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『学問のすすめ 』(An Encouragement of Learning)
福沢諭吉(Fukuzawa Yukichi)
十四編 (心事の棚卸し)

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず
"The heaven does not create one man above or under another man"
人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり
"A man cannot have wisdom without learning. A man without wisdom is foolish."
初編(端書はしがき)、 二編(端書・人は同等なること)、 三編(国は同等なること・一身独立して一国独立すること)、 四編(学者の職分を論ず・付録)、 五編(明治七年一月一日の詞)、 六編(国法の貴きを論ず)、 七編(国民の職分を論ず)、 八編(わが心をもって他人の身を制すべからず)、 九編(学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文)、 十編(前編のつづき、中津の旧友に贈る)、 十一編(名分をもって偽君子を生ずるの論)、 十二編(演説の法を勧むるの説・人の品行は高尚ならざるべからざるの論)、 十三編(怨望の人間に害あるを論ず)、 十四編(心事の棚卸し)、 十五編(事物を疑いて取捨を断ずること)、 十六編(手近く独立を守ること・心事と働きと相当すべきの論)、 十七編(人望論)
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心事の棚卸し      學問ノスヽメ. 十四編 [ピューア] 、 ・《青空文庫全 AI朗読全》
 人の世を渡る有様を見るに、心に思うよりも案外に悪をなし、心に思うよりも案外に愚を働き、心に企つるよりも案外に功を成さざるものなり。いかなる悪人にても、生涯の間勉強して悪事のみをなさんと思う者はなけれども、物に当たり事に接して、ふと悪念を生じ、わが身みずから悪と知りながら、いろいろに身勝手なる説をつけて、しいてみずから慰むる者あり。またあるいは物事に当たりて行なうときはけっしてこれを悪事と思わず、ごうも心に恥ずるところなきのみならず、一心一向にきことと信じて、他人の異見などあれば、かえってこれを怒り、これをうらむほどにありしことにても、年月を経て後に考うれば、大いにわが不行届きにて心に恥じ入ることあり。
 また人の性に智愚強弱の別ありといえども、みずから禽獣きんじゅうの智恵にもかなわぬと思う者はあるべからず。世の中にあるさまざまの仕事を見分けて、この事なれば自分の手にも叶うことと思い、自分相応にこれを引き受くることなれども、その事を行なうの間に、思いのほかに失策多くして最初の目的を誤り、世間にも笑われ、自分にも後悔すること多し。世に功業を企てて誤る者を傍観すれば、実に捧腹ほうふくにも堪えざるほどの愚を働きたるように見ゆれども、そのこれを企てたる人は必ずしもさまで愚なるにあらず、よくその情実を尋ぬれば、またもっともなる次第あるものなり。畢竟世の事変は活物いきものにて容易にその機変を前知すべからず。これがために智者といえども案外に愚を働くもの多し。
 また人の企ては常に大なるものにて、事の難易大小と時日の長短とを比較することはなはだかたし。フランキリン言えることあり、「十分と思いし時も事に当たれば必ず足らざるを覚ゆるものなり」と。この言まことに然り。大工に普請を言いつけ、仕立屋に衣服を注文して、十に八、九は必ずその日限を誤らざる者なし。こは大工・仕立屋のことさらに企てたる不埒ふらちにあらず。そのはじめに仕事と時日とを精密に比較せざりしより、はからずも違約に立ち至りたるのみ。さて世間の人は大工・仕立屋に向かいて違約を責むることは珍しからず、これを責むるにまた理屈なきにあらず。大工・仕立屋は常に恐れ入り、旦那はよく道理のわかりたる人物のように見ゆれども、その旦那なる者がみずから自分の請け合いたる仕事につき、はたして日限のとおりに成したることあるや。
 田舎いなかの書生、国をずるときは、難苦をめて三年のうちに成業とみずから期したる者、よくその心の約束をみたるや。無理な才覚をして渇望したる原書を求め、三ヵ月の間にこれを読み終わらんと約したる者、はたしてよくその約のごとくしたるや。有志の士君子「それがしが政府に出ずれば、この事務もかくのごとく処し、かの改革もかくのごとく処し、半年の間に政府の面目を改むべし」とて、再三建白のうえようやく本望を達して出仕の後、はたしてその前日の心事にそむかざるや。貧書生が「われに万両の金あれば、明日より日本国中の門並かどなみに学校を設けて家に不学の輩なからしめん」と言う者を、今日良縁によりて三井・鴻ノ池の養子たらしむることあらば、はたしてその言のごとくなるべきや。この類の夢想を計れば枚挙まいきょいとまあらず。みな事の難易と時の長短とを比較せずして、時を計ること寛に過ぎ、事を視ることに過ぎたる罪なり。
 また世間に事を企つる人の言を聞くに、「生涯のうち」または「十年のうちにこれを成す」と言う者はもっとも多く、「三年のうち」、「一年のうちに」と言う者はやや少なく、「一月のうち」、あるいは「今日この事を企てて今まさにこれを行なう」と言う者はほとんどまれにして、「十年前に企てたることを今すでに成したり」と言うがごときは余輩いまだその人を見ず。かくのごとく、期限の長き未来を言うときにはたいそうなることを企つるようなれども、その期限ようやく近くして今月今日と迫るに従いて、明らかにその企ての次第を述ぶること能わざるは、畢竟ことを企つるに当たりて時日の長短を勘定に入れざるより生ずる不都合なり。
 右所論のごとく、人生の有様は徳義のことにつきても思いのほかに悪事をなし、智恵のことにつきても思いのほかに愚を働き、思いのほかに事業を遂げざるものなり。この不都合を防ぐの方便はさまざまなれども、今ここに人のあまり心づかざる一ヵ条あり。その箇条とはなんぞや。事業の成否得失につき、ときどき自分の胸中に差引きの勘定を立つることなり。商売にて言えば棚卸しの総勘定のごときものこれなり。
 およそ商売において、最初より損亡そんもうを企つる者あるべからず。まず自分の才力と元金とを顧み、世間の景気を察して事を始め、千状万態の変に応じて、あるいは当たりあるいははずれ、この仕入れに損をこうむりかの売捌うりさばきに益を取り、一年または一ヵ月の終わりに総勘定をなすときは、あるいは見込みのとおりに行なわれたることもあり、あるいは大いに相違したることもあり、またあるいは売買繁劇の際にこの品につきては必ず益あることなりと思いしものも、棚卸しにできたる損益平均の表を見れば案に相違して損亡なることあり。あるいは仕入れのときは品物不足と思いしものも、棚卸しのときに残品を見れば、売捌きに案外の時日を費やして、その仕入れかえって多きに過ぎたるものもあり。ゆえに商売に一大緊要なるは平日の帳合いを精密にして、棚卸しの期を誤らざるの一事なり。
 他の人事もまたかくのごとし。人間生々の商売は十歳前後人心のできし時よりはじめたるものなれば、平生、智徳事業の帳合いを精密にして、勉めて損亡を引き受けざるように心がけざるべからず。「過ぐる十年の間には何を損し何を益したるや。現今はなんらの商売をなしてその繁盛の有様はいかなるや。今は何品を仕入れていずれの時いずれのところに売り捌くつもりなるや。年来心の店の取締りは行き届きて遊冶懶惰ゆうやらんだなど名のる召使のために穴を明けられたることはなきや。来年も同様の商売にてたしかなる見込みあるべきや。もはや別に智徳を益すべき工夫もなきや」と、諸帳面を点検して棚卸しの総勘定をなすことあらば、過去現在、身の行状につき必ず不都合なることも多かるべし。その一、二を挙ぐれば、「貧は士の常、尽忠報国」などとて、みだりに百姓の米を食い潰して得意の色をなし、今日に至りて事実に困る者は、舶来の小銃あるを知らずして刀剣を仕入れ、一時の利を得て、残品に後悔するがごとし。和漢の古書のみを研究して西洋日新の学を顧みず、いにしえを信じて疑わざりし者は、過ぎたる夏の景気を忘れずして冬の差入りに蚊帷かやを買い込むがごとし。青年の書生いまだ学問も熟せずしてにわかに小官を求め、一生の間、等外に徘徊はいかいするは、半ば仕立てたる衣服を質に入れて流すがごとし。地理、歴史の初歩をも知らず、日用の手紙を書くこともむずかしくして、みだりに高尚の書を読まんとし、開巻五、六葉を見てまた他の書を求むるは、元手なしに商売をはじめて日に業を変ずるがごとし、和漢洋の書を読めども天下国家の形勢を知らず一身一家の生計にも苦しむ者は、算盤そろばんを持たずして万屋よろずやの商売をなすがごとし。
 天下を治むるを知りて身を修むるを知らざる者は、隣家の帳合いに助言して自家に盗賊の入るを知らざるがごとし。口に流行の日新を唱えて心に見るところなくわが一身の何ものたるをも考えざる者は、売品の名を知りて値段を知らざるもののごとし。これらの不都合は現に今の世に珍しからず。その原因は、ただ流れ渡りにこの世を渡りて、かつてその身の有様に注意することなく、生来今日に至るまでわが身は何事をなしたるや。今は何事をなせるや。今後は何事をなすべきや」と、みずからその身を点検せざるの罪なり。ゆえにいわく、商売の有様を明らかにして後日の見込みを定むるものは帳面の総勘定なり、一身の有様を明らかにして後日の方向を立つるものは智徳事業の棚卸しなり。



世話の字の義
 世話の字に二つの意味あり、一は「保護」の義なり、一は「命令」の義なり。保護とは人の事につき、かたわらより番をして防ぎ護り、あるいはこれに財物を与え、あるいはこれがために時を費やし、その人をして利益をも面目をも失わしめざるように世話をすることなり。命令とは人のために考えて、その人の身に便利ならんと思うことを指図さしずし、不便利ならんと思うことには意見を加え、心のたけを尽くして忠告することにて、これまた世話の義なり。
 右のごとく世話の字に、保護と指図と両様の義を備えて人の世話をするときは、真によき世話にて世の中はまるく治まるべし。たとえば父母の子供におけるがごとく、衣食を与えて保護の世話をすれば、子供は父母の言うことを聞きて指図を受け、親子の間柄に不都合あることなし。また政府にては法律を設けて、国民の生命と面目と私有とを大切に取り扱い、一般の安全をはかりて保護の世話をなし、人民は政府の命令に従いて指図の世話にもとることあらざれば、公私の間まるく治まるべし。
 ゆえに保護と指図とはふたつながらその至るところをともにし、寸分も境界を誤るべからず。保護の至るところはすなわち指図の及ぶところなり。指図の及ぶところは必ず保護の至るところならざるを得ず。もし然らずしてこの二者の至り及ぶところの度を誤り、わずかに齟齬そごすることあれば、たちまち不都合を生じてわざわいの原因となるべし。世間にその例少なからず。けだしその所以は、世の人々常に世話の字の義を誤りて、あるいは保護の意味に解し、あるいは指図の意味に解し、ただ一方にのみ偏して文字のまったき義を尽くすことなく、もって大なる間違いに及びたるなり。
 譬えば父母の指図を聴かざる道楽息子へみだりに銭を与えて、その遊冶放蕩を逞しゅうせしむるは、保護の世話は行き届きて指図の世話は行なわれざるものなり。子供は謹慎勉強して父母の命に従うといえども、この子供に衣食をも十分に給せずして無学文盲の苦界におとしいらしむるは、指図の世話のみをなして保護の世話を怠るものなり。甲は不孝にして乙は不慈なり。ともにこれを人間の悪事と言うべし。
 古人の教えに「朋友にしばしばすればうとんぜらるる」とあり。そのわけは、「わが忠告をも用いざる朋友に向かいて余計なる深切を尽くし、その気前をも知らずして厚かましく意見をすれば、ついにはかえってあいそつかしとなりて、先の人に嫌われ、あるいは怨まれ、あるいは馬鹿にせられて、事実に益なきゆえ、大概に見計ろうてこちらから寄りつかぬようにすべし」との趣意なり。この趣意もすなわち指図の世話の行き届かぬところには保護の世話をなすべからずということなり。
 また昔かたぎに、田舎の老人がふるき本家の系図を持ち出して別家の内をきまわし、あるいは銭もなき叔父さまが実家のめいを呼びつけてその家事を指図し、その薄情を責めその不行届きを咎め、はなはだしきに至りては、知らぬ祖父の遺言などとて姪の家の私有を奪い去らんとするがごときは、指図の世話は厚きに過ぎて保護の世話の痕跡もなきものなり。ことわざにいわゆる「大きにお世話」とはこのことなり。
 また世に貧民救助とて、人物の良否を問わず、その貧乏の原因を尋ねず、ただ貧乏の有様を見て米銭を与うることあり。鰥寡かんか孤独、実に頼るところなき者へは救助ももっともなれども、五升の御救米おすくいまいを貰うて三升は酒にして飲む者なきにあらず。禁酒の指図もできずしてみだりに米を与うるは、指図の行き届かずして保護の度を越えたるものなり。諺にいわゆる「大きに御苦労」とはこのことなり。英国などにても救窮の法に困却するはこの一条なりという。
 この理をおしひろめて一国の政治上に論ずれば、人民は租税を出だして政府の入用を給し、その世帯向きを保護するものなり。しかるに専制の政にて、人民の助言をば少しも用いず、またその助言を述ぶべき場所もなきは、これまた保護の一方は達して指図の路はふさがりたるものなり。人民の有様は大きに御苦労なりと言うべし。
 この類を求めて例を挙ぐればいちいちかぞうるにいとまあらず。この「世話」の字義は経済論のもっとも大切なる箇条なれば、人間の渡世において、その職業の異同事柄の軽重にかかわらず、常にこれに注意せざるべからず。あるいはこの議論はまったく算盤そろばんずくにて薄情なるに似たれども、薄くすべきところを無理に厚くせんとし、あるいはその実の薄きを顧みずしてその名を厚くせんとし、かえって人間の至情を害して世の交際を苦々にがにがしくするがごときは、名を買わんとして実を失うものと言うべし。
 右のごとく議論は立てたれども、世人の誤解を恐れて念のためここに数言を付せん。修身道徳の教えにおいてはあるいは経済の法と相もとるがごときものあり。けだし一身の私徳は悉皆しっかい天下の経済にさし響くものにあらず、見ず知らずの乞食に銭を投与し、あるいは貧人の憐れむべき者を見れば、その人の来歴をも問わずして多少の財物を給することあり。そのこれを投与しこれを給するはすなわち保護の世話なれども、この保護は指図とともに行なわるるものにあらず、考えの領分を窮屈にしてただ経済上の公をもってこれを論ずれば不都合なるに似たれども、一身の私徳において恵与の心はもっとも貴ぶべく最もみすべきものなり。たとえば天下に乞食を禁ずるの法はもとより公明正大なるものなれども、人々の私において乞食に物を与えんとするの心は咎むべからず。人間万事算盤を用いて決定すべきものにあらず、ただその用ゆべき場所と用ゆべからざる場所とを区別すること緊要なるのみ。世の学者、経済の公論に酔いて仁恵の私徳を忘るるなかれ。

引用文献


江守孝三(Emori Kozo)