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NHKテレビ 「100分de名著」 【維摩経】を 放送 、好評 テキスト (とらわれない、こだわらない) (古い「自分」を解体し、新たな「自分」を構築する。)

  目次 ・維摩詰所説経巻(巻上)第一第二第三 ・(巻中)第一第二第三 ・(巻下)第一第二
      下欄に記載 ( 面白い 超訳【維摩経】)(維摩書籍)(辞典)

維摩経(巻上之第三)  とらわれない、こだわらない
    自分の枠をばらし、新たな「私」を組み立てる。

『維摩経』は、西暦百年頃にインドで成立したと考えられています。「生老病死」と言った仏教の基本テーマだけでなく、政治や経済、平等や差別といった人間社会が抱えるさまざまな問題が、維摩詰によって提起されていきます。
『維摩経』 (ゆいまきょう、梵: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。 サンスクリット原典と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。
日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子の三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

維摩経動画(100分で名著1.2.3.4)他

 
①「維摩経 仏教思想の一大転換」 ②「維摩経 得意分野こそ疑え」、  維摩経義疏: 不可思議解脱経:聖徳太子 著 (島田蕃根) 「維摩経に〝今〟を学ぶ 」維摩経(動画)維摩経(YouTube)国立図書「維摩経」

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目次 ・維摩詰所説経巻上 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻中 第一  第二  第三 ・維摩詰所説経巻下 第一  第二
維摩詰所説経巻上(第三) 維摩経(巻上之第三)

菩薩品第四

菩薩品第四(ぼさつぼんだいし) 弥勒菩薩 於是佛告彌勒菩薩。汝行詣維摩詰問疾 ・ここに於いて、仏、弥勒菩薩(みろくぼさつ)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣(いた)り、疾を問え。』 彌勒白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔為兜率天王及其眷屬。說不退轉地之行 ・弥勒、仏に白(もう)して言(もう)さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任(たんにん、耐える)せず。所以(ゆえ、理由)は何(いか)んとなれば、憶念(おくねん、思い出す)するに、我、昔、兜卒天王(とそつてんおう)、およびその眷属の為に、不退転地(ふたいてんじ、菩薩の大願を捨てない位)の行(修行)を説けり。 時維摩詰來謂我言。彌勒。世尊授仁者記一生當得阿耨多羅三藐三菩提。為用何生得受記乎。過去耶未來耶現在耶。若過去生過去生已滅。若未來生未來生未至 ・時に、維摩詰来たりて、我に謂(い)って言わく、『弥勒、世尊は、仁者(にんじゃ、ナンジ)に、記(き、記別、未来の決定事を記帳するコト、予言)を授けたまわく、『一生にて、まさに阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、仏の心境)を得べし』と。何(いづれ)の生を用いて、受記(じゅき、記を受くるコト)を得たりと為すや。過去(の生)なりや。未来(の生)なりや。現在(の生)なりや。もし過去の生ならば、過去の生はすでに滅しぬ。もし未来の生ならば、未来の生は未だ至らず。 若現在生現在生無住。如佛所說。比丘汝今即時亦生亦老亦滅 ・もし現在の生ならば、現在の生は無住(むじゅう、暫くも停住せず)なり。仏の所説の如きは、『比丘、汝が今は、即時に、また生じ、また老い、また滅す。』となり。 若以無生得受記者。無生即是正位。於正位中亦無受記。亦無得阿耨多羅三藐三菩提 ・もし無生を以って、受記を得とせば、無生は、すなわちこれ正位(しょうい、真如の実相)なり。正位の中に於いては、また受記なし。また阿耨多羅三藐三菩提を得ることも無し。 云何彌勒受一生記乎。為從如生得受記耶為從如滅得受記耶 ・云何(いかん)ぞ、弥勒、一生の記を受くる。如(にょ、真如)の生により、受記を得と為すや。如の滅により、受記を得と為すや。 若以如生得受記者如無有生。若以如滅得受記者如無有滅 ・もし如の生を以って、受記を得とせば、如には生あること無し。もし如の滅を以って、受記を得とせば、如には滅あること無し。 一切眾生皆如也 ・一切の衆生は、皆如なり。 一切法亦如也 ・一切の法も、また如なり。 眾聖賢亦如也 ・衆(もろもろ)の聖賢(しょうけん、小乗の覚りを得た者、大乗の仏菩薩)も、また如なり。 至於彌勒亦如也 ・弥勒に至るまでも、また如なり。 若彌勒得受記者。一切眾生亦應受記 ・もし弥勒にして、受記を得るならば、一切の衆生も、またまさに記を受くべし。 所以者何。夫如者不二不異 ・所以は何んとなれば、それ、如とは不二不異なり。 若彌勒得阿耨多羅三藐三菩提者。一切眾生皆亦應得 ・もし弥勒にして、阿耨多羅三藐三菩提を得るならば、一切の衆生も、皆またまさに得べし。 所以者何。一切眾生即菩提相 ・所以は何んとなれば、一切の衆生は、すなわち菩提(ぼだい、阿耨多羅三藐三菩提)の相なり。 若彌勒得滅度者。一切眾生亦應滅度 ・もし弥勒にして、滅度(めつど、涅槃)を得るならば、一切の衆生も、またまさに滅度を得べし。 所以者何。諸佛知一切眾生畢竟寂滅即涅槃相不復更滅 ・所以は何んとなれば、諸仏は、一切の衆生は畢竟(ひっきょう、ツマルトコロ)寂滅す、すなわち涅槃の相にして、また更に滅せずと知りたもう。 是故彌勒。無以此法誘諸天子。實無發阿耨多羅三藐三菩提心者。亦無退者 ・この故に、弥勒、この法を以って、諸の天子を誘(まどわ)すことなかれ。実に阿耨多羅三藐三菩提を発す者なく、また退く者もなし。 彌勒當令此諸天子捨於分別菩提之見 ・弥勒、まさにこの諸の天子をして、菩提を分別するの見を捨てしむべし。 所以者何。菩提者。不可以身得。不可以心得 ・所以は何んとなれば、菩提とは、身を以って得べからず。心を以って得べからず。 寂滅是菩提。滅諸相故 ・寂滅は、これ菩提なり、諸相を滅するが故に。 不觀是菩提離諸緣故 ・不観は、これ菩提なり、諸縁を離るるが故に。 不行是菩提無憶念故 ・不行は、これ菩提なり、憶念無きが故に。 斷是菩提捨諸見故 ・断は、これ菩提なり、諸見(諸邪見)を捨つるが故に。 離是菩提離諸妄想故 ・離は、これ菩提なり、諸の妄想を離るるが故に。 障是菩提障諸願故 ・障は、これ菩提なり、諸願を障うるが故に。(菩提は願欲を以って求むべからず) 不入是菩提無貪著故 ・不入(にゅう、受、五感、心に侵入する)は、これ菩提なり、貪著なきが故に。 順是菩提順於如故 ・順は、これ菩提なり、如に順ずるが故に。 住是菩提住法性故 ・住は、これ菩提なり、法性(物事の本性、真如、涅槃)に住するが故に。 至是菩提至實際故 ・至は、これ菩提なり、実際(真如の実体、涅槃、彼岸)に至るが故に。 不二是菩提離意法故 ・不二は、これ菩提なり、意(心意)法(外界の事物)を離るるが故に 等是菩提等虛空故 ・等(平等)は、これ菩提なり、虚空と等しきが故に。 無為是菩提無生住滅故 ・無為は、これ菩提なり、生住滅なきが故に。 知是菩提了眾生心行故 ・知は、これ菩提なり、衆生の心行を了(了知)するが故に。 不會是菩提諸入不會故 ・不会(ふえ、会は集まる)は、これ菩提なり、諸入(六根六境)の会(あつ)まらざるが故に。(内外共に空なるをいう) 無處是菩提無形色故 ・無処は、これ菩提なり、形色なきが故に。(これを置くべき処なし) 假名是菩提名字空故 ・仮名は、これ菩提なり、名字は空なるが故に。 如化是菩提無取捨故 ・如化は、これ菩提なり、取捨なきが故に。 無亂是菩提常自靜故 ・無乱は、これ菩提なり、常に自ら静かなるが故に。 善寂是菩提性清淨故 ・善寂は、これ菩提なり、性清浄なるが故に。 無取是菩提離攀緣故 ・無取(しゅ、執著)は、これ菩提なり、攀縁(はんえん、心が外界の事物に捉えられるコト)を離るるが故に。 無異是菩提諸法等故 ・無異(い、区別するコト)は、これ菩提なり、諸法は等しきが故に。 無比是菩提無可喻故 ・無比は、これ菩提なり、喩うべきもの無きが故に 微妙是菩提諸法難知故 ・微妙は、これ菩提なり、諸法は知り難きが故に。』と。 世尊。維摩詰說是法時。二百天子得無生法忍。故我不任詣彼問疾 ・世尊、維摩詰、この法を説きし時、二百の天子、無生法忍を得たり。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任(た)えず。』と。

光厳童子

佛告光嚴童子。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、光厳童子(こうごんどうじ)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』 光嚴白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔出毘耶離大城 ・光厳、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何んとなれば、憶念するに、我、昔、毘耶離大城を出でんとしき。 時維摩詰方入城。我即為作禮而問言。居士從何所來。答我言。吾從道場來。我問道場者何所是 ・時に、維摩詰、まさに城に入らんとす。我は、すなわち為に礼を作し、問うて言わく、『居士(こじ、資産家であって仏道を志す者)、何れの所より来る。』と、我に答えて言わく、『吾は、道場より来たれり。』と、我問わく、『道場とは、何れの所か、これなる。』と。 答曰。直心是道場無虛假故 ・答えて曰く、『直心(じきしん、真直ぐなる心)は、これ道場なり、虚仮(こけ、イツワリ)なきが故に。 發行是道場能辦事故 ・発行(ほつぎょう、事を発す)は、これ道場なり、よく事を辨(べん、処理する)ずるが故に。 深心是道場增益功德故 ・深心は、これ道場なり、功徳を増益するが故に。 菩提心是道場無錯謬故 ・菩提心は、これ道場なり、錯謬(さくみょう、ゴカイ)なきが故に。 布施是道場不望報故 ・布施は、これ道場なり、報(報酬)を望まざるが故に。 持戒是道場得願具故 ・持戒は、これ道場なり、(一切衆生の)願の具わるを得るが故に。 忍辱是道場於諸眾生心無礙故 ・忍辱は、これ道場なり、諸の衆生に於いて、心に礙(さわ)り無きが故に。 精進是道場不懈退故 ・精進は、これ道場なり、懈退(けたい、ナマケシリゾク)せざるが故に。 禪定是道場心調柔故 ・禅定は、これ道場なり、心、調柔(ちょうにゅう)なるが故に。 智慧是道場現見諸法故 ・智慧は、これ道場なり、諸法を現見(げんけん)するが故に。 慈是道場等眾生故 ・慈(衆生に楽を与うる)は、これ道場なり、衆生を等しくするが故に。 悲是道場忍疲苦故 ・悲(衆生の苦を抜く)は、これ道場なり、疲苦を忍ぶが故に 喜是道場悅樂法故 ・喜(衆生と共に喜ぶ)は、これ道場なり、法を悦楽するが故に 捨是道場憎愛斷故 ・捨(是非、善悪、法非法、一切を捨つる)は、これ道場なり、憎愛断ずるが故に。 神通是道場成就六通故 ・神通は、これ道場なり、六通を成就するが故に。 解脫是道場能背捨故 ・解脱は、これ道場なり、よく背捨(はいしゃ、欲を背捨して菩提分(ぼだいぶん、三十七道品)に従う)するが故に。 方便是道場教化眾生故 ・方便は、これ道場なり、衆生を教化するが故に。 四攝是道場攝眾生故 ・四摂(ししょう、布施、愛語、利行、同事)は、これ道場なり、衆生を摂するが故に。 多聞是道場如聞行故 ・多聞は、これ道場なり、聞くが如く行ずるが故に。 伏心是道場正觀諸法故 ・伏心(ふくしん、心を制する)は、これ道場なり、正しく諸法を観ずるが故に。 三十七品是道場捨有為法故 ・三十七品(菩薩の修行項目)は、これ道場なり、有為法(一般的な物事)を捨つるが故に 諦是道場不誑世間故 ・諦(たい、四諦)は、これ道場なり、世間を誑(たぶら)かさざるが故に。 緣起是道場無明乃至老死皆無盡故 ・縁起(十二縁起)は、これ道場なり、無明ないし老死は皆尽くること無きが故に。 諸煩惱是道場知如實故 ・諸の煩悩は、これ道場なり、(これによりて遂に)如実を知るが故に。 眾生是道場知無我故 ・衆生は、これ道場なり、(衆生を観て遂に)無我を知るが故に。 一切法是道場知諸法空故 ・一切の法(あるあゆる事物)は、これ道場なり、諸法の空を知るが故に。 降魔是道場不傾動故 ・降魔(ごうま)は、これ道場なり、(心が)傾動(きょうどう)せざるが故に。 三界是道場無所趣故 ・三界(世間、六道)は、これ道場なり、趣く所なきが故に。 師子吼是道場無所畏故 ・師子吼(ししく、仏の説法の大音声なる)は、これ道場なり、畏るる所なきが故に。 力無畏不共法是道場無諸過故 ・力(十力)無畏(四無所畏)不共法(十八不共法)は、これ道場なり、諸の過ちなきが故に。(総て仏の力をいう) 三明是道場無餘礙故 ・三明(さんみょう、宿住智、死生智、漏尽智)は、これ道場なり、余の礙なきが故に。 一念知一切法是道場成就一切智故 ・一念(一瞬の間)に一切の法を知る、これ道場なり、一切智(総てを知る智慧)を成就するが故に。 如是善男子。菩薩若應諸波羅蜜教化眾生。諸有所作舉足下足。當知皆從道場來住於佛法矣 ・かくの如く、善男子(ぜんなんし、仏の在家出家の男に対するヨビカケ)、菩薩は、もし諸の波羅蜜(はらみつ、菩薩の理想的な生活)に応じて、衆生を教化すれば、諸の、あらゆる作す所の挙足下足(こそくげそく、挙措動作)は、まさに知るべし、道場より来たりて仏法に住することを。』と。 說是法時五百天人皆發阿耨多羅三藐三菩提心。故我不任詣彼問疾 ・この法を説きし時、五百の天人は、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。』と。

持世菩薩

佛告持世菩薩。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、持世菩薩(じせぼさつ)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え。』 持世白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔住於靜室 ・持世、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何んとなれば、憶念するに、我は、昔、静室に住せり。 時。魔波旬從萬二千天女。狀如帝釋鼓樂絃歌來詣我所。與其眷屬稽首我足。合掌恭敬於一面立 ・時に、魔波旬(はじゅん、天魔の別名)、万二千の天女を従え、状(かたち)、帝釈(たいしゃく、帝釈天)の如く、鼓楽絃歌(くがくげんか、音楽)しながら、我が所に来詣し、その眷属とともに、我が足を稽首(けいしゅ、礼拝)し、合掌恭敬(くぎょう)して、一面に於いて立てり。 我意謂是帝釋。而語之言。善來憍尸迦。雖福應有不當自恣。當觀五欲無常以求善本。於身命財而修堅法 ・我、意(こころ)に、『これ帝釈なり』と謂(おも)いて、これに語りて言わく、『善く来たれり、憍尸迦(きょうしか、帝釈の姓)、福応(ふくおう、福の応報)ありといえども、まさに自ら恣(ほしいまま)にすべからず。まさに五欲(色声香味触)の無常なることを観じて、以って善本(ヨキオコナイ、菩提の根本)を求め、身命財に於いて、堅法(けんぽう、カタキコト)を修行すべし。(柔き身命財を投げ捨て、無尽無窮の身命財を得べし)』と。 即語我言。正士。受是萬二千天女可備掃灑 ・すなわち、我に語りて言わく、『正士(しょうじ、菩薩に向かい敬って言う)、この万二千の天女を受けよ。掃灑(そうれい、水を撒いて掃く)に備うべし。』 我言。憍尸迦。無以此非法之物要我沙門釋子此非我宜 ・我言わく、『憍尸迦、この非法の物を以って、我が沙門(しゃもん、出家)釈子(しゃくし、釈迦の弟子)に要(もと)むることなかれ。これ我の宜しきに非ず。』 所言未訖時維摩詰來謂我言。非帝釋也。是為魔來嬈固汝耳。即語魔言。是諸女等可以與我。如我應受 ・言う所、未だ訖(おわ)らざる時、維摩詰来たりて、我に謂って言わく、『帝釈には非ざるなり。これ魔が来たりて、汝を嬈固(にょうこ、モテアソブ)すと為すのみ。』、(維摩詰)すなわち魔に語りて言わく、『この諸女等、以って我に与うべし。我が如き、まさに受くべし。』 魔即驚懼念。維摩詰將無惱我。欲隱形去而不能隱。盡其神力亦不得去 ・魔、すなわち驚懼して念(おも)えらく、『維摩詰は、はた我を悩ますことなからんや。』と、形を隠して去らんと欲すれども、隠すこと能わず。その神力を尽くせども、また去るを得ず。 即聞空中聲曰。波旬。以女與之乃可得去。魔以畏故俛仰而與 ・すなわち空中に声を聞く、曰く、『波旬、女を以って、これに与えれば、すなわち去ることを得べし。』と。魔、畏れを以っての故に、俛仰(めんぎょう、ウツムクとアオグ)して、与えぬ。 爾時維摩詰語諸女言。魔以汝等與我。今汝皆當發阿耨多羅三藐三菩提心。即隨所應而為說法令發道意 ・その時、維摩詰、諸女に語りて言わく、『魔は、汝等を以って、我に与う。今、汝らは、皆まさに阿耨多羅三藐三菩提心を発すべし。』と。すなわち、応ずる所に随いて(人に応じてフサワシク)、為に法を説き、道意を発さしむ。 復言。汝等已發道意。有法樂可以自娛。不應復樂五欲樂也 ・また言わく、『汝等は、すでに道意を発せり。法楽あり、以って自ら娯(たの)しむべし。まさに、また五欲(色声香味触)の楽しみを楽むべからず。』と。 天女即問。何謂法樂 ・天女、すなわち問う、『何をか法楽と謂う。』 答言。樂常信佛 ・答えて言わく、『常に仏を信ずることを楽しみ、 樂欲聽法 ・法を聞かんと欲することを楽しみ、 樂供養眾 ・衆を供養することを楽しみ、 樂離五欲 ・五欲を離るることを楽しみ、 樂觀五陰如怨賊 ・五陰(ごおん、色受想行識、人の身心)は怨賊(おんぞく)の如しと観ずることを楽しみ、 樂觀四大如毒蛇 ・四大(しだい、地大水大火大風大、物質の構成要素)は毒蛇の如しと観ずることを楽しみ、 樂觀內入如空聚 ・内入(ないにゅう、眼耳鼻舌身意)は、空聚(くうじゅ、空村)の如しを観ずることを楽しみ、 樂隨護道意 ・道意に随って護ることを楽しみ 樂饒益眾生 ・衆生を饒益(にょうやく、利益)することを楽しみ、 樂敬養師 ・師を敬い養うことを楽しみ 樂廣行施 ・広く施(布施)を行ずることを楽しみ、 樂堅持戒 ・戒を堅持することを楽しみ、 樂忍辱柔和 ・忍辱柔和なることを楽しみ、 樂勤集善根 ・勤めて善根を集むることを楽しみ、 樂禪定不亂 ・禅定の乱れざることを楽しみ、 樂離垢明慧 ・離垢(りく、煩悩を離る)の明慧(みょうえ、平等の境地に立つ清浄の慧)を楽しみ、 樂廣菩提心 ・菩提心を広むることを楽しみ、 樂降伏眾魔 ・衆魔を降伏することを楽しみ、 樂斷諸煩惱 ・諸の煩悩を断ずることを楽しみ、 樂淨佛國土 ・仏国土を浄むることを楽しみ、(菩提心を以って国土を飾る) 樂成就相好故修諸功德 ・相好(そうごう、仏の容貌)を成就せんが故に、諸功徳を修むることを楽しみ、 樂嚴道場 ・道場を厳(かざ)ることを楽しみ、 樂聞深法不畏 ・深法を聞きて畏れざることを楽しみ、(真実を知ることを畏れない) 樂三脫門不樂非時 ・三脱門(さんだつもん、三解脱門、空、無相、無作、自ら空なることを体得するコト)を楽しみ、非時(ひじ、三脱門に入れども、その極みを尽くさずして、中路にて証を取る、サトッタトスル)を楽しまず、 樂近同學 ・同学に近づくことを楽しみ、 樂於非同學中心無恚礙 ・同学ならざる中に於いて、心に罣礙(けげ、サワリ)なきことを楽しみ、 樂將護惡知識 ・悪知識(あくちしき、悪しき朋)を将護(しょうご、護り養う)することを楽しみ、(悪友を善導する楽しみ) 樂親近善知識 ・善知識(ぜんちしき、善き朋)に親近(しんごん)することを楽しみ、 樂心喜清淨 ・心に清浄を喜ぶことを楽しみ、 樂修無量道品之法。是為菩薩法樂 ・無量の道品(どうほん、菩薩の修行)の法を修むることを楽しむ、これ菩薩の法楽と為す。 於是波旬告諸女言。我欲與汝俱還天宮 ・ここに於いて、波旬、諸女に告げて言わく、『我は、汝と倶に、天宮に還らんと欲す。』 諸女言。以我等與此居士。有法樂我等甚樂。不復樂五欲樂也 ・諸女言わく、『我等を以って、この居士に与えぬ。法楽あり、我等、甚だ楽しく、また五欲の楽しみを楽しまざるなり。』 魔言。居士可捨此女。一切所有施於彼者。是為菩薩 ・魔言わく、『居士、この女を捨つべし。一切の所有を、彼れに施す者、これを菩薩と為す。』と。 維摩詰言。我已捨矣。汝便將去。令一切眾生得法願具足 ・維摩詰言わく、『我は、すでに捨てぬ。汝は、すなわち将(ひき)いて去れ。一切の衆生をして、法と願い具足することを得しめん。』と。 於是諸女問維摩詰。我等云何止於魔宮 ・ここに於いて、諸女は、維摩詰に問わく、『我等は、云何が魔宮に於いて止まらん。』 維摩詰言。諸姊有法門名無盡燈。汝等當學。無盡燈者。譬如一燈燃百千燈。冥者皆明。明終不盡 ・維摩詰言わく、『諸姉(しょし、ミナサン、姉は女人に対する丁寧な呼びかけ)、法門あり、無尽灯と名づく。汝等は、まさに学ぶべし。無尽灯とは、譬えば、一灯もて百千灯を燃やせば、冥(くら)き者は皆明らかにして、明(光明)はついに尽きざるが如し。 如是諸姊。夫一菩薩開導百千眾生。令發阿耨多羅三藐三菩提心。於其道意亦不滅盡。隨所說法而自增益一切善法。是名無盡燈也 ・かくの如く、諸姉、それ、一の菩薩、百千の衆生を開導して、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしむれば、その道(過程)に於いて、意(阿耨多羅三藐三菩提心)もまた滅尽せず。所説の法に随って、自ら一切の善法を増益す。これを無尽灯と名づくるなり。 汝等雖住魔宮。以是無盡燈。令無數天子天女發阿耨多羅三藐三菩提心者。為報佛恩。亦大饒益一切眾生 ・汝等は、魔宮に住むといえども、この無尽灯を以って、無数の天子、天女をして、阿耨多羅三藐三菩提心を発さしめば、仏恩に報じ、また一切の衆生に大饒益すと為す。』と。 爾時天女。頭面禮維摩詰足。隨魔還宮忽然不現 ・その時、天女は、維摩詰が足を、頭面(づめん)に礼して、魔に随うて、宮に還り、忽然(こつねん、フッと)現れざりき。 世尊。維摩詰有如是自在神力智慧辯才。故我不任詣彼問疾 ・世尊、維摩詰は、かくの如きの自在の神力と智慧と辯才あり。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。』と。

長者子善徳

佛告長者子善德。汝行詣維摩詰問疾 ・仏、長者子善徳(ちょうじゃしぜんとく)に告げたまわく、『汝、行きて維摩詰に詣り、疾を問え』 善德白佛言。世尊我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔自於父舍設大施會。供養一切沙門婆羅門及諸外道貧窮下賤孤獨乞人。期滿七日 ・善徳、仏に白して言さく、『世尊、我は、彼れに詣りて、疾を問うに堪任せず。所以は何んとなれば、憶念するに、我、昔、自ら父の舎(いえ)に於いて、大施会(だいせえ)を設けて、一切の沙門、婆羅門、および諸の外道、貧窮、下賤、孤独、乞人を供養し、期(ご、期間)は七日に満つ。 時維摩詰來入會中。謂我言。長者子。夫大施會不當如汝所設。當為法施之會。何用是財施會為 ・時に、維摩詰来たりて、会(え)中に入り、我に謂って言わく、『長者子、それ、施会は、まさに汝が設くる所の如くなるべからず。まさに法施の会を為すべし。何んすれぞ、この財施の会を用いる。』と 我言。居士。何謂法施之會 ・我言わく、『居士、何をか法施の会と謂う。』 答曰。法施會者。無前無後一時供養一切眾生。是名法施之會 ・答えて曰く、『法施の会とは、前なく後なく、一時に一切の衆生を供養する、これ法施の会と名づく。』 曰何謂也 ・曰く、『何の謂いぞや』 謂以菩提起於慈心 ・謂わく、菩提(阿耨多羅三藐三菩提)を以(おも)いて、慈心を起こし、 謂以菩提起於慈心 ・謂わく、菩提(阿耨多羅三藐三菩提)を以(おも)いて、慈心を起こし、 以救眾生。起大悲心 ・衆生を救うことを以(おも)いて、大悲心を起こし、 以持正法起於喜心 ・正法を持することを以いて、喜心を起こし、 以攝智慧行於捨心 ・智慧を摂することを以いて、捨心を行じ、 以攝慳貪起檀波羅蜜 ・慳貪(の者)を摂することを以いて、檀(だん、布施)波羅蜜を起こし、 以化犯戒起尸羅波羅蜜 ・戒を犯す(者)を化することを以いて、尸羅(しら、持戒)波羅蜜を起こし 以無我法起羼提波羅蜜 ・無我法を以いて、羼提(せんだい、忍辱)波羅蜜を起こし、 以離身心相起毘梨耶波羅蜜 ・身心の相を離るることを以いて、毘利耶(びりや、精進)波羅蜜を起こし 以菩提相起禪波羅蜜 ・菩提の相を以いて、禅(禅定)波羅蜜を起こし、 以一切智起般若波羅蜜 ・一切智を以いて、般若波羅蜜を起こし、 教化眾生而起於空 ・衆生を教化すれども、空を起こし、(衆生を教化すれども、空に背かず 不捨有為法而起無相 ・有為法(ういほう、人の身心)を捨てずして、無相(見聞きするものナシ)を起こし、(人の姿かたちを取れども、実は空を観ず) 示現受生而起無作 ・生を受くることを示現すれども、無作(むさ、ナニモセズ)を起こし、(生を受け生活すれども、実は空を観ず) 護持正法起方便力 ・正法を護持して、方便力を起こし、 以度眾生起四攝法 ・衆生を度せんことを以いて、四摂法(ししょうほう、布施愛語利行同事)を起こし、 以敬事一切起除慢法 ・一切に敬い事(つか)うることを以いて、慢法を除くことを起こし、 於身命財起三堅法 ・身命財に於いて、三堅の法を起こし、 於六念中。起思念法 ・六念(ろくねん、念佛、念法、念僧、念天、念戒、念施)の中に於いて、(正しき)思念の法を起こし、 於六和敬起質直心 ・六和敬(ろくわぎょう、僧が互いに、身、口、意、見、戒、利に於いて敬い和順すること)に於いて、質直の心を起こし、 正行善法起於淨命 ・正しく善法を行い、浄命(じょうみょう、浄き生活)を起こし、 心淨歡喜起近賢聖 ・心、浄く歓喜して、賢聖に近づくことを起こし、 不憎惡人起調伏心 ・悪人を憎まずして、調伏の心を起こし、 以出家法起於深心 ・真の)出家の法を以いて、深心を起こし、 以如說行起於多聞 ・説(仏説)の如く行ぜんことを以いて、多聞を起こし、 以無諍法起空閑處 ・無諍の法を以いて、空閑処(くうげんじょ、清閑処)を起こし、 趣向佛慧起於宴坐 ・仏の慧に趣向せんとて、宴坐(えんざ、座禅)を起こし、 解眾生縛起修行地 ・衆生の縛(ばく、煩悩に縛られていること)を解かんとて、修行地(地は拠り所)を起こし、 以具相好及淨佛土起福德業 ・相好を具し、および仏土を浄めんことを以いて、福徳の業を起こし 知一切眾生心念如應說法起於智業 ・一切の衆生の心念を知り、応ずるが如くに(適応する)法を説かんとて、智業を起こし、 知一切法不取不捨。入一相門起於慧業 ・一切の法は、取らず捨てざるを知り、一相の門に入らんとて、慧業を起こし、 斷一切煩惱一切障礙一切不善法起一切善業以得一切智慧一切善法。起於一切助佛道法 ・一切の煩悩、一切の障礙、一切の不善法を断ぜんとて、一切の善業を起こし、一切の智慧と一切の善法を得んことを以(おも)いて、一切の助仏道の法(諸種の修行法)を起こす。 如是善男子。是為法施之會 ・かくの如く、善男子、これを法施の会と為す。 若菩薩住是法施會者。為大施主。亦為一切世間福田 ・もし菩薩、この法施の会に住すれば、大施主と為し、また一切世間の福田(ふくでん、福の種を蒔く田、布施の対象)と為す。』と。 世尊。維摩詰說是法時。婆羅門眾中二百人皆發阿耨多羅三藐三菩提心 ・世尊、維摩詰、この法を説きし時、婆羅門衆の中の二百人、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発せり 我時心得清淨歎未曾有。稽首禮維摩詰足。即解瓔珞價直百千。以上之。不肯取 ・我は、時に、心に清浄を得、未曽有を歎じ、稽首して維摩詰の足に礼して、すなわち瓔珞(ようらく、襟飾り)の価値(けじき、アタイ)百千(金)なるを解き、以ってこれに上(たてま)つらんとすれども、取ることを肯(がえん、承知)ぜず。 我言居士。願必納受隨意所與 ・我、居士に言わく、『願わくは、必ず納受して、与うる所を意のままにしたまえ。』と。 維摩詰乃受瓔珞分作二分。持一分施此會中一最下乞人。持一分奉彼難勝如來 ・維摩詰、すなわち瓔珞を受け、分けて二分と作し、一分を持して、この会の中の、一(ひとり 一切眾會皆見光明國土難勝如來。又見珠瓔在彼佛上變成四柱寶臺四面嚴飾不相障蔽 ・一切の衆会は皆、光明国土の難勝如来を見たてまつり、また珠瓔の彼の仏土上に在りて変じ、四柱の宝台と成り、四面を厳飾(ごんじき)して、相い障蔽(しょうへい)せざることを見る。 時維摩詰。現神變已作是言。若施主等心施一最下乞人。猶如如來福田之相無所分別。等于大悲不求果報。是則名曰具足法施 ・時に、維摩詰、神変を現じおわりて、この言(コトバ)を作さく、『もし施主、等心に、一の最下の乞人に施して、なお如来の福田の相の如きと、分別する所なく、大悲に於いて等しく、果報を求めざらば、これをば、すなわち名づけて、法施を具足すと曰う。』と。 城中一最下乞人。見是神力聞其所說。皆發阿耨多羅三藐三菩提心。故我不任詣彼問疾 ・城中の一の最下の乞人、この神力を見、その所説を聞いて、皆阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。故に我は、彼れに詣りて、疾を問うに任えず。』と。 如是諸菩薩各各向佛說其本緣。稱述維摩詰所言。皆曰不任詣彼問疾 ・かくの如く、諸の菩薩も、各々、仏に向かいて、その本縁(理由)を説き、維摩詰の言う所を称述して、皆『彼れに詣りて、疾を問うに任えず』と曰いき。 維摩詰經卷上 ・維摩詰経巻き上

引用文献


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 面白い 超訳【維摩経】

初期大乗仏教典の傑作であり、かの聖徳太子も注釈本を書き下ろしたという「維摩経」の超訳チャレンジ。
仏教典=「お経」というと、法事の時などに坊さんがなにやらムニャムニャ唱えている呪文みたいなものだというイメージが強いですが、羅列された漢字の文字列を「中国語」の文章として読もうとしてみると、その内容の面白さに、ひとかたならず驚かされます。
中でも「維摩経(ゆいまぎょう)」は、戯曲的な色彩が強くて面白いという噂だったので読んでみたわけなのですが、イキイキとした人物描写が実に素敵で、凡百の小説やドラマなどよりもよっぽどか楽しく読むことができました。

「宗教書」などと考えず、純粋に「読み物」として楽しんでいただければ、これ幸い。

【維摩経】目次
「維摩詰所説経」より

◆維摩居士、仮病を使う (方便品)

◆難色を示す仏弟子たち (弟子品)

◆ しり込みする菩薩ども (菩薩品)

◆ 文殊がゆく! (文殊師利問疾品)

◆ ミラクルパワー! (不思議品)

◆一般ピープルってどうよ? (観衆生品)

◆ ザ・ウェイ・オブ・ブッダ (仏道品)

◆相対化を超えてゆけ! (不二法門品)

◆極上のランチ (香積仏品)

◆菩薩でGO! (菩薩行品)

◆極楽を見たか? (見阿閦如来品)

◆「法」を守れ!(法供養品)

◆大団円(嘱累品)

(附録)
◆ザ・ワールド・オブ・パラダイス(仏国品)


引用文献  .



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梵漢和対照・現代語訳 維摩経 単行本 – 2011/8/27 植木 雅俊 (翻訳) 単行本: 680ページ 出版社: 岩波書店 (2011/8/27)
維摩経は、人間生活におけるとらわれを捨て、世俗の生活(在家)のなかに仏教の理想を実現することの意味を説いた初期大乗仏典の代表的傑作である。本書は、「空」という大乗仏教思想の核心をドラマ仕立てで説く根本経典の、正確かつ平易な現代語訳。前世紀末に見つかった20世紀仏教学史上最大の発見と称されるサンスクリット原典に依拠し、梵文と漢訳(書下し)を併記。詳細な注解を付す決定版。
本書は、サンスクリット・テキスト影印版(大正大学綜合佛教研究所刊)を底本とする現代日本語訳と、綿密な校訂によるローマナイズしたサンスクリット原典テキスト、鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』(漢文書き下しテキスト)を併記対照させつつ、さらに詳細な注解を施したものである。原典テキストに準拠した曖昧さを残さない正確で読みやすい訳業は、全体の半分近くを占める訳出の根拠となる綿密な注解とともに、仏典翻訳史に新たな頁を刻む画期的な達成である。

至れり尽くせりの本(事例)
『維摩経』のサンスクリット原典は既に失われているとされてきた。ところが、その写本が何と1999年に完本として発見された。本書は、その写本の影印版(2003年)を綿密に校訂し、詳細な注釈(全680頁の約半分を占める)を付して現代語訳した上で、「サンスクリット原文」、「鳩摩羅什訳」、「著者の現代語訳」を見開きで対照させるという、読者にとって極めて便利な構成で作られている。
 著者は、お茶の水女子大学に「仏教におけるジェンダー平等思想」というテーマの論文を提出し、2002年に同大で男性として初の人文科学博士の学位を取得した。そして、『梵漢和対照・現代語訳 法華経』上・下(岩波書店)で毎日出版文化賞に選ばれた(2008年)。まさに、サンスクリット語と仏教学の泰斗である。大学や研究機関に身を置くことはないが、大学の研究者たちの業績を遥かに凌駕する研究成果を次々に発表している。まさに、在俗でありながら十大弟子をも圧倒し、性差をも超えていた維摩居士を地で行く人というべきである。
 権威主義的な小乗仏教の女性軽視にとらわれた智慧第一の舎利弗も、天女にからかわれ、手玉にとられる。維摩詰の十大弟子に対する弾呵も手厳しいが、本書の注釈においては、過去の研究成果の矛盾点に対する著者の指弾も手厳しい。例えば、43〜46頁の長きにわたる注釈で、著者は、長尾雅人博士の一音(いっとん)説法についての無理なこじつけを槍玉にあげる。長尾氏が、「釈尊は方言で語られたが、受け取る側はそれぞれの方言で受け止めた」と解釈し、その例として「『おしん』というテレビ・ドラマが佐賀弁で話されていても全国で理解されたのと同じだ」と述べていることについて、著者は「それは全国放送なので手加減しているから理解されたのであり、鹿児島弁であったらどうなのだ」と批判する。そして、長尾氏がどうして方言にこだわられるのか、そのネタ本まで暴露している。本書の、注釈ではこのような批判が網羅されている。これまでの研究は何だったのかという思いが募る。
 古来、初めてお経を読む人に、『維摩経』はうってつけとされてきた。それには相応の理由がある。プラトンの著作が哲学である以前にドラマ(ソクラテスを主人公とする対話)として面白いのと同様、仏教経典はドラマ(主人公は世尊)としてまず面白い。別けても『維摩経』の仕掛けは無類である。経典文学の最高峰である『法華経』とならぶものである。
 インド人の想像力にはほとほと頭がさがる。一文学書として『維摩経』を捉えた時、あくまで個人的な感想であるが、その読後感はルキアノス『本当の話』に一番近い感じがした。『アラビアンナイト』や『黄金のろば』も奇想天外だが、スピードが伴わない。『維摩経』は、これらの世界文学の最高峰とならべても遜色がないのである。それが、曖昧さを残さない正確な訳文で現代に蘇った。  文学的魅力は読めば終わるが、思想を汲み取る作業は別である。ありがたいことに著者は、インド仏教史の概略、戯曲『維摩経』のあらすじ、在家の地位の歴史的変遷、積極的な利他行の原動力としての「空」――など、『維摩経』理解に欠かせない思想背景を巻末の「解説」で詳細に論じてくれている。先に「はしがき」「解説」「あとがき」に目を通してから、現代語訳の本文を読むことをお勧めしたい。
 仏教用語辞典としても使える索引の充実ぶり、梵漢和を対照させたレイアウトは、印刷業者泣かせの作業であり、サンスクリット原文の校正を考えても、5500円の定価は信じられない安さである。その“安さ”が不思議でならなかったが、「あとがき」を読んで納得した。著者自身が、コンピュータのDTP技術を駆使して完全原稿(版下)を作成していたのだ。出版社まかせでは価格が跳ね上がるだけではなく、誤植が跡を絶たない(出版社にいた経験からこのことは請け合える)。その意味でもテキストの信頼性は他を圧している。至れり尽くせりとは、この本のためにあるような言葉だ。


梵文和訳 維摩経 単行本 – 2011/1/1 高橋 尚夫 (翻訳) 西野 翠 (翻訳)単行本: 333ページ 出版社: 春秋社 (2011/1/1)
真の菩薩の生き方を鋭く初期大乗経典の『維摩経』。その梵文テキストをチベット訳や漢訳なども参照しながら、正確かつ平易な言葉で翻訳。巻末には、用語解説や梵・蔵・漢の相違点などを示した詳細な訳注を付す。


『維摩経』 2017年6月 (100分 de 名著) ムック 釈 徹宗 (その他) – 2017/5/25 釈 徹宗 (その他)
あらゆる枠組みを超えよ!
かの聖徳太子が日本に紹介した仏典『維摩経』。病気になった在家仏教信者・維摩と、彼を見舞った文殊菩薩との対話を通して、「縁起」や「空」など大乗仏教の鍵となる概念をめぐる考察が、まるで現代劇のように展開される。この『維摩経』を現代的に読み解く面白さを、宗教学者で僧侶の釈徹宗氏が解説する。


維摩経講話 (講談社学術文庫) 文庫 – 1990/3/5 鎌田 茂雄 (著)
『維摩経』は、大乗仏教の根本原理、すなわち煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)を最もあざやかにとらえているといわれる。迷いと悟り、理想と現実、善と悪など、全く対立するものを不二(ふに)と見なし、その不二の法門に入れば、一切の対立を超えた無対立の世界、何ものにも束縛されない自由な境地に入る。在家の信者の維摩居士が主役となって、菩薩や声聞(しょうもん)を相手に活殺自在に説法するところが維摩経の不思議な魅力といえよう。


大乗仏典〈7〉維摩経・首楞厳三昧経 (中公文庫) 文庫 – 2002/8/25 長尾 雅人 (翻訳), 丹治 昭義 (翻訳)
大金持ちの俗人維摩居士の機知とアイロニーに満ちた教えによって、空の思想を展開する一大ドラマ維摩経。人間の求道の過程において「英雄的な行進の三昧」こそ、あらゆる活動の源泉力であると力説する首楞厳三昧経。



・超訳【維摩経】・超訳【無門関】・超訳【金剛経】・超訳【夢中問答(上)】

超訳【維摩経】 超訳文庫設立の契機ともなった記念碑的作品。 初期大乗経典の傑作にして、ドタバタコントの元祖みたいな一大哲学サイキック活劇です。 気楽に読むだけで、キミも「ミラクルパワー」がゲットできる!?

超訳【無門関】 「仏」に逢ったら即、ぶっ殺せ! 「師匠」に逢ったら、やっぱりぶっ殺せ! 「親」に逢ったら? もちろんぶっ殺せ! そしてオマエは天下無敵となるのだ!! ・・・というもの凄い剣幕で語られる、48のシュールなナゾナゾたち。 快僧無門慧開の真意は何処!?

超訳【金剛経】 我らの心に平安をもたらすもの、それは「完全円満なる智慧」。 ・・・という壮大なテーマで繰り広げられる、ブッダとその弟子スブーティ(須菩提)のボケとツッコミによる究極哲学ふたり漫才! 超メジャータイトル「般若心経」と、ショートエピソード「ミラクルフラッシュ・ボーイの物語(不思議光菩薩所説経)」も同時収録! 全編とも、漢訳原典つきです!

超訳【夢中問答】(上) 「夢」とは何か? そしてその中で交わされる問答とはいったい? 足利直義の切実な問いを受け、夢窓国師が開く「真実の法門」とは!? 室町時代のディアロゴスの軌跡が、七百年後の今に甦る!
超訳【維摩経】


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維摩経

百科事典

維摩経』 (ゆいまきょう、: Vimalakīrti-nirdeśa Sūtra ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ[1])は、大乗仏教経典の一つ。別名『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)。

サンスクリット原典[2]と、チベット語訳、3種の漢訳が残存する。漢訳は7種あったと伝わるが、支謙訳『維摩詰経』・鳩摩羅什訳『維摩詰所説経』・玄奘訳『説無垢称経』のみ残存する。一般に用いられるのは鳩摩羅什訳である。

日本でも、仏教伝来間もない頃から広く親しまれ、聖徳太子三経義疏の一つ『維摩経義疏』を始め、今日まで多数の注釈書が著されている。

概要

維摩経は初期大乗仏典で、全編戯曲的な構成の展開で旧来の仏教の固定性を批判し在家者の立場から大乗仏教の軸たる「空思想」を高揚する。

内容は中インド・ヴァイシャーリーの長者ヴィマラキールティ(維摩詰、維摩、浄名)にまつわる物語である。

維摩が病気[3]になったので、釈迦舎利弗目連迦葉などの弟子達や、弥勒菩薩などの菩薩にも見舞いを命じた。しかし、みな以前に維摩にやりこめられているため、誰も理由を述べて行こうとしない。そこで、文殊菩薩が見舞いに行き、維摩と対等に問答を行い、最後に維摩は究極の境地を沈黙によって示した。

維摩経は明らかに般若経典群の流れを引いているが、大きく違う点もある。

  • 一般に般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説くが、維摩経ではそういう面が希薄である。
  • 般若経典では一般に「」思想が繰り返し説かれるが、維摩経では「空」のような観念的なものではなく現実的な人生の機微から入って道を窮めることを軸としている。

不二法門

維摩経の内容として特徴的なのは、不二法門(ふにほうもん)といわれるものである。不二法門とは互いに相反する二つのものが、実は別々に存在するものではない、ということを説いている。例を挙げると、不善、罪と福、有漏(うろ)と無漏(むろ)、世間出世間無我生死(しょうじ)と涅槃煩悩菩提などは、みな相反する概念であるが、それらはもともと二つに分かれたものではなく、一つのものであるという。

たとえば、生死と涅槃を分けたとしても、もし生死の本性を見れば、そこに迷いも束縛も悟りもなく、生じることもなければ滅することもない。したがってこれを不二の法門に入るという。

これは、維摩が同席していた菩薩たちにどうすれば不二法門に入る事が出来るのか説明を促し、これらを菩薩たちが一つずつ不二の法門に入る事を説明すると、文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。文殊はこれを見て「なるほど文字も言葉もない、これぞ真に不二法門に入る」と讃嘆した。

この場面は「維摩の一黙、雷の如し」として有名で、『碧巌録』の第84則「維摩不二」の禅の公案にまでなっている。

原典・主な訳注

主な解説講話

注・出典

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  1. ^ 「ニルデーシャ」(nirdeśa)とは、「演説説教」のこと。
  2. ^ それ以前は逸失したものと思われていたが、1999年に大正大学学術調査隊によって、チベット・ラサポタラ宮ダライ・ラマの書斎で発見された。
  3. ^ この病気は、風邪や腹痛、伝染病などではない。維摩の言葉、「衆生が病むがゆえに、我もまた病む」は大乗仏教の慣用句となっている。
  4. ^ 大正大学教授
  5. ^ 大正大学総合仏教研究所研究員

関連項目



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