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NHKテレビ 「100分de名著」 【維摩経】を 放送 、好評 テキスト (とらわれない、こだわらない) (古い「自分」を解体し、新たな「自分」を構築する。)

  目次 ・維摩詰所説経巻(巻上)第一第二第三 ・(巻中)第一第二第三 ・(巻下)第一第二
      下欄に記載 ( 面白い 超訳【維摩経】)(維摩書籍)(辞典)

維摩経(巻上之第二)  とらわれない、こだわらない
    自分の枠をばらし、新たな「私」を組み立てる。

『維摩経』は、西暦百年頃にインドで成立したと考えられています。「生老病死」と言った仏教の基本テーマだけでなく、政治や経済、平等や差別といった人間社会が抱えるさまざまな問題が、維摩詰によって提起されていきます。
『維摩経』 (ゆいまきょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。 サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。
日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

維摩経動画(100分で名著1.2.3.4)他

 
①「維摩経 仏教思想の一大転換」 ②「維摩経 得意分野こそ疑え」、  維摩経義疏: 不可思議解脱経:聖徳太子 著 (島田蕃根) 「維摩経に〝今〟を学ぶ 」維摩経(動画)維摩経(YouTube)国立図書「維摩経」

(←クリック:詳細説明) (辞典)


目次 ・維摩詰所説経巻上 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻中 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻下 第一  第二
維摩詰所説経巻上(第二) 維摩経(巻上之第二) 弟子品第三 ・弟子品第三(でしぼんだいさん)

舍利弗

爾時長者維摩詰自念。寢疾于床。世尊大慈寧不垂愍 ・その時、長者維摩詰(ゆいまきつ)自ら念(おも)えらく、『疾(やまい)に床に寝(い)ぬ。世尊、大慈にて、なんぞ愍(あわれ)みを垂れたまわざらんや。』 佛知其意。即告舍利弗。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、その意を知り、すなわち舍利弗に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣(いた)りて、疾を問え。』 舍利弗白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔曾於林中宴坐樹下 ・舍利弗、仏に白(もう)して言(もう)さく、『世尊、我は彼れに詣りて、疾を問うに堪任(たんにん、耐える)せず。所以(ゆえ、理由)は何(いか)んとなれば、憶念(おくねん、思い出す)するに、我、かつて林中に於いて、樹下に宴坐(えんざ、座禅)しき。 時維摩詰來謂我言。唯舍利弗。不必是坐為宴坐也 ・時に、維摩詰来たりて、我に謂(い)って言わく、『唯(ゆい、モシ)、舍利弗、必ずしも、これ坐するを宴坐(えんざ、座禅)と為さず。 夫宴坐者。不於三界現身意。是為宴坐 ・それ宴坐とは、三界(さんがい、欲界、色界、無色界、すなわち世間)に於いて、身と意とを現ぜざる、これを宴坐と為す。 不起滅定而現諸威儀。是為宴坐 ・起(た、起動)たず滅定(めつじょう、心の働きを滅し尽くす)して、しかも諸の威儀(いぎ、行住坐臥)を現ずる、これを宴坐と為す。 不捨道法而現凡夫事。是為宴坐 ・道法(どうほう、仏となる為の修行)を捨てずして、しかも凡夫(ぼんぶ、俗人)の事(俗事)を現ずる、これを宴坐と為す 心不住內亦不在外。是為宴坐 ・心、内に住せず、また外に在らざる、これを宴坐と為す(聖者は心を内に摂(おさ)め、凡夫は心を外に馳す、菩薩は心を内外に等しくす)。 於諸見不動而修行三十七品。是為宴坐 ・諸見(しょけん、断常の二見を本として起こる六十二種の妄見)に於いて動ぜず(諸見を捨てず)して、しかも三十七品(三十七道品、仏となる為の修行)を修行する、これを宴坐と為す。 不斷煩惱而入涅槃。是為宴坐 ・煩悩を断ぜずして、しかも涅槃(寂滅)に入る、これを宴坐と為す。 若能如是坐者。佛所印可 ・もし、よく、かくの如く坐する者は、仏の印可(いんか、認可)したもう所なり』と。 時我世尊。聞說是語默然而止不能加報。故我不任詣彼問疾 ・時に、世尊、この語を聞いて黙然として止め、報(ほう、返事)を加うること能(あた)わざりき。故に、我、彼れに詣りて疾を問うに任(た)えず』と。

大目揵連

佛告大目犍連。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、大目揵連(だいもくけんれん)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣りて疾を問え。』 目連白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔入毘耶離大城。於里巷中為諸居士說法 ・目連(もくれん、大目揵連)、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何んとなれば、憶念するに、我、昔毘耶離大城(びやりだいじょう)に入り、里巷(りこう、小曲の路)の中に於いて、諸の居士(こじ、資産家の信者)の為に法を説きき。 時維摩詰來謂我言。唯大目連。為白衣居士說法。不當如仁者所說 ・時に、維摩詰来たりて、我に謂って言わく、『唯、大目連、白衣(びゃくえ、俗人)の居士が為に法を説くこと、まさに仁者(にんじゃ、アナタ)の説く所の如くにはすべからず。 夫說法者當如法說。法無眾生離眾生垢故 ・それ法(真実)を説くとは、まさに如法(にょほう、法のまま)に説くべし。 法には衆生なし、衆生の垢(あか、五陰を本として起こる身見)を離るるが故に。 法無有我離我垢故 ・法には我あること無し、我垢(がく、我見)を離るるが故に。 法無壽命離生死故 ・法には寿命なし、生死を離るるが故に。 法無有人前後際斷故 ・法には人あること無し、前後際(ぜんごさい、前世と来世)断(断絶)ずるが故に。 法常寂然滅諸相故 ・法は常に寂然(じゃくねん、寂静にしてナミタタズ)たり、諸相(物事の外に表れたるスガタ)を滅するが故に。 法離於相無所緣故 ・法は相(スガタ)を離る、所縁(しょえん、心識の対象)なきが故に。 法無名字言語斷故 ・法には名字(みょうじ、名前)なし、言語(ごんご、言葉)断ずるが故に。 法無有說離覺觀故 ・法には説(説明)あること無し、覚観(かくかん、心の働き)を離るるが故に。 法無形相如虛空故 ・法には形相なし、虚空の如きが故に。 法無戲論畢竟空故 ・法には戯論(けろん、一切の言論)なし、畢竟(ひっきょう、ツマルトコロ)空なるが故に 法無我所離我所故 ・法には我所(がしょ、ワガモノまた身心)なし、我所を離るるが故に。 法無我所離我所故 ・法には我所(がしょ、ワガモノまた身心)なし、我所を離るるが故に。 法無分別離諸識故 ・法には分別(ふんべつ)なし、諸の識(しき、認識)を離るるが故に。 法無有比無相待故 ・法には比(たぐい、類)あること無し、相待(そうたい、相対)なきが故に 法不屬因不在緣故 ・法は因に属せず、縁に在らざるが故に。(他に対し因縁せず、因縁の対象ともならない) 法同法性入諸法故 ・法は法性(ほっしょう、諸法の本性)に同じ、諸法(しょほう、一切の物事)に入るが故に。(法は万物に周遍せざること無し、何処ニモアル) 法隨於如無所隨故 ・法は如(にょ、真如、すなわち真実にして不変)に随う、随う所なきが故に。(万物に周遍するが故に、特に或る物に随うこと無し) 法住實際諸邊不動故 ・法は実際(じっさい、真如)に住す、諸辺(有無の二見より起こる所の中正ならざる辺見)に動ぜざるが故なり。 法無動搖不依六塵故 ・法は動揺なし、六塵(ろくじん、色声香味触法)に依らざるが故に。 法無去來常不住故 ・法には去来(こらい、生滅)なし、常に不住(ふじゅう、非諸法)なるが故に。 法順空隨無相應無作 ・法は空に順(した)がい、無相に随い、無作(むさ、因縁の造作なし)に応ず。(本性は空であり、知覚できる相なく、他に作用することもなし) 法離好醜 ・法には好醜を離る。 法無增損 ・法には増損(増減)なし。 法無生滅 ・法には生滅なし。 法無所歸 ・法には帰(帰依、タノム)する所なし。 法過眼耳鼻舌身心 ・法は眼耳鼻舌身心(眼耳鼻舌身意)を過ぐ。 法無高下 ・法には高下(こうげ)なし。(平等なり) 法常住不動 ・法は常住にして不動なり。 法離一切觀行 ・法は一切の観(観察)行(行為)を離る。(法は本より無相にして観行する所なし) 唯大目連。法相如是豈可說乎。夫說法者無說無示。其聽法者無聞無得。譬如幻士為幻人說法。當建是意而為說法 ・唯(ゆい)、大目連、法の相はかくの如し、あに説くべけんや。 それ、法を説くとは、説くこと無く、示すこと無し。それ、法を聴くとは、聞くこと無く、得ること無し。譬えば、幻士(幻術師)の幻人の為に法を説くが如し。まさに、この意を建てて、しかも為に法を説くべし。 當了眾生根有利鈍。善於知見無所罣礙。以大悲心讚于大乘。念報佛恩不斷三寶。然後說法 ・まさに、衆生の根(こん、本性)に利鈍あることを了(了知)して、よく知見(ちけん、見聞覚知)に於いて、罣礙(けげ、サマタグ)する所なく、大悲心を以って大乗を讃じ、仏恩に報じて三宝(さんぽう、仏法僧)を断たしめざることを念じ、然る後に、法を説くべし。 維摩詰說是法時。八百居士發阿耨多羅三藐三菩提心。我無此辯。是故不任詣彼問疾 ・維摩詰、この法を説くの時、八百の居士、阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。我に、この辯(弁舌)なし。この故に、彼れに詣りて、疾を問うに任(た)えず。

大迦葉

佛告大迦葉。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、大迦葉(だいかしょう)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』 迦葉白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔於貧里而行乞 ・迦葉、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに、堪任せず。所以は何んとなれば、憶念するに、我、昔、貧里に於いて行乞(ぎょうこつ)しき。 時維摩詰來謂我言。唯大迦葉。有慈悲心而不能普。捨豪富從貧乞 ・時に、維摩詰来たりて、我に謂って言わく、『唯(ゆい)、大迦葉、慈悲心あれども、普(あまね)きこと能わず。豪富なるを捨て、貧より乞う。 迦葉。住平等法應次行乞食 ・迦葉、平等法に住し、まさに次(つぎ、次第、順に)に行きて、食を乞うべし。 為不食故應行乞食 ・食せざらんが為の故に、まさに行きて食を乞うべし。(涅槃の為に食す) 為壞和合相故應取揣食 ・和合相(わごうそう、五陰の和合せる身心)を壊(え、破壊)せんが為の故に、まさに揣食(たんじき、摶食(たんじき)、手にて丸めたる飯)を取るべし。(涅槃の為に食すべし) 為不受故應受彼食 ・受けざらん(身心を受けず、涅槃)が為の故に、まさに彼の食を受くべし。 以空聚想入於聚落。所見色與盲等。所聞聲與響等。所嗅香與風等 ・空聚(くうじゅ、無人村)の想を以って、聚落に入り、見る所の色(しき、物の好醜)は盲(盲人の見る所)と等しく、聞く所の声(誹謗賞賛の人声)は響きと等しく、嗅ぐ所の香(香臭)は風と等しく、 所食味不分別 ・食する所の味は分別せず、 受諸觸如智證 ・諸触(しょそく、見聞きスルコト)を受けて智証の如く、 知諸法如幻相無自性無他性。本自不然今則無滅 ・諸法(しょほう、物事)は幻の相の如く、自性(じしょう、自を他と区別する性質)なく、他性(たしょう、他を自と区別する性質)なく、本より自ずから然らず、今則ち滅すること無しと知れ。(自他なければ生滅なし) 迦葉。若能不捨八邪入八解脫 ・迦葉、もし、よく八邪(はちじゃ、八正道に反する行為)を捨てずして、八解脱(はちげだつ、物事に対する執著から脱す)に入り、 以邪相入正法 ・邪相(じゃそう、自他相等)を以って、正法に入り、 以一食施一切。供養諸佛及眾賢聖。然後可食 ・一食を以って一切に施し、諸仏および衆(もろもろ)の賢聖(けんじょう、菩薩等)を供養して、しかる後に食うべし。(一即一切、一切即一) 如是食者非有煩惱非離煩惱 ・かくの如く食う者、煩悩あるに非ず、煩悩を離るるに非ず、 非入定意非起定意 ・定意(じょうい、禅定)に入るに非ず、定意を起つに非ず、 非住世間非住涅槃 ・世間に住するに非ず、涅槃に住するに非ず、 其有施者無大福無小福。不為益不為損 ・それ施すことある者にも、大福なく、小福なく、益を為さず、損を為さず、 是為正入佛道不依聲聞 ・これ、まさしく、仏道に入りて、声聞(しょうもん、小乗の仏弟子)に依らずと為す。 迦葉。若如是食為不空食人之施也 ・迦葉、もし、かくの如く食せば、人の施しを食して空しからずと為すなり。 時我世尊。聞說是語得未曾有。即於一切菩薩深起敬心。復作是念。斯有家名辯才智慧乃能如是。其誰聞此不發阿耨多羅三藐三菩提心 ・時に、我、世尊、この語を説くを聞き、未曽有なることを得(う)。すなわち一切の菩薩に於いて深く敬心を起こし、またこの念を作さく、『この家名をもつもの(在家)の辯才、智慧は、すなわちよく、かくの如し。それ、誰か、これを聞きて、阿耨多羅三藐三菩提心を発さざらんや。』と。 我從是來不復勸人以聲聞辟支佛行。是故不任詣彼問疾 ・我、これよりこのかた、また声聞(しょうもん、小乗の修行者)、辟支仏(びゃくしぶつ、小乗の修行者)の行を以って、人に勧めず。この故に、彼れに詣りて、疾を問うに任(た)えず。』と。

須菩提

佛告須菩提。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、須菩提(すぼだい)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』 須菩提白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔入其舍從乞食 ・須菩提、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何んとなれば、憶念するに、我、昔、その舎(いえ)に入り、従って食を乞えり。 時維摩詰取我缽盛滿飯。謂我言。唯須菩提。若能於食等者諸法亦等。諸法等者於食亦等。如是行乞乃可取食 ・時に、維摩詰、我が鉢を取りて、飯を盛り満し、我に謂って言わく、『唯、須菩提、もし、よく食に於いて等しくば、諸法もまた等し。諸法等しくば、食に於いてもまた等し。かくの如く乞(こつ)を行ぜば、すなわち食を取るべし。 若須菩提。不斷婬怒癡亦不與俱 ・もし、須菩提、婬怒癡(いんぬち、貪瞋癡)を断ぜずして、与倶(とも)ならず、 不壞於身而隨一相 ・身を壊せずして、一相(いっそう、無相、無我)に随い、 不滅癡愛起於明脫 ・癡愛を滅せずして、明脱(みょうだつ、慧明と解脱)を起こし、(癡の為に蔽われず、愛のために縛せられず) 以五逆相而得解脫 ・五逆(ごぎゃく、最悪事)の相を以って、解脱を得、 亦解不縛 ・また、解にあらず、縛にあらず、 不見四諦非不見諦 ・四諦(したい、真理)を見ずに、諦を見ざるに非ず、 非得果非不得果 ・果(か、覚りを得た聖者の位)を得るに非ず、果を得ざるに非ず、 非凡夫非離凡夫法 ・凡夫に非ず、凡夫の法(凡夫の行為)を離るるに非ず、 非聖人非不聖人 ・聖人(凡夫ならざる者)に非ず、聖人ならざるに非ず、 雖成就一切法而離諸法相。乃可取食 ・一切法(有為法と無為法)を成就すといえども、(有為法と無為法との)諸法の相を離れば、すなわち食を取るべし 若須菩提。不見佛不聞法。彼外道六師。富蘭那迦葉。末伽梨拘賒梨子。刪闍夜毘羅胝子。阿耆多翅舍欽婆羅。迦羅鳩馱迦旃延。尼犍陀若提子等。是汝之師因其出家。彼師所墮汝亦隨墮。乃可取食 ・もし、須菩提、仏を見ず、法を聞かず、彼の外道の六師、富蘭那迦葉(ふらんなかしょう)、末伽梨拘賖梨子(まかりくしゃりし)、刪闍夜毘羅胝子(さんじゃやびらちし)、阿耆多翅舎欽婆羅(あぎたきしゃきんばら)、迦羅鳩駄迦旋延(からくだかせんねん)、尼犍陀若提子(にけんだにゃだいし)等、これ汝が師にして、それによりて出家し、彼の師の堕する所に、汝もまた随って堕せば、すなわち食を取るべし。 若須菩提。入諸邪見不到彼岸 ・もし、須菩提、諸の邪見に入りて、彼岸に到らず、 於八難不得無難 ・八難(はちなん、仏法の難聞の所)に於いて、難なきを得ず、 同於煩惱離清淨法 ・煩悩に同じくして、清浄の法を離る。 汝得無諍三昧。一切眾生亦得是定。其施汝者不名福田 ・汝、無諍三昧(むじょうさんまい、空理に徹して他と諍わない禅定)を得、一切衆生もまたこの定を得、それ汝に施す者は福田と名づけず。 供養汝者墮三惡道。為與眾魔共一手作諸勞侶。汝與眾魔及諸塵勞等無有異。於一切眾生而有怨心。謗諸佛毀於法不入眾數。終不得滅度 ・汝に供養する者は三悪道に堕し、為に衆魔と一手を共に、諸の労侶(ろうりょ、人を労煩(ろうはん、疲れさせ惑わすコト)する伴侶)となりて、汝と衆魔および諸の塵労(じんろう、汚し疲れさすモノ)等と異なりあること無く、一切衆生に於いて怨心あり、諸仏を謗り、法を毀(そし)り、衆(仏弟子)の数に入らずして、ついに滅度を得ず。 汝若如是乃可取食 ・汝、もしかくの如くば、すなわち食を取るべし。 時我世尊。聞此語茫然不識是何言。不知以何答。便置缽欲出其舍 ・時に、我、世尊、この語を聞きて、茫然として、これ何の言かを識らず。何を以って答えんかを知らず。すなわち、鉢を置いて、その舎を出でんと欲す。 維摩詰言。唯須菩提取缽勿懼。於意云何。如來所作化人。若以是事詰。寧有懼不 ・維摩詰言わく、『唯、須菩提、鉢を提取(と)りて、懼(おそ)るることなかれ。意に於いて云何。如来の作る所の化人、もしこの事を以って詰(なじ)らんに、むしろ懼るること有りやいなや。』 我言。不也 ・我言わく、『いななり。』 維摩詰言。一切諸法如幻化相。汝今不應有所懼也 ・維摩詰言わく、『一切の諸法は、幻化の相の如し。汝は今、まさに懼るる所あるべからず。 所以者何。一切言說不離是相。至於智者不著文字故無所懼。何以故。文字性離無有文字。是則解脫。解脫相者則諸法也 ・所以は何んとなれば、一切の言説はこの相を離れず。智者に至りては、文字に著せざるが故に、懼るる所なし。何を以っての故に、文字の性は離(り、空相)なれば文字あること無し。 これ、すなわち解脱なり。解脱の相とは、すなわち諸法なり。 維摩詰說是法時。二百天子得法眼淨。故我不任詣彼問疾 ・維摩詰、この法を説く時、二百の天子、法眼浄(ほうげんじょう、真如を見る眼)を得たり。故に我、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。』と。

富楼那弥多羅尼子

佛告富樓那彌多羅尼子。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』 富樓那白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔於大林中在一樹下。為諸新學比丘說法 ・富楼那、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何んとなれば、憶念するに、我、昔、大林の中に於いて、一樹の下に在りて、諸の新学の比丘の為に法を説きき。 時維摩詰來謂我言。唯富樓那。先當入定觀此人心然後說法 ・時に、維摩詰来たりて、我に謂って言わく、『唯、富楼那、先に定(じょう、禅定)に入り、この人の心を観(かん、観察)じて、しかる後に、法を説くべし。 無以穢食置於寶器。當知是比丘心之所念 ・穢き食(小乗の法に喩う)を以って、宝器に置くことなかれ。まさに、この比丘の、心の念ずる所を知るべし。 無以琉璃同彼水精 ・瑠璃(るり)を以って、彼の水精(小乗に喩う)に同じうすることなかれ 無以琉璃同彼水精 ・瑠璃(るり)を以って、彼の水精(小乗に喩う)に同じうすることなかれ。 汝不能知眾生根源。無得發起以小乘法。彼自無瘡勿傷之也 ・汝は、衆生の根源(本性)を知ること能わずして、発起(ほっき、説法誘導)するに、小乗の法を以ってすることを得ることなかれ。彼、自ら瘡(きず)なし、これを傷(そこな)うことなかれ。 欲行大道莫示小徑。無以大海內於牛跡 ・大道を行かんと欲するに、小径(しょうけい、小道)を示すことなかれ。大海を以って、牛跡(ごしゃく、牛の足跡)に内(い)るることなかれ。 無以日光等彼螢火 ・日光を以って、彼の蛍火(けいか、ホタルの光)に等しうすることなかれ。 富樓那。此比丘久發大乘心。中忘此意。如何以小乘法而教導之 ・富楼那、この比丘は、久しく大乗の心を発し、中ごろ、この意を忘れたるなり。如何(いか)んぞ、小乗の法を以って、これを教導するや。 我觀小乘智慧微淺猶如盲人。不能分別一切眾生根之利鈍 ・我、小乗を観るに、智慧微浅なること、なお盲人の如く、一切の衆生の根の利鈍を分別すること能わず』と。 時維摩詰即入三昧。令此比丘自識宿命。曾於五百佛所植眾德本。迴向阿耨多羅三藐三菩提。即時豁然還得本心。於是諸比丘稽首禮維摩詰足 ・時に、維摩詰、すなわち三昧(さんまい、一心、心を集中する)に入り、この比丘をして、自ら宿命(前世)に、かつて五百の仏の所に於いて、もろもろの徳本(とくほん、善根)を植え、阿耨多羅三藐三菩提に廻向せしことを、識らしめしに、即時に豁然(かつねん、目の前が開く)として、ふたたび本心を得たり ここに於いて、諸の比丘は、稽首(けいしゅ、首を垂れ)して維摩詰の足を礼せり。 時維摩詰因為說法。於阿耨多羅三藐三菩提不復退轉 ・時に、維摩詰、為に法を説くに因り、阿耨多羅三藐三菩提に於いて、また退転せざらしむ。 我念聲聞不觀人根不應說法。是故不任詣彼問疾 ・我、念(おも)えらく、『声聞は、人の根を観ぜずして、まさに法を説くべからず』と。この故に、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。』と。

摩訶迦旃延

佛告摩訶迦旃延。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、摩訶迦旃延(まかかせんねん)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』 迦旃延白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念昔者佛為諸比丘略說法要。我即於後敷演其義。謂無常義苦義空義無我義寂滅義 ・迦旃延、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何んとなれば、憶念するに、昔、仏、諸の比丘の為に、略して法の要を説きたまいしに、我は、すなわち、後に於いて、その義(ぎ、意味)を敷演(ふえん、敷き延ばして説く)せり、謂わく、『無常の義、苦の義、空の義、無我の義、寂滅の義』と。 時維摩詰來謂我言。唯迦旃延。無以生滅心行說實相法 ・時に、維摩詰来たりて、我に謂って言わく、『唯、迦旃延、生滅の心行(しんぎょう、心の働き)を以って、実相の法を説くことなかれ。 迦旃延。諸法畢竟不生不滅。是無常義 ・迦旃延、諸法は畢竟(ひっきょう、ツマルトコロ)して、不生不滅なる、これ無常の義なり。 五受陰洞達空無所起。是苦義 ・五受陰(ごじゅおん、五陰、人の身心)は、洞達(どうたつ、徹見)するに、空にして、起こる所無き、これ苦の義なり。 諸法究竟無所有。是空義 ・諸法は、究竟して所有(しょう、存在)なき、これ空の義なり。 於我無我而不二。是無我義 ・我と無我とに於いて、不二なる、これ無我の義なり。 法本不然今則無滅。是寂滅義 ・法は本より然らず(生ぜず)、今、すなわち、滅すること無し。これ寂滅の義なり。 說是法時彼諸比丘心得解脫。故我不任詣彼問疾 ・この法を説きし時、彼の諸の比丘、心に解脱を得たり。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。

阿那律

佛告阿那律。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、阿那律(あなりつ)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』 阿那律白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔於一處經行 ・阿那律、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何となれば、憶念するに、我、昔、一処に於いて経行(きょうぎょう、座禅に代わって、近くを往ったり来たりして歩き回る)しき。 時有梵王名曰嚴淨。與萬梵俱放淨光明來詣我所。稽首作禮問我言。幾何阿那律天眼所見 ・時に、ある梵王、名を厳浄というもの、万の梵(梵天の眷属)と倶に、浄光明を放ちて、我が所に来詣(らいけい)し、稽首して礼をなし、我に問うて言わく、『幾何(いくばく)ぞ、阿那律が天眼の見る所は』と。 我即答言。仁者。吾見此釋迦牟尼佛土三千大千世界。如觀掌中菴摩勒果 ・我、すなわち、答えて言わく、『仁者、吾は、この釈迦牟尼仏の土の三千大千世界を見ること、掌中の菴摩勒果(あんまろくか、マンゴウ)を観るが如し。』 時維摩詰來謂我言。唯阿那律。天眼所見為作相耶。無作相耶 ・時に、維摩詰来たりて、我に謂って言わく、『唯、阿那律、天眼に見らるるものは、相を作すと為すや、相を作すこと無しと為すや。 假使作相則與外道五通等 ・もし、相を作さば、すなわち外道の五通(ごつう、神通力)と等し。 若無作相即是無為不應有見 ・もし、相を作すこと無くば、すなわち、これ無為(むい、因縁により作られないモノ、単なる物事以外)なり。まさに見ること有るべからず』と。 世尊。我時默然 ・世尊、我、時に黙然たりき。 彼諸梵聞其言得未曾有。即為作禮而問曰。世孰有真天眼者 ・彼の諸の梵たち、その言(コトバ)を聞いて未曽有を得、すなわち為に礼を作して、問うて曰く、『世に、たれか真の天眼をもつ者なる』と。 維摩詰言。有佛世尊得真天眼。常在三昧悉見諸佛國不以二相 ・維摩詰言わく、『仏、世尊あり。真の天眼を得たもう。常に三昧に在りて、悉く諸仏の国を見たもうに、二相(にそう、色相(粗相)と形相(精相))を以ってしたまわず。』 於是嚴淨梵王及其眷屬五百梵天。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。禮維摩詰足已忽然不現。故我不任詣彼問疾 ・ここに於いて、厳浄梵王および、その眷属の五百の梵天たち、皆、阿耨多羅三藐三菩提心を発し、維摩詰の足に礼しおわりて、忽然(こつねん、フッと)として現れざりき。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。』と。

優婆離

佛告優波離。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、優婆離(うばり)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』 優波離白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念昔者有二比丘。犯律行以為恥。不敢問佛。來問我言。唯優波離。我等犯律誠以為恥。不敢問佛。願解疑悔得免斯咎。我即為其如法解說 ・優婆離、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何となれば、憶念するに、昔、二比丘あり。律行(りつぎょう、戒律)を犯し、以って恥と為し、あえて仏に問いたてまつらず、来たりて我に問うて言わく、『唯、優婆離、我等は律を犯し、誠に以って恥と為し、あえて仏に問いたてまつらず。願わくは、疑悔(ぎけ、ウタガイトクヤミ、悔恨)を解き、その咎(とが)を免るることを得しめよ』と。我は、すなわち、その為に、如法(にょほう、道理にカナウ)に解説せり。 時維摩詰來謂我言。唯優波離。無重增此二比丘罪。當直除滅勿擾其心 ・時に、維摩詰来たりて、我に謂って言わく、『唯、優婆離、重ねて、この二比丘の罪を増すことなかれ。まさに、ただちに(その罪を)除滅すべし。その心を擾(みだ)すことなかれ。 所以者何。彼罪性不在內不在外不在中間 ・所以は何んとなれば、彼の罪性は内に在らず、外に在らず、中間にも在らず。 如佛所說。心垢故眾生垢 ・仏の所説の如きは、『心垢つくが故に、衆生垢つく。 心淨故眾生淨 ・心浄きが故に、衆生浄し。』 如其心然。罪垢亦然 ・その心の然るが如く、罪の垢もまた然り。 諸法亦然。不出於如 ・諸法もまた然り。如(にょ、真如)を出でず。 如優波離。以心相得解脫時。寧有垢不 ・優婆離の如きは、心相(しんそう、ココロ)を以って、解脱を得る時、むしろ垢ありやいなや。』 我言。不也 ・我言わく、『いな』と。 維摩詰言。一切眾生心相無垢亦復如是 ・維摩詰言わく、『一切の衆生の心相の垢無きことも、またかくの如し。 唯優波離。妄想是垢無妄想是淨 ・唯、優婆離、妄想はこれ垢なり、妄想なきはこれ浄なり。 顛倒是垢。無顛倒是淨 ・顛倒(てんどう、真実と逆の思い)はこれ垢なり、顛倒なきはこれ浄なり。 取我是垢。不取我是淨 ・我を取るはこれ垢なり。我を取らざるはこれ浄なり。 優波離。一切法生滅不住。如幻如電 ・優婆離、一切の法(物事)の生滅は住まらずして、幻の如く、電(電光)の如し。 諸法不相待。乃至一念不住 ・諸法は相い待たず、ないし一念(一瞬)も住まらず。 諸法皆妄見。如夢如炎如水中月如鏡中像以妄想生 ・諸法は、皆妄見なり。夢の如く、炎(カゲロウ)の如く、水中の月の如く、鏡中の像の如く、妄想を以って生ず。 其知此者是名奉律 ・それ、これを知れば、これ律を奉ずと名づく。 其知此者是名善解 ・それ、これを知れば、これよく解すと名づく。 於是二比丘言。上智哉。是優波離所不能及。持律之上而不能說 ・ここに於いて、二比丘言わく、『上の智(智慧)なるかな。これ、優婆離の及ぶこと能わざる所なり。(優婆離は)持律の上なるも説くこと能わず。』 我即答言。自捨如來未有聲聞及菩薩能制其樂說之辯。其智慧明達為若此也 ・我、すなわち答えて言わく、『自ずから、如来を捨(お)けば、いまだ声聞および菩薩の、よく、その(維摩詰の)説くを楽しむ辯(弁舌)を制するもの有らず。その智慧の明達なること、かくのごとしと為す。 時二比丘疑悔即除。發阿耨多羅三藐三菩提心。作是願言。令一切眾生皆得是辯。故我不任詣彼問疾 ・時に、二比丘は、疑悔すなわち除こり、阿耨多羅三藐三菩提心を発して、この願を作して言わく、『一切の衆生をして、みなこの辯を得しめん』と。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。

羅[目*侯]羅

佛告羅[目*侯]羅。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、羅[目*侯]羅(らごら)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』 羅[目*侯]羅白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念昔時毘耶離諸長者子。來詣我所稽首作禮問我言。唯羅[目*侯]羅。汝佛之子。捨轉輪王位出家為道。其出家者有何等利。我即如法為說出家功德之利 ・羅[目*侯]羅、仏に白して言さく、『世尊、我は彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何となれば、憶念するに、昔、毘耶離(びやり)の諸の長者子、来たりて我が所に詣り、稽首して礼を作して、我に問うて言わく、『唯、羅[目*侯]羅、汝は仏の子なり。転輪王(てんりんおう、世界を治める王)の位を捨てて、出家を道と為す。それ、出家には、何等の利かある』と。我、すなわち如法に、為に出家の功徳の利を説きけり。 時維摩詰來謂我言。唯羅[目*侯]羅。不應說出家功德之利 ・時に、維摩詰来たりて、我に謂って言わく、『唯、羅[目*侯]羅、まさに出家の功徳の利を説くべからず。 所以者何。無利無功德是為出家。有為法者可說有利有功德 ・所以は何となれば、利なく功徳なき、これを出家と為す。有為法(ういほう、因縁により作られたモノ、物事)なれば、利あり功徳ありと説くべし 夫出家者為無為法。無為法中無利無功德 ・それ、出家とは、無為法(むいほう、因縁により作られないモノ、単なる物事以外)と為す。無為法の中には、利なく功徳なし。 羅[目*侯]羅。出家者無彼無此亦無中間。離六十二見處於涅槃 ・羅[目*侯]羅、出家とは、彼れなく此れなく、また中間もなく、六十二見(六十二ある外道の見解)を離れ、涅槃に処す。 智者所受聖所行處。降伏眾魔度五道 ・智者の受くる所、聖(聖者)の行ずる所の処なり。衆魔を降伏し、五道(地獄餓鬼畜生人間天上)を度し、 淨五眼得五力立五根。不惱於彼 ・五眼(天眼肉眼法眼慧眼仏眼)を浄め、五力(信力進力念力定力慧力)を得、五根(信根進根念根定根慧根)を立てて、彼(衆魔)に悩まされず。 離眾雜惡摧諸外道 ・衆(もろもろ)の雑悪(ぞうあく)を離れ、諸の外道を摧(くじ)き、 超越假名出淤泥 ・仮名(けみょう、名のみ在りて実在せず、有為法)を超越して汚泥を出で 無繫著無我所 ・繫著(けじゃく、煩悩)なく我所(がしょ、ワガモノ)なく、 內懷喜護彼意 ・内に喜びを懐きて、彼れの意を護り(衆生の心に逆らわず)、 隨禪定離眾過。若能如是是真出家 ・禅定に随い、衆(もろもろ)の過(トガ)を離る。もしよく、かくの如くならば、これ真の出家なり。』と。 於是維摩詰語諸長者子。汝等於正法中宜共出家。所以者何。佛世難值 ・ここに於いて、維摩詰、諸の長者子に語らく、『汝等、正法の中に於いて、よろしく共に出家すべし。所以は何んとならば、仏の世には値(あ)い難し。』 諸長者子言。居士。我聞佛言。父母不聽不得出家 ・諸の長者子言わく、『我聞けり、仏言(の)たまわく、父母聴(ゆる)さざれば、出家することを得ずと。』 維摩詰言。然汝等便發阿耨多羅三藐三菩提心是即出家。是即具足 ・維摩詰言わく、『然り、汝等、すなわち阿耨多羅三藐三菩提心を発す、これすなわち出家なり。これすなわち具足(ぐそく、戒を受けおわる)なり。』と。 爾時三十二長者子。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。故我不任詣彼問疾 ・その時、三十二の長者子は、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発せり。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。』と。

阿難

佛告阿難。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、阿難(あなん)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』 ・阿難白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念昔時世尊身小有疾當用牛乳。我即持缽詣大婆羅門家門下立 阿難、仏に白して言さく、『世尊、我は彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何となれば、憶念するに、昔、世尊が身に、少しく疾あり。まさに牛乳を用うべかりき。我は、すなわち鉢を持ち、大婆羅門の家に詣りて、門のもとに立てり。 時維摩詰來謂我言。唯阿難。何為晨朝持缽住此 ・時に、維摩詰来たりて、我に謂って言わく、『唯、阿難、何為(なんす)れぞ、晨朝(じんちょう、夜明け)に鉢を持ちて、ここに住 我言。居士。世尊身小有疾當用牛乳。故來至此 ・我言わく、『居士、世尊が身に、少しく疾あり。まさに牛乳を用うべし。故に来たりて、ここに至る』と。 維摩詰言。止止阿難。莫作是語。如來身者金剛之體。諸惡已斷眾善普會。當有何疾當有何惱。默往阿難 ・維摩詰言わく、『止めよ止めよ、阿難。この語(ご、ハナシ)を作すことなかれ。如来が身は、金剛(こんごう、最も堅く傷損すべからず)の体なり。諸の悪は、すでに断じ、衆の善は、あまねく会(あつ)まる。まさに何の疾かあるべき、まさに何の悩みかあるべき。黙して往け、阿難。 勿謗如來。莫使異人聞此麤言。無令大威德諸天及他方淨土諸來菩薩得聞斯語 ・如来を謗るなかれ。異人をして、この麤言(そごん、粗雑の言)を聞かしむることなかれ。大威徳の諸天、および他方の浄土の諸来の菩薩をして、この語を聞くを得しむることなかれ。 阿難。轉輪聖王以少福故尚得無病。豈況如來無量福會普勝者哉。行矣阿難。勿使我等受斯恥也 ・阿難、転輪聖王は、少しの福を以っての故にすら、なお病の無きことを得たり。あに、況や如来、無量の福の会(あつ)まれる、普く勝れたる者をや。行け、阿難。我等をして、この恥を受けしむることなかれ。 外道梵志若聞此語當作是念。何名為師。自疾不能救而能救諸疾 ・外道、梵志(ぼんし、一切の出家せる外道)、もしこの語を聞かば、まさに、この念(おもい)を作すべし、『何ぞ名づけて師とせん。自らの疾すら救うこと能わずして、よく諸の疾(人)を救わんや』と。 仁可密速去勿使人聞 ・仁(にん、ナンジ)密(ひそ)かに、速やかに去るべし、人をして聞かしむることなかれ。 當知阿難。諸如來身即是法身非思欲身。佛為世尊過於三界 ・まさに知るべし、阿難。諸の如来の身は、すなわち、これ法身なり。思欲(しよく、思う所、欲する所アリ)の身には非ざるなり。仏は世尊たり、三界に過ぎたり。 佛身無漏諸漏已盡。佛身無為不墮諸數。如此之身當有何疾當有何惱 ・仏の身は、無漏(むろ、一切の煩悩除る)なり、諸の漏(ろ、煩悩)すでに尽く。(有為の)諸数に堕せず。かくの如きの身に、まさに何の疾ぞあるべき。まさに何の悩みぞあるべき。』と。 時我世尊實懷慚愧。得無近佛而謬聽耶。即聞空中聲曰。阿難。如居士言。但為佛出五濁惡世。現行斯法度脫眾生。行矣阿難。取乳勿慚 ・時に、我は、世尊、実に慚愧を懐く、『仏に近づきつつ、しかも聴くことに謬(あやま)つこと無きを得んや』と。すなわち空中の声を聞く、曰く、『阿難、居士の言の如し。ただ仏、五濁(ごじょく、劫濁、衆生濁、煩悩濁、見濁、命濁)の世に、出でたもうが為に、この法(疾ナド)を現行し、衆生を度脱したまえるのみ。行け、阿難、乳を取りて慚(は)づることなかれ』と。 世尊。維摩詰智慧辯才為若此也。是故不任詣彼問疾 ・世尊、維摩詰が智慧と辯才は、かくの如しと為す。この故に、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。』と。 如是五百大弟子。各各向佛說其本緣。稱述維摩詰所言。皆曰不任詣彼問疾 ・かくの如く、五百の大弟子、各々仏に向かいて、その本縁(ほんえん、因縁)を説き、維摩詰の言う所を称述して、皆曰く、『彼れに詣りて、疾を問うに任えず』と。

引用文献


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 面白い 超訳【維摩経】

初期大乗仏教典の傑作であり、かの聖徳太子も注釈本を書き下ろしたという「維摩経」の超訳チャレンジ。
仏教典=「お経」というと、法事の時などに坊さんがなにやらムニャムニャ唱えている呪文みたいなものだというイメージが強いですが、羅列された漢字の文字列を「中国語」の文章として読もうとしてみると、その内容の面白さに、ひとかたならず驚かされます。
中でも「維摩経(ゆいまぎょう)」は、戯曲的な色彩が強くて面白いという噂だったので読んでみたわけなのですが、イキイキとした人物描写が実に素敵で、凡百の小説やドラマなどよりもよっぽどか楽しく読むことができました。

「宗教書」などと考えず、純粋に「読み物」として楽しんでいただければ、これ幸い。

【維摩経】目次
「維摩詰所説経」より

◆維摩居士、仮病を使う (方便品)

◆難色を示す仏弟子たち (弟子品)

◆ しり込みする菩薩ども (菩薩品)

◆ 文殊がゆく! (文殊師利問疾品)

◆ ミラクルパワー! (不思議品)

◆一般ピープルってどうよ? (観衆生品)

◆ ザ・ウェイ・オブ・ブッダ (仏道品)

◆相対化を超えてゆけ! (不二法門品)

◆極上のランチ (香積仏品)

◆菩薩でGO! (菩薩行品)

◆極楽を見たか? (見阿閦如来品)

◆「法」を守れ!(法供養品)

◆大団円(嘱累品)

(附録)
◆ザ・ワールド・オブ・パラダイス(仏国品)


引用文献  .



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梵漢和対照・現代語訳 維摩経 単行本 – 2011/8/27 植木 雅俊 (翻訳) 単行本: 680ページ 出版社: 岩波書店 (2011/8/27)
維摩経は、人間生活におけるとらわれを捨て、世俗の生活(在家)のなかに仏教の理想を実現することの意味を説いた初期大乗仏典の代表的傑作である。本書は、「空」という大乗仏教思想の核心をドラマ仕立てで説く根本経典の、正確かつ平易な現代語訳。前世紀末に見つかった20世紀仏教学史上最大の発見と称されるサンスクリット原典に依拠し、梵文と漢訳(書下し)を併記。詳細な注解を付す決定版。
本書は、サンスクリット・テキスト影印版(大正大学綜合佛教研究所刊)を底本とする現代日本語訳と、綿密な校訂によるローマナイズしたサンスクリット原典テキスト、鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』(漢文書き下しテキスト)を併記対照させつつ、さらに詳細な注解を施したものである。原典テキストに準拠した曖昧さを残さない正確で読みやすい訳業は、全体の半分近くを占める訳出の根拠となる綿密な注解とともに、仏典翻訳史に新たな頁を刻む画期的な達成である。

至れり尽くせりの本(事例)
『維摩経』のサンスクリット原典は既に失われているとされてきた。ところが、その写本が何と1999年に完本として発見された。本書は、その写本の影印版(2003年)を綿密に校訂し、詳細な注釈(全680頁の約半分を占める)を付して現代語訳した上で、「サンスクリット原文」、「鳩摩羅什訳」、「著者の現代語訳」を見開きで対照させるという、読者にとって極めて便利な構成で作られている。
 著者は、お茶の水女子大学に「仏教におけるジェンダー平等思想」というテーマの論文を提出し、2002年に同大で男性として初の人文科学博士の学位を取得した。そして、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上・下(岩波書店)で毎日出版文化賞に選ばれた(2008年)。まさに、サンスクリット語と仏教学の泰斗である。大学や研究機関に身を置くことはないが、大学の研究者たちの業績を遥かに凌駕する研究成果を次々に発表している。まさに、在俗でありながら十大弟子をも圧倒し、性差をも超えていた維摩居士を地で行く人というべきである。
 権威主義的な小乗仏教の女性軽視にとらわれた智慧第一の舎利弗も、天女にからかわれ、手玉にとられる。維摩詰の十大弟子に対する弾呵も手厳しいが、本書の注釈においては、過去の研究成果の矛盾点に対する著者の指弾も手厳しい。例えば、43〜46頁の長きにわたる注釈で、著者は、長尾雅人博士の一音(いっとん)説法についての無理なこじつけを槍玉にあげる。長尾氏が、「釈尊は方言で語られたが、受け取る側はそれぞれの方言で受け止めた」と解釈し、その例として「『おしん』というテレビ・ドラマが佐賀弁で話されていても全国で理解されたのと同じだ」と述べていることについて、著者は「それは全国放送なので手加減しているから理解されたのであり、鹿児島弁であったらどうなのだ」と批判する。そして、長尾氏がどうして方言にこだわられるのか、そのネタ本まで暴露している。本書の、注釈ではこのような批判が網羅されている。これまでの研究は何だったのかという思いが募る。
 古来、初めてお経を読む人に、『維摩経』はうってつけとされてきた。それには相応の理由がある。プラトンの著作が哲学である以前にドラマ(ソクラテスを主人公とする対話)として面白いのと同様、仏教経典はドラマ(主人公は世尊)としてまず面白い。別けても『維摩経』の仕掛けは無類である。経典文学の最高峰である『法華経』とならぶものである。
 インド人の想像力にはほとほと頭がさがる。一文学書として『維摩経』を捉えた時、あくまで個人的な感想であるが、その読後感はルキアノス『本当の話』に一番近い感じがした。『アラビアンナイト』や『黄金のろば』も奇想天外だが、スピードが伴わない。『維摩経』は、これらの世界文学の最高峰とならべても遜色がないのである。それが、曖昧さを残さない正確な訳文で現代に蘇った。  文学的魅力は読めば終わるが、思想を汲み取る作業は別である。ありがたいことに著者は、インド仏教史の概略、戯曲『維摩経』のあらすじ、在家の地位の歴史的変遷、積極的な利他行の原動力としての「空」――など、『維摩経』理解に欠かせない思想背景を巻末の「解説」で詳細に論じてくれている。先に「はしがき」「解説」「あとがき」に目を通してから、現代語訳の本文を読むことをお勧めしたい。
 仏教用語辞典としても使える索引の充実ぶり、梵漢和を対照させたレイアウトは、印刷業者泣かせの作業であり、サンスクリット原文の校正を考えても、5500円の定価は信じられない安さである。その“安さ”が不思議でならなかったが、「あとがき」を読んで納得した。著者自身が、コンピュータのDTP技術を駆使して完全原稿(版下)を作成していたのだ。出版社まかせでは価格が跳ね上がるだけではなく、誤植が跡を絶たない(出版社にいた経験からこのことは請け合える)。その意味でもテキストの信頼性は他を圧している。至れり尽くせりとは、この本のためにあるような言葉だ。


梵文和訳 維摩経 単行本 – 2011/1/1 高橋 尚夫 (翻訳) 西野 翠 (翻訳)単行本: 333ページ 出版社: 春秋社 (2011/1/1)
真の菩薩の生き方を鋭く初期大乗経典の『維摩経』。その梵文テキストをチベット訳や漢訳なども参照しながら、正確かつ平易な言葉で翻訳。巻末には、用語解説や梵・蔵・漢の相違点などを示した詳細な訳注を付す。


『維摩経』 2017年6月 (100分 de 名著) ムック 釈 徹宗 (その他) – 2017/5/25 釈 徹宗 (その他)
あらゆる枠組みを超えよ!
かの聖徳太子が日本に紹介した仏典『維摩経』。病気になった在家仏教信者・維摩と、彼を見舞った文殊菩薩との対話を通して、「縁起」や「空」など大乗仏教の鍵となる概念をめぐる考察が、まるで現代劇のように展開される。この『維摩経』を現代的に読み解く面白さを、宗教学者で僧侶の釈徹宗氏が解説する。


維摩経講話 (講談社学術文庫) 文庫 – 1990/3/5 鎌田 茂雄 (著)
『維摩経』は、大乗仏教の根本原理、すなわち煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)を最もあざやかにとらえているといわれる。迷いと悟り、理想と現実、善と悪など、全く対立するものを不二(ふに)と見なし、その不二の法門に入れば、一切の対立を超えた無対立の世界、何ものにも束縛されない自由な境地に入る。在家の信者の維摩居士が主役となって、菩薩や声聞(しょうもん)を相手に活殺自在に説法するところが維摩経の不思議な魅力といえよう。


大乗仏典〈7〉維摩経・首楞厳三昧経 (中公文庫) 文庫 – 2002/8/25 長尾 雅人 (翻訳), 丹治 昭義 (翻訳)
大金持ちの俗人維摩居士の機知とアイロニーに満ちた教えによって、空の思想を展開する一大ドラマ維摩経。人間の求道の過程において「英雄的な行進の三昧」こそ、あらゆる活動の源泉力であると力説する首楞厳三昧経。



・超訳【維摩経】・超訳【無門関】・超訳【金剛経】・超訳【夢中問答(上)】

超訳【維摩経】 超訳文庫設立の契機ともなった記念碑的作品。 初期大乗経典の傑作にして、ドタバタコントの元祖みたいな一大哲学サイキック活劇です。 気楽に読むだけで、キミも「ミラクルパワー」がゲットできる!?

超訳【無門関】 「仏」に逢ったら即、ぶっ殺せ! 「師匠」に逢ったら、やっぱりぶっ殺せ! 「親」に逢ったら? もちろんぶっ殺せ! そしてオマエは天下無敵となるのだ!! ・・・というもの凄い剣幕で語られる、48のシュールなナゾナゾたち。 快僧無門慧開の真意は何処!?

超訳【金剛経】 我らの心に平安をもたらすもの、それは「完全円満なる智慧」。 ・・・という壮大なテーマで繰り広げられる、ブッダとその弟子スブーティ(須菩提)のボケとツッコミによる究極哲学ふたり漫才! 超メジャータイトル「般若心経」と、ショートエピソード「ミラクルフラッシュ・ボーイの物語(不思議光菩薩所説経)」も同時収録! 全編とも、漢訳原典つきです!

超訳【夢中問答】(上) 「夢」とは何か? そしてその中で交わされる問答とはいったい? 足利直義の切実な問いを受け、夢窓国師が開く「真実の法門」とは!? 室町時代のディアロゴスの軌跡が、七百年後の今に甦る!
超訳【維摩経】


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維摩経

百科事典

維摩経』 (ゆいまきょう、: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ[1])は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。

サンスクリット原典[2]と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。

日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

概要

維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。

内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。

維摩が病気[3]になったので、釈迦舎利弗目連迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。

維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。

  • 一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。
  • 般若経典では一般に「」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。

不二法門

維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間出世間無我生死(しょうじ)と涅槃煩悩菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。

たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。

これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。

この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。

原典・主な訳注

主な解説講話

注・出典

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  1. ^ 「ニルデーシャ」(nirdeśa)とは、「演説説教」のこと。
  2. ^ それ以前は逸失したものと思われていたが、1999年に大正大学学術調査隊によって、チベット・ラサポタラ宮ダライ・ラマの書斎で発見された。
  3. ^ この病気は、風邪や腹痛、伝染病などではない。維摩の言葉、「衆生が病むがゆえに、我もまた病む」は大乗仏教の慣用句となっている。
  4. ^ 大正大学教授
  5. ^ 大正大学総合仏教研究所研究員

関連項目



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