温故知新(戻る)、 世界三大古典詩歌集 ( 「詩經」「万(萬)葉集」「ソネット集 SONNET(Shakespeare)」
NHKテレビ 「100分de名著」 【万葉集】を 放送 (はじめに和歌(うた)があった 「ことば」の力が「もの・こと」を生み出す)。 万葉集(萬葉集)は日本人の心の古典、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」
巻第一 巻第二 巻第三 巻第四 巻第五 巻第六 巻第七 巻第八 巻第九 巻第十 巻第十一 巻第十二 巻第十三 巻第十四 巻第十五 巻第十六 巻第十七 巻第十八 巻第十九 巻第二十 研究史

万葉集(まんようしゅう,   (百科事典) (English)
 巻第一~巻第二十 (全) Man'yōshū 


 NHK 100分de名著 万葉集、 ①②③④
The Man'yōshū (万葉集"Collection of Ten Thousand Leaves") is the oldest existing collection of Japanese poetry,


NHK100分de名著(万葉集テキスト) 及び 万葉の旅(犬養孝:教養文庫)ヨリ
万葉集Manyoshu(萬葉集 Man'yōshū)は日本人の心の古典、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」

『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。
 日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。 『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、 家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。 『万葉集』は全巻で20巻、雄略天皇の歌から始まり~大伴家持の歌で終わる。
(歴史秘話ヒストリア: 万葉集)

犬養孝

①犬養孝「万葉集~うたの心」 ②「万葉集~うたは心の音楽」③「万葉集~言霊の世界」④「万葉集~特攻隊員のこと」⑤「万葉集~時代区分」⑥ 「万葉集~磐姫皇后の恋うた」
犬養孝 講演「万葉人の恋、結婚」 1

犬養孝 万葉集 検索 犬養孝 万葉の旅 検索 犬養孝 万葉集CD 犬養孝 万葉集TV 犬養孝 万葉集(ヤフーオークション)


○ManyoshuBest100 ○万葉集[YouTube] ○萬葉集朗詠ライブ ○歴史ヒストリア ○万葉歌と明石 、、 ○100分de名著 万葉集 其の1 ○ 其の2 、、 万葉集読み上げ 巻1 ( 1 -27) 万葉集読み上げ 巻1 (28-49) 万葉集読み上げ 巻1 (50-84)



紹介1
初めて万葉集を読む人から、今まで万葉集を勉強してきた人まで、いろいろな人に読んでもらえる、分かりやすい万葉集の内容になっています。ぜひ、万葉集の世界に触れてみてください。 全4巻(汐文社)+万葉集(ポプラ社)

①万葉のあけぼの天智天皇・天武天皇、額田王 ②都人たち持統天皇・志貴皇子、柿本人麻呂 ③平城の京山部赤人・山上憶良、大伴旅人 ④天平の風大伴家持・東歌、防人歌 (汐文社) 万葉集 21世紀によむ日本の古典 (ポプラ社)

紹介2
『万葉集』は日本人の心の古典であり、貴族から庶民に至る各階層が、見事に謳いあげた、世界に比類なき民族詩の金字塔である。 いま、その万葉を、原典との照応が一目理解できるよう、原文、読み下し文、全訳、語注をそろえ、
万葉学の第一人者である 中西進博士 がその蘊蓄を傾けて贈る。 全4巻+別巻1巻・全訳注原文付(講談社文庫 )。

①万葉集 (一)巻第一~第五 ②万葉集 (ニ)巻第六~第十 ③万葉集 (三)巻第十一~第十五 ④万葉集 (四)巻第十六~第二十 ⑤万葉集事典
事典


紹介3
万葉の自然はすっかり姿を変えてしまったが、万葉びとの歌心はしっかりと今に息づいている。 日本各地にある万葉の地を訪ね歩き、草陰にひそんでいる古代の人の足跡、 風のそよぎに感ぜられる万葉びとの詩情を、時代と風土との関わりのなかから説き起こす。 犬養孝先生の集大成。「犬養万葉・万葉の旅」 犬養孝 著(平凡社・現代教育)。

万葉の旅〈上〉 大和) 万葉の旅〈中〉 近畿・東海・東国 万葉の旅〈下〉 山陽・四国・九州・山陰・北陸

紹介4
京都大学附属図書館所蔵 近衛文庫 [万葉集(近衛本)]
国立国会図書館 (近代デジタルライブラリー)紀州本万葉集、校正万葉集通解.、万葉集略解

万葉集(近衛本) 京都大学附属図書 紀州本万葉集 国立国会図書館 校正万葉集通解 国立国会図書館 万葉集略解 (文化9) 国立国会図書館

・【校正万葉集通解】 全20巻(中島友文 [著] 1885)
[巻1][巻2][巻3][巻4][巻5]館内[巻6][巻7][巻8][巻9][巻10][巻11][巻12][巻13][巻14]館内[巻15]館内[巻16][巻17][巻18]館内[巻19][巻20]

・【万葉集略解】 全20巻(橘千蔭 著、文化9 [1812])
[巻1][巻2][巻3上][巻3下][巻4上][巻4下][巻5][巻6][巻7][巻8][巻9][巻10上][巻10下][巻11上][巻11下][巻12上][巻12下][巻13上][巻13下][巻14上][巻14下][巻15][巻16][巻17上][巻17下][巻18][巻19上] [巻19下] [巻20上][巻20下] 完


美しき日本万葉エッセイ(上野誠)○ManyoshuBest100 ○万葉集[YouTube] ○萬葉集朗詠ライブ ○歴史ヒストリア ○万葉歌と明石 、、 ○100分de名著 万葉集 其の1 ○ 其の2 、、 万葉集読み上げ 巻1 ( 1 -27) 万葉集読み上げ 巻1 (28-49) 万葉集読み上げ 巻1 (50-84)
紹介5
万葉集(動画 YouTube)作成者: NipponArchives


[万葉集] 01-0001万葉集とは ・・・

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[万葉集] 01-0002 大和には 群山あれど とりよろふ・・・

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[万葉集] 01-0004 たまきはる 宇智の大野に 馬並めて・・・

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[万葉集] 01-0013 香具山は 畝火ををしと 耳梨と・・・

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[万葉集] 01-0018 三輪山を しかも隠すか 雲だにも・・・

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[万葉集] 01-0021紫草の にほへる妹を 憎くあらば・・・

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[万葉集] 01-0027 よき人の よしとよく見て よしと言ひし・・・

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[万葉集] 01-0028 春過ぎて 夏来るらし 白栲の・・・

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[万葉集] 01-0044 我妹子を いざ見の山を 高みかも・・・

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[万葉集] 01-0048 東の 野に炎の 立つ見えて・・・

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[万葉集] 01-0051 采女の 袖吹きかへす 明日香風・・・

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[万葉集] 01-0054 巨勢山の つらつら椿 つらつらに・・・

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[万葉集] 01-0075 宇治間山 朝風寒し 旅にして・・・

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[万葉集] 02-0105 わが背子を 大和へ遣ると さ夜深けて・・・

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[万葉集] 02-0116 人言を 繁み言痛み 己が世に・・・

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[万葉集] 02-0165 うつそみの 人にあるわれや 明日よりは・・・

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[万葉集] 02-0169 あかねさす 日は照らせれど ぬばたまの・・・

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[万葉集] 02-0208 秋山の 黄葉を茂み 迷ひぬる・・・

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[万葉集] 03-0328 あをによし 寧楽の京師は 咲く花の・・・

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[万葉集] 03-0330 藤波の 花は盛りに なりにけり・・・

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[万葉集] 03-0332 わが命も 常にあらぬか 昔見し・・・

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[万葉集] 04-0518 春日野の 山辺の道を 恐なく・・・

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[万葉集] 04-0712 味酒を 三輪の祝が いはふ杉・・・

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[万葉集] 05-0793 世の中は 空しきものと 知る時し・・・

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[万葉集] 06-0908 毎年に かくも見てしか  み吉野の・・・

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[万葉集] 06-0924 み吉野の 象山の際の 木末には・・・

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[万葉集] 06-0992 故郷の 飛鳥はあれど あをによし・・・

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[万葉集] 07-1126 年月も いまだ経なくに 明日香川・・・

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[万葉集] 08-1418 石ばしる 垂水の上の さ蕨の・・・

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[万葉集] 08-1463 吾妹子が 形見の合歓木は 花のみに・・・

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[万葉集] 08-1494 夏山の 木末の繁に 霍公鳥・・・

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[万葉集] 08-1554 大君の 三笠の山の 黄葉は・・・

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[万葉集] 08-1639 沫雪の ほどろほどろに 降り敷けば・・

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[万葉集] 09-1684
春山は 散り過ぎぬとも 三輪山は・・・

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[万葉集] 09-1768 石上 布留の早稲田の 穂には出でず・・・

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[万葉集] 10-1812 ひさかたの 天の香具山 このゆふべ・・・

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[万葉集] 10-1833 梅の花 降り覆ふ雪を 裹み持ち・・・

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[万葉集] 10-1883 ももしきの 大宮人は 暇あれや・・・

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[万葉集] 10-2177 春は萌え 夏は緑に 紅の・・・

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[万葉集] 10-2270 道の辺の 尾花が下の 思ひ草・・・

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[万葉集] 11-2417 石上 布留の神杉 神さびて・・・

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[万葉集] 11-2453 春楊 葛城山に たつ雲の・・・

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[万葉集] 11-2578 朝寝髪 われは梳らじ 愛しき・・・

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[万葉集] 12-3006 月夜よみ 門に出で立ち 足占して・・・

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[万葉集] 15-3724 君が行く 道のながてを 繰り畳ね・・・

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[万葉集] 16-3822 橘の 寺の長屋に わが率寝し・・・

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[万葉集] 16-3826 蓮葉は かくこそあるもの 意吉麿が・・・

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[万葉集] 19-4142 春の日に 張れる柳を 取り持ちて・・・

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[万葉集] 19-4260 大君は 神にし坐せば 赤駒の・・・

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[万葉集] 20-4500 梅の花 香をかぐはしみ 遠けども・・・

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[万葉集] 20-4516 新しき 年の始の 初春の・・・




紹介6
百科事典
研究史
近世には学芸文化の興隆から万葉集研究を行う国学者が現れ、契沖荷田春満賀茂真淵加藤千蔭田安宗武鹿持雅澄長瀬真幸本居宣長らが万葉集研究を展開した。
近現代には文学論国文学の観点から万葉研究が行われ、斎藤茂吉折口信夫佐佐木信綱土屋文明(以上4名は自身も歌人であり、歌人の立場から万葉論を展開した)、澤瀉久孝武田祐吉五味智英犬養孝伊藤博中西進多田一臣上野誠佐竹昭広曾倉岑内藤明らが万葉集研究を展開した。

関連項
  • 万葉仮名
  • 万葉学者
  • 万葉地名
  • 万葉植物園
  • 国学者
  • 歴史的仮名遣
  • 上代特殊仮名遣
  • 湯桶読み
  • 奈良県立万葉文化館
  • 因幡万葉歴史館
  • 源実朝金槐和歌集
  • 勅撰和歌集
  • 保田與重郎 - 日本浪曼派
  • 藤代禎輔 - ドイツ語訳を進めたが中断
  • リービ英雄 - 英訳と研究書を刊行
  • 田口尚幸 - 『万葉赤人歌の表現方法 批判力と発想力で拓く国文学』を刊行し、「山部赤人動画講義」も無料公開

  • 文献情報
  • 万葉集校本データベース
  • 万葉集(京都大学電子図書館)
  • 奈良県立万葉文化館
  • 万葉集 〜ココロ・ニ・マド・ヲ〜
  • 「万葉集」上代特殊かな甲乙付きファイル
  • 万葉集 - バージニア大学Japanese Text Initiativeによるデータベース。
  • 万葉集研究 −和歌と律令国家−
  • MBS上野誠の万葉歌ごよみ
  • 高岡市万葉歴史館(富山県高岡市)
  • 訓読万葉集 - 鹿持雅澄『萬葉集古義』による全歌の訓読
  • 私設万葉文庫 - パブリックドメイン化した万葉集の注釈書の電子化
  • 楽しい万葉集 - 万葉集入門


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    万葉集

    フリー百科事典
    元暦校本万葉集

    万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇貴族から下級官人防人などさまざまな身分人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。

    日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。

    万葉集の成立

    書名の由来

    『万葉集』の名前の意味についてはいくつかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の『万葉集註釈』では、『古今和歌集』の「仮名序」に、

    やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける

    とあるのを引いている。ただし、『古今集』の成立は『万葉集』よりも時代が下るので、この語釈が『万葉集』成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま『万葉集』の由来としてあてはめることには疑問もある。

    そのほかにも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、『古事記』の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」ととる考え方である。

    編者と成立年代

    『万葉集』の成立に関しては詳しくわかっておらず、勅撰説、橘諸兄編纂説、大伴家持編纂説など古来種々の説があるが、現在では家持編纂説が最有力である。ただ、『万葉集』は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なるが、家持の手によって二十巻に最終的にまとめられたとするのが妥当とされている。

    『万葉集』二十巻としてまとめられた年代や巻ごとの成立年代について明記されたものは一切ないが、内部徴証から、おおむね以下の順に増補されたと推定されている。

    1. 巻1の前半部分(1 -53番)…
      原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇柿本人麻呂が関与したことが推測されている。
    2. 巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
      持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇太安万侶が関与したことが推測されている。
    3. 巻3 - 巻15+巻16の一部増補…15巻本万葉集
      契沖が万葉集は巻1 - 16で一度完成し、その後巻17 - 20が増補されたという万葉集二度撰説を唱えて以来、この問題に関しては数多くの議論がなされてきたが、巻15までしか目録が存在しない古写本(「元暦校本」「尼崎本」等)の存在や先行資料の引用の仕方、部立による分類の有無など、万葉集が巻16を境に分かれるという考え方を裏付ける史料も多い。元正天皇、市原王、大伴家持大伴坂上郎女らが関与したことが推測されている。
    4. 残巻増補…20巻本万葉集
      延暦2年(783年)頃に大伴家持の手により完成したとされている。

    ただし、この『万葉集』は延暦2年以降に、すぐに公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年)以降にようやく完成したのではないか、と推測されている。

    「万葉集」は平安中期より前の文献には登場しない。この理由については「延暦4年の事件で家持の家財が没収された。そのなかに家持の歌集があり、それを契機に本が世に出、やがて写本が書かれて有名になって、平安中期のころから『万葉集』が史料にみえるようになった」とする説[1] などがある。

    諸本と刊本

    万葉集の諸本は大きく分けて、古点本、次点本、新点本に分類できる。この区分は鎌倉の学僧仙覚によるもので、点とは万葉集の漢字本文に附された訓のことをさす。その訓が附された時代によって、古・次・新に分類したのである。古点とは、天暦5年(951年)に梨壺の五人の附訓で、万葉歌の九割にあたる四千以上の歌が訓みをつけられた。確実な古点本は現存していないが、武田祐吉小川靖彦によって桂本が古点の一部を存しているという見解がしめされている。ほかに久松潜一は藍紙本も古点を伝えるとの見解をしめしている。古点とつたえる資料としては、古今和歌六帖など、平安時代中期の歌集に引用された万葉歌がそれに当たるとの見方も山田孝雄上田英夫らによって提示されたことがあるが、現在ではあまり有力視されていない。

    ともあれ、古点とは梨壺の五人による一回的な作業の結果であるが、次点本は古点以降新点以前の広い時代の成果をさし、藤原道長大江佐国大江匡房惟宗孝言源国実源師頼藤原基俊藤原敦隆藤原仲実藤原清輔藤原長忠顕昭など、複数の人物が加点者として比定されている。この次点本に属す現存諸本としては、嘉暦伝承本、元暦校本、金澤本、類聚古集、廣瀬本などが現存しているが、いずれも零本であり、完本は伝わらない。このうち、廣瀬本は藤原定家校訂の冷泉本定家系万葉集とみとめられる。1993年(平成5年)に関西大学教授の木下正俊神堀忍に発見され、所蔵者である広瀬捨三(元同大学教授)の名を採って廣瀬本と称される。ただし、廣瀬本の奥書には甲府町年寄春日昌預1751年 - 1836年、山本金右衛門)や本居宣長門弟の国学者萩原元克1749年 - 1805年)といった甲斐国の国学者たちによる校訂の痕跡を示す文言があり、賀茂真淵の『万葉考』に依拠した本文や訓の訂正も行なわれている。

    新点本は仙覚校訂した諸本をさし、おおきく寛元本系統と文永本系統にわかれる。寛元本系統の諸本は伝わらないが、上田英夫の考証によって神宮文庫本がもっとも寛元本の様態を留める本であることが確かめられている。また橋本進吉田中大士によって、紀州本の巻10までが寛元本に近い本ではないかと推測がなされている。西本願寺本巻1の奥書によれば、寛元本は源実朝本(鎌倉右大臣本)など数種の古写本を校合し、さらに仙覚自身の案も加えて校訂した本とみられる。

    文永本に関しては、最古の完本である西本願寺本をはじめ学習院大学本、陽明文庫本など揃いの諸本が多く、とくに西本願寺本がもっとも多くの歌数をとどめていることから、現在万葉集のテキストを編む場合、必ずと言っていいほど底本として利用されている。

    万葉集の構成と内容

    全二十巻であるが、首尾一貫した編集ではなく、何巻かずつ編集されてあったものを寄せ集めて一つの歌集にしたと考えられている。

    歌の数は四千五百余首から成るが、写本の異伝の本に基づく数え方が、歌数も種々様々の説がある。

    各巻は、年代順や部類別、国別などに配列されている。また、各巻の歌は、何らかの部類に分けられている。

    内容上から雑歌(ぞうか)・相聞歌挽歌の三大部類になっている。

    • 雑歌(ぞうか) - 「くさぐさのうた」の意で、相聞歌・挽歌以外の歌が収められている。公の性質を持った宮廷関係の歌、旅で詠んだ歌、自然や四季をめでた歌などである。
    • 相聞歌(そうもんか) - 「相聞」は、消息を通じて問い交わすことで、主として男女の恋を詠みあう歌である。
    • 挽歌(ばんか) - 棺を曳く時の歌。死者を悼み、哀傷する歌である。

    表現様式からは、

    • 寄物陳思(きぶつちんし) - 恋の感情を自然のものに例えて表現
    • 正述心緒(せいじゅつしんしょ) - 感情を直接的に表現
    • 詠物歌(えいぶつか) - 季節の風物を詠む
    • 譬喩歌(ひゆか) - 自分の思いをものに託して表現

    などに分けられる。

    巻十四だけが東歌(あずまうた)の名をもっている。この卷には、上総下総常陸信濃四国の雑歌、遠江駿河伊豆相模武蔵上総下総常陸信濃上野下野陸奥十二国の相聞往来歌、遠江駿河相模上野陸奥五国の譬喩歌・国の分からないものの雑歌、相聞往来歌・防人歌・譬喩歌・挽歌・戯咲歌などが収められている。

    歌体は、短歌長歌旋頭歌の三種に区別されている。[2]短い句は五音節、長い句は七音節からなる。

    • 短歌は、五七五七七の五句からなるもの。
    • 長歌は、十数句から二十数句までのものが普通であり、五七を長く続け、最後をとくに五七七という形式で結ぶもの。長歌の後に、別に、一首か数首添える短歌は反歌と呼ばれている。
    • 旋頭歌は、短長の一回の組み合わせに長一句を添えた形を片歌といい、この片歌の形式を二回繰り返した形である。頭三句と同じ形を尾三句で繰り返すことから旋頭歌とついたといわれる。

    時期区分

    額田王の歌。

    歌を作った時期により4期に分けられる。

    歌の作者層を見てみると、皇族貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から畿内東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったと考えられる。

    歌風と万葉仮名

    「防人の歌」(さきもりのうた)「東歌」(あずまうた)など、貴族以外の民衆の歌が載っている極めて貴重な史料でもある。派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりに特徴がある。賀茂真淵はこの集を評してますらをぶりと言った。

    全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。しかし、歌は、日本語の語順で書かれている。歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とを併せたもの、文字を使っていないものなどがあり多種多様である。

    編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による日本人のための最初の文字であったと言えよう。

    万葉仮名で書かれた大伴家持の歌

    (万葉仮名文)都流藝多知 伊与餘刀具倍之 伊尓之敝由 佐夜氣久於比弖 伎尓之曾乃名曾

    (訓)剣大刀 いよよ研ぐべし 古ゆ 清(さや)けく負ひて 来にしその名そ(卷20-4467)

    山上憶良、大唐に在りし時、本郷を憶ひて作れる歌

    (万葉仮名文)去來子等 早日本邊 大伴乃 御津乃濱松 待戀奴良武

    (訓)いざ子ども 早く日本へ 大伴の 御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(卷1-63)

    万葉仮名は、奈良時代の終末には、字形を少し崩して、画数も少ない文字が多用されるようになり、平安時代に至るとますますその傾向が強まり、少しでも速く、また効率よく文字が書けるようにと、字形を極端に簡略化(草略)したり字画を省略(省画)したりするようになった。 そうして「平仮名」と「片仮名」が創造されたのである。

    現在でも万葉仮名は至る所で使用されており、難読地名とされるものには万葉仮名に由来するものが多い。

    万葉集の影響

    『万葉集』と方言

    『万葉集』には「東風 越俗語、東風謂之安由乃可是也」(巻17・4017番)のように、当時の方言についてそれと明示した記述があるが、いちいち方言と銘打ってはいなくても、実は大量の方言が記録されている。即ち、巻14の東歌と巻20の防人歌である。

    東歌は東国地方の歌の意で、東国(今の長野県静岡県から関東地方東北地方南部まで含まれる)に伝わる歌を収集し、どの国の歌か判明している歌(勘国歌。90首+5首)と不明の歌(未勘国歌。140首+3首)に二分して収録している。多くの歌で上代の東国方言が多用されており、歌の成立年代や作者の出自、記録の経緯が一切不明という問題点はあるにしても、古代の方言の具体的な記録として重要な位置を占める。また、分量の豊富さも魅力である。

    防人歌は東国から徴集された防人の詠んだ歌の意で、巻13や巻14にも少量見えるが、最も著名なのは巻20に「天平勝宝七歳乙未二月、相替遣筑紫諸国防人等歌」として84首収録されているものである。これは天平勝宝7歳(755年)に徴集された防人の詠んだ歌を、防人を率いてきた各国の部領使(ことりづかい)に命じて記録、上進させたもので、拙劣歌として半数近く(82首)が棄てられてはいるものの、採用された歌については作者の名前から出身国(国によっては郡名まで)まで逐一記されている。しかも、万葉集に採録するにあたって、内容はもちろん万葉仮名表記に至るまで上進時のままで改変されていない可能性が高く、東国方言史料としての価値は東歌を凌駕するものと評価されている。

    以下に東歌と防人歌から1首ずつ挙げておく。  

    • 昼解けば 解けなへ紐の 我が背(せ)なに 相寄るとかも 夜解けやすけ(巻14・3483番)
    (昼間解くと解けない紐が、夫に会うからというのか、夜は解けやすいことだ。)
    比流等家波 等家奈敝比毛乃 和賀西奈尓 阿比与流等可毛 欲流等家也須家
    • 草枕 旅の丸寝の 紐絶えば 我(あ)が手と付けろ これの針(はる)持(も)し(巻20・4420番)
    (旅の丸寝をして紐が切れたら、自分の手でお付けなさいよ、この針でもって。)
    久佐麻久良 多妣乃麻流祢乃 比毛多要婆 安我弖等都氣呂 許礼乃波流母志

    上記の歌を見てもわかるように、『万葉集』に記録された東国方言には、現代の東日本方言と相通じるものが少なくない。中でも否定の助動詞「~なふ」や命令形語尾「~ろ」は、現代東日本方言の「~ない」「~ろ」に連なる可能性が指摘されている。また、東国方言の四段動詞と形容詞の連体形は、「立と月」「愛(かな)しけ妹(いも)」のように中央語とは異なる独特の語形を取るが、八丈島で話される八丈方言は「書こ時」「高け山」のように、上代東国方言と同様の語形を取ることで知られている。日本語に方言は数あれど、このような活用を残すのは八丈方言など少数である。

    日本古来の物語の原型説]

    万葉集は『竹取物語』や浦島太郎などの古典文学へ影響を及ぼしているとする説があり、巻16「由縁ある雑歌」には竹取の翁と天女が登場する長歌があり、『竹取物語』(かぐや姫物語)との関連が指摘され、巻9の高橋虫麻呂作の長歌に浦島太郎の原型とも解釈できる内容が歌われている。

    万葉集の諸点

    巻頭の歌

    『万葉集』は全巻で20巻であるが、その巻頭の歌が雄略天皇の歌で始まっている。奈良時代の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示す。

    大泊瀬稚武(おほはつせのわかたけ)天皇の御製歌(おほみうた)

    籠(こも)よ み籠(こ)持ち掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この岳(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家告(の)らせ 名告(の)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 家をも名をも(巻1・1番)
    篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母

    捕鯨

    万葉集には「いさな(鯨魚)」を詠んだ歌が詠われているが、いさなとは鯨魚、鯨名、勇魚、不知魚、伊佐魚とも表記していて、主に鯨類をさす。そして「いさなとり」は、捕鯨を意味し主に海、浦、浜、灘などを表す枕詞として使われていた。

    • 巻 二

    「いさな取り」 淡海の海を 沖さけて こぎくる船 辺附きて こぎ来る船 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 邊つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の つまの 思ふ鳥立つ

    • 巻 三

    越の海の 角鹿の浜ゆ 大船の 真楫貫きおろし 「いさなとり」 海路に出でて

    • 巻 六

    やすみしし わが大君の あり通ふ 難波の宮は 「いさなとり」 海片附きて 玉拾ふ 浜辺を近み 朝羽振る 波の音(と)さわき 夕なぎに 櫂の声(おと)聞ゆ あかときの 寝覚めに聞けば 海若(わたつみ)の 潮干(しおひ)のむた 浦渚(す)には 千鳥妻呼び 芦辺には 鶴(たづ)が音(ね)響(とよ)む 視る人の 語りにすれば 聞く人の 見まくり欲(ほ)りする 御食(みけ)向かふ 味原の宮は 見れども飽かぬかも

    • 第 一六

    「鯨魚取り」 海や死する 山や死する 死ぬれこそ 海は潮干て 山は枯れすれ[3]

    外国語との関係

    1960年代には安田徳太郎が『万葉集の謎』において日本語の祖語はインド北部レプチャ語であるとし、万葉集はレプチャ語で読めると主張していた[4]

    また、1980年代には、『万葉集』の言葉は古代朝鮮語と関係がある、またはそれにより解釈できるという意見が出され、一連の著作がベストセラーになったことがある。しかしながら、当時から日本語学の研究者の手によって徹底的な反論と批判[5][6]がなされている。背景としては、日本の古代文化を朝鮮半島由来とする韓国特有の民族主義朴炳植李寧煕など)、さらに、それに同調する日本人(藤村由加など)の言説が存在している。また李寧煕は日本で育った在日韓国人であり、韓国在住の韓国人から事実認識の誤りが指摘されている。こうした外国語との関係は金田一春彦も「万葉集の謎は英語でも解ける」と批判している[7]

    研究史

    近世には学芸文化の興隆から万葉集研究を行う国学者が現れ、契沖荷田春満賀茂真淵加藤千蔭田安宗武鹿持雅澄長瀬真幸本居宣長らが万葉集研究を展開した。

    近現代には文学論国文学の観点から万葉研究が行われ、斎藤茂吉折口信夫佐佐木信綱土屋文明(以上4名は自身も歌人であり、歌人の立場から万葉論を展開した)、澤瀉久孝武田祐吉五味智英犬養孝伊藤博稲岡耕二青木生子阿蘇瑞枝橋本達雄中西進多田一臣森朝男古橋信孝身崎壽坂本信幸神野志隆光佐竹昭広曾倉岑内藤明梶川信行上野誠小川靖彦鴻巣隼雄鉄野昌弘藤井貞和品田悦一三浦佑之らが万葉集研究を展開した。外国語への翻訳としてはケネス・ヤスダによる英語訳がある。

    万葉集に由来する名前

    脚注]

    1. ^ 上田正昭(京都大学名誉教授)
    2. ^ 第16巻には一首の仏足石歌も収録されている。
    3. ^ 旋頭歌の一つ
    4. ^ 安田徳太郎 『日本人の歴史 第1 万葉集の謎』 光文社〈カッパ・ブックス〉、1955年ASIN B000JBGU8Q
    5. ^
    6. ^ 朝鮮語で「万葉集」は解読できない
    7. ^ CiNii Articles 万葉集の謎は英語でも解ける

    関連項目

    文献情報

    • 「古代萬葉集研究史稿」大久保正(北海道大学文学部紀要1961.3.20)[1]

    外部リンク



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    ○ManyoshuBest100

    Man'yōshū

    From Wikipedia
    A replica of Man'yōshū poem #8, by Nukata no Ōkimi

    The Man'yōshū (万葉集, literally "Collection of Ten Thousand Leaves", but see § Name below) is the oldest existing collection of Japanese poetry, compiled sometime after AD 759 during the Nara period. The anthology is one of the most revered of Japan's poetic compilations. The compiler, or the last in a series of compilers, is today widely believed to be Ōtomo no Yakamochi, although numerous other theories have been proposed. The last datable poem in the collection is from AD 759 (#4516[1]). It contains many poems from much earlier, many of them anonymous or misattributed (usually to well-known poets), but the bulk of the collection represents the period between AD 600 and 759. The precise significance of the title is not known with certainty.

    The collection is divided into twenty parts or books; this number was followed in most later collections. The collection contains 265 chōka (long poems), 4,207 tanka (short poems), one tan-renga (short connecting poem), one bussokusekika (a poem in the form 5-7-5-7-7-7; named for the poems inscribed on the Buddha's footprints at Yakushi-ji in Nara), four kanshi (Chinese poems), and 22 Chinese prose passages. Unlike later collections, such as the Kokin Wakashū, there is no preface.

    The Man'yōshū is widely regarded as being a particularly unique Japanese work. This does not mean that the poems and passages of the collection differed starkly from the scholarly standard (in Yakamochi's time) of Chinese literature and poetics. Certainly many entries of the Man'yōshū have a continental tone, earlier poems having Confucian or Taoist themes and later poems reflecting on Buddhist teachings. Yet, the Man'yōshū is singular, even in comparison with later works, in choosing primarily Ancient Japanese themes, extolling Shintō virtues of forthrightness (, makoto) and virility (masuraoburi). In addition, the language of many entries of the Man'yōshū exerts a powerful sentimental appeal to readers:

    [T]his early collection has something of the freshness of dawn. [...] There are irregularities not tolerated later, such as hypometric lines; there are evocative place names and makurakotoba; and there are evocative exclamations such as kamo, whose appeal is genuine even if incommunicable. In other words, the collection contains the appeal of an art at its pristine source with a romantic sense of venerable age and therefore of an ideal order since lost.[2]

    Name

    Although the characters in the name Man'yōshū literally translate to "Collection of Ten Thousand Leaves" or "Collection of Myriad Leaves", the intended meaning of the title of the work has been interpreted variously by scholars.[3] Sengaku, Kamo no Mabuchi and Kada no Azumamaro considered the character () to represent words (koto no ha), and so give the meaning of the title as "collection of countless words". Keichū and Kamochi Masazumi (鹿持雅澄) took the middle character to refer to an "era", thus giving "a collection to last ten thousand ages". The kanbun scholar Okada Masayuki (岡田正之) considered to be a metaphor comparing the massive collection of poems to the leaves on a tree. Another theory is that the name refers to the large number of pages used in the collection.

    Of these, "collection to last ten thousand ages" is considered to be the interpretation with the most weight.[4]

    Periodization

    The collection is customarily divided into four periods. The earliest dates to prehistoric or legendary pasts, from the time of Emperor Yūryaku (r. 456?–479?) to those of the little documented Emperor Yōmei (r. 585–587), Saimei (r. 594–661), and finally Tenji (r. 668–671) during the Taika Reforms and the time of Fujiwara no Kamatari (614–669). The second period covers the end of the seventh century, coinciding with the popularity of Kakinomoto no Hitomaro, one of Japan's greatest poets. The third period spans 700–c. 730 and covers the works of such poets as Yamabe no Akahito, Ōtomo no Tabito and Yamanoue no Okura. The fourth period spans 730–760 and includes the work of the last great poet of this collection, the compiler Ōtomo no Yakamochi himself, who not only wrote many original poems but also edited, updated and refashioned an unknown number of ancient poems.

    Linguistic significance

    In addition to its artistic merits the Man'yōshū is important for using one of the earliest Japanese writing systems, the cumbersome man'yōgana.[citation needed] Though it was not the first use of this writing system, which was also used in the earlier Kojiki (712), it was influential enough to give the writing system its name: "the kana of the Man'yōshū".[citation needed] This system uses Chinese characters in a variety of functions: their usual logographic sense; to represent Japanese syllables phonetically; and sometimes in a combination of these functions. The use of Chinese characters to represent Japanese syllables was in fact the genesis of the modern syllabic kana writing systems, being simplified forms (hiragana) or fragments (katakana) of the man'yōgana.[citation needed]

    The collection, particularly volumes 14 and 20, is also highly valued by historical linguists for the information it provides on Japanese dialects.[5]

    Translations

    Julius Klaproth produced some early, severely flawed translations of Man'yōshū poetry. Donald Keene explained in a preface to the Nihon Gakujutsu Shinkō Kai edition of the Man'yōshū:

    One "envoy" (hanka) to a long poem was translated as early as 1834 by the celebrated German orientalist Heinrich Julius Klaproth (1783–1835). Klaproth, having journeyed to Siberia in pursuit of strange languages, encountered some Japanese castaways, fishermen, hardly ideal mentors for the study of 8th century poetry. Not surprisingly, his translation was anything but accurate.[6]

    In 1940, Columbia University Press published a translation created by a committee of Japanese scholars and revised by the English poet, Ralph Hodgson. This translation was accepted in the Japanese Translation Series of the United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization (UNESCO).[7]

    Discovered fragments

    A total of three wooden fragments known as mokkan (木簡) containing text from the Man'yōshū have been excavated:[8][9][10][11]

    • A fragment (23.4 cm long, 2.4 cm wide, 1.2 cm deep) has been excavated from the archaeological site in Kizugawa, Kyoto. Dated between 750 and 780, it contains the first eleven characters of poem #2205 (volume 10) written in Man'yōgana. Inspection with an infrared camera indicates other characters suggesting that the fragment was used for writing practice
    • At the Miyamachi archaeological site in Kōka, Shiga, a 2 cm wide, 1 mm deep fragment was discovered in 1997. It is dated to mid 8th century and contains poem #3807 (volume 16).
    • At the Ishigami archaeological site in Asuka, Nara, a 9.1 cm long, 5.5 cm wide, 6 mm deep fragment was found. Dated to the late 7th century, it is the oldest of the known Man'yōshū fragments. It contains the first 14 characters of poem #1391 (volume 7) written in Man'yōgana.

    Plant species cited

    More than 150 species of grasses and trees are mentioned in approximately 1500 entries of Man'yōshū. More than 30 of these species are found at the Manyo Botanical Garden Manyō shokubutsu-en (万葉植物園) in Japan, collectively placing them with the name and associated tanka for visitors to read and observe, reminding them of the ancient time in which the references were made. The first Manyo shokubutsu-en opened in Kasuga Shrine in 1932.[12][13]

    See also

    References

    1. Jump up ^ Satake (2004: 555)
    2. Jump up ^ Earl Miner; Hiroko Odagiri; Robert E. Morrell (1985). The Princeton Companion to Classical Japanese Literature. Princeton University Press. pp. 170–171. ISBN 0-691-06599-3. 
    3. Jump up ^ Uemura, Etsuko 1981 (24th edition, 2010). Man'yōshū-nyūmon p.17. Tokyo: Kōdansha Gakujutsu Bunko.
    4. Jump up ^ Uemura 1981:17.
    5. Jump up ^ Uemura 1981:25–26.
    6. Jump up ^ Nippon Gakujutsu Shinkōkai. (1965). The Man'yōshū, p. iii.
    7. Jump up ^ Nippon Gakujutsu Shinkōkai, p. ii.
    8. Jump up ^ "7世紀の木簡に万葉の歌 奈良・石神遺跡、60年更新". Asahi. 2008-10-17. Archived from the original on October 20, 2008. Retrieved 2008-10-31. 
    9. Jump up ^ "万葉集:3例目、万葉歌木簡 編さん期と一致--京都の遺跡・8世紀後半". Mainichi. 2008-10-23. Retrieved 2008-10-31. [dead link]
    10. Jump up ^ "万葉集:万葉歌、最古の木簡 7世紀後半--奈良・石神遺跡". Mainichi. 2008-10-18. Archived from the original on October 20, 2008. Retrieved 2008-10-31. 
    11. Jump up ^ "万葉集:和歌刻んだ最古の木簡出土 奈良・明日香". Asahi. 2008-10-17. Retrieved 2008-10-31. [dead link]
    12. Jump up ^ "Manyo Shokubutsu-en(萬葉集に詠まれた植物を植栽する植物園)" (in Japanese). Nara: Kasuga Shrine. Archived from the original on 2009-08-05. Retrieved 2009-08-05. 
    13. Jump up ^ "Man'y Botanical garden(萬葉植物園)" (PDF) (in Japanese). Nara: Kasuga Shrine. Archived from the original (PDF) on 2009-08-05. Retrieved 2009-08-05. 

    Bibliography and further reading

    Texts and translations
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