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武蔵百科五輪書百科(五輪書解説) (English) (各資料)

五輪書(風之巻)兵法書(写本)

01 「兵法他流の道を知る事」、 02 「他流に大なる太刀を持事」、 03 「他流に於て強みの太刀と云事」、 04 「他流に短き太刀を用ゆる事」、 05 「他流に太刀数多き事」、 06 「他流に太刀の搆を用ゆる事」、 07 「他流に目付と云事」、 08 「他流に足つかひ有る事」、 09 「他の兵法に早きを用ゆる事」、 10 「他流に奥表と云事」、 11 (風之巻後書)

1 他流の道を知る

【原 文】
兵法、他流の道を知る事。
他の兵法の流々を書付、 風之巻として、此巻に顕す所也。 他流の道をしらずしてハ、 一流の道、慥にわきまへがたし。(1) 他の兵法を尋見るに、 大きなる太刀をとつて、強き事を専にして、 其わざをなすながれも有。 或は小太刀といひて、みじかき太刀をもつて、 道を勤むるながれも有。 或ハ、太刀かずおほくたくみ、太刀の搆を以て、 表といひ奥として、道を傳ふる流も有。 これミな實の道にあらざる事也。 此巻の奥(内*)に慥に書顕し、 善悪利非をしらする也。 我一流の道理、各別の儀也。 他の流々、藝にわたつて身すぎのためにして、 色をかざり、花をさかせ、うり物に こしらへたるによつて、實の道にあらざる事か。 又、世の中の兵法、劔術ばかりに ちいさく見立、太刀を振ならひ、 身をきかせて、手のかるゝ所をもつて、 勝事をわきまへたる物か。 いづれもたしかなる道にあらず。 他流の不足なる所、一々此書に書顕す也。 能々吟味して、二刀一流の利を わきまゆべきもの也。(2)

【現代語訳】
 兵法、他流の道を知る事
 他の兵法の諸流派(のこと)を書きとめ、風之巻として、この巻にあらわすところである。  他流派の道〔方法〕を知らずしては、我が流派の道〔方法〕をたしかに弁えることはできない。  他(流)の兵法を尋ねて見てみると、大きな太刀を取って、強きことを専〔第一〕にして、その業をなす流派もある。あるいは、小太刀といって、短い太刀をもって修行する流派もある。あるいは、太刀数を多く案出して、太刀の搆えをもって、「表」といい「奥」として、道〔流儀〕を伝える流派もある。  これらはすべて、真実の道にあらざることである。  (それを)この巻のなかに明確に書きあらわし、(諸流派の)善悪理非を教えよう。我が流派の道理は、(それらとは)まったく違うのである。  他の諸流派は、武芸で世渡りし身すぎ〔生計〕のためにして、見た目を飾り、派手にして、売物にこしらえたものであるから、真実の道ではありえないことか。また、世の中の兵法は、剣術のみに小さく見立て、太刀を振り習い、身体をうまく動かし、手を駆使するところをもって、勝つ事をわきまえたものか。  いづれにしても(それらは)たしかな(間違いのない)道ではない。  (そのような)他流派の短所を、一つひとつ(挙げて)この書に書きあらわすのである。よくよく吟味して、(我が)二刀一流の利〔長所〕をわきまえるべきである。
2 他流批判・大きな太刀

【原 文】
一 他流に大なる太刀をもつ事。
他に大なる太刀をこのむ流あり。 我兵法よりして、是を弱き流と見立る也。 其故は、他の兵法、いかさまにも人に勝と云利 をバしらずして、太刀の長きを徳として、 敵相とをき所よりかちたきとおもふに依て、 長き太刀このむ心有べし。 世の中に云、一寸手増りとて、 兵法しらぬものゝ沙汰也。 然に依て、兵法の利なくして、 長きをもつて遠くかたんとする。 夫ハ心のよはき故なるによつて、 よはき兵法と見立る也。 若、敵相ちかく、組合程の時ハ、 太刀の長きほど、打事もきかず、 太刀もとをりすくなく、太刀をににして、 小わきざし、手ぶりの人に、おとるもの也。 長き太刀このむ身にしてハ、 其いひわけは有ものなれども、 夫ハ其身ひとりの利也。 世の中の實の道より見る時ハ、 道理なき事也。 長き太刀もたずして、みじかき太刀にてハ、 かならずまくべき事か。或ハ其場により、 上下脇などのつまりたる所、 或ハ脇ざしばかりの座にても、太刀をこのむ心、 兵法のうたがひとて、悪敷心也。(1) 人により、少力なる者も有、 其身により、長かたなさす事ならざる身もあり。 昔より、大ハ小をかなゆるといヘば、 むざと長きを嫌ふにはあらず。 長きとかたよる心を嫌ふ儀也。 大分の兵法にして、長太刀ハ大人数也。 みじかきハ小人数也。小人数と大人数と、 合戦ハなるまじきものか。 小人数にて勝こそ、兵法の徳なれ。 むかしも、小人数にて大人数に勝たる例多し。 我一流におゐて、さやうにかたつきせばき心、 嫌事也。能々吟味有べし。

【現代語訳】
一 他流で大きな太刀をもつ事
 他流で、大きな太刀を好む流派がある。我が兵法からすれば、これを弱い流派と見立てるのである。  そのゆえは、他流の兵法は、どんなことをしてでも人に勝つという利〔理〕を知らず、太刀が長いのを徳〔得、有利〕だとして、敵相〔敵との距離〕が遠いところから勝ちたいと思うから、長い太刀を好む気持があるのだろう。(これは)世の中にいう、「一寸手まさり」といって、兵法を知らぬ者の行いである。  しかるによって、兵法の利〔理〕がないのに、(太刀の)長いの利用して、遠く(離れて)勝とうとする、それは心が弱いゆえである。だから、弱い兵法と見立てるのである。  もし敵相〔敵との距離〕が近く、(互いに)組み合うほどの時は、太刀が長いほど、打つこともうまくできず、太刀が役に立つこと*は少なく、太刀(の大きさ)が邪魔になって、小脇ざしや手ぶら*〔素手無刀〕の人に(さえ)劣るものである。  長い太刀を好む身としては、(いろいろと)その弁解はあるものだろうが、それは、その身一人の利〔理屈〕である。世の中の真実の道から見るときは、道理なきことである。  長い太刀を持たずして、短かい太刀では、必ず負けるのか。あるいは、その場によっては上下や脇などに余裕がない所、あるいは脇ざししかない席であっても、(どうあっても、長い)太刀を好む心は、兵法の疑い〔不信・惑い〕といって、悪しき心である。  人によっては力の弱い者もある。その身によっては、(体が小さくて)長い刀を(腰に)差すことができない身体もある。  昔から、「大は小をかなえる」*と云うから、(太刀の)長いのをむやみに嫌うのではない。長い方がよいと偏る心を嫌うのである。  大分の兵法〔合戦〕の場合、長い太刀とは大人数のことであり、短いのは少人数のことである。小人数と大人数では、合戦は成り立たないものか。小人数で勝つことこそ、兵法の徳〔すぐれた働き〕であろう。昔も小人数で大人数に勝った例は多い。  我が流派においては、そのように偏った狭い心を嫌うのである。よくよく吟味あるべし。
3 他流批判・強みの太刀

【原 文】
一 他流におゐてつよミの太刀と云事。 太刀に、強き太刀、よはき太刀と云事ハ、 あるべからず。強き心にて振太刀ハ、 悪敷もの也。あらき斗にてハ勝がたし。 又、強き太刀と云て、人を切時にして、 むりに強くきらんとすれバ、きられざる心也。 ためし物などきる心にも、強くきらんとする事あしゝ。 誰におゐても、かたきときりあふに、 よはくきらん、つよくきらん、と思ものなし。 たゞ人をきりころさんと思ときハ、 強き心もあらず、勿論よはき心もあらず、 敵のしぬる程とおもふ儀也。 若ハ、強みの太刀にて、人の太刀強くはれバ、 はりあまりて、かならずあしき心也。 人の太刀に強くあたれバ、 我太刀も、おれくだくる所也。 然によつて、強ミの太刀などゝ云事、なき事也。(1) 大分の兵法にしても、強き人数をもち、 合戦におゐて強くかたんと思ヘバ、 敵も強き人数を持、戦強くせんと思ふ。 夫ハ何も同じ事也。 物毎に、勝と云事、 道理なくしてハ、勝事あたはず。 我道におゐてハ、少も無理なる事を思はず、 兵法の智力をもつて、いか様にも勝所を得る心也。 能々工夫有べし。(2)

【現代語訳】
一 他流において強みの太刀という事
 太刀に、「強い太刀」「弱い太刀」ということは、あるはずがないことだ。強い心で振る太刀は、よくないものである。荒いばかりでは、勝つことはできない。  また、強い太刀といって、人を切るとき、無理に強く切ろうとすれば、切れないものである。試し物など切る〔試し斬り〕心持にしても、あまり強く切ろうとするのは、よくない。  誰であろうと、敵と切り合う場合に、弱く切ろう、強く切ろうと思う者はない。ただ人を切り殺そうと思う時は、強い心もなく、もちろん弱い心もなく、敵が死ぬほど(切ろう)、と思うだけである。  あるいは、強みの太刀で、相手の太刀を強く張れば、張りすぎて、必ずよくないのである。相手の太刀に強く当れば、自分の太刀も折れ砕けることがある。  そういうことであるから、強みの太刀などということは、(本来)存在しないことである。  大分の兵法〔合戦〕にしても、(我が方が)強い軍勢を持ち、合戦において強く勝とうと思えば、敵も強い軍勢をもち、戦いを強くしようと思う。それはどちらも同じことである。  どんなことでも、勝つということは、道理なくしては勝つことはできない。我が(兵法の)道においては、少しも無理なことを思わず、兵法の智力をもって、どのようにでも勝つところを得るのである。よくよく工夫あるべし。
4 他流批判・短い太刀

【原 文】
一 他流にミじかき太刀を用る事。
みじかき太刀ばかりにてかたんと 思ところ、實の道にあらず。 昔より太刀、刀と云て、 長きとみじかきと云事を顕し置也。 世の中に、強力なるものは、 大なる太刀をもかろ/\と*振なれば、 むりにみじかきをこのむ所にあらず。 其故ハ、長きを用て、鑓、長刀をも持もの也。 短き太刀をもつて、人の振太刀のすき間を、 きらん、飛入ん、つかまへん、 などゝ思ふ心、かたつきて悪し。 又、すき間をねらふ所、万事後手に見ヘて、 もつるゝと云心有て、嫌事也。 若、みじかきものにて、敵へ入、 くまん、とらんとする事、 大敵の中にて役にたゝざる心也。 ミじかきにて仕ひ得たるものハ、 大勢をもきりはらはん、自由に飛*、くるばん、 と思ふとも、みなうけ太刀と云(もの*)になりて、 とり紛るゝ心有て、 たしかなる道にて(は*)なき事也。(1) 同じくハ、我身は強く直にして、 人を追まはし、人にとびはねさせ、 人のうろめく様にしかけて、 たしかに勝所を専とする道也。 大分の兵法におゐても、其利有。 同じくハ、人数かさをもつて、 かたきを矢塲にしほし、 則時に責つぶす心、兵法の専也。 世の中の人の、物をしならふ事、 平生も、うけつ、かはいつ、 ぬけつ、くゞつゝしならへバ、 心、道にひかされて、人にまはさるゝ心有。 兵法の道、直に正しき所なれバ、 正利*をもつて、人を追廻し、 人をしたがゆる心、肝要也。 能々吟味有べし。(2)

【現代語訳】
一 他流で短い太刀を用いる事
 短い太刀ばかりで勝とうと思うところ、それは真実の道ではない。  昔から「太刀、刀」*と云って、長いものと短いものということを、明らかにしている。世の中に強力〔ごうりき〕なる者があり、大きな太刀でも軽々と振るので、無理に(太刀の)短いのを好むところではない。それは、(強力の者が)長い太刀を役立たせて、(また)鑓や長刀をも持つからである。  短い太刀をもって、相手の振る太刀の隙間を(狙って)切ろう、飛び込もう、つかまえよう、などと思う気持は、偏っていてよくない。また、隙間を狙うところ、すべて後手に見えて、もつれるという感じがあって、(我が流派では)嫌うことである。  もし、短いもので、敵(の懐)に入身をして、組付こう、とらえようとしても、それは、大敵〔多数の敵〕の中では役に立たない企てである。短いものを遣うのに習熟した者は、大勢(の敵)でも切り払おう、自由に飛んで、(くるくる)転がろうと思うだろうが、それはすべて、受太刀というものになって、(敵に振り回され)あわただしい気持になるだけで、たしかな道〔やり方〕ではないのである。  同じことなら、我が身は強く真っ直ぐにして、人を追廻し、人に飛びはねさせ、人のうろめくように仕懸けて、(そうして)確実に勝つ、そこを専〔せん〕とする方がよいのである。  大分の兵法〔合戦〕においても、(同じ)その利〔理〕がある。同じことなら、人数かさ〔兵員量〕で圧倒して、敵を猛烈な攻撃にさらし、即時に攻め潰す気持、それが兵法の専〔せん〕である。  世の中の人が物事を習慣にすることだが、いつも、受けたり、かわしたり、すり抜けたり、下に潜ったりするのが習慣になっていると、心がその道〔やり方〕に引きずられて、人にふり廻されるようになってしまうのである。  兵法の道とは、真っ直ぐ正しいものである。それゆえ、正利〔まちがいのない戦い方〕をもって人を追い廻し、人を従属させる気持、それが肝要である。よくよく吟味あるべし。
5 他流批判・太刀数多き事

【原 文】
一 他流に太刀数多き事。
太刀かず数多にして、人に傳る事、 道をうり物にしたてゝ、太刀数多くしりたると、 初心のものに深くおもはせんためなるべし。 是、兵法に嫌ふこゝろ也。(1) 其故ハ、人をきる事色々有と 思ふ所、まよふ心也。 世の中におゐて、人をきる事、替る道なし。 しるものも、しらざるものも、 女童子迄も、打、たゝき、切と云道ハ、 多くなき所也。若、かはりてハ、 つくぞ、なぐぞ、と云より外ハなし。 先きる所の道なれバ、 かずの多かるべき子細にあらず。 されども、場により、ことに随ひ、 上脇などのつまりたる所などにてハ、 太刀のつかへざるやうに持道なれバ、 五方とて、五つの数ハ有べきもの也。 夫より外に、とりつけて、 手をねぢ、身をひねりて、 飛、ひらき、人をきる事、實の道にあらず。 人をきるに、 ねぢてきられず、ひねりてきられず、 飛てきられず、ひらいてきられず、 かつて役に立ざる事也。 我兵法におゐてハ、身なりも心も直にして、 敵をひずませ、ゆがませて、 敵の心のねぢひねる所を勝事、肝心也。 (能々吟味有べし*)(2)

【現代語訳】
一 他流で太刀数の多い事
 太刀数*を多くして人に伝えること、これは、道を売物に仕立てて、太刀数を多く知っていると、初心の者に深く思い込ませようとするためであろう。これは、兵法において嫌う心である。  そのゆえは、人を切る方法がいろいろあると思うところ、そこが迷う心であるからだ。  世の中において、人を切ることには、(特別)変った道〔方法〕はない。(剣術を)知る者も、知らない者も、女や児童までも、打ち、叩き、切る、という方法は、(決して)多くはないのである。もし変りがあるとすれば、それは、「突くぞ」「薙ぐぞ」というより外にはない。(何より)まず敵を切る方法であるから、数が多くあるべきわけがない。  けれども、場所により事情にしたがって、上や脇などが窮屈なところでは、太刀が差支えないように持つべきであるから、「五方」といって、五つの数はあってよいのである。  それより外に、数を増やして、手をねじり、身をひねって、飛んだり、(身を)かわし*たり、(さまざまのことをして)人を切ることは、真実の道ではない。  人を切る(ため)に、(手を)ねじっては切ることができず、(身を)ひねっては切ることができず、飛んでは切ることができず、(身を)かわしては切ることができない。(そんなことは)まったく役に立たないことである。  我が兵法においては、身搆えも心も真っ直ぐにして、敵を歪ませゆがませて、敵の心のねじひねるところを勝つこと、それが肝心である。  (よくよく吟味あるべし)
6 他流批判・太刀の搆え

【原 文】
一 他(流*)に太刀の搆を用る事。
太刀の搆を専にする事、ひがごと也。 世の中に搆のあらんハ、 敵のなき時の事なるべし。 其子細ハ、むかしよりの例、 今の世のさた*などゝして、 法例を立る事は、勝負の道にハ有べからず。 其相手の悪敷様にたくむ事也。(1) 物毎に、搆と云事ハ、 ゆるがぬ所を用る心也。 或ハ城を搆、或ハ陳*を搆などハ、 人にしかけられても、 強くうごかぬ心、是常の儀也。
[兵法勝負の道におゐてハ、何事も先手/\と心がくる事也。かまゆるといふ心ハ、先手を待心也。能々工夫有べし]* 兵法勝負の道ハ、 人の搆をうごかせ、敵の心になき事を しかけ、或は敵をうろめかせ、 或ハむかつかせ、又ハおびやかし、 敵のまぎるゝ所の拍子の利をうけて、 勝事なれバ、搆と云後手の心を嫌也。 然故に、我道に有搆無搆と謂て、 搆ハ有て搆ハなきと云所なり。(2) 大分の兵法にも、 敵の人数の多少を覚へ、其戦場の所をうけ、 我人数の位を知り、其徳を得て、 人数をたて、戦をはじむる事、是合戦の専也。 人に先をしかけられたる事と、 我先を*しかくる時ハ、一倍も替る心也。 太刀を能かまへ、 敵の太刀を能うけ、能はると覚るハ、 鑓長刀をもつて、さくにふりたると同じ、 敵を打ときは、又、さく木をぬきて、 鑓長刀につかふ程の心也。 能々吟味有べき也。(3)

【現代語訳】
一 他流で太刀の搆えを用いる事
 太刀の搆えを専〔第一〕にすることは、間違ったことである。  世の中に搆えがあるのは、敵がいないときのことであるはずだ。そのわけは、昔からの慣例、今の世の沙汰〔法令〕などとして、法例を立てることは、勝負の道にはあってはならない。(勝負の道とは)その相手の具合の悪いように企むことである。  どんなことでも、搆えということは、ゆるがぬところを用いるということである。あるいは城を搆え、あるいは陳〔陣〕を搆えるなどは、相手に攻撃を仕懸けられても、強く動かぬということ、これが通常の意味である。
[兵法勝負の道においては、何事も先手先手と心懸けるのである。搆えるというのは、先手を待つということである。よくよく工夫あるべし] (これに対し)兵法勝負の道は、人の搆えを動揺させ、敵の予期しないことを仕懸け、あるいは敵をうろめかせ、あるいはむかつかせ、またはおびやかし、敵が混乱するところ、その拍子の利〔優位〕を受けて勝つことであるから、搆えるという後手の心を嫌うのである。  それゆえに、我が(兵法の)道では、「有搆無搆」〔うこうむこう〕といって、搆えはあって搆えはなしと云うのである。  大分の兵法〔合戦〕でも、敵の人数〔軍勢〕の多い少ないを認識し、その戦場の場所に応じて、我が人数〔軍勢〕の位〔態勢〕を知り、その長所を生かして陣立てをし、戦闘を開始すること、これが合戦の専〔せん〕である。  相手に先〔せん〕を仕懸けられたのと、こちらが先を仕懸ける時とでは、(その利・不利は)倍も違うのである。  太刀をよく搆え、敵の太刀をよく受け、よく張ろうと意識するのは、鑓・長刀を防護柵にしている*のと同じことであり、敵を攻撃する時になれば、また柵木を抜いて鑓・長刀に使おうとするようなものである。(この点)よくよく吟味あるべきである。
7 他流批判・目付け

【原 文】
一 他流に目付と云事。 目付と云て、其流により、敵の太刀に 目を付るも有、又ハ手に目を付る流も有。 或ハ顔に目を付、或ハ足などに目を付るも有。 其ごとくに、とりわけて目をつけんとしてハ、 まぎるゝ心有て、兵法の病と云物になる也。 其子細ハ、鞠をける人ハ、 まりによく目をつけねども、びんずりをけ、 おひまりをしながしても、けまわりても、 ける事、物になるゝと云所あれバ、 たしかに目に見るに及ばず。 又、ほうかなどするものゝわざにも、 其道に馴てハ、戸びらを鼻にたて、 刀をいくこしもたまなどに取事、 是皆、たしかに目付ハなけれども、 不断手にふれぬれバ、 おのづからミゆる所也。(1) 兵法の道におゐても、其敵/\としなれ、 人の心の軽重を覚へ、道をおこなひ得てハ、 太刀の遠近遅速も、皆見ゆる儀也。 兵法の目付ハ、大かた 其人の心に付たる眼也。 大分の兵法に至ても、 其敵の人数の位に付たる眼也。 観見二つの見様、観の目強くして、 敵の心を見、其場の位を見、 大に目を付て、其戦の景氣を見、 そのをり節の強弱を見て、 まさしく勝事を得事、専也。 大小の兵法におゐて、 ちいさく目を付る事なし。 前にも記すごとく、こまかにちいさく目を 付るによつて、大きなる事をとりわすれ、 目まよふ心出て、たしかなる勝をぬかすもの也。 此利能々吟味して、鍛練有べき也。

【現代語訳】
一 他流で目付という事
 目付〔めつけ〕といって、その流派により、敵の太刀に目を付けるものもあり、または手に目を付ける流派もある。あるいは顔に目をつけ、あるいは足などに目を付けるものもある。そのように、とりわけて(特定の部位に)目を付けようとしては、(肝心なことを)見失う心があって、兵法の病というものになるのである。  そのわけは、鞠を蹴る人は、鞠によく目を付けないけれど、「びんずり」*を蹴り、負鞠*を(背中で)仕流しても、蹴りまわっても、(自在に蹴るのは)ものごとに慣れるというところがあるので、しっかりと目で見るまでもない。  また、ほうか*(放下、曲芸)などする者の業にも、その道に慣れると、扉を鼻先に立て、刀を何本も手玉にとる。これはすべて、しっかり目を付けることはないけれども、ふだん手にしなれているので、おのづから見えるところである。  兵法の道においても、さまざまな敵と戦い慣れ、相手の心の軽重〔気が早い、遅い〕を認識し、道〔正しい方法〕を行えるようになれば、太刀の遠い近い、遅い速いも、すべて見えるものである。  兵法の目付は、だいたいその相手の心に付けた眼である。大分の兵法〔合戦〕に至っても(事は同じで)、その敵の人数〔軍隊〕の位〔態勢〕に付けた眼である。  「観」と「見」、二つの見方(があるが)、観の目を強くして敵の心を見、その場の位〔状況〕を見、大きく目を付けて、その戦いの景気〔様相〕を見、その時々で変る強弱(の変化)を見て、確かに勝つことを得る、それが専〔せん〕である。  大小の兵法〔多数少数の集団戦〕においても、小さく目を付けることはない。前にも記すごとく、細かに小さく目を付けると、それによって、大きな事を取り忘れ、(あちこち)目迷う心が出て、確実な勝ちを取り逃がすものである。この利〔理〕をよくよく吟味して、鍛練あるべきである。
8 他流批判・足づかい

【原 文】
一 他流に足つかひ有事。
足の踏様に、浮足、飛足、はぬる足、 踏つむる足、からす足などいひて、 いろ/\さつそくをふむ事有。 是ミな、わが兵法より見てハ、 不足に思ふ所也。(1) 浮足を嫌ふ事、其故ハ、 戦になりてハ、かならず足のうきたがるものなれバ、 いかにもたしかに踏道也。 又、飛足をこのまざる事、 飛足ハ、とぶにおこり有て、飛ていつく心有、 いくとびも飛といふ利のなきによつて、飛足悪し。 又、はぬる足、はぬるといふ心にて、 はかのゆかぬもの也。 踏つむる足ハ、待足とて、殊に嫌ふ事也。 其外からす足、いろ/\のさつそくなど有。 或ハ、沼ふけ、或ハ、山川、石原、 細道にても、敵ときり合ものなれバ、 所により、飛はぬる事もならず、 さつそくのふまれざる所有もの也。 我兵法におゐて、足に替る事なし。 常に道をあゆむがごとし。 敵のひやうしにしたがひ、 いそぐ時ハ、静なるときの身のくらゐを得て、 たらずあまらず、足のしどろになきやうに有べき也。(2) 大分の兵法にして、足をはこぶ事、肝要也。 其故ハ、敵の心をしらず、むざとはやくかゝれバ、 ひやうしちがひ、かちがたきもの也。 又、足ふみ静にてハ、敵うろめき有て くづるゝと云所を見つけずして、 勝事をぬかして、はやく勝負付ざる*もの也。 うろめき崩るゝ場を見わけてハ、 少も敵をくつろがせざるやうに勝事、肝要也。 能々鍛錬有べし。(3)

【現代語訳】
一 他流に足つかいのある事
 足の踏み方に、浮き足、飛び足、跳ねる足、踏みつめる足、からす足などといって、いろいろ左足*〔さそく・特殊な足つかい〕を踏むことがある。これはすべて、我が兵法から見れば、不足に〔ダメだと〕思うところである。  浮き足を嫌うこと、そのわけは、戦いになっては、必ず足の浮きたがるものだから、できるだけ確かに足を踏む、それが道〔正しい方法〕である。また、飛び足を好まないのは、飛び足は、飛ぶときに起り*があり、飛んで居付く心があり、何回も飛ぶという利〔理〕もないのだから、飛足はよくない。また、跳ねる足は、跳ねるという(着実ではない)心があって捗の行かぬものだ。踏みつめる足は、「待つ足」といって、とくに嫌うことである。  その他、からす足、色々の左足〔さそく〕などがある。あるいは、沼、ふけ〔湿原〕、あるいは、山、川、石原、細道においても、敵と切り合うものであるから、場所によっては飛びはねることもできず、左足〔さそく〕を踏むことができない所があるものである。  我が兵法では、足(の踏み方)に変ったことはしない。常に道を歩むがごとし。敵の拍子に応じて、急ぐ時でも、静かな時の身体の位〔態勢〕になって、足らず余らず、足がしどろに(乱れ)ない、そのようにあるべきである。  大分の兵法〔集団戦〕にしても、足を運ぶ*ことは肝要である。そのゆえは、敵の心〔企図〕を知らず、むやみに早く(攻撃に)かかると、拍子がはずれて、勝てないものであるからだ。  また(逆に)、足踏みがのんびりしすぎていては、敵にうろめき〔動揺〕があって崩れるというところを見つけず、そして勝機を取り逃がして、早く勝負がつかないものだ。(敵が)うろめき崩れるところを見わけたならば、少しも敵に余裕を与えないようにして勝つこと、それが肝要である。よくよく鍛練あるべし。
9 他流批判・兵法の早さ

【原 文】
一 他流にはやき事を用る事。
兵法のはやきと云所、実の道にあらず。 はやきといふ事ハ、 物毎のひやうしの間にあはざるによつて、 はやき遅きと云こゝろ也。 其道上手になりてハ、 はやく見ヘざるもの也。 たとへバ、人にはや道と云て、 一日に四十五十里行者も有。 是も、朝より晩迄、はやくはしるにてハなし。 道のふかんなるものハ、 一日走様なれども、はかゆかざるもの也。 乱舞の道に、上手(の*)うたふ謡に、 下手のつけてうたへバ、おくるゝこゝろ有て、 いそがしきもの也。 又、鼓太鼓に老松をうつに、静なる位なれども、 下手ハ、これもおくれ、さきだつこゝろ也。 高砂ハ、きうなる位なれども、 はやきといふ事、悪し。 はやきハこける、と云て、間にあはず。 勿論、おそきも悪し。 これ、上手のする事ハ、緩々と見ヘて、 間のぬけざる所也。 諸事しつけたるものゝする事ハ、 いそがしくみヘざるもの也。 此たとへをもつて、道の利をしるべし。(1) 殊に兵法の道におゐて、はやきと云事悪し。 是も、其子細は、所によりて、 沼ふけなどにてハ、身足ともにはやく行がたし。 太刀ハ、いよ/\はやくきる事悪し。 はやくきらんとすれバ、扇小刀の様にハあらで、 ちやくときれバ、少もきれざるもの也。 能々分別すべし。 大分の兵法にしても、はやく急ぐ心わるし。 枕を押ゆると云心にてハ、 すこしもおそき事ハなき事也。 又、人のむざとはやき事などにハ、 そむくと云て、静になり、 人につかざる所、肝要也。 此こゝろ、工夫鍛錬有べき事也。(2)

【現代語訳】
一 他流で早い事を用いる〔重視する〕事
 兵法の早いというところ、(それは)真実の道ではない。  早いということは、何ごとでも、拍子の間〔ま〕に合わない〔はずれる〕ということで、そこから、早い遅いというわけである。その道の上手になると、(動作は)早く見えないものである。  たとえば、人によっては、「はや道」〔飛脚〕といって、一日に四十里五十里行く者もある。これも、朝から晩まで(一日中)早く走るのではない。道〔はや道〕の不堪〔未熟〕なる者は、一日中走るようであっても、捗が行かないものである。  乱舞*の道では、上手がうたう謡曲に下手が付けてうたうと、(下手は)遅れる心があって、急がしいものである。  また、鼓太鼓で「老松」〔おいまつ〕を打つとき、ゆっくりした曲であるのに、下手はこれも遅れ、(焦って)先立とうとするのである。「高砂」〔たかさご〕は(リズムが)急速な曲であるけれど、早いということはよくない。「早きはこける」といって、間に合わない。もちろん遅いのもよくない。  これは、上手のすることは、ゆるゆるとみえて、間が抜けないというところである。どんなことでも、手慣れた者のする事は、急がしく見えないものである。この喩えをもって、道の利〔正しいやり方〕を知るべし。  とくに、兵法の道において、早いということはよくない。これも、そのわけは、場所によって、沼、ふけ〔湿原〕などでは、身も足も共に早く進めないからである。  太刀はなおさら、早く切ることはよくない。早く切ろうとすれば、扇や小刀のようにはいかず、ちゃくと*〔素早く〕切れば、少しも切れないものである。よくよく分別すべし。  大分の兵法〔集団戦〕にしても、早く急ぐ心はよくない。「枕をおさえる」というつもりになれば、少しも遅いことはないのである。  また、相手がむやみに早くする場合などには、「背く」といって、(逆に)緩慢になって、(早い)相手につかない〔同調しない〕こと、そこが肝要である。この心、工夫、鍛練あるべきことである。
10 他流批判・奥と表

【原 文】
一 他流に奥表と云事。
兵法の事におゐて、 いづれを表と云、いづれを奥といはん。 藝により、ことにふれて、 極意秘傳など云て、奥口あれども、 敵とうちあふ時の利におゐてハ、 表にて戦、奥を以てきると云事にあらず。 わが兵法のおしへ様ハ、 始て道を学ぶ人にハ、其わざのなりよき所を、 させならはせ、合点のはやくゆく利を、 さきにおしへ、心のおよびがたき事をバ、 其人の心のほどくる所を見わけて、 次第/\に、深き所の利を、 後におしゆるこゝろ也。 されども、おほかたハ、 こと*に對したる事などを、覚さするによつて、 奥口といふ所なき事也。(1) されバ、世の中に、山の奥をたづぬるに、 猶奥へゆかんと思へバ、又、口へ出るもの也。 何事の道におゐても、 奥の出合ところも有、口を出してよき事も有。 此戦の道におゐて、 何をかかくし、いづれをか顕さん。 然によつて、我道を傳ふるに、 誓紙罸文などゝ云事をこのまず。 此道を学ぶ人の智力をうかゞひ、直なる道をおしへ、 兵法の五道六道のあしき所を捨させ、 おのづから武士の法の實の道に入、 うたがひなき心になす事、我兵法のおしへの道なり。 能々鍛錬有べし。(2)

【現代語訳】
一 他流で奥表という事
 兵法の事において、どれを「表」と云い、どれを「奥」というのか。芸能によっては、事あるごとに、「極意秘伝」などといって、奥と入口はあるけれども、敵と打合うときの利〔戦い方〕においては、「表」によって戦い、「奥」をもって切るということではない。  我が兵法の教え方は、初めて道を学ぶ人には、その業の習得しやすいところを練習させ、納得の早く行く利〔理〕を先に教える。心の及ばない〔理解できない〕ことは、その人の心がほどけるところを見分けて、次第次第に深いところの利〔理〕を、後で教えるのである。  けれども、たいていの場合、こと〔状況〕に対応した(実際的な)ことなどを覚えさせるから、奥だ入口だと区別することはないのである。  されば、世の中には、山の奥を尋ねて行くに、もっと奥へ行こうと思うと、また(山の)入口ヘ出てしまうことがあるものだ。  何ごとの道においても、「奥」が役に立つ場合もあり、「口」を出してよいこともある。(しかし)この戦いの道において、何を隠し、何を表に出そうか(そんな奥も入口も本来存在しない)。  したがって、我が道を伝えるに、誓紙罸文〔せいしばつぶん、入門誓詞〕などということを好まない。  (そんなことよりも)この道を学ぶ人の智力を見抜いて、真っ直ぐな道を教え、兵法の五道六道*の悪いところ〔悪趣〕を捨てさせ、おのづから武士の法〔兵法〕の真実の道へ入り、疑いなき心にすること、これが我が兵法の教えの道である。  よくよく鍛練あるべし。
11 風之巻 後書

【原 文】
右、他流の兵法を九ヶ条として、 風之巻に有増書附所、 一々流々、口より奥に至迄、 さだかに書顕すべき事なれども、 わざと何流の何の大事とも名を書記さず。 其故ハ、一流々々の見立、其道々の云分、 人により心にまかせて、 夫/\の存分有物なれバ、 同じ流にも、少々心のかはるものなれバ、 後々迄のために、何流の筋とも書のせず。 他流の大躰、九つにいひ分、 世の中の人のおこなふわざを見れバ、 長きにかたつき、みじかきを利にし、 強きとかたつき、あらき、こまかなると云事、 ミなへんなる道なれバ、 他流の口奥とあらはさずとも、皆人のしるべき儀也。 我一流におゐて、太刀におくくちなし、搆に極りなし。 只心をもつて、其徳をわきまゆる、 是兵法の肝心也。(1)

【現代語訳】
 以上、他流の兵法を九ケ條として、風の巻にその概要を書き付けたのであるが、諸流派のそれぞれについて、入口から奥義に至るまで、定かに書いて明らかにすべきだろうが、わざと何流のどういう大事〔奥義〕とも、名を書き記さなかった。  そのわけは、流派おのおのの見方、その道それぞれの言い分は、人により、(また)心にまかせて、それぞれに考えがあるものだから、同じ流派でも少々意味が変るものである。それゆえ、後々までのために、何流の筋とも書き載せなかったのである。  他流の概略を、九つに分類して、世の中の人々の行う業を見れば、長い(道具)に偏向したり、短かい(道具)を重視したり、強いことへ偏向し、荒い細かいということ、(これらは)すべて偏った道であるから、他流の入口だ奥だと明らかにしなくとも、すべて人の知っているはずのことである。  我が流派においては、太刀に奥も入口もなく、搆えに究極はない。ただ、心をもってその徳〔太刀の効能〕をわきまえること、これが兵法の肝心である。

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