作文・詞序など、いみじく書く人なり。

[現代語訳]
京都・上賀茂神社の、岩本の社と橋本の社は在原業平と藤原実方を祀っている。(業平と実方は共に和歌の名人として知られる人物だが)どちらがどっちの社に祀られているのかの由縁がすでに分からなくなっていて、いつも人々は両者の社を混同してしまっている。
ある年に上賀茂神社をお詣りした時、神社にいた年老いた宮司を呼び止めて、その事について尋ねてみた。その老宮司が『藤原実方を祀る社は、御手洗の水面に影が映る社と聞いております。それでしたら、橋本の社の方が御手洗に近いと思います。歌人の吉水和尚が「月をめで 花を眺めし いにしへの やさしき人は ここにありはら」と詠んだのは、岩本の社の前であったと聞いています。しかし、こういう歌人の由緒については、私ども宮司よりも歌人の方々の方がご存知ではないかと思います』と丁寧に答えてくださったことを良く覚えている。
今出川院近衛(近衛という名前で呼ばれた鷹司伊平の娘)という歌人は、多くの歌集に歌を選ばれた女性であるが、若い頃から、常に百首の歌を詠むような才媛で、岩本と橋本の社の前の水で墨をすって歌を書いて、神社に奉納していた。この神社の本当に素晴らしいご利益があって、人の口にのぼるような良い歌を多く詠んだという。今出川院近衛は、作文や漢詩の序文なども上手に書く優れた人であった。


[古文] 第68段:
筑紫に、なにがしの押領使などいふやうなる者のありけるが、土大根(つちおおね)を万にいみじき薬とて、朝ごとに二つづつ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。
或時、館の内に人もなかりける隙をはかりて、敵襲ひ来りて、囲み攻めけるに、館の内に兵二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追い返してげり。いと不思議に覚えて、「日比ここにものし給ふとも見ぬ人々の、かく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ」と問ひければ、「年来頼みて、朝な朝な召しつる土大根らに候う」と言ひて、失せにけり。
深く信を致しぬれば、かかる徳もありけるにこそ。

[現代語訳]
九州の筑紫国に、押領使の役職に就いていたなにがしという人物がいた。この人は、大根を何にでも効く素晴らしい薬だと信じて、長年にわたって、毎朝二本ずつ焼いて食べ続けていた。
ある時、押領使が所管する館の中に兵がいない隙を見計らって、敵が襲ってきた。敵にすっかり取り囲まれていたのだが、館の中に二人の兵士が現れ、命も惜しまずに戦って、敵をみんな、追い返してしまった。押領使はとても不思議に思って、『日頃、この館で見ない者たちだが、ここまで懸命に戦うとは、どんな人物なのか?』と聞いた。すると、『あなたが長年信じてきて、毎朝召し上がっている大根でございます』と答えて、その勇敢な兵士は消えうせてしまった。
(何の役にも立ちそうにないものでも)深く信心をしていれば、このような徳もあるものだ。


[古文] 第69段:
書写の上人は、法華読誦(ほっけどくじゅ)の功積りて、六根浄(ろくこんじょう)にかなへる人なりけり。旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻(から)を焚きて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるる豆殻のばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるるはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞こえる。

[現代語訳]
書写山円教寺の性空上人(しょうくうしょうにん)は、法華経を読誦し続けた功徳によって、仏教経典でいう『六根』が清浄になり悟りを開いた人物であった。旅の仮屋に立ち寄った時に、豆のカラを炊いて豆を煮ている音がつぶつぶと鳴るのを聞いたところ、『(豆のカラと豆の関係で)親密であるべき、己らたちも、恨めしくも、我(豆)を煮て、つらい目に遭わせるつもりなのか』と豆が言っている。火で炊きつけられている豆ガラのばらばらと鳴る音は、『私が心から好きでやっていることと思うか。焼かれることはどれほどか堪えがたいことだけど、どうしようもないことなのだ。そんなに俺たち「豆カラ」のことを恨んでくれるな』とか聞こえた。
『六根』というのは人間の不確実で錯覚の多い感覚機能のことで、『眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根』の6つのことを指している。現代風に言い直せば、『視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意志力(こころの働き)』の6つの感覚と意志の機能のことであるが、仏教ではこれらの六根を清らかにして真理に目ざめることで『悟りの境地』に到達できると教えている。


[古文] 第70段:
元応(げんおう)の清暑堂(せいしょどう)の御遊(ぎょゆう)に、玄上(げんじょう)は失せにし比、菊亭大臣(きくていのおとど)、牧場(ぼくば)を弾じ給ひけるに、座に著きて(つきて)、先づ柱を探られたりければ、一つ落ちにけり。御懐にそくひを持ち給ひたるにて付けられにければ、神供(じんぐ)の参る程によく干て(ひて)、事故(ことゆえ)なかりけり。
いかなる意趣かありけん。物見ける衣被(きぬかづき)の、寄りて、放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ。

[現代語訳]
後醍醐天皇即位の前祝いの席で、琵琶の名器『玄上』が盗まれていた時期だったが、菊亭大臣(琵琶の名手とされた藤原兼季)が琵琶を弾くことになった。菊亭大臣は同じく琵琶の名器とされる『牧場』で音楽を弾くことになった。演奏の座についた菊亭大臣は、まず琵琶の柱を探って確認をしてみたが、琵琶の弦の支柱が一つ落ちてしまった。しかし、懐にノリ(糊)を持っていたので、それで支柱をくっつけて、神へ供え物を捧げる儀式の間にすっかりノリが乾いたので、事故にはならなかった。
どんな恨みがあったのだろうか、見物していた衣をかぶった女が、琵琶に寄ってきて、支柱を放り投げて(支柱をひきちぎって)、元のように戻したんだと言われている。


[古文] 第71段:
名を聞くより、やがて、面影は推し測らるる心地するを、見る時は、また、かねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ、昔物語を聞きても、この比の人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく覚ゆるにや。
また、如何なる折ぞ、ただ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中に、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。

[現代語訳]
その人の名前を聞くと、すぐにその人相まで想像できる感じがするが、実際に会ってみると思い出したままの顔をしている人はいない。昔の物語を聞いても、昔の人の家が今ではその辺にあるのだろうかと思い、昔の人物にしても、今いる人々に重ねて想像してしまうが、誰もがそのように思っているのだろうか。
また、ふとした時に、たった今、人の言った事も、目で見た物も、自分の心の中でこういった事が以前にあったぞと思ったりする。それがいつだったのかは思い出せないんだけど、本当にこれらのことが過去にも確かにあったはずだと感じるのは、私だけがそう思うのだろうか。
現代風に解釈するのであれば、これは『デジャヴュ(既視感)』についてのエピソードである。


[古文] 第72段:
賤しげなる物、居たるあたりに調度の多き。硯に筆の多き。持仏堂に仏の多き。前栽に石・草木の多き。家の内に子孫の多き。人にあひて詞の多き。願文に作善多く書き載せたる。
多くて見苦しからぬは、文車の文。塵塚の塵。

[現代語訳]
卑しくて下品に見えるものは、座っている周囲に道具が多いこと。硯に筆が多く入っていること。寺院の持仏堂に仏像が多いこと。庭に石や植木が多いこと。家の中に子・孫が多いこと。人に会った時に言葉が多いこと。神仏に祈願する文書に、善行を為す方法(造寺・造仏・写経・布施・禁欲など)を多く書き記していること。
多くても見苦しくないのは、文車(書物を運搬する車)に積んだ本(書物)、ゴミ捨て場のゴミである。


[古文] 第73段:
世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。
あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔りぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。道々の者の上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起さず。音に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。
かつあらはるるをも顧みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて、浮きたることと聞ゆ。また、我もまことしからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしく所々うちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづま合はせて語る虚言は、恐しき事なり。我がため面目あるやうに言はれぬる虚言は、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮なくて聞きゐたる程に、証人にさへなされて、いとど定まりぬべし。
とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ、常にある、珍らしからぬ事のままに心得たらん、万違ふべからず。下ざまの人の物語は、耳驚く事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。
かくは言へど、仏神の奇特、権者の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方は、まことしくあひしらひて、偏に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。

[現代語訳]
世に語り伝えられていることは、本当のことは面白くないのだろうか、その多くはみんな嘘である。
実際にあったこと以上に人は大袈裟に言うが、ましてや、年月が過ぎて、国境も隔たってしまえば、言いたい放題(書きたい放題)に語り伝えて、書物にも記録されることになると、やがてその誇張された嘘が真実として定まってしまう。その道の専門家が書いた本になると、その方面に明るくない人は神のごとくにその内容を信じるが、その道をよく知る者であれば簡単には信じない。聞くのと見るのとでは、何事も大違いなのである。
すぐに嘘がばれることも気にせず、口に任せて虚言を言い散らせば、そのうち、根も葉もない嘘だと分かってしまう。また、(その虚言を聞いた者が)内心ではありえないことだと思いながらも、人から聞いたままに、鼻を動かして興奮しながら語るのは、その人本人のつく嘘ではない。
いかにも本当らしくところどころを曖昧にしながら、肝心の部分は良く知らないふりをして、さりげなくつじつまを合わせて語る虚言は、(世の中を乱すという意味で)恐ろしいものである。 自分の面目を立てて名誉にもなる虚言には、人々は全く否定しようとしない。みんなが面白がっている嘘に対しては、自分ひとりだけが『そうではない』と言っても仕方が無くて、そのまま聞いているうちに、自分が虚言の証人にすらされてしまい、そのまま虚言が事実になってしまう。
とにもかくにも、虚言の多い世の中である。人の言うことなど、当たり前で珍しい事などあるはずもないと思っていれば、虚言に流される事もない。世間で噂される虚言は、驚くようなものばかりだが、まともな人間は真偽の怪しいことを語らない。
とは言うものの、仏陀の伝記や、神仏の奇跡については、信心もあって信じないわけにはいかないだろう。世間の虚言をまともに信じることはバカらしいが、仏教の説話については『こんなことがない』といっても仕方がないことである。大体、本当のことだろうと思いながらも、むやみに信じないことが大切だが、だからといって、疑ったり嘲ったりすべきものでもないのだ。


[古文] 第74段:
蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起る。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし。
身を養ひて、何事をか待つ。期する処、ただ、老と死とにあり。その来る事速やかにして、念々の間に止らず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、これを恐れず。名利に溺れて、先途の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。

[現代語訳]
蟻のように集まって、東西に急ぎ、南北に走る人々。身分の高いアリ、身分の低いアリ。老いたアリ、若いアリ。行く所があって、帰る家がある。夜に寝て、朝に起きる。行列の先には何があるのか。生を貪って、利益を求めて、とどまることがない。
健康のために養生して、何を待っているのか。ただ、苦の原因となる老いと死が待っているだけである。老いと死は速やかにやってきて、瞬間瞬間の思いの間にも止まっていることがない。
これを待つ間に、何の楽しみがあるのか。心が惑いのうちにあるものは、死をも恐れない。名声や利益に溺れて、死が近づいていることを顧みないからだ。愚かな人は、死を悲しむ。人は永遠には生きられないことを知って、諸行無常を理解しなければならない。


[古文] 第75段:
つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ。
世に従へば、心、外の塵に奪はれて惑ひ易く、人に交れば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心にあらず。人に戯れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事なし。分別みだりに起りて、得失止む時なし。惑ひの上に酔へり。酔ひの中に夢をなす。走りて急がはしく、ほれて忘れたる事、人皆かくの如し。
未だ、まことの道を知らずとも、縁を離れて身を閑かにし、事にあづからずして心を安くせんこそ、しばらく楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事・伎能・学問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止観にも侍れ。

[現代語訳]
手持ち無沙汰な生活(孤独)を寂しく思う人は、どんな気持ちなのだろう。寂しさを紛らわす方法もなく、ただ一人でいるのが良い。
世俗に従えば、心は外界の塵(欲得)に埋もれて汚れてしまい、他人と交流すれば、他人の言葉に従うことになって、自分の心が自分のものでは無くなってしまう。人と戯れ遊び、物を巡って争い、ある時は恨んで、ある時には喜ぶ。世俗では、心が定まるということがないのだ。好き嫌いの分別がやたらと湧き起こってしまい、損得の感情がやむこともない。惑いを感じて、目先の利害で酔っ払ってしまう。酔いの中で夢を見る。走って忙しくしたり、ぼんやりとして大切なことを忘れてしまう、世俗の人はみんな、このようなものである。
まだ、本当の道を知らなくても、血縁・友人の縁を離れて一人になること、そして、周囲の雑事に関わらずに、心を安らかにすることが、仮初めといえども楽しむことだと言えるのである。「生活・人事・伎能・学問等をすっかりやめてしまえ(余計な雑事や知識なんて忘れてしまえ)」と、天台宗の教典である『摩訶止観』にも書いているのだから。


[古文] 第76段:
世の覚え花やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く行きとぶらふ中に、聖法師の交じりて、言ひ入れ、たたずみたるこそ、さらずともと見ゆれ。
さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。

[現代語訳]
世の覚えが華やか権力者(権勢家)の家に、不幸や祝い事があって、人が多く訪れて弔意・祝意を示している。その中に、世捨て人の聖法師が交じっており、案内を申し込み、門口でたたずんでいるが、そのようにしなくても良いのにと思う。
然るべき理由があっても、世を捨てた法師(遁世者)というものは、世俗の人とは疎遠であって欲しいものである。


[古文] 第77段:
世中に、その比、人のもてあつかひぐさに言ひ合へる事、いろふべきにはあらぬ人の、よく案内知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそ、うけられね。ことに、片ほとりなる聖法師などぞ、世の人の上は、我が如く尋ね聞き、いかでかばかりは知りけんと覚ゆるまで、言ひ散らすめる。

[現代語訳]
その頃、世の中に、人が世間話(噂話)の話題として言い合っていることについて、そういった噂話に関わるべきではない人が、よくその内情を知っていて、人に語り聞かせているのは、どうにも納得できない。特に、山奥に引きこもっているはずの法師が、世間話を我が事のように尋ねたり聞いたりして、どうしてそこまで知っているのかと思われるほどに、周囲に言い散らかしているようだ。


[古文] 第78段:
今様の事どもの珍しきを、言ひ広め、もてなすこそ、またうけられね。世にこと古りたるまで知らぬ人は、心にくし。
いまさらの人などのある時、ここもとに言ひつけたることぐさ、物の名など、心得たるどち、片端言い交し、目見合はせ、笑ひなどして、心知らぬ人に心得ず思はする事、世慣れず、よからぬ人の必ずある事なり。

[現代語訳]
珍しい最近の事柄を、もてはやして、言い広めるのも、また納得できないことだ。世間で言い古されるまで、知らないでいる人は魅力がある。
今、新しく来た人がいる時に、仲間内で話し慣れている話題や物の名前などを話し、そのことを良く知っている仲間だけに分かるように、話の一部分だけを語り合ったり、顔を見合わせて笑ったりする。(そうやって内輪向けの話に終始して)事情を良く知らない人に嫌な思いをさせるのは、世間知らずの立派ではない人たちがよくやることである。


[古文] 第79段:
何事も入りたたぬさましたるぞよき。よき人は、知りたる事とて、さのみ知り顔にやは言ふ。片田舎よりさし出でたる人こそ、万の道に心得たるよしのさしいらへはすれ。されば、世に恥づかしきかたもあれど、自らもいみじと思へる気色、かたくななり。
よくわきまえたる道には、必ず口重く、問はぬ限りは言はぬこそ、いみじけれ。

[現代語訳]
何事にも、深く知っている振りをしないのが良い。教養のある人は、知っていることだからといって、そんなに物知り顔で言うだろうか。田舎から出てきたような無教養な人こそ、すべての道に精通している様子で知ったかぶって受け答えをするものである。だから、世の中には恥ずかしい知ったかぶりの人もいるものだが、自分では凄いだろうと思っている様子が、何ともみっともない。
よく知っている道であっても、口を重くして軽々しく語らず、問われない限りは自分からは言わない、そういった態度こそ素晴らしい。


[古文] 第80段:
人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は、兵(つわもの)の道を立て、夷(えびす)は、弓ひく術知らず、仏法知りたる気色し、連歌し、管絃を嗜み(たしなみ)合へり。されど、おろかなる己れが道よりは、なほ、人に思ひ侮られぬべし。
法師のみにもあらず、上達部・殿上人・上ざままで、おしなべて、武を好む人多かり。百度戦ひて百度勝つとも、未だ、武勇の名を定め難し。その故は、運に乗じて敵を砕く時、勇者にあらずといふ人なし。兵尽き、矢窮りて(きわまりて)、つひに敵に降らず、死をやすくして後、始めて名を顕はすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獣に近き振舞、その家にあらずは、好みて益なきことなり。

[現代語訳]
人は自分とは関係の無い事を好むようだ。法師は武道を志して、東国の武士は弓の引き方も知らないで、仏法を知っているような様子を見せて、連歌を詠んだり、管絃(楽器)を楽しんだりしている。しかし、自分自身の実力がない本業の道よりも、趣味的な事柄のほうが相手に軽侮されないだろう。
法師だけではなく、皇族や上級貴族、役人に至るまで武術・武道を好む人は多かった。しかし、百回戦って百回勝っても、武勇の名誉は定まらないだろう。気運に乗じて敵を打ち破れば、誰もがその人を勇者というだろう。だが、兵が尽きて矢が無くなったような状況で、敵に降伏せず死を恐れずに戦って初めて、武人としての名誉が得られるのである。(死を恐れて)生きようとしているようでは、武勇を誇ってはならない。戦争は人倫の道(正しい生き方)に遠く、禽獣に近い振舞いをするということだ。武門の家に生まれたのでなければ、好んでするだけの価値があることではない。

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(中) 兼好法師(吉田兼好)  Tsurezuregusa (Yoshida Kenkō)
兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

第八十一段 屏風・障子などの絵も文字も 第八十二段 うすものの表紙は 第八十三段 竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はんに 第八十四段 法顕三蔵の、天竺にわたりて 第八十五段 人の心すなほならねば 第八十六段 惟継中納言は 第八十七段 下部に酒飲まする事は 第八十八段 或者、小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを 第八十九段 奥山に、猫またといふものありて 第九十段 大納言法印の召し使ひし乙鶴丸 第九十一段 赤舌日といふ事 第九十二段 或人、弓射る事を習ふに 第九十三段 牛を売る者あり 第九十四段 常盤井相国、出仕し給ひけるに 第九十五段 箱のくりかたに緒を付くる事 第九十六段 めなもみといふ草あり 第九十七段 その物に付きて、その物を費しそこなふ物 第九十八段 尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて 第九十九段 堀川相国は 第百段 久我相国は 第百一段 或人、任大臣の節会の内弁を勤められけるに、 第百二段 尹大納言光忠入道、追儺の上卿をつとめられけるに、 第百三段 大覚寺殿にて、近習の人ども、 第百四段 荒れたる宿の、人目なきに、 第百五段 北の屋かげに消え残りたる雪の、 第百六段 高野証空上人、京へのぼりけるに、 第百七段 女の物言ひかけたる返事、とりあへずよきほどにする男は、 第百八段 寸陰惜しむ人なし 第百九段 高名の木登りといひしをのこ、人をおきてて、 第百十段 双六の上手といひし人に、 第百十一段 囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、 第百十二段 明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、 第百十三段 四十にもあまりぬる人の、色めきたる方、 第百十四段 今出川のおほひ殿、嵯峨へおはしけるに、 第百十五段 宿河原といふところにて、 第百十六段 寺院の号、さらぬ万の物にも、 第百十七段 友とするにわろき者 第百十八段 鯉の羹食ひたる日は、 第百十九段 鎌倉の海に鰹といふ魚は、 第百二十段 唐の物は、薬の外は、なくとも事欠くまじ。 第百二十一段 養ひ飼ふものには、 第二十二段 人の才能は、 第百二十三段 無益のことをなして時を移すを、 第百二十四段 是法法師は、浄土宗に恥ぢずといへども、 第百二十五段 人におくれて、四十九日の仏事に、 第百二十六段 ばくちの負けきはまりて、 第百二十七段 あらためて益なき事 第百二十八段 雅房大納言は、才賢く、 第百二十九段 顔回は、志、 第百三十段 物に争はず、おのれを枉げて人に従がひ、 第百三十一段 貧しき者は財をもて礼とし、 第百三十二段 鳥羽の作道は、 第百三十三段 夜の御殿は東御枕なり 第百三十四段 高倉院の法華堂の三昧僧 第百三十五段 資季大納言入道とかや聞えける人 第百三十六段 医師篤成、故法皇の御前にさぶらひて 第百三十七段 花はさかりに 第百三十八段 祭過ぎぬれば、後の葵不要なりとて、 第百三十九段 家にありたき木は、 第百四十段 身死して財残る事は、 第百四十一段 悲田院尭蓮上人は、 第百四十二段 心なしと見ゆる者も、よき一言いふものなり 第百四十三段 人の終焉の有様のいみじかりし事など、 第百四十四段 栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、 第百四十五段 御随身秦重躬、北面の下野入道信願を、 第百四十六段 明雲座主、相者にあひ給ひて、 第百四十七段 灸治、あまた所になりぬれば、 第百四十八段 四十以後の人、身を灸を加へて三里を焼かざれば、 第百四十九段 鹿茸を鼻にあてて嗅ぐべからず。 第百五十段 能をつかんとする人、 第百五十一段 或人の伝はく、年五十になるまで 第百五十二段 西大寺静然上人、腰かがまり 第百五十三段 為兼大納言入道召し捕られて 第百五十四段 この人、東寺の門に 第百五十五段 世に従はん人は、先(ま)づ機嫌を知るべし 第百五十六段 大臣の大饗は 第百五十七段 筆をとれば物書かれ 第百五十八段 盃のそこを捨つる事は 第百五十九段 みなむすびといふは 第百六十段 門に額かくるを
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[古文] 第81段:
屏風・障子などの、絵も文字もかたくななる筆様して書きたるが、見にくきよりも、宿の主のつたなく覚ゆるなり。
大方、持てる調度にても、心劣りせらるる事はありぬべし。さのみよき物を持つべしとにもあらず。損ぜざらんためとて、品なく、見にくきさまにしなし、珍しからんとて、用なきことどもし添へ、わづらはしく好みなせるをいふなり。古めかしきやうにて、いたくことことしからず、つひえもなくて、物がらのよきがよきなり。

[現代語訳]
屏風・障子に、見苦しい上手くない筆遣いで絵や文字が書いていると、その字の下手さよりも、宿(家)の主人の品性・趣味が劣っていると感じてしまう。
大体、持っている家具・道具を見てみても、思っていたよりも趣味が劣っているなと感じることはあるものだ。それほど良いものを持つ必要はない。しかし、壊れないようにと思って、品性のない感じで醜く補強してみたり、珍しいからといって、実用性のない飾りを付け加えて、煩わしいデザインにするのはみっともないのである。歴史のある古めかしい感じで、おおげさ過ぎることがなく、破損することもなく頑丈で、品質の良いものが良いのである。


[古文] 第82段:
「羅(うすもの)の表紙は、疾く(とく)損ずるがわびしき」と人の言いしに、頓阿(とんあ)が、「羅は上下はつれ、螺鈿(らでん)の軸は貝落ちて後こそ、いみじけれ」と申し侍りしこそ、心まさりして覚えしか。一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都(こうゆうそうず)が、「物を必ず一具に調へんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。
「すべて、何も皆、事のととのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず、造り果てぬ所を残す事なり」と、或人申し侍りしなり。先賢の作れる内外の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。

[現代語訳]
『薄い布で装飾した書物の表紙は、すぐに痛んでしまうのが困る』と人が言った。和歌四天王のひとりである頓阿はそれに対して、『表紙の薄い布の上下がほつれてから。螺鈿細工の巻物は軸の貝が落ちてから。その後から味わいが出てくるのだ』と答えた。その言葉には、素晴らしい発想だと感心してしまった。
何冊かで一つにまとめられているシリーズものの草子(書物)が、同じ体裁(デザイン)でないのは見にくいと誰かが言ったが、弘融僧都は『本をすべて同じような体裁に整えようとするのは、センスのない人間のすることだ。不揃いのほうが良いではないか』と言った。この考えも、面白いと思った。
『全てをなにもかも、整えてしまうのは悪いことである。やり残した部分を残しておくというのが、(未来でも完成させるまでに時間がかかるので)生き延びさせる工夫なのだ。朝廷の内裏を造営する時にも、必ず造り終わっていない部分を残しておく』と、ある人が申し上げていた。優れた先人の書き残した書物にも、章段が欠けていて未完成の部分がある。


[古文] 第83段:
竹林院入道左大臣殿、太政大臣に上り給はんに、何の滞りかおはせんなれども、『珍しげなし。一上(いちのかみ)にて止みなん』とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿(とういんのさだいじんどの)、この事を甘心し給ひて、相国の望みおはせざりけり。
『亢竜の悔あり』とかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。万の事、先の詰まりたるは、破れに近き道なり。

[現代語訳]
竹林院入道左大臣の西園寺公衡(さいおんじ・きんひら)は、朝廷で太政大臣に出世しようと思えば何の支障もなかったが、『面白くも無い。左大臣の位でやめておこう』と言って、出家してしまわれた。洞院左大臣の藤原実泰(ふじわらのさねやす)が、この事を聞いていたく感心して、同じように太政大臣への出世の望みを捨ててしまわれた。
『天空まで上りきった竜に悔いあり(上りきった竜はそれ以上は上ることができない)』という格言もございます。満月は後は欠けるだけ、物事は盛りの時期を迎えれば後は衰える。すべての事柄は、行く先が詰まってしまえば、破綻に近づいているという道理でもある。


[古文] 第84段:
法顕三蔵の、天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひける事を聞きて、『さばかりの人の、無下にこそ心弱き気色を人の国にて見え給ひけれ』と人の言ひしに、弘融僧都、『優に情ありける三蔵かな』と言ひたりしこそ、法師のやうにもあらず、心にくく覚えしか。

[現代語訳]
法顕三蔵はインド(天竺)に渡ったが、(ホームシックで)故郷の扇を見ては悲しみを感じ、病に臥せれば故郷の中国(漢)の食事を求めたということだ。その話を聞いて、『高僧の三蔵ともあろう人物が、外国でなんと無闇に気弱な態度を見せたものか(情けないことだ)』と人が言っていた。しかし、弘融僧都は『何とこころが優しくて情け深い三蔵であることよ』と感嘆したが、その様子はあまりに法師らしくない感じで奥ゆかしく思った。


[古文] 第85段:
人の心すなほならねば、偽りなきにしもあらず。されども、おのづから、正直の人、などかなからん。己れすなほならねど、人の賢を見て羨むは、尋常なり。至りて愚かなる人は、たまたま賢なる人を見て、これを憎む。『大きなる利を得んがために、少しきの利を受けず、偽り飾りて名を立てんとす』と謗る。己れが心に違へるによりてこの嘲りをなすにて知りぬ、この人は、下愚の性移るべからず、偽りて小利をも辞すべからず、仮りにも賢を学ぶべからず。
狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり。驥(き)を学ぶは驥の類ひ、舜を学ぶは舜の徒(ともがら)なり。偽りても賢を学ばんを、賢といふべし。

[現代語訳]
人の心は素直ではないから、自分を偽るということが無いわけではない。しかし、初めから正直な人なんてどこにいるだろうか(いや、どこにもいない)。自分は素直ではないから、他人の賢さを見て羨ましがるのは普通である。相当に愚かな人物は、賢い人物を見て、その賢さを逆恨みしてしまう。
『大きな利益を得ようとして、小さな利益を得ようとしない。嘘で自分を巧みに飾って名誉を得ようとする』と賢い人をけなしてしまう。自分の心と賢い人の心が違うので、こういった嘲りを言ってしまうのである。この人は、愚鈍な本性から離れることができない。相手を偽って、小さな利益を手に入れようとし、仮にも賢い人から学ぼうとはしない。
狂人の真似をして大通りを走れば、それは狂人そのものだ。悪人の真似と言って人を殺せば、悪人になる。一日に千里走る名馬に学べば、その馬は同じように一日千里を走る。聖王の舜を真似したら舜と同様の名君になるだろう。偽りでも賢さを真似したら、その人を賢と言うべきだろう。


[古文] 第86段:
惟継中納言(これつぐのちゅうなごん)は、風月の才に富める人なり。一生精進にて、読経うちして、寺法師の円伊僧正(えんいそうじょう)と同宿して侍りけるに、文保に三井寺焼かれし時、坊主にあひて、『御坊をば寺法師とこそ申しつれど、寺はなければ、今よりは法師とこそ申さめ』と言はれけり。いみじき秀句なりけり。

[現代語訳]
惟継中納言(平惟継)は、風流な漢詩を書く才能に恵まれた人だ。生涯、仏教の教えに精進していて、読経をしていたが、三井寺の円伊僧正と同じ寺(僧房)で修行していたことがあった。 文保期に三井寺が焼き討ちされた時、惟継は焼き出された法師に会って、『あなた達は今まで三井寺の法師と申していたが、寺が焼けて無くなったので、これからはただの法師と名乗ることになる』と言った。これは素晴らしく優れた言葉である。
※三井寺(園城寺)という武力・経済力・権威を持った拠点を失って、本来あるべき一人の無欲な僧侶(法師)に戻ったことを平惟継は肯定的に捉えているが、三井寺の裕福だった僧侶たちがその言葉を真っ正直に受け容れられたかは分からない。


[古文] 第87段:
下部(しもべ)に酒飲まする事は、心すべきことなり。宇治に住み侍りけるをのこ、京に、具覚房(ぐかくぼう)とて、なまめきたる遁世の僧を、こじうとなりければ、常に申し睦びけり。或時、迎へに馬を遣したりければ、『遥かなるほどなり。口づきのおのこに、先ず一度せさせよ』とて、酒を出だしたれば、さし受けさし受け、よよと飲みぬ。
太刀うち佩きてかひがひしげなれば、頼もしく覚えて、召し具して行くほどに、木幡(こはた)のほどにて、奈良法師の、兵士あまた具して逢ひたるに、この男立ち向ひて、『日暮れにたる山中に、怪しきぞ。止まり候へ』と言ひて、太刀を引き抜きければ、人も皆、太刀抜き、矢はげなどしけるを、具覚房、手を摺りて、『現し心なく酔ひたる者に候ふ。まげて許し給はらん』と言ひければ、おのおの嘲りて過ぎぬ。この男、具覚房にあひて、『御房は口惜しき事し給ひつるものかな。己れ酔ひたる事侍らず。高名仕らんとするを、抜ける太刀空しくなし給ひつること』と怒りて、ひた斬りに斬り落としつ。
さて、『山だちあり』とののしりければ、里人おこりて出であえば、『我こそ山だちよ』と言ひて、走りかかりつつ斬り廻りけるを、あまたして手負ほせ、打ち伏せて縛りけり。馬は血つきて、宇治大路(うじのおおじ)の家に走り入りたり。あさましくて、をのこどもあまた走らかしたれば、具覚房はくちなし原にによひ伏したるを、求め出でて、舁き(かき)もて来つ。辛き命生きたれど、腰斬り損ぜられて、かたはに成りにけり。

[現代語訳]
しもべに酒を飲ませる時には、注意すべきである。京の宇治に具覚房と名乗る風雅な遁世の僧がいた。具覚房は宇治に住む親戚と仲が良くて、頻繁に交遊を結んでいた。ある時、宇治の親戚からお迎えの馬が遣わされてきて、『長い道中をやってきてくれたのだから、馬を引いてきた口取りの下男に酒でも一杯飲ませてやりなさい』と言い、酒を振る舞った。使いの男は杯(さかずき)で酒を何度も受けて、よよと大量の酒を飲んだ。
口取りの男は、太刀を腰に差しており頼りがいのありそうな感じだが、供として連れていく途中、木幡のあたりで、奈良の法師が多数の兵士を引き連れているのに遭遇した。それを見ると口取りの男は立ち向かう様子を見せて、『日も暮れかかる山の中で何者か。怪しい奴らだ。止まれ』といい太刀を抜いた。相手の兵士たちも太刀を抜いて矢をつがえ出したが、具覚房は手をすり合わせて、『この男は、酔っていて正気を失っています。どうかこの場はお許し下さい』と謝罪した。謝罪を聞いた奈良の法師は、単なる酔っ払いかと嘲り笑いながら通り過ぎていった。すると、口取りの男は『あなた様は、非常に勿体ないことをしてしまいましたな。私は酔ってなどいなかったのに。せっかく武功を立てようとしていたのに、この抜いた刀が何の役にも立たなくなってしまったではないか』と怒って、具覚坊に斬り付けてきた。
そして、男は『山賊が出た』と騒ぎ出して、何事かと里人たちが集まったところで、『俺こそが山賊だ』と言って、人々に走りかかって斬りつけた。里人たちは大勢で男を追いかけ、殴りつけて縛り上げた。(具覚房を乗せた)血だらけの馬は、宇治の親戚の家に戻ることができた。馬の様子を見た宇治の親戚はとても驚き、すぐに男どもを遣わして、具覚房を探させた。くちなし原でうめいて倒れている具覚房を見つけ、親戚の家まで担いで帰ってきた。何とか命だけは助かったが、斬られた腰の傷は深くて、具覚房は片輪(身体障害)になってしまった。


[古文] 第88段:
或者、小野道風(おののとうふう)の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人『御相伝(ごそうでん)、浮ける事には侍らじなれども四条大納言撰ばれたるものを、道風書かん事、時代や違ひ侍らん。覚束なくこそ』と言ひければ、『さ候へばこそ、世にあり難き物には侍りけれ』とて、いよいよ秘蔵しけり。

[現代語訳]
ある者が、三筆の一人である小野道風が書いた『和漢朗詠集』だとして持っていた書物がある。これを見たある人が、『先祖代々受け継がれる御相伝の書物を疑うわけではないのですが、小野道風が死んだ後に生まれた四条大納言の撰書である『和漢朗詠集』を、道風が書くなどという事が可能でしょうか。時代も違い、あり得ないことです』と言った。すると、持ち主は『あり得ないものだからこそ、世にもありがたい価値あるものなのでございます』と答え、ますますその偽作と思しき『和漢朗詠集』を大事そうに秘蔵してしまった。


[古文] 第89段:
『奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる』と人の言ひけるに、『山ならねども、これらにも、猫の経上りて(へあがりて)、猫またに成りて、人とる事はあなるものを』と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが聞きて、独り歩かん身は心すべきことにこそと思ひける比しも、或所にて夜更くるまで連歌して、ただ独り帰りけるに、小川の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸のほどを食はんとす。肝心も失せて、防かんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、『助けよや、猫またよやよや』と叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。『こは如何に(いかに)』とて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物取りて、扇・小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ家に入りけり。
飼ひける犬の、暗けれど、主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。

[現代語訳]
『山奥には猫又という化け物がいて、人を食べてしまう』と人は言っているが、『山奥じゃなくても近所の猫でも、異常に長生きした猫は猫又になって人を襲うそうだ』という人もいる。 それを聞いた何阿弥陀仏とかいう連歌をする行願寺の法師は、一人歩きする時には、猫又には十分に気をつけようと思っていた。ある所で夜が明けるまで連歌をしていた法師は、一人で歩いて帰っていたが、小川沿いの道で噂に聞いていた猫又と紛れも無く出会い、その猫又が足元へすっと寄ってくる。そのまま飛びついてきて、首の部分に噛み付こうとする。
恐怖に耐える気持ちも無くなって、防ごうとしても力が入らず、怖くて足腰も立たなくなってしまった。法師はそのまま小川に転がり込んで、『助けてくれ。猫又だ、猫又が出た』と叫んだ。周囲の家々から、松明を灯して走り寄ってきたが、この辺りで見慣れた僧が小川の中にいた。『どうなさいましたか?』と言って、川の中から抱き起こして上げると、連歌の賭けで賞品として貰った扇や小箱などの価値あるものが、水に浸かってしまっていた。危機一髪で助かったという様子で、這うようにして法師は家に入った。
しかし、この猫又騒ぎの真相は、法師が飼っていた犬が周囲が暗いので、主人が帰ってきたのを知って喜び、飛びついてきただけということのようである。


[古文] 第90段:
大納言法印の召使ひし乙鶴丸(おとづるまる)、やすら殿といふ者を知りて、常に行き通ひしに、或時出でて帰り来たるを、法印、『いづくへ行きつるぞ』と問ひしかば、『やすら殿のがり罷りて候ふ』と言ふ。『そのやすら殿は、男か法師か』とまた問はれて、袖掻き合せて、『いかが候ふらん。頭をば見候はず』と答え申しき。
などか、頭ばかりの見えざりけん。

[現代語訳]
大納言法印が召し抱えていた稚児の乙鶴丸は、やすら殿という男を知って、いつも通っていた。ある時、乙鶴丸が寺を出ていって帰ってきた時に、法印が『どこへ行っていたのだ?』と聞いた。乙鶴丸は『やすら殿のところへ参っていました』と言う。『やすら殿というのは在俗の男か、出家した法師か?』と法印がまた聞くと、乙鶴丸は袖をかきあわせて言いづらそうに『どうでしょうか、剃髪しているか否かを頭を見ることが出来ませんでした』と答えた。
どうして、頭だけが見えないということがあるのか。
※僧侶と稚児(寺に仕える小さな子)の間で慣習的に行われていた『男色・同性愛』についての話である。法印(高位の僧侶)は、自分のお気に入りの稚児である乙鶴丸が、他の僧侶と浮気しているのではないかと嫉妬しているような口ぶりである。


[古文] 第91段:
赤舌日(しゃくぜつにち)といふ事、陰陽道には沙汰なき事なり。昔の人、これを忌まず。この比、何者の言ひ出でて忌み始めけるにか、この日ある事、末とほらずと言ひて、その日言ひたりしこと、したりしことかなはず、得たりし物は失ひつ、企てたりし事成らずといふ、愚かなり。吉日を撰びてなしたるわざの末とほらぬを数へて見んも、また等しかるべし。
その故は、無常変易(むじょうへんえき)の境、ありと見るものも存ぜず。始めある事も終りなし。志は遂げず。望みは絶えず。人の心不定なり。物皆幻化(げんげ)なり。何事か暫くも住する。この理を知らざるなり。『吉日に悪をなすに、必ず凶なり。悪日に善を行ふに、必ず吉なり』と言へり。吉凶は、人によりて、日によらず。

[現代語訳]
暦の赤口を忌む習慣というのは、陰陽道では忌むべき理由のないことである。昔の人も赤口を忌むことはなかった。最近、誰が言い始めたことなのだろうか、赤口にすることは『先が通らず(将来で良い結果にならない)』と言われる。赤口に言った事やした事は叶わないとされ、赤口で得たものは失うことになり、計画した事柄も成すことができないというが、そんな迷信は愚かだ。
暦の大安吉日を選んでやろうとした事で、良い結果に終わらなかった事を数えてみれば、赤口にやろうとして上手くいかなかったことと、同じくらいあるだろう。
その理由は、世の中は常に移り変わっていて、絶えず変化しやすいからである。あると思ったものがあるとは限らず、始めがあっても終わりがないこともある。志は遂げられず、欲望は絶えない、人のこころは不安定なものであり、すべてのものは幻影のようなものである。どんな事柄であれば、暫くの間でも変わらずに存在し続けられるのだろうか、いや、そういった変化しないものなど無いのだ。変わらないものがあると言い張るならば、この諸行無常の理を知らないというだけである。『吉日に悪をなすに、必ず凶なり。悪日に善を行うに、必ず吉なり』と言われている。吉凶は人間の行いによるものであり、暦の日付けの縁起とは関係がない。


[古文] 第92段:
或人、弓射る事を習ふに、諸矢(もろや)をたばさみて的に向ふ。師の云はく、『初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、ただ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ』と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし。
道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。況んや(いわんや)、一刹那の中において、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、ただ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き。

[現代語訳]
ある人が弓を射る技術を習い、二本の矢を手に挟んで的に向かっていく。これを見た弓の師匠が言った。『初心者は、二本の矢を持ってはならない。後の矢を頼りにして、始めの矢を適当にする心が生まれる。何回も的に当たるか当たらないかを考えるのではなく、いつもこの一矢で決めると思え』と。わずかに二本の矢、師匠の前で無駄にしようなどと思うものか。緩んだ緊張感のない心は、自分では気がつかなくても、師はそれを知っている。この戒めは、万事に及ぶものだ。
仏道を学ぶ者は、夕方には明日の朝があるさと思い、朝には夕方があるさと思って、何度も繰り返してしっかり修行しようとするものだ。どうして、僅かな瞬間の中で、怠けた心のある事など知ることができるだろうか。どうして、今この瞬間の一念(意志)によって、すぐにやろうとする事がこんなにも難しいのだろうか。


[古文] 第93段:
『牛を売る者あり。買ふ人、明日、その値をやりて、牛を取らんといふ。夜の間に牛死ぬ。買はんという人に利あり。売らんとする人に損あり』と語る人あり。
これを聞きて、かたへなる者の云はく、『牛の主、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主は存ぜり。一日の命、万金よりも重し。牛の値、鵞羽よりも軽し。万金を得て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず』と言ふに、皆人嘲りて、『その理は、牛の主に限るべからず』と言ふ。
また云はく、『されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、危うく他の財を貪るには、志満つ事なし。生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし』と言ふに、人、いよいよ嘲る。

[現代語訳]
『牛を売る者がいた。買おうとする人が、明日、その牛の代金を支払って引き取ろうという。しかし、その日の夜に牛が死んでしまった。これは、買おうとした人が利益を得たのだ。売ろうとしていた人は損失を出してしまった』と言う人がいた。
これを聞いた近くの人が言った。『牛の持ち主は本当に損をしてしまったな。しかし、大きな利益を得たとも言える。なぜなら、命あるものは死の訪れを予測なんてできない。死んだ牛も当然予測できないし、人間も同じようなものだ。予期せずして牛は死んで、予期せずして牛の飼い主は生きている。一日の生命は、金銭よりも重いんだ。死ぬのに比べれば、牛の代金なんか羽毛よりも軽いよ。多額の金に勝る生命を得て、牛の代金を失っただけだ。損したとは言えない』と。それを聞いたみんなは嘲り笑って、『その理屈は、牛の飼い主だけに当てはまるものではないだろう(誰だって偶然に死ぬ恐れはあるんだから)』と言った。
更に近くの人は言う。『人は死を憎むのであれば、生を愛するべきだ。どうして、生命の喜びを毎日楽しもうとしないのか。愚かな人は、生きる喜びを忘れて、わざわざ苦労して外に楽しみを求め、生きている喜びを忘れて、危険を犯してまで他に楽しみを求める。理想の望みが果てる事はない。生きる事を楽しまないで、死が間近になってから死を怖れる。生きている事を楽しめないのは死を怖れないからだ。いや、死を怖れないのではない、いつも死が接近している事を忘れているだけだ。もし、自分の生死なんかどうでもいいと言うのであれば、真の悟りを得たというべきなのだろう』と。それを聞いて、みんなはいよいよ嘲り笑った。


[古文] 第94段:
常磐井相国(ときわいのしょうこく)、出仕し給ひけるに、勅書を持ちたる北面あひ奉りて、馬より下りたるけるを、相国、後に、『北面某(なにがし)は、勅書を持ちながら下馬し侍りし者なり。かほどの者、いかでか、君に仕うまつり候ふべき』と申されければ、北面を放たれにけり。
勅書(ちょくしょ)を、馬の上ながら、捧げて見せ奉るべし、下るべからずとぞ。

[現代語訳]
常磐井相国(西園寺実氏)が朝廷に出仕したところ、上皇の勅書を持った北面の武士が馬に乗って現れ、北面の武士は常磐井相国に出会ってつい馬を下りて挨拶してしまった。相国はその後、上皇に対して、『なにがしとかいう北面の武士は、上皇の勅書を持ちながら下馬致しました。この程度の者に、陛下の大切な勅書を持たされるのはいかがなものでしょうか』と言った。それを聞いた上皇は、その北面の武士を解任してしまった。
天皇・上皇の勅書という尊い文書は、どんな相手であっても馬に乗ったままで、捧げ奉るべきものである。勅書を持つ者は、決して馬を下りてはならないとされている。


[古文] 第95段:
『箱のくりかたに緒を付くる事、いづかたに付け侍るべきぞ』と、ある有職の人に尋ね申し侍りしかば、『軸に付け、表紙に付くる事、両説なれば、いずれも難なし。文の箱は、多くは右に付く。手箱には、軸に付くるも常の事なり』と仰せられき。

[現代語訳]
『箱についている紐を通す環(鉄のわっか)に紐をつける時には、結び目をどちらにつくるべきですか?』と、(宮中の作法・儀礼・行事に詳しい)ある有職の人に尋ねてみた。『本体でも、蓋でも、結び目はどちらにつくっても良いとされている。文書を送る箱であれば、多くは結び目を右(上)にする。日常的に使う小箱なら結び目は左(下)というのが普通である』とおっしゃられた。


[古文] 第96段:
めなもみといふ草あり。くちばみに螫(さ)されたる人、かの草を揉みて付けぬれば、即ち癒ゆとなん。見知りて置くべし。

[現代語訳]
めなもみという薬草がある。マムシに噛まれた人は、その草を揉んでつければすぐに治るという。どんな草なのか、見て知っておいたほうが良い。


[古文] 第97段:
その物に付きて、その物をつひやし損ふ物、数を知らずあり。身に虱(しらみ)あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財(ざい)あり。君子に仁義あり。僧に法あり。

[現代語訳]
その物に取り付いて、消耗させ害を与えるようなものは数多くある。身体に取り付く虱がある。家に住み着く鼠がある。国に暗躍する賊がいる。小人は財を求めて自滅する。君子は仁義を求めて苦悩する。僧侶は仏法にこだわって煩悩を抱く。


[古文] 第98段:
尊きひじりの言ひ置きける事を書き付けて、一言芳談(いちごんほうだん)とかや名づけたる草子を見侍りしに、心に合ひて覚えし事ども。
一、 しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほようは、せぬはよきなり。
一、 後世を思はん者は、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持経・本尊に至るまで、よき物を持つ、よしなき事なり。
一、 遁世者は、なきにことかけぬやうを計ひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
一、 上臈(じょうろう)は下臈(げろう)に成り、智者は愚者に成り、徳人は貧に成り、能ある人は無能に成るべきなり。
一、 仏道を願ふといふは、別の事なし。暇ある身になりて、世の事を心にかけぬを、第一の道とす。
この外もありし事ども、覚えず。

[現代語訳]
尊い僧侶(聖)が言い残した言葉を集めた『一言芳談』とかいう本を見つけたので、心に残って覚えた言葉を書き留めておこう。
一、するかしないか、しないのもいいかなと思う事なら、大体しないほうが良い。(明禅法印の言葉)
一、後世のことを考えるなら、糠味噌を入れる瓶の一つすらも持ってはいけない。お経や仏像に至るまで、良いものを持っている理由など無い。(俊乗房の言葉)
一、遁世者は、何も無い事を欠かさないように過ごす、何も無いのが最上である。(解脱上人の言葉)
一、身分の高い貴族は下郎になり、賢者は愚者となり、長者は貧者になり、能ある人は無能になるというのが煩悩が無くなって望ましい。(聖光上人の言葉)
一、仏の道は特別なものではない、暇人になって、世間の雑事を気に掛けないというのが第一の道である。(松蔭の顕性房の言葉)
その他にも色々書いてあったが、覚えなかった。


[古文] 第99段:
堀川相国は、美男のたのしき人にて、そのこととなく過差を好み給ひけり。御子(おんこ)基俊卿(もととしのきょう)を大理になして、庁務行はれけるに、庁屋の唐櫃(からひつ)見苦しとて、めでたく作り改めらるべき由仰せられけるに、この唐櫃は、上古より伝はりて、その始めを知らず、数百年を経たり。累代の公物、古弊(こへい)をもちて規模とす。たやすく改められ難き由、故実の諸官等申しければ、その事止みにけり。

[現代語訳]
堀川相国(久我基具)は、美男で楽しい人物であったが、過度の贅沢を好む性格であった。自分の息子を検非違使庁の長官にして、庁務を司らせたが、庁舎にある唐櫃(中国風の収納箱)が古くて見苦しいと、新調することを命じた。だが、この唐櫃は、古代から伝わっていて、いつ持ってこられたのかも分からず、数百年の年月を経た貴重な物である。代々伝えられた公共の物品で、古くなって破損していることにかえって価値がある。簡単に廃棄することなど出来ないと言う昔の出来事(故実)に詳しい役人の意見を聞いて、その事は止めにした。


[古文] 第100段:
久我相国は、殿上にて水を召しけるに、主殿司(とのもづかさ)、土器(かわらけ)を奉りければ、『まがりを参らせよ』とて、まがりしてぞ召しける。

[現代語訳]
久我相国が、宮中の殿上で水を所望すると、女官が土器に水を入れて差し上げました。相国は『まがりの器に入れて持ってきなさい』と言って、まがりの器で水をお飲みになった。※まがりの器が具体的にどんなものを指すのかは不詳である。


[古文] 第101段:
或人、任大臣(にんだいじん)の節会(せちえ)の内辨(ないべん)を勤められけるに、内記の持ちたる宣命を取らずして、堂上せられにけり。極まりなき失礼なれども、立ち帰り取るべきにもあらず、思ひわづらはれけるに、六位外記(ろくいのげき)康綱(やすつな)、衣被き(きぬかずき)の女房をかたらひて、かの宣命を持たせて、忍びやかに奉らせけり。いみじかりけり。

[現代語訳]
ある貴族が、大臣の任命を行う儀式の司会役(取り仕切り役)を勤めたが、詔勅・宣命を作成する内記(中務省の役人)の宣命書を受け取らないまま、紫宸殿に昇殿してしまった。大変な失態ではあるけれど、既に儀式は進行しており、今さら取りに戻るわけにもいかない。どうしようかと思い悩んでいると、外記の康綱が衣を被った女官と相談して、その女官に宣命書を持たせてそっと手渡すように取り計らってくれた。(六位という低い位階にも関わらず)康綱のとても素晴らしい機転である。


[古文] 第102段:
尹大納言(いんのだいなごん)光忠卿(みつただきょう)、追儺(ついな)の上卿(じょうけい)を勤められけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ、『又五郎男を師とするより外の才覚候はじ』とぞのたまひける。かの又五郎は、老いたる衛士の、よく公事に慣れたる者にてぞありける。
近衛殿著陣し給ひける時、軾(ざっき)を忘れて、外記を召されければ、火たきて候ひけるが、『先づ、軾を召さるべくや候ふらん』と忍びやかに呟きける、いとをかしかりけり。

[現代語訳]
尹大納言の源光忠は、朝廷の鬼やらいの儀式の責任者に任命されて、洞院右大臣殿(洞院公賢)に儀式の次第について尋ねた。『又五郎という優れた才覚を持つ男を師とする以外の手はないだろう』と右大臣は答える。その又五郎は老いた門番であったが、宮中の儀式には良く慣れていた。
近衛殿が所定の位置に着座した時、光忠卿は、下級役人が控えるべきゴザの準備を忘れて、下級役人を呼び寄せてしまった(このままでは下級役人たちは直接地面に座ってしまうことになる)。庭でたき火をしていた又五郎は光忠卿の側に寄り、『まずはゴザをご用意なさいませ』と静かにつぶやいた。(外記と軾の音の類似が)非常に面白かった。


[古文] 第103段:
大覚寺殿にて、近習(きんじゅう)の人ども、なぞなぞを作りて解かれける処へ、医師忠守参りたりけるに、侍従大納言公明(きんあきら)卿、『我が朝の者とも見えぬ忠守かな』と、なぞなぞにせられにけるを、『唐医師(からいし)』と解きて笑ひ合はれければ、腹立ちて退り出で(まかりいで)にけり。

[現代語訳]
大覚寺で、法王の近くに仕える側近たちがなぞなぞを作って解いているところに、忠守という医師が通りかかった。さっそく侍従大納言の公明卿が『我が朝の者とも見えぬ忠守かな?』となぞなぞにした。『朝廷の者に見えない忠守とは、中国出身の医師である唐医師ですか』と言って笑い合うので、忠守は腹を立てて退出した。


[古文] 第104段:
荒れたる宿の、人目なきに、女の、憚る事ある比にて、つれづれと籠り居たるを、或人、とぶらひ給はんとて、夕月夜のおぼつかなきほどに、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことことしくとがむれば、下衆女の、出でて、『いづくよりぞ』と言ふに、やがて案内せさせて、入り給ひぬ。心ぼそげなる有様、いかで過ぐすらんと、いと心ぐるし。あやしき板敷に暫し立ち給へるを、もてしづめたるけはひの、若やかなるして、『こなた』と言ふ人あれば、たてあけ所狭げなる遣戸(やりど)よりぞ入り給ひぬる。
内のさまは、いたくすさまじからず。心にくく、火はあなたにほのかなれど、もののきらなど見えて、俄かにしもあらぬ匂ひいとなつかしう住みなしたり。『門よくさしてよ。雨もぞ降る、御車は門の下に、御供の人はそこそこに』と言えば、『今宵ぞ安き寝は寝べかめる』とうちささめくも、忍びたれど、程なければ、ほの聞ゆ。
さて、このほどの事ども細やかに聞え給ふに、夜深き鳥も鳴きぬ。来し方・行末かけてまめやかなる御物語に、この度は鳥も花やかなる声にうちしきれば、明けはなるるにやと聞き給へど、夜深く急ぐべき所のさまにもあらねば、少したゆみ給へるに、隙(ひま)白くなれば、忘れ難き事など言ひて立ち出で給ふに、梢も庭もめづらしく青み渡りたる卯月ばかりの曙、艶にをかしかりしを思し出でて、桂の木の大きなるが隠るるまで、今も見送り給ふとぞ。

[現代語訳]
人目のない田舎の荒れた家に、世にはばかる事があって隠れ住む女がいた。ある人が女のお見舞いに行こうと、月がうっすらと浮かぶ夕方に、ひっそりと女の屋敷を訪ねた。犬がおおげさに吠えるので、屋敷から下女が飛び出して来て『どちらから?』と聞いてくる。その下女に案内をしてもらい屋敷に入った。屋敷の物さびしい様子を見て『どうやって生活しているのだろうか?』と切ない気持ちになった。床が傷んだ廊下でしばらく待っていると、やがて落ち着いた若々しい声で『こちらへ』と呼ぶ人がいて、小さな引き戸を開けて部屋の中に入ると、部屋の中の様子は、そんなに荒れ果てているわけでもない。
奥ゆかしく、燈火がほのかにあたりを照らしており、物も美しく輝いて見える。いま焚いたばかりではない香の薫りがふんわりと漂っている。『門を良く閉じよ。雨が降る。牛車は門の下に。供の人はそこそこへ』と女が指示を出しており、『御主人様も、今夜は安眠できそうですね』と忍びやかに下女らがささやく声が、ほのかに聞こえてくる。
さて、細々とした最近の話などをしていると、夜遅くまで寝ているはずの一番鶏が鳴いた。やがて、過去の出来事やこれからの行く末について女が話しているうちに、鶏たちが騒ぎ始めたので、『夜明けが近いのですね?』と聞いた。まだ暗いうちに人目を忍んで急いで帰らなくてはいけない場所でもないので、もうしばらく居ようと別れを惜しんでいる間に、扉の隙間から光が差し込んできた。忘れずに女に伝えたかった事などを話して部屋を出ると、木々の梢も庭も青く染まっていた、四月の明け方である。そのある人は、優雅で風情があったその日のことを思い出して、その辺をお通りになる時には、女の家にある桂の大きな木が見えなくなるまで今でも見送るのだという。


[古文] 第105段:
北の屋陰に消え残りたる雪の、いたう凍りたるに、さし寄せたる車の轅(ながえ)も、霜いたくきらめきて、有明の月、さやかなれども、隈なくはあらぬに、人離れなる御堂の廊に、なみなみにはあらずと見ゆる男、女となげしに尻かけて、物語するさまこそ、何事にかあらん、尽きすまじけれ。
かぶし・かたちなどいとよしと見えて、えもいはぬ匂ひのさと薫りたるこそ、をかしけれ。けはひなど、はつれつれ聞こえたるも、ゆかし。

[現代語訳]
家の北側の陰に消えずに残っている雪が、ひどく凍り付いているが、近く寄せている牛車の轅(牛をつなぐための棒)にも、霜が降りて煌めいている。明け方の月が、まだ明るくかかっているが、その月もやがて日光で微かに消えていくだろう。人里離れた御堂の廊下に、並みの人物ではないように見える立派な男と女が並んで長押(木材)に腰掛けて、何かを話している。二人は何を話しているのだろうか、物語が尽きる事はない。
女は顔・かたちが美しく、風にふと香る女の着物の香の薫りも、何ともいえない心地よさである。途切れ途切れに聞こえてくる声も趣きがある。


[古文] 第106段:
高野証空上人(こうやの・しょうくうしょうにん)、京へ上りけるに、細道にて、馬に乗りたる女の、行きあひたりけるが、口曵きける男、あしく曵きて、聖の馬を堀へ落してげり。
聖、いと腹悪しくとがめて、『こは希有の狼藉かな。四部の弟子はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞は劣り、優婆塞より優婆夷は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀へ蹴入れさする、未曾有の悪行なり』と言はれければ、口曵きの男、『いかに仰せらるるやらん、えこそ聞き知らね』と言ふに、上人、なほいきまきて、『何と言ふぞ、非修非学の男』とあららかに言ひて、極まりなき放言しつと思ひける気色にて、馬ひき返して逃げられにけり。
尊かりけるいさかひなるべし。

[現代語訳]
高野山の証空上人、京へ上る途中の細道で、女を乗せた馬と行き違ったが、女の馬の口取りの男の引き方が悪くて、上人の乗っていた馬を堀へ落としてしまった。
馬を落とされた上人は、激しく怒って口取りの男をとがめた。『これはあってはならない無礼な狼藉だぞ。四部の弟子というのは、比丘(出家した男性信者)よりは比丘尼(出家した女性信者)は劣り、比丘尼より優婆塞(在家の男性信者)は劣り、優婆塞より優婆夷(在家の女性信者)は劣る。そのように低い身分の優婆夷であるのに、高い身分の比丘の馬を堀へ蹴入れさせるとはいまだかつてない悪しき行いである』と。
(仏教の信仰について詳しくない)口取りの男は『なにを仰られているのか、良くわかりませんが』と答えたが、上人は更に怒って捲し立てた。『何を言うか、仏道を修める気もなく、学問もしていない無教養な男めが!』と。ここまで荒々しく罵った後に、ふと上人はこの上ない粗暴な暴言を言ってしまった(高僧という自分の立場も忘れて心無いことを言ってしまった)という気まずい顔をした。そしてそのまま、馬に乗ると逃げてしまった。
尊い言い争いであった。


[古文] 第107段:
『女の物言ひかけたる返事(かえりごと)、とりあへず、よきほどにする男はありがたきものぞ』とて、亀山院の御時、しれたる女房ども、若き男達の参らるる毎に、「郭公(ほととぎす)や聞き給へる』と問ひて心見られけるに、某の大納言とかやは、『数ならぬ身は、え聞き候はず』と答へられけり。堀川内大臣殿は、『岩倉にて聞きて候ひしやらん』と仰せられたりけるを、『これは難なし。数ならぬ身、むつかし』など定め合はれけり。
すべて、男をば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ。『浄土寺前関白殿は、幼くて、安喜門院のよく教へ参らせさせ給ひける故に、御詞などのよきぞ』と、人の仰せられけるとかや。山階(やましなの)左大臣殿は、『あやしの下女の見奉るも、いと恥づかしく、心づかひせらるる』とこそ仰せられけれ。女のなき世なりせば、衣文も冠も、いかにもあれ、ひきつくろふ人も侍らじ。
かく人に恥ぢらるる女、如何ばかりいみじきものぞと思ふに、女の性は皆ひがめり。人我の相深く、貪欲甚だしく、物の理を知らず。ただ、迷ひの方に心も速く移り、詞も巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言はず。用意あるかと見れば、また、あさましき事まで問はず語りに言ひ出だす。深くたばかり飾れる事は、男の智恵にもまさりたるかと思えば、その事、跡より顕はるるを知らず。すなほならずして拙きものは、女なり。その心に随ひてよく思はれん事は、心憂かるべし。されば、何かは女の恥づかしからん。もし賢女あらば、それもものうとく、すさまじかりなん。ただ、迷ひを主としてかれに随ふ時、やさしくも、面白くも覚ゆべき事なり。

[現代語訳]
『女が言いかけた質問に、とりあえずでも良い返事をする男は稀なものである』とか言いあっている。亀山天皇の御代に、御所で愚かな女房どもが、若くて身分の高い男が参られる度に、『うぐいすの声を聞きましたか』などと聞くと、ある若い大納言やらが、『物の数にも入らない身(大した身分もない自分)には聞こえませんでした』と答えていた。
堀川内大臣殿が『岩倉にて聞きましたよ』とおっしゃっているのを聞いて、『それは素晴らしい。大した身分でないということは嫌なものだ』などと批評し合われた。すべての男は、女に笑われないように育て上げるべきかと。『浄土寺の前関白殿(九条師教)は、幼少期から安喜門院(藤原有子)がよくお教えになられていたので、言葉づかいがとても良い』と、人がおっしゃっているとか。
山階左大臣殿は、『下女に見られてるのすら、とても恥ずかしくて気遣いしてしまう』とおっしゃられた。女のいない男だけの世界になれば、着こなしも冠も、どうでも良いものだ。衣服の乱れをひき繕う人もなくなるだろう。男に恥じらいを感じさせる女というものは、どんなに凄いものなのかと思うが、女の本性はみんな、僻みやわがままで、貪欲であり、物の道理を知らない。ただ、煩悩の迷いの方にばかり心は速く移ってしまう。
言葉は巧みな癖に、男が質問した時には、大したことではないのに何も答えなかったりする。何か深い考えでもあるのかと見ていると、気が向けばどうでも良い事まで、尋ねもしないのに語り始める。深く相手をだまして飾り立てる事は、男の智恵にも勝るかと思うが、意外に後でばれてしまうことを知らない。素直でなくて拙いものは、女である。
その女の心に従って良く思われようとする事は、気持ちが重くなることでもある。ならば、どうして女に気を遣わなければならないのか。もし人格と教養に秀でた賢女がいれば、それはそれで親しみがもてないし、何の魅力も感じられない。ただ、迷いに駆られて女に従うのであれば、女を優美なものとして、興趣ある存在として思うことができるだろう(完璧な欠点のない才女だったり、冷静な男の自分だったりすれば、女の妖艶で不思議な魅力というのは無くなってしまうのだ)。


[古文] 第108段:
寸陰(すんいん)惜しむ人なし。これ、よく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人のために言はば、一銭軽しと言へども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人となす。されば、商人の、一銭を惜しむ心、切なり。刹那覚えずといへども、これを運びて止まざれば、命を終ふる期、忽ちに至る。
されば、道人(どうにん)は、遠く日月を惜しむべからず。ただ今の一念、空しく過ぐる事を惜しむべし。もし、人来りて、我が命、明日は必ず失はるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るる間、何事をか頼み、何事をか営まん。我等が生ける今日の日、何ぞ、その時節に異ならん。一日のうちに、飲食・便利・睡眠・言語・行歩(ぎょうぶ)、止む事を得ずして、多くの時を失ふ。その余りの暇幾ばくならぬうちに、無益の事をなし、無益の事を言ひ、無益の事を思惟して時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて(わたりて)、一生を送る、尤も愚かなり。
謝霊運(しゃれいうん)は、法華の筆受なりしかども、心、常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮(びゃくれん)の交りを許さざりき。暫くもこれなき時は、死人に同じ。光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。

[現代語訳]
僅かの時間(瞬間)を惜しむ者はいない。これは惜しむ必要がないと知っているのか、あるいは愚かで惜しむ必要があることを知らないのか。愚かで怠けている人のために言えば、一銭(わずかなカネ)は軽いが、これを積み重ねていけば、貧しき人を富む人にしてしまう。商人の一銭を惜しむ心は切実である。一瞬のことなど覚えていないと言っても、瞬間が時間を運び去る事をやめないならば、最期の死の瞬間はたちまちやってくるだろう。
道を求める仏教者(修行者)は、長い月日を通して勤めることを惜しむべきではない。ただ今の一念によって、空しく時間を過ごすことを惜しまなければならない。もし、人がやって来て、自分の命が明日には失われると宣告されたら、今日一日が終わるまで、何をあてにして、何をしようとするだろうか。我らが生きる『今日の日』とは何か、今日死んでしまうと宣告されたその貴重な時節に他ならないのだ。
一日のうちに、飲食・排便・睡眠・会話・移動など、やむを得ないやらなければいけない事柄で無駄にする時間は多いのだ。何とか無駄を逃れたとしても、余った時間に無駄な事をしたり、無駄な事を言ったり、無駄な事を考えるのであれば愚かだ。一日はたちまち終わってしまい、月は変わって、一生を終えることになるだろう。
中国六朝時代の詩人・謝霊運は、法華経の中国語訳を行ったが、常に風流を楽しむ気持ちを抱いていたので、東晋の僧侶・恵遠は、念仏修行で浄土に行こうとする白蓮社との交流を許さなかった。一瞬を惜しんで努力する心のない者は、死んでいるも同然である。
どうして光陰(時間)を惜しむのかというと、内面に深く思い悩むことがないようにして、外部には俗世の雑事がないようにするためである。そして、悪事をやめようとするものはやめて、善行を為そうとする者はなせということのためでもある。


[古文] 第109段:
高名の木登りといひし男、人を掟てて、高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るる時に、軒長(のきたけ)ばかりに成りて、『あやまちすな。心して降りよ』と言葉をかけ侍りしを、『かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ』と申し侍りしかば、『その事に候ふ。目くるめき、枝危きほどは、己れが恐れ侍れば、申さず。あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ』と言ふ。
あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も、難き所を蹴出して後、安く思へば必ず落つと侍るやらん。

[現代語訳]
高名な木登りの名人が、植木職人に指図して高い木に登らせ、枝を切らせていた。とても危ないように見える木の上では何も言わなかったが、職人が作業を終えて木から降りる時に、家の屋根ばかりの高さになると、『過って落ちるなよ、注意して降りよ』と言葉を掛けた。雇い主は、『それくらいの高さなら、飛び降りてでも降りられるのに、どうしてそのような事を言うのか』と聞いた。
木登りの名人は、『その事でございますか。目がまわる程に高い危ない枝の上では、自分で落ちるのを恐れますから注意しなくても良いのです。過って落ちるのは、いつも安心できる高さになってからなのです』と答えた。身分の低い下賎なものだが、聖人の戒めに適った考え方である。蹴鞠でも、難しいところを蹴りだした後に、安心していると必ずミスして落としてしまうものだ。


[古文] 第110段:
双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、『勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし』と言ふ。
道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。

[現代語訳]
双六の名人と言われている人に、勝つ為の手段を聞いてみると、『勝とうとして打つのはダメだ。負けないようにして打つのが良い。どの手が一番早く負けてしまうのかを心配して、その手を使わないようにし、少しでも遅く負けるような手を選ぶべきだ』と答えた。
物事の道理を弁えた教えだ。自分自身を治めて、国を維持していこうとする道も、また同じようなものである。


[古文] 第111段:
『囲碁・双六好みて明かし暮らす人は、四重・五逆にもまされる悪事とぞ思ふ』と、或ひじりの申しし事、耳に止まりて、いみじく覚え侍り。

[現代語訳]
『囲碁・双六を好んで夜を明かして遊び暮らす人は、四重・五逆にも勝る悪事を犯していると思う』と、ある聖(民間の僧侶)が申していたことが耳にとどまっており、よく覚えている。
四重・五逆というのは仏教上の罪。四重とは『殺人・姦淫・窃盗・詐欺』のこと、五逆とは『父殺し・母殺し・解脱者(悟った者)殺し・仏法を破ること・僧侶殺し』のことである。


[古文] 第112段:
明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、心閑かになすべからんわざをば、人言ひかけてんや。俄かの大事をも営み、切に歎く事もある人は、他の事を聞き入れず、人の愁へ・喜びをも問はず。問はずとて、などやと恨むる人もなし。されば、年もやうやう闌け(たけ)、病にもまつはれ、況んや世をも遁れたらん人、また、これに同じかるべし。
人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、塗(みち)遠し。吾が生既に蹉陀(さだ)たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも守らじ、礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。毀る(そしる)とも苦しまじ。誉むとも聞き入じれ。

[現代語訳]
明日にも遠い国へ旅立つ人に、心を静かにしていられないような事を頼んだり、言ったりすることがあるだろうか。突然起こった大きな問題に取り組んでいる人やひたすら苦しく嘆いている人は、他人の言葉など聞き入れないし、他人の憂いや喜びを気にすることもできない。他人の憂いや喜びを気に掛けないからといって、どうして気に掛けないんだと恨むような人もいないだろう。ならば、年齢を重ねた老人や病人、まして遁世者(世捨て人)は、明日、遠い国に旅立とうとしている者と同じように生きるべきである
人間の儀式で、どれかやめにくいようなものがあるだろうか。世間の慣習を黙って無視してばかりもいられないということでこれに従っていると、願い事が多くなり、身体の調子も悪くなり、心も落ち着かなくなる。一生は、雑事の小片に邪魔されて、空しく暮れてしまう。日は暮れて、道は遠い。わが人生も、既に斜陽を迎えている。世俗の諸縁を放棄すべき時なのだ。 信義を守ることもなく、礼儀にもこだわらない。この心が分からない人は、狂ったと言ってもいいし、馬鹿だとでも、人間の情愛がないとでも思えばいい。謗られても苦しまないし、誉められても聞き入れない。


[古文] 第113段:
四十にも余りぬる人の、色めきたる方、おのづから忍びてあらんは、いかがはせん、言に打ち出でて、男・女の事、人の上をも言ひ戯るるこそ、にげなく、見苦しけれ。
大方、聞きにくく、見苦しき事、老人の、若き人に交りて、興あらんと物言ひゐたる。数ならぬ身にて、世の覚えある人を隔てなきさまに言ひたる。貧しき所に、酒宴好み、客人に饗応せんときらめきたる。

[現代語訳]
四十歳を越えようという人が色事(男女関係)の方面に関心を持ったとしても、心の中に秘めているのであれば仕方ないであろうか。男女関係の事柄や他人の恋愛を戯れながら語っているようだと、年齢に相応しくなくて見苦しいものである。
大体、聞きにくくて見苦しいのは、老人が若い人に交じって、面白いだろうと思って得々と物事を語っている様である。大した身分でもないのに、世の中で知られている名声のある人を、自分と全く隔て(遠慮)がない関係にあるかのように語っている様子。貧しいのに酒宴を好んで、客人を手厚くもてなそうとして接待している様子。


[古文] 第114段:
今出川の大殿、嵯峨へおはしけるに、有栖川のわたりに、水の流れたる所にて、賽王丸、御牛を追ひたりければ、あがきの水、前板までささとかかりけるを、為則、御車のしりに候ひけるが、『希有の童かな。かかる所にて御牛をば追ふものか』と言ひたりければ、大殿、御気色悪しくなりて、『おのれ、車やらん事、賽王丸にまさりてえ知らじ。希有の男なり』とて、御車に頭を打ち当てられにけり。この高名の賽王丸は、太秦殿の男、料の御牛飼いぞかし。
この太秦殿に侍りける女房の名ども、一人はひざさち、一人はことづち、一人ははふばら、一人はおとうしと付けられけり。

[現代語訳]
今出川の大殿(太政大臣・西園寺公相)が、牛車で嵯峨へお出かけになった時、有栖川の辺りの、水が流れているぬかるんだ道で、牛車の賽王丸がは車が泥濘(ぬかるみ)にはまり込まないように激しく牛を追い立てた。牛はあがいて水を蹴散らし、その水が大殿の御前までササッとかかったのだが、牛車の後ろに乗っていた従者の為則がそれを見て、『なんて馬鹿な奴だ、こんな水たまりの場所で牛を激しく追うなんて』ととがめた。
その様子を見ていた大殿は、機嫌が悪くなって、『おのれ!車を動かすことにおいて、お前は牛飼いに勝っているとでも言うのか。馬鹿はお前のほうだ』と為則の頭を車に打ち付けた。この高名な牛飼いの男は、太秦殿の賽王丸といい、賽王丸は大殿に歴代仕えてきた牛飼いであった。
(代々牛飼いの仕事で大殿に仕えてきた)太秦殿に仕えている女房の名前は、牛にちなんだ名前であり一人はひざさち、一人はことづち、一人ははふばら、一人はおとうしと名づけられていた。


[古文] 第115段:
宿河原(しゅくがわら)といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、『もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします』と尋ねければ、その中より、『いろをし、ここに候ふ。かくのたまふは、誰そ』と答ふれば、『しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり』と言ふ。いろをし、『ゆゆしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。ここにて対面し奉るば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわずらひにならば、仏事の妨げに侍るべし』と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり。
ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍(とうじょう)を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしままに書き付け侍るなり。

[現代語訳]
宿河原という所に、ぼろぼろ(山野・河川敷を放浪した乞食・浮浪民)が多く集まって、九品の念仏を唱えていたが、そこに他所から来たぼろぼろが来て尋ねた。『この中に、いろをし房と言うぼろは、いらっしゃいませんか?』と。するとぼろぼろの中から、『いろをしならばここにいるぞ。そう言っているあなたのほうは誰ですか?』と答えが返ってきた。『私はしら梵字と申す者です。東国で私の師匠が、いろをしと言うぼろに殺されたと聞いて、その人に会ってお恨みを申し上げたいと思い参上いたした次第です』とそのぼろが答えた。 いろをしは、『よくぞここまで参られたな。そのような事が確かにあった。だが、ここで対面致すと道場を血で汚す事になるので、前の河原へ一緒に参ろう。ぼろの皆さん、どちらにも味方はしてくださるな。大勢の揉め事になってしまえば、仏道修行の妨げになってしまいます』 と言った。二人は河原に出ると、心ゆくまで刀で切り合って共に死んでしまった。
ぼろぼろという者は、昔はいなかったと言われている。ぼろんじとか梵字、漢字などと名のりだした者たちが、その始めとされている。世を捨てたかのように見えて我執が深く、仏道を求めるように見えて闘争を好むところがある。放逸な気ままさを持ち、恥知らずな有様だが、自分の死を恐れることも無く、少しも生きることにこだわらない生き方に潔さを感じて、人の語るままにぼろぼろについて書きつけ申したのである。


[古文] 第116段:
寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、ただ、ありのままに、やすく付けけるなり。この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。
何事も、珍らしき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。

[現代語訳]
寺の名前やその他の物でも、名を付ける事を昔の人は少しも欲張らずに(こだわらずに)、ただ、ありのままに気安くつけたものだ。最近は、深く考え込んで、自分の才覚を表そうとでもするかのように聞こえる名が多くて、とても煩わしい。人の名前も、見慣れぬ文字を使おうとするのは、(読みにくいだけで)無益なことである。
何事でも、珍しい事を求めて、奇抜なものを好むのは、浅はかな才知を持つ人が必ずやる事だと言われている。


[古文] 第117段:
友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。
よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには医師。三つには、知恵ある友。

[現代語訳]
友とするのに悪い者には、七つの人がある。一つ目は、身分が高くて高貴過ぎる人。二つ目は、若い人。三つ目は、病気知らずで身体が強い人。四つ目は、酒を好む人。五つ目は、気が荒くて勇敢な兵士。六つ目は、嘘つきな人。七つ目は、欲深い人である。
良き友には、三つの人がある。一つ目は、物をくれる友。二つ目は、医師の友人。三つ目は、知恵のある友である。


[古文] 第118段:
鯉の羹食ひたる日は、鬢そそけずとなん。膠にも作るものなれば、粘りたるものにこそ。
鯉ばかりこそ、御前にても切らるるものなれば、やんごとなき魚なり。鳥には雉、さうなきものなり。雉・松茸などは、御湯殿の上に懸りたるも苦しからず。その外は、心うき事なり。中宮の御方の御湯殿の上の黒み棚に雁の見えつるを、北山入道殿の御覧じて、帰らせ給ひて、やがて、御文にて、「かやうなもの、さながら、その姿にて御棚にゐて候ひし事、見慣はず、さまあしき事なり。はかばかしき人のさふらはぬ故にこそ」など申されたりけり。

[現代語訳]
鯉料理(鯉の吸い物)を食った日は、髪がばらけにくいと言う。ニカワの材料にもなるので、粘りがつくのだろうか。
鯉というのは、天皇の御前でもさばかれる尊い魚でもある。鳥なら雉で、他に並ぶべき物はない。雉や松茸などは、御湯殿へと続く棚の上に置かれていても見苦しくはない。その他の食材は、(天皇の目に触れさせるのは)悩ましいものばかりである。
中宮の御所で、御湯殿の黒御棚に雁が見えていた。それを北山入道様が御覧になられて、自邸に帰った後にやがてお手紙で、『雁のような鳥をそのままの姿で棚においていらっしゃるのは、見慣れないことで、体裁が悪い事でございます。しっかりとした見識のある人がお側に仕えていないからでしょうか』などと申されていたという。


[古文] 第119段:
鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。
かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ候れ。

[現代語訳]
鎌倉の海で獲れるカツオという魚は、鎌倉辺りでは並ぶ物のない良いものだとして、もてはやされている魚だ。そのカツオは、鎌倉の老人が申し上げるには、『この魚は、わしらが若かった時分には、身分のある人が食べる物じゃありませんでした。カツオの頭など、手下どもでも食べずに切って捨てていたものです』という。
こんなものでも、世も末ならば、身分のある人の食卓にまで入り込んでくるようでございます。


[古文] 第120段:
唐の物は、薬の外は、みななくとも事欠くまじ。書どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。唐土船(もろこしぶね)の、たやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所狭く渡しもて来る、いと愚かなり。
『遠き物を宝とせず』とも、また、『得難き貨を貴まず(とうとまず)』とも、文にも侍るとかや。

[現代語訳]
中国からの舶来品(輸入品)は、薬の他はなくても困らない物ばかりである。書物なども、もう充分にこの国に広まっており、もう書き写すだけで良くなっている。中国の貿易船が、たやすくはない遠い道のりを、無用の物ばかり所狭しと積み込んでやって来るのは、非常に愚かしいことである。
『遠い国の物を宝にするな』とも、『手に入りにくい宝物を貴ぶな』とも、中国の賢人の書物には書いてあるとか。


[古文] 第121段:
養ひ飼ふものには、馬・牛。繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかがはせん。犬は、守り防くつとめ人にもまさりたれば、必ずあるべし。されど、家毎にあるものなれば、殊更に求め飼はずともありなん。
その外の鳥・獣、すべて用なきものなり。走る獣は、檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は、翅を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁、止む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に楽しぶを見て、逍遙の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。
凡そ、『珍しき禽、あやしき獣、国に育はず』とこそ、文にも侍るなれ。

[現代語訳]
人が養って飼う動物には、馬と牛がいる。つなぎ苦しめるのは心苦しいけれども、牛と馬がいなくては人間の生活が成り立たないので、どうしようもない。犬も防犯の役目に関しては人よりも優れており、必ず飼っておきたい動物だ。しかし、各家ごとに飼っているのであれば、わざわざ自分が求めて飼うことも無いだろう。
その他の鳥や獣は、全て人間にとっては無用なものである。走る獣は、檻に閉じ込められて、鎖につながれ、飛ぶ鳥は、羽を切られて、籠に入れられているので、空を恋しく思って、野山を思う心は留まることがない。その鳥獣の憂いを我が身のことのように偲び難く感じるような心ある人が、動物の飼育を楽しめるだろうか。生き物を苦しめて、目を楽しませるのならば、人民を苦しめた古代中国の暴君である桀・紂の心と同じようなものである。
中国の王徽子は鳥を愛したが、捕らえて苦しめたのではなく、林を飛んでいる鳥の姿を見て楽しみ、散策の友としたのである。『珍しい鳥や変わった獣を、国が捕獲して育てるな』と中国の古典『書経』にも書いてある。


[古文] 第122段:
人の才能は、文明らかにして、聖の教を知れるを第一とす。次には、手書く事、むねとする事はなくとも、これを習ふべし。学問に便りあらんためなり。次に、医術を習ふべし。身を養ひ、人を助け、忠孝の務も、医にあらずはあるべからず。次に、弓射、馬に乗る事、六芸に出だせり。必ずこれをうかがふべし。文・武・医の道、まことに、欠けてはあるべからず。これを学ばんをば、いたづらなる人といふべからず。次に、食は、人の天なり。よく味はひを調へ知れる人、大きなる徳とすべし。次に細工、万に要多し。
この外の事ども、多能は君子の恥づる処なり。詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世には、これをもちて世を治むる事、漸くおろかになるに似たり。金(こがね)はすぐれたれども、鉄(くろがね)の益多きに及かざるが如し。

[現代語訳]
人の才能というものは、古典・文書を読み解くことができ、聖人の教えを知ることができるというのを第一にする。次は書道で、専門としていないとしても、書道には習熟しておくべきだ。次に医術を習ったほうが良い。自分の身を養生して、他人を助け、忠孝の勤めを果たす時には、医術を知らなければ成し遂げることができない。次に弓矢と乗馬で、中国古代の士官が習得すべき六芸にも挙げられている。必ずこれを身に付けておきたい。
文武と医術の道、これらは欠けてはならない能力である。これを学ぼうとする人を、無益なことをする人だと思ってはならない。次に食で、食は天の如く重要なものだ。美味しい料理を作る人は、大きな徳を持っていると言わなければならない。次に細工で、いろいろと必要が多いものだ。 これ以外の才能もあるが、多才は君子の恥とする事でもある。詩歌が巧みで、楽器を奏でるのは幽玄の道であるが、君臣がこれらを重視しても、今の世の中は幽玄さや優雅さで国を治める事などは出来ない。黄金(風雅)は美しいけれども、鉄(実務的技能)の利益の多さに及ばないのと同じことである。


[古文] 第123段:
無益のことをなして時を移すを、愚かなる人とも、僻事する人とも言ふべし。国のため、君のために、止むことを得ずして為すべき事多し。その余りの暇、幾ばくならず。思ふべし、人の身に止むことを得ずして営む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。
人間の大事、この三つには過ぎず。餓ゑず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過すを楽しびとす。ただし、人皆病あり。病に冒されぬれば、その愁忍び難し。医療を忘るべからず。薬を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、欠けざるを富めりとす。この四つの外を求め営むを奢りとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足らずとせん。

[現代語訳]
無益なことをして時を過ごす人は、愚かな人とも、不正なことをする人とも言うべきである。国の為、主君の為と、やむを得ずにしなければならないことは多い。それ以外の義務にとらわれない暇な時間というのは、ほとんどない。考えてみるといい、人間にとって絶対に必要とされるもの、第一に食べる物、第二に着る物、第三に住む場所である。
人間にとって大事なのは、この3つに過ぎない。餓えなくて、寒くなくて、雨風がしのげる家があるならば、後は閑かに楽しく過ごせば良いのだ。ただし、人には病気がある。病気に罹ってしまうと、その辛さは堪え難いものだ。だから医療を忘れてはならない。衣食住に医療と薬を加えた四つの事を求めても得られない者を貧者とする。この四つが欠けてない者を、金持ちとする。それ以上のことを望むのは、奢りである。四つの事でつつましく満足するなら、誰が足りないものなどあるだろうか。


[古文] 第124段:
是法法師(ぜほうほうし)は、浄土宗に恥ぢずといへども、学匠を立てず、ただ、明暮念仏して、安らかに世を過す有様、いとあらまほし。

[現代語訳]
是法法師は、浄土宗に恥じない学識を持つ僧侶だったが、学者であることを表明せず、ただ毎日念仏を唱えて安らかに世を過ごしていた。その有様は、理想的な生き方である。


[古文] 第125段:
人におくれて、四十九日の仏事に、或聖を請じ侍りしに、説法いみじくして、皆人涙を流しけり。導師帰りて後、聴聞の人ども、『いつよりも、殊に今日は尊く覚え侍りつる』と感じ合へりし返事に、或者の云はく、『何とも候へ、あれほど唐の狗に似候ひなん上は』と言ひたりしに、あはれもさめて、をかしかりけり。さる、導師の誉めやうやはあるべき。
また、『人に酒勧むるとて、己れ先づたべて、人に強ひ奉らんとするは、剣にて人を斬らんとするに似たる事なり。二方に刃つきたるものなれば、もたぐる時、先づ我が頭を切る故に、人をばえ斬らぬなり。己れ先づ酔ひて臥しなば、人はよも召さじ』と申しき。剣にて斬り試みたりけるにや。いとをかしかりき。

[現代語訳]
人に先立たれた家で四十九日の法事を行い、その導師としてある聖(民間の僧侶)をお招きしたが、導師は法事に集まった人たちに説法をして、それを聞いた人は感動して涙を流しあった。導師が帰った後も、聴聞の人たちは『今日の説法は、いつも以上に尊いものでございましたな』と感動しながら話し合っていた。しかし、ある男が『そうでしょうな、あれだけ中国の唐犬に似ているというのは』などと言い出したので、それまでの感動も醒めてしまって、思わず笑い出してしまった。そんな導師の誉めようというものがあるのだろうか。
また、この男は『人に酒を勧める時に、まず自分が飲んでから人に無理やり飲ませようとするのは、剣で人を斬ろうとするのに似ています。諸刃の剣は双方に刃がついているので、人を斬ろうとして持ち上げた時には自分の顔を斬ってしまうので、人は斬れません。これと同じで、先に自分のほうが酔いつぶれてしまえば、人に酒を勧めることなんてできないのです』と申し上げた。この男は本当に剣を持って人を斬ろうとしたことがあるのだろうか。何ともおかしな男であったな。


[古文] 第126段:
『ばくちの、負極まりて、残りなく打ち入れんとせんにあひては、打つべからず。立ち返り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よきばくちといふなり 』と、或者申しき。

[現代語訳]
『ばくちの負けが込んでしまって、全てを賭けてばくちを打とうとする者を相手にすべきではない。立ち返って考えると、次はその相手が続けて勝つ時がやってくるということを知っていたほうがいい。そういう引き時を知っているのが、優れた博徒というものである』と、ある人が言っていた。

[古文] 第127段:
改めて益なき事は、改めぬをよしとするなり。

[現代語訳]
改めても益がない事は、改めないほうが良い。


[古文] 第128段:
雅房大納言(まさふさのだいなごん)は、才賢く、よき人にて、大将にもなさばやと思しける比(ころ)、院の近習(きんじゅう)なる人、『ただ今、あさましき事を見侍りつ』と申されければ、『何事ぞ』と問はせ給ひけるに、『雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を斬り侍りつるを、中墻(なかがき)の穴より見侍りつ』と申されけるに、うとましく、憎く思しめして、日来の御気色も違ひ、昇進もし給はざりけり。さばかりの人、鷹を持たれたりけるは思はずなれど、犬の足は跡なき事なり。虚言は不便なれども、かかる事を聞かせ給ひて、憎ませ給ひける君の御心は、いと尊き事なり。
大方、生ける物を殺し、傷め、闘はしめて、遊び楽しまん人は、畜生残害の類なり。万の鳥獣、小さき虫までも、心をとめて有様を見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、嫉み、怒り、欲多く、身を愛し、命を惜しめること、偏へに愚痴なる故に、人よりもまさりて甚だし。彼に苦しみを与へ、命を奪はん事、いかでかいたましからざらん。
すべて、一切の有情を見て、慈悲の心なからんは、人倫にあらず。

[現代語訳]
雅房大納言(土御門雅房)は、学識のある優れた人物で、次は大将にでもしようかと雅房を重用する亀山法王は思っていた。そんな頃、近習の人が法王に、『ただ今、あさましい事を見ました』と申し上げ、法王が『何事か』とお聞きになられた。『雅房様が、鷹の餌として食わせようとして、生きた犬の足を斬り落としたのを、塀の穴より見てしまいました』と近習が申し上げると、法皇は雅房大納言のことを疎ましく不快に感じられ、気分も悪くなってしまった。雅房の昇進の話もいつの間にか無くなってしまった。雅房様が鷹をお飼いになられていたのは知らなかったが、犬の足の話は根拠のないことだった。虚言によって昇進できなかったことは雅房様にとって不憫で可哀想なことだが、こういった虚言を聞いて胸を痛ませられた法皇の御心はとても尊いものだ。
大体、生き物を殺して、傷つけ、戦わせて、遊び楽しむような人は、畜生と同じ類の低劣な存在である。全ての鳥獣はじめ、小さな虫まで、心を傾けてその様子を観てみれば、子を思い、親をなつかしみ、夫婦が連れ添い、妬み、怒り、欲多く、我が身を愛し、命を惜しむことについては、人よりもその愚かさで明らかに勝っている。そんな彼らに苦しみを与えて命を奪うことは、何と痛ましいことだろうか。
すべての心ある生命を見て、慈悲の心が起きないような人は、人としての道を踏み外している。


[古文] 第129段:
顔回は、志、人に労を施さじとなり。すべて、人を苦しめ、物を虐ぐる事、賤しき民の志をも奪ふべからず。また、いときなき子を賺し(すかし)、威し(おどし)、言ひ恥かしめて、興ずる事あり。おとなしき人は、まことならねば、事にもあらず思へど、幼き心には、身に沁みて、恐ろしく、恥かしく、あさましき思ひ、まことに切なるべし。これを悩まして興ずる事、慈悲の心にあらず。おとなしき人の、喜び、怒り、哀しび、楽しぶも、皆虚妄なれども、誰か実有の相に著(じゃく)せざる。
身をやぶるよりも、心を傷ましむるは、人を害ふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より来る病は少し。薬を飲みて汗を求むるには、験(しるし)なきことあれども、一旦恥ぢ、怖るることあれば、必ず汗を流すは、心のしわざなりといふことを知るべし。凌雲の額を書きて白頭の人と成りし例、なきにあらず。

[現代語訳]
(孔子が最も期待して愛した弟子とされる)顔回は、人に苦労をかけないことを志した。全ての人や動物を苦しめたり、虐げたりしてはいけないし、身分の低い卑賤の者でもその意志を侵害してはならない。また、まだ幼い子供をおどしたりすかしたりして、言い恥ずかしめて面白がる人もいる。
大人なら相手が本気ではないことが分かっているので何でもないという風に思えるのだが、幼い心には身に沁みるし、恐ろしくて恥ずかしくて情けない思いをさせられるのは切実な問題である。幼い子供を悩ませて楽しむような人間には、慈悲の心が無い。大人の喜び、怒り、悲しみ、楽しみなどの感情も(仏教的観点からは)みんな虚妄に過ぎないのだが、大人でさえも現実にある本当の感情だと信じ込んでしまうものである(子どもであれば尚更、それらの感情を実在のものとして受け取ってしまうだろう)。
身体を傷つけられるよりも、心を痛めつけられることのほうが、人間の傷の深さは深くなってしまうこともあるのだ。病気になる時も、多くは心の悩みが原因であり、外部からやってくる病気は少ない。汗をかいて熱を下げるという薬を飲んでも、汗を出す効果が全くでないことがあるが、恥じたり恐れている時に必ず汗をかくのは心の仕業だということを知っておくべきだろう。とても高い場所で『凌雲の額』を書かされて、そこから下りてきた時には白髪になってしまったという例も無いわけではない。


[古文] 第130段:
物に争はず、己れを枉げて(まげて)人に従ひ、我が身を後にして、人を先にするには及かず(しかず)。
万の遊びにも、勝負を好む人は、勝ちて興あらんためなり。己れが芸のまさりたる事を喜ぶ。されば、負けて興なく覚ゆべき事、また知られたり。我負けて人を喜ばしめんと思はば、更に遊びの興なかるべし。人に本意なく思はせて我が心を慰めん事、徳に背けり。睦しき(むつましき)中に戯るるも、人を計り欺きて、己れが智のまさりたる事を興とす。これまた、礼にあらず。されば、始め興宴(きょうえん)より起りて、長き恨みを結ぶ類多し。これみな、争ひを好む失なり。
人にまさらん事を思はば、ただ学問して、その智を人に増さんと思ふべし。道を学ぶとならば、善に伐らず(ほこらず)、輩(ともがら)に争ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、ただ、学問の力なり。

[現代語訳]
人というものは他人と争わず、自分を曲げてまでも人に従い、我が身を後にして人に先を譲るというのが(処世の業としては)良い。
いろいろな遊びの中でも勝負事を好む人は、相手に勝って満足を感じようとするものだ。自分の技芸が優れていることを喜ぶものだ。であれば、負けてしまえば面白くないと感じることもまたよく知られたことである。自分がわざと負けて相手を喜ばせようなんて思えば、全く遊びの面白みが無くなってしまう。しかし、相手に残念だ悔しいと思わせて自分の心を慰めようとすることは、徳性には背いているんだよ。
親しい相手と勝負事で戯れている時に、あれこれ策略を巡らして欺いたりすることで、自分の知恵が勝っていることを楽しもうとすることもある。これもまた、礼には背いている。だから、宴会から始まった勝負事がもとで、長年の恨みに発展してしまうことも多い。これは、争いごとを好むが故の過失だけどね。
他人よりも優れたいというのであれば、学問でもして知識・知恵を増やしたほうがいいと思うよ。学問の道を学んでいけば、善行を誇るようなこともなくなり、友達と争ってはいけないということを知ることが出来るだろう。また、名誉ある官職を辞したり目先の利益を捨てられるというのも、学問の力だ。


[古文] 第131段:
貧しき者は、財をもて礼とし、老いたる者は、力をもて礼とす。己が分を知りて、及ばざる時は速かに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強いて励むは、己れが誤りなり。
貧しくて分を知らざれば盗み、力衰へて分を知らざれば病を受く。

[現代語訳]
貧しい者は、財力を礼節だと勘違いをし、老いた者は、体力を礼節だと勘違いしやすい。自分の能力の分を知って、できない時には速やかにあきらめるのが知恵である。そういった諦めを許さないというのは、人が陥りやすい誤りである。自分の分をわきまえずに無理やりに頑張るのは、自分の誤りというべきことである。
貧しくて分を知らなければ盗みを働き、力が衰えているのに分を知らなければ病気になってしまう。


[古文] 第132段:
鳥羽の作道(つくりみち)は、鳥羽殿建てられて後の号にはあらず。昔よりの名なり。元良親王(もとよししんのう)、元日の奏賀(そうが)の声、甚だ殊勝にして、大極殿より鳥羽の作道まで聞えけるよし、李部王(りほうおう)の記に侍るとかや。

[現代語訳]
鳥羽の作道という新しい道路は、鳥羽の御殿が建てられた後の名ではない。昔からの名である。元良親王が元日に、臣下に掛けられる祝賀の声がたいへん立派で素晴らしく、大極殿から鳥羽の作道のところまで聞こえたという。李部王の日記にそのことが書いてあるとかいう。


[古文] 第133段:
夜の御殿(おとど)は、東御枕(ひがしみまくら)なり。大方、東を枕として陽気を受くべき故に、孔子も東首し給へり。寝殿のしつらひ、或は南枕、常の事なり。白河院は、北首に御寝なりけり。『北は忌む事なり。また、伊勢は南なり。太神宮の御方を御跡にせさせ給ふ事いかが』と、人申しけり。ただし、太神宮(だいじんぐう)の遥拝(ようはい)は、巽(たつみ)に向はせ給ふ。南にはあらず。

[現代語訳]
上皇がお休みになる夜の寝殿では、枕を東向きにするのが決まりである。大体、太陽が昇る方角の東を枕とすれば、好ましい陽気を受けると言われており、中国の孔子も東を向いて寝たという。寝殿での布団と枕の配置も、東枕あるいは南枕というのが普通である。
白河上皇は、北枕で寝ておられた。『北は忌むべき方角です。また、皇室をお祭りする伊勢神宮は南の方角にあります。大神宮の方に足を向けて寝るのはいかがなものでしょうか?』と、ある人が申し上げた。しかし、天皇が京都の御所から大神宮を拝む時には、東南を向いて拝まれる。南の方角ではないのだ。


[古文] 第134段:
高倉院の法華堂の三昧僧、なにがしの律師とかやいふもの、或時、鏡を取りて、顔をつくづくと見て、我がかたちの見にくく、あさましき事余りに心うく覚えて、鏡さへうとましき心地しければ、その後、長く、鏡を恐れて、手にだに取らず、更に、人に交はる事なし。御堂のつとめばかりにあひて、籠り居たりと聞き侍りしこそ、ありがたく覚えしか。
賢げなる人も、人の上をのみはかりて、己れをば知らざるなり。我を知らずして、外を知るといふ理あるべからず。されば、己れを知るを、物知れる人といふべし。かたち醜けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病の冒すをも知らず、死の近き事をも知らず、行ふ道の至らざるをも知らず。身の上の非を知らねば、まして、外の譏りを知らず。但し、かたちは鏡に見ゆ、年は数へて知る。我が身の事知らぬにはあらねど、すべきかたのなければ、知らぬに似たりとぞ言はまし。かたちを改め、齢を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、何ぞ、やがて退かざる。老いぬと知らば、何ぞ、閑かに居て、身を安くせざる。行ひおろかなりと知らば、何ぞ、茲(これ)を思ふこと茲にあらざる。
すべて、人に愛楽せられずして衆に交はるは恥なり。かたち見にくく、心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交はり、不堪(ふかん)の芸を持ちて堪能(かんのう)の座に列り(つらなり)、雪の頭を頂きて盛りなる人に並び、況んや、及ばざる事を望み、叶はぬ事を憂へ、来らざることを待ち、人に恐れ、人に媚ぶるは、人の与ふる恥にあらず、貪る心に引かれて、自ら身を恥かしむるなり。貪る事の止まざるは、命の終ふる大事、今ここに来れりと、確かに知らざればなり。

[現代語訳]
高倉上皇の法華堂で仏道修行をしている僧侶で、なにがしの律僧と呼ばれる者がいた。ある日、その僧侶が鏡を手に取って自分の顔をつくづくと眺めてみると、自分の顔が醜くて見苦しいことに気づいて悩むようになった。鏡さえ疎ましく感じるようになって、その後は鏡を恐れて手にすら取らなくなった。更に、人と交わることもしないようになった。御堂の法華三昧の仕事にだけ精を出して、自分の部屋に引きこもっていると聞いたのだが、こういったことは有り得ないことではないと思った。
頭の良い人でも、、他人のことはよく見えても、意外に自分自身のことは知らない。自分のことを知らないのに、他人のことが分かるという道理はない。それでは、自分のことを知っている人を、物事を良く知っている人と言うべきだろうか。自分の容姿が醜くてもそれを知らず、心が愚かであることも知らず、自分の技芸の未熟さも知らず、自分の身分の低さも知らず、年老いているということも知らない、病気に罹っていることも知らず、死が迫っていることも知らず、仏道修行が不十分であることも知らない。
自分についての非難も知らないので、他人に対する誹謗ももちろん知らない。しかし、顔は鏡で見ることができるし、年齢は数えれば分かるものだ。自分のことをまったく知らないというわけではないが、欠点に対する対処法を知らなければ、知らないということと同じようなものだ。容姿を整えて年齢を若く見せろというわけではない。自分の未熟さや欠点を知ったならば、どうしてすぐに退かないのだ。老いたことを知ったならば、どうして静かに隠居して気持ちを安らかにしないのか。行いが愚かだと分かっているなら、どうしてこれだと思う正しいことをしないのか。
まったく、人に愛されていないというのに、人と交わろうとするのは恥である。容姿が醜いということで気後れしながら仕事をして、無知であるのに偉大な人たちの中に交じり、未熟なのにしたり顔をして、白髪頭で年老いているのに若い人の中に交じり、できもしないことを望んで、叶わないことが分かっている事に悩み、来るはずもない人を待ち、人を恐れて人に媚びている。これは、他人が与える恥ではなくて、自分の貪欲さに引き寄せられて、自分で自分を辱めているのである。貪欲の心が収まらないのは、命が終わる瞬間が、今ここに迫っているという実感がないからである。


[古文] 第135段:
資季大納言入道(すけすえのだいなごんにゅうどう)とかや聞えける人、具氏宰相中将(ともうじのさいしょうちゅうじょう)にあひて、『わぬしの問はれんほどのこと、何事なりとも答へ申さざらんや』と言はれければ、具氏、『いかが侍らん』と申されけるを、『さらば、あらがひ給へ』と言はれて、『はかばかしき事は、片端も学び知り侍らねば、尋ね申すまでもなし。何となきそぞろごとの中に、おぼつかなき事をこそ問ひ奉らめ』と申されけり。『まして、ここもとの浅き事は、何事なりとも明らめ申さん』と言はれければ、近習の人々、女房なども、『興あるあらがひなり。同じくは、御前にて争はるべし。負けたらん人は、供御(ぐご)をまうけらるべし』と定めて、御前にて召し合はせられたりけるに、具氏、『幼くより聞き習ひ侍れど、その心知らぬこと侍り。「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう」と申す事は、如何なる心にか侍らん。承らん』と申されけるに、大納言入道、はたと詰りて、『これはそぞろごとなれば、言ふにも足らず』と言はれけるを、『本より深き道は知り侍らず。そぞろごとを尋ね奉らんと定め申しつ』と申されければ、大納言入道、負になりて、所課(しょか)いかめしくせられたりけるとぞ。

[現代語訳]
資季大納言入道(藤原資季)と言われた年配の人が。具氏宰相中将に会って、『おぬしの問う程度の質問であれば、どんなことでもお答え申し上げますぞ』と言った。それを聞いた具氏は、『それはどうでしょうか?』と答えた。資季大納言は『そう言うならば、私と言い争いをしてみよ』と返した。具氏は『取り立ててご質問するような学問のことは全く知りませんので、何ということのない取り止めの無いことの中から、はっきりとしないことを質問しても良いですか?』と返答した。
『もちろんである。そこらの簡単なことであれば、どんなことでも説明して上げよう』と大納言入道は答えた。二人の会話を聞いていた院の近習や女房などが、『興味を引かれる言い争いですね。同じ争うなら、ぜひ天皇の御前にて争われるべきですよ。そして負けた人が、酒宴の席を準備すれば良いのです』と言いルールを決めて、二人を天皇の御前に召しだしたのである。具氏が『幼い頃より聞いていたのですが、その問いの心が分からないものがございます。「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいり、くれんどう」と申す問いは、どういった意味なのでしょうか。承りたく存じます』と言った。
大納言入道ははたと答えに詰まって、『それは詰まらなさ過ぎる質問なので、答えるにも及ばない』などと言い出したが、具氏は『初めから深遠な学問のことなどは知らないので、とりとめもない事を尋ねても良いと定めておいたはずですよ』と申し上げた。結局、大納言入道は負けになってしまい、酒宴の準備の約束を盛大に果たされたということです。


[古文] 第136段:
医師篤成(くすし・あつしげ)、故法皇の御前に候ひて、供御(ぐご)の参りけるに、『今参り侍る供物の色々を、文字も功能も尋ね下されて、そらに申し侍らば、本草に御覧じ合はせられ侍れかし。一つも申し誤り侍らじ』と申しける時しも、六条故内府参り給ひて、『有房(ありふさ)、ついでに物習ひ侍らん』とて、『先づ、「しほ」という文字は、いずれの偏にか侍らん』と問はれたりけるに、『土偏に候ふ』と申したりければ、『才の程、既にあらはれにたり。今はさばかりにて候へ。ゆかしき所なし』と申されけるに、どよみに成りて、罷り出で(まかりいで)にけり。

[現代語訳]
(生前の後宇多法皇に仕えていた)医師の篤成が、法皇の御前に御食事が運ばれてきた時に、 『いま参りますお食事の数々について、名前でも効能でも何でも尋ねて下されば、そらでお答えしましょう。後で医学書の「本草書」を参照されて下さいませ。私の答えに一つも間違いはございませんから』と(自慢げに)申し上げた。
そこに内大臣の源有房が参られて、『有房も、ついでに篤成殿に物を教えて貰いましょうか』と言って、質問をした。『まず、「しお」という文字は、どんな偏でしょうか』と問うと、『土偏にございます』答えたが、有房は『おぬしの才知の程は既に明らかになった。今はその程度で良いだろう。知りたい事はもうない』と言った。すると、周囲の人々もどっと笑い出して、篤成はたまらずにその場を退出した。
※『しお』には『塩』だけではなく『監』という異字があり、そのことを知らなかった医師の篤成の学識のレベルを、有房は揶揄したのである。法皇の前で知識自慢をして不遜な態度を取っていた医師篤成を、内大臣の源有房がウィットの効いた質問で戒めたというエピソードである。


[古文] 第137段:
花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。歌の詞書にも、『花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ』とも、『障る事ありてまからで』なども書けるは、『花を見て』と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくななる人ぞ、『この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし』などは言ふめる。
万の事も、始め・終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、暁近くなりて持ち出でたるが、いと心深う青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴・白樫などの、濡れたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身に沁みて、心あらん友もがなと、都恋しう覚ゆれ。
すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにもみえず、興ずるさまも等閑(なおざり)なり。片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果は、大きなる枝、心なく折り取らぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし。
さやうの人の祭見しさま、いと珍らかなりき。『見事いと遅し。そのほどは桟敷不用なり』とて、奥なる屋にて、酒飲み、物食ひ、囲碁・双六など遊びて、桟敷には人を置きたれば、『渡り候ふ』と言ふ時に、おのおの肝潰るるやうに争ひ走り上りて、落ちぬべきまで簾張り出でて、押し合ひつつ、一事も見洩さじとまぼりて、『とあり、かかり』と物毎に言ひて、渡り過ぎぬれば、『また渡らんまで』と言ひて下りぬ。ただ、物をのみ見んとするなるべし。都の人のゆゆしげなるは、睡りて、いとも見ず。若く末々なるは、宮仕へに立ち居、人の後に侍ふは、様あしくも及びかからず、わりなく見んとする人もなし。
何となく葵懸け渡してなまめかしきに、明けはなれぬほど、忍びて寄する車どものゆかしきを、それか、かれかなど思ひ寄すれば、牛飼・下部などの見知れるもあり。をかしくも、きらきらしくも、さまざまに行き交ふ、見るもつれづれならず。暮るるほどには、立て並べつる車ども、所なく並みゐつる人も、いづかたへか行きつらん、程なく稀に成りて、車どものらうがはしさも済みぬれば、簾・畳も取り払ひ、目の前にさびしげになりゆくこそ、世の例も思ひ知られて、あはれなれ。大路見たるこそ、祭見たるにてはあれ。
かの桟敷の前をここら行き交ふ人の、見知れるがあまたあるにて、知りぬ、世の人数もさのみは多からぬにこそ。この人皆失せなん後、我が身死ぬべきに定まりたりとも、ほどなく待ちつけぬべし。大きなる器に水を入れて、細き穴を明けたらんに、滴ること少しといふとも、怠る間なく洩りゆかば、やがて尽きぬべし。都の中に多き人、死なざる日はあるべからず。一日に一人・二人のみならんや。烏部野・船岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし。されば、棺を鬻く(ひさく)者、作りてうち置くほどなし。若きにもよらず、強きにもよらず、思い懸けぬは死期なり。今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり。暫しも世をのどかには思ひなんや。継子立といふものを双六の石にて作りて、立て並べたるほどは、取られん事いづれの石とも知らねども、数へ当てて一つを取りぬれば、その外は遁れぬと見れど、またまた数ふれば、彼是間抜き行くほどに、いづれも遁れざるに似たり。兵の、軍に出づるは、死に近きことを知りて、家をも忘れ、身をも忘る。世を背ける草の庵には、閑かに水石を翫びて(もてあそびて)、これを余所に聞くと思へるは、いとはかなし。閑かなる山の奥、無常の敵競ひ来らざらんや。その、死に臨める事、軍の陣に進めるに同じ。

[現代語訳]
桜は満開、月は満月だけが見る価値があるべきものなのか。雨の日に月を恋しく思い、簾(すだれ)を垂れて部屋にこもって、春の行方を知らないでいるのも情趣が深い。花が咲く頃の梢であるとか、散って萎れた花びらが舞う庭だとかにも見所がある。歌の詞に『花見に参ったのに、早くも散り過ぎていて』とか、『支障があって、花を見ることができず』などと書くのは、『花を見て』と言うのに劣っているのだろうか。花が散り、月が傾くのを恋しく慕うのは習いであるが、特にあわれの感情を知らない人は、『この枝も、あの枝も散りに散っていて、すでに見所がない』なんて言ってしまうものだ。
あらゆる事は、始めと終わりこそが興味深いものなのだ。男女の情趣というのも、いちずに逢って抱き合うことだけを言っているのだろうか。逢えない事を憂いて、儚い約束を嘆いて、長い夜を独りで明かして、遠い雲の下に相手を思い、荒野の宿に昔の恋を偲んでいる。こういったことも、色恋の情趣と言えるだろう。千里の果てまで満月の明かりが照らしているのを眺めているよりも、夜明け近くになって漸く持っていた月が雲の隙間から見えた時のほうが、とてもその月の青さが心に深く染み渡ってくるものだ。青い月の下に見える深い山の杉の木の影、雨雲の隠れる具合など、この上なく感慨深い。椎柴・白樫の木などの濡れたような葉の上に月の光がきらめくのが身に沁みてきて、情趣を解する友と一緒に見れたならと思い、都のことが恋しくなる。
月や花はすべて、目だけで見るものなのだろうか。満開の桜なら家を出なくても、満月なら布団の上に居ながらでも想像することができ。それはそれでとても楽しくて味わいがあるものだ。風情や趣きを感じ取れる人は、ひたすらに面白がるような様子でもなく、何だか等閑に見ているように見える。片田舎の人の花見は、しつこく眺めて全てを面白がろうとするものだ。花の下ににじり寄って、立ち寄り、わき見もせずに花を見守って、酒を飲み歌って、最後には大きな枝を心なく折ってしまったりもする。田舎者は、夏の泉には必ず手足を浸すものだし、雪見では雪に降り立って足跡をつけてしまい、全ての物をそっと静かに見守るということができない。
そのような人たちの祭見物の様子も、とても珍しいものである。『祭の行列がなかなか来ないな。それまでは桟敷にいてもどうしようもない』などと言って、奥の部屋で、酒を飲み物を食べて、囲碁・双六で遊んでいる。桟敷には人を残しておいて、『行列が来たぞ』と聞けば、それぞれが心臓が止まるような勢いで桟敷まで争い走っていく。あわや落ちるんじゃないかという所まで手すりにはりついて、押し合いつつ、一つも祭りを見逃すまいと見守って『あれとか、それとか』と何かが前を通るたびに言い合っている。祭りの行列が渡り過ぎてしまうと『また来るまで』と言って桟敷を下りていく。ただ、物だけを見ようとしているようだ。反対に、都の人は、眠っているかのようでいて、祭を見ていないかのようである。その主人に仕える若い人たちは、常に立ち働いていて主人の後ろに控えているが、彼らは行儀の悪い態度をとって無理に祭りを見ようとすることはない。
賀茂祭では葵の葉を何となく掛けていて、優雅な感じがしているのだが、夜も明けきらないうちに、車が忍んで寄せてくるのである。その車の持ち主は誰だろうと思って近づいていくと、牛飼や下部などの中には見知った者もいる。祭りは面白くて、きらきらとしていて、さまざまな人たちが行き交っている、見ているだけで退屈することもない。日が暮れる頃には、並んでいた車や所狭しと集まっていた人たちもどこかへと去ってしまい、間もなく車も人もまばらになってくる。車たちの騒がしい行き来がなくなると、簾や畳も取り払われて、目の前は寂しげな様子になってくる。そんな時には世の無常の喩えも思い出されて、あわれな感慨が起こってくる。祭りは最後まで見てこそ、祭りを見たということができるのではないだろうか。
祭りが通る桟敷を行き交う人々には見知った顔も多くあるので、無常を知ることになる。世の中には非常に大勢の人たちがいるが、この人たちがみんな死んでしまった後にさて自分が死ぬ番ですよと決まったとしても、死ぬまでにはそれほど長く待つこともないだろう。大きな器に水を入れて底にキリで穴を開けると、少しずつ水が滴り落ちていくといっても、止まることなく水が漏れていくのであれば水はすぐに尽きてしまうだろう。都に人は多いが、人の死なない日はない。一日に死ぬのは一人や二人ではないだろう。烏部野や船岡、そのような野山に送る死者の多い日はあっても、誰も送らない日はない。
だから、棺というのは作っても作ってもゆっくり置いておく暇すらないのだ。死は若い人であっても、強い人であっても、思いがけない時に訪れる。今日まで死を逃れて生きてきたのは、ありえないほどに不思議なことだ。そうすると、この世の中がのどかだなんて思えない。
双六の石で『継子立て』というサイコロを作り、出た目の数字のコマに置いている石を取っていく遊びがあるが、石を並べた時には、どの石が取られるのかはわからない。サイコロを振ってその数のコマにある石を取っていくと、その他の石は今は取られることを逃れたように見えるが、実際にはサイコロを振り続けてあれこれ出た目を取っていくうちに、どの石も最期には必ず取られる運命であることが分かってくる。これは人の死に似ているのだ。出陣した兵は、死が近いことを知って、家を忘れ、我が身のことも忘れる。世に背いて出家した世捨て人の草庵では、静かに水石をもてあそんで、死をどこかに忘れようとするが、それはとても儚いことだ。静かな山奥にも、死という無常の敵は競って現れるもので、どこに居ようとも、死に臨む事は戦場にいるのと同じなのである。


[古文] 第138段:
『祭過ぎぬれば、後の葵不用なり』とて、或人の、御簾なるを皆取らせられ侍りしが、色もなく覚え侍りしを、よき人のし給ふ事なれば、さるべきにやと思ひしかど、周防内侍(すおうのないし)が、
かくれども かひなき物は もろともに みすの葵の 枯葉なりけり
と詠めるも、母屋の御簾に葵の懸りたる枯葉を詠めるよし、家の集に書けり。古き歌の詞書に、『枯れたる葵にさして遣はしける』とも侍り。枕草子にも、『来しかた恋しき物、枯れたる葵』と書けるこそ、いみじくなつかしう思ひ寄りたれ。鴨長明が四季物語にも、『玉垂に後の葵は留りけり』とぞ書ける。己れと枯るるだにこそあるを、名残なく、いかが取り捨つべき。
御帳に懸れる薬玉も、九月九日、菊に取り換へらるるといへば、菖蒲は菊の折までもあるべきにこそ。枇杷皇太后宮かくれ給ひて後、古き御帳の内に、菖蒲・薬玉などの枯れたるが侍りけるを見て、『折ならぬ根をなほぞかけつる』と辨(べん)の乳母の言へる返事に、『あやめの草はありながら』とも、江侍従(ごうじじゅう)が詠みしぞかし。

[現代語訳]
『祭が終わったら、後の葵の飾りは不用になってしまう』と言って、ある人が御簾に飾っていた葵の飾りをみんな捨てさせたが、風情のないやり方だなと感じた。しかし、身分の高い教養のある人がする事なので、そうするべきものなのだろうとも思っていた。周防内侍の歌に、
隠しても仕方がないもの、心と共にすだれの葵はみんな枯れてしまった。
というものがある。母屋の簾に飾りっぱなしだった葵が枯葉になってしまった事を詠んだ歌だという解説が、彼女の家集に書かれている。ある古い和歌の説明に、『枯れた葵の枝に、詠んだ歌を差して相手に渡した』というものがある。枕草子にも、『来るのが悲しいのは、枯れた葵』と書いてあり、とても懐かしい気分にさせられる。
鴨長明の四季物語には、『祭りの葵が、まだそのままだ』と書いている。自然に枯れてしまい風情がなくなるのも名残惜しいのに、どうしてそのまま捨て去ってしまうことができるのだろうか。
寝室の簾に掛かった五月の節句の飾りに使われる菖蒲も、九月九日までに菊に取りかえられるが、菖蒲は菊の季節まで咲いているものなのだ。枇杷皇太后宮が亡くなられた後に、その寝室に節句の飾りの菖蒲が枯れたままに飾られているのを見て、乳母が『季節外れの飾りをまだ掛けている』と言った。その言葉に対して、『あやめの草はまだ盛りですから』と江侍従が返歌を詠んだと言われている。


[古文] 第139段:
家にありたき木は、松・桜。松は、五葉もよし。花は、一重なる、よし。八重桜は、奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多く成り侍るなり。吉野の花、左近の桜、皆、一重にてこそあれ。八重桜は異様のものなり。いとこちたく、ねぢけたり。植ゑずともありなん。遅桜、またすさまじ。虫の附きたるもむつかし。梅は、白き・薄紅梅。一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の匂ひめでたきも、皆おかし。遅き梅は、桜に咲き合ひて、覚え劣り、気圧されて、枝に萎みつきたる、心うし。『一重なるが、まづ咲きて、散りたるは、心疾く、をかし』とて、京極入道中納言は、なほ、一重梅をなん、軒近く植ゑられたりける。京極の屋の南向きに、今も二本侍るめり。柳、またをかし。卯月ばかりの若楓、すべて、万の花・紅葉にもまさりてめでたきものなり。橘・桂、いづれも、木はもの古り、大きなる、よし。
草は、山吹・藤・杜若(かきつばた)・撫子(なでしこ)。池には、蓮。秋の草は、荻・薄(すすき)・桔梗(ききょう)・萩・女郎花(おみなえし)・藤袴・紫苑・吾木香(われもこう)・刈萱(かるかや)・竜胆・菊。黄菊も。蔦(つた)・葛・朝顔。いづれも、いと高からず、ささやかなる、墻に繁からぬ、よし。この外の、世に稀なるもの、唐めきたる名の聞きにくく、花も見慣れぬなど、いとなつかしからず。
大方、何も珍らしく、ありがたき物は、よからぬ人のもて興ずる物なり。さやうのもの、なくてありなん。

[現代語訳]
庭にあったら良い木は、松と桜である。松は、五葉もよい。桜は、一重がよい。八重桜は、奈良の都にだけ咲いていたのだが、最近はどこでも良く見かけるようになった。京の吉野や左近の桜は、みんな一重桜である。八重桜は異様なもので、ごちゃごちゃとしてひねくれた印象がある。庭には植えなくても良い。遅咲きの桜は興ざめであり、虫がつきやすいというのも厄介である。梅は、白や薄紅である。一重の梅は早く咲くが、紅梅の匂いも風情があり、みんな素晴らしい。遅咲きの梅は、桜と咲き合ってしまうので、人の記憶には残りにくい。桜に圧倒されて、枝に縮んで咲いてるような感じで、何だか心配になってしまう。
『一重の梅がまず咲いて、早々と散るのは、春を思う心がはやりたつようで面白い』と言うので、京極入道中納言様は、一重の梅を自邸の軒近くに植えられた。京極様の屋敷の南面には、今でも二本の梅がございます。柳も、また趣きがあるものだ。春の若楓(わかかえで)というのは、すべての花や紅葉にも勝るもので非常に深い趣きがある。橘や桂は、どちらも古びた大木のほうが良い。
草は、山吹・藤・杜若・撫子が良い。池には、蓮。秋の草なら、荻・薄・桔梗・萩・女郎花・藤袴・紫苑・吾木香・刈萱・りんどう・菊がある。黄色の菊も良い。夏なら蔦・葛・朝顔である。いずれにしても、たいして高いものではなく、ささやかな草木で垣根に無駄に繁らないのが良いのだこれ以外の、世にも珍しいもの、舶来の中国(唐)の草花のようなものなどは、花も見慣れておらず懐かしさを覚えないのである。
大体、珍しいものやなかなかないものというのは、教養や品性のない良からぬ人が一時的に持て囃すものなのだ。そのようなものは、無くたっていいのだ。


[古文] 第140段:
身死して財残る事は、智者のせざる処なり。よからぬ物蓄へ置きたるもつたなく、よき物は、心を止めけんとはかなし。こちたく多かる、まして口惜し。「我こそ得め」など言ふ者どもありて、跡に争ひたる、様あし。後は誰にと志す物あらば、生けらんうちにぞ譲るべき。
朝夕なくて叶はざらん物こそあらめ、その外は、何も持たでぞあらまほしき。

[現代語訳]
自分が死んだ後に財産を残すようなことを、頭の良い智者はしない。どうでもいい物を蓄えておくのはかっこ悪いことであり、価値ある良いものであれば、その物に心が留まってしまって余計に儚くなる。財産が多すぎるというのは、残念なことなのである。『私がその財産を頂く』などという遺族も現れてきて、死後に争いが起こるというのも見苦しい。死後に誰かに上げたい財物があれば、生きている間に譲っておいたほうが良いのだ。
毎日の生活に必要なもの以外には、何も所有しないでいるというのが望ましい。


[古文] 第141段:
悲田院尭蓮上人(ひでんいんのぎょうれんしょうにん)は、俗姓は三浦の某とかや、双なき武者なり。故郷の人の来りて、物語すとて、『吾妻人こそ、言ひつる事は頼まるれ、都の人は、ことうけのみよくて、実なし』と言ひしを、聖、『それはさこそおぼすらめども、己れは都に久しく住みて、馴れて見侍るに、人の心劣れりとは思ひ侍らず。なべて、心柔かに、情ある故に、人の言ふほどの事、けやけく否び難くて、万え言い放たず、心弱くことうけしつ。偽りせんとは思わねど、乏しく、叶はぬ人のみあれば、自ら、本意通らぬ事多かるべし。吾妻人は、我が方なれど、げには、心の色なく、情おくれ、偏にすぐよかなるものなれば、始めより否と言ひて止みぬ。賑はひ、豊かなれば、人には頼まるるぞかし』とことわられ侍りしこそ、この聖、声うち歪み、荒々しくて、聖教の細やかなる理いと辨へずもやと思ひしに、この一言の後、心にくく成りて、多かる中に寺をも住持せらるるは、かく柔ぎたる所ありて、その益もあるにこそと覚え侍りし。

[現代語訳]
孤児や老人を療育する寺院である悲田院の尭蓮上人は、俗姓は三浦の何とかといい、並ぶ者のない強い武者だったらしい。ある日、尭蓮上人のところへ、故郷の相模国から知人がやって来て語り合った。『東の人は言う事が信頼できる。京の都の人は、受け答えの印象は良いのだが、真実(誠実さ)がない』と故郷の知人はいう。それに対して、尭蓮上人はこう言った。『それはそうだと思いますが、京の都に久しく住み慣れていますと、京の人の心が東の人よりも劣っているとは思えないのです。京の人は、おしなべて心優しくて情のある人が多く、人の頼みを簡単に断ることができず、言いたいことも言えず、押しに負けて頼みを引き受けてしまったりします。騙そうと言う意図などはなくて、ただ貧しくて、約束を守りたいという本意があっても、その本意を貫けないことが多いのです。東の人は、自分の故郷の人ですが、実際には心の優しさがなくて、人情味にも疎く、愛想もないので、初めから嫌だと言って断ってしまいます。東の人は、家も栄えていて豊かなので、無理な頼みを断ったとしても、まだ他の人に頼ることができるのです』と。
このように世の道理を語られた。尭蓮上人のことを発音に関東なまりがあって、荒々しい素振りで、仏の精細な教えもわきまえていない人物と見ていた知人は、この一言によって逆に心を惹かれたのである。多くいる僧侶の中で、尭蓮上人が寺をまかせられて住職としての地位に就いているのも、柔和な性格の魅力があるからで、そのことによるご利益もあるからなのだろうと思った。


[古文] 第142段:
心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。ある荒夷(あらえびす)の恐しげなるが、かたへにあひて、『御子はおはすや』と問ひしに、『一人も持ち侍らず』と答へしかば、『さては、もののあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらんと、いと恐し。子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ』と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛の道ならでは、かかる者の心に、慈悲ありなんや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ。
世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万に諂ひ(へつらい)、望み深きを見て、無下に思ひくたすは、僻事(ひがごと)なり。その人の心に成りて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、盗人を縛め、僻事をのみ罰せんよりは、世の人の餓ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恒の産なき時は、恒の心なし。人、窮まりて盗みす。世治らずして、凍餒(とうたい)の苦しみあらば、科(とが)の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはん事、不便のわざなり。
さて、いかがして人を恵むべきとならば、上の奢り、費す所を止め、民を撫で、農を勧めば、下に利あらん事、疑ひあるべからず。衣食尋常なる上に僻事せん人をぞ、真の盗人とは言ふべき。

[現代語訳]
心がないかのように見える者でも、良い事を言うものだ。ある恐ろしげな東国の荒武者が、かたわらの人に向かって、『あなたには子どもがおりますか?』と問うた。『いや、子どもは一人もいません』と答えた。
荒武者は『それでは物の哀れさをお知りにならないでしょうな。情愛のないお心を持っているというのはとても恐ろしいことです。子どもがいるからこそ、万物の哀れさ(同情心)を知ることができるのですから』と言った。当然のことではある。妻子に対する恩義や愛情の道があればこそ、このような荒くれ者にも、慈悲の心が芽生えたのである。親孝行の心を持たない者も、子どもを持つことで、親の気持ち(恩愛)について知るものである。
世捨て人が、家族のいない独り身であるのは当たり前だが、一般に、係累(親族)の絆が多い人は、家族のためにあらゆることにへつらい、欲望が深くなるものだが、これを見て無闇に見下すのは間違ったことである。その人の気持ちになって考えてみれば、本当に愛して思いやっている親や妻子のためならば、恥を忘れて盗みでさえも働くだろう。であれば、盗人を縛り上げて間違いだけを厳しく罰するよりは、為政者は世の中の人が飢えないように、寒くないようにする政治を心がけて欲しいものである。人間は安定した生活(収入・収穫)がないと、安定した正しい気持ちを持つことができない。人間は困って追い詰められたから盗みを働いてしまうのだ。世の中が治まらずに、飢えや寒さの苦しみが蔓延しているならば、家族のために罪を犯す者は絶えないだろう。人を苦しめて、法律を犯さざるを得ない状況にして、犯罪者を罰するというのは、可哀想な仕打ちである
では、どのようにして人を幸せにすれば良いかということだが、貴族の支配階層が贅沢や浪費をやめて、人民に思いやりを持って農業に注力させることが大切である。そうすれば、下の民衆の生活に利益があることは疑いがない。衣食住が足りていながらも、敢えて盗みをする者が本当の盗人なのである。


[古文] 第143段:
人の終焉の有様のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、ただ、静かにして乱れずと言はば心にくかるべきを、愚かなる人は、あやしく、異なる相を語りつけ、言ひし言葉も振舞も、己れが好む方に誉めなすこそ、その人の日来の本意にもあらずやと覚ゆれ。
この大事は、権化の人も定むべからず。博学の士も測るべからず。己れ違ふ所なくは、人の見聞くにはよるべからず。

[現代語訳]
人の臨終の時の素晴らしかった様子などを人から聞くと、ただ静かに安らかに亡くなったとでも言ってくれれば趣き深く感じるのに、愚かな人は、不思議な様子を加えて異なるように大袈裟に語ってしまう。故人の語った言葉も振舞いも、自分が好きな方向に作為を加えて褒めちぎるのだが、その故人の普段の様子からすると、そういった(事実とは異なる)大袈裟な作為は本意ではないのではないかと思ったりもする。
人間の死という重大事は、神仏の権化であっても定めることなどできない。博学の有識者であっても、人の寿命は予測できないものだ。死にゆく人が、自分の普段の本意と異なることなく亡くなっていくのであれば、他人の見聞によってその故人の評価をすべきではないのだ。


[古文] 第144段:
栂尾(とがのお)の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、『あしあし』と言ひければ、上人立ち止りて、『あな尊や。宿執開発の人かな。阿字阿字と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。余りに尊く覚ゆるは』と尋ね給ひければ、『府生殿の御馬に候ふ』と答へけり。『こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあなれ。うれしき結縁をもしつるかな』とて、感涙を拭はれけるとぞ。

[現代語訳]
栂尾の上人(明恵上人)が、道を歩いている時に、川で馬を洗っている男を見かけたが、男は『足、足』と言いながら、馬の足を上げさせようとしている。
明恵上人は立ち止まって、『なんと尊いことだ。あなたは前世で功徳を積んだ方の生まれ変わりであろうか。馬を洗う時にまで阿字阿字とマントラを唱えている。その馬はどなたの馬なのでしょうか。その馬もとても尊い馬のように思える』とお尋ねになった。馬を洗っていた男は、『府生殿(検非違使の下級役人)の馬でございます』と答えた。『これは素晴らしいことである。「阿字不生」ですか。「阿字」は全ての根源であり、悟りにつながる仏法の奥義です。僧侶としてはこの上なく嬉しいご縁を結ぶことができた』と言って、明恵上人は感涙を拭われたという。


[古文] 第145段:
御随身(みずいじん)秦重躬(はたのしげみ)、北面の下野入道信願(しんがん)を、『落馬の相ある人なり。よくよく慎み給へ』と言ひけるを、いと真しからず思ひけるに、信願、馬より落ちて死ににけり。道に長じぬる一言、神の如しと人思へり。
さて、『如何なる相ぞ』と人の問ひければ、『極めて桃尻にして、沛艾(はいがい)の馬を好みしかば、この相を負せ侍りき。何時かは申し誤りたる』とぞ言ひける。

[現代語訳]
後宇多上皇の随身(警護役)である秦重躬は、北面の武士であった下野入道信願の乗馬を見て、『あの方には落馬の相がある。よくよく気をつけなさい』と注意したのだが、信願はこれを本当だとは思わずに乗馬していたので、落馬して死んでしまった。ある道に精通した者の一言は、神の如しと誰もが感嘆した。
さて、『落馬の相とはどんな相ですか?』とある人が秦重躬に質問すると、『桃のようにとても丸くて座りの悪い桃尻を持っていて、気が荒くて飛び上がる癖のある馬を好んでいたので、この相を持っていると感じた。今までこの相で見誤ったことはない』と答えた。


[古文] 第146段:
明雲座主(めいうんざす)、相者にあひ給ひて、『己れ、もし兵杖の難やある』と尋ね給ひければ、相人、『まことに、その相おはします』と申す。『如何なる相ぞ』と尋ね給ひければ、『傷害の恐れおはしますまじき御身にて、仮にも、かく思し寄りて、尋ね給ふ、これ、既に、その危みの兆なり』と申しけり。
果して、矢に当たりて失せ給ひにけり。

[現代語訳]
比叡山延暦寺の明雲座主が、人相見(易者)に会われてお尋ねになった。『もしや、私には戦死するような相はないだろうか?』と。人相見は『確かに、その相がおありですね』と答えた。明雲座主は更に『どのような相だ?』とお尋ねになったが、『戦場での怪我など心配なされる身分でもないのに、仮にも、そんな事を心配してお尋ねになられている。これはその事自体が、既に危険の前兆なのです』と人相見は申し上げた。
果たして、明雲座主は(1183年の法住寺合戦で木曾義仲方の)流れ矢に当たって亡くなってしまった。


[古文] 第147段:
灸治、あまた所に成りぬれば、神事に穢れありといふ事、近く、人の言ひ出せるなり。格式等にも見えずとぞ。

[現代語訳]
お灸による治療の痕は、数が多くなってくると、神域・神事での穢れとなるという事。これは、最近になって人々が言い出した迷信である。そんな事は、古代の法律・規則(内規)にも書かれていない。


[古文] 第148段:
四十以後の人、身に灸を加へて、三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すべし。

[現代語訳]
四十過ぎの人は、身体に灸を据えて三里のツボを焼かないと、上気の病に罹ることがある。必ずお灸をすべきなのだ。


[古文] 第149段:
鹿茸を鼻に当てて嗅ぐべからず。小さき虫ありて、鼻より入りて、脳を食むと言へり。

[現代語訳]
鹿の角に鼻を当てて匂いを嗅いではいけない。小さい虫がいて、鼻の穴から入って、脳を食べてしまうと言われている。


[古文] 第150段:
能をつかんとする人、『よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ』と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。
未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。
天下のものの上手といへども、始めは、不堪(ふかん)の聞えもあり、無下の瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。

[現代語訳]
芸能を習得しようとする人は、『上手くできないうちは、できるだけ人に知られないようにして、こっそり練習して上手くできるようになってから、人前に出ることが恥ずかしくない』といつも言うものだが、このように言う人は、一芸といえども習得することはできない。
まだ一向に技芸も知らないうちから、上手な先達の中に交じって、怒られようが笑われようが恥じる事もなく、平気で過ごして修練に励める者だけが芸を習得する。天性の才能・素質なんかなくても、芸能において停滞せず、自分勝手なやり方をせずに、修練の年月を過ごせば、器用で天性の才能に恵まれている人よりも、遂に技芸が上手な域に達して、人徳も高まり人から認められるようになり、並びなき名声を得ることにもなる。
天下の芸能の名人でも、最初は無能と言われたり、酷く恥ずかしい思いもしているものだ。しかし、名人はその道の教えを守って、これを尊重し無茶をしなかったので、その道の名人となり万人の師匠にもなれたのである。これは、どの道においても変わらないことである。


[古文] 第151段:
或人の云はく、年五十になるまで上手に至らざらん芸をば捨つべきなり。励み習ふべき行末もなし。老人の事をば、人もえ笑はず。衆に交りたるも、あいなく、見ぐるし。大方、万のしわざは止めて、暇あるこそ、めやすく、あらまほしけれ。世俗の事に携はりて生涯を暮すは、下愚の人なり。ゆかしく覚えん事は、学び訊くとも、その趣を知りなば、おぼつかなからずして止むべし。もとより、望むことなくして止まんは、第一の事なり。

[現代語訳]
ある人が言うには、50才になるまでに上手にならない芸などは捨てるべきということだ。その芸に50才以上になって習い励んでも先が無いのだ。老人のすることだから、誰も笑うこともない。老人が若い人たちに交じって練習しても、痛々しいし見苦しいものである。
大体、老人は全ての仕事をやめてゆっくりと過ごしているのが、見栄えが良くて望ましいのである。世俗の事柄にかかわって生涯を暮らすのは、愚かな人のやることである。 知りたいと思うことを学んで聞いたとしても、その概要を知ることができたならば、おぼつかないという程度でやめておいたほうがいい。初めから、老人は望みなどなくしてゆったりとしているのが、第一なのである。


[古文] 第152段:
西大寺静然上人(じょうねんしょうにん)、腰屈まり、眉白く、まことに徳たけたる有様にて、内裏へ参られたりけるを、西園寺内大臣殿、『あな尊の気色や』とて、信仰の気色ありければ、資朝卿、これを見て、『年の寄りたるに候ふ』と申されけり。
後日に、尨犬(むくいぬ)のあさましく老いさらぼひて、毛剥げたるを曵かせて、『この気色尊く見えて候ふ』とて、内府へ参らせられたりけるとぞ。

[現代語訳]
西大寺の静然上人は、腰が曲がって、眉が白く、本当に徳の高い御様子であった。静然上人が内裏に参られた時に、西園寺内大臣様が御覧になられて、『あぁ、何と尊い様子だろうか』といって信仰する様子さえ見せた。資朝卿はこれを見て、『ただの年寄りでしょう』と申された。
後日、惨めに老いぼれて毛も抜けかけたむく犬を引かせて、内大臣の邸に参上した資朝卿は、『この犬の様子が尊く見えるのでございましょうか?』と言ったのである。


[古文] 第153段:
為兼(ためかね)大納言入道、召し捕られて、武士どもうち囲みて、六波羅へ率て(ゐて)行きければ、資朝卿(すけとものきょう)、一条わたりにてこれを見て、『あな羨まし。世にあらん思ひ出、かくこそあらまほしけれ』とぞ言はれける。

[現代語訳]
為兼大納言入道が(鎌倉幕府への謀略の疑いで)召し捕らえられた。武士どもが取り囲んで六波羅探題(幕府による京都の監視機関)に連行する様子を、資朝卿は一条のあたりで見ていて、『あぁ、羨ましい。この世に生きたという思い出。為兼大納言入道のような生き方こそ望ましい』と言っていた。
後醍醐天皇の側近の日野資朝は、鎌倉幕府追討の陰謀に参加して佐渡ヶ島に配流されたが、1332年6月、元弘の乱の際に佐渡ヶ島で斬られた。


[古文] 第154段:
この人、東寺の門に雨宿りせられたりけるに、かたは者どもの集りゐたるが、手も足も捩ぢ歪み(ねじゆがみ)、うち反りて、いづくも不具に異様なるを見て、とりどりに類なき曲者なり、尤も愛するに足れりと思ひて、目守り給ひけるほどに、やがてその興尽きて、見にくく、いぶせく覚えければ、ただ素直に珍らしからぬ物には如かずと思ひて、帰りて後、この間、植木を好みて、異様に曲折あるを求めて、目を喜ばしめつるは、かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ、鉢に植ゐられける木ども、皆堀り捨てられにけり。
さもありぬべき事なり。

[現代語訳]
資朝卿が東寺の門に雨宿りしたところ、かたわ者(身体障害者)たちが門の下に群れ集まっていたが、手足は捻じ曲がっていて、いずれも不具な異形をしており、それぞれが類稀な曲者であった。大いに面白いと思ってその様子を見守っていると、やがてはその興味も消えて、見るに堪えなくなり不快に思われてきた。ただ素直な珍しくもない身体には及ばないと思って、家に帰った後に、自分が趣味で好んでいた盆栽を見た、枝や幹の異様な曲がり具合を求めて楽しんでいたのは、あのかたわ者を愛でていたのと同じ事だと思い、急に興味が無くなってしまった。鉢に植えられた木々を、みんな土ごと捨ててしまったという。
当然のことである。
当時の身体障害者(不具者・不具ゆえの乞食)に対する貴族階級の差別意識が反映された段である。だが、当然ながら、差別を禁ずる『人権思想』が発生するには18世紀のヨーロッパ(フランス)の啓蒙主義やフランス革命を待たなければならず、日本では20世紀半ばまで『不具・奇形等の身体障害』に対する根強い社会的な差別意識が残存していた。


[古文] 第155段:
世に従はん人は、先ず、機嫌を知るべし。序(ついで)悪しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず。さようの折節を心得べきなり。但し、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、序悪しとて止む事なし。生・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲り流るるが如し。暫しも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先ず落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌し(きざし)つはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、持ちとる序甚だ速し。生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。

[現代語訳]
世間に従う人は、まず物事が上手くいく時機を知らなければならない。順序を間違うという事は、人の耳に逆らい、相手の心にも逆らうことになり、その事は成し遂げられないだろう。物事が上手くいく時節というものを心得なければならない。しかし、病気をすること、子どもを出産すること、死ぬということは、時機を上手く図ることもできず、順序が悪いからといって止まるという事もない。人の生命・住居・差異・消滅などが移り変わっていくが、これらの大事は、激しい流れの川が勢い良く流れていくようなものだ。僅かの間も流れが滞ることはなく、あっという間に流れ去っていく。だから、仏道修行でも俗世間での行為でも、必ず成し遂げようと思う事であれば、時機ということは関係がない。あれこれの準備などは必要ない、足を止めないことだ。
春が終わって夏になり、夏が終わって秋が来るというのではない。春は既に夏の気配を感じさせ、夏は既に秋へと通じており、秋はすぐに寒くなって、十月はの小春日和の肌寒い天気となり、すぐに草は青くなって、梅の蕾も出来てくるのである。枯れ葉が落ちるというのも、葉が落ちてから芽をつけるのではなく、木々で兆している新芽に堪えきれずに葉が落ちるのだ。 初春を迎える新芽の気を、内部に蓄えているが故に、枯れ葉はあっという間に落ちてしまう。
『生・老・病・死』が移り変わることも、この自然の推移と似ている。四季にはそれでも、定まった順序がある。だが、死期は順序を待つということもない。死は、必ずしも前より来るのではなくて、いつも背後に迫っているのだ。人は皆、死ぬ事を知ってはいるが、死は急には来ないものと思い込んでいるものの、死はいつの間にか予期していない時に後ろから迫る。沖の干潟は遥か彼方にあるけれど、潮は磯のほうから満ちてくるのである。


[古文] 第156段:
大臣の大饗は、さるべき所を申し請けて行ふ、常の事なり。宇治左大臣殿は、東三条殿にて行はる。内裏にてありけるを、申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事の寄せなけれども、女院の御所など借り申す、故実なりとぞ。

[現代語訳]
大臣に任命された人が開催する宴会は、しかるべき所を申し請けて行うというのが、世の常である。宇治左大臣殿(1156年の保元の乱で崇徳上皇側に付き戦死した藤原頼長)は、東三条殿に人を集めて宴を開いた。ここは天皇の内裏であったが、大臣からの申請があって天皇は他所へ移動なされたのである。大層な縁故がなくても、皇后陛下の御所なども大臣がお借りすることがある。これが故実(古来からの儀式・慣例・習慣)である。


[古文] 第157段:
筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤(だ)打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来る。仮にも、不善の戯れをなすべからず。
あからさまに聖教の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾(そつじ)にして多年の非を改むる事もあり。仮に、今、この文を披げ(ひろげ)ざらましかば、この事を知らんや。これ則ち、触るる所の益なり。心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業自ら修せられ、散乱の心ながらも縄床に座せば、覚えずして禅定成るべし。
事・理もとより二つならず。外相もし背かざれば、内証必ず熟す。強いて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。

[現代語訳]
筆をもてば何か書きたいと思い、楽器を手に取れば音を出したいと思う。盃を持てば酒のことを思い、サイコロを手にすれば博打をしたいと思う。心は必ず、外部の物事に触れて動くものだ。仮であっても、不善を為すことにつながる戯れをしてはいけない。
つい気が向いた時に、仏教の経典を広げてその一句を見れば、何となくその前後の文も見えてしまう。その偶然に見えた文によって、突然、長年の誤り気がつく事もあるのだ。もし、経典を開かなかったら、この誤りには気づかなかっただろう。これは、物事に触れることによる利益である。 信心が起こらなくても、仏の前に座り、数珠を取って経を開いていれば、怠けていても自然に仏の教えが身につくものだ。また、気を散らしながらでも、縄の座椅子に座って座禅を組んでいれば、意図しなくても禅定の悟りの境地に達することもある。
事象と真理というものは、初めから二つの別々のものではない。外見の相や言葉が道理に反していなければ、必ず自己の内面も悟りに向かって成熟していく。無理に不信を言い立てる必要はない。外見だけでも良いので、仏を仰ぎ見て尊重していれば良いのである。


[古文] 第158段:
『盃の底を捨つる事は、いかが心得たる』と、或人の尋ねさせ給ひしに、『凝当(ぎょうとう)と申し侍れば、底に凝りたるを捨つるにや候ふらん』と申し侍りしかば、『さにはあらず。魚道なり。流れを残して、口の附きたる所を漱ぐ(すすぐ)なり』とぞ仰せられし。

[現代語訳]
『盃の底に残る酒を捨ててから、人に盃を回す風習をどう思っているのか?』と、ある人が尋ねた。『その作法は凝当と申すようですが、恐らく底に凝り固まった酒を捨てるからでございましょう』とある人が答えて申し上げた。『いや、そうではない。凝当ではなく魚道(ぎょどう)というのだ。酒の流れを残して、口がついた部分を綺麗に漱いでいるのだ』とある人はおっしゃった。
※古来、複数の人が酒を飲んで盃を回す時には、盃の底に残った酒を捨ててから渡すという作法があったが、この章ではその作法・慣習の意味を語っている。


[古文] 第159段:
『みな結びと言ふは、糸を結び重ねたるが、蜷といふ貝に似たれば言ふ』と、或やんごとなき人仰せられき。『にな』といふは誤なり。

[現代語訳]
『みな結びというのは、糸を結び重ねた様子が、蜷貝に似てるからそう言うのだ』と、ある身分の高い貴人がおっしゃった。だから、蜷貝を『にながい』というのは間違いなのである。


[古文] 第160段:
門に額懸くるを『打つ』と言ふは、よからぬにや。勘解由小路二品禅門(かでのこうじのにほんぜんもん)は、『額懸くる』とのたまひき。『見物の桟敷打つ』も、よからぬにや。『平張(ひらばり)打つ』などは、常の事なり。『桟敷構ふる』など言ふべし。『護摩焚く』と言ふも、わろし。『修する』『護摩する』など言ふなり。『行法も、法の字を清みて言ふ、わろし。濁りて言ふ』と、清閑寺(せいがんじ)僧正仰せられき。常に言ふ事に、かかる事のみ多し。

[現代語訳]
門に額を飾るのを『額を打つ』と言うのは正しい言い方なのか。書道の師家である勘解由小路二品禅門(藤原経尹)は、『額を懸ける』とおっしゃった。『(見物の時の)桟敷を打つ』という言い方も良いのであろうか。普通、『天幕を打つ』とは言う。しかし、『桟敷を構える』という言い方もあるのだ。
『護摩を焚く』と言うのも良くない(護摩という言葉自体に護摩を焚くという意味が含まれているので)。『修する』や『護摩する』などと言うほうが正しいだろう。『行法は、法の字を濁音無しで「ギョウホウ」と言うのは悪い。濁音できちんと「ギョウボウ」と言うべきだ』と、清閑寺の僧正がおっしゃっていた。いつも使う言葉であっても、このような間違った使い方が多いものだ。

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(下) 兼好法師(吉田兼好)  Tsurezuregusa (Yoshida Kenkō)
兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた 『徒然草(つれづれぐさ)』 の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

第百六十一段 花のさかりは 第百六十二段 遍照寺の承仕法師 第百六十三段 太衝の太の字 第百六十四段 世の人あひ逢ふ時、暫くも黙止する事なし 第百六十五段 吾妻の人の都の人に交り 第百六十六段 人間の営みあへるわざを見るに 第百六十七段 一道に携る人、あらぬ道の筵に臨みて 第百六十八段 年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて 第百六十九段 何事の式といふ事は 第百七十段 さしたる事なくて人のがり行くは 第百七十一段 貝をおほふ人の、我がまへなるをばおきて 第百七十二段 若き時は、血気うちにあまり 第百七十三段 小野小町が事 第百七十四段 小鷹によき犬、大鷹に使ひぬれば 第百七十五段 世には心得ぬ事の多きなり 第百七十六段 黒戸は 第百七十七段 鎌倉中書王にて、御毬ありけるに 第百七十八段 或所の侍ども、内侍所の御神楽を見て 第百七十九段 入宋の沙門、道眼上人、一切経を持来して 第百八十段 さぎちやうは 第百八十一段 ふれふれこゆき、たんばのこゆき 第百八十二段 四条大納言隆親卿、乾鮭といふものを 第百八十三段 人突く牛をば角を切り 第百八十四段 相模守時頼の母は 第百八十五段 城陸奥守泰盛は、さうなき馬乗りなりけり 第百八十六段 吉田と申す馬乗り 第百八十七段 よろづの道の人、たとひ不堪なりといへども 第百八十八段 或者、子を法師になして 第百八十九段 今日は、その事をなさんと思へど 第百九十段 妻といふものこそ 第百九十一段 夜に入りて物のはえなしといふ人 第百九十二段 神仏にも、人のまうでぬ日 第百九十三段 くらき人の、人をはかりて 第百九十四段 達人の人を見る眼は 第百九十五段 或人久我縄手を通りけるに 第百九十六段 東大寺の神輿、東寺の若宮より帰座の時 第百九十七段 諸寺の僧のみにもあらず、定額の女孺といふ事 第百九十八段 揚名介にかぎらず 第百九十九段 横川行宣法印が申し侍りしは 第二百段 呉竹は葉細く、河竹は葉広し 第二百一段 退凡・下乗の卒塔婆 第二百二段 十月を神無月と言ひて 第二百三段 勅勘の所に靫かくる作法 第二百四段 犯人を笞にて打つ時は 第二百五段 比叡山に、大師勧請の起請といふ事は 第二百六段 徳大寺右大臣殿、検非違使の別当の時 第二百七段 亀山殿建てられんとて、地を引かれけるに 第二百八段 経文などの紐を結ふに 第二百九段 人の田を論ずるもの、訴へに負けて 第二百十段 喚子鳥は春のものなりとばかり言ひて 第二百十一段 よろづの事は頼むべからず 第二百十二段 秋の月は、かぎりなくめでたきものなり 第二百十三段 御前の火炉に火を置く時は 第二百十四段 想夫恋といふ楽は 第二百十五段 平宣時朝臣、老の後、昔語りに 第二百十六段 最明寺入道、鶴岡の社参の次に 第二百十七段 或大福長者の言はく 第二百十八段 狐は人に食ひつくものなり 第二百十九段 四条黄門命ぜられて言はく 第二百二十段 何事も辺土は、賤しく、かたくななれども 第二百二十一段 建治・弘安の比は、祭の日の放免の付物に 第二百二段 竹谷乗願房 第二百二十三段 鶴の大臣殿は 第二百二十四段 陰陽師有宗入道、鎌倉よりのぼりて 第二百二十五段 多久資が申しけるは、通憲入道、舞の手の中に 第二百二十六段 後鳥羽院の御時、信濃前司行長 第二百二十七段 六時礼賛は 第二百二十八段 千本の釈迦念仏は、文永の比 第二百二十九段 よき細工は 第二百三十段 五条内裏には、妖物ありけり 第二百三十一段 園の別当入道は、さうなき庖丁者なり 第二百三十二段 すべて人は、無智無能なるべきものなり 第二百三十三段 万の咎あらじと思はば 第二百三十四段 人のものを問ひたるに 第二百三十五段 主ある家には、すずろなる人 第二百三十六段 丹波に出雲といふ所あり 第二百三十七段 柳筥に据ゆるものは 第二百三十八段 御随身近友が自讃とて 第二百三十九段 八月十五日、九月十三日は、婁宿なり 第二百四十段 しのぶの浦の蜑の見るめも所せく 第二百四十一段 望月のまどかなる事は 第二百四十二段 とこしなへに違順に使はるる事は 第二百四十三段 八になりし時、父に問ひて言はく
  (仮朗読) (CD)

(朗読 1/2)(朗読 2/2)YouTube


[古文] 第161段:
花の盛りは、冬至より百五十日とも、時正の後、七日とも言へど、立春より七十五日、大様違はず。

[現代語訳]
桜の花の盛りは、『冬至の日』より百五十日後とも、春分の日の二日後に訪れる『時正の日』から七日後とも言うけど、『立春の日』より七十五日後でも、桜の花の盛りということでは大きな違いはない。


[古文] 第162段:
遍照寺(へんじょうじ)の承仕(じょうじ)法師、池の鳥を日来飼ひつけて、堂の中まで餌を撒きて、戸一つ開けたれば、数も知らず入り籠りける後、己れも入りて、たて籠めて、捕へつつ殺しけるよそほひ、おどろおどろしく聞えけるを、草刈る童聞きて、人に告げければ、村の男どもおこりて、入りて見るに、大雁どもふためき合へる中に、法師交りて、打ち伏せ、捩ぢ殺しければ、この法師を捕へて、所より使庁へ出したりけり。殺す所の鳥を頸に懸けさせて、禁獄せられにけり。
基俊大納言、別当の時になん侍りける。

[現代語訳]
遍照寺の雑役・労務をしていた法師が、池に来る鳥を日頃から飼いならして、堂の中にまで餌を撒いていた。戸を一つ開けているだけで、数えられないほど多くの鳥が餌を求めて堂の内部に入ってくる。そこへ法師は自分も入っていき戸を閉じて、池の鳥を捕えては殺している様子である。その殺生の様子が外までおどろおどろしく聞こえてくるので、草を刈っている少年が聞き咎めて人に報告した。村の男たちが集まって遍照寺の御堂に入ると、大きな雁が慌てふためきながら逃げまどう中に法師が交じっていて、その雁を打ち伏せてはねじ殺している有様である。 村の男達は法師を捕まえて、検非違使庁(警察のような当時の治安維持の担当官庁)につき出した。その法師は殺した鳥を首にかけさせられたまま、牢獄に投獄されたそうである。
基俊大納言が別当(検非違使庁の長官)の時の出来事だからかなり昔の話である。


[古文] 第163段:
太衝(たいしょう)の『太』の字、点打つ・打たずと言ふ事、陰陽の輩、相論(そうろん)の事ありけり。盛親入道申し侍りしは、『吉平が自筆の占文の裏に書かれたる御記、近衛関白殿にあり。点打ちたるを書きたり』と申しき。

[現代語訳]
太衝(陰陽道でいう9月のこと)の『太』の字は、『太』と点を打つのか『大』と点なしで良いのかという事で、陰陽に関係する人たちの間で論争になったことがあった。盛親入道が申し上げたのは、『(日本の陰陽道の始祖ともされる安倍晴明の息子である)安倍吉平が占文の裏に書いた自筆文書が近衛関白の邸宅に残されていた。それには太衝の「太」の字には点が打たれていた』ということである。


[古文] 第164段:
世の人相逢ふ時、暫くも黙止する事なし。必ず言葉あり。その事を聞くに、多くは無益の談なり。世間の浮説、人の是非、自他のために、失多く、得少し。
これを語る時、互ひの心に、無益の事なりといふ事を知らず。

[現代語訳]
世の人が会う時には、少しの間も沈黙していることがない。必ずそこには雑談・世間話の言葉がある。その話を聞いていると、多くは無益な雑談である。世間に流布している根拠のない噂話・評判、他人の良いことと悪いことについての雑談、自分と相手にとって失うものばかり多くて、得るものは少ない。
こういった世間話をしている時には、お互いの心に無益・無意味な話をしているという自覚がない。


[古文] 第165段:
吾妻の人の、都の人に交り、都の人の、吾妻に行きて身を立て、また、本寺・本山を離れぬる、顕密の僧、すべて、我が俗にあらずして人に交れる、見ぐるし。

[現代語訳]
東国(鎌倉)の武士が京の人と交わり、京の貴族が鎌倉で立身出世をする。また、京にある本寺・本山を離れた京の僧侶が、顕教・密教を入り混ぜて自分の宗派とは異なる修行(勤行)をする。すべて、自分が属している生活圏の風習から外れた人(本来自分が居るべき場所にいない人)というのは、どこか見苦しいものだ。


[古文] 第166段:
人間の、営み合へるわざを見るに、春の日に雪仏を作りて、そのために金銀・珠玉の飾りを営み、堂を建てんとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること雪の如くなるうちに、営み待つこと甚だ多し。

[現代語訳]
世俗の人々が忙しく動いている営み・仕事を見ていると、まるで春の日に雪仏を作って、そのために金銀・珠玉(宝石)の飾りつけをし、御堂を建立しようとしているかのようである。御堂が完成するのを待って、すぐに溶けてしまう雪仏を安置することなどできるのだろうか。人の生命は長いと思っていても、下から消えていく生命は雪のような儚いものである。それなのに、一生懸命に働き続けて、(間もなく人は死んでしまうというのに)その成果を長く待っているような人が多い。


[古文] 第167段:
一道に携はる人、あらぬ道の筵に臨みて、『あはれ、我が道ならましかば、かくよそに見侍らじものを』と言ひ、心にも思へる事、常のことなれど、よに悪く覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、『あな羨まし。などか習はざりけん』と言ひてありなん。我が智を取り出でて人に争ふは、角ある物の、角を傾け、牙ある物の、牙を咬み出だす類なり。
人としては、善に伐らず(ほこらず)、物と争はざるを徳とす。他に勝ることのあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才芸のすぐれたるにても、先祖の誉にても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心にそこばくの咎あり。慎みて、これを忘るべし。痴にも見え、人にも言ひ消たれ、禍をも招くは、ただ、この慢心なり。
一道にまことに長じぬる人は、自ら、明らかにその非を知る故に、志常に満たずして、終に、物に伐る事なし。

[現代語訳]
ある専門の道に従事する人が、違う専門の道の会合に出席して、『あぁ、これが自分の専門の集まりであれば、このように何も言わずに傍観するだけではなかったのに』と言った。こういったことを思うのはよくあることだが、もし専門外のことに間違った反論をしてしまえば、酷く下らない人間だと思われてしまう。自分の知らない専門の道について羨ましく思うなら、『あぁ、羨ましいことだ。どうしてこの道を選ばなかったのだろう』と言っておけばいいのだ。 自分の知識教養を出して人と争うのは、角ある獣が角を傾け、牙がある獣が牙で咬み合うのと同じ類のことなのである。
人は、自分の長所・美点を敢えて誇らず、何物とも争わないことを徳とするものだ。他者より優れていることがあるなら、それが欠点ともなる。気品の高さでも、教養・才知の優秀さでも、先祖の名誉でも、人より自分は優れていると思った人は、例え口に出さなくても、心の中に多くの罪・過ちが生まれてしまう。自分の長所・自慢など慎んで忘れたほうがいい。馬鹿のように見られ、人から自分の発言を訂正されて、災禍を招く原因はこの慢心からなのである。
本当に一つの道に精通した者は、自分で明らかに自分の欠点を知っているが故に、いつまでも自分の理想の志が満たされることがない。だから、他者に自分の自慢をすることもないのだ。


[古文] 第168段:
年老いたる人の、一事すぐれたる才のありて、『この人の後には、誰にか問はん』など言はるるは、老の方人にて、生けるも徒らならず。さはあれど、それも廃れたる所のなきは、一生、この事にて暮れにけりと、拙く見ゆ。『今は忘れにけり』と言ひてありなん。
大方は、知りたりとも、すずろに言ひ散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞え、おのづから誤りもありぬべし。『さだかにも辨へ(わきまえ)知らず』など言ひたるは、なほ、まことに、道の主とも覚えぬべし。まして、知らぬ事、したり顔に、おとなしく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、『さもあらず』と思ひながら聞きゐたる、いとわびし。

[現代語訳]
年老いた人が、優れた一事に関する才能があって、『この人が死んだ後には、誰にこの事について聞けば良いのだろうか?』などと言われるのであれば、老人にとっての味方とも言うべき人物であって、生き続けているのも無駄ではない。しかし、その専門について衰退している所が全くないというのは、この老人の一生はすべてこの事だけのために費やされてきたんだなと、つまらない人生のように見えてしまう。だから、『今はもう自分の専門については忘れてしまったよ』と言ってしまうのもありだろう。
大体のことは知っていても、やたらに言い散らすのは、それほどの才能が無いようにも見えるし、自然としゃべり散らす中で誤りも出てくるだろう。『その事についてははっきりとは確実に知らないが』などと言っていれば、本当に、その道の全てを大まかに知り尽くした先生のように思われるものだ。
まして、老人が知らない事をしたり顔で、大人しく物事を良く知らない若者に言い聞かせているのを見て、『そうではない(老人の言うことは間違っている)』とか思いながら聞いているのは、とてもやりきれないものだ。


[古文] 第169段:
『何事の式といふ事は、後嵯峨の御代までは言はざりけるを、近きほどより言ふ詞なり』と人の申し侍りしに、建礼門院の右京大夫、後鳥羽院の御位の後、また内裏住みしたる事を言ふに、『世の式も変りたる事はなきにも』と書きたり。

[現代語訳]
『何とか式という言い方は、後嵯峨天皇の時代までは使われなかった表現であり、最近になって使われ始めた言葉である』とある人が申していた。しかし、平清盛の娘(建礼門院・平徳子)に仕えた右京大夫という女房が、(平家滅亡後の)後鳥羽院の御世に宮中にお仕えしていた時、『世の式には何も変わりはないのに(平家は滅亡してしまった)』と書き残している。


[古文] 第170段:
さしたる事なくて人のがり行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば、疾く帰るべし。久しく居たる、いとむつかし。
人と向ひたれば、詞多く、身もくたびれ、心も閑かならず、万の事障りて時を移す、互ひのため益なし。厭はしげに言はんもわろし。心づきなき事あらん折は、なかなか、その由をも言ひてん。同じ心に向はまほしく思はん人の、つれづれにて、『今暫し。今日は心閑かに』など言はんは、この限りにはあらざるべし。阮籍(げんせき)が青き眼、誰にもあるべきことなり。
そのこととなきに、人の来りて、のどかに物語して帰りぬる、いとよし。また、文も、『久しく聞えさせねば』などばかり言ひおこせたる、いとうれし。

[現代語訳]
大した用事もないのに、他人の家に行くのは良くないことである。用事があって行ったとしても、用事が済んだら早く帰ったほうが良い。長居されるというのは、とても厄介(迷惑)なことだ。
他人と向き合っていると、余計な言葉が多くなり、身体もくたびれて、心も静かに落ち着かない、様々な事柄に支障が起こってきてやるべきこともできずに時間ばかりが流れてしまう。お互いのために何の役にも立たない。迷惑そうにして相手と話しているのも悪い。相手と話すことに気乗りがしない時には、むしろその理由を言ってしまったほうが良い。自分も同じ気持ち(関心)を持って向き合いたいと思う相手が、手持ち無沙汰で暇にしていて、『もう暫く居て下さい。今日は心静かに語り合いましょう』などと言う時には、この限りではない。晋の時代の竹林の七賢の一人である阮籍のように、客人を歓迎する『青い眼』をすることは誰にでもあることだ。
特に用事もなくて、知人が訪ねてきて、のんびり話してから帰るというのは嬉しいことだ。また、手紙でも『久しくお手紙を差し上げていませんで』などと書いてあるだけで、とても嬉しいものである。


[古文] 第171段:
貝を覆ふ人の、我が前なるをば措きて、余所を見渡して、人の袖のかげ、膝の下まで目を配る間に、前なるをば人に覆はれぬ。よく覆ふ人は、余所までわりなく取るとは見えずして、近きばかり覆ふやうなれど、多く覆ふなり。碁盤の隅に石を立てて弾くに、向ひなる石を目守りて弾くは、当らず、我が手許をよく見て、ここなる聖目を直に弾けば、立てたる石、必ず当る。
万の事、外に向きて求むべからず。ただ、ここもとを正しくすべし。清献公が言葉に、『好事を行じて、前程を問ふことなかれ』と言へり。世を保たん道も、かくや侍らん。内を慎まず、軽く、ほしきままにして、濫り(みだり)なれば、遠き国必ず叛く時、初めて謀を求む。『風に当り、湿に臥して、病を神霊に訴ふるは、愚かなる人なり』と医書に言へるが如し。目の前なる人の愁を止め、恵みを施し、道を正しくせば、その化遠く流れん事を知らざるなり。禹の行きて三苗を征せしも、師(いくさ)を班して(かえして)徳を敷くには及かざりき。

[現代語訳]
貝覆いという貝を用いたカルタ遊びをする人で、自分の目の前にある貝をさしおいて、よそを見渡し、人の袖の陰から膝の下まで目を配っている間に、目の前にある貝を人に取られてしまう。貝覆いの上手な人は、よその貝まで無理に取るようにも見えないのだが、手近な貝は必ず取るようにして、結果として最も多くの貝を取るのである。おはじき遊びをする時にも、碁盤の隅に石を置いて弾こうとして、目標の石ばかり見守っていてもまず当たらない。自分の手もとをよく見て、ここだという目安をつけて直線にして弾くなら、狙っている石に必ず当たるはずである。
全ての事は、外に向かって答えを求めてはならない。ただ自分自身を正せば良いのだ。11世紀の宋の名臣である清献公は、『今の自分に出来る善行を実践して、将来のことを問うてはならない』と言っている。世の中の秩序を保つ政治も、そのようなものではないだろうか。 内政を慎まずに軽んじて、みだりに為政者のほしいままにするなら、遠い国が陰謀を用いて反乱を起こす日が必ず来る。『(病気がちの人間が)冷たい風に吹かれて、湿気の多い布団に寝て、病気の治癒を神仏に訴えるのは愚かな人のやる事である』と医書で言われているようなものである。自分自身の養生や予防をせずに、病気を治すことなどはできないのだ。
為政者は、まず目の前にいる人々の悩みを止めて、恵沢を施し道を正しくすれば、その良い影響が遠くの地域にまで広がっていくという統治のやり方を知らないのだろうか。古代中国の聖王である禹(う)が異民族の三苗を征服した時のように、大規模な軍勢を引き返させて、(武力を用いない)徳政を敷くことには及ばないのである。


[古文] 第172段:
若き時は、血気内に余り、心物に動きて、情欲多し。身を危めて、砕け易き事、珠を走らしむるに似たり。美麗を好みて宝を費し、これを捨てて苔の袂に窶れ、勇める心盛りにして、物と争ひ、心に恥ぢ羨み、好む所日々に定まらず、色に耽り、情にめで、行ひを潔くして、百年の身を誤り、命を失へる例願はしくして、身の全く、久しからん事をば思はず、好ける方に心ひきて、永き世語りともなる。身を誤つ事は、若き時のしわざなり。
老いぬる人は、精神衰へ、淡く疎かにして、感じ動く所なし。心自ら静かなれば、無益のわざを為さず、身を助けて愁なく、人の煩ひなからん事を思ふ。老いて、智の、若きにまされる事、若くして、かたちの、老いたるにまされるが如し。

[現代語訳]
若い時は内面の血気が盛んであり、心が物に動かされて異性に対する情欲も多い。自分の身を危なくして無謀に砕けやすいことは、斜面で玉を転がすことにも似ている。美しいものを好んで金銭を費やし、あるいは金銭を捨てて苔の麓で身をやつし、勇ましい心を高ぶらせて他者と争い、恥ずかしがったり羨んだりして、好む相手・場所もなかなか定まらない。色欲に耽って、情愛に流されることで、行いを清廉潔白にすれば百年生きられるはずの身を損なってしまう。命を失うことすら願うような素振りで、自分が長生きする存在だとも思わずに、好きな方に心を惹きつけられて、長く語られる物語にもなる。身を誤ることは、若いからである。
老いた人は精神力が衰えて、欲望も淡く世俗にも疎くなっており、物事に敏感に感じて動くということもない。心は必然的に静かになり、無益なことをしない。自分の身を大切にして健康の悩みを減らすように努め、他人に迷惑を掛けないようにしようと思う。老いた人は生きる知恵において若い人に勝っているが、それは若い人が外見的な容姿・スタイルにおいて老人に勝っているのと同じである。


[古文] 第173段:
小野小町が事、極めて定かならず。衰へたる様は、「玉造(たまづくり)」と言ふ文(ふみ)に見えたり。この文、清行が書けりといふ説あれど、高野大師(こうやだいし)の御作(ごさく)の目録に入れり。大師は承和(じょうわ)の初めにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後の事にや。なほおぼつかなし。

[現代語訳]
平安初期(9世紀)の六歌仙の一人である小野小町という女性のことは、全くはっきりとした事が分からない。小野小町の美貌の衰微していく様子が『玉造』という書物に書かれている。この『玉造』という書物は、三善清行が書いたという説があるが、高野山の弘法大師(空海)の著作の目録にも『玉造』という書名が掲載されているのである。
弘法大師は承和二年(835年)に亡くなられている。その頃の小町はまだ十代の子どもだったと推測され、小町の美貌や才能が開花して盛りになったのは大師が亡くなった後の事になる。小野小町の事跡についてははっきりしないのだ。


[古文] 第174段:
小鷹(こたか)によき犬、大鷹(おおたか)に使ひぬれば、小鷹にわろくなるといふ。大に附き小を捨つる理、まことにしかなり。
人事(にんじ)多かる中に、道を楽しぶより気味深きはなし。これ、実(まこと)の大事なり。一度、道を開きて、これに志さん人、いづれのわざか廃れざらん、何事をか営まん。愚かなる人といふとも、賢き犬の心に劣らんや。

[現代語訳]
『雀・鶉(うずら)・鴫(しぎ)』などを叢(くさむら)から追い出す小鷹狩用の犬を、大鷹狩(雁・鶴・雉の大物を狙う狩り)に使うと、その犬は小鷹狩で使えなくなってしまうという。大について小を捨ててしまうという理屈は、全くその通りである。
人間のやる事が多い中で、仏道を楽しむよりも味わい深いものなど無いのだ。これは本当に大切なことである。一度、仏の道を進むことを決めて、これに志した人はどの技術が廃れるというのか、他に何事に取り組もうというのか。どんなに愚かな人間であっても、賢い犬の心に劣るということがあるだろうか、いやそんな事はない。


[古文] 第175段:
世には、心得ぬ事の多きなり。ともある毎(ごと)には、まづ、酒を勧めて、強ひ飲ませたるを興とする事、如何なる故とも心得ず。飲む人の、顔いと堪え難げに眉を顰め、人目を測りて捨てんとし、逃げんとするを、捉へて引き止めて、すずろに飲ませつれば、うるはしき人も、忽ち(たちまち)に狂人となりてをこがましく、息災なる人も、目の前に大事の病者となりて、前後も知らず倒れ伏す。
祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。明くる日まで頭痛く、物食はず、によひ臥し、生を隔てたるやうにして、昨日の事覚えず、公・私の大事を欠きて、煩ひとなる。人をしてかかる目を見する事、慈悲もなく、礼儀にも背けり。かく辛き目に逢ひたらん人、ねたく、口惜しと思はざらんや。人の国にかかる習ひあなりと、これらになき人事にて伝へ聞きたらんは、あやしく、不思議に覚えぬべし。
人の上にて見たるだに、心憂し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひののしり、詞多く、烏帽子歪み、紐外し、脛高く掲げて、用意なき気色、日来の人とも覚えず。女は、額髪(ひたいがみ)晴れらかに掻きやり、まばゆからず、顔うちささげてうち笑ひ、盃持てる手に取り付き、よからぬ人は、肴(さかな)取りて、口にさし当て、自らも食ひたる、様あし。
声の限り出して、おのおの歌ひ舞ひ、年老いたる法師召し出されて、黒く穢き(きたなき)身を肩抜ぎて、目も当てられずすぢりたるを、興じ見る人さへうとましく、憎し。或(ある)はまた、我が身いみじき事ども、かたはらいたく言ひ聞かせ、或は酔ひ泣きし、下ざまの人は、罵り合ひ、争ひて、あさましく、恐ろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、果は、許さぬ物ども押し取りて、縁より落ち、馬・車より落ちて、過しつ。
物にも乗らぬ際は、大路をよろぼひ行きて、築泥(ついひじ)・門の下などに向きて、えも言はぬ事どもし散らし、年老い、袈裟掛けたる法師の、小童の肩を押へて、聞えぬ事ども言ひつつよろめきたる、いとかはゆし。
かかる事をしても、この世も後の世も益あるべきわざならば、いかがはせん、この世には過ち多く、財を失ひ、病をまうく。百薬の長とはいへど、万の病は酒よりこそ起れ。憂忘るといへど、酔ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思い出でて泣くめる。後の世は、人の知恵を失ひ、善根を焼くこと火の如くして、悪を増し、万の戒を破りて、地獄に堕つべし。「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生る」とこそ、仏は説き給ふなれ。
かくうとましと思ふものなれど、おのづから、捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝、花の本にても、心長閑(のどか)に物語して、盃出したる、万の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入り来て、とり行ひたるも、心慰む。馴れ馴れしからぬあたりの御簾の中より、御果物・御酒など、よきやうなる気はひしてさし出されたる、いとよし。冬、狭き所にて、火にて物煎りなどして、隔てなきどちさし向ひて、多く飲みたる、いとをかし。
旅の仮屋、野山などにて、「御肴何がな」など言ひて、芝の上にて飲みたるも、をかし。いたう痛む人の、強ひられて少し飲みたるも、いとよし。よき人の、とり分きて、「今ひとつ。上少し」などのたまはせたるも、うれし。近づかまほしき人の、上戸にて、ひしひしと馴れぬる、またうれし。
さは言へど、上戸(じょうご)は、をかしく、罪許さるる者なり。酔ひくたびれて朝寝したる所を、主の引き開けたるに、惑ひて、惚れたる顔ながら、細き髻(もとどり)差し出し、物も着あへず抱き持ち、ひきしろひて逃ぐる、掻取姿(かいとりすがた)の後手、毛生ひたる細脛(ほそはぎ)のほど、をかしく、つきづきし。

[現代語訳]
この世には、よく分からない事が多い。これという宴のある時には、まず酒飲みはみんなに酒を注いで、飲みたくない人にまで酒を飲ませる事を強いて面白がったりする。なぜ、そんな無茶をするのか分からない。無理に酒を飲まされる人は、堪えがたい表情をして眉をひそめ、人目を盗んで密かに酒を捨てようとし、酒宴から逃げだそうとするのを、酒飲みは捕まえて引き止め、むやみに飲ませるのだが、きちんとした礼儀正しい人でも、たちまち狂人となって馬鹿な振舞いを始めてしまう。健康な人であっても、飲めない酒を飲めば、重症の病人のようになってしまい前後不覚になって倒れてしまう。
祝うべき日の宴なども、酒の飲めない人にとってはひどいものである。明くる日まで頭が痛くなって、物も食わずにうめいて倒れ、まるで生まれ変わったかのように昨日のことを何も覚えていない。公私の大事な仕事があっても欠席してしまい、他人に迷惑を掛ける。酒は人をこんなつらい目に遭わせるのであり、慈悲もなければ礼儀というものもない。こんな辛い目に遭わされた下戸の人は、酒も宴も、忌々しく恨めしいものになるのではないか。異国にはこんな飲酒の風習があると、飲酒の風習がない国の人が伝え聞いたならば、何とも異様で不思議な話だと思うだろう。
人ごとだと思って見ていても、酔っている者は心配である。思慮深そうで奥ゆかしく見えた人でも、酒を飲むと物事を考えることもなく笑って罵ったりする。言葉が多くなり、烏帽子は歪んで、紐を外して、脛を高く上げて股間が丸見えとなる準備のない様子は、日頃の思慮深き人とも思えない。
清楚に見える女性も、酒を飲めば髪をかきやって額を晴れやかにみんなに披露して、恥ずかしげもなく顔を晒し、大口を開けて笑い出すのだ、男の盃を持つ手に取り付いたり、更に慎みのない人は肴を取って男の口にまで持っていったり、それを逆の端から自分も食べたりするので、行儀はとても悪い。酔っぱらいは、声の限りを出して、みんなで歌い踊るのだが、やがて、年老いた法師も召し出されてきて、黒く汚い上半身を晒して身をよじりながら歌い踊るのである。とても見られたような見せ物ではないのだが、こんなものを喜んで見ている人さえ疎ましく憎らしく感じてしまう。
ある者は、自分がどんなに高貴ですごいかということを、恥ずかしげも無く他人に言い聞かせ、ある者は酔って泣きだし、身分の低い従者達は、怒鳴り合って争っているのだが、その様子はあさましくて恐ろしい。酔っぱらいは、恥ずかしくて心配になるような事ばかりをしでかして、最後は、他人のモノを取り合って、縁側から落ちたり、馬・車から落ちてしまって怪我をする。車に乗らないような人は、大路をよろよろとして歩いて帰り、垣根・門の下などに向けて言葉にしたくもないような事(放尿)をやってしまう。年老いて袈裟をかけた先ほど踊っていた法師が、小童の肩を抑えながら、誰に聞かせるでもなく何かを言いながらよろめいている、とても見苦しいものだ。
こんな情けない行為をしても、飲酒がこの世でも後の世でも利益のある事ならば、どうだろうかとは思うが実際には何の利益もない。この世には過ちが多くて、酒で財産を失ったり、病いを得たりしてしまう。酒は百薬の長とは言うが、病いの多くは酒が原因である。酒でこの世の憂さを忘れるとは言っても、酔った人は過ぎた嫌なことも思い出して泣いている。酒は人の知恵を奪って、積徳の善根を焼くことは火のようなものであり、悪を増長させて、全ての戒めを破ることにもつながり、来世では地獄に堕ちるだろう。『酒を手にとって人に飲ませた者は、五百生の間、手のない者に生まれ変わる』と、仏様も説いておられるのだ。
酒はこのように疎ましいモノではあるが、時には捨て難いという時もある。月の夜や雪の朝、桜の木の下で、心のどかに語り合って、その傍らに酒の盃がある、これはあらゆる事物に興趣を添える業(わざ)というべきものである。手持ち無沙汰で退屈な日に、思いのほか友人がやって来て、盃を交わすというのも心が慰められる。あまり親しくない貴人の御簾の中から、果物や酒などを優雅な様子で差し出されるというのも、とても良いものだ。
冬に、狭い家の中で煎り物などをつつきながら、隔てのない親しい相手と向き合って、多く酒を飲むというのはとても楽しい。旅の仮屋や野山で『肴になるものは何かないか』などと言い合いながら、芝の上で酒を飲むのも愉快である。飲めない人が無理強いされて少しだけ飲むのも、なかなか良い。高貴な方からお酌をして貰って、『もうひとつどうですか。まだ飲み足りないでしょう』などと酒を勧められるのも嬉しい。お近づきになりたかった人が、酒が飲める上戸で、飲むうちに段々と打ち解けていくのも、また嬉しいものだ。
そうは言ったけれど、上戸の酒飲みは面白くて罪のない者たちである。酔いくたびれて引き戸にもたれかかって朝寝をしてると、主人が戸を引き開けて焦って戸惑っている。寝ぼけた顔をしながら、烏帽子もかぶり忘れて髻を出したまま、着物も着れずに抱え持って、帯をひきずって逃げようとする。その裾をたくしあげた後ろ姿、毛が生えた細脛のあたりがおかしく感じられて、その姿は罪のない上戸に似つかわしいものだ。


[古文] 第176段:
黒戸(くろど)は、小松御門、位に即かせ給ひて、昔、ただ人にておはしましし時、まさな事せさひ給ひしを忘れ給はで、常に営ませ給ひける間なり。御薪に煤けたれば、黒戸と言ふとぞ。

[現代語訳]
清涼殿にある北廊の西向きの戸は『黒戸の御所』と呼ばれる。小松の御門(光孝天皇)が即位なされる以前、ただの人であられた時には、御自分で料理をなされていたそうだ。その事を忘れずに、即位されてからもお戯れで以前のように自分で料理をしておられたので、薪の煤(すす)で扉は黒く汚れることになり、『黒戸の御所』と言われるようになった。


[古文] 第177段:
鎌倉中書王(ちゅうしょおう)にて御鞠(おんまり)ありけるに、雨降りて後、未だ庭の乾かざりければ、いかがせんと沙汰ありけるに、佐々木隠岐入道(おきのにゅうどう)、鋸(のこぎり)の屑(くず)を車に積みて、多く奉りたりければ、一庭に敷かれて、泥土の煩ひなかりけり。「取り留めけん用意、有り難し」と、人感じ合へりけり。
この事を或者の語り出でたりしに、吉田中納言の、「乾き砂子(すなご)の用意やはなかりける」とのたまひたりしかば、恥かしかりき。いみじと思ひける鋸の屑、賤しく、異様(ことよう)の事なり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子を設くるは、故実なりとぞ。

[現代語訳]
鎌倉の中書王(後嵯峨天皇の第二皇子・宗尊親王)の御所で蹴鞠が催された時、雨が降ってきた後で庭がまだ乾いていなかったので、どうしようかと話し合っていると、佐々木隠岐入道が鋸で引いた後のおがくずを車一杯に積んで現れた。沢山のおがくずを庭に敷き詰めたので、泥水や泥土の心配は無くなった。『こんな時の為におがくずを用意しているというのはありがたい』と、人々は甚く感動した。
この鎌倉での出来事をある者が吉田中納言に語ると、『乾いた砂の用意はなかったのですか?』と言われてしまい、恥ずかしい思いをした。素晴らしいと思ったおがくずは、身分の低い者の適当な対処で、京都では異様なことでもある。貴人の庭の管理をする人は、雨・泥に備えて乾いた砂を用意しておくというのが、昔からの儀礼である。


[古文] 第178段:
或所の侍(さぶらひ)ども、内侍所の御神楽を見て、人に語るとて、「宝剣をばその人ぞ持ち給ひつる」など言ふを聞きて、内なる女房の中に、「別殿(べつでん)の行幸(ぎょうこう)には、昼御座(ひのござ)の御剣(ぎょけん)にてこそあれ」と忍びやかに言ひたりし、心にくかりき。その人、古き典侍(ないしのすけ)なりけるとかや。

[現代語訳]
ある貴人の邸に仕える従者(家人)どもが、内侍所で行われた御神楽を見物して、『三種の神器の宝剣を、あの人が持たれているぞ』などと仲間同士で語り合っていると、近くの御簾の中にいた女房が、『(方違えのための)別殿の行幸の時は、それは(三種の神器の草薙の剣ではなくて)昼御座の御剣でございますよ』と密かに教えていた、心憎いことである。その女房は、古くから仕えている典侍だったという。


[古文] 第179段:
入宋(にっそう)の沙門(しゃもん)、道眼上人(どうげんしょうにん)、一切経を持来して、六波羅のあたり、やけ野といふ所に安置して、殊に首楞厳経(しゅりょうごんきょう)を講じて、那蘭陀寺(ならんだじ)と号す。
その聖の申されしは、「那蘭陀寺は、大門北向きなりと、江帥(ごうぞつ)の説として言ひ伝へたれど、西域伝・法顕伝などにも見えず、更に所見なし。江帥は如何なる才学にてか申されけん、おぼつかなし。唐土の西明寺(さいみょうじ)は、北向き勿論(もちろん)なり」と申しき。

[現代語訳]
宋で仏教を学んで帰国した僧侶の道眼上人は、一切経を持ち帰って京都の六波羅のあたり、やけ野という所に経を安置した。特に首楞厳経を講義して、その地に建てた寺を那蘭陀寺と呼んだ。
その道眼上人が、『天竺(インド)の那蘭陀寺の大門は北向きだと、江帥の説として伝え聞いているが、玄奘三蔵(三蔵法師)の『西域伝』や法顕上人の『法顕伝』などにはその記述がなく、更に他の文献でも見当たらない。江帥はどういう根拠で北向きだと言われたのかが分からない。唐の西明寺は、もちろん北向きなのだが』とおっしゃっていた。


[古文] 第180段:
さぎちやうは、正月に打ちたる毬杖(ぎじょう)を、真言院より神泉苑(しんぜんえん)へ出して、焼き上ぐるなり。「法成就(ほうじょうじゅ)の池にこそ」と囃すは、神泉苑の池をいふなり。

[現代語訳]
家の前の篝火に色々なものを投げ入れて燃やすという『左義長(さぎちょう)』の行事では、正月に使った毬杖(毬を打つ杖)を真言院から出して、神泉苑で焼き上げるのだ。『法成就の池にこそ(弘法大師の奇跡に対する褒め言葉)』と囃すのは、神泉苑の池の事を言う。


[古文] 第181段:
「『降れ降れ粉雪、たんばの粉雪』といふ事、米搗き(よねつき)篩ひ(ふるひ)たるに似たれば、粉雪といふ。『たまれ粉雪』と言ふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。『垣や木の股に』と謡ふべし」と、或物知り申しき。
昔より言ひける事にや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せられける由、讃岐典侍(さぬきのすけ)が日記に書きたり。

[現代語訳]
「『ふれふれこゆき、丹波のこゆき』という童謡で、粉雪というのは米をついた粉をふるっている時の様子に似ているからである。『たんばの』は誤りであり、『たんまれ粉雪』というのが正しい。その後は『垣や木の股に』と歌っていくのだ」と、ある物知りが言っていた。
昔から謡われている歌なのか、讃岐典侍の日記には、鳥羽天皇の幼い頃、雪の降る日にこの歌を謡っていたと書いている。


[古文] 第182段:
四条大納言(しじょうのだいなごん)隆親卿(たかちかのきょう)、乾鮭(からざけ)と言ふものを供御(くご)に参らせられたりけるを、「かくあやしき物、参る様あらじ」と人の申しけるを聞きて、大納言、「鮭といふ魚、参らぬ事にてあらんにこそあれ、鮭の白乾し(しらぼし)、何条事(なじょうこと)かあらん。鮎の白乾しは参らぬかは」と申されけり。

[現代語訳]
四条大納言隆親卿が、乾鮭というものを天皇の食卓にお届けしたのだが、『こんなあやしい魚を、天皇の御前にお出しするわけにはいかない』と人に言われたのを聞いて、四条大納言は『鮭という魚が天皇へお出しできないということはないだろう。鮭の乾したものに何か問題があるのだろうか、鮎の白乾しはお出しできないのか?』と言い返された。


[古文] 第183段:
人觝く(つく)牛をば角を截り(きり)、人喰ふ馬をば耳を截りて、その標(しるし)とす。標を附けずして人を傷らせ(やぶらせ)ぬるは、主の咎(とが)なり。人喰ふ犬をば養ひ飼ふべからず。これ皆、咎あり。律の禁(いましめ)なり。

[現代語訳]
人を突く牛は角を切り、人を咬む馬は耳を切って、危険な家畜の印とするのだ。印をつけずに人を傷つければ、家畜の主人の落ち度となる。人を咬む犬は飼ってはならない。これらはみな罪になる。これらは、王朝政治の礎となる律令の『律』で定められた禁令である。


[古文] 第184段:
相模守時頼(さがみのかみときより)の母は、松下禅尼(まつしたのぜんに)とぞ申しける。守を入れ申さるる事ありけるに、煤け(すすけ)たる明り障子の破ればかりを、禅尼、手づから、小刀して切り廻しつつ張られければ、兄の城介義景(じょうのすけよしかげ)、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりて、某男(なにがしおのこ)に張らせ候はん。さようの事に心得たる者に候ふ」と申されければ、「その男、尼が細工によも勝り侍らじ」とて、なほ、一間(ひとま)づつ張られけるを、義景、「皆を張り替へ候はんは、遥かにたやすく候ふべし。斑ら(まだら)に候ふも見苦しくや」と重ねて申されければ、「尼も、後は、さはさはと張り替へんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて、心づけんためなり」と申されける、いと有難かりけり。
世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども、聖人の心に通へり。天下を保つほどの人を子にて持たれける、まことに、ただ人にはあらざりけるとぞ。

[現代語訳]
鎌倉幕府第五代執権・相模守時頼(北条時頼)の母は、松下禅尼と言う尼僧であった。その松下禅尼の家に、息子の相模守を招待なされる事があり、家の者でその準備をしていた時、松下禅尼は手に小刀を持って、障子紙を切り回しながら香の煙で煤けた障子の破れた所だけを切り貼りしていた。松下禅尼の兄・城介義景が、その日の世話役として控えていたが、その様子を見て『その障子貼りのお仕事をいただいて他の者にやらせます。そのような事を心得た男がおりますので』といった。『だが、その男の細工はよもや尼の細工に勝りますまい』と松下禅尼は答えて、更に障子の破れを一間ずつ張り替え続けた。
『全部一気に貼り替える方がはるかに簡単です。それに、そのやり方だと新しい所と古い所でマダラになってしまうので、見苦しくありませんか?』と義景が申し上げた。『尼も、後にはさっぱりと全て貼り替えようとは思うが、今日ばかりはわざとこうしているのだ。物は、壊れた所だけを修理して用いるものだと、若い人に見習わせて覚えさせる為なのである』と松下禅尼はお答えになったが、とてもありがたいお言葉である。
世を治める道は倹約を基本としている。松下禅尼は女性といえども、聖人の心に通じておられる。やはり、天下を保つほどの人(北条時頼)を子としてお産みになっただけのことはある、本当に並の人間ではない。


[古文] 第185段:
城陸奥守泰盛(やすもり)は、双なき馬乗りなりけり。馬を引き出させけるに、足を揃へて閾(しきみ)をゆらりと超ゆるを見ては、「これは勇める馬なり」とて、鞍を置き換へさせけり。また、足を伸べて閾に蹴当てぬれば、「これは鈍くして、過ちあるべし」とて、乗らざりけり。
道を知らざらん人、かばかり恐れなんや。

[現代語訳]
陸奥守泰盛(安達城介義景)は、比類のない馬乗りだった。厩から馬を引き出させる時に、足を揃えて敷居ををゆらりと超える馬を見て、『これは勇み馬だ』と言って、鞍を置き換えさせた。次の馬が足を伸ばして敷居にひずめを蹴り当てるのを見て、『この馬は鈍くて、怪我するかもしれない』と言って乗らなかった。乗馬の道に精通していない人は、こんなにも恐れないだろう。


[古文] 第186段:
吉田と申す馬乗りの申し侍りしは、「馬毎にこはきものなり。人の力争ふべからずと知るべし。乗るべき馬をば、先づよく見て、強き所、弱き所を知るべし。次に、轡(くつわ)・鞍の具に危き事やあると見て、心に懸る事あらば、その馬を馳すべからず。この用意を忘れざるを馬乗りとは申すなり。これ、秘蔵(ひぞう)の事なり」と申しき。

[現代語訳]
吉田という馬乗りが申し上げることには、『馬はどの馬も手強くて、人の力など馬に敵うはずもないと知るべきだろう。乗る馬をまずはよく見て、長所や短所を知らなければならない。次に、くつわや鞍などの馬具に危険はないかと見て、心にひっかかる事があるならば、馬を走らせるべきではない。この用意を忘れない者を真の馬乗りと言うのだ。これが、馬に乗る秘訣なのだ。』と言った。


[古文] 第187段:
万の道の人、たとひ不堪(ふかん)なりといへども、堪能(かんのう)の非家(ひか)の人に並ぶ時、必ず勝る事は、弛みなく慎みて軽々しくせぬと、偏へ(ひとえ)に自由なるとの等しからぬなり。
芸能・所作のみにあらず、大方の振舞・心遣ひも、愚かにして慎めるは、得の本なり。巧みにして欲しきままなるは、失の本なり。

[現代語訳]
それぞれの道の専門家は、専門家の中では劣っていても、素人の中で上手な人と並んだ時には、必ず勝つようになっている。これは、専門家がこれこそが自分の生きる道(天職)であると思い、その技芸・知識を慎んで訓練して軽々しく扱わないことと、素人が自由気ままに練習して上達を目指すこととの違いである。
芸能や儀礼の所作だけではなくて、普段の振舞いや心づかいにしても、自分の未熟さを認めて慎むのであれば、熟達・成功の原因となる。技術が優れているからといって好き勝手にやるのは、失敗・失策の原因である。


[古文] 第188段:
或者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説教などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教のままに、説教師にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。輿・車は持たぬ身の、導師に請(しょう)ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事の後、酒など勧むる事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説教習うべき隙なくて、年寄りにけり。
この法師のみにもあらず、世間の人、なべて、この事あり。若きほどは、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも成じ、能をも附き、学問をもせんと、行末久しくあらます事ども心には懸けながら、世を長閑に思ひて打ち怠りつつ、先づ、差し当りたる、目の前の事のみに紛れて、月日を送れば、事々成す事なくして、身は老いぬ。終に、物の上手にもならず、思ひしやうに身をも待たず、悔ゆれども取り返さるる齢ならねば、走りて坂を下る輪の如くに衰へ行く。
されば、一生の中、むねとあらまほしからん事の中に、いづれか勝るとよく思ひ比べて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし。一日の中、一時の中にも、数多の事の来らん中に、少しも益の勝らん事を営みて、その外をば打ち捨てて、大事を急ぐべきなり。何万をも捨てじと心に取り持ちては、一事も成るべからず。
例へば、碁を打つ人、一手も徒らにせず、人に先立ちて、小を捨て大に就くが如し。それにとりて、三つの石を捨てて、十の石に就くことは易し。十を捨てて、十一に就くことは難し。一つなりとも勝らん方へこそ就くべきを、十まで成りぬれば、惜しく覚えて、多く勝らぬ石には換へ難し。これをも捨てず、かれをも取らんと思ふ心に、かれをも得ず、これをも失ふべき道なり。
京に住む人、急ぎて東山に用ありて、既に行き着きたりとも、西山に行きてその益勝るべき事を思ひ得たらば、門より帰りて西山に行くべきなり。「此所まで来着きぬれば、この事をば先づ言ひてん。日を指さぬ事なれば、西山の事は帰りてまたこそ思ひ立ため」と思ふ故に、一時の懈怠(けたい)、即ち一生の懈怠となる。これを恐るべし。
一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るるをも傷むべからず、人の嘲りをも恥づべからず。万事に換へずしては、一の大事成るべからず。人の数多ありける中にて、或者、「ますほの薄(すすき)、まそほの薄など言ふ事あり。渡辺の聖、この事を伝へ知りたり」と語りけるを、登蓮(とうれん)法師、その座に侍りけるが、聞きて、雨の降りけるに、「蓑・笠やある。貸し給へ。かの薄の事習ひに、渡辺の聖のがり尋ね罷らん」と言ひけるを、「余りに物騒がし。雨止みてこそ」と人の言ひければ、「無下の事をも仰せらるるものかな。人の命は雨の晴れ間をも待つものかは。我も死に、聖も失せなば、尋ね聞きてんや」とて、走り出でて行きつつ、習ひ侍りにけりと申し伝へたるこそ、ゆゆしく、有難う覚ゆれ。「敏き時は、即ち功あり」とぞ、論語と云ふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事の因縁をぞ思ふべかりける。

[現代語訳]
ある者が、自分の子を法師にして言った。『仏の道を学んで物事の因果の理を知り、学んだ内容を説経でもして、世を渡るための支えとせよ』と。子は親の教えのままに、説経師になることに決め、最初に乗馬を習うことにした。大きな寺の僧侶のように牛車・輿に乗れる身分でもないので、法事の導師として招かれて馬などで迎えに来られた時に、桃尻で落馬したら恥ずかしい思いをすると心配になったからである。次に、法事の後で、酒など勧められた時に芸の一つも披露できないと、檀那がつまらなく思うだろうと思って早歌を習った。乗馬・早歌の二つがだんだんと熟練の域に達して、いよいよその道が面白くなってしまい懸命に練習しているうちに、本来の目的だった仏教の説経を習う暇(時間)もないままに年寄りになってしまった。
この法師だけではない、世間の人は誰でもこんなものだ。若いうちは何につけても、まずは身を立て、大いなる目的をも達成し、技芸を身につけて、学問を修めようと、長い将来をあれこれと計画しているものだ。だが、まだまだ人生は長いと思ってやるべきことを怠けていると、差し迫った目の前の仕事に紛れて月日を送り、何事も達成できないままに身は老いてしまう。 最後には、何の道にも精通せず、思い通りに出世することもできず、それを悔いたところで取り返しのつかない年齢になっており、ただ坂道を転がる車輪のように衰えていくだけである。
そうであれば、一生のうち、あれもこれもと望む事の中から、どれが勝るかをよく思い比べて第一の事を決定し、その他は思い切って捨てて、一つの事に励むのが良いのだ。一日のうち、僅かな時間の間にも数多くのやることがあるが、その中から少しでも自分に利益のある事を行い、その他のことを打ち捨てて、大切な大事こそ急ぐべきだ。やりたいこと全てを捨てまいとして心に持っていては、一つの大事も成し遂げることはできない。
例えば、碁の名人が一手も無駄にせず、相手に先立って小を捨て大につくようなものである。三つの石を捨てて十の石を取るのは簡単だ。だが、十の石を捨てて十一の石を取るのは難しい。一つでも多く石を得て勝つ手を取るべきだが、石が十個までなるとそれを失うのが惜しく思えて、多く石を取れる手には換えがたくなってしまう。これを捨てたくない、あれは取りたいと思う心では、あれも得られないし、これも失ってしまう最悪の手になってしまう。
京に住む人が東山に急用ができて、既に東山に行き着いていたとしても、西山に東山よりも勝る利益がある事に思い至ったならば、すぐに門から出て西山に急ぐべきなのだ。『ここまで来たんだから、まずこの用事を済まそう。日時の決まった事でもないんだから、西山の事は家に帰ってからまた考えよう』と思ってしまうがために、一時の懈怠(怠りと緩み)がそのまま一生の懈怠になってしまう。このことこそを、恐れるべきだ。
一つの事を必ず成そうと思うならば、他の事が失敗しても落ち込むのではなく、他人の嘲りを受けても恥じてはいけない。全ての事柄と引き換えにしなければ、一番の大事が成るはずなどない。 大勢の人がいる中である人がこう言った。『ますほのススキ、まそほのススキなどと言うことがある。渡辺の聖は、このススキについて何か知っているということだ』と。その場にいた登蓮法師はそれを聞いて、雨が降っていたのにも関わらず、『笠と蓑はありますか。あれば貸して下さい。そのススキの事を習いに、今から渡辺の聖のところへ行って参ります』と言った。『あまりにせっかちですね。雨がやんでからでいいでしょう』と周りの人が言ったのだが、『とんでもないことを言わないで下さい。人の命が雨の晴れ間をも待つものでしょうか。私が死んで、聖も死ねば、誰が尋ねて誰が教えることができるんですか。』と登蓮法師は言い返した。登蓮法師は雨の中を駆け出して、渡辺の聖にススキの事を習いに行ってしまったと伝えられているが、立派な即断であり、なかなか出来ないことでもある。
『敏き時は、即ち功あり(すぐに行えば、すぐに良い結果が得られる)』と、論語という書にも書かれている。ススキを不審に思ってすぐに知ろうとした登蓮法師のように、乗馬・早歌の道に逸れた初めの法師も、一大事の因縁(諸仏が出現する機縁と仏道の精進)こそを思うべきであった。


[古文] 第189段:
今日はその事をなさんと思へど、あらぬ急ぎ先づ出で来て紛れ暮し、待つ人は障りありて、頼めぬ人は来たり。頼みたる方の事は違ひて、思ひ寄らぬ道ばかりは叶ひぬ。煩はしかりつる事はことなくて、易かるべき事はいと心苦し。日々に過ぎ行くさま、予て(かねて)思ひつるには似ず。一年の中もかくの如し。一生の間もしかなり。
予てのあらまし、皆違ひ行くかと思ふに、おのづから、違はぬ事もあれば、いよいよ、物は定め難し。不定と心得ぬるのみ、実(まこと)にて違はず。

[現代語訳]
今日はあの事をやろうと考えていたら、思わぬ急用が出来てしまいそれに紛れて時間を過ごし、待っていた人は用事で来れなくなり、期待していない人が来たりもする。期待していた方面は駄目になり、思いがけない方面の事柄だけが思い通りになってしまったりもする。 面倒だと思ってきたことは何でもなくて、簡単に終わるはずだった事には苦労する。一年というのはこんなものだ。一生という時間もこんな風に過ぎていくだろう。
かねてからの予定は、全て計画と食い違ってしまうかと思えば、たまには予定通りに行く事もあるから、いよいよ物事というのは定めにくいものだ。予定なんて不定(未定)と考えていれば、実際の現実と大きく異なることはない。


[古文] 第190段:
妻(め)といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるるわざなり。殊なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、苟しくも推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂し。男なくなりて後、尼になりて年寄りたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明暮添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空(なかぞら)にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍らしかりぬべし。

[現代語訳]
妻というのは、男が持つべきものではない。『いつまでも独り者で』などと言われるのは心憎いものであるが、『誰それの婿になった』とか、また、『こういった女を家に連れ込んで、一緒に住んでいる』とか聞くと、その男をやたらと見下げてしまうような気持ちになる。格別の魅力がない女を素晴らしいと思い込んだ上で一緒になったと、無責任にも周囲から推測され、良い女であれば可愛がって自分の守り本尊のように崇め奉ってしまう(尻に敷かれてしまう)。
例えば、妻を持つことをその程度のものだと思ってしまう。更に、家を守って家政を司る女は、非常につまらない人生となる。子どもが出来れば、妻は大切に世話して可愛がるが、これも気分が沈む。夫が亡くなれば、貞節を通して尼となり年を重ねる。男というのは、死んでも妻に干渉しているのがあさましくて興醒めである。
どんな女であっても、朝から晩まで毎日見ていれば、ひどく気に食わないところが出てきて憎くなってしまう。女にとっても、嫌われつつも一緒にいて世話をしなければならない、そんな結婚は中途半端なものになってしまうだろう。他の場所から時々通い住むという通い婚こそ、年月を経ても絶えない男女の仲になるのではないか。不意に男がやって来て、そのまま一泊して帰るのは、きっと女にとっても新鮮な関係になるだろう。


[古文] 第191段:
「夜に入りて、物の映え(はえ)なし」といふ人、いと口をし。万のものの綺羅・飾り・色ふしも、夜のみこそめでたけれ。昼は、ことそぎ、およすけたる姿にてもありなん。夜は、きららかに、花やかなる装束、いとよし。人の気色も、夜の火影ぞ、よきはよく、物言ひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心にくし。匂ひも、ものの音も、ただ、夜ぞひときはめでたき。
さして殊なる事なき夜、うち更けて参れる人の、清げなるさましたる、いとよし。若きどち、心止めて見る人は、時をも分かぬものならば、殊に、うち解けぬべき折節ぞ、褻(け)・晴(はれ)なくひきつくろはまほしき。よき男の、日暮れてゆするし、女も、夜更くる程に、すべりつつ、鏡取りて、顔などつくろひて出づるこそ、をかしけれ。

[現代語訳]
『夜になると、物の見映えがしない』と言う人は、全く残念な美意識の持ち主である。全てのものの美しさ・装飾・色合いなども、夜こそが素晴らしい。昼なんかは簡素で地味な姿でいても良いだろう。夜は、煌びやかで華やかな装束がとても似合って良いのだ。人の気配にしても夜の火影のもとなら、美しい人はさらに美しく見えるし、話している声も、暗い場所で聞いていると、声をひそめる気配りがされているので、心引かれるものがある。匂いも声も、夜の時間帯のほうがひときわ素晴らしい。
取り立てて何という事もない夜、夜更けに参上した人が、とても清らかなすっきりした顔をしているのが良い。若い者同士でお互いを注意して見る時には、時間の区別もなくなってしまうものだが、特に打ち解けあう機会には、ハレとケの区別もせずに身だしなみを整えていて欲しいものだ。身分のある男が、日が暮れてから髪を洗い、女も夜更けに廊下を静かに滑るように退席し、鏡を取って顔(化粧)をつくろってから男の前に再び出る、こういった場面に情趣があるのである。


[古文] 第192段:
神・仏にも、人の詣でぬ日、夜参りたる、よし。

[現代語訳]
神社の神・寺院の仏には、人が詣でる事のない日(神社の祭日や寺院の行事などが無い日)の夜に参るのが良い。


[古文] 第193段:
くらき人の、人を測りて、その智を知れりと思はん、さらに当るべからず。
拙き人の、碁打つ事ばかりにさとく、巧みなるは、賢き人の、この芸におろかなるを見て、己れが智に及ばずと定めて、万の道の匠、我が道を人の知らざるを見て、己れすぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。文字の法師、暗証の禅師、互ひに測りて、己れに如かずと思へる、共に当らず。
己れが境界にあらざるものをば、争ふべからず、是非すべからず。

[現代語訳]
知力のない暗愚な人が他人を推測して、その知性を評価しても、まったく当たるはずがない。知力の乏しい人が自分が碁を巧みに打てるからといって、碁の技芸には劣っている賢い人を見て、こいつは自分よりも知力が劣っていると決め付ける。それぞれの道に通じた専門家(職人)が、他人が自分の専門分野のことを知らないのを見て、自分のほうが優れていると思い込むのは大きな誤りである。経典・文字を専門とする法師、座禅・瞑想に通じた禅師が、お互いに相手の知力を推測して、自分には及ばないと思ったりもするが、これは共に間違っている。
自分の範疇(専門)にないものに対して、争ってはいけないし、是非善悪を論じても仕方が無いのである。


[古文] 第194段:
達人の、人を見る眼は、少しも誤る所あるべからず。
例へば、或人の、世に虚言を構へ出して、人を謀る事あらんに、素直に、実と思ひて、言ふままに謀らるる人あり。余りに深く信を起して、なほ煩はしく、虚言を心得添ふる人あり。また、何としも思はで、心をつけぬ人あり。また、いささかおぼつかなく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じゐたる人あり。また、実しくは覚えねども、人の言ふ事なれば、さもあらんとて止みぬる人もあり。また、さまざまに推し、心得たるよしして、賢げにうちうなづき、ほほ笑みてゐたれど、つやつや知らぬ人あり。また、推し出して、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ、誤りもこそあれと怪しむ人あり。また、「異なるやうもなかりけり」と、手を拍ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりとも言はず、おぼつかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を、初めより心得て、少しもあざむかず、構へ出したる人と同じ心になりて、力を合はする人あり。
愚者の中の戯れだに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、詞にても、顔にても、隠れなく知られぬべし。まして、明らかならん人の、惑へる我等を見んこと、掌の上の物を見んが如し。但し、かやうの推し測りにて、仏法までをなずらへ言ふべきにはあらず。

[現代語訳]
物事の道理を知った達人の人間性を見る目には、少しも誤りがない。
例えば、ある人が、世間に陰謀を企てて、人をだまそうとすると、素直に本当だと信じて言うがままにだまされる人もあれば、余りに深く信じ過ぎて、更に煩わしくも虚言に自分の印象を付け加えてしまう者もある。また、何とも思わないで、虚言を心にもかけない人もいる。また、何でもない下らない話だと思っても、信じるでもなく信じないでもなくで思い悩む人もいる。
また、本当だとは思えないけれど、人の言う事であればそんなこともあるのかなと、そこで考えを止めてしまう人もいる。また、さまざまな推測をして心得たような振りをして、賢そうにうなづきつつ微笑んでいるが、はっきりとは知らない人もいる。また、虚言を推し測って、『あら、そうなのか』と嘘の真相に気づきながらも、自分に誤りがあるかもしれないと疑う人もいる。
また、事が終わってしまった後で、『特にいつもと異なる様子もなかった』と、手を打って笑うような人もいる。また、虚言だと分かってはいてもそれを知ってるとも言わずに、事実がはっきりしない間は、知らない人と同じようにして静かに過ごす人もいる。また、この虚言の本意を初めから心得ていて、真剣に陰謀の首謀者と同じ気持ちになって力を合わせる協力者もいる。
こんな愚か者の戯れですら、物事を良く知った達人の前では、言葉から顔色から全てが隠すこともできずに知られてしまう。こういった達人が、判断に迷っている我等を見る目は、手のひらに載せた物を見るようなものである。ただし、達人であろうとも、このような推測だけで仏法までも虚言と見なしてしまうべきではないだろう(仏法には、衆生救済・解脱を目指すために嘘も方便ということがあるのだから)


[古文] 第195段:
或人、久我縄手(こがなわて)を通りけるに、小袖(こそで)に大口着たる人、木造りの地蔵を田の中の水におし浸して、ねんごろに洗ひけり。心得難く見るほどに、狩衣(かりぎぬ)の男二三人出で来て、「ここにおはしましけり」とて、この人を具して去にけり。久我内大臣殿(こがのないだいじんどの)にてぞおはしける。
尋常におはしましける時は、神妙に、やんごとなき人にておはしけり。

[現代語訳]
ある人が久我縄手の通りを歩いていると、小袖に大口という下着姿の人が、木製の地蔵を田んぼの水に浸しながら丁寧に洗っていた。何をしているのかと不審に思って見ているうちに、貴族の着る狩衣を着た男が二、三人出て来て、『ここにおられましたか』と言うなり、地蔵を洗っていた男を連れて去ってしまった。その人こそ、久我内大臣殿(源通基)でございました。
正気でございました時は、頭もしっかりとしていて身分の高い高貴な方でございましたが。


[古文] 第196段:
東大寺の神輿(しんよ)、東寺の若宮より帰座の時、源氏の公卿参られけるに、この殿、大将にて先を追はれけるを、土御門相国(つちみかどのしょうこく)、「社頭にて、警蹕(けいひつ)いかが侍るべからん」と申されければ、「随身(ずいじん)の振舞は、兵杖(ひょうじょう)の家が知る事に候」とばかり答え給ひけり。
さて、後に仰せられけるは、「この相国、北山抄(ほくざんしょう)を見て、西宮の説をこそ知られざりけれ。眷属の悪鬼・悪神恐るる故に、神社にて、殊に先を追ふべき理あり」とぞ仰せられける。

[現代語訳]
初めは奈良・東大寺にあった手向山八幡宮の御神体を、京都・東寺の若宮八幡宮の御神体にしていたが、その神輿を奈良の東大寺にまで帰座させた事があった。この時に、八幡宮を氏神とする源氏の公卿達が神輿の警護を務めたのだが、その大将・源通基は家来に命じて声を出させて貴人でも通るかのように前を行く人達を人払いした。神輿の行列に付き添っていた土御門相国(源定実)が、大将の源通基に『神社の前で、このような威圧的な警護はいかがなものでしょうか』と申し上げたが、通基は『神をお送りする作法というのは、武家の家柄が知るところのものである』と得意そうに答えるだけであった。
後になって源通基(久我内大臣)がおっしゃったのは、『あの人(源定実)は「北山抄」は読んでいたようだが、西宮の説を知らなかったようだ。神輿につきまとう眷属の悪鬼・悪神を恐れるがために、神社であろうとも人を追い払う道理があるのだ』ということだった。


[古文] 第197段:
諸寺の僧のみにもあらず、定額(じょうがく)の女孺(にょじゅ)といふ事、延喜式に見えたり。すべて、数定まりたる公人(くにん)の通号にこそ。

[現代語訳]
(決まった給与で雇われる)定額僧と呼ばれる者は諸寺の僧侶だけではない、『延喜式』にも『定額の女孺』という言葉があるのを見た。『定額』というのは、定員が定まったすべての役人の通称とすべきではないか。


[古文] 第198段:
揚名介(ようめいのすけ)に限らず、揚名目(ようめいのさかん)といふものあり。政事要略(せいじようりゃく)にあり。

[現代語訳]
決まった任国を持たない名目だけの国司次官である『揚名介』だけではなく、名目だけの国司役人である『揚名目』というものもある。『政事要略』という平安時代の法制についての書物に載っている。


[古文] 第199段:
横川行宣法印(よかわの・ぎょうせんぽういん)が申し侍りしは、「唐土は呂の国なり。律の音なし。和国は、単律の国にて、呂の音なし」と申しき。

[現代語訳]
比叡山延暦寺にある横川で修行していた行宣法印が申したのは、『中国は雅楽の呂旋法の国であり、律の音階がない。日本は、律旋法で雅楽が演奏される国で、呂の音階がない』ということである。


[古文] 第200段:
呉竹(くれたけ)は葉細く、河竹(かわたけ)は葉広し。御溝(みかわ)に近きは河竹、仁寿殿(じじゅうでん)の方に寄りて植ゑられたるは呉竹なり。

[現代語訳]
(中国産とされる)呉竹は葉が細く、(日本産とされる)河竹は葉が広い。宮中の庭にある溝に近いのは河竹で、仁寿殿に近い場所に植えられているのは呉竹である。


[古文] 第201段:
退凡(たいぼん)・下乗(げじょう)の卒塔婆(そとば)、外なるは下乗、内なるは退凡なり。

[現代語訳]
『退凡(たいぼん)」と『下乗(げじょう)』の卒塔婆。外にあるのが『下乗』、内にあるのが『退凡』である。
紀元前6世紀、インドの霊鷲山で釈迦牟尼世尊が説法をしたが、その説法を聞くためにマカダ国のビンバシャラ王が山頂への道を開き、その途中に荘厳な卒塔婆を一対建てたのだが、それが『退凡・下乗の卒塔婆』と呼ばれるものである。
『下乗の卒塔婆』というのは、ここから先は神聖な場所になるので、そこから乗物を降りよと指示する卒塔婆であった。『退凡の卒塔婆』とは凡人・凡夫の立ち入りを禁止するという意味の卒塔婆であり、上座部仏教(小乗仏教)の出家者だけが救済されるというエリート主義をイメージさせるものである。


[古文] 第202段:
十月を神無月と言ひて、神事に憚る(はばかる)べきよしは、記したる物なし。本文も見えず。但し、当月、諸社の祭なき故に、この名あるか。
この月、万の神達、太神宮に集り給ふなど言ふ説あれども、その本説なし。さる事ならば、伊勢には殊に祭月とすべきに、その例もなし。十月、諸社の行幸(ぎょうこう)、その例も多し。但し、多くは不吉の例なり。

[現代語訳]
十月を『神無月(かんなづき)』と言うが、神社に神のいない月だとして祭りを遠慮する理由を記した書物はない。古典にもその根拠となるような文書はない。ただし、十月にはどこの神社も祭りを行わないので、神無月と呼ばれるようになったのだろうか。
十月には、全ての神々が伊勢神宮に集まるなどという説もあるが、伊勢に集まるという根拠のある説があるわけではない。神々が集まるのであれば、伊勢神宮では特別な祭りの月とすべきなのにその例もないのだ。十月は、各神社へ天皇がご参拝するという例も多い。だが、その多くは不吉な例である。
現代の通説では、神無月に神々が集まるのは三重県の『伊勢神宮』ではなくて島根県の『出雲大社』であるが、吉田神社の神官の家系でもある兼好法師が、10月に神々が集まる場所を『伊勢神宮』と考えているのが興味深いところである。


[古文] 第203段:
勅勘(ちょっかん)の所に靫(ゆき)懸くる作法、今は絶えて、知れる人なし。主上(しゅじょう)の御悩(ごのう)、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。鞍馬に靫の明神といふも、靫懸けられたりける神なり。看督長(かどのおさ)の負ひたる靫をその家に懸けられぬれば、人出で入らず。この事絶えて後、今の世には、封を著くる(つくる)ことになりにけり。

[現代語訳]
勅命によって謹慎処分となった者の家には『靫(ゆき:竹や革・銅で作られた矢を入れて背負う入れ物)』をかける作法があったが、今では知る人がない。天皇の御病気の時、あるいは世の中が乱れた時には、五条の天神という神社に靫をかけられる。鞍馬にある靫の明神というのも、靫をかけられた神である。朝廷の警察機構である検非違使庁の看督長が背負った靫を、謹慎中の人物の家に懸ければ、人の出入りは出来なくなるのだ。この罪人(謹慎者)を罰するための制度・慣習は今ではすっかり絶えてしまっているが、今の世(六波羅探題が管轄する武家の世)では、謹慎者の家の門を封印するようになっている。


[古文] 第204段:
犯人を笞(しもと)にて打つ時は、拷器に寄せて結ひ附くる(ゆいつくる)なり。拷器の様も、寄する作法も、今は、わきまへ知れる人なしとぞ。

[現代語訳]
罪を犯した犯人を木の枝で造った鞭でムチ打つ時には、拷問器に寄せて縛りつけるものだ。だが、拷問器の形状も、拷問器に縛りつける方法も、今ではそれを知っている人がもういない(朝廷の検非違使庁が警察として治安を維持する時代が終わりを告げて、幕府の六波羅探題が京都の治安を担当する時代となった)。


[古文] 第205段:
比叡山に、大師勧請(だいしかんじょう)の起請(きしょう)といふ事は、慈恵僧正(じけいそうじょう)書き始め給ひけるなり。起請文といふ事、法曹にはその沙汰なし。古の聖代、すべて、起請文につきて行はるる政はなきを、近代、この事流布したるなり。
また、法令には、水火に穢れを立てず。入物には穢れあるべし。

[現代語訳]
比叡山の開祖である伝教大師・最澄の『霊威の召還』は、慈恵僧正によって始められたと書き伝えられている。神仏や大師を召還する際の契約書である起請文は、召還を実際に行った慈恵僧正以外の僧侶・法師をも縛るものではない。古代の神聖な霊威が残っていた時代には、こういう起請文(誓約書)に基づいて政治を行ったという例はない。最近になって、神仏・大師と契約を交わす起請文が政治・祭祀の場で流行してきたのである。
また、公的な法令では水・火にはケガレを認めない。だが、入れ物にはケガレがあるはずであるという。


[古文] 第206段:
徳大寺故大臣殿、検非違使の別当の時、中門にて使庁の評定行はれける程に、官人章兼(あきかね)が牛放れて、庁の中へ入りて、大理の座の浜床(はまゆか)の上に登りて、にれうちかみて臥したりけり。重き怪異(かいい)なりとて、牛を陰陽師(おんみょうじ)の許へ遣すべきよし、各々申しけるを、父の相国聞き給ひて、「牛に分別なし。足あれば、いづくへか登らざらん。オウ弱の官人、たまたま出仕の微牛を取らるべきやうなし」とて、牛をば主に返して、臥したりける畳をば換へられにけり。あへて凶事なかりけるとなん。
「怪しみを見て怪しまざる時は、怪しみかへりて破る」と言へり。

[現代語訳]
今は亡き徳大寺の大臣殿(藤原公孝)が検非違使庁の長官の時に、庁舎の屋敷の中門で検非違使庁の評定が行われたことがあった。その評定の途中で、中原章兼という検非違使の下級役人の牛が牛車から離れて、屋敷の中に入ってしまった。その牛は、評定の座の大臣殿が座る席に上がり、草をくちゃくちゃと反芻しながら横になってしまった。
それを見ていた人たちは、これはめったにない怪異現象だと言って、その牛を陰陽師の元へやるべきだという意見もでた。だが、徳大寺殿の父である徳大寺実基が騒ぎを聞きつけておっしゃった。『牛に分別なんてない。足があればどこへでも登るものだ。微禄の下級役人がたまたま出仕に利用しただけの牛を取りあげることは無いだろう』と。徳大寺殿の父がそう言われるので、その牛は主人に返すことにして、牛が寝て汚れた畳を取り替えるだけで終わらせた。その簡単な対応だけで、何も凶事(悪い事)が起こることも無かった。
『怪しい事象を見ても、怪しまなければ、怪しい事柄は自然に破れる(何も奇妙な凶事は起こらない)』と言うことである。


[古文] 第207段:
亀山殿建てられんとて地を引かれけるに、大きなる蛇(くちなわ)、数も知らず凝り集りたる塚ありけり。「この所の神なり」と言ひて、事の由を申しければ、「いかがあるべき」と勅問ありけるに、「古くよりこの地を占めたる物ならば、さうなく掘り捨てられ難し」と皆人申されけるに、この大臣、一人、「王土にをらん虫、皇居を建てられんに、何の祟りをかなすべき。鬼神はよこしまなし。咎むべからず。ただ、皆掘り捨つべし」と申されたりければ、塚を崩して、蛇をば大井河に流してげり。
さらに祟りなかりけり。

[現代語訳]
亀山殿の屋敷を建設しようとして、土地の地ならしをしていると、大きな蛇が数も数えられないほど沢山寄り集っている塚が見つかった。建設担当の役人は『この蛇は、この土地の神である』と言って工事を中止し、その蛇塚が出てきた状況を後嵯峨院に伝えると、反対に院から『どうしたほうが良いのか』と勅問をされてしまった。
『古くからこの地にいる蛇神ですから、そう簡単には掘り捨てられないでしょう』とみんなが申し上げた。だが、亀山殿の建設責任者である大臣(徳大寺実基)ひとりだけが反対して、『陛下が支配する王土に住んでいる蛇が、どうして皇居を建てているのに祟りを起こすだろうか、いや起こすはずもない。鬼神は邪心を持たず、建設を中断すべきではない。ただみんなで蛇を掘り出して川に流せば良い』と申し上げた。大臣がそう言うので、蛇塚を崩して大量の蛇を大井川に流してしまった。
蛇を川に流したにも関わらず、(大臣の言うとおり)祟りなどは全くなかった。


[古文] 第208段:
経文などの紐を結ふに、上下よりたすきに交へて、二筋の中よりわなの頭を横様に引き出す事は、常の事なり。さやうにしたるをば、華厳院弘舜僧正、解きて直させけり。「これは、この比様(このごろよう)の事なり。いとにくし。うるはしくは、ただ、くるくると巻きて、上より下へ、わなの先を挟むべし」と申されけり。
古き人にて、かやうの事知れる人になん侍りける。

[現代語訳]
仏教のお経など巻物の紐を結ぶのに、上から下へとたすきに交えて二筋の中から、紐の先を横向きに引き出すのは通常よく行われていることだ。ある巻物を、そういう風にして華厳院弘舜僧正が解いて直させた。『この結び方は今風過ぎるので、(伝統が感じられず)相当に醜い。麗しい結び方とは、ただくるくると巻いて、最後に上の紐の先を下に通せば良いだけなのだ』と僧正はおっしゃる。
僧正は古い人であり、(大勢の人が忘れている)こんな事を知っているのである。


[古文] 第209段:
人の田を論ずる者、訴へに負けて、ねたさに、「その田を刈りて取れ」とて、人を遣しける(つかわしける)に、先づ、道すがらの田をさえ刈りもて行くを、「これは論じ給ふ所にあらず。いかにかくは」と言ひければ、刈る者ども、「その所とても刈るべき理なけれども、僻事(ひがごと)せんとて罷る者なれば、いづくをか刈らざらん」とぞ言ひける。
理、いとをかしかりけり。

[現代語訳]
他人の田の所有権を巡って、訴えを起こし負けた者がいた。その残念さと妬ましさで、『その田の稲を刈り取って来い』と、配下の男達に命令した。命じられた男達は、まず通り道にある他の田んぼの稲も刈り取って行く。その横暴を見た百姓達が、『ここは訴訟になっている場所ではないぞ。どうしてこんな事をするのだ』と反論して止めようとしたが、勝手に稲を刈っている男達は、『目指している田んぼの稲だって勝手に刈り取って良いなどという理由はないだろう。これから悪事をしようとして参る者なら、どこだって刈り取っていくものさ』と言う。
こういった理屈は、とても面白い。※この段の逸話は、鎌倉時代末期の地方武士(地侍・国人)の勢力が時に行った『刈田狼藉(かりたろうぜき)』に関するものであり、半農半士の武装勢力が強引に他人の田んぼの稲を刈り取る乱暴を働くことがあったのである。


[古文] 第210段:
「喚子鳥(よぶこどり)は春のものなり」とばかり言ひて、如何なる鳥ともさだかに記せる物なし。或真言書の中に、喚子鳥鳴く時、招魂の法をば行ふ次第あり。これは鵺(ぬえ)なり。万葉集の長歌に、「霞立つ、長き春日の」など続けたり。鵺鳥も喚子鳥のことざまに通いて聞ゆ。

[現代語訳]
『喚子鳥とは春の鳥である』とは言うのだが、どのような鳥であるかについて明確に記した書物はない。ある真言宗の書の中に、喚子鳥が鳴く時に『招魂の法』という秘儀を行う方法が書いてあるが、これは鵺という鳥である。万葉集の長歌に、『霞立つ、長き春日の』などと続けてたりしているので、鵺鳥も喚子鳥の様子に似通って見える鳥なのだと思われる。※現在では、喚子鳥はカッコウのこと、鵺はトラツグミのことだと考えられている。


[古文] 第211段:
万の事は頼むべからず。愚かなる人は、深く物を頼む故に、恨み、怒る事あり。勢ひありとて、頼むべからず。こはき者先づ滅ぶ。財多しとて、頼むべからず。時の間に失ひ易し。才ありとて、頼むべからず。孔子も時に遇はず。徳ありとて、頼むべからず。顔回も不幸なりき。君の寵をも頼むべからず。誅を受くる事速かなり。奴(やっこ)従へりとて、頼むべからず。背き走る事あり。人の志をも頼むべからず。必ず変ず。約をも頼むべからず。信ある事少し。
身をも人をも頼まざれば、是なる時は喜び、非なる時は恨みず。左右広ければ、障らず、前後遠ければ、塞がらず。狭き時は拉げ(ひしげ)砕く。心を用ゐる事少しきにして厳しき時は、物に逆ひ、争ひて破る。緩くして柔らかなる時は、一毛も損せず。
人は天地の霊なり。天地は限る所なし。人の性、何ぞ異ならん。寛大にして極まらざる時は、喜怒これに障らずして、物のために煩はず。

[現代語訳]
あらゆる事は頼りにすべきではない。愚かな人は、他人やモノを強く頼りにし過ぎるので、恨んだり怒ったりすることになってしまう。
勢いがあっても頼りにするな。強い者からまず滅ぶ。財産が多くても頼りにするな。一瞬で金などなくなる。才能があっても頼りにするな。あの孔子さえ時機(好機)には恵まれなかった。徳があっても頼りにするな。顔回さえ不幸な末路に陥った。主人の寵愛も頼りにするな。失敗すれば速やかに罰を受けることになる。従ってくれる家来がいても頼りにするな。裏切って敵に寝返ってしまうことがある。人の心(意志)を頼りにするな。人の不安定な心は必ず変わるものだ。他人との約束を頼りにするな。信義を貫いて約束を守る事など少ない。
自分も他人も頼りにしないなら、良い時には素直に喜べるし、悪くても誰も恨まないで済む。左右が広ければ人の障害にもならず、前後が遠ければ前が塞がれてしまうということもない。狭い場所に人が集まると、互いに押し合い潰し合うことになる。人間関係の中で頭が働かず気持ちに余裕のない厳しい状況では、他人に逆らって争い合うことになり、最後には自分が傷ついてしまう。心が緩やかにリラックスしていて柔軟な思考ができる時には、髪の毛一本さえも傷つけられるということが無いだろう。
人は天地の霊である。天地は無限である。であれば、人の本性も天地と異ならず無限であるだろう。寛大な気持ちで追い詰められていない状況であれば、喜怒の感情に振り回されないし、他人やモノに煩わされることもないのだ。


[古文] 第212段:
秋の月は、限りなくめでたきものなり。いつとても月はかくこそあれとて、思ひ分かざらん人は、無下に心うかるべき事なり。

[現代語訳]
秋の月は、限りなく美しいものである。いつでも月というものは秋月のようであって欲しいと思い、別の季節の月との区別がつかないような人は、ひどく情けなくて残念だと思う。


[古文] 第213段:
御前の火炉(かろ)に火を置く時は、火箸して挟む事なし。土器より直ちに移すべし。されば、転び落ちぬやうに心得て、炭を積むべきなり。
八幡(やはた)の御幸(ごこう)に、供奉(ぐぶ)の人、浄衣(じょうえ)を着て、手にて炭をさされければ、或有職(ゆうしょく)の人、「白き物を着たる日は。火箸を用ゐる、苦しからず」と申されけり。

[現代語訳]
天皇の火鉢に火を移す時には、火箸を使うということはない。火種にしても、土器からすみやかに移動させることになる。であれば、火種が転び落ちたりしないように初めから炭を高く積んでおくべきだろう。
天皇が石清水八幡宮に出かけられた時に、御供した貴族が、白い浄衣を着て、手で炭を置かれていた。それを見た宮廷の儀礼に詳しいある有職の人が言われた。『白い着物を着ている日であれば、火箸を用いても問題はないのだ』と。


[古文] 第214段:
想夫恋(そうふれん)といふ楽は、女、男を恋ふる故の名にはあらず、本は相府蓮、文字の通へるなり。晋の王倹、大臣として、家に蓮を植ゑて愛せし時の楽なり。これより、大臣を蓮府(れんぷ)といふ。
廻忽(かいこつ)も廻鶻(かいこつ)なり。廻鶻国とて、夷(えびす)のこはき国あり。その夷、漢に伏して後に、来りて、己れが国の楽を奏せしなり。

[現代語訳]
『想夫恋(そうふれん)』という楽曲は、女が夫を恋いしがる故の名前ではない。元々、『相府蓮(そうふれん)』で、文字と音が似通っているものとの混同である。晋の王倹が大臣の時に、家に蓮を植えて愛した時の曲である。これにより、大臣を『蓮府』と呼ぶようになった。
『廻忽(かいこつ)』も『廻鶻(かいこつ)』というのが正しい。廻鶻国という異国で武芸の強い国があった。その国が漢に服従した後に、廻鶻の民が漢にやって来て、自分の国の音楽を演奏したということである。※王倹が実際に仕えたのは晋ではなくて宋や斉であり、この段落では幾つかの『史実の誤り』も指摘されている。


[古文] 第215段:
平宣時朝臣(たいらののぶとき・あそん)、老の後、昔語に、「最明寺入道、或宵の間に呼ばるる事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、また、使来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様なりとも、疾く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのままにて罷りたりしに、銚子に土器取り添へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭さして、隅々を求めし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。

[現代語訳]
鎌倉幕府の重臣・大仏宣時が、老いてから昔話をした。『ある日の夕暮れに、執権の最明寺入道様(北条時頼)に呼ばれた。「すぐに参ります」と使者には伝えながらも、拝謁するのにふさわしい直垂がない。あれこれとしているうちに、また最明寺入道様の使者が来て、「直垂などがございませんか。夜なので変な格好でも良いから早く来てください」と言う。なので、よれよれの直垂で家にいたままの普段着の格好で参上すると、入道様は銚子とお猪口を取り揃えて待っていた。
『この酒を独りで飲むのが寂しくて、貴公を呼んだのである。だが、酒の肴がない。人はもう寝静まっているので、何か肴にふさわしいものがないか、どこまでも探してきて貰えないだろうかとおっしゃる。紙燭を灯して隅々まで探し求めるうちに、台所の棚の上に、味噌の少しついた素焼きの器を見つけ出した。「探していると、これを見つけました」と申し上げると、「この味噌で十分である」と言って、気持ちよく何杯かお酒を飲み、興に乗られました。あの時代は、そんなものだったなあ』と大仏宣時は申された。


[古文] 第216段
最明寺入道、鶴岡の社参の次に、足利左馬入道の許へ、先づ使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献に打ち鮑(あわび)、二献に海老、三献にかひもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆辨僧正、主方の人にて座せられけり。さて、「年毎に給はる足利の染物、心もとなく候ふ」と申されければ、「用意し候ふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖に調ぜさせて、後に遣されけり。
その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。

[現代語訳]
鎌倉幕府の執権・北条時頼が、鶴岡八幡宮に参拝したついでに、御家人の足利左馬入道の屋敷にまずは使いを送って、その後に立ち寄られた。時頼様が主賓としてもてなされた時の献立は、一献にあわび、二献は海老、三献にかい餅という感じで終わった。その座には、亭主夫婦だけでなく、隆辨僧正(りゅうべんそうじょう)も主方の人として座っていた。さて、時頼様が、『毎年頂いている足利の染物が、待ち遠しく思われます』と申されると、足利左馬入道は『既に用意してございます』と返し、色々な染め物を三十反、それを目の前で女房どもに小袖に仕立てさせて後で贈られた。
それを実際に見た人が、最近までいらっしゃったので、その人から伝え聞いた話である。


[古文] 第217段:
或大福長者(だいふくちょうじゃ)の云はく、「人は、万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては、生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかんと思はば、すべからく、先づ、その心遣ひを修行すべし。その心と云ふは、他の事にあらず。人間常住の思ひに住して、仮にも無常を観ずる事なかれ。これ、第一の用心なり。次に、万事の用を叶ふべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に随ひて(したがいて)志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、暫くも住すべからず。所願は止む時なし。
財は尽くる期(ご)あり。限りある財をもちて、限りなき願ひに随ふ事、得べからず。所願心に萌す事あらば、我を滅すべき悪念来れりと固く慎み恐れて、小要をも為すべからず。次に、銭を奴の如くして使ひ用ゐる物と知らば、永く貧苦を免るべからず。君の如く、神の如く畏れ尊みて、従へ用ゐる事なかれ。次に、恥に臨むといふとも、怒り恨むる事なかれ。次に、正直にして、約を固くすべし。この義を守りて利を求めん人は、富の来る事、火の燥ける(かわける)に就き、水の下れるに随ふが如くなるべし。銭積りて尽きざる時は、宴飲・声色を事とせず、居所を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く、楽し」と申しき。
そもそも、人は、所願を成ぜんがために、財を求む。銭を財とする事は、願ひを叶ふるが故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。何をか楽しびとせん。この掟は、ただ、人間の望みを断ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。欲を成じて楽しびとせんよりは、如かじ、財なからんには。癰(よう)・疽(そ)を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんには如かじ。ここに至りては、貧・富分く所なし。究竟(くきょう)は理即(りそく)に等し。大欲は無欲に似たり。

[現代語訳]
ある大富豪が次のように言った。『人は全てを差し置いて、ただひたすらに富(利益)を得られるほうにつくべきである。貧しくては生きている甲斐もない。富める者のみが人なのである。得をしたいのであれば、まずその心の使い方を磨くべきだ。その心というのは他でもない。人や世の中はいつも同じ状態に落ち着いていて簡単には変化しないという考えをしっかりと持ち、仏教的な智慧・悟りなど働かせて世の中の無常を観照(達観)したりしてはいけない。これが第一の用心である。次に全ての用事を思い通りに終わらせてはいけない。この世の欲望というのは、私でも他の人でも無限である。欲に従って志を遂げようと思うのであれば、百万の金銭があっても暫く休む暇さえない。欲は尽きることがないが、財産のほうは無くなってしまう。
限られた財産で、無限の欲望を満たそうとしてもそれは不可能である。欲望が心に生まれたならば、我が身を滅ぼす悪い思念が起こったと解釈して、自分の欲望を慎み恐れて、小さな用事であっても金銭を使ってはいけない(ケチであるべきだ)。次に、金銭を奴婢のように自分勝手に使うものと考えるならば、永遠に貧苦から抜け出ることはできないということだ。主君のように、神のように畏怖して尊び、自分自身のほうが金に仕えるのだ。次に金銭のことで恥をかいても、怒ったり恨んだりしてはいけない。次に、正直に生きて、約束を守ること。これらの正しい道理を守って利益を求める人は、富が向こうからやってくることは、火が乾いた方角に燃えていき、水が低い方向に流れていくのと同じようなものである。お金が貯まって無くならないという時には、宴会や女の色香がなく住居を飾り立てず、欲望を満たさなくても、お金が多くあるというだけで心は常に安らいで楽しいのだ』と。
だが、そもそも人は、自分の欲望を満たすために金を求めるものだ。金銭を価値あるものとするのは、金銭で願いを叶えることができるからである。欲望があっても叶えず、金があっても使わないというのは、全く貧者と同じではないか。ただ延々と金だけ貯めて、何を楽しみにするというのか。この金を貯める話は、自分の欲望を断ち切って、苦労を恐れるなという風に聞こえる。欲望を満たして楽しみとするのは、財産がないということには及ばない。悪性の腫物(皮膚疾患)を患っている者が、水で体を洗うのを楽しみとするよりは、初めから皮膚疾患を病まないほうが良い。ここに至っては、富者と貧者の区別(貧富の格差)が無くなってしまう。菩薩の悟りの段階で最高の悟りに当たる『究竟』は、初期の悟りの入り口に過ぎない『理即』と等しい。大欲というのは、無欲に似ているのである。


[古文] 第218段:
狐は人に食ひつくものなり。堀川殿にて、舎人(とねり)が寝たる足を狐に食はる。仁和寺にて、夜、本寺の前を通る下法師に、狐三つ飛びかかりて食ひつきければ、刀を抜きてこれを防ぐ間、狐二疋を突く。一つは突き殺しぬ。二つは逃げぬ。法師は、数多所食はれながら、事故なかりけり。

[現代語訳]
狐は人に噛み付くものである。堀川様の屋敷(大納言・久我通具の子孫が住んだ屋敷)で、番人が寝ていたら足を狐に噛まれた。夜に仁和寺で本殿の前を通った下働きの法師に、狐が三匹飛び掛ってきて噛み付いた。法師は刀を抜いてこれを防ぎ、狐二匹を刀で突いた。一匹は突き殺したが、それ以外の二匹は逃げてしまった。法師は、数ヶ所を狐に噛まれながらも、(生命に別状は無く)大事に至らなかった。


[古文] 第219段:
四条黄門(しじょうのこうもん)命ぜられて云はく、「竜秋(たつあき)は、道にとりては、やんごとなき者なり。先日来りて云はく、『短慮の至り、極めて荒涼の事なれども、横笛の五の穴は、聊か(いささか)いぶかしき所の侍るかと、ひそかにこれを存ず。その故は、干(かん)の穴は平調(ひょうちょう)、五の穴は下無調(しもむちょう)なり。その間に、勝絶調(しょうぜつちょう)を隔てたり。上の穴、双調(そうちょう)。次に、鳧鐘調(ふしょうちょう)を置きて、夕(さく)の穴、黄鐘調(おうじきちょう)なり。その次に鸞鏡調(らんけいちょう)を置きて、中の穴、盤渉調(ばんしきちょう)、中と六とのあはひに、神仙調(しんせんちょう)あり。かやうに、間々に皆一律をぬすめるに、五の穴のみ、上の間に調子を持たずして、しかも、間を配る事等しき故に、その声不快なり。されば、この穴を吹く時は、必ずのく。のけあへぬ時は、物に合はず。吹き得る人難し』と申しき。料簡(りょうけん)の至り、まことに興あり。先達、後生を畏ると云ふこと、この事なり」と侍りき。
他日に、景茂(かげもち)が申し侍りしは、「笙(しょう)は調べおほせて、持ちたれば、ただ吹くばかりなり。笛は、吹きながら、息のうちにて、かつ調べもてゆく物なれば、穴毎(ごと)に、口伝の上に性骨(しょうこつ)を加へて、心を入るること、五の穴のみに限らず。偏(ひとえ)に、のくとばかりも定むべからず。あしく吹けば、いづれの穴も心よからず。上手はいづれをも吹き合はす。呂律(りょりつ)の、物に適はざるは、人の咎(とが)なり。器の失にあらず」と申しき。

[現代語訳]
四条の黄門様(南朝の重臣・藤原隆資)がなんとなく語られた。『笙(しょう)の名人の豊原竜秋は、音楽の道に関しては素晴らしい人物である。先日、竜秋が来て次のように言っていたよ。「短慮の至りであって極めて口にしにくいことですが、横笛の五の穴には、いささか疑問点がございます。その理由は、干の穴は平調、五の穴は下無調。その間に、勝絶調を隔てて上の穴が双調、次に鳧鐘調を置いて、夕の穴は黄鐘調となります。その次に鸞鏡調を置いて、中の穴が盤渉調、中と六とのあいだに、神仙調というのがあります。このように横笛の吹き口は、みんな一律に調子を揃えているのですが、五の穴のみが上の間に調子を持たず、吹き口の間隔だけは他の穴と等しいので、その声色が不快になりがちなのです。なので、この穴を吹く時には、必ず口を退けます。退けないと、他の楽器に合わないのです。五の穴を適切に吹ける人は滅多にいません」と申していた。本当に簡潔で優れた意見であり、強く興味を引かれる。先達が後生を畏れるとは、この事であるな』と申した。
その話を聞いていた大神景茂(おおみわのかげもち)が後日に言った。『笙なら調律さえ合わせれば、後はただ吹くだけだ。横笛は、吹きながら調律を合わせて調べていくものだ。なので、その穴ごとに口伝の教えがあるだけではなく、吹き手の生来の勘を加えて吹かなければならない。その勘の働かせ方は、五の穴のみに限らないし、口を退けるばかりとも限らないのだ。悪く吹けば、どの穴も良くない音がする。上手な名人ならば、どの音も吹いて合わせることができる。調子が他の楽器と合わないのは、奏者の責任であって、楽器のせいではない』と申した。


[古文] 第220段:
「何事も、辺土は賤しく、かたくななれども、天王寺の舞楽のみ都に恥ぢず」と云ふ。天王寺の伶人の申し侍りしは、「当寺の楽は、よく図を調べ合はせて、ものの音のめでたく調り(ととのおり)侍る事、外よりもすぐれたり。故は、太子の御時の図、今に侍るを博士とす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。その声、黄鐘調(おうじきちょう)の最中なり。寒・暑に随ひて上り・下りあるべき故に、二月涅槃会(ねはんえ)より聖霊会(しょうりょうえ)までの中間を指南とす。秘蔵の事なり。この一調子をもちて、いずれの声をも調へ侍るなり」と申しき。
凡そ(およそ)、鐘の音は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らる(いらる)べしとて、数多度(あまたたび)鋳かへられけれども、叶はざりけるを、遠国より尋ね出されけり。浄金剛院(じょうこんごういん)の鐘の音、また黄鐘調なり。

[現代語訳]
『何につけても京都から離れた辺境の土地は下品で粗野であるけれど、天王寺の舞楽のみは都に負けていない』と言う。それを聞いた天王寺の楽人が申すには、『私どもの寺の舞楽は図竹を使って調律を合わせており、楽器の音の調律が綺麗に整っているという点において、他よりも優れています。理由は、聖徳太子の時代からの調律の秘策である図竹(調律合わせのための笛)を今に残していて、基準にしているからです。いわゆる六時堂の前にある鐘の音を調律に使います。その鐘の音の音程は、『黄鐘調』そのものです。寺の鐘は暑さ・寒さで伸び縮みするので、音程にも上り下りがあります。それで二月の涅槃会より聖霊会までの間の音を標準としているのです。これが秘蔵の調律合わせの方法です。ただこの一調子のみを用いて、全ての楽器の調律を合わせることができます』と申し上げた。
およそ、鐘の音というのは『黄鐘調』であるべきだ。これは、無常の調子であり祇園精舎の無常院の音色でもある。西園寺の鐘も黄鐘調になるように鋳られたが、何度も鋳かえたけれども出来なくて、結局は遠国より探し出した鐘を使うことになった。浄金剛院の鐘の音も、また黄鐘調の音程になっている。


[古文] 第221段:
「建治・弘安の比は、祭の日の放免の附物に、異様なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾・髪には燈心をして、蜘蛛の網書きたる水干に附けて、歌の心など言ひて渡りし事、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか」と、老いたる道志どもの、今日も語り侍るなり。
この比は、附物、年を送りて、過差殊の外になりて、万の重き物を多く附けて、左右の袖を人に持たせて、自らは鉾をだに持たず、息づき、苦しむ有様、いと見苦し。

[現代語訳]
『後宇多天皇の御世である建治・弘安の頃は、賀茂祭の日に無罪放免された罪人が行列して余興をするが、あの頃は変わった紺色の布、四・五反ほどで馬を作り、馬の尾や鬣(たてがみ)にろうそくを灯し、蜘蛛の巣の柄(デザイン)の水干にその飾り馬をつけたのを着ていた。歌の心などと言って賀茂祭に参加していたが、祭りの時にいつも見ている光景ではあるが、実に興趣のあることをしているなという気持ちであった』と、年老いた役人たちが今でも語っている。
最近の賀茂祭は、年ごとに飾りが過剰になっており、放免たちは色々と重い飾りを多く身に付けている。袖の左右を人に持たせて、鉾さえ持てずに息を切らして苦しんでる有様というのは非常に見苦しいものではある。


[古文] 第222段:
竹谷乗願房(たけたにのじょうがんぼう)、東二条院へ参られたりけるに、「亡者の追善には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明真言(こうみょうしんごん)・宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念仏に勝る事候ふまじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「我が宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、正しく、称名を追福に修して巨益あるべしと説ける経文を見及ばねば、何に見えたるぞと重ねて問はせ給はば、いかが申さんと思ひて、本経の確かなるにつきて、この真言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。

[現代語訳]
竹谷上人が、東二条院様(後深草天皇の皇后)の元へ参られた時に皇后から、『亡き人の供養で、勝利・成仏につながるお経はないものでしょうか?』と尋ねられた。『光明真言の宝篋印陀羅尼でございます』と答えたが、弟子たちは『どうしてこのように申し上げなかったのですか。なぜ念仏に勝るものなどないということを言わなかったのですか』と質問した。
『もちろん、「南無阿弥陀仏」はうちの浄土宗だから、そう言いたかったところなんだけど、「南無阿弥陀仏」で死者を成仏させた上で更に大きな利益まであると書いた経文は見たことがない。どの経典にそんな事が書いてあるのかと質問されたら、何と答えれば良いのかと思って、根拠とする原典が確かな「真言の陀羅尼」を勧めたわけだ』と申した。


[古文] 第223段:
鶴(たづ)の大臣殿は、童名(わらわな)、たづ君なり。鶴を飼ひ給ひける故にと申すは、僻事(ひがこと)なり。

[現代語訳]
鶴の大臣(九条基家)は幼い頃に『鶴君』と呼ばれた。鶴を飼っていたから鶴大臣だというのは間違いである。


[古文] 第224段:
陰陽師有宗入道(ありむねにゅうどう)、鎌倉より上りて、尋ねまうで来りしが、先づさし入りて、『この庭のいたづらに広きこと、あさましく、あるべからぬ事なり。道を知る者は、植うる事を努む。細道一つ残して、皆、畠(はたけ)に作り給へ』と諌め侍りき。
まことに、少しの地をもいたづらに置かんことは、益なき事なり。食ふ物・薬種など植ゑ置くべし。

[現代語訳]
陰陽師の安倍有宗(あべのありむね)が、鎌倉より京に上ってきて我が家(兼好の家)に訪ねて来られた。まず家に入ってきて、『この家の庭はいたずらに広くて、みっともないものである。道を知る者ならば、まず作物を植えるように努める。細い道一つを残してみんな畑にしてはどうか』と諌められた。
確かに、少しの土地でもいたずらに広く置いておくことは無益(欲深)である。野菜や薬草でも植えておいたほうが良い(そちらのほうがまだ有益だ)。


[古文] 第225段:
多久資(おおのひさすけ)が申しけるは、通憲入道(みちのりにゅうどう)、舞の手の中に興ある事どもを選びて、磯の禅師といひける女に教えて舞はせけり。白き水干(すいかん)に、鞘巻(さやまき)を差させ、烏帽子(えぼし)を引き入れたりければ、男舞とぞ言ひける。禅師が娘、静と言ひける、この芸を継げり。これ、白拍子(しらびょうし)の根元なり。仏神の本縁を歌ふ。その後、源光行、多くの事を作れり。後鳥羽院の御作(ごさく)もあり、亀菊(かめぎく)に教えさせ給ひけるとぞ。

[現代語訳]
多久資という朝廷に勤めた楽人が申し上げるには、通憲入道が舞いの中から特に面白いのを選び、後に『磯の禅師(静御前の母親)』と呼ばれることになる妻に教えて舞わせたという。この時の舞いの衣装は、男物の白い着物の水干であり、腰に刀を差して、長い髪を烏帽子に引き入れていたので『男舞』と言われた。磯の禅師の娘は静御前(源義経の愛人)といって、この芸を引き継いだ。これが『白拍手』という舞いの元祖なのである。神仏の由来を歌いながら舞うものだ。その後、源光行が多くの舞いを創作した。後鳥羽院も多くの舞いを作り、愛妾の『亀菊(承久の乱の一因になったとも言われる女性)』に教えられたということである。


[古文] 第226段:
後鳥羽院の御時、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、稽古の誉(ほまれ)ありけるが、楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者と異名を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚(じちんおしょう)、一芸ある者をば、下部までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(ふち)し給ひけり。
この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊にゆゆしく書けり。九郎判官(くろうほうがん)の事は委しく(くわしく)知りて書き載せたり。蒲冠者(かばのかんじゃ)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業(わざ)は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。

[現代語訳]
後鳥羽院の御時、信濃の国司であった中山行長は、学問の道での誉れが高かった。しかし、『白氏文集』の論議の席において意見を求められた時に『七徳の舞』のうちの二つを忘れてしまい、『五徳の冠者』という不名誉な渾名を付けられてしまった。行長はそのことを悩んでしまい、学問を捨てて遁世してしまった。慈鎮和尚は、一芸ある者を厚遇しており、身分の低い者でも技能がある者であれば召しかかえた。そして、この信濃の出家者である行長も召しかかえて面倒を見たのである。
この行長入道が『平家物語』を作って、生仏という名の盲目の法師に教えて語らせた。さて、山門(比叡山延暦寺)の事は格別に詳しく書けた。九郎判官(源義経)の事は詳しく知っていて書き記しているが、蒲冠者(源範頼)の事はよく知らなかったのだろうか、多くの事を書き漏らしている。武士のこと、弓馬の道については、生仏が東国の生まれであることもあり、武士に詳しく聞いてから書いたのだろう。その生仏の生れつきの声を、今の琵琶法師は学んでいるのである。


[古文] 第227段:
時礼讃(ろくじらいさん)は、法然上人の弟子、安楽といひける僧、経文を集めて作りて、勤めにしけり。その後、太秦善観房(うずまさのぜんかんぼう)といふ僧、節博士(ふしはかせ)を定めて、声明(しょうみょう)になせり。一念の念仏の最初なり。後嵯峨院の御代より始まれり。法事讃(ほうじさん)も、同じく、善観房始めたるなり。

[現代語訳]
六時礼讃(一日を六時に分けてその度に極楽往生の讃文を唱える浄土門の方法)は、法然上人の弟子の安楽という僧が経文を集めて作って、お勤めしたものである。その後、太秦の善観房という僧が音楽的な節や調子を定めて声明にしたのである。一念の念仏の最初とされる。後嵯峨院の御代よりこれは始まった。法事讃(浄土転経行道の法則を明らかにした方法)も、同じく善観房が始めたものである。


[古文] 第228段:
千本の釈迦念仏は、文永の比(ころ)、如輪上人(にょりんしょうにん)、これを始められけり。

[現代語訳]
千本(京都市上京区千本にある瑞応山大報恩寺)の釈迦念仏(南無釈迦牟尼仏と唱える念仏)は、文永の頃に如輪上人が始められたものである。


[古文] 第229段:
よき細工は、少し鈍き刀を使ふと言ふ。妙観(みょうかん)が刀はいたく立たず。

[現代語訳]
小さな器具を巧みに製作する職人は、少し切れ味の鈍い刃物を使う。彫刻の名人の妙観の小刀はまるで切れないという。


[古文] 第230段:
五条内裏には、妖物(ばけもの)ありけり。藤大納言殿(とうのだいなごんどの)語られ侍りしは、殿上人ども、黒戸にて碁を打ちけるに、御簾(みす)を掲げて見るものあり。『誰そ』と見向きたれば、狐、人のやうについゐて、さし覗きたるを、『あれ狐よ』とどよまれて、惑ひ逃げにけり。
未練の狐、化け損じけるにこそ。

[現代語訳]
五条の内裏には妖怪がいた。藤の大納言様(二条為世)が語られるには、夜に黒戸で殿上人たちが碁を打っていると、御簾をかかげて覗いているものがいる。『誰だ?』とそちらの方向を見てみると、狐が人のように突っ立って覗いていた。『あれは狐だ』と大声でみんなが騒いで逃げていった。
(化ける技術が)未熟な狐が、化け損じたらしい。


[古文] 第231段:
園の別当入道は、さうなき庖丁者(ほうちょうしゃ)なり。或人の許にて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別当入道の包丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でんもいかがとためらひけるを、別当入道、さる人にて、『この程、百日の鯉を切り侍るを、今日欠き侍るべきにあらず。枉げて申し請けん』とて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、或人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、『かやうの事、己れはよにうるさく覚ゆるなり。「切りぬべき人なくは、給べ(たべ)。切らん」と言ひたらんは、なほよかりなん。何条、百日の鯉を切らんぞ』とのたまひたりし、をかしく覚えしと人の語り給ひける、いとをかし。
大方、振舞ひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、勝りたる事なり。客人(まれびと)の饗応(きょうおう)なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、まことによけれども、ただ、その事となくてとり出でたる、いとよし。人に物を取らせたるも、ついでなくて、「これを奉らん」と云ひたる、まことの志なり。惜しむ由して乞はれんと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。

[現代語訳]
園の別当入道(1234年に24歳で出家した藤原基氏)は、比類のない庖丁人である。ある人の屋敷で立派な鯉がでてきた時に、みんなが別当入道の包丁捌きを見たいと思ったが、名人にたやすく匠の技の披露を求めるのもいかがなものかと躊躇う中、当の別当入道はさりげなく、『最近、百日にわたって鯉を切り続けているので、今日も欠かすべきではない。是非ともその鯉を申し受けたいと思います』とおっしゃって鯉を切られた。とても自然で素晴らしい振舞いだとその場にいた人たちは興趣を感じた。ある人が、この話を北山の太政入道殿(西園寺実兼)に語ったところ、『そのような話は、自分にはとても煩わしく回りくどいもののように思える。「切る人がいないのならば、私が鯉を切りましょう」とでも言っていれば更に良かったのに。どうして、百日の鯉を切ろうなどと言ったのだろうか』とおっしゃっていたので、それを聞いた人が面白い話だと語ったのだが、確かに面白い言い分である。
大体、日常生活では特別な感じに振る舞って趣きがあるようにするよりも、趣きなどがなくても安らかな方が勝っているのだ。客人をもてなす饗応でも、大げさな接待もまことに結構なことだけれども、ただ特別な事をせずに客人の前に料理を並べるだけのほうが(気疲れしなくて)とても良い。人に物を上げる場合でも、何かのついでじゃなくて『これをあげる』とでも言ったほうが真心が伝わる。惜しむふりをしてそれが欲しいと言われたくなったり、勝負の負けを理由にして上げるなどのこともあるが、人に自然に嫌味(負担)なく物を上げるというのは難しい。


[古文] 第232段:
すべて、人は、無智・無能なるべきものなり。或人の子の、見ざまなど悪しからぬが、父の前にて、人と物言ふとて、史書の文を引きたりし、賢しくは聞えしかども、尊者の前にてはさらずともと覚えしなり。また、或人の許にて、琵琶法師の物語を聞かんとて琵琶を召し寄せたるに、柱の一つ落ちたりしかば、『作りて附けよ』と言ふに、ある男の中に、悪しからずと見ゆるが、『古き柄杓の柄ありや』など言ふを見れば、爪を生ふ(おう)したり。琵琶など弾くにこそ。盲法師(めくらほうし)の琵琶、その沙汰にも及ばぬことなり。道に心得たる由にやと、かたはらいたかりき。『柄杓の柄は、檜物木とかやいひて、よからぬ物に』とぞ或人仰せられし。
若き人は、少しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり。

[現代語訳]
すべての人間は、学問がなくて芸能がないくらいのほうが良いものなのだ。ある人の子供が、外見は悪くないのだが、父親の前で父の客人と議論していた。『史書』の文を引用したりして賢くは見えたのだけれど、目上の人の前で知識自慢をするのは如何なものかと思った。また、ある人の家で、琵琶法師の弾き語りでも聞こうと思って、まず琵琶を召し寄せたのだが、その琵琶の弦の支柱が一つ落ちていて弾くことができず、『作ってつけよ』と主人が言った。ある男たちの中で身分が低くないように見える男が、『古い柄杓の柄はあるか?』などと言うから見てみると爪を長く伸ばしている。いかにも琵琶を弾きそうな感じである。盲目の法師の弾く琵琶には、そんな処置の仕方などは必要ない。琵琶の道を心得た振りをしているだけかと片腹痛かった。『柄杓の柄は、檜物の木で良くないものだ』とある人もおっしゃっていたのだが。
(老人にとっては)若い人のやる事は、少しのことであっても、よく見えたり悪く見えたりするものなのだ。


[古文] 第233段:
万の咎(とが)あらじと思はば、何事にもまことありて、人を分かず、うやうやしく、言葉少からんには如かじ。男女・老少、皆、さる人こそよけれども、殊に、若く、かたちよき人の、言うるはしきは、忘れ難く、思ひつかるるものなり。
万の咎は、馴れたるさまに上手めき、所得たる気色して、人をないがしろにするにあり。

[現代語訳]
あらゆる事で他人の非難を受けないようにしようと思うならば、何事も実直にして、人を区別せずに礼儀正しく振る舞い、多くを語り過ぎない事が大切だ。老若男女に関係なくみんな平等にというのが理想ではあるが、特に若くて外見の美しい人の言葉の麗しさは、忘れ難いもので、心が惹きつけられるものである。
物事の失敗の要因は、(本当は大したことがないのに)物事に習熟している振りをして自慢したり、高い地位を得て得意そうな行動をし、人を軽く見て侮るところにあるのである。


[古文] 第234段:
人の、物を問ひたるに、知らずしもあらじ、ありのままに言はんはをこがましとにや、心惑はすやうに返事したる、よからぬ事なり。知りたる事も、なほさだかにと思ひてや問ふらん。また、まことに知らぬ人も、などかなからん。うららかに言ひ聞かせたらんは、おとなしく聞えなまし。
人は未だ聞き及ばぬ事を、我が知りたるままに、『さても、その人の事のあさましさ』などばかり言ひ遣りたれば、『如何なる事のあるにか』と、押し返し問ひに遣るこそ、心づきなけれ。世に古り(ふり)ぬる事をも、おのづから聞き洩すあたりもあれば、おぼつかなからぬやうに告げ遣りたらん、悪しかるべきことかは。
かやうの事は、物馴れぬ人のある事なり。

[現代語訳]
人から質問をされた時に、こんな事を知らないはずもない、ありのままに言うのも馬鹿げていると思い、相手を惑わせるような曖昧な返事を事がある。これは良くない事だ。人は自分が知っている事であっても、なおその知識を確かなものにしたいと思って質問することがある。また、本当に常識的なことを知らない人もいないわけではない。知っていることを簡単に言い聞かせるならば、相手に素直な意見として聞いてもらうことができる。
人がまだ聞き及ばないことを自分が知っていると、つい自分が知っていることのままに、『それにしても、あの人の事件の驚いた事といったら』などと曖昧なかたちで言ってしまうものだ。『どのような事件だったのでしょうか』と、詳しく聞き返さなければならない相手の立場からすると、(はっきりしない曖昧なほのめかしは)不快で面白くなかったりする。世間で言い古されている古い情報であっても、何となく聞き漏らしてしまう事だってあるのだから、誰にでも分かるように丁寧に語り聞かせる事は悪いことであろうか、いや悪いことではない。
曖昧なほのめかしのような物の言い方は、自分自身もそのことについて余り詳しくない人が良くする言い方である。


[古文] 第235段:
主ある家には、すずろなる人、心のままに入り来る事なし。主なき所には、道行人(みちゆきびと)濫り(みだり)に立ち入り、狐・梟やうの物も、人気に塞かれ(せかれ)ねば、所得顔に入り棲み、木霊など云ふ、けしからぬ形も現はるるなり。
また、鏡には、色・像(かたち)なき故に、万の影来りて映る。鏡に色・像あらましかば、映らざらまし。
虚空よく物を容る。我等が心に念々のほしきままに来り浮ぶも、心といふもののなきにやあ らん。心に主あらましかば、胸の中に、若干(そこばく)の事は入り来らざまし。

[現代語訳]
主人がいる家には、無関係な人が気ままに入って来るという事はない。主人のいない家には、道行く人もむやみに立ち入るし、狐やフクロウみたいな動物も人気がない家には、棲家を得たという顔をして入り棲むことになる。更には、木霊などという怪しい霊魂まで現われることになる。
また、鏡には、色も形態もないからこそ、すべての影が映るのだ。鏡に色や形があれば、なにも映らないだろう。
空っぽの虚空はよく物を含むことができる。私たちの心には様々な思念・感情が浮かんでは消えるが、これは心が虚空だからであろうか。心に主人がいるならば、胸の内に、若干の些末な事(様々な感情・思念)は入って来れないはずだが。


[古文] 第236段:
丹波に出雲と云ふ所あり。大社(おおやしろ)を移して、めでたく造れり。しだの某とかやしる所なれば、秋の比、聖海上人(しょうかいしょうにん)、その他も人数多誘ひて、『いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん』とて具しもて行きたるに、各々拝みて、ゆゆしく信(しん)起したり。
御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、『あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん』と涙ぐみて、『いかに殿原、殊勝の事は御覧じ咎めずや。無下なり』と言へば、各々怪しみて、『まことに他に異なりけり』、『都のつとに語らん』など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、『この御社の獅子の立てられ様、定めて習ひある事に侍らん。ちと承らばや』と言はれければ、『その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候う事なり』とて、さし寄りて、据ゑ直して、往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

[現代語訳]
丹波(京都府亀岡市千歳町)に出雲という場所がある。島根県の出雲大社が神霊を勧請して、新たな社殿を築いた。丹波の領主・志田の何とかいう男が、秋の頃に、都の聖海上人やその他大勢の人達を出雲に誘い、『どうぞいらっしゃって下さい、出雲を拝みに。かいもちをご馳走しましょう』と言った。聖海上人やその他の人たちは、丹波の領主に付いていって出雲まで行き、それぞれ礼拝して、強い信仰心を起こす事になった。
社殿の前にある獅子や狛犬は普通は向き合って置かれているものだが、出雲大社の狛犬は互いに後ろ向きで置いてあった。これを見た聖海上人は酷く感動して、『あぁ、珍しい。この獅子の立ち方はとても珍しいものだ。何か深い由縁があるのだろう』と涙ぐんだ。『皆さん、こんな珍しいものに気づかないんですか。これを見て何も思わないのであれば残念なことです』と言った。それを聞いたみんなは確かに不思議な獅子の置き方だと思い、『本当に他とは違う置き方ですね』、『都への土産話として語りましょう』などと言う。
聖海上人はその由縁を知りたいと思い、年寄りの物知りそうな神官を呼んで、『御社の獅子の立て方は、慣例の定めに従ってないですよね。ちょっとその由縁を聞かせて頂きたい』と質問したが、『その事でございますか。どうしようもない子ども達の悪戯ですよ、怪しからんことです』と答えた。そう言って、獅子の近くに寄って、正しい向き方に置き直して、立ち去ってしまったので、聖海上人の感涙は無駄になってしまった。


[古文] 第237段:
柳筥(やなぎばこ)に据うる物は、縦様・横様(たてさま・よこさま)、物によるべきにや。『巻物などは、縦様に置きて、木の間より紙ひねりを通して、結ひ附く。硯も、縦様に置きたる、筆転ばず、よし』と、三条右大臣殿仰せられき。
勘解由小路(かでのこうじ)の家の能書(のうじょ)の人々は、仮にも縦様に置かるる事なし。必ず、横様に据ゑられ侍りき。

[現代語訳]
柳箱(柳の木を広さ五分ほどに三角に削って作った筆・硯・書物などを置く台)に物を置く時に縦にするか、横にするかは、物によって変わってくる。『巻物などは縦に置けば木の間から、こより(紙縒り)を通して結びつけられる。硯も縦に置けば筆が転ばなくてよい』と三条の右大臣殿(三条実重)は仰られた。
書道で有名な勘解由小路家で書に優れた人たちは、仮にも縦に置くことがない。必ず、硯は柳箱を横にして置かれていた。


[古文] 第238段:
御随身近友(みずいじん・ちかとも)が自讃とて、七箇条書き止めたる事あり。皆、馬芸、させることなき事どもなり。その例を思ひて、自讃の事七つあり。
一、人あまた連れて花見ありきしに、最勝光院の辺にて、男の、馬を走らしむるを見て、『今一度馬を馳するものならば、馬倒れて、落つべし。暫し見給へ』とて立ち止りたるに、また、馬を馳す。止むる所にて、馬を引き倒して、乗る人、泥土の中に転び入る。その詞の誤らざる事を人皆感ず。
一、当代未だ坊におはしましし比、万里小路殿御所なりしに、堀川大納言殿伺候し給ひし御曹子(みぞうし)へ用ありて参りたりしに、論語の四・五・六の巻をくりひろげ給ひて、『ただ今、御所にて、「紫の、朱奪ふことを悪む」と云ふ文を御覧ぜられたき事ありて、御本を御覧ずれども、御覧じ出されぬなり。「なほよく引き見よ」と仰せ事にて、求むるなり』と仰せらるるに、『九の巻のそこそこの程に侍る』と申したりしかば、『あな嬉し』とて、もて参らせ給ひき。かほどの事は、児どもも常の事なれど、昔の人はいささかの事をもいみじく自讃したるなり。後鳥羽院の、御歌に、『袖と袂と、一首の中に悪しかりなんや』と、定家卿に尋ね仰せられたるに、『「秋の野の草の袂か花薄穂(はなずすきほ)に出でて招く袖と見ゆらん」と侍れば、何事か候ふべき』と申されたる事も、『時に当りて本歌を覚悟す。道の冥加なり、高運なり』など、ことことしく記し置かれ侍るなり。九条相国伊通公(これみちこう)の款状にも、殊なる事なき題目をも書き載せて、自讃せられたり。
一、常在光院(じょうざいこういん)の撞き鐘の銘は、在兼卿(ありかねのきょう)の草なり。行房朝臣(ゆきふさのあそん)清書して、鋳型に模さんとせしに、奉行の入道、かの草を取り出でて見せ侍りしに、『花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ』と云ふ句あり。『陽唐の韻と見ゆるに、百里誤りか』と申したりしを、『よくぞ見せ奉りける。己れが高名なり』とて、筆者の許へ言ひ遣りたるに、『誤り侍りけり。数行と直さるべし』と返事侍りき。数行も如何なるべきにか。若し数歩の心か。おぼつかなし。 数行なほ不審。数は四五也。鐘四五歩 不幾也(いくばくならざるなり)。ただ、遠く聞こゆる心也。
一、人あまた伴ひて、三塔巡礼の事侍りしに、横川の常行堂の中、竜華院(りょうげいん)と書ける、古き額あり。『佐理・行成の間疑ひありて、未だ決せずと申し伝へたり』と、堂僧ことことしく申し侍りしを、『行成ならば、裏書あるべきし。佐理ならば、裏書あるべからず』と言ひたりしに、裏は塵積り、虫の巣にていぶせげなるを、よく掃き拭ひて、各々見侍りしに、行成位署・名字・年号、さだかに見え侍りしかば、人皆興に入る。
一、 那蘭陀寺(ならんだじ)にて、道眼(どうげん)聖談義(ひじりだんぎ)せしに、八災と云ふ事を忘れて、『これや覚え給ふ』と言ひしを、所化(しょけ)皆覚えざりしに、局のうちより、『これこれにや』と言ひ出したれば、いみじく感じ侍りき。
一、賢助僧正(けんじょそうじょう)に伴ひて、加持香水を見侍りしに、未だ果てぬ程に、僧正帰り出で侍りしに、陣の外まで僧都見えず。法師どもを返して求めさするに、『同じ様なる大衆多くて、え求め逢はず』と言ひて、いと久しくて出でたりしを、『あなわびし。それ、求めておはせよ』と言はれしに、帰り入りて、やがて具して出でぬ。
一、二月十五日、月明き夜、うち更けて、千本の寺に詣でて、後より入りて、独り顔深く隠して聴聞し侍りしに、優なる女の、姿・匂ひ、人より殊なるが、分け入りて、膝に居かかれば、匂ひなども移るばかりなれば、便あしと思ひて、摩り退き(すりのき)たるに、なほ居寄りて、同じ様なれば、立ちぬ。その後、ある御所様の古き女房の、そぞろごと言はれしついでに、『無下に色なき人におはしけりと、見おとし奉る事なんありし。情なしと恨み奉る人なんある』とのたまひ出したるに、『更にこそ心得侍らね』と申して止みぬ。この事、後に聞き侍りしは、かの聴聞の夜、御局の内より、人の御覧じ知りて、候ふ女房を作り立てて出し給ひて、『便(びん)よくは、言葉などかけんものぞ。その有様参りて申せ。興あらん』とて、謀り給ひけるとぞ。

[現代語訳]
御随身の近友が『自讃(自分の自慢)』だと言って、自分の自慢話を七つ書き止めた事がある。その内容は、みんな馬術がらみでとりとめのないものだが、その故事の例を真似て、私にも自讃の事が七つある。
一、大勢で連れだって花見に行くと、最勝光院の辺りで、男が馬を走らせていた。それを見て、『もう一度、馬を走らせれば、馬が倒れて落ちるはずだ。しばらく見ていなさい』と言って、皆を立ち止まらせた。その男はまた馬を走らせるが、馬は止まる直前に倒れて乗っている男は泥土の中に転がり込んでしまった。言った通りになったので、みんなが感心した。
二、後醍醐天皇が、まだ皇太子であられた頃は、万里小路殿が皇太子の御所だった。堀川の大納言様に用事があって、御所に伺候されている大納言様(源具親)の部屋に参りますと、大納言は『論語』の四・五・六巻を広げておられます。『今、皇太子に「紫の朱を奪うことをにくむ」いう文を御覧になりたいと希望され、『論語』から原文を探しているのだが、見つからない。「なおよく探して見つけよ」と言いつけられたので、更に捜している』という。なので、『その部分であれば、九巻のあたりですよ』と、お教えすると、『おぅ、嬉しきことよ』などと言って、九巻を持って行かれた。この程度の事は子どもでも知っている事だが、昔の人は小さな事でもすごく自讃したものである。 後鳥羽院が、『袖』と『袂』とを一首の歌の中に両方入れたら悪いだろうかと藤原定家に尋ねたところ、『古今集』に『秋の野の草の袂か花薄穂に出でて招く袖と見ゆらん』という歌があるので問題はございませんという答えが返ってきた。『重要な時に合わせて歌を記憶しておくというのも、歌人の冥加(歌の道の神の加護)であり、これは幸運なことなのである』などと、大袈裟に書き残されている。九条相国の伊通公(藤原伊通)の款状にも、大した事がない題目を書き載せており、自讃されている。
三、常在光院のつき鐘の銘は、在兼卿が下書きをした。行房の朝臣が清書をして、鋳型に模そうとする前に、奉行をしていた入道がその草書を取り出して見せてくれた。『花の外に夕を送れば、声百里に聞ゆ』という句が草書にある。『陽唐の韻に見えるが韻は踏んでいない。百里は誤りではないか』と言うと、『よくぞ見つけた。これは私の功績にさせてもらいます』と言って、筆者のもとに奉行の入道が知らせた。『この部分は誤りでございました。百里は数行と直して下さい』と返事をしたのである。 だが、数行というのもいかがなものか。もしや数歩の心のほうがいいかなど考えが固まらない。数行はなお不審で、数は四・五である。鐘四五歩では幾ばくもない。ただ、遠くで聞こえる心の声のようなものである。
四、大勢で比叡山の三塔を巡礼した。横川にある常行堂の中に『滝華院』と書かれた古い額がある。『この額の作者は、佐理であるか行成であるか(藤原佐理,すけまさか藤原行成か)、今では分からないと言い伝えらえています』などと、案内の僧がもったいつけていうので、『行成なら裏書きがあるはず。佐理なら裏書きがあるはずない』と言ったら、額の裏は塵がつもり、虫の巣で良く分からなくなっている。その汚れを払って拭いて見ると、行成の位署や名字、年号まではっきりした裏書きが見えて、みんなに感心された。
五、那蘭陀寺で、道眼の聖が講義をした。『八災』を忘れて、『誰かこれを覚えていないか』と尋ねたが、弟子たちはみな覚えていなかった。そこで奥から、『これこれではないですか』と言うと、酷く感心された。
六、賢助の僧正に付いていって『加持香水』を見ることができた。まだ行事も終わらないうちから、僧正たちは帰りだす。しかし、一緒に来ていた僧都の姿がどこにも見当たらない。僧正は、弟子達を使って僧都を探したが、『同じ様な格好の法師が多くて、僧都が見つかりません』と言われてなかなか見つからない。『あぁ、困ったことだ。あなたが捜して来て下さい』と言われたので、賢助僧正のおられた場所にまで行ってすぐに僧都を連れてきた。
七、二月十五日、月が明るい夜。深夜に一人で千本寺を詣でた。後ろから入って、顔を隠して聴聞していると、姿・匂いが美しい女が分け入ってきて、いきなり膝に寄りかかってきた。その芳醇な匂いも移ってくるばかりで、これは都合が悪いと思いその場から逃げ出すと、女は更に寄ってきて同じような状況なので退散することにした。
その後、ある御所の近所の古い女房が世間話として、『あなたはある女に色を知らない男だと見下されています。情けないことだと恨んでいる女がいるようです』と言われた。私は『そんな事は知りませんでした』と言ってその話を打ち切った。
この後になって聞いたところでは、どうやらこの夜に、御局の内より人が来ていて、その人に仕えている女房の一人を飾り立てていたという。『上手くやってあいつに言葉などかけてこい。その有様を帰って報告すれば、きっと面白くなる』などと言って、私を騙して馬鹿にしようとしていたようだ。


[古文] 第239段:
八月十五日・九月十三日は、婁宿(ろうしゅく)なり。この宿、清明なる故に、月を翫ぶ(もてあそぶ)に良夜とす。

[現代語訳]
八月の十五夜と九月の十三夜は、古代中国の天文学における『婁宿の日(黄道沿いの28の星座を地球の月・日の基準としたが、その28宿のうちの一つで月を鑑賞するのに適した日))』だ。この婁宿の日は、月が清くて明るいので、月を見るのに良い夜となる。


[古文] 第240段:
しのぶの浦の蜑(あま)の見る目も所せく、くらぶの山も守る人繁からんに、わりなく通はん心の色こそ、浅からず、あはれと思ふ、節々の忘れ難き事も多からめ、親・はらから許して、ひたふるに迎へ据ゑたらん、いとまばゆかりぬべし。
世にありわぶる女の、似げなき老法師、あやしの吾妻人(あづまうど)なりとも、賑ははしきにつきて、『誘ふ水あらば』など云ふを、仲人、何方も心にくき様に言ひなして、知られず、知らぬ人を迎へもて来たらんあいなさよ。何事をか打ち出づる言の葉にせん。年月のつらさをも、『分け来し葉山の』なども相語らはんこそ、尽きせぬ言の葉にてもあらめ。
すべて、余所の人の取りまかなひたらん、うたて心づきなき事、多かるべし。よき女ならんにつけても、品下り、見にくく、年も長けなん男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさんやはと、人も心劣りせられ、我が身は、向ひゐたらんも、影恥かしく覚えなん。いとこそあいなからめ。
梅の花かうばしき夜の朧月に佇み、御垣が原の露分け出でん有明の空も、我が身様に偲ばるべくもなからん人は、ただ、色好まざらんには如かじ。

[現代語訳]
海岸で人目を忍んで好きな女に逢おうとしても、他人の見る目は煩わしいもので、闇に紛れた山で女に逢おうとしても、山守りの目線があったりもする。そう考えると、無理をしてまで女の下へ通っていく男の心情には深くしみじみとした哀れさがあるものだが、その時々で忘れられない事というのも多いだろう。だが女の親・兄弟から関係を許されて、ただ自分の家に引き取って生活の面倒を見てやるだけというのは、余り輝かしい(喜ばしい)ものでもない。
世渡りに困ってあぶれた女が、自分の年齢に似つかわしくない老人や、怪しげな関東人などであっても裕福であるのに惹かれて、『誘う水あれば(小野小町作の歌 わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘ふ水あらば 往なんとぞ思ふ)』などと言えば、仲人は双方ともに奥ゆかしい人のように言いくるめて、お互いに知らない人を引き合わせることにもなるが、これは何ともつまらないことだ。こうして仲人によって結び合わせられる男女は、初めにどんな言葉を口にするのだろうか。それよりも気楽に合えなかった年月のつらさを、『分けて来た葉山の(筑波山 端山繁山 しげけれど 思ひ入るには さはらざりけり 新古今和歌集)』などと言ってお互いに語り合えるような関係のほうが、話の種が尽きることが無いだろう。
すべて、本人ではない人がお膳立てしたような結婚は、何とも気にくわない事が多いものだ。仲介者が素晴らしい女を紹介してくれても、その女よりも身分が低く、容姿が醜く、老いてしまったような男だと、こんなつまらない自分のためにあんなに素晴らしい女性が人生を無駄にすることになるのではないかと考えてしまう。自分と女の落差から自分に自信が持てなくなり、我が身に向かう時には、鏡に映る自分の影すらも恥ずかしく思えてしまうのである。ひどく味気ない人生である。
梅の花が薫る夜に、朧月の下で恋人を求めて彷徨い歩くのも、恋人の住む家の垣根の辺りを露を分けて帰ろうとする夜明けの空も、これを我が身のことのように思えない人は、恋心は分からないし恋愛に夢中にならないほうが良いだろう。


[古文] 第241段:
望月の円か(まどか)なる事は、暫くも住せず、やがて欠けぬ。心止めぬ人は、一夜の中にさまで変る様も見えぬにやあらん。病の重るも、住する隙なくして、死期既に近し。されども、未だ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生(じょうじゅうへいぜい)の念に習ひて、生の中に多くの事を成じて後、閑かに道を修せんと思ふ程に、病を受けて死門に臨む時、所願一事(しょがんいちじ)も成ぜず。言ふかひなくて、年月の懈怠(けだい)を悔いて、この度、若し立ち直りて命を全くせば、夜を日に継ぎて、この事、かの事、怠らず成じてんと願ひを起すらめど、やがて重りぬれば、我にもあらず取り乱して果てぬ。この類のみこそあらめ。この事、先づ、人々、急ぎ心に置くべし。
所願を成じて後、暇ありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻(にょげん)の生の中に、何事をかなさん。すべて、所願皆妄想なり。所願心に来たらば、妄心迷乱すと知りて、一事をもなすべからず。直に万事を放下して道に向ふ時、障りなく、所作なくて、心身永く閑かなり。

[現代語訳]
満月の丸さは少しも留まることがなく、やがては欠ける。月に心をとめない人ならば、一夜のうちに満月がそんなにも変わっているようには見えないだろう。病いの重さにしても、とどまる暇はなく死期はすぐに迫る。しかし、まだ病気も重くなくて死なない程度だと、誰しもずっと平穏無事だろうと思い込むもので、もっと色々な事をしてから、老後にでも静かに仏道を修めるとしようなどと思っているものだ。病を重くして死に臨む時には、仏道の願いなどはまだ一つも成せていないと語るのも虚しく、ただ年月の怠惰を悔やむことになり、『もし病が治って天寿を全うできるなら、昼夜を問わずに、この事、あの事、すべて怠りなく行う所存です』とか言うのだけれど、やがて病気は重症化していき、自我を見失って取り乱したままで亡くなってしまう。こんな事例が多いのだ。この事をまず、人々は急いで心に刻むべきなのだろう。
俗世での願望を果たした後で、暇があったら出家したいものだというのでは、世俗的な欲が尽きるはずもないのだ。夢幻のごとき人生で、何を成し遂げられるか。すべての願いは、みな妄想である。俗世での願いが心に浮かんだならば、それが妄信を生んで心を惑わすものだと知って、俗世的な欲望を実現するために何もすべきではないのだ。即座に全てを放り出して仏道に向えば、何の障害もなくて、する事もないのだから、身も心も末永く静かに落ち着いたものとなる。


[古文] 第242段:
とこしなへに違順(いじゅん)に使はるる事は、ひとへに苦楽のためなり。楽と言ふは、好み愛する事なり。これを求むること、止む時なし。楽欲(がくよく)する所、一つには名なり。名に二種あり。行跡(ぎょうせき)と才芸との誉なり。二つには色欲、三つには味ひ(あじわい)なり。万の願ひ、この三つには如かず。これ、顛倒(てんどう)の想より起りて、若干の煩ひあり。求めざらんには如かじ。

[現代語訳]
永遠に終わりなく、順境(幸福)と逆境(不幸)とにこき使われることは、ただ一途に楽を求めて苦を逃れようとするためである。『楽』というのは、あるものを好んで愛することである。これを求めれば、終わりがない。楽しんで欲望することの、一つは『名誉』である。名誉には二種類ある。自分がやってきた実績(あるいは公的な身分・立場)と自分の持っている才能・技芸の二つの名誉である。楽しんで欲望することの二つ目は『色欲』である。三つ目は『美味しいもの』を食べたいという味覚の欲である。すべての願いは、この基本的な三つの欲望には及ばない。これらは真実とは正反対のことを信じる顛倒の思念によって起こるもので、多くの心の苦悩を伴うものだ。多くを求めないことに越したことはない。


[古文] 第243段:
八つになりし年、父に問ひて云はく、『仏は如何なるものにか候ふらん』と云ふ。父が云はく、『仏には、人の成りたるなり』と。また問ふ、『人は何として仏には成り候ふやらん』と。父また、『仏の教によりて成るなり』と答ふ。また問ふ、『教え候ひける仏をば、何が教へ候ひける』と。また答ふ、『それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり』と。また問ふ、『その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける』と云ふ時、父、『空よりや降りけん。土よりや湧きけん』と言ひて笑ふ。『問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ』と、諸人に語りて興じき。

[現代語訳]
八つになった年に、父に質問した。『仏とは、どういうものでございますか?』と言った。父が言うことには『仏とは、人が悟りを開き成ったものだ』と。また問いかけた。『人はどうして仏に成れたのですか?』と。父はまた『仏の教によって仏に成るのである』と答えた。また問うた。『その道を教えてくれる仏自身は、何から教わったのですか?』と。また父は答える。『その仏もまた、前の仏の教えによって仏に成られたのだ』と。また問う。『その教えを始められた第一の仏は、どのような仏にございますか?』と聞くと、父は『空より降ってきたか。土から湧いてきたか』と答えて笑った。『息子から問い詰められて、仏の原点について答えられなくなりました』と、父はみんなに語って面白がっていた。

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江守孝三(Emori kozo)